笹之雪(戦を埋めた豆富の話)
日光輪王寺と江戸上野の寛永寺の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもつ役職があった。
その名は累代「輪王寺宮」と呼ばれていて、かつて上野寛永寺本坊に居住していた。
「輪王寺宮」たる唯一の資格は、親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの(法親王)であること。
ゆえに、維新まえの江戸の時代にも関東常駐の男子皇族(以下「宮」と呼ぶ)が、たった一人だけ、存在した。
慶応4年、戊辰戦争勃発。
14代将軍徳川家茂正室和宮の元許婚者である有栖川宮熾仁親王(当然ながら皇族)を東征大総督に掲げ、錦旗をひるがえした西郷隆盛率いる官軍が江戸へ攻めてくる。
徳川将軍家の菩提寺でもある寛永寺の宮・公現入道親王(明治天皇の叔父)は、幕府の依頼を受けわざわざ駿府まで赴き、有栖川宮熾仁親王に面会して東征中止の嘆願をするも一蹴されてしまう。
熾仁親王に敵対意識を抱いてしまった宮は、寛永寺に戻った後、立てこもる彰義隊に担ぎあげられ、江戸の町は入府した官軍と旧幕府軍によりこう着状態に陥る。
事態打開のため、官軍が呼び出したのは長州藩の天才軍略家・大村益次郎だった。
かつて緒方洪庵の「適塾」塾頭を務め蘭医でもある益次郎の持ち駒は、彰義隊兵数の1/3、しかも寄せ集めばかりの一千兵。
「江戸市中を焼失させないこと」だけを念頭に、「夜戦になれば彰義隊は市中に火を放つ!」として、軍師大村は繊細な作戦を練った。
大村益次郎が上野寛永寺に籠る彰義隊をたった半日で排除するべく策した作戦の最大なるものは、穴を作った事にある。
彰義隊が「窮鼠」に化けないよう、あらかじめ、彼らの敗退路になるべく道に兵を配置しなかったのである。
頭脳だった。
結果、開戦半日後官軍側の止めとなる佐賀藩所有アームストロング砲2門が寛永寺に向かって火を噴き、益次郎の図面に描かれた通りのルートを辿って彰義隊敗兵群は逃た。
その中に宮も紛れていた。
穴は根岸方面に開けられていた。
時の模様を、地元に残る古文書を仔細に調べた吉村昭氏は、著書「彰義隊」の中でかく記述している。
<たちまち炎がひろがり、その火の手に戦が最後の段階に入ったことを感じた宮一行は、あわただしく林光院の裏手にまわると、道を急いだ。中略
雨の勢いははげしく、風が横なぐりに吹きつけてくる。
網代笠をかぶった宮は、彰義隊員の後を追うように坂道をくだっていった。中略
坂道の傾斜が急になり、右に左にくねっている。
前後には彰義隊員の姿がみえ、すべってころぶ者もいる。 >
江戸の昔、寛永寺の子院林光院は現在の谷中霊園北西部に位置しており(現在は国立博物館の東側にある)、寛永寺側から見て林光院の「裏手」とは芋坂に通じた道である。
したがって、宮が雨中泥だらけになって滑り降りた「くねくねとした坂道」は芋坂であると断定される(芋坂跨線橋より鶯谷駅方面にある御隠殿坂はほぼ直線)。芋坂は現在、幾筋ものJRの線路の群れに遮断され線路上に架けられた跨線橋で、下の道に繋がっている。
下り坂は程なく王子街道にぶつかる。
そのT字路の右角に「藤ノ木茶屋(現、羽二重団子本店)」がある。
彰義隊の敗兵の何人かはここに逃げ込み、刀槍を捨て百姓姿に変装して逃げたといわれ、今も店内で官軍が放った砲弾などと共に保管されている。
今一度、吉村昭氏の著作は語る。
<宮は、僧たちと道を急いだ。
点在する民家の者はすべて避難したらしく戸がかたく閉ざされている。
家の背後は遠くつづく田畠で、その中を流れる川から水があふれ、湖水のようにひろがっていた。中略
道の前方に眼をむけた竹林坊が、茶屋風の建物を、
「笹の雪でございます」
と、低い声で宮に言った。
元禄三年(1690)、後西天皇の第六皇子公弁親王が寛永寺の山主に任ぜられて京をはなれる時、ひいきにしていた豆腐商玉屋忠兵衛に江戸にくるようすすめ、忠兵衛はそれにしたがって江戸に出た。
