カテゴリー「歴史の話」の54件の記事

2024/03/17

密航船水安丸乗船者を追って⑯

年表
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2024/03/17 升

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2024/03/02

密航船水安丸乗船者を追って⑮

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東和じかんHP(こちら)より

北上川は本来、岩手県八万平市から奥羽山脈沿いを盛岡市・一関市・登米市を流れ、石巻から仙台湾に注ぐ河川だった。
登米市の南の端にある氣仙沼線の終点柳津駅付近から、氾濫を繰り返す北上川を東に逃がす、治水工事が始まったのは明治44年からの事。
従って、及川甚三郎が若い頃に使った水運ルートは現在の旧北上川と呼ばれる流れに違いなく、翁の生き様のごとく正に一直線の流れである。

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鱒淵川(画像下)と頼光寺(赤印)

仙台から海沿いを走っていた三陸道は、石巻から海岸を離れ旧北上川沿いを北に遡る。
東和町登米東和ICを降りて、大きく蛇行する北上川を二度渡り支流の二股川沿いを北に5Kほどにある、道の駅林林館から右折して県道233号に入る。
馬籠東和線と呼ばれるこの街道は、二俣川の更なる支流、鱒淵川沿を縫うように走り、東に進めば馬頭観音華足寺、細越の及川屋敷、甚三郎の生家小野寺家の屋敷にたどり着く。
そう、この「幅二間ほどの」小さな川の流域が物語の始まりの地域だ。その入り口にある小高い丘の上に甚三郎終焉の地がある。


Photo_20240204171401頼光寺入り口、右手が山門
国道から二俣川にかかる飯土井橋を渡り、最初の左の分岐を曲がって鱒淵川沿いの細い道から再び小さな橋を渡って鱒淵川を越える。
突き当りを左折し道なりに進む。
車がすれ違えないほどの、轍が砂利に食い込んだ細い道だが、川沿いには石塀に囲まれた広く重厚なお屋敷が並んでいる。
道は直ぐに鱒淵川を離れ右にカーブすると田んぼが連なり景色が急に広がる。
二俣川が削り取り運んだ土砂が作った盆地だろうか。
Photo_20240205091101頼光寺本堂

二俣川と鱒淵川のつくる鋭角な交点に、クサビを打ち込むように迫る山肌の三角の頂点に、古刹がある。
名を表したものは何もないが頼光寺だ。
赤い涎掛けと毛糸の帽子を被った地蔵さんに迎えられ、小さな山門を潜った先にある石段を登る。
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石段を登ると広い境内の向こうに赤い屋根の本堂があった。

ようやく明るくなった朝の6時、境内には人の気配はない。
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裏山の斜面はお墓の団地、この中から探し出せるはずがない、どこもかしこも「及川」の姓ばかり。


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諦めて踵を返すと鐘楼の向こうの斜面にもお墓がある。



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段々畑をめぐるあぜの様な小道を本堂脇から登っていくと目の前に「細越」「及川家の墓」と刻まれた、南に向く、大きな石が現れた。


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鱒淵の及川家の菩提寺頼光寺の墓地には「及川家の墓」と刻まれた石碑があり、裏面には「昭和四年七月泰二郎建」とだけしか記されてはなかった。」ー密航船水安丸p342―
昭和53年(1978)11月、新田が訪れ描写した通りに文字が刻まれた大きな石が、まるで私を呼び寄せるように、そこに起立していた。

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脇には法名碑があった。
新田の著書にも山形の「失われた風景」にもこの法名碑について触れていない。

そこには、
祖英端院基航領鑑清居士 昭和2年四月四日 甚三郎 74才
盛心院實譽妙勝大姉   明治36年1月15日 甚三郎妻うゐの 45才
祥光院泰翁天瑞居士   昭和26年12月19日 泰二郎 74才
浄光院泰室貞道大姉   昭和24年12月29日 泰二郎妻みゑ 73才
義敬□楽滑大姉      昭和3年6月15日 敏子 18才
と刻まれている。

その内容からかれらが頼光寺を訪れた後に置かれたものと考えるのか普通だ。
山形は、
うえの(ういの)さんが、甚三郎さんに呼ばれで、カナダに渡って一年経ったか、ただねうちに思い病気を患ってねす。それで細越さもどされできてねす。すぐ亡くなられたのです。村中大騒ぎだったですね。」ー「失われた風景」p119ー
新田は、
ういのは十月の末にサンバレーを出発して、故郷に帰ると、一ヵ月半ほど病床にあったが、終に空しくなった。ー中略ーういのが死んだのは明治三十三年(1900年)をあと数日残す、寒い日であった。」ー「密航船水安丸」p118・p120ー

と、それぞれ甚三郎の先妻ういのの死の経緯を、カナダから鱒淵に帰国後「すぐ」あるいは「一か月後」としている。
さらに新田は、享年を明治33年(1900)12月末と特定している。
ういのの帰国を明治33年(1900)10月末とするならば、頼光寺にある法名碑のうゐのの命日、明治36年(1903)1月15日までの間に2年余の時間が流れていることになる。
ういのが安政6年(1859)生まれとすると碑に刻まれた享年45歳は計算上間違えはないが、2年余の時間は普通「すぐに亡くなった」とは云わない。
Photo_20240205091701                 及川家の墓から見る日の出

一方、この時間差はさらなる問題を引き起こすことになる。
新田によれば、甚三郎と後妻やゑの結婚は、彼らがサンバレーからドン(及川)島に引っ越した明治34年(1901)だとし、やゑのの第一子栄治の誕生はその翌年の明治35年(1902)としている。
つまり、頼光寺法名碑にある先妻の命日から計算される存命時に、あろうことか、甚三郎はやゑのと結婚し子までなしたことになってしまう。
この時間差はさらに尾を引く。
法名碑にあるうゐのの命日明治36年は新田が書く甚三郎が二度目の帰国をした年で、横浜に英米商会を設立した年でもある。
この時、頼光寺のうゐのの墓標の前で、彼女の死因が甚三郎による強制労働によるものだとする地域の噂を耳にする件も記されている。
そして、翌明治37年(1904)には長女しまも生まれている。

そのしまが、カナダから引き揚げ来た13歳の時(1917)、横浜にある泰二郎の家を訪ね<母より若い義姉と自分と同じ年位の甥に会った>と新田は書いている。
泰二郎妻みゑの命日と享年から、彼女は明治9年(1876)生まれで泰二郎の二歳年上女房で、しまとの対面時は41才。
しまの母親やゑの(当時35)より6歳も年上だがよほど若造りな女性だったのか?
同年代の甥の行方は判らないが早逝した当時7歳だった敏子(娘?)が一緒に葬られている。


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及川家の墓から北上川方面を望む
及川とよは少なくとも二回ここ頼光寺を訪れている(山形)。
甚三郎の葬儀の際と終戦後の食料の買い出しを兼ねての時だ。
共をした妹うんの娘ビアトリ―チェによれば、仙台から列車とバスを乗り継ぎ、あとは北上川の土手沿いに遠い一本道を歩いたという。
二人並んで墓前に腰を下ろして、木の葉がふれあう音を聞いていたという。
「(佳景山の)及川甚三郎の墓は山を背にした見晴らしの良い小丘にあった。

黒御影石の墓碑の表面には「及川家の墓」と深々と彫りこまれ、側面には、
祖及川甚三郎ハ幼名良治、登米郡米川村大字鱒淵下台家小野寺十郎治ノ三男二生ル。細越家ニ入リ、祖父及川甚三郎
義保ノ名蹟ヲ継グ。国内産業ニ力ヲ致シ、外英領加奈陀BC州ニュウウエストミンスター市ライオン島ニ拠シ、加奈陀フレーザー河漁場ヲ開拓ス。今ニライオン島ハ及川島ノ称アリ。帰来、桃生郡鹿又村字佳景山ニ住シ、コノ地ニ歿ス。鱒淵頼光寺ニ葬ル。事跡ノ概要ハ鱒淵華足寺ナル彰徳碑ニ明ラカナルモ、自叙ニヨレバ詳シクソノ事跡ノ企画ノ壮大ヲ想望シ得。内助ノ妻やゑのハ鱒淵染谷家ニ出デ栄治、志まノ二児アリ。栄治ハフレーザー河ニ於テ水死シ、志まハ細越家ノ分岐トシテ家系ヲ継承シタ。児孫コレヲ照鑑セヨ。
西紀一九六九年九月 二代及川亮一郎
そして、この墓碑の裏には次のように記されていた。
祖英端院基航領鑑清居士 昭和二年四月四日 及川甚三郎 七十四歳
英媼院随応貞節清大姉 昭和三十八年一月二十日 及川やゑの八十一歳
中略
鱒淵の及川家の菩提寺頼光寺の墓地には「及川家の墓」と刻まれた石碑があり、裏面には「昭和四年七月泰二郎建」とだけしか記されてはなかった。
私は、この二つの墓(佳景山の墓とこの墓)を頭の中で比較しながら、また振り出した冷い雨に打たれていた。」ー密航船水安丸p342―
ようやく泰二郎の足跡を見つけた。
2024/03/01 升
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2024/02/26

