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2023/09/09

吉津屋焼失

昭和30年代、小さな脚で走り回れる10分圏内だけが、私の宇宙全てでした。
幼馴染と駆け巡る野原や裏山、小学校へのイトミミズがたなびくドブ川沿いの小道は我が物顔のお庭だったのです。
緊張を強いられる場所は唯一杉田駅から繋がる「シンドウ」と称されていた商店街で、そこは都会の臭いが怪し気に漂う大人の居城で、なんでも手に入るアミューズメントパークでもありました。

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昭和30年ごろ

かつて、国鉄京浜東北線の延長で磯子駅から大船駅までの根岸線開設の計画があった時代。
この延長計画作成時に、既存の京急杉田駅を500m程南のJR線との交点に相互乗り入れ駅として移動する案が検討されたのは必然的なことだったと思います。

結局この斬新なアイディアは商店街の大いなる反対で廃案になり、JR新杉田駅は国道16号線の向こうに建てられ、京急杉田駅は動きませんでした。
既存の商店街が消滅するという理屈なのでしょう。

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1961~69 国土地理院航空写真に加筆

昭和45(1970)年、JR根岸線が磯子駅から延長され大船寄りに新杉田駅が開業されました。
新杉田駅は京急杉田駅から東へ直線的に「シンドウ(新道)」商店街を抜け約600m、徒歩7分の距離に出来ました。
そのため、京急線⇔JR線の乗り換えポイントとなり、商店街は地元の利用者の数倍いや数十倍の通行者で溢れるようになったのです。


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1974~78  国土地理院航空写真に加筆

相互乗り入れ駅の実現から得られたはずの利便性と、広大な面積の埋立地を控えた地域制からくる将来像は、近隣の上大岡地区に勝るものであった事は疑う余地はありませんでした。
JRと京急線が繋がれば必然的に市営シーサイドラインの始点にもなり、市営地下鉄も上大岡から杉田まで延長せざるを得ない状況になったはずでしょう。

結果として京急杉田駅周辺の再開発は量販店の入る高層マンション付きターミナルビル一棟が建てられてだけに留まり、「新道商店街」を含んだその他の地域は、昭和を色濃く残したまま平成を経て令和に引き継がれたのです。

 

激安の杉田商店街としてその名を横浜・横須賀地域に轟かせていた30年程前までは、八百屋・魚屋・肉屋・雑貨屋等が立ち並び、最盛期にはこの200m程の間に八百屋が3軒・魚屋2軒肉屋1軒が凌ぎを削っておりました。

しかし、東急ストア・スズキ屋・ビーンズ新杉田・0Kストア・イオンマイバスケットの巨大チェーン量販店が半径300mの範囲にまるで「新道商店街」の出入口を塞ぐ立地で聳え立ち、一挙に生活に密接する部分の店舗が「新道」から消失し、替わりに居酒屋とラーメン店及び怪しいディスカウント店がひしめく様に、様変わりしました。

居酒屋は何とかコロナ騒ぎを乗り切った様ですが、酔客が最後の〆に使っていたであろうラーメン屋はことごとくいなくなりしました。
現在では、薬屋や整体治療院やマサージ店などが幅を利かせるようになりました。
そんな中、ただの一軒、奇跡的に八百屋が絶滅を免れて生き残っていたのです。

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その八百屋が入る以前に、その店がどんな商売をしていた建物だったのかはもう記憶の外です。

今は大きな居酒屋になっている店舗に、昔ながらの八百屋が入っていました。平棚に野菜や果物を野積みして、青菜がしおれてしまっても平然と同じ値段で売り続けるのんびりとした店で、私でさえあまり利用した事がありませんでした。

ところが、その店のはす向かいに同業他社、そう八百屋が店を開きました。
その八百屋の商売は烈しく、店舗は小さいながらも新鮮な商品を山の様に積み上げ、しかも単価ははす向かいの同業他社の半値ほど。
明らかに対抗意識むき出しの商法に「のんびり八百屋」が店を畳むのに2週間は掛かりませんでした。

その勝ち組の八百屋も当初の屋号から既に三つほど店の名称が替わっています。
経営者そのものが替わったのかどうかは知る由もない事ですが、確かに、都度従業員が入れ替わってはいました。
しかし、商売のやり方そのものは屋号が変遷しても全く同じで、すなわち、仕入れは全て一流落ち品で、鮮度さえよければ形状にこだわらないという私の様な消費者にはうってつけといえます。

