水雷
中学のころ。
歴史の授業で教科書が日露戦争のページに差し掛かったときのこと。
社会科の先生から、1時間を割いて日本海海戦の模様を黒板に絵を描き、手振り身振りを交えながら「まるで見ていた様に」お話を頂いた。
バルト海からはるばるアフリカ大陸の喜望峰を廻り半年をかけてやってきたロシアのバルチック艦隊と、それを迎え撃つ東郷平八郎海軍大将率いる日本の連合艦隊の一戦だ。
日本の歴史を大きく変えてしまったこの戦いは日本海軍の圧勝で終結しているのだが、勝戦の理由を先生は次のように説明した。
「明治のその当時、ロシアのバルチック艦隊といえば大きな軍艦を十何隻も持っていて最強無敵だった。
そんな艦隊を対馬海峡で迎え撃つのに日本海軍は小さな水雷艇を使った。
水雷艇は高速で走り回って大きな軍艦に接近し魚雷を打ち込む。
軍艦は、足が遅いし大砲は下向きに撃てないので、水雷艇に襲われると手も足も出なかった。」
と。
小学生のころ「大きくなったら何になりたい?」の問いに、「うん、自衛隊の隊長さん!」と答えていた私は、この授業を手に汗して聞き入っていた。
歴史が好きのなったのはこの先生のお陰かもしれない。
この先生のお話にかなり誇張があると気付いたのはつい先日のことだ。
1905/05/27
04:45 五島列島沖で哨戒中の特務艦信濃丸から「敵艦らしき煙見ゆ」の連絡を受けた連合艦隊はその20分後に朝鮮半島は鎮海湾を出港。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」
有名な秋山参謀の開戦の打電は、日本連合艦隊旗艦三笠から大本営に発信された。
敵艦~の前文は暗号を用い、本日~は平文だったという。後の研究者はこの平文部分を「波が高いので例の作戦は使えないよ。」との意味に解釈している。
すなわち、参謀秋山中佐はバルチック艦隊との緒戦を、高速水雷艇団を用い敵艦隊の進路に連結機雷群敷設により有利な展開に持ち込む作戦を立てていたらしい。
ところが、100t前後の水雷艇が安全に作業可能な波高を越えていたのである。
機雷作戦は中止を余儀なくされた。
12:00 対馬から発進した連合艦隊第4駆逐隊がバルチック艦隊進路前方をただポツネンと横切った。
これをバルチック艦隊率いるロジェストウェンスキー司令長官はその旗艦スワロフ船橋で「機雷を撒かれた」と判断し、海戦には不利な2列の縦隊にしてしまった。
13:39 戦艦4・装甲巡洋艦8を有する鎮海湾出港の連合艦隊主力がロジェストウェンスキー司令長官の双眼鏡視野に現れた。
大海の中、船を操る人たちは、我船の意思を万国共通な旗を掲げることにとって、言語を超えた表示をしてい、そのフラッグは公海上を航行する船舶は総てを携帯していなければいけない(国際信号旗)。
だが、参謀秋山は、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意思がZ旗の意味であると、事前に全艦隊に根回しした上で、ほんとうにZ旗を同日13:55旗艦三笠のメインマストに掲げた。
本来、Z旗は国際法では、単独で掲げた場合「私は引き船が欲しい」、漁場では「私は投網中である」の意を示す信号としても用いるものなのだが、参謀秋山はアルファベットの末尾に位置するZを、「後がない」と洒落たのである。
対馬海峡を北東に進路をとるバルチック艦隊に対し、連合艦隊はその北側を南西に向かっていた。そのまますれ違うかに思えた。
14:05 三笠アッパーブリッジ上の秋山参謀は突然「取舵いっぱい」を命じる。
