カツオドリ
今月の表紙
●撮影・解説 河野裕美
八重山諸島仲ノ神島のカツオドリは、季節風の吹く荒天の2~3月に産卵し、海が凪ぎはじめる4月ごろに雛がふ化し、親鳥は採食に追われるようになります。
雛はトビウオやトビイカを給餌され、100日前後で初飛翔します。
巣立ち幼鳥は、その後の1~3カ月間を繁殖島に留まり、秋にはフィリピン南部以南の海域へ渡ります。
多くはこの独立期に命を落としますが、生き残った若鳥は3~5年後に仲ノ神島に帰還します。
(東海大学地域研究センター研究員)
驚いたことに“タツロウ”氏(「ピラルクへの路」参照)は日本に滞在中だった。
なんでも、JAIC関連を巧みに利用して鹿児島水試で「環境を汚染しない養魚飼料」製造研修の為、帰国しているという。
正月には東京に戻るから会えればいいね、の内容のメールも頂いた。
そのまさに正月の真っ最中の2日の日に氏のご親友である河童氏から、
「本日、タツロウ氏のご実家で集まります。食い物・飲み物は各自持ち込みです。」
お誘いを頂いてしまった。
“各自持ち込み”がお気に入りの私は、タツロウ氏所縁の久米島産活き車えびと越乃寒梅を携え、西武池袋線東長崎駅南口に程近い銭湯の高い煙突が目印に聳え立つ、鴻池邸にずうずうしくもお邪魔した。
ご本人には勿論、存在しないはずのお姉様やお父様より先に逝かれた筈のお母様(「海」”タツロウ“参照)にまでお世話になり、大嘘つきの私は恐縮至極の末不慣れな美酒に大酩酊してしまい記憶が途絶えた。
江古田駅南口のカラオケ屋で中島みゆきをとうとうと歌い上げる自分に覚醒した時は午前2時を回っていた。
タツロウ氏の素敵な姪御さん・甥御さんの若い唄や河童氏の演歌を何曲か拝聴し、歩いて帰るというタツロウ御一族に手を振られ、同じ方向の河童氏とタクシーに乗り込んだのは午前3時を過ぎていた。
千川通り沿いの練馬区役所前を通過中、ふと私は河童氏に尋ねた。
「河野裕美は今何処にいる?」
「さっき、タツロウさんちから電話したが誰も出なかった。覚えてないのか? この酔っ払い!」
河野裕美。
岩崎裕美でも栗田裕美でも太田裕美でもなく、Hiromi Goでもない。
れっきとした私の友人のお名前であるが、珍しいことに彼の周辺にはあやしさが微塵もない。
札幌時代、我が下宿の崖下に彼の下宿部屋があり、今と同じく野放図な生活を送っていた私は度々彼の部屋を訪ね、欠席した講義のノートを閲覧させてもらった。
部屋は整頓されそして机の上にはいつも一冊のバイブルが置かれていた。
札幌→沼津→清水、東海大海洋学部史上唯一12期生の一部のみが経験できた校舎流転旅烏組の仲間河野は、札幌時代は愛煙家であったのだが沼津で突然嫌煙家に変貌した。
「どうしたの?」の問いに「あと1メートル深く潜りたいから」。
解り易い答えが返ってきた。
彼とは逆にその頃から喫煙に染まってしまったのは私だ。
同じ海を目指しながらも、広大な分野の中でそれぞれが異なる道を、その時から歩き出していたようだった。
そして、いつしか彼は日本の南西の果ての島に一人住み着いてしまっていた。
3月、4月は日本沿岸に生息するほとんどの魚の産卵期に当る。
その理由は海の自然対流の為であると教わった。
すなわち、冬のさむ空で冷やされた表層水が低層水よりも重たくなり上下水が入れ替わる。
低層水には様々な生物の排泄物や死骸が沈殿・分解された栄養塩類が豊富だ。
それが冬場に表層水が冷却され低層水よりも比重が大きくなり、上下がひっくりかえる。
その結果、表層に現れた豊潤な栄養塩類が太陽光線の助けを得て水生動物のみなもとの糧である植物プランクトンを爆発的に育み、これを引金に頂上の知れない食物連鎖が営まれる。
海老もフグもそのたぐいだ。
河野と同じく、札幌でめぐり合った人と式を挙げたのは4月の中旬のこと。
3月中に車えびの種苗を作り上げてしまおうと言う私の目論見が、親海老の入手が出来ない理由で伸びに伸び、なんと式前日に入荷した。
しかたなく、挙式のためだけに東京で一泊し、そのまま大三島に戻るという愚かな行程を踏んでしまった。
海老をつくり、トラフグをつくり、秋風が吹き出す頃にポッカリと暇になる。
なんの予約もしないで沖縄行きの飛行機に飛び乗ったのは11月の始め。
ハネムーンのつもりだったが行く宛など決めていない。
とりあえず那覇空港近くの古びたビジネスホテルに宿を取り、さて明日は何処にいこまいか? の旅。
室内の観光パンフレットを物色し、翌日出港予定の石垣行貨客船乗船を決定。
宮古島で夜明けを迎え、石垣港には午後の到着。
当然一等客室の船旅だ。
とりあえず石垣港近くの白亜のリゾートホテルに宿を取る。
異様に暑いのでフロントマンに、
「マスクにフィンそれにシュノーケルをかして!」
「もう冬なので泳がないほうが宜しいかと。」
と諭される。
水温は25℃もあるのに。
さて明日は何処にいこまいか?
