マラソン人が折り返す町③ 最後の横浜国際女子マラソン
聖天橋
杉田貝塚は現在の海抜64mの地に発見されている。
6,000年ほど前の縄文時代の人の営みの跡に違いなく、彼らはハマグリを喰らっていた。
これは海が陸地に向かって進んでいた証しとされ、必然的に、当時はもっと海抜に於いて海面に近い場所で浜焼きを楽しんでいた筈である。
大化の改新後(646年)、武蔵国に久良岐(くらき)という郡が設けられこの地域の政治が始まる。
この前後期にこの地域に造られた円墳や横穴古墳からは6世紀時代の馬具・矢じり・直刀・はにわ・メノウの曲玉・銅環などが発掘されていることから、当時の中央政権の影響を受けた豪族の墓であると見られている。
平安末期から鎌倉時代にかけては平子(たいらこ)氏が、小田原北条時代には間宮氏が支配していたらしいが、凡て天領となった江戸時代には代官が支配するようになり、正徳2年(1712)から大久保甚四朗の知行になって幕末に至る。
江戸時代初期、この地区は森村と杉田村とになっていた。
すなわち、武蔵野国久良岐郡杉田村である。
森村の名の由来は「此辺は山麓に集落をなし、樹木特に繁茂せるをもって起こりし名なりと云」(新編風土記)、杉田は「此地杉多し、故に杉田の名起れり」。
寛文(1661~)の頃、森村は公田・雑色・中原に分かれ、いずれも森の字をかぶせて森公田村・森雑色村・森中原村と呼び、杉田村と合わせて4村になっていた。
天保年間に発行された江戸名所図会二の巻に杉田村の当時の様子を描いたものが2つある。
「梅が香にはらふくるるや帆かけ船」の俳句で飾られた「杉田村梅園(うめぞの)」の絵と、干しナマコの製造工程を詳細に描いた「杉田村海鼠製(なまこをせいす)」だ。

杉田梅林の歴史は古く、天正年間(1573~)領主である小田原北条氏の家臣間宮信繁が兵糧利用のため梅の栽培奨励したのがその始まりとされ、元禄(1688~)の頃には4万本足らずの梅木が満ち、文化・文政年間(1804~)には梅実の収穫が年400石にのぼった。
観音崎を回る船にまで開花期にはその香がとどいたと云い、観梅の為、陸路海路にて多くの人が訪ねて来たという。

江戸時代干しナマコは幕府管理の商品で俵物として管理され、長崎から大陸に向けた輸出品であり、梅の実と共に根岸湾沿いの集落を代表する産物だった。
浦賀にペリーがやってきて安政6年(1859)横浜が国際的に開港し、根岸あたりまで外人がうろうろし始めた。
市町村制(明治22年)の取り入れで横浜市が生まれた時、森公田と雑色を合わせて森村とし、森・中原・杉田と磯子・滝頭・岡の6村を合わせて屏風ヶ浦村となる。
明治44年、磯子・滝頭・岡3村の横浜市編入により屏風ヶ浦村は、森・中原・杉田の3村(大字)となり、昭和2年に全村が横浜市に編入される。
ちなみに、中原と云う名は単純に森村と杉田村の中間に位置するからに違いない。 
大正初期、雑木の粗朶を用いて始められたノリ養殖は大正末期には竹ひびに代わり、昭和10年頃には網を横に張る方法が採用され最盛期に入り遠浅の根岸湾はノリ網で埋め尽くされ、海岸線は海苔干し簾が埋め尽くした。

明治37年に民間経営で開業した市内電車は大正10年から横浜市市営に変わり、横須賀街道(国道16号)上の終点が杉田まで延長される。

昭和5年に湘南電鉄㈱として黄金町~浦賀間の鉄道が開通し、やがて京浜急行杉田駅ができる。
昭和34年から根岸湾の本格的埋立て工事が始まり、私が杉田小学校から転校する頃までに、かつて海苔ひびで埋め尽くされていた海面のほとんどが土砂とコンクリートとアスファルトに取って代わった。

巨大な工場群および高層住宅街が私の知らない(不在)間に出来上がり、16号線の向こうに新たに産業道路が通じ、昭和45年にはその隣に国鉄根岸線の新杉田駅が生まれ、さらに、平成元年には新杉田~金沢八景間の「被埋立て湾岸」地域を結ぶモノレール金沢シーサイドラインが完成した。
陸路では、昭和54年三浦半島の尾根を通る横浜横須賀道路に港南台ICが完成し、平成11年には首都高湾岸線杉田ICが開通した。
いまや、かつての武蔵野国久良岐郡杉田村から千代田のお城まで、いずれの交通機関を用いても、僅か半刻で参じることが可能になっている。
最後の横浜国際女子マラソン
横浜山下公園をスタートする横浜国際女子マラソンは、
本牧市民公園⇒八幡橋⇒第1折り返し聖天橋交差点⇒八幡橋⇒本牧市民公園⇒山下公園前⇒第2折り返し本牧市民プール前⇒山下公園前⇒みなとみらい21地区1周⇒山下公園内フィニッシュ
がそのコースの全容。
すなわち、私の縄張り内を行ったり、そして、来たりする。
第一折り返し点の聖天橋交差点は、横浜市と伊勢原市を結ぶ主要地方道である神奈川県道22号線の横浜市側の起点で、国道16号線との接点を指している。
だが、県道の起点であることは知られておらず、また、教えられても地元の住人は信じない。

