密航船水安丸乗船者を追って⑭
泰二郎・通衛兄弟
後に甚三郎の後妻となったやゑのとの間に産まれた栄治・しま兄妹については両著書に詳しいが、先妻ういのとの間の兄弟に関する物語が極めて乏しく
二人の人物像は全くうかがい知れない。
以下は新田の著書から拾った甚三郎と先妻との間にできた兄弟に纏わるシーンの全てである。
明治29年 (1896) 、甚三郎初めてカナダに渡る。
明治32年 (1899) 、初回の一時帰国の後、甚三郎(45)は家族を伴って再び渡加する。家族とは、先妻ういの40才、長男泰二郎21才、次男通衛13才、それにやゑの17才である。
明治33年(1900)、泰二郎(22)倒れたういのに付き添って帰国し、ういのを看取る。
明治34年(1901)、甚三郎(47)やゑの(19)と結婚。
明治36年(1903)、甚三郎三回目の帰国時に横浜で英米商会を設立し、妻帯した泰二郎に鱒淵で合う。
明治38年(1905)、通衛19才、ハイスクールに通学。栄治3才と仲良し。
明治40年(1907)、甚三郎帰国、横浜で泰二郎と合流し、一緒に故郷で人材集めをする。
明治45年(1912)、通衛26才、大学を卒業しトロントの企業に就職。
大正 5年(1916)、泰二郎38才、横浜の英米商会を手放し18年ぶりに単身及川島来島。以降、及川島の経営を執り、甚三郎は帰国する。
大正 6年(1917)、甚三郎、やゑの、しま帰国。
大正13年(1924)、泰二郎帰国し佳景山の甚三郎に会う。
一方、山形の著書は以下である。
明治29年 (1896) 、甚三郎(40)初めてカナダに渡る。
明治32年(1899)、泰二郎(21)、通衛(13)、母うえのとやゑの(17)と共にカナダへ渡る。
明治33年(1900)、泰二郎倒れたういのに付き添って帰国しういのの死を看取る。
明治34年(1901)、甚三郎やゑのと結婚。
大正 3年(1914)、金華山丸(北洋漁撈株式会社所属)事件。
大正 6年(1917)、甚三郎、やゑの、しま帰国。
年代不明 、泰二郎、佳景山の甚三郎に会う。
昭和 2年(1927)、甚三郎死亡、泰二郎が遺体を鱒淵に運び頼光寺に埋葬。
総じると、兄弟は、明治32年(1899)家族と共にカナダに渡り、兄泰二郎は翌年病気の母と共に帰国し、そのまま大正5年(1916)までの間日本に留まり、大正13年(1924)までカナダで暮らし、その後帰国。
弟通衛は最初の渡加後そのままカナダの高校大学を卒業してトロントの企業に就職、という流れになる。
及川兄弟を書いたものが「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(中山訊四郎著)のなかの同胞人物観(宮城県)のコーナーp234・235にある。
「及川甚三郎君 同泰次郎君 同通衛君」というタイトルで、抜粋して下記意訳した。
図2 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)p274・275
『前略 泰二郎君は明治35年(1902)カナダに渡り、甚三郎氏が帰国し引退後、事業の一切を引き受け経営を続けた。泰二郎君も父君の志を受け豪胆なれど軽挙妄動を慎み、計算づくで事に当たる人柄。
しかし、北洋漁撈株式会社に挫折を招いた過去がある。同社は資本金20万ドルを以て組織され、前警視総監園田安賢氏を社長として神奈川に本社を設けて日加物産の輸出入を図り、先ず汽船金華山丸を雇用して日本貨物を満載しカナダに出航した。
フレーザー河の河口に入ったが、カナダの官憲から移民密輸の嫌疑を受け事件になったが事実を説明し無事に解決し、塩鮭等の物資を積み帰国を果たした。しかし、日本当局からの嫌疑をも喚起したことから株主多数の不安を招き会社は挫折に到った。
これは泰二郎君の最も遺憾とする所ではあるが、時の運であって如何ともしようがない。今は時代の趨勢を静かに観察して、資力の充実を期し、適当な機運に乗じて再起することを疑わない。
そして、益々地盤を堅め、ニューウエストミンスターの日本人会支部長に推挙され、育英事業に関わって幼稚園や小学校を設け、漁業を奨励するなど公共事業に多く携わり、同地の将来の発展のため誘導啓発に勉める一方、自ら経営する及川島に於いては野菜の栽培で好成績を挙げ、島首として威風堂々である。
通衛君は泰二郎君の弟。
早くからサンフランシスコで学び、カルホルニア大の商科を卒業した。
カルホルニアの各企業は礼を尽くして就職を促したが彼は総て断り、大正5年(1916)に及川島に来る。
及川島では島外の白人との折衝や、島内の労働者と共に飽きることなく事業に取り組んだ。
彼の性格は豪放な父親に似ず、着実謙虚で守備固め型の人で、同島の発展に欠くべからざる人材であったが、近年彼は日本へ帰り、某大会社の社員として今や重要な地位にあり、細心綿密なる手腕で大成するものと思う。後略』
「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)は、本シリーズの⑫で及川うんと吉江三郎の結婚を報じたニュースの切り抜きで、一度登場している。
山形はこの資料について、「この書は、大正期に流行した人物鑑のたぐいであり、利用するには、少々眉に唾をつけてかかる必要があるp144。」と評しているのでそれなりに読まないといけないようである。
数字で表された年代はなるほど怪しいが、及川甚三郎の業績や金華山丸事件など参考になる部分も多くある。
記事の書かれた年代は特定できないが、甚三郎が日本に引き上げた後のことも記載されていることから、大正6年(1917)から本書発行の大正10年(1921)の間と思われる。
図3「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行 中山訊四郎著)p482・484(注:傍線等書き込みは筆者)
図3の在留県人リストは、水安丸女性乗員の一人だった鈴木ひさよさんが亡くなり同時に甚三郎がカナダを引き上げた大正6年(1917)4月以前の記録と推定される。
この時期、泰二郎・通衛兄弟さらにとよ・うん姉妹、ともに及川島周辺で暮らしていたと考えると面白い。
「人物鑑」であるから、誇張はあるはずだし同胞を悪意ある中傷をもって書くはずもないだろうが、日本語の活字として泰二郎・通衛兄弟の人物像を表した貴重な資料と言える。
