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2018/10/16

白石 青い屋根 赤い屋根

1.
幕府発注の元、安政4年、オランダで生まれた600t余りの気帆船は、喜望峰を迂回してはるばる日本へやってきて、「咸臨丸」と命名された。
そして、長崎海軍伝習所の練習船として活躍し、勝海舟や福沢諭吉等を乗せ太平洋往復をも果たした。
だが度重なる故障の為、蒸気機関を撤去され「咸臨丸」はただの帆船になってしまう。
そして明治
4、榎本武揚率いる旧幕府軍と共に戊辰戦争に輸送船として参加するも銚子沖で暴風雨に遭遇し、曳航されていた軍艦「回天」から引き離され漂流してしまう。


集合先の松島湾で待つ他船の表現を拝借すると、

『しかし、九月十八日、「蟠龍」は松島湾に姿を現し、停泊していた五隻の艦船に乗っている者たちは歓声をあげた。―中略―

「蟠龍」は激浪にもまれているうちに機関に故障を生じ、逆方向に流されてかろうじて伊豆の下田港に入り、さらに九月一日に清水港に入港した。

翌日、その港に同じ経路をたどった「咸臨丸」が姿を現した。

「蟠龍」は、機関の修理に努め、十一日夜に出向して北上し、松島湾に入ることができた。

「咸臨丸」は大破していて、航行不能の状態であったという。

(「蟠龍」「咸臨丸」が清水港に入っているという情報を得た官軍は、軍艦「富士山」を輸送船「飛龍丸」「武蔵丸」とともに急派した。「蟠龍」はすでに脱出していたので、「咸臨丸」を拿捕しようとし、それに抵抗した「咸臨丸」の副長春山弁蔵以下十余名は殺害されて海中に投棄され、「咸臨丸」は官軍の手に落ちた。)』

―吉村昭;夜明けの雷鳴より抜粋―

 

その後、清水の次郎長が海岸に放置された咸臨丸乗組員の亡骸を憐れみ、清水の築地町に埋葬したことは余りにも有名で、明治20年に清水・興津の清見寺に次郎長と榎本武揚が建立した咸臨丸乗組員殉難碑が今でも残されている。

 

幕末のあらゆる歴史書に登場する咸臨丸。

上述した咸臨丸の略歴は幕末史ファンなら誰でも周知している事であり、慶応4旧暦911日が咸臨丸の命日だと思っている人は私だけではないだろう。

 

ところが、咸臨丸は生きていた。

『9月4日に松島湾口の島港である寒風沢に咸臨丸が入港した。12日に112世帯401人を乗せた咸臨丸が出航し、次いで、数日後に入港した蒸気船庚午丸が84世帯194人を乗せて21日に出港した。

観光丸は9月17日に函館港に寄港し、2日間の休憩の後20日に出港したが悪天に遭遇し、強風に流され現渡島支庁木古内町サラキ岬の岩礁に座礁した。

その時に1人が死亡し数百の荷物を失ったが、開拓史には「一人の怪我なく、荷物も陸揚げし安堵した」と報告している。

咸臨丸は離礁できず、機器類を取り外して廃棄された。福沢諭吉等使節団を乗せて日本初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の最期を片倉家一行が看取ることになった。』

―札幌市白石区役所編「白石歴しるべ」より抜粋―

以上、明治4に起こった物語が咸臨丸の終焉である。

そして昭和の時代も終り頃、現場海底から咸臨丸のものと思われるが引き上げられ木古内町に保存されている。

さて、木古内町サラキ岬で遭難した乗船者のその後を追うことにしよう。

 

上述の「白石歴しるべ」に登場する「片倉家」とは仙台藩に属した白石藩の家臣一家のこと。

戊辰戦争に敗れ官軍に全てを奪われ、蝦夷地の開拓に活路を求めざるを得なかった多くのもののふ達の中の一集団だ。

 

木古内の人たちに救われた401名の彼らは、一人の死亡者を現地に埋葬したのち、一行は函館まで32キロの陸路を徒歩で引き返し、後発の庚午丸に便乗、106日小樽に入港した。

その後、石狩を経て月寒の北外れの望月寒(もつきさっぷ)川流域を入植地として当初67名が移住した。

明治411月のことだ。

 