ふと、隣の島に河野がいることを思い出し、宿の電話帳をめくった。
翌朝、高速船に乗り込み西表島にむかった。
大原港で下船し島の東側から北側を巡る島半周道路をバスに揺られ、終点の白浜まで行く。
「白浜から先は道がない。サバニで迎えに行くから港で待ってて。」
電話口で昨夜河野に指示された通りの行程だ。
程なく沖合いからエンジンの音も軽やかに一隻のサバニが廻ってきた。
舵取りは真っ黒に焼けた24才の河野に違いなかったが、舳先に陣取りもやい綱を捌いている長い髪の素敵な女性が一緒だ。
ショートパンツから伸びる長い脚が小麦色に日焼けしていた。
「休暇で遊びに来ている友達だ。ルフトハンザのスチュワーデスをしている。」
挨拶もそこそこにサバニに乗り込み研究所のある網取へ向かう。
亜熱帯ジャングルが直接海に落ちている岬をいくつも越え、鉄の遺跡の様な周囲に全くそぐわない波力発電実験塔の残骸の下をくぐり、30分程の遊覧の末河野の城である網取へ着いた。
1971年に廃村になった網取には海洋研究所の建物のほかは、先人達が築き上げた珊瑚の石垣以外人造物はなにもない。
住人は河野を含めた職員の3名だけ。
私たち夫婦は、“河野邸”でアカジンミーバイの透明な刺身と冷えた白ワインで歓迎され、無人のベッドが並ぶ学生宿舎に泊めてもらった。
4年後、私は網取を訪れた丁度10ヵ月後に産まれた長女たち家族とともに、久米島での生活を始めた。
毎年のように事業が拡大し、とうとう竹富島に養殖設備を作る話が舞い込んできた。
島の北側にある牛の放牧場に20haの陸上池を作る計画で設計の段階から介入した。
国立公園内の開発行為であるが為、特に環境汚染対策には十分な配慮を施した。
景観維持の為、施設を全てギンネムとアダンの林の内側に置き、取水溝はヒューム管埋設の他、海老養殖では類を見ない潜砂池をも排水路に設けた。
半年に亘る工事の終盤、池の漏水及び注排水設備点検試験を行った。
口径400mmの水中ポンプ4台から順調に揚水し、計算通りの時間で満水になった。
漏水もほとんど無いことを確認した24時間後、排水門を開けた。
潜砂池に紛れ込んでいた赤土が押し出され正面の西表島に向かって一直線に流れた。
河野が見ていたら怒られそうだった。
暇を見つけて遊びに行く。
10年前と同じように白浜で、今度は互いに一人で、髭を蓄えた34才の河野に再会した。
<2005.11.04
え~!こんどは『カツオドリ』がやって来た。
ほんと・・・久々の書き込み!
昨日、なんと我が家の庭に『カツオドリ』が現れた。
家の愛犬が突然、吠え出したので何事かと庭を覗いてみると、普段は海の上ぐらいでしかお目にかかれない鳥が居るではないか?
まさかと思いながらしばらく観察していると、どうも様子がおかしい。
歩き方が、よたっているようでどうも普通ではない。
20分ほど見ていると、道路のほうに飛び出したので妻があわてて、保護。
島の中にある、東海大の研究所に連れて行ったところ、やはり衰弱していたらしく、体重もとても軽いとの事。幸い怪我も無い様なので、放鳥出来るようになるまで面倒を見てくれるとの事で、やっと一安心でした。>
51才になった河野の仕業に間違いない。
2006年1月23日 升
引用文献
日本自然保護協会 会報 『自然保護』 2003 7/8月号(No.474)
http://plaza.rakuten.co.jp/sunsunsun/
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