密航船水安丸乗船者を追って⑭

泰二郎・通衛兄弟

後に甚三郎の後妻となったやゑのとの間に産まれた栄治・しま兄妹については両著書に詳しいが、先妻ういのとの間の兄弟に関する物語が極めて乏しく
二人の人物像は全くうかがい知れない。

以下は新田の著書から拾った甚三郎と先妻との間にできた兄弟に纏わるシーンの全てである。

明治29年 (1896) 、甚三郎初めてカナダに渡る。
明治32年 (1899) 、初回の一時帰国の後、甚三郎(45)は家族を伴って再び渡加する。家族とは、先妻ういの40才、長男泰二郎21才、次男通衛13才、それにやゑの17才である。
明治33年(1900)、泰二郎(22)倒れたういのに付き添って帰国し、ういのを看取る。
明治34年(1901)、甚三郎(47)やゑの(19)と結婚。
明治36年(1903)、甚三郎三回目の帰国時に横浜で英米商会を設立し、妻帯した泰二郎に鱒淵で合う。
明治38年(1905)、通衛19才、ハイスクールに通学。栄治3才と仲良し。
明治40年(1907)、甚三郎帰国、横浜で泰二郎と合流し、一緒に故郷で人材集めをする。
明治45年(1912)、通衛26才、大学を卒業しトロントの企業に就職。
大正  5年(1916)、泰二郎38才、横浜の英米商会を手放し18年ぶりに単身及川島来島。以降、及川島の経営を執り、甚三郎は帰国する。
大正  6年(1917)、甚三郎、やゑの、しま帰国。
大正13年(1924)、泰二郎帰国し佳景山の甚三郎に会う。

一方、山形の著書は以下である。
明治29年  (1896) 、甚三郎(40)初めてカナダに渡る。
明治32年(1899)、泰二郎(21)、通衛(13)、母うえのとやゑの(17)と共にカナダへ渡る。
明治33年(1900)、泰二郎倒れたういのに付き添って帰国しういのの死を看取る。
明治34年(1901)、甚三郎やゑのと結婚。
大正  3年(1914)、金華山丸(北洋漁撈株式会社所属)事件。
大正  6年(1917)、甚三郎、やゑの、しま帰国。
年代不明      、泰二郎、佳景山の甚三郎に会う。
昭和  2年(1927)、甚三郎死亡、泰二郎が遺体を鱒淵に運び頼光寺に埋葬。 

総じると、兄弟は、明治32年(1899)家族と共にカナダに渡り、兄泰二郎は翌年病気の母と共に帰国し、そのまま大正5年(1916)までの間日本に留まり、大正13年(1924)までカナダで暮らし、その後帰国。
弟通衛は最初の渡加後そのままカナダの高校大学を卒業してトロントの企業に就職、という流れになる。

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図1 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正11年11月・中山訊四郎著)p272・273

及川兄弟を書いたものが「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(中山訊四郎著)のなかの同胞人物観(宮城県)のコーナーp234・235にある。 
「及川甚三郎君 同泰次郎君 同通衛君」というタイトルで、
抜粋して下記意訳した。

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図2 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)p274・275

前略 泰二郎君は明治35年(1902)カナダに渡り、甚三郎氏が帰国し引退後、事業の一切を引き受け経営を続けた。泰二郎君も父君の志を受け豪胆なれど軽挙妄動を慎み、計算づくで事に当たる人柄。
しかし、北洋漁撈株式会社に挫折を招いた過去がある。同社は資本金20万ドルを以て組織され、前警視総監園田安賢氏を社長として神奈川に本社を設けて日加物産の輸出入を図り、先ず汽船金華山丸を雇用して日本貨物を満載しカナダに出航した。
フレーザー河の河口に入ったが、カナダの官憲から移民密輸の嫌疑を受け事件になったが事実を説明し無事に解決し、塩鮭等の物資を積み帰国を果たした。しかし、日本当局からの嫌疑をも喚起したことから株主多数の不安を招き会社は挫折に到った。
これは泰二郎君の最も遺憾とする所ではあるが、時の運であって如何ともしようがない。今は時代の趨勢を静かに観察して、資力の充実を期し、適当な機運に乗じて再起することを疑わない。
そして、益々地盤を堅め、ニューウエストミンスターの日本人会支部長に推挙され、育英事業に関わって幼稚園や小学校を設け、漁業を奨励するなど公共事業に多く携わり、同地の将来の発展のため誘導啓発に勉める一方、自ら経営する及川島に於いては野菜の栽培で好成績を挙げ、島首として威風堂々である。

通衛君は泰二郎君の弟。
早くからサンフランシスコで学び、カルホルニア大の商科を卒業した。
カルホルニアの各企業は礼を尽くして就職を促したが彼は総て断り、大正5年(1916)に及川島に来る。
及川島では島外の白人との折衝や、島内の労働者と共に飽きることなく事業に取り組んだ。
彼の性格は豪放な父親に似ず、着実謙虚で守備固め型の人で、同島の発展に欠くべからざる人材であったが、近年彼は日本へ帰り、某大会社の社員として今や重要な地位にあり、細心綿密なる手腕で大成するものと思う。後略

「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)は、本シリーズの⑫で及川うんと吉江三郎の結婚を報じたニュースの切り抜きで、一度登場している。
山形はこの資料について、
「この書は、大正期に流行した人物鑑のたぐいであり、利用するには、少々眉に唾をつけてかかる必要があるp144。」と評しているのでそれなりに読まないといけないようである。
数字で表された年代はなるほど怪しいが、及川甚三郎の業績や金華山丸事件など参考になる部分も多くある。
記事の書かれた年代は特定できないが、甚三郎が日本に引き上げた後のことも記載されていることから、大正6年(1917)から本書発行の大正10年(1921)の間と思われる。

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図3「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行 中山訊四郎著)p482・484(注:傍線等書き込みは筆者)

図3の在留県人リストは、水安丸女性乗員の一人だった鈴木ひさよさんが亡くなり同時に甚三郎がカナダを引き上げた大正6年(1917)4月以前の記録と推定される。
この時期、泰二郎・通衛兄弟さらにとよ・うん姉妹、ともに及川島周辺で暮らしていたと考えると面白い。
「人物鑑」であるから、誇張はあるはずだし同胞を悪意ある中傷をもって書くはずもないだろうが、日本語の活字として泰二郎・通衛兄弟の人物像を表した貴重な資料と言える。


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図4 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年・中山訊四郎著)広告欄

20240214_0094図5 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)p638(注:傍線は筆者)

同じく加奈陀同胞発展大鑑付録から複写したもので、「祝加奈陀同胞発展大鑑」とある図4は広告欄に。
図5は商店の住所録様のもので、新田・山形の著書にも度々登場するドン島(及川島)の隣ライオン島(佐藤島)の、佐藤惣右衛門氏も掲載されている。
両資料とも泰二郎一人の代表名で止まっていることや「祝」の意味から、加奈陀同胞発展大鑑発行年の、大正10年(1921)時点の現地状況を表したものと思われる。
甚三郎がカナダを引き上げた大正6年(1917)以降ひとり残された泰二郎が孤軍奮闘していた時代だ。

一方、ご当地カナダではフレーザー河周辺の鮭漁を中心とした水産業の歴史に関する研究の一環として、「及川島」に特定した研究(注1)も行われている。
引き金となったのは新田の著書を英語で翻訳したDavido Sulzの「Phantom Immigrants 」の出版(1998)である(原文はこちら)。
「Phantom Immigrants 」に関してはシリーズ⑥(こちら)で紹介したのでここでは省略する。
翻訳者のDavido Sulz氏は、その後も新田の著書を深掘りし、2003年にビクトリア大から「Japanese “Entrepreneur” on the Fraser River: Oikawa Jinsaburo and the Illegal Immigrants of the Suian Maru.(フレーザー川の日本人「起業家」:及川甚三郎と水安丸の不法移民)」と題する論文(原文はこちら)を発表している。
この論文の第二章「Verifying the Nitta Account(新田資料の検証 )」の中で、先の図2 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(p274・275)を伝記辞典として、その内容を引用したうえで、その内容を否定するかのように次のように書いている。

<In the Nitta story, Taijiro simply returned to Japan with Uino in 1900 and stayed
there as the Yokohama connection until 1916 when he returned to Canada to assume  control of the colony. Other sources, however, indicate much more for Taijiro. One, for example, indicates that Taijiro went to Japan in November 1908 and returned in July 1909; before and after this trip he was self-employed at Ewen’s Cannery in New Westminster. He was in Canada but unmarried between 1917 and 1919, and was still in New Westminster in 1926.152 While the biography in the Historical Materials also reports that Taijiro took control of Jinsaburo’s enterprises on the return of the “esteemed father” to Japan, it does not portray him as the administrator of demise:>
新田の話では、泰二郎は1900年にういのと共に日本に帰国し、1916年にカナダに帰国してコロニーの支配権を握るまで、横浜のコネクションとしてそこに留まっているとしている。
しかし、他の情報源(JCNMA, Kobayashi, Issei Life Histories:注2)では、泰二郎についてもっと多くのことを示している。
例えば、泰二郎は1908年11月に日本に行き、1909年7月に帰国した。
この旅行の前後に、彼はニューウェストミンスターのイーウェンの缶詰工場で自営業をしていました。
彼はカナダにいたが、1917年から1919年の間に未婚であり、1926年にはまだニューウェストミンスターにいた。

