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2025/03/25

君のお父さんのこと

Ⅰ.札幌川沿町
1972年に札幌オリンピックの開会式が行われた真駒内野外競技場の豊平川を挟んだ対岸が川沿町になります。
札幌市を南北に流れる豊平川に大きな橋がその時にかけられ、今でも五輪大橋と呼ばれています。
期間は2月3日から10日間だったので、池永さんがこの町で暮らし始めたその年の四月にはもう、五輪の喧噪は過去のものになっていたかも知れません。
私はまだ都立高校に通う高校生だったのですが、受験勉強中の深夜放送でよく流されていた「トワ・エ・モア」が歌う「虹と雪のバラード」が大好きで、今でも札幌の地下鉄の駅に佇んでいたりすると思わず口ずさんでしまいます。

♪虹の地平を歩み出て 影たちが近づく 手を取り合って
    町ができる 美しい街が あふれる旗 叫び そして唄
        ぼくらは呼ぶ あふれる夢に あの星たちのあいだに
            寝むっている 北の空に 君の名を呼ぶオリンピックと♪
だったでしょうか。

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国土地理院航空写真(1974~78)

札幌市南区川沿町は豊平川の流域が造り上げた狭い平坦地にあり、西側はすぐ山が迫っています。
その山の中腹に東海大学が工学部札幌教養部キャンパスを置いたのは1967年のことで、翌年には海洋学部教養課程も併設されました。
原野を開いた立地で周りになにもなく、大学側や誘致した札幌市などの要請で周辺の集落に学生の下宿屋が急速に建てられ、川沿町はまさに城下町ならぬ学園下町となりました。

ほとんとが4畳半ほどの部屋を10~20室抱え、朝晩の賄い付きで3万円/月程度。
トイレや洗面所、洗濯機は共同で風呂は近くの銭湯を利用します。

なにぶん寒いので建物はしっかりしていて窓も二重にガラスが入っていました。

私はバス道りに近い川沿6条3丁目の千坂荘にお世話になっていました。
陸上自衛隊を引退した親父さんとその奥さんが経営していて亡くなるついこの間まで賀状のやり取りが続いていました。
奥さんが一人で20人分の食事を作り、朝などは食べに来ない学生を起こしに廻る位の世話をやいてくれます。
池永さんは、私の下宿から150mほど離れた、川沿町のメインストリートを挟んだ向こう側の下宿屋の2階を借りていました。

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朝飯をたらふく食べて下宿を出ます。
キャンパスまでは直線距離にして1.3km程ですが、標高差がおよそ140m程もあります。
急ぎの場合は、途中にあった東海四高脇の登山ロープが張られた崖っぷちを這い登って文字通り登校しますが、余裕がある時は、キャンパスの下に広がる森に囲まれた湿地帯を抜けていきます。

新学期の頃は、丁度雪解けで凛とした冷たい空気の中、シラカバの林の下に水芭蕉の真白い苞がたくさん開いています。
時には、体毛に白い斑点のあるバンビの様なエゾシカの子供が現れ、まるでイソップ童話の中に迷い込んだ様な気分になる素敵な環境でした。


入学式のセレモニーに引き続きオリエンテーションが始まります。

終わると、新入生は様々なサークルの先輩に取り囲まれて入部の勧誘を受けます。
その時に私の袖を引っ張った人が池永さんで、所属はラグビー部でした。
彼はあてずっぽうで声をかけたのでしょうが、高校時代の3年間ラグビー部に所属して全国大会東京都予選の決勝まで進んだ経験のある私にとって興味あるお誘いで、早速お世話になることにしました。