一階のすべてが店舗で二階が倉庫。
看板商品が陳列からなくなり次第、後から後から二階の倉庫から運ばれてきます。
商品には売価シールなど個々に貼られてはおらず、陳列棚に値札が立てられているだけです。
店長は、その日に売り切れそうもないと判断すると都度売価を下げ、またその逆もありです。

指示は店頭から「大根 赤テープ、今から70円!」等と口頭でレジに怒鳴るだけ。
レジの小母さんは「ハイ、ワカリマシタヨ」と片言の日本語で答えます。
すなわち、東南アジアご出身と思われるレジの小母さんは、日々変化する生鮮野菜の、更には同じ物でもテープの色で区別された、数十のアイテムの値段を開店前に全て記憶した上でレジを打っている事に他ならないのです。

この二人の他に男女二人、いずれもレジの小母さんのお仲間らしく、普段は片隅でスイカを切ってラップで包んだり、品出しをしたりしているのだけれど、レジに行列が出来るともう一つのレジに立ったりするオールマイティーな人達。
つまり、非常に生産性の高い機動的頭脳集団だったのです。

 

 

その日は数分前から緊急車両のサイレンの音が頻繁にしていました。
毎日のルーティーンで私は09:50に家を出ます。
散歩は日の出と共に既に消化済なので二回目の外出になります。
背中にバックパックを背負っているのは買い求めた食材の運搬のため。

家からかつてのドブ側を暗渠にし拡張された杉田小学校沿いの道を東に抜ければ、ほぼ直線で新杉田駅に着きます。
ほぼ7分。
途中イオンの「マイバスケット」顔を出し、グレープフルーツジュースと牛乳の3割引き商品を探していけば新杉田駅ビル1F内の食品売り場に、シャッター解放の10時丁度に到着します。

この食品売り場の一画にある魚屋は、私のお気に入りで、本社は三浦半島南端の城ヶ島にあります。
三崎港や長井港に水揚げされた地の魚を中心に、市場のその日の相場で店頭に並べる、近年珍しい正当な魚屋です。

近年のスーパーマーケットの魚売り場は、一年中同じ魚が同じ値段で並んでいる、つまらないものです。
ところがこの店は30円/100g等という法外な単価でイワシやアジを、時にはエビやカニを並べていたりします。
普通のスーパーマーケットで同様なことをすると「他の品物が売れなくなる」という、つまり店舗側利益だけの理由で、この様な飛び入り的売り方を排除しているようです。

例えば、定置網に思いのほか今日はアジが滅法入ってきたがどうやって裁こうか?と嬉しい悲鳴を上げている網元・漁協・生産者の立場に立ち、さらに、少しでも安く買いたいという購買者の利益、この双方の間に位置するのが市中の魚屋の勤めだと思います。

このお気に入りの昔気質のお店に開店早々に行く理由は、そんな獲れたて爆安の魚目当てだけでなく、早朝から商品ケースの向こうで捌いた魚のアラがその時間だけ並ぶからなのです。
アラ炊き、アラ汁、骨の剥き身、ただ同然のこれだけあれば美味しいご飯がいくらでも頂けます。

この魚屋で魚を見繕い、例の八百屋で糠漬けの材料を贖うのが日課でした。

 

しかし、その日は寄り道を余儀なくされました。
上空には2機のヘリコプターが私の頭を中心点に時計回りに同心円周上を爆音を立てながら旋回していました。

 


横浜 磯子 商店街で4棟焼ける火事 青果店から出火 けが人なし
2023年9月2日 11時47分 ―NHKニュースWEB―

 

<2日午前、横浜市磯子区の青果店から火が出て、周辺の店舗を含めあわせて4棟が焼ける火事がありました。
この火事によるけが人はいないということで、警察と消防が火事の原因など詳しい状況を調べています。
2日午前9時半すぎ、横浜市磯子区杉田1丁目の青果店で「2階のゴミ箱から火が出ている」と従業員から消防に通報がありました。

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NHKニュースWEBより

警察によりますと、火はおよそ3時間半後に消し止められましたが、この火事で、青果店が全焼したほか、周辺の店舗や住宅あわせて3棟の外壁も燃えたということです。
また、この火事によるけが人はいないということです。

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現場は、京急線の杉田駅からおよそ200メートル東の商店街で、警察と消防が火事の原因など詳しい状況を調べています。>

 

NHK他の報道の後、火災は広がり、隣接の中華料理屋とその裏手の居酒屋も類焼したようです。
事故から1週間が経った今でも商店街に煙の臭いが漂い、私は野菜の入手先に手をこまねいています。
これを機に、横浜市や消防署が望むこの地域一帯の、味気ない再開発の魔の手が伸びてこない事を願っています。

Photo_20230909162401

2023/09/09 升

 

 

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