興味深いのは、新田は甚三郎がカナダを引き上げるまで泰二郎は一度もカナダに来ていないとしているが、日系カナダ人公文書館の資料では、ウエストミンスターで就業しながら日本とカナダを行ったり来たりする泰二郎の足跡が残されている。
原文、「He was in Canada but unmarried between 1917 and 1919,」とは一体如何なる意味なのだろう。
ちなみに、甚三郎がカナダを引き上げたのは1917年であり、1919年の出来事として思い当たることは木川田あき(及川とよ)の帰国(山形)ぐらいだ。

更に、リッチモンド市の公文書館に残されているバック鈴木(注3)インタビューのボイスレコーダーから、
<This son was one of the first Japanese playboys, I guess. He was very well acquainted with the aristocracy over in Victoria [inaudible] wonderful [inaudible] even though he was a married man in his own right, he had money, he spent [inaudible] father’s money [inaudible] he had a grand time”>(RCA- Richmond City Archives, Buck Suzuki interview. )
この息子は、日本で最初のプレイボーイの一人だったと思います。彼はヴィクトリアの貴族階級と非常によく知り合いだった[聞き取れない]素晴らしい[聞き取れない]彼は既婚者であったにもかかわらず、彼はお金を持っていて、父親のお金を使い、素晴らしい時間を過ごした
と、Sulzはバック鈴木の声を書きとっている。

そして、Sulzは結論として次の様に述べている。

<Finding the truth of Taijiro in this triangle of historical novel, laudatory biographical dictionary, and memories of someone who may have known him in childhood would be an intriguing challenge, indeed.>
歴史小説、称賛に値する伝記辞典、そして幼少期に彼を知っていたかもしれない誰かの記憶のこの三角形から泰二郎の真実を見つけることは、確かに興味深い挑戦です。

<According to Nitta, the other son, Michie, attended school in Vancouver and university in Toronto; he was the educated son who chose to move away and assimilate rather than return to the family enterprise. However, the biography of the three Oikawas noted above states that Michie studied Commerce at California State University and turned down lucrative offers in San Francisco to return to Lion Island in 1916. His skills lay in communication with non-Japanese and Japanese from all walks of life; he was meticulous, modest, and conservative. At the time the biography was written, he had recently returned to Japan to take a prestigious position with a large firm. Whatever the truth of these two sons, further investigation would likely show them to have had more involvement with Jinsaburo, and more interesting lives, than Nitta credits them with.>
新田によると、もう一人の息子通衛はバンクーバーの学校に通い、トロントの大学に進学した。
彼は教育を受けた息子で、家業に戻るのではなく、離れて同化することを選びました。
しかし、3人の及川達の伝記は、通衛がカリフォルニア州立大学で商学を学び、1916年にサンフランシスコで有利な申し出を断り、ライオン島に戻ったと述べている。
彼のスキルは、外国人やあらゆる分野の日本人とのコミュニケーションにありました。
彼は細心の注意を払い、謙虚で、保守的でした。
この伝記が書かれた当時、彼は日本に帰国したばかりで、大企業で名誉ある地位に就いていました。
この二人の息子の真相がどうであれ、さらなる調査により、新田が信じているよりも、甚三郎と関わりがあり、興味深い人生を送っていたことがわかるだろう。

バック鈴木は甚三郎がカナダを引き上げる前年の大正5年(1916)及川島生れである。
新田が「妻を残し単身で再び泰二郎が及川島に来た」としている年でもある。
その時泰二郎38才、その後泰二郎が在加していた(Sulz)とする1926年にバック鈴木はようやく10歳。
泰二郎と面識があったとしても「プレイボーイ」「貴族階級」「父親の金」などという言葉は、恐らく彼が成人した後、父親や周りの大人たちからの受け売りでだと考えるのが自然だ。
だとしたら、バック鈴木の語ったこの逸話は当時の関係者すべてに周知されていた事実なのかもしれない。

2024/02/21 升
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引用文:①「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)
②Japanese “Entrepreneur” on the Fraser River: Oikawa Jinsaburo and the Illegal Immigrants of the Suian Maru. by David Kenneth Allan Sulz

© David Kenneth Allan Sulz, 2003 University of Victoria

注1 論文例「 The History of the Japanese Fishing Village on Don and Lion Islands and the Effect of Racism」(こちら)。
    映像は「
Japanese History on Don and Lion Islands」こちら)。
注2 JCNMA, Kobayashi, Issei Life Histories :日系カナダ人博物館・公文書館、小林、一世ライフヒストリー
注3 バック鈴木:山形の著書第3章に詳しく紹介されている人物。水安丸乗船者の一人鈴木源之助氏の長男、戦後日系漁民を率いて、対立していた白人漁業組合と和解し、新しい漁業労働者組合結成の立役者。甚三郎の帰国前年の大正5年(1916)生れ、昭和52年(1977)死去、61歳。

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2024/02/11

密航船水安丸乗船者を追って⑬

とよと泰二郎、失われた関係

本シリーズ⑩で後藤金平氏について触れた。
17歳のとき水安丸でカナダに渡り、1966年(昭和41)金平氏77才の時に喜寿の思い出として綴ったという「60年を回顧して」は、実弟の後藤六郎氏が編集し小冊子として自費出版されている。
オリジナルを蔵している図書館はなく、不鮮明な複写版が宮城県図書館の宮城資料室に、ただの一部保存されているだけである。
だが幸いなことに、元東和町教育委員会主事小野寺寛一氏がまとめた「カナダへ渡った東北の村 : 移民百年と国際交流」(耕風社、初版1996.3月)の中にこの全文が収められており、国会図書館で誰でも閲覧可能だ。

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図1 「60年を回顧して」 {「カナダへ渡った東北の村 : 移民百年と国際交流」(耕風社、初版1996.3月)p310}

以下要点のみ(p310)抜粋した。

『前略 朝風に帆をはらませて走ったその翌朝、甲板上に三人の女性が居ったのに目を見はった。男子のみの船中に天下った美女、一人は二十四、五歳、此の人は後に及甚様の長男泰治朗さんと仲が良く、私が七年前帰朝の際訪問して昔語りをした。カナダを早くひきあげて仙台市に及川旅館を経営して居られた。一人は十八歳の素晴らしい容色の整った美人、後に私共一行のために寝食を忘れて骨折ってくれた領事書記吉江氏の妻女となり、昭和十二、三年頃夫のもとを去って仙台にひきあげた人、もう一人は同行中の鈴木さんという方の妻君であった。後略』―「60年を回顧して」小野寺寛一編1996.3 ―(下線は筆者挿入)

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図2「60年を回顧して」複写版表紙(宮城県図書館蔵)

唯の1部だけ保存されているオリジナルの複写版を宮城県図書館宮城資料室から頂いた同じ部分のコピーが図3である。
読み辛い為p40の同部分を下記打ち直した。

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 図3「60年を回顧して」複写版表紙(宮城県図書館蔵)p40


『前略 出帆の日は何日であったか忘れたが、たしか9月の十日頃であったように思う。朝風に帆をはらませて走ったその翌朝甲板上に三人の女性が居ったのに目を見はった。男子のみの船中に天下った美女、一人は二十四、五歳、此の人は後に及甚様の長男泰治郎さんの嫁女となり、私が七年前帰朝の際訪問して昔語りをした。カナダを早くひきあげて仙台市に旅館を経営して居られた。一人は十八歳の素晴らしい容色の整うた美人、後に私共一行の為に寝食を忘れて骨折ってくれた領事書記生の吉江氏の妻女となり、昭和十二、三年頃夫のもとを去って仙台にひき上げた人、もう一人は同行中の鈴木さんという方の細君であった。後略』―「60年を回顧して」後藤六郎編 出版年不明(下線は筆者挿入)

そしてもう一つある。
後藤金平氏が「60年を回顧して」記述の前年、66歳の時に書いた、弟の完治さん宛てに送った文書(後藤金平氏手記)が残されている。

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図1 「後藤金平氏手記」 {「カナダへ渡った東北の村 : 移民百年と国際交流」(耕風社、初版1996.3月 p300)}

1906年、鱒淵出身の及川甚三郎氏計画の下に企画された北洋漁業者なるものが、明治三十七年、八年の日露戦争の惨禍を受けた三十九年の九月末、一切の準備を整ひ、水安丸一九六トン二分といふ四本マストの帆船で、萩の浜出帆、上院八十三名が、一人ひとりが海員手帖を受く、外女性三人、一人は同行鈴木さんの妻女、一人は上陸後及甚様の長男泰次郎氏と結婚、一人は上陸当時尽力したバンクーバー駐在領事書記吉江三郎氏と結婚、現在二人共仙台市内在住。
当時、乗員の年齢層は、四十を出た人は三、四名、二十五、六―三十代の物が大部分を占め、十八歳のものは三名、この中の一人が私でした。後略』―「後藤金平手記」後藤完治蔵(下線は筆者挿入)