東京の実家に置いてきたラグビースタイル一式を送ってもらい練習に参加して始めてこのチームの異様さに気が付きました。
このキャンパスは工学部と海洋学部の二学部の教養課程が置かれています、解り易く言い換えれば、1年生と2年生しかいないという特異な学び舎です。
要するにラグビー部も新入生にとって上級生は2年生しか存在しなく、進級後はそれぞれ東京や静岡キャンパスに移るため在りがちなOBの影響もなく、ラグビープレイを知る教員・指導者もいない、稀に見る間口の狭いチームなのです。
更に奇妙なことは、先輩の2年生は昨年からラグビーを始めた人ばかりで、私から見ると体力は別として技術的には素人の集団でしかありません。
主将の飯塚さんは群馬のレスリングのインターハイ代表だった巨漢で、副将の池永さんは確かサッカー経験者、他は陸上部や登山部の他スポーツ未経験者も数人いました。
新入生は8名で私以外に経験者が一人いるだけでした。

そんな和気あいあいの集団にも大学側から押し付けられた顧問の先生がいました。
化学の講師を務めていた工藤先生でラグビーのルールすら知りません。
練習グランドには一切出向かないものの、飲み会だけは必ず顔を出します。
山の麓を流れる豊平川の河原で行われた新入生歓迎コンパで始めてお会いした時、
「バンコバンコ飲め~!」
と、道産子弁丸出しで札幌の銘酒「北の譽」の一升瓶を振る舞われ、はじめて酒で記憶をなくしました。

そんな時期に春の新人戦が開催され、四学年のそろっている北海学園大に惨敗したのは当然の成り行きでした。
(「北回帰」参照下さい。)

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ラグビー部の練習グランドは校舎裏の陸上場→野球場を階段状に降りた一番下のスペースで、学外地域との遮蔽物もなく誰彼も立ち入り自由なところです。
ある日、麦わら帽子に作業ズボンそして猟犬を従えたごついオッサンが突然現れ、夕日を背にして腕を組み我々の練習を眺めています。
やがて近づいてきて
「お前らにラグビーを教えてやる。その代わり俺の仕事を手伝え」
と云います。

あしたのジョーの丹下団平に似たオッサンは、聞けば名門明治大ラグビー部のOBで植木屋を営んでいて、国道脇に街路樹を植える仕事のバイト生を募集しているという。

約束事が成立し、朝の4時からトラックにノルマの幼木を満載して出発、カチカチの北の大地を手掘りして植え、支柱を立て、真っ暗になってから豆が潰れた掌を持ち帰るという、鬼のスケジュールの繰り返し。
北の大地の植木屋は雪のない半年が勝負なのです。

イチョウやナナカマドだったでしょうか、今の小樽駅前界隈の街路樹は池永さん達と植えたあの幼木が成長した姿です。
北海道を訪れる機会があれば是非訪ねて行ってください。
(「べレンツ」参照下さい。)

週末には下宿の連中やラグビーの同期等と連れ立って、バスで30分ほどのすすき野に繰り出す(千円札1枚あればディスコの走りの様な薄暗いところで朝まで騒げました)のが常でしたが、池永さんとはそういった思い出はありません。

そのころからサークル活動とは別に私と池永さんとの間には個人的な付き合いが出来上がっていて、川沿町の互いに徒歩5分程の下宿の間を、酒が手に入ると、夜間行き来するようになっていました。
当時、私たちの様な貧窮学生はトリスウイスキーかサントリーレッドと相場は決まっていましたが、何事も渋い池永さんの好みは1ランク上のサントリーホワイトで、部屋にはレコードプレーヤー付きのコンポーネントステレオが置かれ、いつも静かなジャズが流れていました。

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日々丹下団平率いる猟犬べレンツに鍛えられ、夏休みには群馬県の赤城山で合宿を行い、秋の全道学生選手権大会で札幌キャンパス史上始めての勝利をえたことは先に報告しました。