図4 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年・中山訊四郎著)広告欄
図5 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)p638(注:傍線は筆者)
同じく加奈陀同胞発展大鑑付録から複写したもので、「祝加奈陀同胞発展大鑑」とある図4は広告欄に。
図5は商店の住所録様のもので、新田・山形の著書にも度々登場するドン島(及川島)の隣ライオン島(佐藤島)の、佐藤惣右衛門氏も掲載されている。
両資料とも泰二郎一人の代表名で止まっていることや「祝」の意味から、加奈陀同胞発展大鑑発行年の、大正10年(1921)時点の現地状況を表したものと思われる。
甚三郎がカナダを引き上げた大正6年(1917)以降ひとり残された泰二郎が孤軍奮闘していた時代だ。
一方、ご当地カナダではフレーザー河周辺の鮭漁を中心とした水産業の歴史に関する研究の一環として、「及川島」に特定した研究(注1)も行われている。
引き金となったのは新田の著書を英語で翻訳したDavido Sulzの「Phantom Immigrants 」の出版(1998)である(原文はこちら)。
「Phantom Immigrants 」に関してはシリーズ⑥(こちら)で紹介したのでここでは省略する。
翻訳者のDavido Sulz氏は、その後も新田の著書を深掘りし、2003年にビクトリア大から「Japanese “Entrepreneur” on the Fraser River: Oikawa Jinsaburo and the Illegal Immigrants of the Suian Maru.(フレーザー川の日本人「起業家」:及川甚三郎と水安丸の不法移民)」と題する論文(原文はこちら)を発表している。
この論文の第二章「Verifying the Nitta Account(新田資料の検証 )」の中で、先の図2 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(p274・275)を伝記辞典として、その内容を引用したうえで、その内容を否定するかのように次のように書いている。
<In the Nitta story, Taijiro simply returned to Japan with Uino in 1900 and stayed there as the Yokohama connection until 1916 when he returned to Canada to assume control of the colony. Other sources, however, indicate much more for Taijiro. One, for example, indicates that Taijiro went to Japan in November 1908 and returned in July 1909; before and after this trip he was self-employed at Ewen’s Cannery in New Westminster. He was in Canada but unmarried between 1917 and 1919, and was still in New Westminster in 1926.152 While the biography in the Historical Materials also reports that Taijiro took control of Jinsaburo’s enterprises on the return of the “esteemed father” to Japan, it does not portray him as the administrator of demise:>
「新田の話では、泰二郎は1900年にういのと共に日本に帰国し、1916年にカナダに帰国してコロニーの支配権を握るまで、横浜のコネクションとしてそこに留まっているとしている。
しかし、他の情報源(JCNMA, Kobayashi, Issei Life Histories:注2)では、泰二郎についてもっと多くのことを示している。
例えば、泰二郎は1908年11月に日本に行き、1909年7月に帰国した。
この旅行の前後に、彼はニューウェストミンスターのイーウェンの缶詰工場で自営業をしていました。
彼はカナダにいたが、1917年から1919年の間に未婚であり、1926年にはまだニューウェストミンスターにいた。」
興味深いのは、新田は甚三郎がカナダを引き上げるまで泰二郎は一度もカナダに来ていないとしているが、日系カナダ人公文書館の資料では、ウエストミンスターで就業しながら日本とカナダを行ったり来たりする泰二郎の足跡が残されている。
原文、「He was in Canada but unmarried between 1917 and 1919,」とは一体如何なる意味なのだろう。
ちなみに、甚三郎がカナダを引き上げたのは1917年であり、1919年の出来事として思い当たることは木川田あき(及川とよ)の帰国(山形)ぐらいだ。
更に、リッチモンド市の公文書館に残されているバック鈴木(注3)インタビューのボイスレコーダーから、
<This son was one of the first Japanese playboys, I guess. He was very well acquainted with the aristocracy over in Victoria [inaudible] wonderful [inaudible] even though he was a married man in his own right, he had money, he spent [inaudible] father’s money [inaudible] he had a grand time”>(RCA- Richmond City Archives, Buck Suzuki interview. )
