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2024/03/02

密航船水安丸乗船者を追って⑮

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東和じかんHP(こちら)より

北上川は本来、岩手県八万平市から奥羽山脈沿いを盛岡市・一関市・登米市を流れ、石巻から仙台湾に注ぐ河川だった。
登米市の南の端にある氣仙沼線の終点柳津駅付近から、氾濫を繰り返す北上川を東に逃がす、治水工事が始まったのは明治44年からの事。
従って、及川甚三郎が若い頃に使った水運ルートは現在の旧北上川と呼ばれる流れに違いなく、翁の生き様のごとく正に一直線の流れである。

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鱒淵川(画像下)と頼光寺(赤印)

仙台から海沿いを走っていた三陸道は、石巻から海岸を離れ旧北上川沿いを北に遡る。
東和町登米東和ICを降りて、大きく蛇行する北上川を二度渡り支流の二股川沿いを北に5Kほどにある、道の駅林林館から右折して県道233号に入る。
馬籠東和線と呼ばれるこの街道は、二俣川の更なる支流、鱒淵川沿を縫うように走り、東に進めば馬頭観音華足寺、細越の及川屋敷、甚三郎の生家小野寺家の屋敷にたどり着く。
そう、この「幅二間ほどの」小さな川の流域が物語の始まりの地域だ。その入り口にある小高い丘の上に甚三郎終焉の地がある。


Photo_20240204171401頼光寺入り口、右手が山門
国道から二俣川にかかる飯土井橋を渡り、最初の左の分岐を曲がって鱒淵川沿いの細い道から再び小さな橋を渡って鱒淵川を越える。
突き当りを左折し道なりに進む。
車がすれ違えないほどの、轍が砂利に食い込んだ細い道だが、川沿いには石塀に囲まれた広く重厚なお屋敷が並んでいる。
道は直ぐに鱒淵川を離れ右にカーブすると田んぼが連なり景色が急に広がる。
二俣川が削り取り運んだ土砂が作った盆地だろうか。
Photo_20240205091101頼光寺本堂

二俣川と鱒淵川のつくる鋭角な交点に、クサビを打ち込むように迫る山肌の三角の頂点に、古刹がある。
名を表したものは何もないが頼光寺だ。
赤い涎掛けと毛糸の帽子を被った地蔵さんに迎えられ、小さな山門を潜った先にある石段を登る。
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石段を登ると広い境内の向こうに赤い屋根の本堂があった。

ようやく明るくなった朝の6時、境内には人の気配はない。
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裏山の斜面はお墓の団地、この中から探し出せるはずがない、どこもかしこも「及川」の姓ばかり。


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諦めて踵を返すと鐘楼の向こうの斜面にもお墓がある。



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段々畑をめぐるあぜの様な小道を本堂脇から登っていくと目の前に「細越」「及川家の墓」と刻まれた、南に向く、大きな石が現れた。


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鱒淵の及川家の菩提寺頼光寺の墓地には「及川家の墓」と刻まれた石碑があり、裏面には「昭和四年七月泰二郎建」とだけしか記されてはなかった。」ー密航船水安丸p342―
昭和53年(1978)11月、新田が訪れ描写した通りに文字が刻まれた大きな石が、まるで私を呼び寄せるように、そこに起立していた。

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脇には法名碑があった。
新田の著書にも山形の「失われた風景」にもこの法名碑について触れていない。

そこには、
祖英端院基航領鑑清居士 昭和2年四月四日 甚三郎 74才
盛心院實譽妙勝大姉   明治36年1月15日 甚三郎妻うゐの 45才
祥光院泰翁天瑞居士   昭和26年12月19日 泰二郎 74才
浄光院泰室貞道大姉   昭和24年12月29日 泰二郎妻みゑ 73才
義敬□楽滑大姉      昭和3年6月15日 敏子 18才
と刻まれている。

その内容からかれらが頼光寺を訪れた後に置かれたものと考えるのか普通だ。
山形は、
うえの(ういの)さんが、甚三郎さんに呼ばれで、カナダに渡って一年経ったか、ただねうちに思い病気を患ってねす。それで細越さもどされできてねす。すぐ亡くなられたのです。村中大騒ぎだったですね。」ー「失われた風景」p119ー
新田は、
ういのは十月の末にサンバレーを出発して、故郷に帰ると、一ヵ月半ほど病床にあったが、終に空しくなった。ー中略ーういのが死んだのは明治三十三年(1900年)をあと数日残す、寒い日であった。」ー「密航船水安丸」p118・p120ー