秋が深まるとキャンパス内で体育大会や学園祭のシーズンになります。
サークル対抗マラソンというイベントが体育大会にあり、ラグビー部は我々1年生全員が先輩命令でエントリーさせられます。
距離は数キロだったと思いますが、山の中のキャンパスだったので正にクロスカントリーの様相で、きついコースでした。
要所要所にチェックポイントがありそこを通過しないと失格です。
各チェックポイントには先輩が待機していて水分補給もしてくれます。
池永さんの立つポイントで紙コップを一気に飲み干すとそれは銘酒「北の譽」でした。

学園祭に焼き鳥屋の模擬店を出すことが決まり準備をしていると先輩たちに呼ばれ、
「フォークダンス大会を主催する事になった。升よ、ひとっ走り女を集めてこいや。」
と理不尽な体育会系特有の命令です。
うしろの方で池永さんもニヤニヤ笑っていました。

言うまでもない事ですが、海洋学部も工学部も女学生は100人に1人の割合で、学務課の事務員を含めても10人程度の女性しかいない現実がありました。
男ばかりのフォークダンスほど気持ちの悪いものはないでしょう。

体育会系の理不尽には断れない掟があるので、電話帳で女子短大の住所を探し、恥を忍んで女の園へこうべを垂れに訪れます。
何軒目かの短大には保育科があって、たまたま体育館でフォークダンスの実習が行われている最中に出くわしました。
若い女性ばかりのフォークダンスは華やかなものです。

早速リーダーらしき人を見つけ、事情を説明すると、快諾をいただきました。
当日は先輩方に車で女学生陣をお迎えに行ってもらい、そのまま体育館でフォークダンス大会。
焼き鳥屋担当の私たちは、ダンス大会にも参加出来ず、チビチビ飲みながら串を焼いていました。
大会が終わり先輩たちが彼女たちを伴って模擬店に現れた頃にはもうベロベロ状態。
その時の私の醜態を見て呆れて帰ったというリーダー役のお嬢様が、それから6年後に私と結婚し伊万里の池永さん宅に一緒にお世話になることなど、その時だれが想像できたでしょうか?

学園祭が終わると札幌は雪に覆われます。
体力の有り余っている私たちはそれでも張り切ってグランドに集まります。
イギリスの貴族達が造り上げたラグビー憲章には「一度決めた約束は命がけで守ること」があります。
現在はグランドの維持管理上この憲章を全うすることは叶わなくなりましたが、要するに、試合の約束をしたら、雨が降ろうと雪が積もろうと、中止はありえない、ということで実際半世紀前の早明戦や日本選手権試合など雪上戦の映像が残っています。
雪上戦の練習も必要だとして雪中行軍を始めますが、蹴ったボールがスポンと向こうの雪の中に埋まり、どこにあるのかも判らなくなります。
それを拾いに膝まである雪をかき分けて走るだけで体力を使い切り、もうやめようという事になりました。

以来、グランドで集まることもなくラグビー部とは名ばかりのサークルと化して冬ごもりとなりましたが、池永さんとはどちらかの下宿で、カチカチの氷下魚の干物を石油ストーブで炙りながらサントリーホワイトを度々交換し合ったものでした。
そうして3月の移動の時期を迎えることになります。

この年は、大学としても大きな転換期で、それに伴って学生達の移動も複雑なものでした。
先ず、札幌校舎から海洋学部がなくなり、それまで工学部の二年間だけの教育課程だったものが四年生の学部に昇格する事になります。
従って、ラグビー部の仲間の中で工学部の学生はそのまま新学期も札幌校舎に通うことになり、顧問の工藤先生ともども我々海洋学部生とはここでお別れです。

海洋学部生は更に複雑で、新3年生は海洋学部の本校舎である静岡県清水市の折戸校舎に通うことになり、海洋学部航海専攻科の池永さんもこのグループに属します。
私たち海洋学部新2年生は、1年前に創建されたばかりの静岡県沼津市の沼津校舎に通うことになります。
折戸校舎は今や世界遺産の名勝「三保の松原」の入り口に位置し、沼津校舎は新東名道の駿河湾沼津SA近くの愛鷹山中腹に立地していて、車や電車でも1時間ほどの距離でしたが、それぞれの通うキャンパス近くにみな部屋を借りたため、池永さん始め海洋学部の先輩たちともここで一旦お別れとなりました。

