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2007/11/15

箱崎人綴 その二

箱崎町1丁目・2丁目編4_2

 

小網丁箱崎橋よりみなとはし遠景 作者:昇斎一景画題:東京名所四十八景 版元:蔦屋吉蔵 年代等:〔明治4年改印 1871

 

1.川越舟運

“ 翌日の午まえである。
 半蔵は小網町の河岸通りを歩いていた。
 まだ前夜の酒がぬけきらっておらず躯が重い。ときおり日本橋川をわたってくる風が快かった。
 思案橋をわたった。長さ九間二尺の橋である。神田や深川にゆくには、この橋をわたらねばならないが、近くには岡場所や遊里もある。

 

 どちらへ足をむけるか、橋の途中で思案した。それで思案橋だという。
 左手前方に小網稲荷の森がみえる。まっすぐゆけば箱崎橋を経てさらに進めば永大橋である。

 鎧河岸にさしかかったときである。誰かが尾行している。人通りがとぎれるのをまって半蔵はふりかえった。

~中略~

 半蔵は歩きはじめた。
 箱崎橋を渡った。そこは北新堀町で、まっすぐゆけば永大橋だが、かれはすぐに左におれた。
 箱崎町である。蔵屋敷がびっしりと軒を連ねている。奥川舟積問屋のひとつ近江屋久右衛門の店はそんな一角にあった。


「さっさと消えろ」
 半蔵は振り向きもせずに店にはいっていった。
「これは、よくお着きになりましたな」
 腰折れ障子のなかから顔をあげた老人が店先に出てきた。主人の久右衛門である。


「ごらんの通りだよ。ちかごろはもっぱら美倉のほうにいるよ」
 久右衛門は苦笑いしている。
 帳場には年配の番頭がひとりいるだけである。店はさびれている。


 近江屋は新河岸川のほかに荒川筋への積荷をあつかう権利をもっている。

箱崎町のほかにも神田川ぞいの美倉橋に店をかまえていて、荒川筋の積荷はもっぱら美倉の店であつかっている。“ 

―「武州かわごえ繁舟騒動」 福本武久著より抜粋―

 

鬼平犯科帳「流星」のなかで池波正太郎氏は下記のごとく解説している。

 

 “徳川三代将軍・家光のころ、江戸幕府の重鎮・松平伊豆守信綱川越の城主となってより、川越城下の発展が密接に江戸とむすびつくことになった。


 松平信綱が、双方の商品流通の便をはかるため、陸路のほかに水路をひらくことに決め、川越城外の伊佐沼から発する新河岸川をこれにあてて、河岸場を設けたのは正保四年のことだ。


 新河岸川は、荒川の西方を六、七町ないし一里ほどの間隔をもってながれている。
 新河岸川は、荒川と略並行して武蔵野をながれ、やがて、川ノ口(現和光市・下新倉)のあたりで荒川へ合流する。


 だから川越の船便は、ここから荒川へ入り、江戸の千住へ着き、さらに終点の浅草・花川戸まで通うことになったのである。
 川越城下の南、約一里のところにある新河岸の河岸場が、その起点となり、ここが川越城下の外港として繁盛したわけであった。


 はじめは、川越藩中心の舟運であったが、そのうちに、商品経済の発展につれ、一般の荷物をもはこぶようになったのである。


 川越から江戸へ積み出す物は、醤油、綿、穀物、炭、杉皮、素麺、石炭などで、江戸からの帰り荷物は、油、呉服物、砂糖、生麩、酒酢、荒物、小間物など多彩をきわめた。”

 

 また、佐伯泰英氏はその代表的著作「暴れ彦四郎」のなかで、

 

“扇河岸、上新河岸、下新河岸、牛子河岸、そして寺尾河岸の川越五河岸から新河岸川、荒川、隅田川を利用して、江戸は日本橋の箱崎まで定期船が通っていた。

人や魚河岸の荷を川越に運ぶ早船は船底の浅い高瀬舟が使われた。この屋根付きの船は七、八十石積み、人間なら七十人ほどを乗せることができた。

 

早船は一六、二七、三八、四九、五十などと呼び習わされ、川越河岸を一日に出た一六船は、六日には川越に戻り再び下り便として発った。

つまり川越を毎日出て、江戸との間を四日から五日で往復していた。

 

乗り合い客は浅草の花川戸河岸が終点、箱崎河岸は荷の積み降ろしだけだ。

ところが浅草の花川戸河岸に行くには遠すぎるとか、荷の付き添いということで馴染みの客の中には箱崎河岸で乗り込む者もいた。“

 