何れの文章にも水安丸の女性乗客についての記述がある。
氏名の記載こそないが鈴木さんの妻女以外の二人は、及川とよ・うん姉妹である。
そしてとよの人物像として、金平氏は甚三郎の長男泰次郎(泰二郎)と後に「嫁女となり」あるいは「結婚」、と明記されている。
ところが小野寺寛一氏が関与編集した「60年を回顧して」は、その他の箇所は一字一句オリジナルに忠実に同じくしているのだが、この「嫁女となり」の文節に限って「仲が良く」と改ざんし曖昧な表現でお茶を濁している。
一方の妹うんの結婚やその後の生き様の描写は克明に調べた山形の記録にある通りの内容だと言える。

念のため登場人物の行動を時系列で年代考証を行って見た。
山形によれば、及川とよが仙台大火後に帰国したのは38歳の大正8年(1919)、1906年の事件からカナダに永住している金平氏に取っては「そうそうの帰国」になるのだろう。
同じく、妹のうんが吉江三郎に見切りをつけ帰国し仙台のとよの家に落ち着いたのは44歳の昭和10年(1935)。
金平氏のいう7年前の帰国は、昭和34年(1959)になるから、及川とよは78歳、うんは69歳、「現在二人共仙台在住」になる。
とよは翌1960年3月29日(78)に亡くなっているので、金平氏と仙台で昔話に花を咲かせた筈であり、この頃まで及川旅館が存在していたと考えられる。

すなわち、金平氏の記憶に多少時期的誤差はあるものの、創作はないものと思われる。
従って、及川とよと泰二郎の婚姻関係は、期間や戸籍上はとにかく、現実と考えざるを得ない。

新田は「密航船水安丸」の執筆に際し、バイブルの様に、金平氏の「60年を回顧して」を暗記するほど読み重ねたとしている。
山形は文献欄に金平氏の著書を載せてはいないものの、新田の著作は揚げていることから金平氏の手記を見逃す筈はないだろう。

合点がいかないのは、新田・山形両氏がそれぞれの著作の中で、及川とよと泰二郎の関係について、一切触れていない事だ。
男と女の話。
小説家であればいかようにでも話は膨らませた筈なのに、あえて書かない、あるいは書けない事情があったのか。
山形に至っては仮名まで使って二人を現実から遠ざけている節がある。

渦中の及川甚三郎と先妻ういのの長男泰二郎の行方は、大正13年カナダから帰国し、佳景山に父を訪ねて(新田)依頼行方がわからない。
2024.02.11 升

「密航船水安丸乗船者を追って⑫」はこちら。 ⑭へ続く

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2023/12/25

クスノキは残った ③

2021 令和3年3月 29 日(月)発表 

報道取材情報(沼津市) 名称等 東海大学沼津校舎跡地の公募売却について

実施日時 令和3年3月29日(月曜日) ~
担 当 財務部 資産活用課

1 内 容
沼津市では、東海大学沼津校舎跡地の有効活用による地域活性化を図るため、民間事業者による対象地の活用提案を公募します。

2 対象地の概要
番号 所在 登記地目 概算地積
物件番号1 沼津市西野字霞 316-1 外の内 学校用地 約 33,000 ㎡
物件番号2 沼津市西野字霞 341-5 外の内 学校用地、山林 約 148,906 ㎡

3 スケジュール(予定)
項 目 予定時期
募集要項の公表 令和3年3月 29 日(月)
質問書の受付・回答 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 24 日(月)
参加登録の受付 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 31 日(月)
提案書類の受付 令和3年6月1日(火)~令和3年6月 30 日(水)
プレゼンテーション審査 令和3年7月上旬
審査結果の通知 令和3年7月上旬

4 実施要領の公表について
 3月 29 日(月)15 時から沼津市ホームページに募集要項を公表します。

以降、東海大沼津校舎跡地利用に関する情報は沼津市ホームページ上には見当たりません。
沼津市に問い合わせたところ、
沼津市財務部資産活用課から、
「お問い合わせいただきました東海大学沼津校舎跡地の活用について、以下のとおりお答えいたします。
平成29年に寄附を受けた東海大学沼津校舎跡地は、平成29年8月に旧4号館校舎へ静岡県のAOI-PARC、令和2年4月に体育館跡地へSMC㈱が立地していますが、それ以外の未利用地について、公募売却に向け、令和3年3月に民間事業者からの活用提案を募集しました。
しかし、同年5月末までの参加登録期間に民間事業者からの提案はなく、売却には至りませんでした。
現在、今後の活用について検討を進めており、時期を見て売却に向けた公募等を改めて実施していきたいと考えております。
よろしくお願いいたします。」(2023/12/19)
との回答が返ってきました。

さらに、「市立公園化」など沼津市自体の企画検討の是非を問い合わせたところ、
「東海大学沼津校舎跡地については、民間事業者による土地利用を前提として活用の検討を行っております。沼津市が当該地を行政目的で利活用することは、現在考えておりません。」

とのこと。

沼津市民は、東海大学から2017年に寄付された243,194㎡の学校用地及び山林(図1の青枠内無着色部分)の有効活用に苦慮しているのかも知れない。
逆に言えば、貰ったはいいが、買い手も付かず、管理費だけがかさみ、迷惑だと思い出したのかも知れません。

図1の着色部分は植栽に関しても整然と管理されているのにも拘らず、その周辺の「荒れ」様は目をおおいたくなるものがある。

Numazu01bp図1 沼津市資料より

私たち親の世代が苦労して工面した高額な入学金と授業料収入の一部で購入した土地と建物のほとんどが、今や無駄な投資に終わっていることは卒業生として悲しむべき事象でしょう。

半世紀前に、それぞれの夢をもって集った愛鷹山のパラダイス。
学生たちが歩いた周辺にいまでもその面影が残されています。
原駅舎の脇には、いつの時代に画かれたものなのか、手書きの大きな観光案内地図が設置されていて、それには今でも東海大学の文字がそのままです。

Img01857_20231218114301図2 原駅前の案内地図 拡大

駅前の十字路から見渡せる山の中腹には、唯一残された沼津校舎4号館(現アオイパーク)の白亜の建物を遠望することが出来ます。

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図3 原駅前交差点から遠望する旧4号館

原駅始発の通学バスは、田んぼを縦断して根方街道にぶつかると左折、しばらく麓を並走して周辺の下宿生を集めて山道に入る。
その通学バスの登り口の信号は今も「東海大学入り口」のまま。

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図4 根方街道 東海大入口
茶畑の間から望む景色は今も変わりありません。

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図5 バス道路 三保半島から御前崎

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図6 バス道路 伊豆半島 大瀬崎

傷みが目立つバス道路を登っていくと落ち葉の吹き溜まりが現れ、轍の間隔からこの道の通行量の程が覗えてしまいます。
大学健在の頃から、サルや鹿が出没していた、という噂は本当のようです。

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図7 樹枝を被り落ち葉で埋まる道路
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図8 登り詰めた分岐点、直進「アオイパーク」右手が野太馬の松の広場

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図9 かつての野太馬の松の広場
「野太馬(ヌタバ)の松」高さが17.4メートルの黒松でした。
樹齢は350年といわれます。
沼津の四名松として、大泉寺の「首掛けの松」、蓮興寺の「大松」、法華寺の「大松」と共に親しまれてきましたが、セン虫の影響で1983年(昭和58年)1月に伐採されました。

沼津キャンパス内に、伐採された「野太馬の松」の根本近くの一部(高さ76㎝×横130㎝×奥行95㎝、幹回り約3.5m)が保管されていました。
朽ちたところを取り除き、さらに強度・耐久性を増すための処置を行い、後世に長く残せるようにし、湘南校舎から昨年(2022)に清水の折戸校舎に移され現在展示設置されているはずです。

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図10 現在の野太馬の松の広場


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図11 中央並木道、ここは両サイド沼津市管理地

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図12 1973年の入学時にはもっと小さかったと思われる
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図13 樹齢50年の隔たりを今に伝えるクスノキの並木
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図14 落ち葉で埋まる並木道 その先の階段

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図15 こんな素敵な写真はもう撮ることは出来ない
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図16 中央階段、左側はアオイパーク管理下にあり、右側は沼津市受寄贈地、手入れの違いが顕著

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図17  92段を登る  かつての1・2・3号館は草に替わった。

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図18 下校で賑わった校舎前バス停
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図19 停車スペースの白線だけ乗っている もう待っていてもバスは来ない
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図20 階段からの風景
東海大学沼津キャンパスは1973年(昭和48年)、海洋学部の1,2年次生が教養課程を学ぶ校舎として愛鷹山の中腹(静岡県沼津市西野)に開設され、開発工学部の学び舎に引き継がれ、そして廃校となった。

現在、開発工学部の時代にかつてのラグビーグランドの上に新設された4号館の建物だけが残り、そのほかの建物はすべて取り壊され、体育館跡地に私企業が新しく建てた建物がある他は更地になっている。
旧4号館を見下ろす場所には開発工学部の第一期卒業生が残した記念碑が残され、かれらの存在した歴史はこれからも残されていく。