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1973年9月 交通公社時刻表

それにしても、池永さんは伊万里と札幌をいかに往復していたのでしょう?
当然サントリーホワイトを交わしながらそんな話もツマミのひとつになっていたと思いますがもう忘れてしまいました。

あの当時、国内航空路線に「スカイメイト割引」と云うものがあって、航空機に空席があれば学生に限って半額で乗れるサービスです。
当然予約は出来ず、出発空港のカウンターで空席待ちの整理券をもらい座席が空き次第順番で搭乗ができるという気の長いシステムで、人々の移動シーズンなどは空港に泊まり込む覚悟をもった若者が寝袋持参で利用するものでした。

今でこそ福岡⇔札幌は2時間余りのフライトですが、あの頃はまだ直行便はなく羽田を経由する便しかありません。
したがって、池永さんが飛行機にこだわっていたとしたら、福岡か札幌の空港で一泊、中継の羽田でもう一泊する覚悟がないと叶わない行程となります。

東京に実家のあった私がよく使ったルートは、学生の間でも「列車の中を探せば誰か乗ってる」と云われるほどの人気路線で、池永さんもこのルートを採用したとあらば次の行程になろうかと思います。

<筑肥線伊万里18:21発の急行「平戸」で出発、博多駅に20:00に到着し、次いで博多発20:42の鹿児島本線急行「桜島」東京行に乗り換え、山陽本線・東海道線を乗り継いで東京駅に翌日の16:06到着。伊万里→東京、約22時間。
山手線で上野駅まで行き、上野発19:10急行「八甲田52号」に乗車、東北本線をひた走り青森駅に翌日の06:47に到着。ここまで約34時間。
07:30出航の青函連絡船に乗船し函館港11:20に着岸、引き続き函館本線11:50発急行「宗谷」に乗る。
この列車は、大沼公園→森→八雲→長万部→俱知安→小樽と停まり、札幌に16:25に着く。
上野→札幌21時間30分の旅。>

下宿のある川沿町まではJR札幌駅から少し歩いたバス停から、17時頃発の札幌市営バス藻南線硬石山行きで約30分、上野から22時間半、伊万里から丸二日48時間の行程になります。
係わる運賃は乗車券+急行券+連絡船=7,600+700+500=8,800円。

一方、航空便の正規料金は、(福岡⇔羽田)+(羽田⇔札幌)=14,800+13,900=28,700円。
運よく、スカイメイト割引を利用できると、半額の14,350円で利用できたはずですが果たして池永さんはどちらを選んだのでしょうか。
(「八甲田」を参照ください。)

 

Ⅱ.静岡沼津
海洋学部の教養課程の学び舎は、結果的に三か所に分散されていて同じ学科の同級生が二分されていました。
池永さんの世代は東海大の本校舎である相模原校舎に同じ人数の会ったこともないクラスメイトがいて、私の世代は沼津校舎に同じく学んでいていました。

そして今回の移動とともにそれぞれが合流すると云うことになります。
学業はさほど混乱はしないものの、普段の生活環境とともにサークル活動を通した、友人関係には相応の変化が生じます。

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東海大沼津校舎1980年頃(中央左四角いグランドがラグビー部練習場)

山の中の真新しい沼津校舎にもラグビー練習場が用意されていましたが草ぼうぼうでした。
学校側に問い合わせるとラグビー部の登録は初年度の昨年に既にされていて部室もあるとの説明で、主将を探し話を聞けば有名無実のサークルであり、本人もやる気はないといいます。

札幌組と新入生とで人数を集め新しくラグビー部を立ち上げて細々と練習を始めていると、今度は清水本校舎の「ラグビー部」から一緒にやろうとの声が掛かります。
このグループも頭数不足で練習すらまともに出来ないといい、どうやら池永さん等札幌組の先輩は1人も参加していない模様でした。

