花咲爺の銅像(大村益次郎と徳川慶喜の不可解な関係)
大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。
広瀬淡窓について儒学を学び緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕え、はじめて西洋式軍艦を設計建造。
さらに江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。
ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年第二次長州征伐の折に、石州口の戦いを指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。
戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。
ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年11月5日大阪にて歿した。
46歳だった。
明治2年6月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治15年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
―以上銅像前の説明盤より抜粋―
もう一つ、 以下銅像銘文訳を記す。
「 ああ、これは従三位を贈られた、故兵部大輔大村君の像なり。
方(四角い)額、円(丸い)顎、眉軒(張出した)、目張り、凛子として生けるが如く人をして、其の風采を想わしむ。
君諱(本名)は永敏、益次郎と稱す。
長門の藩士たり。
性沈毅(沈着で剛毅)にして大志あり。
つとに(早くから)泰西(西洋諸国)の兵法を講じ、ぬきんでられて兵學教授となり、ついで、藩政に参じ、兵制を釐革(改革)す。
慶応二年の役(第二次長州征伐)藩の北境を守る。
連戦皆捷(勝利)。
戊辰(慶応4年)中興、めされて軍防事務局判事となる。
時に幕府の残党東叡山(上野寛永寺)によりて命にさからう。
君、策さくを献じて、討ちて之を殲。
ついで、奥羽を征し、函館を平らぐ。
君皆其の帷幄(本陣)に参ず。
功を以て禄千五百石を賜わり、兵部大輔に陞任(昇任)し、大いに陸海軍制の基礎を定む。
明治二年京師(京都)に在り、兇人のしょう(受傷)する所と為なりて薨ず。
年四十七。
天皇震悼(嘆き)、位を贈り、賻(金銭)を賜う。
後又爵(爵位)を授さずけ、子孫を榮す。
頃者(このごろ)、故舊(なじみ)あいはかり、銅像を造立し、以て其の偉勲を表わす。
余、君を知ることもっとも深きを以って、其の概略を記す。
かの平生の事業のごときは、つぶさに其の郷(郷里)圓山墓碑に載す。
嗚呼、像と碑と君の功名は共に朽ちざる可し。
明治廿一年六月
内大臣従一位大勲位公爵 三條實美 撰ならびに書 」
公家三條實美公が日本史に登場したのは1962(文久2年)のことで、東下した實美公等が江戸城内で時の14代将軍家茂に「異国の侵入を排除せよ」との孝明天皇の意思を伝えたことに始まる。
これが尊王攘夷派の思考で時の禁裏は長州藩に牛耳られていた。
ところが、翌1963(文久3年)。
これを嫌った公武合体派の薩州は、幕府から派遣されていた京都守護職役の会津藩と密約を交わし、長州派を一掃すべくクーデターを成功させた(8月18日の政変)。
このとき、禁裏内の長州派の公家7名が京を追われ長州は三田尻湊に逃れた。
この「七卿落ち事件」の(被害者?)の一人が、三條實美公その人である。
その後1967(慶応3年)12月、三條實美公らは、15代将軍慶喜の大政奉還を受けた朝廷から、王政復古の宣言前夜に赦免され官位を復される。
慶応4年には新政府の副総裁に就任し、戊辰戦争時には関東観察使として大村益次郎とともに江戸に滞在していた仲であり、「余、君を知ることもっとも深きを以って」と書いた所以であろう。
かつての江戸城は、現在宮内庁がコントロールしている区域以外は、無料で一般に公開されている。
大手門から入城し広大な芝地(本丸・大奥跡)を散策し、天守閣跡の台座に登り、北桔橋門から下城する。
千鳥が淵から聳える城壁の景観は圧巻だ。
北桔橋門からさらに北に歩く。
この一帯の西側は徳川家御三卿の一つである田安家、東側は同じく清水家の屋敷跡である。
武道館を経て田安門をくぐると九段坂にぶつかる。
関係者以外は立ち入り禁止の看板を無視して、理科大学舎に無断で入り突き当たりの学食で、250円のカレーライスを食す。
九段坂を登りきった右側は大政奉還後に勝海舟が対新政府軍対策で急造した旧幕府軍歩兵屯所が設けられていたところらしいが、旧幕府軍勢力が沈静した明治2年、維新動乱のさなかに命を犠牲にした人々を祀るため、ここに「東京招魂社」が建てられ、明治12年「靖国神社」と改名されて、現在に至っている。
大鳥居をくぐる前からその向こうに聳える巨大な像が眼に飛び込んでくる。
この銅像は明治26年に竣工しているが、その数年後の貴重な写真を冒頭に掲げた。
羽織袴姿の左手に双眼鏡を携えたその像の足元に漢文の銘が刻まれている。漢文が読めなくなった私を含む日本人のために、その訳は社務所で戴くことができるが、さらに私的に意訳したものを前述した。
セピア色の冒頭の写真の撮影者は「嗚呼此故兵部大輔贈従三位大村君之像也」で始まる銘文を完璧に読むことが出来た人で、かつて三條實美公を京都から追い出し、大村益次郎によって滅ぼされた幕府最後の将軍徳川慶喜公である。
二つの像の周囲を囲む樹木の高低差は140年の歴史を総じて肥やしにした証しである。
が、何も語らない。 嗚呼。
あとがき
村田蔵六を扱った司馬遼太郎氏の作品に「鬼謀の人」と「花神」の二編がある。
短編「鬼謀の人」出版の五年後に発表された「花神」は三部作の長編で、新潮文庫の極めて小さな活字で埋められた上・中・下巻合わせて1,300項余を、読破する直前にようやくタイトルの意味が明かされる内容である。
本来、教科書などで堅苦しい表現だけで表わされる歴史的人物を、司馬氏のお得意である男女の性的愛憎を想像巧みに取り込んだ逸品だ。
が、この作品に限り「これは余談だが」・「さらに余談を続ける」を宣言した上で、彼は延々と「余談」を書く。
「余談」はさておき、余談を述べると、シーボルトの娘(イネ)は蔵六が大阪で兇刃に臥した後、50日余り介護を務め彼の最期を看取っている。
一般的には日本初の女医イネの蘭学・医学の師匠が村田蔵六であったことが知られているばかりだが、司馬氏にとって「彼らの間にメラメラとしたものがあったに違いない」が、「花神」を執筆する動機になったようだ。
『維新期に突如出現した蔵六がなすべきことは、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを、軍事的手段でもっと全日本に普及する仕事であり、もし維新というものが正義であるとすれば(蔵六はそうおもっていた)津々浦々の枯木にその花を咲かせてまわる役目であった。
中国では花咲爺のことを花神という。蔵六は花神の仕事を背負った。』
―司馬遼太郎著 花神より抜粋―
嗚呼平成維新之花神此現否也但銃創槍兵軍否遣是必定也
2009/09/08 升
参考文献
新潮文庫 花神(上・中・下):司馬遼太郎
文春文庫 德川慶喜家にようこそ:德川慶朝(画像①)
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