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図21 中央階段下の記念碑

ウイキペディア内の「東海大学」を閲覧すると、廃校になったキャンパスとして沼津校舎が挙げられているが、「設立1991年・理工学部開発工学部」の記載だけに終わっており、海洋学部の文字はない。
すなわち、我が海洋学部生の足跡は、92段の中央階段と海洋学部初年度に植えたクスノキの並木にしか残されていないことになる。

東海大学創立者である松前重義氏が、湘南校舎と折戸の海洋学部の間を移動中、車窓から遠望されたこの山腹の「野太馬の松」 に見惚れてこの地に学舎建設を決断したという。

この松はその巨大さから駿河湾を航行する船舶の道しるべになっていたとも云われている。
その海の道しるべが倒れてしまった昨今、役割を引き継いだように海洋学部のクスノキが「野太馬の松」を上回る高さに成長し、駿河湾を見下ろしている。
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図22 そして クスノキだけ残った
現在の所有者である沼津市民の皆様には、なんとかこのクスノキの並木の保存を末永くお願い致したく、東海大学海洋学部沼津校舎卒業生の一人としてここに陳情する。
資金がなければ流行りのクラウドファンディングの手もあるだろう。
東海大同窓会会員だけでも40万人を超えると言う。
千円づつ寄付すれば4億円。
なんとかならないものか?
一帯を市立自然公園にして頂けるならば、私、無償で草刈りに馳せ参じる覚悟あり。

2023/12/18 升

Photo_20231225160901 画像16及び22は、東海大生産工学部卒の宮田智子氏から提供いただきました。
宮田 智子(@tomoko.miyata.5) • Instagram写真と動画
画像9・12・15・18は「キャンパスの歩み」から拝借、その他は2023.12、2024.05筆者撮影。

中央階段直下のクスノキの葉っぱ

 

 

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2023/12/22

クスノキは残った  ②

50年前、札幌校舎から移動した私は、JR東海道線原駅前に住み、開校二年目の山の上の校舎に通っていました。
北口しかない駅舎を出て駅前を線路と平行に走っている旧東海道を右に曲がり、2本目の路地を左に入った、鈴木さんのお家の離れを借りていました。
鈴木邸はかつての東海道に面して大谷石の見事な門構えのお屋敷でした。
鈴木邸正門手前の狭い路地を入ったところにある裏門内に、離れは二棟。
向かって左側の大きな家に飯田さんご家族三人が住んでおられ、右手に鈴木邸の勝手口が開き、私はその真ん中の小屋を借りていました。

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図1 JR原駅前の旧東海道

「離れ」と云うと優雅な雰囲気です、確かに一軒家なのですがおかしな間取りで、三畳敷の部屋がベニヤで仕切られた形で並列に並び、一方が玄関と台所もう一方にトイレがついている、正に小屋と呼んだ方がふさわしい建物でした。
大学側や誘致した沼津市の要請で、急遽空いている空間に押し込めて作った、学生向けの建物だったのかも知れません。
その小屋の、台所のある部屋に座卓を置いて飯を食い、トイレの方に簡易ベットと机をおいて寝起きしていました。

家の門とそれに続く小さなお庭を共有している飯田家の皆さんと直ぐに親しくなり、私は一人息子の徹君と彼の従妹で近所に住む同じ原小三年の優子ちゃん、二人の勉強をみるバイトをするようになりました。
風呂は大家さん宅で頂き、週二回のバイト時には飯田さんのお家で夕飯をご馳走になる生活。

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図2 海洋学部沼津校舎ラグビー部創部時のメンバー(1973)

開校二年目になる校舎では、立ち上げたばかりのラグビー部の活動に明け暮れていました。
登校開始当時に学務課に問うと、「ラグビー部」の登録は開校時既になされているが、活動した形跡がないとの事。

同期生とはいえ編入者である我々札幌組は彼らに取れば外来種に違いない。
早速、登録されていた代表者で唯一部員の学生を探し出し再興を促したが、引継ぎを終えると彼はどこかに消えてしまった。
結局、札幌ラグビー部経験者数名と、訳の分からん水産学科の友人と同じく1年生数名をダマクラカして、一から立ち上げた草ラグビークラブ。
授業が終わると体育館近くにあった部室で着替え、重いタックルマシンを担いで並木通りを横切り、10メートルも下にあったラグビー部専用の草茫々で砂利だらけの菱形グランドで汗を流す毎日。

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図3 原海岸、ごろた石が海中まで続き潜っても面白くない浜だった(1973)

週末になると、千葉から総武線と東海道線を乗り継いで、Sさんが原駅から降りてきます。
空色のワンピースを細く白いベルトでまとめた彼女と、駅前にあったスーパーであつらえた軽食を部屋で食べていると、決まって徹が
「あっ、お姉ちゃんがきてる!」
と邪魔しに来ます。

追い出しても聞かないので、仕方なく優子ちゃんも誘い、松原を越えた海岸まで4人で散歩に出かけたものです。

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図4 原海岸(2023)
その頃は線路の向こうの松林を潜っていけば、まあるい石ころがゴロゴロ転がっている、海岸に直ぐ出ることが出来ました(注)。
ところが、現在は松林の向こうは分厚いコンクリートの擁壁で遮断され、海は遥かな遠いものになってしまっています。

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図5 日本一の高さを誇る海抜17mの沼津市~富士市(延長20km)の防潮堤(2023)

原の駅から大学行の路線バスが、真っ赤な鉄塔と螺旋階段が目立つ、キャンパス1号館の玄関先まで通っていました。
私は、友人から譲り受けたホンダのCB50というスポーツタイプの、オンボロ原付にまたがり茶畑の農道を伝ってあの山を登り下り。
ある日の帰り道、1号館前から続く大きく時計回りに湾曲した急な下り坂をエンジンブレーキだけで下山中、見通しの悪い中央並木通りから下り車線を使って右折して登ってきた2トントラックと正面衝突。

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図6 事故現場(1974~84)国土地理院

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図7 事故現場(2015)パオパオ日記より

タックルの要領で肩から突っ込み、トラックのフロントグラスに蜘蛛の巣状のヒビが、バイクの前輪がエンジンにめり込み、メットが割れる程の事故でしたが、体は無傷でした。
変に逃げずにとっさにこっちから体当たりしていったのが幸いしたようです。
ラグビーをやっていてこれほど良かったと思ったことはありません。
学務課が間に入ってくれて、お相手に新しい中古のバイクを買ってもらい、決着しました。

そうそう「離れ」の話。
私が3年次、清水に引っ越した際、ラグビー部の後輩(広田君)に徹達の家庭教師も含めて「離れ」ごと引き継いでもらいました。

ところが、早々に広田君が事故で亡くなってしまい、その後の消息は途絶えたままです。
もちろん飯田さんご家族もとうの昔に転居され、見る限りは二軒ともどなたも住んでおられなかった様です。

駅から徒歩5分のその離れは今年4月まではそのまま残っていました。
しかし、夏の間に取り壊されたらしく、今は単車を停めていたアスファルト敷きの路地だけが昔の面影です。

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図8 鈴木邸跡(2023)

この思い出深い「離れ」がそのまま残っていたことは、私にとっては懐かしく、たいへん有り難いことなのですが、その反面、原駅を含むこの地域全体が再開発されず、昭和のまま遺跡のように取り残されたように思われていました。
かつて、朝は列車が到着する度に降りて来た学生たちが待機しているバスに乗り継ぎ、午後にはバスから東海道線に乗る学生たちで賑わっていた原駅。
駅舎や駅前のターミナルは整備されましたが、駅前にあったスーパーも消え、昼の日向にも拘らず、通りを行き交う人の姿はあまり見かけません。
旧東海道の古刹を何軒も残しながら、住みやすい街を維持して頂けることを願ってやみません。

関連記事(沼津時代: Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

注)
伊勢湾台風被害の影響で初めは県の工事で昭和34年以降13M高さ(現在の海側1段下の道路)の防潮堤工事が始まった。
その後、昭和41年の台風で吉原地区で人的被害が発生した事から県が国に要請して現在の17m高さの工事が始まった。
ー国土交通省河川国道事務所富士海岸事務所所長談ー

Takashio_p2図9 原海岸防潮堤断面図(沼津河川国道事務所HPより)
県工事{T.P.(東京湾平均海面水位)+13m}の上に国工事(T.P.+17m)が重ねられている。

したがって、1974(昭和49)年当時原海岸付近に防潮堤が存在していたかもしれないのだがどうだろう。

201624図10 静岡新聞2016.2.4夕刊より

2016 平成28年4月26日(火)

前略
元東海大学沼津校舎開発工学部は、昨年3月末で閉校しました。愛鷹山の中腹にあって、周囲はお茶畑に囲まれ、南に駿河湾や伊豆半島を、北西には富士山を望む学習・研究環境としては申し分のないところでした。
しかし、実際に行ってみると、根方街道から車で急勾配の道路を10分ほど走るところにあり、通学には不便なところと感じました。閉校になった理由はよく知りませんが、この不便さがその理由の一つだったかもしれません。

