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2008/12/04

歴史が埋め立てられた町(安浦3丁目) Ⅴ

“買春等処罰法案”が国会に提出された昭和23年。その年の61日、京浜急行電鉄㈱(以降京急と略す)が設立された。

買春防止法が施行され、全国の赤線街が廃業に追い込まれた。

全盛期にあった安浦三丁目の銘酒屋88軒も12軒だけが僅かながらの面影を残し旅館に改造され、その他はスナック・飲食店・バー・大衆酒場などに転業した。

だが、強制転業への光明は少なく、買春に伴う違反者が跡をたたず、横須賀警察署管内だけで昭和45年までの間に、年間検挙者は三桁を下らず、昭和50年に於いても37件37名の検挙実績が残っている。

 

昭和52年発行の「横須賀市警察署史」に記載されている当該引用(第六章)末尾には、「いまでは、その町もすっかり平穏に落ち着いた。人柄も、住む人も、往く人も、商売も、建物もそして、アメリカの権力も、みんな変わってきた。変わらぬものは、みんなが豊かで平和な生活を求めていることだけである。しかし、この平穏な町とはうらはらに、陰で売春婦をネタにした風俗犯罪の潜在だけは跡をたたない。」とある。

 

昭和38111日、京急は従来の赤と黄色のツートン車体から現在の赤に白帯の車体に変更し、

同時に、 湘南富岡駅、湘南田浦駅、横須賀公郷駅、湘南大津駅をそれぞれ京浜富岡駅、京浜田浦駅、京浜安浦駅、京浜大津駅に

改称した。

 

さらに、昭和62年、国鉄の民営化に伴い、京急はJRの駅名との差別化の為「京浜」の文字が入った駅名を総て「京急」と改め、京浜安浦駅もこのとき京急安浦駅と替わった。

 

昭和591984)年10月、安浦地区地先の埋め立て事業が新たにスタートした。

総事業費545億円かけて新港町から三春町地先の海面58万平方メートルを埋め立てるもので、平成41992)年11月、埋め立て事業が完了し、公園や港湾施設、大型商業施設、大型マンション、4年生大学などさまざまな施設が建設され、その名も平成町と名付けられた。

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グーグルアースの今の当該エリア、赤点が当初の横須賀公郷駅。

画像の中央を左上(北西)から右下(南東)に横切る広い道路は国道16号。

16号の北東に沿う太い道路は大正時代の埋め立て後の海岸線。

巾着地に収まった緑はかつての安浦港跡に建った高層マンション。

その北東に大学舎、護岸沿いは敷地3000坪を誇る大型スーパーが立地している。

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空襲を受けなかった町は、建築物は変化しても、道路は変わっていない筈である。
直角に立ち並ぶ4軒並びの整然たる区画の外側に微妙な三角地を有し上部末端は海岸という、特有な一画を探した。
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そして、それと寸分違わぬ区画をグーグルは捕らえていた。

その町の特徴は「街灯」「タイル」「軒庇」、合言葉である。

細い路地に残された、娼妓の小さな足元から下駄の音が聞こえそうな、石畳に誘われて曲がると、あった。

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「ウエルカム アメリカムス」、間違えたMの字の右端の縦線をテープで隠した看板がこの町のかつての象徴の様に、

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電線空に掲げられている。さび付いたアーケードの残骸、当時のメインゲートだったのだろう。

携帯でこの写真を撮る私の背後に制服警官が門前に立つお屋敷があった。

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ふと表札を見ると「小泉」とある、今世間を騒然とさせている坊主頭か?はたまたライオンヘアーか?キョンキョンか?

 

 京浜急行県立大学駅のホームからの眺望。海は拝めない。

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明治の時代、このアングルからは海しか見えなかった場所だ。平屋が続く安浦の町並みは大正の世に、その向こうの高層ビルは平成の世に、それぞれ埋め立てられ創られた町だ。

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平成1541日。神奈川県立保健福祉大学開校。

 

平成17年、京急安浦駅は県立大学駅に改名された。

平成20年の現在でも「県立大学とはなんぞや?」という乗客が大多数のなか、改名の由来は地元からの強烈な要請があったと云われている。

 

ちなみに、安浦町に存在した銘酒屋街(赤線内地区)を統括していた組合の正式名称は「安浦保険組合」という。その眼と鼻の先にある平成の埋立地の大看板さながらに、(なにを教えているのか?)、「神奈川県立保険福祉大学」が燦然と建てられた。

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そうしていつの間にか、初代横須賀公郷駅から幾度も名だけを変えてきた歴史ある駅舎も、とうとう建て替えられた。

安浦3丁目の「昭和の想い」が、このとき、京浜急行沿線歴から埋められた。

2008/12/02

 

引用文献

毛塚五郎 歴史はここに始まる―激動下の横須賀― 

皆留間幸蔵 横須賀市警察署史

横須賀市 占領下の横須賀

写真で見る戦前・戦後の横浜:情報誌「有鄰」№409

オハイオ州立大学図書館:DOING PHOTOGRAPHY AND SOCIAL RESEARCH IN THE ALLIED OCCUPATION OF JAPAN, 1948-1951: A Personal and Professional Memoir by John W. Bennett

「連夜の街#1」(1978Ishiuchi Miyako
週間読売(1980.8.31

京浜急行HP

 

笹沢佐保;俳人一茶捕物帳 名月の巻 第二話「蛍が見ていた」より以下抜粋

『江戸では、いわゆる私娼の巣窟を、岡場所といった。公娼がいる吉原などは、岡場所ではなくて遊郭である。公娼は公認、私娼は取締りの対象となる娼婦だった。

公娼は遊女と称され、私娼は売女(ばいた)と呼ばれた。一般に岡場所といわれるところは、吉原に準ずる体裁を保っていた。この岡場所には、一段と下級な売女の存在があった。

 それを切見世という。

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 切見世は岡場所に生じて、のちに吉原にもできた。切見世は、細い路地の両側に建ち並ぶ局長屋(つぼねながや)だった。局長屋の一棟を一間間口の数戸に仕切って、その一戸ずつに売女がいる。

 入口は三尺の腰高障子になっていて、三畳ほどの部屋に布団が置いてある。奥は売女の居間と、台所になっている。あるいは四尺五寸の入口のうち、戸を二尺にして残りの二尺五寸を羽目板にするところもあった。

 客がいないときは入口の戸を開き、屋内から男に声をかけたり、入口に立って誘ったりする。

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こうした切見世は、局長屋を略して長屋とも呼ばれていた。

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 一回の情事の時間は極めて短く決められていて、値段は一律に百文と定まっていた。

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その代わりに、時間を超過すると、とたんにもう百文ということになる。

 最下級の売女に、夜鷹(よたか)がいる。辻君(つじぎみ)といわれる如くに夜鷹は路上に立ち、屋外の適当なところで客を取る。こうした辻君を立ち夜鷹という。

 ほかに一茶が口にしたように、座り夜鷹というのがいる。座り夜鷹は外へ出ることなく、自分の住まいへ客を呼び込む。この座り夜鷹が、局長屋すなわち切見世の前身なのである。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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