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2010/01/10

検証:興琳寺と開陽丸の砲弾

闇のなかで、西風が吠え猛っていた。

順動丸は全長四十間の船体をせわしく上下させている。甲板では金具の打ちあう音、帆綱索具のきしむ音が、たえまなく聞こえていた。

龍馬は合羽を波しぶきに濡らし、水夫たちとともに出帆まえの作業をしていた。

望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎、近藤昶次郎(長次郎を改名)も、上荷舟からの荷物の積み込みにあたっている。

蒸気釜は充分に熱し、機関は運転可能な状態になっている。千葉重太郎も同船しており、勝麟太郎(海舟)と船長室にいた。

文久三年(一八六三)一月十三日の夜五つ(午後八時)まえであった。

順動丸はまもなく兵庫港を出帆し、品川沖へ戻る。

 麟太郎のもとへ、幕閣から一刻も早く江戸に帰着するよう、下命が届いた。将軍家茂が軍艦を用い上洛することにきまり、松平春嶽(慶永)も海路を希望しているという書状をみた麟太郎は、笑みをもらした。

「海路ご上洛のことは、俺がかねてから一所懸命に建議していたことだ。海軍がひらけた国では、なんのこともねえんだが、いままでは難事中の難事で、命がけで申しあげても、さまたげる奴が百人もいて、とてもだめだった。それが、時世の動きで、ご老中の石頭のほうからいいだしてきたんだから、たまげるさ」

書状が七日に着いたあと、連日の荒れ模様で出帆が延びたので、麟太郎はとうとう悪天候を承知で、江戸への帰航をきめた。(津本陽 竜馬 三 より抜粋)

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ところが、この家茂の1回目の上洛は22日間をかけた陸路を選ぶ結果となり、参内を果たしたのは文久3年(1863年)3月に至った。同年4月、家茂は朝廷に命じられた攘夷実行への準備として、幕府の軍艦順動丸に乗って大坂視察を行っている。
この時順動丸を指揮していた勝海舟から軍艦の機能の説明を受け、非常に優れた理解力を示した。
その折に勝から軍艦を動かせる人材の育成を直訴されると、即座に
神戸海軍操練所の設置を命令した。
そして同年6家茂は老中を伴い、京都から軍艦順動丸で江戸に到着する。
僅か3日の航海で江戸に着いた。

さらに同年12月に上洛の際、勝の進言を容れて順動丸を使うことを決断した(その理由として前回の上洛において往路だった陸行では22日を要したのに対し、帰路順動丸を使った時にはわずか3日で江戸に帰れた事実があったのである。

順動丸は1863年幕府が英国より15万ドルで購入した新造輸送船で、鉄骨木皮作りの蒸気外輪船。
船長72m・船幅8.1m・排水量405t350馬力で艦載備砲は不明。
原名「ジンキー(仁記)」にちなんで「順動」と命名されている。
幕末期に於いて先に述べた活躍ののち、1964年正月に発生した「鳥羽伏見の戦い」直後に、幕府海軍旗艦開陽丸にて江戸へ戻った徳川慶喜や松平容保の後を追って、敗残兵を運んだ。
新撰組の近藤勇や土方歳三らは僚船の富士山丸(蒸気内輪船・排水量1000t・備砲12門)をあてがわれたが、永倉新八はこの順動丸で東下している。

戊辰戦争が始まると順動丸は旧幕府軍の榎本艦隊に所属し、北越戦争下の奥羽越列藩同盟支援の為に日本海に派遣される。

1868年(慶応4年)524日、順動丸はその生命を閉じる。
二説ある。

薩長の軍艦、出雲崎に碇泊す。幕艦順動丸進路を誤り出雲崎港内にはいり、慌ただしく寺泊に向かって針路を転ず、されど燃料乏しく速力出ず、大いに狼狽。薩長軍艦、其の幕艦也と気付くや直ちに碇を巻き上げ追撃し寺泊港外に於いて撃沈す。」