断る理由は何もないので月に一度ほど合流し練習をして、東海大海洋ラグビー部の名前で対外試合をして楽しみ、私の大学2年生はほとんどラグビー漬けの生活でした。
そんな訳で、私は新しい仲間が出来たものの、ラグビーから遠ざかってしまった池永さん達先輩方とは、この一年間ほとんど疎通なく過ごしていました。
余談になりますが、この沼津校舎は2015年に廃校になり、建物は新しい耐震基準を満たしていない事を理由にその後取り壊され、広大な敷地は沼津市に寄付されています。


Ⅲ.静岡清水
あわただしい事に3月になるとまた移動で、今度は清水折戸校舎に移り、専門課程の講義を受けることになります。
東海大海洋学部の専門課程は当時、海洋工学・海洋土木・水産に分かれていて、池永さんは更に分岐した航海専攻科に属し、私は水産増殖課程という水産生物の増養殖を学ぶ専門分野でした。

札幌ラグビー部の主将だった飯塚さんのアパートの2階に住んでいた先輩が今春卒業して空いたというので、私はそこに落ち着くことにしました。
1階に一間、2階に一間だけのエンピツの様な建物のアパートで、JR清水駅から東海道線で沼津方面へ一駅の興津という町です。

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静岡県清水市航空写真(1974~78)国土地理院

興津川沿いの静かな海辺にあり2階の窓をあければ真下はもうテトラポットが並ぶ護岸で、その向こうには三保半島や伊豆半島に囲まれた、駿河湾が一望できる素敵な部屋でした。
池永さんは、折戸の校舎から更に三保半島先端方向寄りの、砂地にビニールハウスが立ち並ぶ集落の一角に建つアパートにいました。

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私は興津から折戸まで12キロの道のりを私は30分ほどかけ原付バイクで通っていて、講義の帰りにはよく立ち寄って旧交を暖め合っていました。
池永さんは平屋建ての長屋の様な建物の一番奥の部屋を借りていて、札幌の時のふた回りも大きなスピーカーを畳の床に置いたコンクリートブロックの上に乗せ、相変わらずジャズを流していました。

外では紙巻のショートホープを吸っていた池永さんでしたが、この頃部屋では、どこで覚えたのか、シャーロックホームズのトレードマークだったマドロスパイプを愛用するようになっていて、専用の刻んだタバコの葉を火皿に詰め、ジッポライターで火をつけて嗜んでいました。
余りに渋くカッコいいので私も池永さんに内緒で真似をしたものでしたが、本物のマドロス志向さんには敵わず、全くにあいませんでした。
そう、青年池永純二はカッコよかったのです。

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海洋調査船 東海大学丸Ⅱ世

水産学科の学生だったことを思い出し、ラグビーの方は後輩たちに任せ、新しく漁業を実践して学び青年海外協力隊員を目指すサークルに加担したりしていて、忙しくしている内に最終学年になります。
同時に、札幌校舎からお世話になった先輩達は、それぞれ卒業して全国に散らばっていきます。
池永さんの所属する船乗りを養成する目的の航海専攻科は特別で、4年生を過ごしてから更に1年間、種々の海事免許を取得する為大学に残ります。
お陰でもう1年池永さんの近くで生活する機会に恵まれたわけですが、彼はほとんどを大学が所有する「東海大学丸二世」や「望星丸」に乗り組み航海訓練中で留守、私も遠洋漁船に調査乗船したり、瀬戸内の養殖施設に作業実習に出向いていたりしてすれ違いの日々が多かったと思います。

たまに日程があうと、行きつけの飲み屋で待ち合わせて一杯やるのが楽しみでした。
あの新清水駅前にあった「八男坊」という焼き鳥屋の一件はそんな時の思い出です。
(「八男坊」を参照ください。)
Photo_20250324120301海洋調査船 望星丸                      