この時、秋山の前にいた連合艦隊司令長官東郷平八郎は大きく頷き、笑みさえ浮かべたという。
取り舵=左旋回、すなわち連合艦隊は敵艦隊の射程内においてUターンをしたのである。
これが超有名な「東郷ターン」と云われるもので、敵艦隊の進路前方を直角に遮断する(丁字戦法)意図したものかは定かでない。
丁字戦法の利点は敵艦の↑(前部主砲しか使えない)に対し、→になることで前後両主砲が同時に使えることにある。
火力は敵の倍になるのだが、一方、艦列の間をすり抜けられ、逃げられる可能性もある。
実際、両艦隊は東郷ターン後およそ30分もの間並走しながら交戦している。
14:08 三笠回頭完了、同時にバルチック艦隊砲撃開始。
14:10 三笠砲撃開始。
14:18 オスリャービャ着弾、同時に浸水および火災発生。
14:20 全艦射撃開始。同時に旗艦スワーロフ火災発生。
14:28 浅間被弾、舵機故障の為戦列離脱。
14:30 ホロジノ被弾、戦列離脱。
14:35 ロジェストウェンスキー司令長官負傷。
14:40 アレクサンドル複数被弾、火災発生。
14:47 連合艦隊バルチック艦列に対し丁字完成。
14:50 オスリャービャ艦列を離脱するも再び2発の着弾。三笠戦闘開始から合計25被弾。
14:52 スワーロフ操舵不能。
15:00 富士1、浅間2、それぞれ被弾。浅間浸水。
15:06 第二戦隊付属水雷砲艦(通報艦)千早オリェールに魚雷2発発射するも非命中。
15:10 オスリャービャ沈没。
15:15 浅間戦列復帰。
15:20 第二戦隊、第一戦隊戦闘に参加(乙字戦法)開始。
15:25 アレキサンドル左舷側に傾斜。スワーロフ炎上。ロジェストウェンスキー司令長官意識不明。
15:39 千早の魚雷スワーロフに命中。
15:45 第5駆逐隊スワーロフに5本の魚雷発射するも命中せず。
16:05 日進三須中将負傷。
16:08 三笠の対スワーロフ集中砲撃の結果、スワーロフ炎上。
16:43 東郷、第4駆逐隊に出撃命令。
17:05 村雨の魚雷がスワーロフに命中。
17:20 日進被弾。
17:30 ブイヌイ、ロジェストウェンスキー等を収容。敷島の魚雷によりウラル沈没。
19:00 アレクサンドル沈没。カムチャトカ沈没。
19:20 第11艇隊の魚雷攻撃によりスワーロフ転覆。
19:30 ボロジノ沈没。スワーロフ沈没。
20:10 第1・第2・第9駆逐隊(13隻)、21:20にかけて北方より雷撃。
20:30 第3・第5駆逐隊(8隻)、21:15にかけて東方から雷撃。
21:10 第1・第10・第15・第17・第18艇隊(20隻)、22:10にかけ雷撃。
一連の魚雷攻撃でナヒーモフ1発命中(発射艦不明)、機関停止後対馬に退避。
ウラジミール・モノマーフ1発命中(発射艦不明)、対馬に退避。
ナヴァリン1発命中(発射艦不明)。
23:30 村雨浸水の為帰還。
1905/05/28
02:00 村雨を除いた第4駆逐隊の投下した24個の機雷に接触、ナヴァリン沈没。
04:40 シソイ、第4駆逐隊の雷撃命中、対馬に退避。
09:00 ナヒーモフ、対馬沖で被捕獲後自沈。
10:34 負傷したロジェストウェンスキー司令長官を引き継いだネボガトフ率いる、ニコライ・オリョール・アプラクシン・セニャーヴィン・イズムルートの艦を砲撃するも応射なし。
イズムルート逃走。
10:50 ネボガトフ艦列降伏。
11:00 シソイ、対馬沖で被捕獲後自沈。
14:30 ウラジミール・モノマーフ、降伏後沈没。