と記述しており、川越舟運にとって箱崎は切っても切れない河岸であることが窺がえよう。

 

参考までに、冒頭の福本武久氏の著作「武州かわごえ繁舟騒動」 は、嘉永3年(1850)川越舟運運営にまつわる騒動を取り纏める、河岸問屋のリーダー炭屋半蔵を描いた物語。

長谷川平蔵は延享2年(1745)~寛政7年(1795)の人、「「暴れ彦四郎」は寛政10年(1798)を舞台にしている。

 

 時代物作家の巨匠達は「まるで見ていた様に書いている・・・」のが、ご贔屓筋が多々いる所以。

然るに、その後の川越舟運の衰退から廃業の歴史には触れられていない。

 

071024_122534_m その後の川越舟運について、「埼玉の明治百年(上)」毎日新聞社浦和支局編 1966年から抜粋した。

 

新河岸川の利用を考えたのは江戸初期の川越城主、松平信綱川越街道を荷車や馬で運べない多量の物資を江戸へ送るための水路として目をつけた。
 川越から新倉河岸(北足立郡大和町)で荒川に合流、千住を経て花川戸(現在の東京吾妻橋)に達するくねくねと曲りくねった延長百八キロの舟路だった。

現在は河川改修で下流の赤羽で隅田川に合流している。

 

この水路を早舟と呼ばれる定期便が往復した。午後三時に川越の仙波河岸をスタート、翌朝八時ごろには千住へ、花川戸へは昼ごろ着いた。

早舟のほかに並舟、飛切(とびきり)があった。
 並舟は一往復七
八日の不定期船。

飛切はきょう下って、つぎの日には上るという〝特急船〟で、おもに魚河岸から鮮魚を運んだ。

川越では何が贅沢といっても、マグロを夕食の膳にのせるほど贅沢なことはなかったという。
 川越名物となった川越イモも、明治十年ごろから、この舟運を利用して東京へ積み出されるようになって始めて世に出た。


 舟はいずれもへさきが高く、底が平らな高瀬舟。積載量は十五、六トン。米で二百五十俵も積めた。客は三十
五十人ほど乗せた。明治十二年の舟賃は早舟が片道一人十二銭、荷物は一駄(百五十キロ)十六銭だった。


 川蒸気船の計画も この新河岸川に〝飛鳥丸〟という川蒸気船を運行させようというとてつもない計画が現われた。

明治十五年ごろの話。文明開化の余波である。「川蒸気飛鳥丸開通広告」にはへさきにキの字を印した旗を掲げ、船尾には日の丸を立てた一本煙突の船の絵が描かれている。

 

宣伝文句もまたふるっている。
 「
……水をたよりの川蒸気、便利のよさが新工夫、新大橋より川越の上新河岸までの往復を、お客も荷物ももろともに、毎日通う舟脚の早いが弊社の新看板、それ当たりますと、開店のその日よりにぎにぎしく御乗船を……


 汽船の船賃は川越上新河岸から下り東京まで大人一人、荷物一駄とも二十五銭。上りは割増料金となり、東京から上新河岸まで四十銭(荷物は四十五銭)だった。

子供は四才まで無料、十二才まで半額だった。

さっそく、何回か運行テストを重ねたが、川が浅いので、水中の藻(も)が舟底にからみついて運行は無理。

せっかくの奇抜なアイデアも実現しなかった。

 

そうこうするうち、新河岸川に強敵が現われた。鉄道と河川の改修がそれ。

明治二十八年、川越鉄道(中央線国分寺川越間、現在の西武線)が開通、さらに十一年後には川越電気鉄道(川越大宮間)が完成して東京まで三時間足らずで行けるようになった。

客を奪われた水運会社は「舟賃は鉄道運賃の六割と安いうえに、陸上げ手数料もはいっている。

汽車便は停車場までわざわざ運ばねばならないが、川舟便にはそんな手間もかからない」とヤッキになってPRした。

しかし、大正三年に開通した東上線は決定的な打撃を与えた。


 また大正年間に行われた河川改修では川の蛇行をなくし直線にしたため、川の長さが三分の一も短かくなった。

そのため、水はけがよくなりすぎ、ところによっては浅瀬が露出する始末で、とても舟の運行どころではなくなった。

おまけに大正十二年の関東大震災では、東京の舟が大部分焼けてしまったため、新品でも約三百五十円の舟が、中古で六百円ならとぶように売れ、ほとんどの舟は東京へ転売されてしまった。
 やがて、昭和六年、全川改修による通船停止命令は三百年の夜舟情緒にピリオドを打った。”

 

2.千住節

 