2年前に卒業したとある先輩が地元で作った草ラグビーのチームを引き連れて凱旋するという知らせが入ったことがありました。
断るわけにもいかないので、急遽折戸校舎にいる「経験者」をかき集めチームを編成して応戦したことがありました。
私の代とひとつ後輩の3年生、それにただ一人残っていた札幌時代の池永さんも駆りだしました。
池永さんにはお得意のスタンドオフを引き受けてもらいましたが、私が不慣れなスクラムハーフでタッグを組んだため、惨敗してしまいました。
これが池永さんとラグビーを楽しんだ最後の機会となりました。

卒業式が近づいた頃、札幌でお世話になった工藤先生が遥々札幌からお祝いに駆け付けてくれました。
先生も自分が送り出した最後の海洋学部の学生が懐かしかったのでしょう。
行きつけの居酒屋での宴会の後、繁華街の路上で学生と相撲を取り顔に怪我をされ流血、パトカーまで来る騒ぎになりましたが池永さんが穏便に丸く収めてくれました。
「治るまで帰れない」とその後1週間私のアパートで療養して帰りました。池永さんも度々お見舞いに来てくれました。

1977年3月、そうして、みんなバラバラに旅立っていきました。

Ⅳ.大三島~横浜
私は広島県の三原と愛媛県の今治の間に浮かぶ大三島の南端にあるクルマエビの養殖場に就職しました。
そして1979年の4月に結婚します。
相手は札幌のフォークダンス事件で知り合ったお嬢さんで、彼女は文字通り「瀬戸の花嫁」になりました。
山の中腹に借りた、母屋の外に五右衛門風呂の小屋がある古いお家へ、フェリーから降りて来たトラックが花嫁道具を満載してミカン畑を縫うようにして登って行く姿を、海べたの養殖場から見守っていたのを思い出します。
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国土地理院航空写真(1974~78)

東京で挙げた結婚披露宴には、航海中との事で、池永さんは残念ながら出席して頂けませんでしたが、大きな伊万里焼のお皿をお祝いに送ってもらいました。

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いただいたのは直径40㎝もある大皿で裏に「幸楽作」と銘があります。

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伊万里の駅前でお二人とお別れした後、大川内山の伊万里焼の里で訪ねたところ「幸楽」とは有田の窯元とのことでした。
昔は伊万里の港から海外に輸出される焼き物は有田の物も総じて「伊万里焼」と呼ばれたとの説明もしてくれました。

4月から秋までの間は、私たち魚相手の技術屋の大繁忙期で、クルマエビの種苗生産から始まり、前年にようやく成功したトラフグの稚魚作りが続きます。

そうして一息着いた頃、遅ればせながら新婚旅行という運びです。
予約も何にもしないまま那覇空港に飛び、フェリーで石垣島に渡り、同期生のいる西表島の東海大臨海研究所にお世話になり、帰りの福岡空港には休暇中の池永さんが迎えに来てくれていました。
緑色の三菱ミラージュで伊万里まで案内され厄介になりました。

Photo_20250324151201 来島海峡航路(Google map 2025)

大三島と南の今治の間には来島海峡と云う瀬戸内海を東西に往来する船舶の重要な航路があります。
同時にもっとも潮の流れが速く航海の難所の筆頭に挙げられています。

池永さんの乗船するタンカーも門司や広島への往復のたびに通過するらしく、非番の夜中などに船舶電話を使って
「おーい、いま升んちの下を通っているぞ!」
と船舶電話で話かけてきたりしました。

わざわざ島まで訪ねてこられた事もあります。
休暇中に竹原からぶらっとフェリーでやってきて2、3日逗留していかれます。
島の観光に飽きると、養殖場で仕事を手伝ってもらいました。
小柄なので、護岸端で喫水井戸を手掘りしている時など、井戸瓦を5段も埋め込んだ地底に潜っていただき、土砂を掻きだしてもらい大助かりでした。
ひと汗かいた後は、家の外にある江戸時代さながらの五右衛門風呂が特にお気に入りで、晩酌前に随分長風呂を楽しんでおられました。

