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2016/12/11

密航船水安丸乗船者を追って ⑨

後藤文治のその後

 

 『明治参拾九年(中略)八月弐拾七日に、至急乗船の通知ありたる為に、八月参拾日の朝、米谷波止より汽船にて下りて、石之巻港にて中食をすますて、至急渡波港より午後五時半に小舟にて萩之浜迄荒れてくる大海を横断いたして、八月参拾壱日午前二時に到着致して、首尾能く本船水安丸に乗船致して、午前七時半に遠洋漁業に出帆致すたり。

 拾弐時頃、金華山沖に順風にて帆を満福に孕ませて、東北を差すて走りたるに、晩方は遠山も見えずになりたり。水安丸船長錦織森太郎氏。水安丸屯数百九十六頓二分。(原文のまま)』

 

という書き出しで始まる後藤文治氏(当時24才)の手記は、講談社の広田真一氏が新田の依頼で小説「密航船水安丸」に関わる資料集めで東和町を訪れた際、当時の東和町教育委員会主事小野寺寛一氏と共に発見された。

なんでも後藤文治氏の生家に残された行李の中に眠っていたという。

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 小説「密航船水安丸」では氏の手記(航海日誌)を随所に効果的に散らし、ドキュメンタリーと見まがう程の迫力で航海の模様を描いている。 

 小説ではバンクーバー島上陸後官憲に捕らえられた処の引用(10月24日)で氏の登場場面はなくなっている。

 しかし、氏の手記は続いている。

 

  10月25日には検疫を受けた後、水安丸に送られ30日まで待機、31日にようやく甚三郎と領事館の吉江三郎が来て解放される。

11月1日にビクトリアからバンクーバーへ汽船で渡り旅館に収容。

11月2日、日加用達会社の斡旋で着物や夜具を購入し、4日に至って午後3時15分の列車で東部の鉄道工事現場に出発する。

11月5日、午前11時にインダベー駅に到着し作業キャンプに入る。

11月6日、初めて1ドル5セントの日当を手にする。

 

1907年(明治403月には210時間働き38ドルの収入を得、食費6ドル86セント買い物3ドル80セントの支出で、およそ27ドルが残金となっている。

当時の1ドルは2円に相当する。

当時の1円は現在の2万円ほどに相当するので、月100万円相当の金が残ったことになる。

 

その後、鉄道工事や製材工などをして働き1910年(明治4335畝歩(3500㎡)のサイノカミ(狼河原の西上沢?)の畑を550円で入手。

 

Photo

1912年(明治451126日マニラ丸にてビクトリア出航、1224日横浜に入港し帰国を果たす。

母や妻きよ江長男文五郎が出迎えていた。

文治が水安丸に乗船した当時きよ江は妊娠していて文五郎は1907年(明治40)生まれである。

 

1913年(大正254日午後3時横浜出航のシアトル丸にて妻きよ江と共に再度渡加。

6才の長男文五郎は残した。この船上においても文治は航海日誌を付け、517日ビクトリア港入港。

 

再びフレーザー・ミルで製材工として働くが1914年(大正3)第一次大戦の為不景気になり日当が下落。

1915年(大正4)長女ふみ恵が産まれるが日当下落の為食べられず、小野寺保氏の船や家を買い、小野寺貞治氏の網を購入して漁業に転身し成功する。

 

1917年(大正61月に文治氏が痔ろうで手術、2月にきよ江が入院、ふみ恵は扁桃腺で手術するが、サンバレーの土地7エーカーを購入し移転した。

 

文治氏の手記はここで終わっているのだが、1978年(昭和53)のバンクーバー取材の際に文治の長男文五郎氏(71)に新田が会っている。

文五郎氏は1921年(大正1014歳の時にカナダに呼ばれ以来、戦時中の収容所生活期を除き、及川島の南対岸サンバレーにて漁業に携わっているという。

父親文治氏のその後の消息は記述されていないがきっと文五郎氏の活躍の場は父親譲りの漁場であろう。

 

