密航船水安丸乗船者を追って ⑤
水安丸のこと
3.
以下「密航船水安丸」未読者の為にそのあらすじを極めて簡単に書いておく。
当該小説の主人公は、岩手県との県境に近い宮城県登米市(現在)で1854年(安政元年)に鱒淵村の村長の三男(小野寺良治)として生まれ、1875年(明治8)村一番の名家及川家の長女ういのと結婚し婿養子となって及川甚三郎を名乗るようになる(21才)。
家業の北上川河運業を嫌い、夏氷の製造販売や製糸工場などを起業・成功させるが後進との競争の最中、数年前にカナダに渡った隣村の若者(佐藤惣右衛門)からの手紙に興味を抱く。
「カナダには鮭が、その上を歩けるほど、上ってくる川があり、白人はそれを獲って缶詰にしているが筋子は食べないので捨てられている」という内容に引かれ甚三郎は1896年(明治29)42才で単身海を渡る。
同船したバンクーバー在住の牧師鏑木五郎や鏑木が世話した通訳宮川益太郎、横浜で出会ったことがある現地スティーブストンの漁師中林幸右衛門等の援助の元、漁業や林業に就労し、やがて佐藤惣右衛門と合流する。
フレーザー川南アーム東岸のサンバレーの30㌃の土地を根城に、近隣の請負開拓やサケ漁はもとよりドブロクを製造し、白人漁師が捨てる筋子やドックサーモンと交換・加工し、バンクーバー周辺の日系人に販売し利益を得始める。
1899年(明治32)早々、バンクーバー周辺の日本人が出身地ごとに差別に近いコロニーを作っていることに業を煮やし、同郷人同志の来加を求め初めての帰国をするが法外な渡航費60円を支出した上に冒険までしようとする人はなかなか集まらない。
同年5月にビクトリア港に降り立った甚三郎の同行者は、嫁ういの(40)・長男泰二郎(21)・次男通衛(13)・佐藤惣右衛門実父甚右衛門(48)・佐藤惣右衛門実兄惣四朗・ういのの下女やゑの(17)ら6名のいわば身内のほか、甚三郎が雇った桶と酒つくりの職人二人の計8人だけ。
翌年1900、5月にういのが倒れ、泰二郎が伴い帰国するも、年明けを待てずに逝った。
1901年甚三郎は及川コロニーのたった一人の女性で、ういのの下女だった、28才年下のやゑの(19)と結婚。
つづいて、使用権を取得したドン島へサンバレーから引っ越しを始める。
1902年(明治35)には塩鮭・筋子の本格輸出が始まり、やゑのが甚三郎の三男英治を産む。
1903年(明治36)隣接するライオン島(佐藤島)に佐藤一家15名が移住するが、渡航費を送金したりして故郷から大工・鍛冶屋・機械屋などの職人を呼び寄せドン島(及川島)の住民は40名ほどになった。
1904年(明治37)2月に日露戦争が始まり、3月にやゑのが長女しまを産む。
1905年(明治38)5月末に日本海海戦で日本はロシアに大勝する。甚三郎は3回目の帰国をし、人集めに奔走するが戦争と不作により宮城県ないも疲弊を極めていた。
甚三郎は3本マストの帆船(200トン)を北洋で漁業をする名目でチャーターし、一人当たりの渡航費を100円として郷里で渡航者を募った。
1906年(明治39)餓死者が出るほどの飢饉の苦しみとカナダでの日本の3倍程高額な労働日当に惹かれ集まった女性3名を含んだ82名は、宮城県牡鹿半島なかほどの萩浜から、8月末に水安丸に乗り込み出港した。
早速殆どが船酔いに苦しみ、大時化にあったり、船の舵が壊れたりしながら凡そ50日をかけバンクーバー島の東端にあるビーチャー湾に辿りつく。
乗客は数組に分散し夜陰に紛れボートで上陸するも途中で警察に捕縛され、水安丸も移民法及び関税法違反の容疑で拿捕される。
及川甚三郎と予め打ち合わせていたバンクーバー日本領事館の書記生吉江三郎は、カナダ政府と交渉し、1年間カナダ大陸横断鉄道敷設工事に従事することと、水安丸船長に3075ドルの罰金を科す事を条件に、彼らの入国を許可させた。
この事件はカナダ国内でも大きく報道され以前から衝突が続いていた白人労働者との軋轢を助長し1907年(明治40)9月にはバンクーバー市内で大規模な白人労働者の暴動が起こった。
1908年(明治41)には日本からのカナダへの移民を大幅に規制するレミュー協定が日本政府との間で結ばれる。
そうした中で、水安丸の3名の女性乗客の内一番若い及川うん(17才)と密航事件を解決した吉江三郎が結婚し、1910年(明治43)うんの姉のとよ(婚約者が来加予定だった)が婚約者に呼ばれ帰国した。
1911年(明治44)には及川島の開墾がほぼ終わり70~100名程が生活していた。
1912年(明治45)先妻ういのが産んだ甚三郎の二男通衛(26才)は大学を卒業しトロントの企業への就職が決まったが、やゑのとの間に生まれた三男英治(10才)がフレーザー川で溺死する。
1914年(大正5)甚三郎の鮭の漁場を無法に荒らしまわる白人等に甚三郎自ら日本刀を抜いて立ち向かう事件があった(ロングナイフ事件)。
また、第一次世界大戦が始まり、景勢は不況を極めた。
島の後継者たる利発な英治を失った甚三郎の失意は大きく、1916年(大正5)彼の創立した会社英米商会をそれまで任せていた長男泰二郎(38才)を横浜から呼び寄せ及川島運営を引き継ぐ。
翌1917年(大正6)甚三郎(63)はやゑの(35)しま(13)を連れカナダをあとにして帰国した。
日本に戻った甚三郎は既に及川の家が人手に渡っている故郷鱒淵には戻らず、石の巻近くの佳景山にやゑのとしまの三人で落ち着いた。
甚三郎は家計を顧みずに近くの沼地の埋め立て開拓の調査などに没頭し、やゑのは自宅一階をアメリカ屋という食料品に改造してやりくりした。
カナダで稼いだ財産も底をついた頃、1924年(大正13)カナダを引き上げて来た泰二郎が佳景山を訪れ、及川島の住人は殆ど他の土地に移動していき事業が成り立たなくなったことを告げた。
1925年(大正15)甚三郎は脳卒中で倒れ右半身不随となり寝込むようになるが、回顧録を書き始める。
1927年(昭和2)4月4日帰らぬ人となる。73才だった。
2016/11/13 升
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引用文献
新田次郎:密航船水安丸 講談社 1979
画像は外務省外交史料館蔵「本邦人海外密航関係雑件」
公第八十五号(21027)水安丸船長錦織森太郎「本邦帆船水安丸密航者輸送ノ件」添付「水安丸乗客明細表」より筆者撮影
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