坂の上の海の史劇
1.
<ところがかれがそうつぶやいたとき、安保砲術長の記憶では、かれの眼前で背を見せている東郷の右手が高くあがり、左へむかって半円をえがくようにして一転したのである。>
司馬遼太郎(昭和43年4月22日~47年8月4日連載):「坂の上の雲」より抜粋
<幕僚たちは、東郷を不安そうに幕僚たちは凝視していたが、突然、東郷の右手が高くあげられるのを見た。
幕僚たちは、息をのんで東郷の命令を待った。
そして、東郷の右手を見つめたが、その手が勢い良く左へ振り下ろされた。>
吉村昭(昭和47年発行):「海の史劇」より抜粋
2.
<スワロフの司令塔のなかで東郷のこの変化を見たロジェストウェンスキーは、すぐさま射撃を命じた。あたかも三笠が回頭を終えて新進路につこうとしたときであった。ときに、午後二時八分、距離は七千メートルである。>
司馬遼太郎(昭和43年4月22日~47年8月4日連載):「坂の上の雲」より抜粋
<ロジェストヴェンスキー指令長官は、むろん、この好機をのがさなかった。
かれは、「一」の信号旗を「クニャージ・スヴォーロフ」のマストにかかげさせた。
それは、東郷艦隊の先頭に位置する旗艦「三笠」に砲撃目標を定め、順次その後につづく各艦を砲撃させる合図だった。>
吉村昭(昭和47年発行):「海の史劇」より抜粋
3.
<東郷は無口で知られた男であったのに、この場合だけはひどく長い言葉をしゃべった。
東郷の言葉は、通訳の山本大尉が記憶しているところでは以下のようである。
「閣下」と、東郷はひくい声で語りかけた。
「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。
今日ここでお会い申すことについて心からご同情つかまります。
われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ。
ねがわくは十二分にご療養くだされ。一日もはやくこ全癒くださることを祈ります。
なにかご希望のことがございましたらご遠慮なく申し出されるよ。
できるかぎりのご便宜をはかります。」
東郷の誠意が山本から通訳される前にロジェストウェンスキーに通じたらしく、かれは目になみだをにじませ、
「私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます」と、答えた。>
司馬遼太郎(昭和43年4月22日~47年8月4日連載):「坂の上の雲」より抜粋
<東郷は、中将の青ざめた顔を見つめながら、
「申すまでもありませんが、勝敗は兵家の常であり、貴官が敗軍の将となられたことは少しも恥ずべきことではありません。
貴艦隊が、本国を出発してから18,000浬の海を航海してきたことだけでも、驚嘆に価する大偉業です。
その上、二日間にわたる海戦で、貴艦隊の乗組員は、実に勇散に奮戦しました。
私たちは深い敬意をいだいております。」と言った。
さらに東郷は、言葉をついで、
「貴官は重傷の身を押して司令長官としての指揮をとられた由ですが、私どもは、貴官に心から敬意を表する次第です。
当病院での御生活は、おそらく御不自由なことも多いと存じますが、一日も早く御快癒なさるよう祈っております」
と、述べた。
ロジェストヴェンスキー中将は、山本大尉の通訳する言葉をうなずいてきいていたが、その眼に涙をにじませながら、
「私は、高名な提督である貴官の御訪問をうけ、誠に光栄に思います。また、温かいお言葉をいただき、深い感謝で言葉もありません」
中将は、そこまで言うと、絶句して眼を閉じた。
東郷は、静かにベッドの傍をはなれて室外に出た。
廊下の窓の外には、初夏の緑が目にしみ入るような鮮やかさでひろがっていた。>
吉村昭(昭和47年発行):「海の史劇」より抜粋
4.
明治38年09月11日 旗艦戦艦三笠佐世保軍港内にて火薬庫爆発事故により沈没。
明治41年01月01日 バルチック艦隊司令長官ロジェストヴェンスキー中将死去。
大正01年09月13日 第三軍司令官乃木希典大将自刃。
大正04年01月18日 旅順要塞司令官スッテセル中将死去。
昭和09年05月30日 連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥死去。
2011/12/14 升
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