移住した彼らは真冬の寒さに耐えながら、現在の国道12号沿い(白石公園付近から白石神社までの間)に短期で住まいを完成させた。

開拓使の岩村判官は、この働きぶりに感心し、彼らの郷里の名を取って「白石村」と命名され、翌年の2月までに104戸380人が移住し本格的な開拓が始まった。

 

明治6年にコメの試作に成功し、明治8~14年には前年に東京から札幌に移植されていた果樹苗が配布され、稲作と共に果樹栽培がその後の基幹産業の基盤となる。

 

明治15年、JR函館本線の前身である幌内鉄道が江別まで開通され、白石に非定期に利用される仮停車場が設置された。

 

明治17年には、北海道道庁舎建設にも使用されたレンガの広大な生産工場が作られ、明治22年、札幌・白石・江別を結ぶ道路(国道12号)が完成、明治30年には1203戸4654人の人口に膨れ上がった。

 

明治36年、仮停車場の100mほど離れたところに本格的な白石駅が建設され、大正7年には札幌市の南の温泉地定山渓まで鉄道が敷設され(定山渓鉄道)白石駅がその起点となった。

 

一方、病害虫の為にリンゴ園は経営困難に陥っていた。リンゴ園主たちはその耕作地に札幌のススキノから遊郭を誘致することに成功し(大正7年)危機を乗り越えた。現在の菊水2~5条の1丁目と2丁目の間の通りの両側に31軒の遊女屋が立ち並び、白石駅開業と相まって白石村は繁栄を極めた。

 

昭和10年、北海道各地で多々発生する炭坑爆発事故に対処するため、白石駅の南側15800㎡の土地に札幌石炭坑爆予防研究所(呼称;爆発研究所)の誘致に成功した。

 

爆発研究所はその後、時代の変遷と共に名称および研究課題を変えつつ、平成13年北海道石炭鉱山技術試験センターの名のもとに閉鎖されその歴史の幕が下ろされた。

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        平成21年JR白石駅付近(白石区写真ライブラリーより)

 

さて、売春防止法に基づき白石遊郭が、さらに定山渓鉄道が廃止され、昭和51年に地下鉄東西線がJR白石駅から2㎞ほど南の南郷通沿いに開通する。

そして、JR白石駅周辺は、開発から取り残されたように動きを停止し、まるで博物館のごとく昭和のまま保存された。


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2.

経費節減の為か?もう何年も洗車していないと思われる鈍行列車をおり、平成23年に改修されたおしゃれな橋上駅舎の階段を登る。

改札をくぐり、アマチュアバンドの生演奏を鑑賞しながら、階段を降るとさっそく昭和の食堂が待っている。P8121582

昭和のアパートの路地裏をすり抜けると昭和の北海道の建物を象徴する台形の屋根が現れる。

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屋根を青いペンキで塗られたこの建物は過去の航空写真を見るとつい最近まで真っ赤にペイントされていたようで 、

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     昭和51年頃の航空写真(ウイキペディアより)

 

昭和22年ごろに米軍が撮影した画像にも映っていて、「白石歴しるべ」では北日本精機の建物として表記されている。

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 昭和22年米軍撮影航空写真(白石歴しるべより)

青屋根の南側はあの爆発研究所。

その15,800㎡の跡地は、試験場メインゲート正面に植えられていた一本の樹だけが残され、売り場面積3,000㎡強、250台の駐車スペースを有する巨大なスーパーマーケットに変貌し、深夜0時まで営業している。

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ビックハウスという名のそのスーパーは、意外なことに、秋鮭の切り身・シマホッケの干物・ホタテ・ホッキなど北海道産の水産物をほぼ横浜と同じ単価で販売していた。


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さらに南下すると素敵な赤レンガの建物に出くわす。

この建物も米軍撮影航空写真に存在し、看板の特徴から親子ワタの称号で有名な昭和14年創業の白崎繊維工業株式会社の工場だとわかる。

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昭和の街並みを堪能しながら連隊通りを南下し、国道12号を左に曲がれば、白石斎場の白い建物が右手向こうに見えた。

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咸臨丸とか次郎長とか? いったい・・・
2018/10/13 舛

 

参考資料

吉村昭;夜明けの雷鳴;文春文庫

咸臨丸子孫の会HP
木古内町観光協会HP
白崎繊維工業㈱HP

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