榎地蔵(烈公と黄門様)
京急線金沢八景駅を降り、国道16号を陸橋で横断し、金沢シーサイドライン(無人運転モノレール)に乗り換えれば海の上を走って2分で隣の駅「野島公園」に到着する。
野島へ渡る橋は架け替え工事中だが、橋を背に200mほど歩いた最初の信号の右手に石のお地蔵さまが並んだ祠がある。
太い榎が祠を覆ってその枝の全部を捧げている。
どこから来るのか、夕暮れ時にはこの一帯、超低空飛行で飛翔昆虫を漁る蝙蝠群の無音の乱舞が展開されているのだが、果たして界隈の人たちにその認識があるのだろうか。
祠の内部には大きな案内板が掲げられていてその由来が説明されている。
何気なく立ち寄った私は、そこに「水戸烈公」なる文字を見つけ、新鮮な驚きを覚えた。
なぜなら、2週間ほど前に「水戸藩誕生400年祭」で盛り上がる?水戸へ、弘道館・徳川博物館・茨城県立歴史館などを巡る、小旅行をしたばかりであったからである。
烈公と言えば、現存する弘道館(水戸藩校)や偕楽園を創設した藩主で有名であるばかりでなく、最後の征夷大将軍徳川慶喜の実父でもある。
「昔、水戸烈公来遊のときに、従者がその霊験をとなえ海より揚げ詣られたもの」とだけ記されている。
詳しくは、
「その地蔵が願い事をなんでも叶えられるゴリヤクを持っていると地元では評判である」と従者の報告を受けた藩主が「そんなでたらめで人心を惑わしてはならぬ。海へ捨てよ!」と命じたところ、数ヵ月後に水戸付近の海岸にその地蔵が流れ着き、驚愕した藩主は大切に元の場所に送り届けた。
というものらしい。
さて、この時の水戸藩主とは?
問題は、「水戸烈公」に(みとこうもん)なるふりがなが記入されていることにある。
現代では一般的に2代水戸藩主徳川光圀(1628~1701)を水戸黄門と称していることは歪めない。
光圀は死去後のおくりな=諡号(しごう)に「義公」をもらい、「烈公」を諡号とする9代藩主徳川斉昭(1800~1860)とは200年もの時代差のあるまったくの別人なのである。
一方、紀伊・尾張徳川家と並ぶ御三家の一つである水戸徳川家の歴代藩主の官位は「権中納言」と定められている。この「権中納言」という官位名を当時の中国では(唐名)「黄門」と称し、すなわち、歴代水戸藩主はみな唐名で「黄門様」と呼ばれる道理があり、烈公のルビに「こうもん」を充ててもあながち誤りとは言えないのである。
すでに黒船がうろつき、自らが大砲や軍艦の製造を目論んでいた科学者烈公のなせた業とは思いがたく、さらに、幕府大老井伊直弼との権力争いに敗れた彼の晩年は水戸での永蟄居謹慎で外出などままならない。
然る理由で、お地蔵を海に捨てた、犯人は義公であると私は考えたい。
この件、横浜市金沢区教育委員会の見解は如何に。
興味が湧かないまま横浜開港150年博(Y150)は本日で幕を閉じてしまうのだが。
2009/09/27 升
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