麓には大学生専用の下宿もあり、多くの学生が利用していたと思われます。
「賄い付き下宿」という看板も目につき、私が大学生の頃、習志野で経験したような光景でした。
その下宿は、閉校になって以降、次の入居者がほとんど見られず、所有者にとっても大変な負担を強いられていることも見て取れます。
かつて、多くの学生を当て込んで栄えていた学生街も、一挙に疲弊しています。

そんな厳しい状況下、明るい話題も見えてきました。
大学側は、耐震性のない建物を撤去して更地とし、耐震性のある建物と全敷地を沼津市に寄付するとのことです。また、静岡県は残された施設を「機能性のある農作物の研究開発するための先端研究施設」として活用する方針を表明しています。既に平成15年度2月補正予算にこの関連予算を盛り込みました。静岡県が目指す今後の農業振興の大きな柱の一つとして期待されています。
大学が生まれ変わって活用されることは大変良いことではありますが、多くの学生により賑わっていた街を取り戻すことは大変厳しい状況と言わざるを得ません。
後略

大学閉校の影響 - 鈴木すみよしブログ (goo.ne.jp)より抜粋、図11も。

Photo_20231213173001図11 かつて大学生で栄えた賄い付き下宿も、今は居住者がいない


2017 平成29年 4月14日
東海大跡地を研究開発拠点として売却、沼津市が公募
静岡県沼津市は、2017年3月末に寄付を受けた東海大学沼津校舎跡地を民間事業者に売却する。地域振興に資する研究開発などに活用することが条件だ。5月から公募を開始する。

Numazu01bp図12 物件1と2が今回の対象地(資料:沼津市)

東海大学沼津校舎は、1973年に海洋学部教養部として開校し、1991年からは開発工学部として、人材育成や産業の創出など、地域の活性化の役割を担ってきた。
だが、少子化や人口の首都圏一極集中の進行など、開校当時と社会情勢が大きく変化したことで、2015年3月の全学部生・大学院生の卒業をもって閉校となっていた。
寄付を受けるのに先立ち沼津市では、2016年9月から10月にかけて「対話型調査」を実施し、民間活用の可能性を確認していた。

売却対象地は、沼津市西野字霞の学校用地2カ所だ。
一つは、約5600㎡で最低売却価格が1㎡当たり7400円(図中の物件1)。
もう一つは、約1900㎡で同1万900円(図中の物件2)だ。
いずれも、新東名高速道路駿河湾沼津スマートインターチェンジの近くに位置する。

Numazu03bp図13 物件2の状況(写真:沼津市)

また、静岡県が大学跡地の一部を使用し、農業の生産性向上を目指す「先端農業推進プロジェクト」の拠点として、2017年夏の開所に向けた施設整備を進めるなど、今後、有効活用が見込まれる土地と位置付けている。

応募者は事業計画および対象地の買受希望価格を提案する。
市は、選定委員会による提案内容の評価を踏まえて優先交渉権者および次点候補者を選定する。

提案書類は5月1日から19日まで受け付け、5月下旬に審査して結果を通知する。
市と優先交渉権者は、事業内容や価格などについて協議・調整のうえ、7月中旬に仮契約し、その土地売買契約を締結する予定だ。

ー日経BP 総合研究所 新・公民連携最前線より(図12・13も)ー
東海大跡地を研究開発拠点として売却、沼津市が公募|新・公民連携最前線|PPPまちづくり (nikkeibp.co.jp)

2010_20231213175301図14 左上が沼津校舎、その下に工事中の新東名と駿河湾沼津SAが見える(2010)国土地理院

2017 平成 29 年6月2日(金)発表

報道取材情報(沼津市)
名 称 等 東海大学沼津校舎跡地活用事業者の公募結果について
実施日時 平成 29 年6月2日(金曜日) ~
担 当 企画部 政策企画課

1 内 容
沼津市では、平成 29 年3月末に学校法人東海大学より東海大学沼津校舎跡地の土地及び建物等の寄附を受け、民間事業者による有効活用を図るため、公募売却により「地域振興に資する研究開発施設等」の立地を図ることを目的とした、提案型の事業者の募集を行いました。
このたび、5月 26 日(金)に事業者選定委員会を開催し、選定結果を踏まえ次のとおり優先交渉権者を決定いたしましたのでお知らせします。
<優先交渉権者>
・所在地 東京都千代田区外神田四丁目 14 番1号
・事業者名 SMC株式会社 代表取締役社長 丸山 勝徳
・活用予定地 沼津市西野字霞 317-1 外の内(約 5,600 ㎡)
・事業概要 自動制御機器製品の研究開発を行う(仮称)沼津技術センターの整備

2 事業者選定の経過
平成 29 年3月 27 日に募集要項の公表、5月1日から 19 日まで提案書類を受け付け、書類の提出があった1社について、5月 26 日の「東海大学沼津校舎跡地活用事業者選定委員会」において、応募者によるプレゼンテーション及び委員との質疑応答を行い、事業内容、事業計画について審議した結果、上記の事業者が優先交渉権者としてふさわしいとの評価を受けました。

この結果を受け、沼津市では「SMC株式会社」を優先交渉権者として決定し、今後、契約の締結に向けた協議を行ってまいります。

3 今後のスケジュール(予定)
上記の協議が調った後、仮契約を締結し、沼津市議会の議決をもって本契約へ移行することとなります。
施設開業は、平成 31 年2月以降を予定しております。

出典:沼津市HP

 

2017年 平成29年 6月19日

SMC、沼津市に技術センターを計画/東海大学沼津校舎跡地を活用

静岡県沼津市はこのほど、東海大学沼津校舎跡地の優先交渉権者をSMC(東京都千代田区)に決定したと発表した。
場所は沼津市西野字霞317-1外の内。

概算地積は約5,600㎡。
自動制御機器製品の研究開発を行う(仮称)沼津技術センターの整備を計画する。
同市は、2017年3月末に学校法人東海大学より東海大学沼津校舎跡地の土地及び建物等の寄附を受け、民間事業者による有効活用を図るため、公募売却により「地域振興に資する研究開発施設等」の立地を目的とした、提案型の事業者の募集を行っていた。
市によると、対象地は新東名高速道路駿河湾沼津スマートインターチェンジの至近に位置していることや、県が対象地の一部を使用し、農業の生産性向上を目指す「先端農業推進プロジェクト」の拠点として、2017年夏の開所に向けた施設整備を進めているなど、その有効活用の可能性のある土地だとしている。

■ 計画概要
所在地:静岡県沼津市西野字霞317-1外の内
概算地積:約5,600㎡
事業概要:自動制御機器製品の研究開発を行う(仮称)沼津技術センターの整備
SMC、沼津市に技術センターを計画/東海大学沼津校舎跡地を活用

設備投資ジャーナルSMC、沼津市に技術センターを計画/東海大学沼津校舎跡地を活用 | 設備投資ジャーナル (setsubitoushi-journal.com)より

 

2017年 平成29年 8月6日   
沼津市役所

【東海大沼津キャンパス跡地に、先端農業の研究拠点「AOI-PARC」誕生!】

8月3日、静岡県が産学官金の協力で、産業分野や学術分野などが互いの技術やアイデアを持ち寄って、農業をはじめとする関連産業で新たな価値を生み出す「アグリ・オープンイノベーション(AOI)プロジェクト」の拠点施設「AOI-PARC」(アオイパーク)の開所式が行われました。この施設は、旧東海大学開発工学部の校舎の1•2階を改修したもので、県農林技術研究所、慶應大学、理化学研究所など計14事業所・機関が入居します。
施設内には、植物に照射する光の量や温度、湿度などを変えて30万通りの環境条件が設定できる次世代栽培実験装置など、最先端の実験設備を備えており、農業を成長産業にするために、科学的な知見を幅広く集め、加工や販売、流通の革新も目指します。

詳細は県HPでhttp://www.pref.shizuoka.jp/san.../sa-310/sentannougyou.html

 

2018 平成30年 7月1日

沼津市で褒状伝達式

学校法人東海大学に紺綬褒章
学校法人東海大学にこのほど紺綬褒章が授与され、6月25日に沼津市役所で褒状伝達式が行われた。
紺綬褒章は公益のために私財を寄付した個人または団体を国が顕彰する制度。
今回の受章は、学校法人東海大学が昨年3月に旧東海大学沼津校舎の土地(24万3194平方メートル)と建物(旧4号館と同館を使用するために必要な建物等)を沼津市に寄付したことによるもの。
今年2月24日付で内閣府から授章が発令されていた。
2015年3月まで開発工学部などが置かれた旧沼津校舎の用地には現在、静岡県によるアグリ・オープンイノベーション施設「AOI-PARC」が開設。
静岡県内外の研究機関や企業が連携して農業の生産性革新に関する研究に取り組んでおり、東海大も参画している。
伝達式には沼津市の賴重秀一市長らと東海大から石丸明弘副学長が出席。
賴重市長から石丸副学長に褒状が手渡された。
石丸副学長は、「静岡県は学園建学の地でもあり、今後も協力できることがあれば積極的に取り組みたい」と話した。