良質の水を求めて寛永寺の周辺を探して歩き、日暮しの里と呼ばれていた新堀村の音無川のほとりに店をかまえた。
江戸には珍しい絹ごしの豆腐を客に出し、公弁親王は笹に積もった雪のように白いとほめたたえて、笹の雪という店名をあたえた。
そのようないきさつから笹の雪は、寛永寺に定期的に豆腐を献上し、輪王寺宮もその味を好んでいた。
店の前を過ぎたが、そこも戸が閉ざされ、人の気配はない。>
護衛役の武士団と別れた宮は「笹の雪」で一服することもなく、雨中敗走を続け、ついには、榎本艦隊の輸送船「長鯨(996t)」によって北茨木の平潟に逃れ、仙台にて奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されてしまう。
以下は本項の意図をご理解頂く為の重要な余談。
明治元年、仙台藩の降伏と共に、皇族唯一の朝敵とされた輪王寺宮(公現入道親王)は京都の実家で謹慎生活を余儀なくされた。
赦され、明治天皇の命によって環俗し再び東京にもどり、あの有栖川宮熾仁親王の屋敷で同居生活を過ごしたのち、ドイツに留学する。
ドイツ留学中に逝った実弟北白川宮智成親王の遺言によって北白川宮家を相続し北白川宮能久親王となるが、ドイツ貴族の未亡人と勝手に婚約してしまい問題になって帰国させられ、婚約解消の上、再び謹慎させられる。
その後、明治陸軍の職務に励み、山内容堂(旧土佐藩主)の娘光子、伊達宗德(旧宇和島藩主)実娘で島津久光(事実上の旧薩摩藩主)の養女富子と再婚し、日清戦争後の台湾征討近衛師団長として戦闘中、マラリアに罹り台南でその数奇な人生を終えた。
明治28年、48歳だった。
陸軍大将。
北の丸公園に馬に乗った宮の銅像がある。
JR鶯谷駅北口を出て言問通りをくぐり北へ徒歩100メートル。
古びた茶店の佇まいの店がある。
赤い布が敷かれた3人がけ床机の向こうに紺色の暖簾が垂れる。
暖簾の下に立つといきなり扉が開く。
が、自動ドアではない。
驚いたことに、暖簾と同じ色のはっぴを付けた年配のおじさんが、それと察し、その手でいちいち開けるのである。
あっけにとられる間もなく店内に引きずり込まれると、別のおじさんから木彫りの番号札を渡され、靴を脱がされる。
うろたえている隙に、揚り框の脇に伏せていたまた別のおじさんに、階上へ続く階段に追い込まれる。
真っ赤な絨毯の敷かれた一間余幅もある階段の踊り場にまた別のおじさんがいる。
お化け屋敷ではない。
「豆富料理350年、焼き鳥35年」の看板を掲げる根岸「笹の雪」が現在である。
ここのとうふは「腐」さってはなく「富」んでいるのだ。
冷や奴に熱燗、それに「うずみ豆冨」を注文した。
京料理で「うずみ豆腐」と云えば、椀によそった湯豆腐の上にご飯を乗せ、だし汁をかけた様な料理を指す。
豆腐がご飯に埋まっている現象が語源とされているが、笹の雪のそれは全く異なっていて、短冊に切った切り蕎麦を乗せた茶漬けの如しで、どれが豆富なのか判らない。
仲居さんに問うたところ親切にも企業秘密?たるレシピの一部を教えてくれた。
だが、その名の由来はわからないとの返事。
① 木綿豆富を圧縮して水を切る。
② ①を粗めのメッシュで裏ごしし切り蕎麦様にする。
③ ①とみじん切りにした各種の野菜と共にだし汁で煮込む。
④ ③を熱々のご飯にかけ、刻み海苔を乗せ、卸わさびを添える。
なんと手のかかった一品、さすがに自分で作ろうとは決して思わない。
この店、舌だけでなく眼福もさせてくれる。
店内のあちらこちらに扁額が飾られ、博物館並みのガラス張り展示ケースまである。
その中に、有栖川宮熾仁親王の書、北白川宮から贈られた香盆があった。
たかが豆腐 されど豆富に たれぞ戊辰をおもうかな
2010/01/28 升
参考文献
引用地図:「江戸散歩・東京散歩」より。「分間江戸大絵図(安政6年)」を元にした複製。
司馬遼太郎「花神」上中下巻
吉村昭「彰義隊」
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