17:00 盤手・八雲、ウシャーコフを捕捉、降伏を勧告するも無視される。
17:30 盤手・八雲とウシャーコフ交戦開始。
18:07 ウシャーコフ自爆により沈没。
番外
27日
ルーシ、撃沈。
イルトゥイシュ、日本海岸漂着。
28日
ズヴェトラーナ、音羽・新高により撃沈。
29日
ドミートリイ・ドンスコイ、放棄自沈。
オレーク・アヴローラ・ジェムチューク、マニラで抑留。
イズムルート、ウラジオストック北方海岸で座礁破壊。
オリョール・コストローマ、捕獲。
コレヤ・スヴェリ、上海で抑留。
ブイストルイ・ベズウプレチヌイ・グロムキイ、沈没または座礁。
ブイヌイ、自沈。ベドーヴィ、降伏。ブレスチャーシチイ、自沈。
ボードルイ、黄海漂流後6月4日上海で抑留。
アナドゥイリ、45日後にマダガスカル到着。ロシアへ帰還。
グローズヌイ・ブラーヴイ・アルマース、ウラジオストック到着。
水雷艇の攻撃は夜間に限られており、上記戦記記載の水雷艇19隻は、敵艦を発見出来ていない。
この点を、N.J.M.Campbellは著書“The Battle of Tsu-shima”のなかで下記記述している。
『日本側の攻撃は、多くの水雷部隊が連携せずに行動しており、攻撃の細かな計画もなかったために、いくぶん混乱していた。
攻撃に参加した部隊のうち、駆逐艦2隻と水雷艇4隻は目標を発見できず、さらに駆逐艦3隻と水雷艇3隻は衝突に巻き込まれた。そのうち水雷艇1隻(第69号水雷艇)は沈没している。
衝突した駆逐艦のうち1隻は衝突前に攻撃を行っているので、これらの攻撃において実際に魚雷を発射したのは駆逐艦13隻と水雷艇17隻であった。これらはおのおの18インチ魚雷23本と14インチ魚雷31本を180メートルから600メートルで発射し(例外として800メートルで発射したものもある)、3本が命中した。
かなりの日本の水雷艦艇がロシヤ艦の上構に装備された砲の射撃を受け、何隻かは損傷したが、沈没したのは水雷艇2隻(第34号と第35号水雷艇)のみであり、これらも水雷攻撃を行ったあとであった。』
すなわち、戦局は日中の緒戦で決定的なものになっており水雷艇の夜間攻撃の戦局的影響は微細なものであったとしている。
中学の授業で「水雷艇だけで戦った」とは、私の思い違いかもしれないと記念艦三笠の主砲の前で考えた。
だが、東郷元帥は第10艇隊に戦後感状を送っている。戦果よりもその戦いぶりを称えたものかも知れない。
明治期のベストセラーに「此一戦」という本があるらしい。日本海海戦当時の第10艇隊所属第41号水雷艇艦長水野広徳氏の著書だ。
開三中の歴史の先生はこの本の愛読者だったのかもしれない。
戦艦三笠のこと

三笠は明治31年(1898)、同盟国イギリスに発注された戦艦で、排水量15,140t、全長132m、巾23m、喫水8m、缶25、速力18kt、主砲30㎝4門、副砲15cm14門、補助砲8㎝20門、その他12門、機関銃4問、水中発射管45cm4基を備えていた。
当時の対価で88万ポンド(880万円)。
日本海海戦の半年後、佐世保停泊中に火薬庫の火災事故で爆没した。
多くの潜水夫の手で引き上げられ再び第1線に復帰するも、横須賀停泊中に大正12年(1923)の関東大震災で岸壁に接触し浸水して、帝国軍艦除籍となった。
大正15年(1926)に財団法人三笠保存会により、喫水線下部をコンクリートに埋めた姿で、記念艦三笠となった。
昭和09年(1934)5月30日 東郷平八郎侯爵死去、享年87歳。
