箱崎人綴(はこざきひとつづり)その一
北新堀町(含新永代町)編
1.
隅田川のもともとの流入口だった江戸橋附近から、堀留・小網町・箱崎側と茅場町・霊岸島側が整備されはじめたことによって、元和6年(1620)にはその河口は東に移動した。
この整備された日本橋川河口部分は「新堀」といわれ、箱崎側に「北新堀」、霊岸島側に「南新堀」の町屋ができたという・・・
地図の左側、南北を貫いているのは江戸城外堀。外堀の北端しに見える橋は常盤橋、常盤橋下を東に向うのが日本橋川。一石橋・日本橋・江戸橋と下り、日本橋川は新堀川と名前を変えて大川(隅田川)に合流する。
合流部の北にある巾着型の洲が箱崎地区である。寛永期には崩橋(後の箱崎橋)が架かっているだけだった。
“北新堀町は、新堀川北岸に出来た、寛永図にものっている古い町です。
しかし、大商店は案外少なく、幕末嘉永の「諸問屋名前帳」によってみても、下り塩仲買の加田屋彦兵衛、徳島屋市郎兵衛、岡本屋又次郎の3店、新堀組荒物問屋の吉野屋伊兵衛などが眼につく程度です。
町として主たる建物は永代橋詰の船見番所と御船蔵で、御船蔵は北新堀から箱崎3丁目にかけて設けられていて、明暦3年(1657)のことといいます。
船見番所は北新堀川南端新堀河岸に明暦大火後の寛文5年(1665)に新設され、隅田川と新堀川を往来する船の見張所として大きな役割を果していたといいます。
船見番所を通る際は、船の乗客は冠り物をとり、音曲などを止め、会釈をしながら通過するのが慣例になっていたという話です。”
←(中央区30年史より抜粋)
2.
元禄11年(1698)8月、永代橋は上野寛永寺根本中堂造営の際の余材の用い、北新堀町から大川を跨いで深川佐賀町へと架橋された。
長さ110間・幅3間余りの巨大な木製の橋で、もちろん幕府の仕事だ。
同じ年、北新堀町の永代橋広小路(新永代町)と南新堀町を繋いで架けられた橋がある。乙女橋だ。
江戸名所図会 天保5年(1834)より
船宿綱定の船頭彦四郎が自身への刺客とも知らずに龍閑橋から猪牙舟に客を乗せたのは丁度その百年後のことである。
“日本橋川を往来する船に気を遣いながら、ゆったりと日本橋川の下流にあたる新堀に入った。
大川へ出る前に最後に潜るのが豊海橋、別名乙女橋だ。
「彦四郎!」
橋の上から声がした。
彦四郎が顔を上げると金座裏の手先の亮吉が一人立っていた。
「御用という面じゃねえな」
「ああ、おっ母さんの用事で大川端まで使いの帰りだ」
「おれはこれから隅田村行きだよ」
「気をつけて行け」
「あいよ」
冬の陽光は、今きた日本橋川の向こう、お城の上の空に傾いていた。
大川に出たせいで筑波おろしが上流から吹き下ろしてきた。
まずは元禄9年(1696)に五代将軍綱吉の五十の誕生を祝って造られた永代橋を潜る。”
(佐伯泰英著:暴れ彦四郎.鎌倉河岸捕物控 より抜粋。注:佐伯さんは2年間違った?) 寛政10年(1798)師走のできごとだ。
享保4年(1719)、幕府は財政不振を理由に永代橋の維持管理を諦め、廃橋しようとしたらしい。
困惑した橋の両岸の町方は幕府に嘆願し、民費負担にての維持管理を条件に橋を復旧させた。
だが、橋は年を重ねるごとに老朽化していった。
文化4年(1807)8月19日、南町奉行所同心渡辺小佐衛門は西側の橋袂の詰め所でいやな予感を抱えたまま増水した川面を眺めていた。
この日、悪天候を理由に3日間も順延された深川富岡八幡祭礼がようやく初日を迎えることになった。
待ちに待っていた江戸の民衆は早朝から詰め掛けていたが、おりしも、ときの11代将軍徳川家斉の実父一橋治済が舟を擁して橋下を通過するとのことで橋は暫時立ち入り禁止の処置がとられていた。
群集は西広小路から北新堀町の通りを埋め尽くし、行列の最後尾は日本橋川沿いの遥か江戸橋にまで達する勢いである。
一橋治済の乗る屋形舟が何事もなく橋下を通過するのを見届けた渡辺小佐衛門は、群集の鎮圧に当たっている町方に立ち入り禁止解除の命を出した。
事件はその直後に発生した。古大橋が過重に耐え切れずその中央部分から崩れ落ちたのだ。
崩壊部分を歩いていた集団が先ず4m下の大川へ落下する。
辛うじて崩落を免れた欄干や橋桁にしがみ付いていた第二集団は前方で何が起きているのか解らない第3集団以降の群集に次々に押されこれも落ちていった。
橋下を往来する猪牙・屋形船・荷足船などに降り注いだ落下物はそれらの船をも巻き込み濁流に流れて行く。
渡辺小佐衛門は決死の思いで欄干をつたい崩落現場に達するやいなや抜刀し、
「静まれ!静まれ!これより前へ進まんとする奴は叩き斬ってやる!ええいっ!下がれ!さがらぬか!」
と叫んだものだ。
1000人以上が犠牲となったというこの重大事件のから、およそ四十年後。
金座裏の手先亮吉が立っていた乙女橋(豊海橋)対岸、南新堀町の大川端に「御宿かわせみ」(平岩弓枝著)が開業した。
その離れで、るいと東吾が、仲睦まじく暮らしていたのは余りにも有名だ。
現在、「御宿かわせみ」は“明治編”に突入している。
3.
急に冷え込んだ東京の街は冷たい秋雨が朝から降り続いていた。
杉田から京浜急行線に座ったまま都営浅草線日本橋駅に着いた。僅か1時間だ。
永代通りを東に進み、楓川にかつて架かっていた千代田橋を越え、茅場町交差点を左折して茅場橋を渡り、日本橋川沿いの一筋の道路を更に行くと首都高箱崎インターが左手に大きな口を開けている。
首都高の底板が無粋な屋根天井となっていてこの一画には雨が降らない。
以前、箱崎川に架かる箱崎橋があった場所だ。
日本橋川の対岸には日本橋川に直角に合流する亀島川に架かる日本橋水門が聳えている。
亀島川の両護岸は現在でも階段式に段差が付けられていて、水位の上下変化に船の接舷が可能な仕組みになっている。
水運盛んな江戸時代の河岸はこんな構造であったに違いない。
日本橋川を右手に見ながら道をさらに進む。
「日本橋箱崎町1」。私の戸籍上の住所は湊橋交差点前の道路から新堀(日本橋川の河口部の俗称)を挟んだ僅か8mほどの空間に細長く広がっている。
この地域は昭和51年の住居表示変更前は北新堀町と呼ばれており、この道路は東に300mも歩くと隅田川にぶつかる。
南町奉行所同心渡辺小佐衛門が抜刀しながらも群集のパニックを沈静し犠牲者を最小限に留めた橋「永代橋」は、現在の永代通りの延長線上にはなく、北新堀町東岸から深川佐賀町を結ぶ隅田川(大川)を跨いでいたのである。
現在は隅田川テラスと銘打って、隅田川を航行する水上バスを眺めながらウオーターフロントを堪能出来る素敵な散歩道に代わっていた。
都心の雨の日曜日、新堀町を失った町並みに人影もない。
2007/10/09 舛
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