« 榎地蔵(烈公と黄門様) | トップページ | 総太り・二号・大根・くれない »

2009/10/25

もののふ公の雪隠(容保公のこと)

「容保」を正しくカタモリと読めるお方は、幕末期を得意とする歴史マニアに間違いない。

 

「徳川将軍家には一心に忠勤をこころがけよ。もし二心をいだけば、我が子孫にあらず」とは、会津松平藩23万石に代々伝わる家訓の一条である。

この一行を、時の将軍後見職であった一橋慶喜と政治総裁職の松平春嶽に巧みに利用され、京都守護職をいやいや任ぜられてしまったのが9代会津松平藩藩主松平肥後守容保公である。

 

「精忠(せいちゅう)天地を貫く」のことば通り、常時一千の会津兵と新撰組を率い京都守護職を誠実に勤めた容保公は、孝明天皇に愛され、異例の天皇自筆の感謝状を賜る。

「たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心を喜びて」はその前書きである。

 

「政事(まつりごと)は利害を理由に道理をまげてはならない」例の家訓の一条に従い、かたくななまでの治世をおこなう容保公に、時の薩長の謀略など理解の外であった。

 

挙句、鳥羽・伏見の戦い巻き込まれ、「戦いの備えを怠ってはならない」・「ならぬことはならぬ」、この家訓および教育に従っていた会津藩兵は、当時太平の世を怠惰に暮らしていた各地の譜代大名や直参旗本の兵よりも明らかに士気が強く、戦国時代を髣髴する戦いにひいでており、実際、幕府軍の主戦力部隊となった。

 

これが災いした。

 

鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の敗戦濃厚となった時点で、この時将軍職になっていた徳川慶喜の「江戸にて巻き返さん、そなたは余を護衛せよ」の一言につられ、容保は実弟の桑名藩主松平定敬と共に家臣等にも告げず、大阪城から天保山沖に投錨していた幕府軍旗艦開陽丸に乗船し海路江戸へ、敵前逃亡さながらの行動を慶喜と一緒に図らずもなしてしまった。

 

容保の立場はこの瞬間、将軍への忠義と家臣を始め幕府軍を構成している諸大名・旗本への、背信責任の狭間に置かれたことになる。

 

これも災いした。

 

江戸城に将軍として初めて入った慶喜は(もっとも大政奉還後なので事実上将軍ではない)、容保の登城を禁じ、後処理を勝安房に一任して、自身は新政府に対し恭順姿勢を貫く長の謹慎生活にはいる。

 

容保は、「何とぞ慶喜公には寛大なご処置をお願いいたします。慶喜は恭順謹慎し、ご沙汰を待つ所存です」新政府に宛てた嘆願書で慶喜への忠義を、先ず表わす。

 

ところが、新政府の判断は以外にも、

 

「逆賊・容保は徳川慶喜の反逆を助けた張本人であり、徳川家のためにも大不忠の者。断然追討せねば朝廷のためにもならない」となってしまった。

 

 もののふ容保の決断はごく自然であった。

 

「義をもって倒るるとも不義をもって生きず」

 

ここに会津藩の悲劇に通じる、いわれなき戦いが始まる。

 

 

 慶応4821日、板垣退助率いる新政府軍は母成峠の戦いで2000700という圧Dvc00137_m1倒的戦力と軍備(鉄砲や大砲の武器性能)差により圧勝し、猪苗代城をも陥落せしめ、怒涛の如く会津若松城下になだれ込んだ。

 容保はこれを阻止せんとし、若松城(鶴ヶ城)北東4キロに位置する滝沢本陣に本営を置き、自ら指揮を執った。

 あの白虎隊を、容保自身が雨に濡れながら、送り出したのもこの滝沢本陣である。

Photo_20221102152901

 戸の口原の戦いで大打撃を受けた白虎隊二番隊は、猪苗代湖からの用水路として掘られた暗渠をつたい、飯盛山に敗走した。

 滝沢本陣の眼と鼻の距離ほどの飯盛山中腹から彼らが垣間見たものは鶴ヶ城が炎に包まれている姿であり、間もなく彼ら20人は自刃して果てる(1名は瀕死状態で発見され、手厚い治療の結果、蘇生している)

慶応4823日のことであった。

 

 同じころ若松城下では、滝沢本陣から帰城した容保の命により婦女子が続々と城内に駆け込んで、籠城戦の構えを見せていた。

 家老西郷頼母の屋敷内では頼母の登城後、妻千恵子を筆頭に「籠城に婦女子は足手まといになるだけ」と、辞世の句「なよたけの 風にまかする 身ながらも たゆまぬ 節は ありとこそけり」を残し、乳呑児をも含めた一族21名が自刃した。

 その直後に乱入した新政府軍の兵士に対し、死にきれず息たえだえの頼母の娘の一人が霞んでゆく視力のなかで「そなたは味方か敵か?」と問い、兵士は思わず「それがしはお味方で御座る。ご安心下され」と叫び、苦しむ娘の介錯をした話はあまりにも悲しい武士道伝である。

 

 籠城すること一カ月。

 

「わが軍は勝ち目がないと聞いた。早く戦場に行って戦いをやめさせよ」

 

「孤立した城でこれまで持ちこたえられているのは、皆の忠義と勇気によるものだ。しかし、ことここに至り、皆にこのような戦いまでさせることになってしまった」

 

「予1人のために数千の子弟人民が苦しむ様子はもはや見るにしのびない。速やかに城門を開いて降伏し、人民塗炭の苦しみを救いたい、もし何かほかに良い策があれば遠慮なく言ってほしい」