昭和12年(1937)11月4日 戦艦大和起工。
昭和20年(1945)4月7日
12時32分、大和は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾2発を被弾。後部射撃指揮所、2番副砲、対空レーダーが損壊した。以後14時17分まで、米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による往復波状攻撃を受ける。主な被害状況は以下のとおり。
12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
13時37分 左舷(ひだりげん)中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵(とりかじ)のまま故障(1345中央に復元固定)。
13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
14時00分 中型爆弾3発命中。
14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜増す。
14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去)を発令。
14時23分 転覆し海中に没する。第2主砲塔 第3主砲塔の弾薬庫が大爆発、艦体はバラバラになり海に沈んだ。
昭和20年(1945)8月20日。
第2次世界大戦後、ロシア政府から破壊要請のある中、米軍に接収され三笠保存会は解散、兵装を撤去される。
昭和23年(1948)。
米海軍司令官が三笠の転用を横須賀市に許可し、その甲板上にダンスホールおよび水族館が設置され荒廃する。
この時期に訪れた三笠の祖国である 英国造船所の末裔が国際世論に批難を呼びかけたという。
昭和33年(1958)。三笠保存会再建され、翌年防衛庁所管となり、復元工事着工。
昭和36年(1961)。総工費1億8000万を投じて復元完了。
平成4年(1992)。英国世界船舶基金財団から海事遺産賞受賞。
いま、横須賀の記念艦「三笠」内で戦艦「大和」特別展、開催中。呉、大和ミュージアムとの共同主催だ。悲惨な光景はいずれも同じ勝戦と敗戦が、同じ空間に存在している。9本の水雷で沈んだ大和から引き上げられた乗組員の軍靴が、三笠船尾に設けられている豪奢な長官室に何ごとかつぶやいている。
2007/11/23 升
参考資料
統合戦争辞典、日本海海戦:その戦術的経過(N.J.M.Campbell著“The Battle of Tsu-shima”より)、Wikipedia、Z旗ブログ、記念艦「三笠」展示資料、ほか。
画像:1・4・5・6・7・8は逓信省発行 絵葉書「戦役記念」(筆者所蔵)より。3・9は横須賀記念艦「三笠」前、筆者撮影。
日本海海戦参戦艦艇
第一艦隊(東郷平八郎大将)
第一戦隊
戦艦「三笠」(東郷長官旗艦,艦長・伊地知彦次郎大佐,副長・松村龍雄中佐,記念艦として保存中)
戦艦「敷島」(艦長・寺垣猪三大佐)
戦艦「富士」(艦長・松本和大佐)
戦艦「朝日」(艦長・野元綱明大佐)
装甲巡洋艦「日進」(三須司令官旗艦)
通報艦「龍田」
第三戦隊(出羽重遠中将)
巡洋艦「笠置」(出羽司令官旗艦,艦長・山屋他人大佐)
巡洋艦「千歳」
巡洋艦「音羽」(艦長・有馬良橘)
巡洋艦「新高」
第二艦隊(上村彦之丞中将)
第二戦隊(島村速雄少将)
装甲巡洋艦「出雲」(上村長官旗艦)