東海大学新聞WEB版より

 

2021 令和3年3月 29 日(月)発表 

報道取材情報(沼津市) 名称等 東海大学沼津校舎跡地の公募売却について

実施日時 令和3年3月29日(月曜日) ~
担 当 財務部 資産活用課

1 内 容
沼津市では、東海大学沼津校舎跡地の有効活用による地域活性化を図るため、民間事業者による対象地の活用提案を公募します。

2 対象地の概要
番号 所在 登記地目 概算地積
物件番号1 沼津市西野字霞 316-1 外の内 学校用地 約 33,000 ㎡
物件番号2 沼津市西野字霞 341-5 外の内 学校用地、山林 約 148,906 ㎡

3 スケジュール(予定)
項 目 予定時期
募集要項の公表 令和3年3月 29 日(月)
質問書の受付・回答 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 24 日(月)
参加登録の受付 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 31 日(月)
提案書類の受付 令和3年6月1日(火)~令和3年6月 30 日(水)
プレゼンテーション審査 令和3年7月上旬
審査結果の通知 令和3年7月上旬

4 実施要領の公表について
 3月 29 日(月)15 時から沼津市ホームページに募集要項を公表します。

2023/12/18 升

つづく

拝借画像
スローライフを送る ヨガインストラクターのヨガと野菜のある暮らし 「ベジタリ庵のパオパオ日記」:東海大学沼津校舎は閉校 (i-ra.jp)

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2023/12/20

クスノキは残った ①

海洋学部は1962(昭和37)年4月に開設され、教養課程は主に湘南キャンパス、一部は札幌キャンパスなどで学び、3年次以降の専門課程を清水キャンパスで学んでいました。

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図1 湘南キャンパス 1974~78
      メインストリートの左中央がラグビー場 
   

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  図2 札幌キャンパス、右下は東海大第四高校 1974~78
図左端中央野球場の下がラグビー場

離れ離れの非効率性を軽減するため? 清水に近い沼津に教養課程が置かれました。
東海大学沼津キャンパスは1973(昭和48)年、海洋学部の1、2年生が教養課程を学ぶ校舎として開設されました。

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 図3 清水キャンパス1974~78 
     中央野球場の右上がラグビー場    
         
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図4 沼津キャンパス1974~78
中央通り左側茶色部分の真ん中がラグビー場

東海大学沼津校舎は標高230mのところにあった。
そして学生たちはその麓に下宿していたのがほとんどだった。
ということは歩いて通学するには毎日200m以上の山に登らなくてはならないということだ。

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画5 山腹に聳えていた沼津校舎 2010頃

他の私立大学に比べ高めの学費に比べ、生活費も親に仕送りしてもらっていたので、バイトなどはいろいろと行っていたが、あまり金のない学生が多かった。

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図6 沼津キャンパス1974~78
南側(画像下)に東名と新幹線が走っている

学生アパートの周りは田んぼだらけで1万5千円の中古バイク(ホンダのスーパーカブ)を購入し、それを足がわりに使っていた。
スーパーカブは私にとってすばらしい車だった。
燃費はリッター50キロ 沼津から東京の実家までやく150キロだったから3リッターで帰れる。
そのころガソリン1リッターの値段は75円だったから225円で東京まで帰る事が出来た。
しかし原動機付自転車は高速道路は走れない。
国道246号を制限時速30キロで走り、沼津から東京まで5~6時間の道のりだった。
沼津で天然のヤマイモをもらった時は佐々木小次郎のように背中にたすきに背負って帰った。
学生時代に東京・沼津 また東京・清水間は30往復くらい走ったのではなからろうか。

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図7 沼津キャンパス1974~78
南側(画像下)にR1、JR東海道線(原駅)、相模湾原海岸が見える

食生活も切り詰めたものだった。
家からの仕送りでは外食なんて出来るものではない。
全員自炊が原則だった。
朝はパンにミルク 昼は学生食堂のカレーライス 夜はご飯に肉野菜炒め、味噌汁にお茶が普通の食事だった。
しかしダイビングなど自分の好きな事をやるためにはお金が必要となる。
学生アパートのとなりの畑中という人間は後に水中写真研究会のメンバーになるのだが、家から仕送りされてきた米と塩昆布とお茶だけで2ヵ月ほど暮らしていた。
あるとき彼は風邪をひいたが、栄養失調気味の体だったのだろう。
起き上がれなくなり、私が毎日食事をもって行って、食べさせていた。


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図8 沼津校舎パンフより

みんなで米だけを炊き 胡麻塩だけで、空腹を満たした事もある。
1個15円のキャベツを買って来て、1週間暮らしたり、のりの佃煮とご飯とお茶だけで、5日間を過ごしたこともある。
次の仕送りが来るまで、寝袋に入り、冬眠するという者もいた。
学生時代に皆でで集まるとラーメン ギョウザ ライスを1度でいいから食べてみたいという話題になった。これは卒業まで実現しなかった。
学生食堂のカレーが70円から90円になり、110円になった時は、ほんとうに暴動が起こった。


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図9 学園史ニュース№6より

しかし全員が貧乏だったので、それを楽しんでいたような気がする。
むしろ金を持っていることは恥ずかしいことだった。
ほんとうに食うに困れば、食事を食べさせてくれる友達はいくらでもいた。中略
金はなかったが楽しい青春時代であった。
―Kappa World「河童の独り言」より抜粋



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図10 沼津校舎パンフより

その後、海洋学部の教養・専門両課程を清水に統合することとなり、1987(昭和62)年度の2年次生から順次清水へ移転しました。
1988年度からは1~4年生すべてが清水で学ぶ体制となり、沼津教養部は1987年度末(1988年3月)、15年に及ぶ役目を終えました。
そして、1991(平成3)年に開設された開発工学部の学舎となって再スタートを切りました。


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図11 沼津校舎パンフから

1991年、まだ開校したばかりの…「沼津キャンパス」
第1回 愛鷹祭 ZARD LIVE(大学関係者と、所属事務所の関係者が…知人同士という、きっかけで実現)
当時…学園祭にかかわった関係者によりますとLIVEのパンフ作成、企画、運営…全てが手探り状態
沼津市の街中、高校の前や…富士駅、沼津駅前にて「Good-bye My Loneliness」を流しながら、PR活動やチケット販売…実地
チケット代は、1,500円(当日まで売れ残り、直前には…500円で販売されたとか)

O0800068313194069997図12 1991.11.03 第1回 東海大学沼津キャンパス 愛鷹祭のチケット
第1回愛鷹祭 ~初めてだからやさしくしてね♡~
「Zard LIVE IN TOKAIUNIV. “GOOD-BYE MY LONELINESS”」
DATE:1991年11月3日(日) 
PLACE:東海大学沼津校舎体育館
START:PM4:00~
PRODUCE:東海大学愛鷹祭実行委員会
Zard CONCERT TICKET 前売り券 ¥1.500/当日券 ¥1.800

ZARD(まだ、Zard表記の時)メンバーは、デビュー当初の5名
坂井泉水(ヴォーカル)、町田文人(ギター)、星 弘泰(ベース)、道倉康介(ドラム)、池澤公隆(キーボード)

泉水さんは、黒色短めジャケットに白色シャツ…、黒色ホットパンツ姿&黒色ブーツの装いで…ご登場☆

~セットリスト~
01.「こんなに愛しても」
02.「Lonely Soldier Boy」
03.「もう探さない」

(MC)
「Good-bye My Loneliness」の楽曲紹介中に観客から…「知ってるよ!」との声がかかり泉水さんは、「ホント!?」と嬉しそうな表情だったとか…

04.「Good-bye My Loneliness」
05.「女でいたい」
06.「不思議ね…」

(衣装替え)
時間がかかってしまい… 道倉さんの合図により、会場からの“泉水コール!”を受け再登場☆

07.「Oh! Sugar Baby」
08.「恋女の憂鬱」
09.「愛は暗闇の中で」

(アンコール1)
会場から“アンコール”の声援。他の4名のメンバーに続き…泉水さんも再び登場!
10.「もう探さない」
11.「It's a Boy」

(アンコール2)
12.「Good-bye My Loneliness」

とても、盛り上がりを魅せた学園祭LIVEだったそうです
ー2011.11.03  ブログ「穏やかな時間(とき)の中に」よりー

華やかなオープニングで始まりました新学部でしたが、2012年度をもって開発工学部正規課程が終了し、その歴史に一つの区切りを迎えました。

2010_20231212092101 図13 沼津キャンパス2010
ラグビー場の跡に4号館が出来ている


2008.12.08(中日新聞より)
「東海大・沼津校舎の開発工学部廃止 来春入学生卒業後に」
<地元の沼津市政策企画課は「市内唯一の大学で住民からは存続の要望もある。今後の方針をきちんと提示してほしい」としている。

開発工学部は、組織改編で1988年に廃止された沼津校舎内の海洋学部教養部の後を継ぎ、91年に開設された。県と同市は学部の校舎整備などに約70億円を投じていた。>

 

