増上寺|崇源院|建長寺 ④
この文章は2022年12月に書いている。
増上寺徳川家墓所の考古学的調査(昭和33~35)により崇源院八角堂形宝塔直下の地中から掘り出された創建の宝塔は五つに分かれており、その高さは積算して5mを超す長大な石の彫刻物であったのに拘わらず、その後案の定、行方不明となっていた。
「増上寺|崇源院|建長寺」シリーズ①②③は2014年3月に記載した。
おりしもその同じ年に彼女の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部が見つかっていた。
場所は山梨県甲州市在の恵林寺というお寺の境内。
発見された宝塔の部位は下から二番目の塔身部。この内部に遺骨が納められていた。
その塔身(墓石)の調査報告書「高橋修:再発見にかかる崇源院(二代将軍秀忠夫人)墓石の碑文考」から、私の長年の疑問のほとんどが解消されたので是非ご一読ください(青色活字をクリックで原文にリンク)。
以下要約させて戴きました。
記
1.墓石
墓石の大きさは高さ82.4~84.5㎝、幅137㎝で、金箔の付着が認められることから、宝篋印塔全体に金箔が貼られていたと思われる。
2.碑文
【H.26今回の写】 【S.33発掘時の写】
(北面)
① 多少修繕奉持斎戒 多少修繕奉持斎戒
② 起立塔(像飲)食沙門 起立塔□□食沙門
③ 懸繒燃燈散花焼香 □□燃燈散花焼□
④ 以此廻向願生彼国 以此廻向願生彼国
(東面)
⑤ 天下和順日月清明 天下和順日月清明
⑥ 風雨以時災厲不起 風雨次節災厲不起
⑦ 崇源院一品太夫人昌誉大禅定尼尊儀
⑧ 国豊民安兵戈無用 国豊民安兵戈無用
⑨ 崇徳興仁務修礼譲 崇徳興仁務修礼譲
(南面)
⑩ 其有得聞彼仏名号 其有得聞彼仏名号
⑪ 歓喜舞踊乃至一念 歓喜舞踊乃至一念
⑫ 当知此人為得大利 当知此人為得大利
⑬ 則是具足無上功徳 則是足無上之功徳
(西面)
⑭ 夫尊像者三仏同証 夫尊像者三仏同證
⑮ 密意恒沙功徳照用 密意恒沙功徳照用
⑯ 己然真宗秘蹟稍異 己□真宗秘□□□
⑰ 右令寔以終窮極謐 有念寔以終窮極謐
⑱ 斉凡秘術世伏是宝 斉□秘□□伏是宝
⑲ 祚万歳天地久(長)黎 祚□威天地久裂□
⑳ 民快楽永々 此快楽永々
㉑ 寛永三年九月十五日 寛永三年九月十五日
㉒ 桑誉了的叟謹書 桑誉了白叟謹書
*旧字は当用漢字を充当、〇は便宜上の番号、(東面)等は発掘時の墓石方面、( )内の文字は推定。
*[筆者添付]S.33発掘時の写:「増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体」1967年 P.62~63より。アンダーライン部が異なる。
【現代語訳】
(東面中央部)
⑦ 崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼尊について
(北面)
①(崇源院が極楽に往生できるようにするために)多くの善行を積み、身を清め、
② この塔を建て仏像を造り、僧侶に食べ物を捧げて供養し、
③ また、懸繒(絹の天蓋を仏殿に懸けること)、燃燈、散花、焼香をし、
④ これら仏事の供養をすることで、崇源院の極楽往生を願うものである。
(東面)
⑤(そうすれば)天下はよくおさまり、日月はさわやかで、
⑥ ほど良い時に雨や風がおき、激しい災害は起こらなくなる。
⑧ 国土は豊かになり、民心は安定し、戦争もなくなる。
⑨(崇源院は)得を崇め、仁を興し、礼儀と謙遜の精神に努めた。
(南面)
⑩ 彼女のこうした行いから、崇源院という戒名を得たのである。
⑪(彼女は)計り知れない喜びを得ることが出来、
⑫ さらにこの戒名により、深い恵が(彼女に)もたらされるであろう。
⑬ これこそまさにこの上ない功徳である。
(西面)
⑭(増上寺に安置されている徳川家康の)尊像は阿弥陀三尊と同じである。
⑮ 数多くの功徳をなすとの意がひそかに込められている。
⑯ いまだに浄土宗の教えにまつわる秘術はそれぞれ異なっているが、
⑰ このことについて最終的な結論を出して、詳しく解き明かすことができれば、
⑱(また、)これら秘術を統一させてたならば、世の人々はそれを謹んで受け入れるであろう。
⑲(右の事柄が実現できれば、)宝祚万歳(天子の位がいつまでも続くこと)・天地長久(天地は永遠に続くこと)、
⑳ 庶民の喜びは永遠に続くことになる。
㉑ 寛永三年(一六二六)九月十五日
㉒ 桑誉了的が謹んで記した
3.作成時期
碑文番号⑦の「一品」とは「従一位」の意味で、朝廷から送られたのは彼女の死後2か月たった11月28日。
および、「徳川実紀」の<崇源院殿周忌法会始まる(寛永4年9月5日)>などの記載から、墓石制作完成は寛永3年11月末から同4年9月までと考えられる。
4.碑文の作者
『増上寺史資料集』1.内「了的伝」から、<桑誉了的(1567~1630)は増上寺第14世住持(1625~1630)。お江の葬儀の導師を務め「崇源院」の法号もこの人が授けた。
