密航船水安丸乗船者を追って ⑧
その後の及川家
「水安丸100年祭」の主役として一人の女性が日本から招かれ記念植樹やスピーチを行った。
北仙台駅前においてご夫婦で学習塾を営んでいる今北玲子さんである。
挨拶の冒頭、彼女は静かに話し始めた。
「わたしは昨日カナダに参りました。
涙がとまりません。
私の祖母が、この向こうに見えるライオン島に、帰りたくて、帰りたくて、亡くなるまで言っておりました。」
(注;及川島と佐藤島を合わせてライオン島と呼んでいた頃もあった)
彼女の祖母こそ1904年(明治37)及川島で甚三郎とやゑのの間に生まれた長女しまさんなのだ。
そのしまさんに面会し始めて記録を残した宗教学者がいる。
現宮城学院女子大学名誉教授の山形孝夫氏で、1965年(昭和40)当時60才のしまさんから克明な思い出を聞き出している。
彼の著書「失われた風景 日系カナダ漁民の記録から(1996出版)」(こちら )からそのごく一部を下記引用した。
佳景山で暮らしていたある日、父が菜種を一杯買い込んできて広渕沼のまわりに播くというのです。
どうするのって聞いたら、あとで、だれが採って食べてもよいようにね、ただ播いておくのだってね」
「父の遺体は泰二郎兄によって鱒淵に運ばれ及川家代々の墓に葬られました。
母(やゑの)はその後佳景山で30年ほど生きて82才で死にました。
その時私は夫と一緒に佳景山に父と母の墓をつくりました。
父の骨は鱒淵で母が寂しいと思い鱒淵の土を埋めてやりました。
こんどは、カナダからに兄ちゃん(10歳でフレーザー川に落ちた英治)の骨を拾ってきてあげるってね、母に約束しました。
『難儀するためだけに生まれてきたんだなぁ…』いつも言っていた母に対し、これくらいのことしかできないんですよね…」
さらに、山形孝夫氏の指導の下、宮城学院女子短期大学思想研究グループの学生たちの1972年(昭和47)発表のレポートで、しまさんは1928年(昭和3)結婚し仙台市萩ケ丘に居住とある。
すなわち、父甚三郎を見送った翌年に彼女(24才)は結婚していることになる。
山形が初めてしまさんにあった13年後、新田は小説「密航船水安丸」執筆の為の取材旅行の際、仙台で当時74才のしまさんにあっている、1978年(昭和53)11月のことだ。
記憶の非常にいい人としまさんを表現したうえで、甚三郎が死ぬ前に、
「俺は人々の為に役立つ仕事をしようと懸命に生きてきた。そして自分や家族のことに気がついた時には、もうすっかり年をとっていた」
と言っていたと云う言葉が印象的だ。
山を背にした見晴らしの良い小岡にあるしまさん夫婦が作った墓を新田が訪れている。
及川家の墓と彫り込まれた黒御影石の墓石の側面には下記彫られているという。
祖及川甚三郎は幼名良治、登米郡米川村大字鱒淵下台家小野寺十郎治の三男に生る。
細越家に入り、祖父及川甚三郎義保の名蹟を継ぐ。国内産業に力を致し、外英領加奈陀BC州ニュウウエストミンスター市ライオン島に拠し、加奈陀フレーザー河漁場を開拓す。今にライオン島は及川島の称あり。
帰来、桃生郡鹿又村字佳景山に住し、この地に歿す。鱒淵頼光寺に葬る。
事蹟の概要は鱒淵華足寺なる彰徳碑に明らかなるも、自叙によれば詳しくその事蹟の企図の壮大を想望し得。
内助の妻やゑのは鱒淵染屋家に出で英治、志まの二児あり。
英治はフレーザー河に於て水死し、志まは細越家の分岐として家系を継承した。
児孫これを照鑑せよ。
西紀一九六九年九月 二代及川亮一郎
(注:原文はカタカナ表記であるが読みやすいようにひらがな表記に直した。)
さて、今北玲子さんは水安丸100年祭に先立ち、仙台においてカナダのNikkei TV Inc.のインタビューに対し、妹のユウコさんと一緒に答えている。
「トランクぎっしり及甚の遺品がありまして、それは妻やゑのから娘しまそして私たちの母ヨウコに引き継がれ、いつも家の中のどこかにありました。
カナダから海を渡って来て日本で沈黙を続けてきたトランクが及甚と娘しまの意思を抱いて再びカナダに帰る。
それはとても意義のあることと思い今回日系博物館に総て寄贈することにしました。」
新田は1978年(昭和53)に取材旅行した際の関係者への謝意を著書の末尾に現している。
「河南町では、及川茂、及川よう子、及川ゆう子のみなさまに協力をいただき、(後略)」とある。
河南町とは1955年(昭和30)に発足した町名で、現在は石巻市に併呑されているのだが、あの佳景山の所在地である。
すなわち、新田は甚三郎が晩年を過ごしそして彼の遺族が昭和30年時点生活していた場所で、玲子さんの母親と妹に遭っていたのである。
以上を整理すると次のような系図が出来上がる。
「水安丸100年祭」の主役、及甚のひ孫玲子さんの静かなスピーチは続く。
「この記念碑がカナダと日本の友好のあかし、かけ橋になりますように。
カナダの空や台地・フレーザー河が、100年前を思い出して今ほほえみをくれますように。
この地で生きた方たちの魂が今風になって未来の私たちにあらたな知恵と勇気を下さるように。
Canada is great. Fraser River is beautiful!
Wonderful! Thank you so much.」
なかなか言える言葉ではない。
引用文献
新田次郎 密航船水安丸 講談社 1979
山形孝夫 失われた風景 日系カナダ魚民の記録から 未来社 1996
山形孝夫 東北における明治の女7-カナダ出稼ぎの記録その4-宮城県登米郡東和町の場合 宮城学院女子短期大学教養科 1972
画像および音声
Nikkei TV 水安丸航海百周年記念スペシャル「フレーザー河は知っている」2006
| 固定リンク | 0
「歴史の話」カテゴリの記事
- 東行庵主(2025.07.10)
- 蓮台寺の温泉(2025.04.07)
- 密航船水安丸乗船者を追って⑯(2024.03.17)
- 密航船水安丸乗船者を追って⑭(2024.02.26)
- 密航船水安丸乗船者を追って⑬(2024.02.11)
「横浜時代」カテゴリの記事
- 黒曜石の島(2025.03.07)
- 知床で夢を買った話(2024.07.16)
- あさひが照らす落石の岬(2024.06.28)
- 赤魚粕(2024.06.09)
- ジンタンガラスの冷奴Ⅱ(2024.05.03)







コメント