海王丸
1.
駿河湾奥のアパートの2階の窓から海が直ぐそこにあった。
直下にコンクリートの護岸が走っていたが、それでも不安だったのだろう、護岸の向こうにテトラポットの山を築いた。
護岸とテトラポットの間に20m程の空間が出来上がり、近隣の住民が勝手に畑にしていた。
おのずと、護岸を梯子で下り、畑を横切り、テトラをよじ登って越え、僅かばかりの波打ち際に出る者はいなくなった。
時化の翌日、誰も来ないその波打ち際には駿河湾特有の深海魚が打ちあがっていて貧乏学生の食料になった。
アパートの窓ガラスは塩がこびり付いていていつも視界がわるい。
ある朝、窓を明けると水平線に奇妙な物が浮かんでいる。
二階の窓から水平線までの距離は10㌔ほどか。
地球は丸く、遠くから近づいてくるものは、上の方から見えてくる道理がある。
始め、チビ太がいつも持っていた串に刺したおでんに見えていたが、やがて火の見やぐらになった。
それが帆船だと気が付いたのは、やぐらが次第に横に広がりその下から、真白い船体が見えた時。
御前崎と石廊崎の間を抜けて来て、清水港に入るため、取舵を切ったに違いなかった。
1975年当時、匹敵する船舶は日本丸と海王丸の二隻。
そのあと、江尻ふ頭まで行って高いマストの先端をまじかで見たのだが、この朝目撃した船が、どちらだったのかは残念ながら失念した。
『操舵は舵輪を操舵手が持ち操船者(船長・航海士)の号令で舵輪を回します。操舵手は操舵号令を受けたなら直ちに復唱し、命ぜられた通に操舵を行い、操舵終了後直ちに報告します。舵輪の回転による舵の角度は、船橋前面の舵角指示器に示されます。』
操舵号令:例
Midship ミジップ…舵を中央にする。
Port five ポートファイブ…左に舵角5度まで舵輪を回す。
Star board ten スターボードテン…右に舵角10度まで舵輪を回す。
『帆走中はこの舵輪で操舵します。通常は2名で行いますが、時化てくると舵が重たくなるので4名で舵を回します。』
『帆走中、航海士と当番実習生はこの場所の風上側に立ち、常に海面や水平線付近の雲の動きに注意し、風や天候の急変に備えます。どんなに風雨が烈しくなってもこの場所でセール全体を見渡し、進路の保持及び船体の安全ために必要な指示を行います。』
興津の私のアパートの目の前で、50年前、真っ白い横腹を見せたのはPort tenを実行した瞬間だったのだろうか?
2.
神戸の川崎重工業で昨秋、国内最大級の潜水艦「らいげい(雷鯨)」の命名・進水式があった。
たいげい型四番艦らいげいは全長約84メートル、幅約9メートル、高さ約10メートル、排水量3千トン。
ディーゼルエンジンで電気を作り、リチウムイオン電池に蓄めた電気で水中を時速40kで音もなく進む。
ステルス性に優れ、最大6人の女性自衛官が乗れるように、女性用寝室なども整備していると言う。
同社の前身川崎造船は戦艦榛名、空母瑞鶴、伊型潜水艦等、数々の日本海軍の艦船建造の実績がある。
海に溶け込むネズミ色の艦船が続続と産まれていくその脇で、白亜に輝く4本マストの姉妹帆船が神戸の海に進水したのは1930(昭和5)年の事。
1月27日に進水した姉船は日本丸、次いで2月14日に進水した妹船は海王丸と命名され、二隻とも文部省航海練習所の所属として、多くの実習生を乗せて訓練航海を行った。
太平洋戦争の最中には全身灰色に塗り潰され、帆装も取り外されて石炭輸送業務に使用され、そして戦後は復員船の務めも果たした。
「海の貴婦人」の名を取り戻したのは1955(昭和30)年のことで、引退する1989(平成元)年までの間に地球50周分の106万海里の海を航した。
日本丸は1985(昭和60)年に、海王丸は1989(平成元)年にそれぞれの二世に業務を引継ぎ引退した。
現在、日本丸は横浜市によって横浜港みなとみらい地区日本丸メモリアルパークに、海王丸は公益財団法人伏木富山港・海王丸財団により射水市海王町海王パークに、係船され一般公開されている。
日本丸は明治期に造られたドック内に浮かんでいるため波浪で揺れることはない。
周囲の海面を囲っているだけの海王丸、「揺れるよ!」チケット売りの小母ちゃんが脅かす。
両船とも定期的に検査を受けており、船舶検査証明書を保有、現在でも平水区域での航行が認められている。
ちなみに、平水区域とは、河川、湖沼や港内と、東京湾、大阪湾、伊勢湾など法令に基づいて定められた51カ所のエリアのことで、外海に接していない穏やかな水域のことだ。
すなわち、日本丸は東京湾の観音崎と富津岬を結ぶライン、海王丸は富山湾の富山港と能登小木港をL字に結んだラインの内側なら、いつでも94歳の妖艶な姿で走り抜ける事ができる。
海王丸では船長はじめ乗組員の名簿を発表し、抜錨の機会を窺っている。
それぞれの二世も今40才と35才となって老齢の域に達している。
引き受け先は?廃船か?
建造費だけでなく維持費も高額につく次の帆船を新造する必要があるのか?
造船技術の継承は?
デジタル時代の海事訓練にそもそもアナログ帆船が必要か?
などの議論がとうに巻き起こっている。
日章旗で着飾った700億円する潜水艦のよりも、真っ白い船体にブルーのストライプ日本丸Ⅲ・海王丸Ⅲの進水式を近い内にこの眼で見たいものだと思っている。
2024/05/01 升
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