なお、Nikkei TVでは今でもフレーザー川で漁業をしている孫のキヨ・後藤氏の姿が映っていた。

2016/12/11

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追)

  忠治は明治44年、東磐井郡黄海村熊舘(現一関市藤沢町)で生まれた。

幼少の頃から、隣村の宮城県米川村の人たちがアメリカ(カナダ)に渡って、裕福に生活していることを何度も耳にした。

忠治も、大きくなったら俺もカナダに渡るんだ、と自分に言い聞かせながら育った。

 

  尋常小学校を終えて数年後、カナダ渡航の可能性を探るために郡役所を訪れた。

そこで役所の書記に一喝された。

 「岩手県には未開拓の土地は山ほどある。わざわざ外国まで行って開拓する必要はない。それよりも室根山麓を耕せ!」。

取り付く島もなかった。

 

  ほかによい手段はないものか、忠治は隣の米川村増淵まで走った。

増淵には、「密航船水安丸」でカナダに渡った人たちの縁者がいる、と聞いていたからだ。

忠治はそこでカナダ渡航の情報を得ようと考えたのだった。

 

忠治がたまたま訪れた家は後藤文治の生家であった。

  生家の主人は文治の兄に当たる人であった。 彼は、カナダ渡航に夢中になっている忠治を見て、にたりとほくそ笑んだ。

  「文治の娘の婿になる気だったら、いつでもカナダに渡れるぞ!」

  忠治はそれを聞いて躍り上がって喜んだ。カナダに行けさえすれば良い。

どんな鬼面の娘でも我慢できる。その時の忠治の本心であった。

 文治に婿捜しを頼まれていた主人にとって、忠治は、飛んで火に入る夏の虫、以上の好適な人物であった。

 

 後藤文治には二男二女があった。長男文五郎は英名Bill、次男利秋はJackであった。長女文恵もカナダで生まれたが、後日本で結婚したので英名は不明である。次女米子はMayであった。

 後藤家ではこの米子の婿捜しをしていたのである。彼女は小柄でぽっちゃりした、かわいい娘であったそうである。忠治の7歳年下に当たる。

 

  昭和12年(1937)、カナダのハイスクールを出たばかりの米子と、増淵で結婚式を挙げた。米子の父文治も帰国して出席した。カナダまでの船旅が新婚旅行になるはずであった。ところが忠治に召集令状が舞い込んだのである。

 忠治は断腸の思いで出征した。満州から北支、中支へと転戦した。そろそろ除隊して帰国の時期か、と期待した途端に、太平洋戦争が勃発した。憧れていたカナダは敵国になってしまった。何のために結婚したのか、忠治は天を仰いで嘆息した。

 

 運良く生き延びて終戦を迎えた。

 昭和21年、無事復員した。

 義父文治はカナダに帰国できないまま、終戦の年、増淵で他界していた。米子の姉、文恵を除く男の兄弟はカナダに残ったままであった。

 彼らの安否を気遣いながら増淵で芋畑を耕し、子作りに励んだのである。おかげで一姫二太郎に恵まれた。

 

―盛岡タイムス Web News 2013年  5月 9 () 〈岩手からのカナダ移住物語〉53 菊池孝育 後藤忠治-より抜粋した。

 

引用文献

小野寺寛一 編 カナダへ渡った東北の村
:
移民百年と国際交流耕風社1996 p266281後藤文治氏「航海日誌」

新田次郎 密航船水安丸 講談社 1979

画像

外務省外交史料館蔵「本邦人海外密航関係雑件」より

公第八十五号(21027)水安丸船長 錦織森太郎「本邦帆船水安丸密航者輸送ノ件」添付「水安丸乗客明細表」より筆者撮影

Nikkei TV 水安丸航海百周年記念スペシャル「フレーザー河は知っている」2006より拝借しました。

 

 

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