と、それぞれ甚三郎の先妻ういのの死の経緯を、カナダから鱒淵に帰国後「すぐ」あるいは「一か月後」としている。
さらに新田は、享年を明治33年(1900)12月末と特定している。
ういのの帰国を明治33年(1900)10月末とするならば、頼光寺にある法名碑のうゐのの命日、明治36年(1903)1月15日までの間に2年余の時間が流れていることになる。
ういのが安政6年(1859)生まれとすると碑に刻まれた享年45歳は計算上間違えはないが、2年余の時間は普通「すぐに亡くなった」とは云わない。
Photo_20240205091701                 及川家の墓から見る日の出

一方、この時間差はさらなる問題を引き起こすことになる。
新田によれば、甚三郎と後妻やゑの結婚は、彼らがサンバレーからドン(及川)島に引っ越した明治34年(1901)だとし、やゑのの第一子栄治の誕生はその翌年の明治35年(1902)としている。
つまり、頼光寺法名碑にある先妻の命日から計算される存命時に、あろうことか、甚三郎はやゑのと結婚し子までなしたことになってしまう。
この時間差はさらに尾を引く。
法名碑にあるうゐのの命日明治36年は新田が書く甚三郎が二度目の帰国をした年で、横浜に英米商会を設立した年でもある。
この時、頼光寺のうゐのの墓標の前で、彼女の死因が甚三郎による強制労働によるものだとする地域の噂を耳にする件も記されている。
そして、翌明治37年(1904)には長女しまも生まれている。

そのしまが、カナダから引き揚げ来た13歳の時(1917)、横浜にある泰二郎の家を訪ね<母より若い義姉と自分と同じ年位の甥に会った>と新田は書いている。
泰二郎妻みゑの命日と享年から、彼女は明治9年(1876)生まれで泰二郎の二歳年上女房で、しまとの対面時は41才。
しまの母親やゑの(当時35)より6歳も年上だがよほど若造りな女性だったのか?
同年代の甥の行方は判らないが早逝した当時7歳だった敏子(娘?)が一緒に葬られている。


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及川家の墓から北上川方面を望む
及川とよは少なくとも二回ここ頼光寺を訪れている(山形)。
甚三郎の葬儀の際と終戦後の食料の買い出しを兼ねての時だ。
共をした妹うんの娘ビアトリ―チェによれば、仙台から列車とバスを乗り継ぎ、あとは北上川の土手沿いに遠い一本道を歩いたという。
二人並んで墓前に腰を下ろして、木の葉がふれあう音を聞いていたという。
「(佳景山の)及川甚三郎の墓は山を背にした見晴らしの良い小丘にあった。

黒御影石の墓碑の表面には「及川家の墓」と深々と彫りこまれ、側面には、
祖及川甚三郎ハ幼名良治、登米郡米川村大字鱒淵下台家小野寺十郎治ノ三男二生ル。細越家ニ入リ、祖父及川甚三郎
義保ノ名蹟ヲ継グ。国内産業ニ力ヲ致シ、外英領加奈陀BC州ニュウウエストミンスター市ライオン島ニ拠シ、加奈陀フレーザー河漁場ヲ開拓ス。今ニライオン島ハ及川島ノ称アリ。帰来、桃生郡鹿又村字佳景山ニ住シ、コノ地ニ歿ス。鱒淵頼光寺ニ葬ル。事跡ノ概要ハ鱒淵華足寺ナル彰徳碑ニ明ラカナルモ、自叙ニヨレバ詳シクソノ事跡ノ企画ノ壮大ヲ想望シ得。内助ノ妻やゑのハ鱒淵染谷家ニ出デ栄治、志まノ二児アリ。栄治ハフレーザー河ニ於テ水死シ、志まハ細越家ノ分岐トシテ家系ヲ継承シタ。児孫コレヲ照鑑セヨ。
西紀一九六九年九月 二代及川亮一郎
そして、この墓碑の裏には次のように記されていた。
祖英端院基航領鑑清居士 昭和二年四月四日 及川甚三郎 七十四歳
英媼院随応貞節清大姉 昭和三十八年一月二十日 及川やゑの八十一歳
中略
鱒淵の及川家の菩提寺頼光寺の墓地には「及川家の墓」と刻まれた石碑があり、裏面には「昭和四年七月泰二郎建」とだけしか記されてはなかった。
私は、この二つの墓(佳景山の墓とこの墓)を頭の中で比較しながら、また振り出した冷い雨に打たれていた。」ー密航船水安丸p342―
ようやく泰二郎の足跡を見つけた。
2024/03/01 升
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