1982年の秋に、やはりクルマエビ養殖の仕事で沖縄の久米島在の別会社に私が移動してから、流石に池永さんと酒を酌み交わす機会はなくなってしまい寂しい思いをしました。
一度くらい「おーい、いま升んちの下を通っているぞ!」と東シナ海洋上から船舶電話が来たような気がしますがどうでしょう。
久米島を拠点に、竹富島や奄美、種子島などで養殖場を次々に開設し飛び回っていた頃に池永さんは結婚されたのだと思います。
以降は私などより、陽一郎くんのお母さんの方が純二さんのこと詳しい筈でしょう。

雲仙普賢岳の大噴火が目の前で起こった天草で2年間過ごしていましたが、これを期に養殖の現場から身を引き、国に帰る決心をしました。
それ以前に池永さんから届いた葉書が横浜市磯子区洋光台の住所だったのは驚きでした。
私の両親が住むいわゆる実家はその時東京都下にありましたが、私の生れは横浜の磯子で、9歳のころ父親の仕事の関係で東京に移っていました。
横浜の家はその後人に貸していましたが、帰郷して入居する予定で、池永さんの新居から目と鼻の先のところでした。

連絡を取ると引っ越しの荷下ろしには手伝いに来てくれるとのこと。
天草で3tトラックを仕立て出発しましたが、いざ杉田の家は京急線のガードレールに阻まれて、車が横付け出来ません。
駆け付けた池永さんが彼の根岸にあった事務所から軽トラックを借りてきて、積みかえ、事なきを得ました。
1993年の春のことで、私は38才になっていました。

再び交流が始まり、2年後に家を建替えたこともあり、よく遊びに来てくれました。
夏に庭でバーベキューを楽しんでいる最中、頭の上に、苗を植えたもののその後行方不明になっていた、大きなヒョウタンの実が落ちてきて大笑い。
折角なのでお持ち帰り頂きましたがその後どうしたでしょうか?
大抵は相当な酒量をお召し上がりになり千鳥足でお帰り戴いていたので、奥様には「悪い後輩」の烙印を私は押されていたと思います。

4年後、電話をいただき、半信半疑で駆け付けると、池永さんは十字架の下で眠っていて、もう冷たくなっていました。
たくさんの人が集まり、讃美歌の合唱の中、大粒の涙と嗚咽が止まりません。
近くの杉田小学校のグランドでラグビーボールを蹴っても受けてくれる人がいなくなってしまいました。

「陽一郎くんが大きくなった時、お酒を酌み交わしながらお父さんの思い出話をするのが楽しみです。」
とお母様に約束をしていながら今になってしまいました。

もっと写真があったのですが、池永さんと最後に飲んだあの家が14年前に焼けてしまい、思い出のアルバムも皆失ってしまいました。
50歳の頃からこのブログに駄文を書き始め、今残っている写真はそのWeb上に保存されていた画像だけです。

なお、本拙文の所々に挿入したリンクは、当時に書いた関連の思い出話です。
池永さんが直接登場するシーンは少ないですが、そういった環境の中で一緒に暮らしていましたという事で添付しました。

ご興味あらばご笑読ください。

池永純二さんは、オシャレでカッコよく、なによりも清潔な青年でした。

♪雪の炎にゆらめいて 影たちが飛び去る ナイフのように
  空がのこる 真っ青な空が あれは夢? 力? それとも恋
    ぼくらは書く いのちのかぎり いま太陽の真下に
       生まれかわる サッポロの地に 君の名を書く オリンピックと♪

2025/2/5 升

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この写真、広島の平和記念公園「原爆の子の像」前で取ったものですがいつ、どんな経緯で訪れたのか忘れてしまいました。

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