装甲巡洋艦「吾妻」
装甲巡洋艦「常磐」
装甲巡洋艦「八雲」
装甲巡洋艦「磐手」(島村司令官旗艦)
装甲巡洋艦「浅間」(艦長・八代六郎)
通報艦「千早」
第四戦隊(瓜生外吉中将)
巡洋艦「浪速」(瓜生司令官旗艦)
巡洋艦「高千穂」
巡洋艦「明石」
巡洋艦「對馬」
第三艦隊(片岡七郎中将)
第五戦隊(武富邦鼎少将)
巡洋艦「嚴島」(片岡長官旗艦)
装甲海防艦「鎮遠」
巡洋艦「松島」
巡洋艦「橋立」(武富司令官旗艦)
通報艦「八重山」
第六戦隊(東郷正路少将)
巡洋艦「須磨」(東郷司令官旗艦,艦長・栃内曽次郎大佐)
巡洋艦「千代田」(艦長・村上格一)
巡洋艦「秋津洲」
巡洋艦「和泉」(艦長・石田一郎大佐)
第七戦隊(山田彦八少将)
装甲海防艦「扶桑」(山田司令官旗艦)
砲艦「高雄」
砲艦「筑紫」
砲艦「鳥海」
砲艦「摩耶」
砲艦「宇治」
特務艦隊(小倉鋲一郎少将)
仮装巡洋艦「亜米利加丸」
仮装巡洋艦「佐渡丸」
仮装巡洋艦「信濃丸」(艦長・成川揆大佐,1951年解体)
仮装巡洋艦「満州丸」
仮装巡洋艦「八幡丸」
特務艦「壹南丸」
特務艦「熊野丸」
特務艦「日光丸」
特務艦「豊中丸」
特務艦「春日丸」
特務艦「大仁丸」
特務艦「平壌丸」
特務艦「京城丸」
特務艦「愛媛丸」
特務艦「香川丸」
特務艦「蚊竜丸」
特務艦「高坂丸」
特務艦「武庫川丸」
特務艦「第五宇和島丸」
特務艦「海城丸」
特務艦「扶桑丸」
特務艦「関東丸」
特務艦「三池丸」
特務艦「神戸丸」
特務艦「西京丸」
第一駆逐隊
駆逐艦「春雨」(佐藤司令乗艦)
駆逐艦「吹雪」
駆逐艦「有明」
駆逐艦「霰」
駆逐艦「暁」
第二駆逐隊
駆逐艦「朧」(矢島司令乗艦)
駆逐艦「電」
駆逐艦「雷」
駆逐艦「曙」
第三駆逐隊
駆逐艦「東雲」(吉島司令乗艦)
駆逐艦「薄雲」
駆逐艦「霞」
駆逐艦「漣」(相羽恆三少佐)
第五駆逐隊
駆逐艦「不知火」(広瀬司令乗艦)
駆逐艦「叢雲」
駆逐艦「夕霧」
駆逐艦「陽炎」
第九艇隊
水雷艇「蒼鷹」(河瀬司令乗艦)
水雷艇「雁」
水雷艇「燕」
水雷艇「鴿」
第十四艇隊
水雷艇「千鳥」(関司令乗艦)
水雷艇「隼」
水雷艇「真鶴」
水雷艇「鵲」
第十九艇隊
水雷艇「鴎」(松岡司令乗艦)
水雷艇「鴻」
水雷艇「雉」
第四駆逐隊(鈴木貫太郎司令)
駆逐艦「朝霧」(鈴木司令乗艦)
駆逐艦「村雨」
駆逐艦「白雲」
駆逐艦「朝潮」(朝潮ハ竹敷ニ在リ)
第十五艇隊
水雷艇「雲雀」(近藤司令乗艦)
水雷艇「鷺」
水雷艇「鷂」
水雷艇「鶉」
第一〇艇隊
水雷艇「三九号」(大滝司令乗艦)
水雷艇「四〇号」
水雷艇「四一号」
水雷艇「四三号」
第十一艇隊
水雷艇「三七号」(富士司令乗艦)
水雷艇「七二号」
水雷艇「七四号」
水雷艇「七五号」
第二〇艇隊
水雷艇「六五号」(久保木司令乗艦)
水雷艇「六二号」
水雷艇「六四号」
水雷艇「六三号」
第一艇隊
水雷艇「六九号」(福田司令乗艦)
水雷艇「七〇号」
水雷艇「六七号」
水雷艇「六八号」
[ロシア軍 第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)]
第1戦艦隊(司令長官ジノヴィ・ロジェストヴェンスキー中将,参謀長クラピエ・ド・コロング大佐)
戦艦「クニャージ・スウォーロフ」(Князь Суворов,スワロフ)(旗艦,艦長В.Н.イグナチウス大佐)
戦艦「インペラトール・アレクサンドル3世」(Император Александр III)(艦長Н.М.ブフウォストフ大佐)
