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2004/11/07

フェリー

予定日は8月16日だった。 
旧盆前の診察で、
「まだまだだから安心してお帰りなさい。 それにね、旧盆期間中の入院は出来ません」
といわれ、今治の産婦人科を後にした。 
ところが16日の深夜、あろう事か陣痛なるものが始まってしまった。 
病院に連絡し
「万一の時は、私が取り上げる覚悟です。 やり方を教えておいてください。」
と、真顔で述べたが一笑されてしまった。 
「まだまだですよ。 明日の一便で来られても充分間に合います。」

1974

図1 養殖場内の状態から撮影時期は私の入社前の1974年頃と思われる

盆明けの17日の1便など前夜からの車の行列で乗れるわけが無い。 
15台も載ればいっぱいの船だった。 
翌朝、苦しそうな妻を車に寝かせ、それでもゆっくりと港へ向う。 
既に、駐車スペースからはみ出した車が町道にまで並んでいた。

大三島南端の宗方港の旅客管理業務は、発着所隣接の地先の魚しか出さないので有名な川上旅館が、愛媛汽船から委託されていた。 
妻が始めて島を視察に訪れた時にもお世話になっている。 
旅館の親父に事情を説明すると、
「せわない、せわない。ほれそこに車停めとけ。」
と、旅館の脇を指さした。

1977_20230813173401
図2 今治港に接岸中の第二愛媛丸

1便が接岸した。 
下船する車両を待ち、乗船が始まる。 
瀬戸内を縦横無尽に航行する小型フェリーは乗船ゲートと下船ゲートが同じだ。 
即ち、乗船車両はバックでの乗船を義務づけられている。

1番で載せてもらえるものと高をくくっていたが、裏切られてしまった。 
次第にあせり始める私を尻目に、次々と家族連れの車が乗り込んでいく。 
ようやく親父が手を振った。 
GOサイン、1番最後の車だ。 
「ここが1番先に降りられる。 病院に一番近い場所だ。 だいじにのー。」 
ゲートが揚がり始め、やがて見えなくなるまで、親父は手を振っていてくれた。

 

昨日、 総トン数2,759トン、1,600馬力のエンジンを2基据えた、 全長78.8mのフェリーで、海を渡った。 
100台の乗用車を2フロアーのスペースに積み、570名の旅客を載せ、13ノットで航行する。 
三浦半島の突端久里浜と南房総を結ぶ11.5kの直線を、35分で繋ぐ東京湾フェリー「くりはま丸」だ。
 
観音崎と剣崎の灯台を船尾に置き、ノコギリ山を目指していく。 
面舵側はもちろん太平洋だ。 
久し振りの船にはしゃいだ私は、この船のブリッジに舵輪が無いことも発見してしまっている。clip_image0025kuruhanamaru.jpg

24年前に小さなフェリーのお陰で生を得た娘の、5年後に産まれたこの船は既にハイテク船だったのだ。 
首都高速湾岸船、東京湾アクアラインなど、多様な自動車交通網を備えた社会の中で、「くりはま丸」は満車で出航した。 
「愛媛丸」のような純粋な生活路線とはいまや考えにくいが、都会を往来する、自動車・電車・航空機の持つせわしなさから逸脱した温かみを感じる。 
きっと、「くりはま丸」も無理を言えば、1番にいや1番最後に乗せてもらえそうな包容力があった。

 

1週間の入院後、私たちは「愛媛丸」に乗船し海路1時間を経て宗方港に降りた。 
川上旅館の「親父」が、島で1番先に我が娘を抱き上げる権利を行使したのは言うまでも無い。

 

あとがき
「くりはま丸」船上2階車載デッキ降車順位筆頭位置に置いた、私のウイングロードのバゲッジルームには、今年我が家で生まれた金魚が110尾積まれていた。 
行く先は、鴨川の素敵な囲炉裏付き家長手づくりのお屋敷。 
付帯の、分厚い高麗芝に覆われた広大なお庭に設けられた、洋風レンガ造り(もちろん手づくり)の、お池だ。 
日本一幸せな金魚に違いない。
2004/08/09 升

画像① マップなびから拝借
画像② 今治‣伯方・尾道航路(愛媛汽船)より拝借
画像③ 東京湾フェリーHPより拝借

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