「この息子は、日本で最初のプレイボーイの一人だったと思います。彼はヴィクトリアの貴族階級と非常によく知り合いだった[聞き取れない]素晴らしい[聞き取れない]彼は既婚者であったにもかかわらず、彼はお金を持っていて、父親のお金を使い、素晴らしい時間を過ごした」
と、Sulzはバック鈴木の声を書きとっている。
そして、Sulzは結論として次の様に述べている。
<Finding the truth of Taijiro in this triangle of historical novel, laudatory biographical dictionary, and memories of someone who may have known him in childhood would be an intriguing challenge, indeed.>
「歴史小説、称賛に値する伝記辞典、そして幼少期に彼を知っていたかもしれない誰かの記憶のこの三角形から泰二郎の真実を見つけることは、確かに興味深い挑戦です。」
<According to Nitta, the other son, Michie, attended school in Vancouver and university in Toronto; he was the educated son who chose to move away and assimilate rather than return to the family enterprise. However, the biography of the three Oikawas noted above states that Michie studied Commerce at California State University and turned down lucrative offers in San Francisco to return to Lion Island in 1916. His skills lay in communication with non-Japanese and Japanese from all walks of life; he was meticulous, modest, and conservative. At the time the biography was written, he had recently returned to Japan to take a prestigious position with a large firm. Whatever the truth of these two sons, further investigation would likely show them to have had more involvement with Jinsaburo, and more interesting lives, than Nitta credits them with.>
「新田によると、もう一人の息子通衛はバンクーバーの学校に通い、トロントの大学に進学した。
彼は教育を受けた息子で、家業に戻るのではなく、離れて同化することを選びました。
しかし、3人の及川達の伝記は、通衛がカリフォルニア州立大学で商学を学び、1916年にサンフランシスコで有利な申し出を断り、ライオン島に戻ったと述べている。
彼のスキルは、外国人やあらゆる分野の日本人とのコミュニケーションにありました。
彼は細心の注意を払い、謙虚で、保守的でした。
この伝記が書かれた当時、彼は日本に帰国したばかりで、大企業で名誉ある地位に就いていました。
この二人の息子の真相がどうであれ、さらなる調査により、新田が信じているよりも、甚三郎と関わりがあり、興味深い人生を送っていたことがわかるだろう。」
バック鈴木は甚三郎がカナダを引き上げる前年の大正5年(1916)及川島生れである。
新田が「妻を残し単身で再び泰二郎が及川島に来た」としている年でもある。
その時泰二郎38才、その後泰二郎が在加していた(Sulz)とする1926年にバック鈴木はようやく10歳。
泰二郎と面識があったとしても「プレイボーイ」「貴族階級」「父親の金」などという言葉は、恐らく彼が成人した後、父親や周りの大人たちからの受け売りでだと考えるのが自然だ。
だとしたら、バック鈴木の語ったこの逸話は当時の関係者すべてに周知されていた事実なのかもしれない。
引用文:①「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)
②Japanese “Entrepreneur” on the Fraser River: Oikawa Jinsaburo and the Illegal Immigrants of the Suian Maru. by David Kenneth Allan Sulz
© David Kenneth Allan Sulz, 2003 University of Victoria
注1 論文例「 The History of the Japanese Fishing Village on Don and Lion Islands and the Effect of Racism」(こちら)。
映像は「Japanese History on Don and Lion Islands」(こちら)。
注2 JCNMA, Kobayashi, Issei Life Histories :日系カナダ人博物館・公文書館、小林、一世ライフヒストリー
注3 バック鈴木:山形の著書第3章に詳しく紹介されている人物。水安丸乗船者の一人鈴木源之助氏の長男、戦後日系漁民を率いて、対立していた白人漁業組合と和解し、新しい漁業労働者組合結成の立役者。甚三郎の帰国前年の大正5年(1916)生れ、昭和52年(1977)死去、61歳。
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