071024_103801隅田川と川越の間を、高瀬舟が維新後も明治・大正と生き残り、昭和の時代まで満帆に帆を膨らませ往来していたことにまず驚嘆させられた。

 

現在、その面影を残すものの一つに「川越舟歌」がある。
 鬼平が張り込み中に、「千住女郎衆は、碇か綱か、今朝も二はいの船とめた」 と口にして、密偵粂八を驚かせた歌だ(「流星」)。

 

この歌は、元来川越からの下り夜船の船頭が眠気覚ましに歌った歌らしく「千住節」の異名がある。

「さきたま紀行」埼玉新聞社出版部1973年の記事には、「庶民の悲しい物語りをも、この舟運が多く江戸に運んだ。」とある。

 

正調「川越舟歌」があるのか?この歌の歌詞を探れば探るほど何故か、深みにはまる。「さきたま紀行」では、この歌詞を次のように解釈している。

 

“ハアー 舟に乗るなら エー 身を大切に

   舟は浮きもの 流れもの

 ハァー 泣いてくれるな エー 出船のとき

   泣かれゃ 出舟がおそくなる

 ハァー 舟は出てゆく エー 一六舟が

   今度くる日は いつだやら

 

なかには、この唄を聞きながら、吉原に売られていく娘や若い女房が多くいたという。

いずれにしてもこの河岸場には、さまざまな思いをこめた多くの人々の喜怒哀楽の生活史が刻まれているようだ。“ と。

 

以下、コメント無しで歌詞を羅列してみる。

 

“ 九十九曲りあだでは越せぬ、通い舟路の三十里 

 押せよ押せ押せ二挺櫓で押せよ、押せば千住が近くなる 

 

 舟は帆まかせ舵まかせ、私はあなたに身をまかせ 

 主が棹さしや私は艫で、舵をとりとり櫓をば押す 

 

 舟は帆かけて南を待ちる、可愛い女房は主待ちる 

 舟は千来る万来るなかで、私の待つ舟まだ来ない 

 

 泣いてくれるな出舟のときや、なくと出舟が遅くなる 

 舟はチャンコロでも炭薪や積まぬ、積んだ荷物は米と酒 

 

 いくら秩父の材木屋でも、お金やらなきや木はやらぬ 

 私の財布は横浜仕掛け、七分通りはカラ(唐)で持つ 

 

 千住橋戸は錨か綱か、登り下りの舟とめる 

 水の流れは堰すりやとまる、止めて止まらぬ世のならい 

 

 男伊達ならこの新河岸川の、水の流れを止めてみな 

 千住出てから牧の野までは、棹も櫓舵も手につかぬ “

 

“ ハァー九十九曲りエー仇では越せぬ(アイヨノヨー)遠い水路の三十里(アイヨノヨトキテ夜下りカイ)
 ハァー船に乗るならエー身を大切に 船は浮きもの流れもの
 ハァー泣いてくれるなエー出船のときに 泣かれりゃ出船がおそくなる
 ハァー川岸を出てからエー富士下までは 互いに見合す顔と顔
 ハァー富士下離れりゃエー荒川までは 竿も櫓櫂も手につかぬ
 ハァー千住女郎衆はエー錨か綱か 今朝も二はいの船止めた
 ハァー主が竿さしゃエー私は舳で 楫をとり櫓をば押す
 ハァー船は帆かけてエー南を待ちる 可愛い女房は主待ちる
 ハァー押さえ押さえてエー喜びありゃァ ほかへはやらじと抱きしめる”

 

“千住でてから まきのやままで 竿も櫓も櫂も 手につかぬ

 千住じまいは 牛若丸よ こいを抱いたり かかえたり

 押せよおせおせ 二ちょろでおせよ おせば港が ちかくなる

 船は千くる 万くる中に わしのまつ舟 まだこない

 船乗り稼業は もうやめしゃんせ 苦労するのを 止めるよう

船がついたよ 八丁の河岸 早く出てとれ おもて綱

八丁出るときや 涙も出たが どうぞご無事で 帰りゃんせ“

 

    “はあっ 吹けよ 川風 上がれよ 簾

     中の芸者の顔みたい

     あいよのよときて夜下がりかい“

 

 従姉妹の祝言の翌日、川越は扇河岸を発ったしほが千住河岸で耳にした舟歌だ(佐伯泰英:「暴れ彦四郎」)。

 

3.箱崎町12丁目41957

 

安政4(1857)尾張屋板「築地八町堀日本橋南絵図」

 

