東行庵主
慶応2年、四境戦争の指揮官として幕府軍を敗走せしめた晋作はその直後結核で倒れます。
20歳の時に4歳上の晋作に身受けされ、晋作と一緒に四国への逃亡行までした芸妓うのは、晋作の辞世の下の句を贈ったとされる野村望東尼と、下関・桜山で一緒に暮らしながら、病臥した晋作を介抱していました。
しかし、正妻の雅子が近くの新地町の屋敷に晋作を引き取り、最期を看取ることは出来なかったようです。
翌慶応3年に亡くなった晋作の遺骸はかつて奇兵隊の本陣があった吉田町清水山に葬られます。
それを知ったおうは剃髪し、谷梅処尼(たにばいしょに)と名乗り、近くの山県有朋所有の新婚時の屋敷に入り、晋作の菩提を弔い始めます。
谷姓は、幕府の追求から逃れるため亡くなる直前に藩命により改名された、晋作の新たな姓をもらっています。
その後梅処尼は、明治14年には長府の功山寺での得度式により仏弟子たることを認められ、明治17年に、旧藩主毛利元昭公を筆頭に山県有朋・井上馨・山田顕義・伊藤博文等140余名からの寄付金により東行(とうぎょう:晋作の号)庵が建立され梅処尼に贈られて、初代庵主となりました。
明治41年の暮れ、長府の功山寺で修行を積んでいた大分県出身の末広コスギさんが、梅処尼に誘われて東行庵に入庵します。
しかし、8か月後に梅処尼が67歳で亡くなってしまい、そのまま二代目庵主谷梅仙尼(ばいせんに)と称することになりました。
梅処尼が楽しみにしていた晋作の顕彰碑建立(明治44)が梅仙尼の初めの仕事になりましたが、最大の功績は東行庵中興の祖となった三代目庵主を育てた事にあるようです。
幼い時に両親をなくした末成チカさんが6歳の頃に東行庵に跡継ぎとして梅仙尼に迎えられたのは昭和元年です。
以来、尼僧学林から駒沢大学と学び、昭和21年26歳の時に3代目庵主玉仙尼(ぎょくせんに)となりました。
二代目庵主の梅仙尼は昭和34年夏に亡くなりますが、玉仙尼は、昭和41年 東行100年記念事業として、維新の志士たちの功績を人々に伝えるため、県内だけでなく東京、大阪の企業をまわっては、頭を下げて寄付金を集め、東行記念館を設立。
さらに昭和46年からは、各地を訪ね歩いて、忘れ去られた諸隊士の墓を持ち帰り、東行庵に安置して供養した。
また東行庵の隣接地に、吉田保育園を作るなと活躍しました。
高杉晋作の生まれ代わり、東行庵中興の祖、と称された谷玉仙尼でしたが、持病の喘息にはうち勝つことができず、平成元年10月1日、亡くなりました。

第三世庵主没の後を繋いだ四世・五世・六世庵主の資料は見当たりません。
新聞記事は令和3年正月の悲しいお知らせとして突然第七世庵主の急逝を告げるものでした。
松野實應庵主、平成16年3月から第七世庵主として約17年間、ご本人のお寺である慈光寺住職との兼務で東行庵の住職を務めていたとのことです。
そして現在の庵主、第八世に就任されたのは、初代・二世ともにゆかりあるあの高杉晋作が挙兵した長府功山寺の有福孝岳住職(81歳)が兼務就任されています。
有福孝岳住職は、京都大学出身で京都大学名誉教授の哲学者とのことです。
2025/07/10 升
参考資料:東行庵HP 東行庵講座「法灯を継ぐ」等より
平成28年150回忌に置かれた。
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