戦艦「ボロディノ」(Бородино)(艦長П.И.セレブレンニコフ大佐)
戦艦「アリヨール」(Орел)(艦長Н.В.ユング大佐)
第2戦艦隊(司令官Д.Г.フェリケルザム少将,1905年5月23日病没)
戦艦「オスラビヤ」(Ослябя)(旗艦,艦長ベルー大佐)
戦艦「シソイ・ヴェリキー」(Сисой Великий)(艦長オーゼロフ大佐)
戦艦「ナヴァリン」(Наварин)(艦長Б.А.フヒチンゴフ大佐)
装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」(Адмирал Нахимов)(艦長А.Р.ロジノフ大佐)
第3戦艦隊(司令官Н.И.ネボガトフ少将)
戦艦「インペラートル・ニコライ1世」(Император Николай I)(旗艦,艦長スミルノフ大佐)
装甲海防艦「ゲネラル・アドミラル・アブラクシン」(Генерал-адмирал Апраксин)(艦長リシン大佐)
装甲海防艦「アドミラル・セニャーウィン」(Адмирал Сенявин)(艦長グリゴレフ大佐)
装甲海防艦「アドミラル・ウシャーコフ」(Адмирал Ушаков)(艦長В.Н.ミクルホ=マクライ大佐)
巡洋艦隊(司令官О.А.エンクウィスト少将)
第1巡洋艦隊
一等巡洋艦「オレーグ」(Олеге)(旗艦)
一等巡洋艦「アウロラ」(Аврора)
一等巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」(Дмитрий Донской)(艦長И.Н.レベデフ大佐
一等巡洋艦「ウラジーミル・モノマーフ」(Владимир Мономах)(艦長В.А.ポポフ大佐)
第2巡洋艦戦隊(司令官エンクウィスト少将)
二等巡洋艦「スヴェトラーナ」(Светлана)(艦長С.П.ハイン大佐)
二等巡洋艦「アルマーズ」(Алмаз)(艦長И.И.ハギン中佐)
二等巡洋艦「ジェムチウグ」
二等巡洋艦「イズムルード」(Изумруд)(艦長В.Н.フェルゼン中佐)
第1駆逐艦隊
駆逐艦「ブイヌイ」(Буйный)(艦長Н.Н.コロメイツォフ中佐)
駆逐艦「ベドウイ」(Бедовым)(艦長Н.В.バラーノフ中佐)
駆逐艦「ブイスツルイ」(Быстрый)(艦長О.О.リヒテル大尉)
駆逐艦「ブラーウイ」(Бравый)
第2駆逐艦隊
駆逐艦「グローズヌイ」(Грозный)(艦長К.К.アンドレジフスキー中佐)
駆逐艦「グロームキー」(Громкий)(艦長Г.Ф.ケルン中佐)
駆逐艦「ボードルイ」(Бодрый)(艦長イワノフ中佐)
駆逐艦「ブレスチャーシチー」(Блестящий)(艦長С.А.ハモフ中佐)
駆逐艦「ベヅゥブリョーチヌイ」(Безупречный)(艦長マツゼヴィッチ)
随伴艦船(指揮官ラドロフ大佐)
仮装巡洋艦「ウラール」(Урал)(艦長イストミン中佐
仮装巡洋艦「ドニエプル」
仮装巡洋艦「リオン」
仮装巡洋艦「クバン」
仮装巡洋艦「テレーク」
輸送船「カムチャッカ」(Камчатка)(ステパノフ中佐)
輸送船「アナズイリ」(Анадырь)(ポノマレフ中佐)
輸送船「イルツイシ」(Иртыш)
輸送船「コレーヤ」(Корея)
曳船「ルース」
曳船「スウィーリ」(Свирь)
病院船「アリヨール」
病院船「コストローマ」(Кострома)
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