箱崎町1丁目

「箱崎川沿いに古くからあった町で、町の区域はごく狭く、1番・2番とあっただけの町だったのですが、江戸時代、元禄から享保といった時代、紀文、紀伊国屋文左衛門と並び称された奈良茂:奈良屋茂左衛門の実弟、奈良屋安左衛門の蔵屋敷があり、元文5年(1740)に三井家が、この蔵屋敷を1万2千両で購入したといわれています。

敷地内には18棟の河岸蔵と、い・ろ・は10棟、32戸前の倉庫が建ち並んでいたそうで、倉庫としては広大なもので、町方としては巨大な倉庫群だったということで、箱崎町一帯を一般に倉庫の町というのも、こうした巨大な倉庫群があったためともいわれています

 

箱崎町2丁目

享保18年(1733)3月、永久橋と箱崎町1丁目間の入堀を埋立てできた町で、天明5年(1785)にはこの新地裏の河岸付地が埋立てられ、永久河岸と呼ばれた所で、明治5年隣接した久世大和守の低地、御船手組屋敷などを併合して、町の区域が拡がったといいます。」(中央区30年史より)

龍閑橋際の船宿綱定から猪牙船に乗ってお堀に出る。

常磐橋を潜って左折し日本橋川に入る。

一石橋・日本橋・江戸橋を経て右折し新堀川手前まで一気に下る。

新堀川に架かる湊橋手前を左折し箱崎川に入る。

すぐに箱崎橋を潜り、次の永久橋から向こうは川幅が急に広くなる。

川越行きの高瀬舟の始発点はここに違いない。

 

 今、こんもりと盛り上がった箱崎橋跡を渡る。すぐ左に細い路地がある。頭上は首都高。右手に並ぶビルや民家の軒下に一様にコンクリートの淵が見られる。071008_105512_m

それは埋められた箱崎川護岸天場の名残に違いなく、この路地は箱崎川そのものと言うことになる。

 

すなわち、半蔵の歩いた道ではない。

総てが首都高という天井に覆われた箱崎川跡地には首都高の橋脚間を縫うように、箱崎川第二公園と銘打った小さな運動場がある。

ネットで囲まれ、雨も陽射しも降りそそがないアスファルトの“檻”の中で野球の練習をしている少年野球のチームがいた。070930_141847_2

 

子供達の元気な声の向こうの道がまたこんもりと盛り上がっている。きっと橋梁ごと埋めたのに違いない。

護岸の跡はその道の向こう側から直角に東へ曲がっていた。

永久橋がかつて架かっていた場所であろう。

 

 半蔵が箱崎橋を渡ってすぐに左折した道の角にはカレー屋が構えていた。

 

雨の日の日曜日、通りには蔵屋敷はおろか江戸を偲ぶ欠片の一つも落ちていなかった。

2007/11/15

 

付録

070926_130830 安永8年(1779)神無月。しほの両親である村上田之助と許婚の久保田早希は、諸般の事情の末、川越氷川神社の境内で川越藩城代家老島根伝兵衛と城下一の豪商6代目檜本屋甚左衛門を殺害し、手に手を取って境内裏から新河岸川(新十間川)沿いを200m程下って、城下橋したに繋留されてあった釣船を用い逐電、松平大和守直恒が支配する十五万石武州川越藩から脱藩した。071024_130401

 

16年後の寛政9年(1797)、9代目金座裏の宗五郎が川越まで出張り、川越城内本丸に忍び藩主直恒と直談判の末、藩の危機を救っている(佐伯泰英著:“橘花の仇”)。

しほが川越舟運を使って川越を訪れたのはその翌年のこと、喜多院の住職天想が暖かく迎えてくれた。

 

明和5年(1768)7月29日7歳で川越藩主を相続し、文化7年(1810)1月18日49歳、川越でその生涯を閉じた松平直恒は、喜多院に今でもひっそりと眠っている。070926_121630

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

残念ながら、親分は徒歩で行きました。

投稿: いろり | 2007/11/17 14:23

宗五郎親分が、近くに流れる新河岸川を船で通ったとは重なりませんでした。そういえば、漢方薬屋の叔母さんが話してくれました。志木市役所を挟むように新河岸川が流れ、志木河岸場は栄え、あたり市場坂上と市場坂下の地名で、近隣から人が集まったそうです。商家が並び、おかみさんは島田を結って座っていたそうです。今でも市役所通りには、漢方薬屋などの古い商家が残っています。南畑を通って仙波へ着いたとは・・・
荒川に観光船があります。秋が瀬橋、戸田橋を通って、到着は浅草だろうか、興味がわいてきます。

投稿: たびくる | 2007/11/17 13:13

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