沖縄モズクの三杯酢
1977年恩納村でようやく初水揚げを成した沖縄の養殖モズクはその後順調に生産量を増やし1990年に1万トン、1999年には2万トンに達し、全国のモズク流通量の99%を沖縄産で占めるようにまで成長した。
この産業成長の一大転機となった1998年に、私は偶然にも沖縄モズクの流通現場で、営業職を担っていた。
この前年に沖縄モズクが当時問題化されていた病原性大腸菌O-157への抗菌性を持つことが発表され、さらにモズクを含めた海藻類の接種で血液循環を改良するといった内容がメディアで取り上げられ、一大ブームに祀り上げられた。
同時に、何の因果か沖縄モズクの大不作が沖縄県の沿岸を襲った。
例年の1/10の水揚げに終わる漁場が相次ぎ、流通業界は混乱した。
私はこの年、市中央卸売市場の水産荷受のなかの寿司種等を扱う特種課の営業に籍を置いていた。
業務は全国の生産者から委託を受け市場内の仲卸業者へ販売するもので、営業職とはいわゆるセリ場のおっちゃんである。
三陸沿岸の活き殻付きホタテや静岡のニジマス等の他、沖縄産モズクの加工品(味付け3連パックなど)も私の担当アイテムの一つだった。
味付けモズクの取り扱い量は僅かだったが、販売先は全て常連の固定客。
体に良いと全国ネットでテレビ報道が相次ぐと、流石に早朝のセリ場で、見知らぬ仲買に声をかけられる機会が多くなる。
普通、この特種課は鮮魚を扱う仲買店が殆どの取引先なのだが、見知らぬ仲買の多くは塩蔵・塩干品や加工品を扱う業者で、一様に「俺んとこにも売ってくれ」とのアプローチ。
新米かつ腰掛営業職の私は大喜びで沖縄モズクのメーカー(荷主)にその由を伝え、出荷量倍増を要請した。
荷主の窓口担当はうる若き声を持つ女性だったのだが、喜ぶどころか悲鳴を上げた。
「無理です!」
「えっ?」
「ないんです、原料が!」
「うっ」
「新規どころか、明日から出荷量を絞ります。」
情け容赦のない毅然とした対応だった。
ないものは本当にないらしく、ニュースなどでも沖縄産モズクの極端な不作が報道されるに至って納得した。
だが、「ない」で済まされないのが信用第一の流通業界。
絞られた荷物を口八丁手八丁で仕分け販路を維持しながら拡大も同時にした。
すなわち、大口ひいき客相手の販売量を絞り、新規業者には「あんたにだけ特別に」である。
この仕分け作業は仲買がまだセリ場をうろつき出す前に密かに行う必要があり、私はこのためだけに連日モズクを積んだトラックが到着する午前1時にセリ場に向かった。
もちろん、メーカーには「搬入車の遅延は許されない」を約束させた。
この「あんたにだけ特別に」は微妙な蜜月関係を産み、モズク以外の商品の販売量も以前より増え、モズクの売上金額減を埋めるに充分に値した。
ある日のこと、トラックが来ない。
02時になっても、03時になっても来ない。
メーカーに電話してもこんな時間「本日の業務は終了致しました。御用の方は・・・」で埒があかない。
結局トラックが付いたのはセリ開始間際の04時半。
すべての仲買がワンワン見守る中「あんたにだけ特別に」モズクを乗せたパレットが降ろされた。
仲買達の罵声を一身に浴びた私は、その恨みを9時にようやく出社してきたと思われるメーカーの担当女性に思いっきりぶつけた。
過去女性には幾度も泣かされたが、若い女性を電話口で泣かせたのは後にも先にもこの一回きりである。
2023/10/10 升
参考文献
地域漁業研究 2009号2第,巻49第
沖縄モズク養殖に係る作況予察手法の検討 -戦略的生産目標の構築に向けて-
中央水産研究所 水産総合研究 富塚叙
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