*筆者注:崇源院の墓は日本各地にあり、その一つが京都金戒光明寺の宝篋印塔で春日局が寛永4年に建立しお江の遺髪が収められていると言われている。桑誉了的は増上寺に来る前に京都金戒光明寺の侍従を務めていた記録があることからの因縁かもしれない。
5.崇源院墓の変遷
お江の死後、寛永3~5年(1626~8)の間に増上寺北廟に火葬骨を収めた宝篋印塔が、南廟に位牌を安置した霊拝所が建立。
寛永9年に2代将軍秀忠が死去し翌年台徳院殿霊廟が完成し、寛永11~12年(1634~5)に「江戸図屛風」に両霊廟が描かれる。
正保3~4(1646~7)にかけ崇源院霊拝所が立て替えられ以前の建物は建長寺に移築された。
北廟の宝篋印塔は、同時期の地震で周囲の灯篭や石垣が崩れたため、慶安元年(1648)5月3代家光にその造り替えを命じられ(徳川実紀)、同年9月22日の崇源院23回忌までに解体・埋設され、現存する八角堂形宝塔が発掘時の位置に建てられた。
6.宝篋印塔埋設理由
①正保2~慶安2年(1645~9)の間に江戸近郊に震度5程度の地震が5回も相次ぎ、地震原因=徳川幕府の悪政への天誅 との解釈回避および宝篋印塔倒壊回避。
②寛永19~20年(1642~3)の大飢饉による人民の疲弊への思慮のため、絢爛豪華から質素な宝塔への交換。
7.恵林寺に伝わった経緯
①1958年、第一回東京五輪開催の一環で増上寺域の一部の再開発が西武鉄道によって立案され、徳川将軍家墓所の調査開始。
②再開発に伴い千基以上もあったとされる石燈籠や将軍家宝塔は西武鉄道に引き取られ、所沢の西武園に移され、希望者に一部分譲。
③1968年、恵林寺に増上寺の石塔類(崇源院墓石含む)が搬入される。
④2014年、恵林寺内「信玄公宝物館」を中心とした調査により、恵林寺境内に現存確認される。
8.現状
2015年、恵林寺内信玄公宝物館内に搬入され常設展示、一般公開開始。
なお、恵林寺境内には他に13基の宝塔と将軍墓の石材類が存在している。
以上
最後に、高橋氏が素敵な文章を先の報告書の末尾に書いているので紹介しよう。
< 江(崇源院)の生涯は数奇を極めたが、彼女の墓石それ自体も不思議な縁に導かれながら流浪を重ねたのである。
昭和30年代に増上寺の地下から掘り出されてからは所沢に、さらに山梨県の恵林寺に移されたという変転の経歴をたどったのである。
だが、彼女の墓石の長かった旅もここでようやく落ち着くこととなった。>
2022/12/18 升
あとがき 1.
恵林寺でからくも日の目を見ることができた塔身部。
だが、付帯の相輪(長さ20.6㎝)、蓋(一辺190㎝)、球形(高さ75㎝・径115㎝)、台石(高さ85.0㎝・幅245.5㎝)はいまだ行方不明のままだ。
崇源院の宝篋印塔塔身が恵林寺に搬送されたのち、所沢では1979年の西武球場完成に伴い保管場所を失った石塔群が、記録不十分のまま、関東の寺院等に大量に放出されている。
付帯部分もその中に含まれているのか、あるいは、クラッシュされて漬物石に変身したのかわからない。
増上寺の石塔の所在に関する調査・研究を継続されている伊藤友己氏のサイト(増上寺の石灯篭 )では随時石塔発見情報を募集している。
道端に転がる不可思議な彫刻がなされている巨石を見つけたら是非サイトに報告してほしい。
総高5.15mに及ぶ宝篋印塔。
増上寺の地中に埋められてから今年で374年経過する今、再び組み立て直し金箔で化粧したかつての荘厳華麗な姿を仰ぎたい。
私の生きている内に。
残る疑問は、建長寺の「向う唐門」は増上寺のどこに建てられていたのか? のみになった。
あとがき 2.
臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺は甲斐武田一族の菩提寺で、1572年三方が原の戦いで徳川家康を蹴散らした半年後、51才で亡くなった武田信玄の墓がある。
信玄が逝った同じ年に産声を上げたお江の墓石の一部が信玄の眠る寺の境内で同じくしていることに少なからず違和感があった。
が、お江と二代秀忠の長男三代家光と桂昌院の四男で五代将軍綱吉の側近柳沢吉保が旧武田家家臣の出身であり、恵林寺で行われた信玄の133回忌の法要などに幕臣として参列し、墓も恵林寺にある。
ゆえに、世に悪名高い柳沢吉保の縁が恵林寺が増上寺の徳川家墓所の石塔を譲り受ける引き金となったと考えている。
引用文献
高橋修 再発見にかかる崇源院(二代将軍秀忠夫人)墓石の碑文考
図1・2は、鈴木・矢島・山辺編著「増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体」東京大学出版会 1967 から拝借。
あとがき 3.
信長に焼かれ、1606年家康が再建した現物。
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