聖天橋交差点をはさみJR&横浜シーサイドライン新杉田駅と京急線杉田駅とを結ぶ2丁ほどの道は現在お洒落なプロムナード杉田と呼ばれ、新杉田駅と京急線の乗り換えの人々の行列が終日切れることがない。

故に自動車よりも歩行者の方が強く車はその通化に10分を見込まねばならない。
危険を感じた警察は杉田駅前から聖天橋交差点の間を16時から19時までの間車両通行禁止にし、歩行者天国として開放した。

昭和が色濃く残る商店街で、安価な食料品や生活雑貨を提供する店舗や立ち飲み屋を筆頭とする飲み屋群を、乗換客及び地元住民(外国人も多い)が応援している。
すなわち地元では歩行者のための道との解釈だ。

プロムナード杉田は、私がゴム飛びや馬跳びを楽しんでいた頃、杉田新道と呼ばれていた。
新道と呼ばれるからには昔はなかった道路に違いないのだがその起源を私は知らない。
ただ関東大震災の折に道路延長線上のトンネルが崩落して現在の切通しになったらしいので起源は明治期かもしれない。
新道の南側に聖天川という当時はドブ川が流れ、市電通り(R16)を横断して海にそそいでおり、その市電通り上の橋が聖天橋だった。
聖天橋の横須賀よりには美空ひばりが8歳で初舞台を踏んだ杉田劇場があった。

その後ドブ川は皆暗渠となり地上から姿を消した。
橋はいらなくなり、今では1kmも向こうの埋立地の掘割に突然「聖天川」が湧出している。

東海道線を乗り継いで箱根駅伝の『追っかけ』を演じたことがある。
交通規制はスタート&ゴール地点を除く沿道は片側だけだった。
ところが「折り返し点」の場合は、必然的に、全面道路封鎖になる。
界隈見渡せる限りの国道16号線上下四車線はピンクライダー到来の20分も前から閉鎖され、ブルーライダーや県警パトカーがひっきりなしに巡回、各横断歩道の係員は両手を広げて道路横断人を制御している。
私の「縄張り」が、年に一度、いつもと表情を変える瞬間だ。
2014/11/16 12:10、貿易センター前をスタートした第6回横浜国際女子マラソンの選手先頭集団が第一折り返し点である国道16号線上の聖天橋(しょうてんばし)交差点に現れたのはスタート後およそ43分経過した頃である。

ピンクも鮮やかな制服に身を包んだ女性警察官乗る白バイに先導され、ペースメーカーと共に走る選手は既に野尻あずさと岩出玲亜の二人になっていた。
時速20キロの驚異的速度で走る先頭集団や第二集団の前後には逆コバンザメの様に報道車や業務車が纏わりついている。
増田明美の乗るテレビ1号車、2号車は高橋尚子が乗っている、ラジオ中継車、新聞社カメラ群を搭載したオープン車(トラック?)、カメラ中継バイク。

地元みなとみらいに本社がある日産から提供された電気自動車「リーフ」は、審判車や測量車など運営をつかさどる役を持った車両となって、完全無排気で走りまわる。
先頭集団が恐ろしい速さで駆け抜けてから10分もたったころ、数百の「本隊」が群れをなして駆けゆき、シンガリの選手には沿道全体が格別のエールをおくる。
最後に登場した「リーフ」が『これにて全選手が通過しました。ご協力ご声援ありがとうございました』と告げ、河止めの歩行者の塊が16号を無尽に横断して、祭りは終わった。
追)その理由に様々な憶測が飛び交っているがこの横浜国際女子マラソンは今回で幕を閉じるらしい。
フィニッシュに山下公園を走り抜け先頭選手がゴールをきる。
と、その脇に係留されている氷川丸の霧笛が「ぶぉ~」と祝音をあげる。
その景色と音の風景はどのマラソンコースより素晴らしかった。

来年はさいたま開催と噂されるが美しい風景の継承を願うものである。
参考文献
「杉田の歴史 故郷賛歌 第三集」 相原一郎 平成18年発行
「移りゆく横浜の海辺 -海とともに暮らしていた頃-」横浜市歴史博物館 1999年発行
「浜・海・道 あの頃、そして今…磯子は」磯子区役所 昭和63年発行
「浜・海・道 Ⅱ 昭和30年頃の磯子」磯子区役所 平成5年発行
「磯子の史話」磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 昭和53年発行
「磯子まちあるきガイド」磯子区役所 平成19年発行
横浜経済新聞HP
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