上記は佐藤耐雪翁出雲崎編年史(慶応四年5月)からの抜粋であるが、長岡市の高札に「函館、新潟を経由し、寺泊で休息していたところを、出雲崎方面から不意に現れた薩長軍2隻の軍艦に攻撃され、逃げ場を失い自爆しました。」と記されてあったことから地元では自沈説を採っているようである。

順動丸を沈めた船とは、薩摩藩の乾行丸(けんこうまる)と長州藩所属の丁卯丸(ていぼうまる)である。

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乾行丸は、1859年にリバプールで竣工した3本マストの砲艦で元冶元年(1864)薩摩藩が購入した中古船。
全長55.3m・全幅7.2m・排水量522t150馬力。

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丁卯丸は、長州藩発注により1867年にロンドンで進水した軍艦で慶応42月から長州藩が使用した新造艦で、全長36.58m・全幅6.4m・排水量236t60馬力、5ノットで航海する、3本マストの木造船。

前者は9門の艦載砲を備えてあったらしいが仔細は不明。
後者には5.9インチ・5.5インチ砲が書く1門搭載されていたらしい。
順動丸の備砲に付いての資料が見当たらないが、この海戦中に順動丸から2弾発射された記録が残っているという。

さて、寺泊在の興琳寺を建てた宮大工棟梁遠藤甚五郎氏の曾孫である友人のブログに
本堂の隅のテーブルに、錆びた砲弾が台に乗せてありました。
戊辰戦争の寺泊沖の戦いで、艦船から飛んできた砲弾が本堂の上を飛び、裏山に突き刺さったものだそうです。
長岡は幕府側で、寺泊にも水戸藩や桑名藩の脱藩兵が宿営しており、興琳寺さんが宿営地と薩長艦船から打ち込まれたとのこと、」
とその砲弾の画像付きで記されている。

本堂の上を砲弾が飛び越えた場合、建物には必然的に被害を与えない。
しかし、
新潟日報社発行「戊申戦争140年中越の記憶」には、「興琳寺は太平洋戦争後火災が発生し、その当時の建物の柱には海戦の流れ弾の砲弾痕があった」との記載があるらしい。

一方、先の出雲崎編年史中、慶応四年6月の欄を見ると、
(前略)是は出雲崎方面の賊を掃討すると同時に長岡に迫らんとの計画に出たるものにてこれらの諸兵は、三好の指揮の基に十四日石地方面に前進し途中、薬師峠及び脇の町辺りにて賊軍と交戦して是を破り石地を経て十五日に遂に出雲崎に進入したり。
三好が出雲崎の賊巣を討って関原に引揚たるは五月十五日。
余は三好に会って渡河の進兵の策に出たし(中略)東方の乾行丸と丁卯丸とは、一隻の賊艦が佐渡に在る事を偵察し是を砲撃する為、同島に赴く途中出雲崎に立ち寄る、折節二隻の賊艦が寺泊碇泊し居る事を知り、直ちに是に攻撃を行いたる云々」
とあり、寺泊港付近で起きた海戦は複数回あったことをほのめかしている。
したがって、
興琳寺に現存している砲弾が何時・如何なる軍艦から発射されたかの特定は困難だ。

注目に値するのはその砲弾の姿だ。

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幕末のこの時代、真円球の砲弾から椎の実型の砲弾への移行期であった。
身内部に螺旋の溝を切り発射弾に回転を加えた施条砲が海外から入ってきた為で、それまでの砲と比べると、火縄銃とライフル銃の如く、砲弾の飛距離・命中率が格段に上がった。
四斤砲と呼ばれる戊辰戦争時に最も多く使用された野戦砲もこのタイプが採用されている。
上野戦争で圧倒的な破壊力を見せつけたと云われるアームストロング砲もこのタイプで、かつ、四斤砲が砲弾を発射口から装填する(前装式)に対し、砲身尾部から装填する(後装式)に変わっている。
四斤砲弾・アームストロング砲弾のいずれも画像の様に砲弾の外側に複数の突起がある。
この突起が砲身に刻まれた螺旋状の溝に噛みこみ発射時に砲弾が回転する仕組みで、突起の素材は砲身を傷つけないよう硬度の低い金属が用いられている。
順動丸や乾行丸・丁卯丸らと同時期に活躍した沈船開陽丸から引き揚げられた砲弾は、ライク滑腔砲とグールグレン砲に用いられた球形弾の他は、やはりこの「突起付き砲弾」(クルップ施条砲用)である。

