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2006/02/15

太陽の碑(慎太郎氏の間違い)

[部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は○○した××を外から障子に突きたてた。
障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。
本は見事、的に当って畳に落ちた。]

かの有名な、石原慎太郎『太陽の季節』の一節。
青春を悩んだ経験を持つ昔の文学青年ならばこれを読み、障子の前で立ちすくんだ筈だ。
だが私の悩み無き青春時代は、ひたすら楕円のボールを我が唾液でピカピカに磨き上げる日課に、ただ追われていた。
その当時では洋風造りの実家に障子が無かったのも幸いし私はこの小説を引き金に、同じ著者の小説を読み漁った。
著者はボクシングだけではなくラグビーを題材にしたものを幾つか書いていたからだ。

ラグビーと言うスポーツには大別して二つのポジションに分離される。
フォワード及びバックスがそれで、近代ラグビーでは体格やゲーム中の動作だけで識別困難になったが、私が障子を探していた頃は、高い・重い・厳ついのがフォワード・プレーヤーの代名詞だった。
当時身長170cmの私はそれでも同期生の中では背が高く、自動的にフォワード・プレーヤーに仕分けされた。

ところで、サッカーでいうフォワードは華麗なるゴールシュートを放つ花形ポジションだが、ラグビーでは立場が逆転する。
ゲームで目立つのは常にバックス・プレーヤーでほとんどの得点もバックス陣があげる。
個人の識別困難なあのオシクラ饅頭状態(セットスクラムやモールorラックというルーズスクラムを指します)下の肉弾戦よろず引き受け係りこそが、ラグビーに於けるフォワード・プレーヤーの真の使命なのだ。

従って、日ごろの練習自体から必然的に異なった。
時間の大半がセットスクラムの練習に費やされる。
重たい木組みのやぐらにタックルマシーン(サンドバックの様な物)を3本括り付けたスクラムマシーンに首を突っ込み、押しまくる。
次は、タックルマシーン相手に体当たりの練習。
最後にはセービングと言って、落ちて転がるボールに頭から突っ込み体で押さえ込む。
この三種のポイントをおよそ20m間隔に置き、全力疾走で繰り返し巡回する。

バックス・プレーヤーの動きがゴールポストに向かい縦なのに対し、フォワードのそれはバックスの後背をもフォローする為グランドいっぱいの横方向、すなわちジグザグ行進で、バックスの3倍の運動量が要求される。
従って、これらの地獄のトレーニングを数多く耐え抜き、積み重ねてきたフォワードを持つことが、チームが勝利するための必須条件なのだ。

この恨めしい練習の最中、何気なくバックス陣の練習している方を垣間見ると、何と走っていない。
うらやましいことに円陣を組んでなにやら講習めいたことを度々行う。

バックス陣の仕事は相手の裏に出ること。
それが結果としてトライ(得点)に繋がる。
したがって、彼らの練習は相手の裏をかくこと即ち“相手をだまくらかす事”に尽きる。

個人技では、右に行くと見せかけ左に出る(サイドステップ)。
停まると見せかけせ疾走する(チェンジオブペース)。
パスをすると見せかけ反対方向に自分で走る(ダミーパス)。

これが、バックス陣全体の攻撃フォーメーションとなると、ボールを持つものが右方向に走りながら相手を引き付け逆方向に走る味方選手に交差の瞬間パスをする(シザース)。
バックスラインの後方にいるはずのフルバックがいつの間にかライン上にいる(フルバック・イン)。
隣にパスをすると見せかけその向こうの味方にパスをする(とばしパス)。
など相手のタイミングを外す組織プレイは多彩だ。
これらの技はもちろん基礎体力があってこそ成り立つものだが、フォワードに要求されるような永久体力はあまりいらない。

「おまえらフォワードは、万が一、ボールを持つことがあっても決して色気を出してはいけない。唯々ゴールに向かって突進しろ、相手が来れば真正面からぶつかって行け!」フォワードの鬼コーチの指導である。
とうとう私たちフォワードには相手をだまくらかす技を最後まで教えない。
鬼コーチご自身が習得していないに違いなかった。

鬼コーチを見限った私は石原慎太郎著の一冊を教本に池袋や新宿で“自主トレ”を敢行した。
現都知事の著書は主人公野々村健介にこう云わせている。

『俺が昔アメリカでアメラグをやっていた頃は、日曜日に町の大通りを全力で走り回ったもんだ。走ってて人に突き当たったら怒鳴られる。そうならんように苦心してやった。』

その通り実行するのだが人垣を掻い潜るどころか、常に人にぶつかり、しまいには健介同様怒鳴られる。
「ばかやろー!こんな人ごみの中でチョロチョロすんじゃねー!」

この時から、私は現都知事に疑惑を抱くようになった。
彼は間違っているのだ。
雑踏の向こうからやってくる正常な人に対し、“右に行くと見せかけて”左に行けば必ずぶつかる。
“停まると見せかけて”疾走するとやはりぶつかる。
これでは何の練習にもならない。

人様にばかやろう呼ばわりまでされた積年の恨みを晴らす好機を得た。
昨年の暮れ、金色に輝く太陽をあしらった石碑が湘南の海岸に置かれた。Photo_20221123163701
その一風変わった石碑には“太陽の季節ここに始まる 石原慎太郎”なるご本人直筆が掘り込まれており、金色太陽は岡本太郎作。
設置場所は、車を使用した場合の、私の通勤ルート上(逗子東浜)にある。そんなばかばかしい物絶対見に行かないと“見せかけといて”いつか見てやろうと目論んでる。1000

2006/02/07 升
引用文献「青春とはなんだ」石原慎太郎

あとがき
同著書に「パスなどせずに、三人かたまって走るんだ。敵が来たら、両側の一人一人がそのタックルを受けて一人になるまで走る。」とある。このプレイはラグビールール上、明らかにオブストラクション(反則)行為である。現都知事はペナルティーを犯そうとしたが、400ページ後の“北日農高”とのゲームでは当該プレイは使っていない。さすがに勉強している。

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