 

「主君の意に随うのみ」が、家臣たちの返答だった。

 

 維新後、明治5年に幽閉を解かれた容保公は日光東照宮宮司などを経た。

 

晩年、

「なき跡を 慕うその世は隔たれど なお目の前の 心地こそすれ」戊辰戦死者23回忌に容保が詠んだといわれる歌を残し、明治26年に東京・目黒の自宅で他界した。享年56歳。

 

同い年の徳川慶喜公が容保公の亡くなった東京会津松平邸の眼と鼻の先にある小日向に引っ越してきたのは明治34年のことであるから、慶喜公が上野寛永寺大慈院に籠って以来、彼らはただの一度も顔を合わすことがなかったはずである。

 

容保側としては、慶喜にただ利用されただけでなく最後には見捨てられたとの、思いがあろうと私などは推量してしまい、両家の親交は断絶したものと考えるのが普通であろう。

 

実際、晩年彼は詩を書いた。

 

「なんすれぞ大樹(注) 連枝をなげうつ

断腸す 三顧()身を持するの日

涙をふるう 南柯()夢に入るとき

万死報国の志 いまだとげず

半途にして逆行 恨みなんぞ果てん

暗に知る 地連の推移し去るを

目黒橋頭 杜鵑()啼く」

 

注)大樹=将軍⇒(徳川慶喜)

三雇=人の上に立つものが仕事を頼みたい人に特に礼を尽くして交渉すること⇒(天皇のお言葉)

南柯=はかない  

杜鵑=ホトトギス

 

だが「家」とは慮外な力を持っているらしく、容保公亡き後、七男松平保男の娘和子が徳川慶喜の孫慶光と結婚し、両家の姻戚関係が生まれる。

和子姫はすなわち現徳川慶喜家当主である德川慶朝氏の母親なのである。

 

もっともそれより先に、14代将軍家茂夫人(和宮)のモトカレで戊辰戦争時の東征軍大総督熾仁(たるひと)親王9代有栖川宮)がかつて朝敵代表とされた慶喜公の異母妹茂姫(徳川貞子)と結婚したことや、慶喜公の嫡男慶久氏の奥様は、熾仁親王の異母弟10代有栖宮威仁(たけひと)親王(10代有栖川宮)の二女美枝子姫であり、この夫婦の二女喜久子姫が明治天皇の孫である高松宮宣仁(のぶひと)親王に嫁いでいることから見れば、些細なことかも知れないが。

 

 

容保公は、入浴時以外いつも小さな竹筒を首から下げ、たれにもその曰くを語らなかったという。

容保公の死後、その内容がはじめて明らかにされた時、旧長州藩の高名な政治家から「言い値で買い取る」旨の秘めやかな打診があったらしい。

 

中身は言うまでもなく、彼が京都守護職時代に孝明天皇から賜ったあの手紙・ご宸翰(しんかん)の二通であった。

一通は「容保を信頼し、その忠誠を喜び、無二の者に思う」由の、孝明天皇のご私信であり、一通は、長州とその係累の公卿を奸賊として罵倒された内容だった。

 

 松平家ではやんわりと売却を断り、実物はいまでも会津松平家に保管されているらしい。

 

うわさでは、現代においても会津地方の一部の人は旧長州地方の人たちを忌み嫌って、それと知るや、タクシーでの乗車拒否や旅館に於いては宿泊拒否などの嫌がらせをしていると聞く。

会津若松市内土産物屋には何故か木刀・日本刀のたぐいが必ず店頭を飾っている。

定寸の赤樫製木刀を一振り求めた。「どこから来た?」と聞かれた。「横浜から」と答えると蕎麦茶をごちそうしてくれた。

ここでうっかり「萩」などと云ってしまったら木刀で叩かれたのかも知れない。

 

もののふ容保公が、もし戊辰戦争時にこの文書http://www.tsurugajo.com/gosinkan.htmlを公にされていれば、日本の歴史はあるいは今と異なる展開になっていたかも知れない。

 

 Dvc00146_m1 いま、滝沢本陣(既存地に)も西郷頼母邸(会津武家屋敷内に移築)も現存している。

 

茅葺屋根に土間、納戸に座敷が三部屋、会津戦争時に新政府軍から受けたと云われる弾痕や刀傷があちらこちらにそのまま残る滝沢本陣跡。

 

 武家屋敷独特の表と奥を持つ重厚な趣の広大な西郷邸には、ご一族自刃のお部屋も残されている他、藩主等賓客を招き入れるためだけの更に豪奢な一画がある。

Photo_20221102153001

 いずれの建物も雪隠(厠)が付帯する。

雪隠の床下には通常あるべき掘り抜きはなく、木製四輪タイヤ付の小さな箱車に砂が薄く敷かれ、ただ置かれている。

 

2009/10/19

 

参考資料

 司馬遼太郎「王城の護衛者」

 中條厚  「少年白虎隊」

 德川慶朝 「徳川慶喜家にようこそ」

 葉治英哉 「松平容保」

 NHK   「そのとき歴史が動いた」

 博物館「会津武家屋敷」

 国指定重要文化財「滝沢本陣横山家住宅」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| |

« 榎地蔵(烈公と黄門様) | トップページ | 総太り・二号・大根・くれない »

歴史の話」カテゴリの記事

横浜時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: もののふ公の雪隠(容保公のこと):

« 榎地蔵(烈公と黄門様) | トップページ | 総太り・二号・大根・くれない »