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余談であるがこの船(開陽丸)は幕府がオランダに発注した軍艦で1866717日に就役した2590t400馬力の巨船で備砲は26門、当時の世界的に見ても第1級の戦艦といえる。

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この船は鳥羽・伏見の戦い後に敗走する徳川慶喜を江戸に送る直前に一度だけ海戦を演じている。

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慶応414日、神戸港から出港した薩摩艦「春日丸」「平運丸」「翔鳳丸」を追い、幕府と薩摩藩は既に開戦中であることを理由に春日丸に発砲したが一弾も当たらず、逆に春日左舷の40斤施条砲3発を喰らい薩摩艦隊を逃がした経験を持つ(阿波沖海戦)。

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時の開陽丸艦長は後の函館五稜郭政府総督榎本武揚、春日丸の左舷40斤施条砲砲手はNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」で渡哲也が好演している東郷平八郎である。

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開陽丸はその後旧幕海軍旗艦として函館まで往くが、有効な戦績を残さないまま江差沖で嵐に巻き込まれ座礁・沈没し(18681115日)短い生涯を終えた。

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近年その一部が引き上げられ、復元された船体と共に数多くの遺品が北海道江差に展示されている(開陽丸記念館)。

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さて、興琳寺に飛び込んだと云われる砲弾は直径1415cmの尖頭弾には違いないが、円筒部分に3段にわたりオーリング様の黒い「環」が付いている。
砲弾の直径は
丁卯丸艦載5.9インチ砲の口径に匹敵(1.54×5.914.986cm)するがこの黒いリングは一体なんだろう?インターネット上に展開する100に近い砲弾の画像をチェックしたが類似のものは皆無であった。

Hougann住職様には鑑定団にご出場なされるよう切に希望するところである。澤田平氏がきっと解説に登場してくれるはずだ。

2010/01/09

 

画像①順動丸(Wikipediaより)

 幕府の権威が失墜していた幕末。文久3年(1863)の上洛では、十四代将軍・徳川家茂は213日に江戸を発ち、往路は陸路東海道を進み、34日に京  の二条城に到着した。復路は、613日に大坂を出発したが、イギリスから購入した順動丸という船を使用し、16日に江戸に帰着している。この絵(早稲田大学図書館蔵)は、文久37月に出版されており、船で江戸へ戻る家茂を描いているといわれている。

画像②乾行丸Wikipediaより)

画像③丁卯丸(Wikipediaより)

画像④北越戦争時の砲弾(「大洲の昔」より柏崎市立図書館蔵)

画像⑤開陽丸引揚砲弾(2022/07開陽丸記念館にて撮影)

画像⑥開陽丸引揚砲弾2022/07(開陽丸記念館にて撮影)

画像⑦開陽丸復元船(2022/07開陽丸記念館にて撮影
画像⑧開陽丸復元船船首デッキ(2022/07開陽丸記念館にて撮影)

画像⑨開陽丸復元船砲門(2022/07開陽丸記念館にて撮影)
画像⑩開陽丸模型(2022/07開陽丸記念館にて撮影)
画像⑪開陽丸記念館全景(2022/07開陽丸記念館にて撮影)
画像⑫興琳寺蔵砲弾(遠藤旅吉氏撮影)

参考サイト

http://www.kisnet.or.jp/~c-oosu/rekisi/rekisi6.html

参考文献

「竜馬(三)海軍編」津本陽 

「燃えよ剣」司馬遼太郎

「幕府軍艦回天始末」吉村明

「アームストロング砲」司馬遼太郎

「幕末新撰組」池波正太郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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