2008.12.08(毎日jpより)
「東海大:開発工学部廃止へ 10年度から募集停止--沼津校舎 /静岡」
<東海大学沼津校舎(沼津市西野)にある開発工学部(西山幸三郎学部長)が廃止されることが5日までに分かった。来春は入学生がいるが、その後の募集をストップする。

同大学長室企画課によると、理工系学部の志望者減少を受けて進めている学部再編の一環。開発工学部全体では5年間定員割れが続いており、廃止を決断したという。
今年度は定員1440人に対し、学生数は780人にとどまっている。
同学部の5学科のうち、人気が高く唯一定員を満たしている医用生体工学科は、湘南校舎(神奈川県平塚市)に移転するが、他の4学科は廃止する。
沼津校舎は研修センターなどへの転用を検討している。

沼津市によると、同学部は県東部唯一の理工系学部として、県と同市が熱心に誘致活動を行い、校舎の新築や改修に県が約45億円、市が約22億5000万円の補助金を出している。
同市は「沼津市の産学官連携の拠点で、県のファルマバレー事業にも参加していただけに、廃止の影響は大きい」と話している。

一方、4日に地元の平沼自治会などが、同市に学部存続の要望書を提出。
同自治会の杉沢正昭会長は「地元には学生向けのワンルームマンションを経営している人も多く、影響が大きい」と撤回を訴えている。>

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図14 沼津校舎閉鎖の日の1号館前(2015)

2015年03月31日
東海大学沼津校舎は閉校
桜が満開を迎える本日 3月31日 17:00 東海大学 沼津校舎 閉鎖となりました。 

帰路の学坂のカーブをひとつ曲がる毎に 終了したんだな~と いろんな思いがこみ上げてきました。
先週は沼津駅周辺の飲食店で教職員の皆さんと 別れを惜しみながらの最後のお別れ会の食事会でした。 
ここ数日は毎日、退職されたり 他校に移動された教職員の方々、卒業生の方が代わる代わる閉鎖される校舎に遊びに来てくれていました。

私は学会事務局と大学臨時職員として 20年間も勤務させていただいて、長い間お世話になりました。 
家から近いのが一番よかったわ♪ さて、明日からはゆっくりマイペースな生活を送ります。
ー2015年03月31日(ブログ「ベジタリ庵のパオパオ日記」より)図14もー

2023/12/12 升

続く

引用文献リンク集

①KAPPA WORLD TOP/水中撮影河童隊 (coocan.jp)

②ザードチケット画像元
ZARD伝説の1stライブの地、東海大学沼津校 2016. 8. 6 sat | Feel Sound & Life (ameblo.jp)

穏やかな時間(とき)の中で… ZARD 20年前の…ファースト LIVE(東海大学沼津キャンパス 愛鷹祭)&11/9 TV情報(1番ソングSHOW) (fc2.com)

④スローライフを送る ヨガインストラクターのヨガと野菜のある暮らし 「ベジタリ庵のパオパオ日記」:東海大学沼津校舎は閉校 (i-ra.jp)

⑤パンフレット{沼津キャンパスのあゆみ (tokai.ac.jp)}

東海大学学園史ニュース6号 (tokai.ac.jp)

*航空写真はすべて国土地理院より拝借しました

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2023/09/09

吉津屋焼失

昭和30年代、小さな脚で走り回れる10分圏内だけが、私の宇宙全てでした。
幼馴染と駆け巡る野原や裏山、小学校へのイトミミズがたなびくドブ川沿いの小道は我が物顔のお庭だったのです。
緊張を強いられる場所は唯一杉田駅から繋がる「シンドウ」と称されていた商店街で、そこは都会の臭いが怪し気に漂う大人の居城で、なんでも手に入るアミューズメントパークでもありました。

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昭和30年ごろ

かつて、国鉄京浜東北線の延長で磯子駅から大船駅までの根岸線開設の計画があった時代。
この延長計画作成時に、既存の京急杉田駅を500m程南のJR線との交点に相互乗り入れ駅として移動する案が検討されたのは必然的なことだったと思います。

結局この斬新なアイディアは商店街の大いなる反対で廃案になり、JR新杉田駅は国道16号線の向こうに建てられ、京急杉田駅は動きませんでした。
既存の商店街が消滅するという理屈なのでしょう。

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1961~69 国土地理院航空写真に加筆

昭和45(1970)年、JR根岸線が磯子駅から延長され大船寄りに新杉田駅が開業されました。
新杉田駅は京急杉田駅から東へ直線的に「シンドウ(新道)」商店街を抜け約600m、徒歩7分の距離に出来ました。
そのため、京急線⇔JR線の乗り換えポイントとなり、商店街は地元の利用者の数倍いや数十倍の通行者で溢れるようになったのです。


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1974~78  国土地理院航空写真に加筆

相互乗り入れ駅の実現から得られたはずの利便性と、広大な面積の埋立地を控えた地域制からくる将来像は、近隣の上大岡地区に勝るものであった事は疑う余地はありませんでした。
JRと京急線が繋がれば必然的に市営シーサイドラインの始点にもなり、市営地下鉄も上大岡から杉田まで延長せざるを得ない状況になったはずでしょう。

結果として京急杉田駅周辺の再開発は量販店の入る高層マンション付きターミナルビル一棟が建てられてだけに留まり、「新道商店街」を含んだその他の地域は、昭和を色濃く残したまま平成を経て令和に引き継がれたのです。

 

激安の杉田商店街としてその名を横浜・横須賀地域に轟かせていた30年程前までは、八百屋・魚屋・肉屋・雑貨屋等が立ち並び、最盛期にはこの200m程の間に八百屋が3軒・魚屋2軒肉屋1軒が凌ぎを削っておりました。

しかし、東急ストア・スズキ屋・ビーンズ新杉田・0Kストア・イオンマイバスケットの巨大チェーン量販店が半径300mの範囲にまるで「新道商店街」の出入口を塞ぐ立地で聳え立ち、一挙に生活に密接する部分の店舗が「新道」から消失し、替わりに居酒屋とラーメン店及び怪しいディスカウント店がひしめく様に、様変わりしました。

居酒屋は何とかコロナ騒ぎを乗り切った様ですが、酔客が最後の〆に使っていたであろうラーメン屋はことごとくいなくなりしました。
現在では、薬屋や整体治療院やマサージ店などが幅を利かせるようになりました。
そんな中、ただの一軒、奇跡的に八百屋が絶滅を免れて生き残っていたのです。

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その八百屋が入る以前に、その店がどんな商売をしていた建物だったのかはもう記憶の外です。

今は大きな居酒屋になっている店舗に、昔ながらの八百屋が入っていました。平棚に野菜や果物を野積みして、青菜がしおれてしまっても平然と同じ値段で売り続けるのんびりとした店で、私でさえあまり利用した事がありませんでした。

ところが、その店のはす向かいに同業他社、そう八百屋が店を開きました。
その八百屋の商売は烈しく、店舗は小さいながらも新鮮な商品を山の様に積み上げ、しかも単価ははす向かいの同業他社の半値ほど。
明らかに対抗意識むき出しの商法に「のんびり八百屋」が店を畳むのに2週間は掛かりませんでした。

その勝ち組の八百屋も当初の屋号から既に三つほど店の名称が替わっています。
経営者そのものが替わったのかどうかは知る由もない事ですが、確かに、都度従業員が入れ替わってはいました。
しかし、商売のやり方そのものは屋号が変遷しても全く同じで、すなわち、仕入れは全て一流落ち品で、鮮度さえよければ形状にこだわらないという私の様な消費者にはうってつけといえます。

一階のすべてが店舗で二階が倉庫。
看板商品が陳列からなくなり次第、後から後から二階の倉庫から運ばれてきます。
商品には売価シールなど個々に貼られてはおらず、陳列棚に値札が立てられているだけです。
店長は、その日に売り切れそうもないと判断すると都度売価を下げ、またその逆もありです。

指示は店頭から「大根 赤テープ、今から70円!」等と口頭でレジに怒鳴るだけ。
レジの小母さんは「ハイ、ワカリマシタヨ」と片言の日本語で答えます。
すなわち、東南アジアご出身と思われるレジの小母さんは、日々変化する生鮮野菜の、更には同じ物でもテープの色で区別された、数十のアイテムの値段を開店前に全て記憶した上でレジを打っている事に他ならないのです。

この二人の他に男女二人、いずれもレジの小母さんのお仲間らしく、普段は片隅でスイカを切ってラップで包んだり、品出しをしたりしているのだけれど、レジに行列が出来るともう一つのレジに立ったりするオールマイティーな人達。
つまり、非常に生産性の高い機動的頭脳集団だったのです。

 

 

その日は数分前から緊急車両のサイレンの音が頻繁にしていました。
毎日のルーティーンで私は09:50に家を出ます。
散歩は日の出と共に既に消化済なので二回目の外出になります。
背中にバックパックを背負っているのは買い求めた食材の運搬のため。

家からかつてのドブ側を暗渠にし拡張された杉田小学校沿いの道を東に抜ければ、ほぼ直線で新杉田駅に着きます。
ほぼ7分。
途中イオンの「マイバスケット」顔を出し、グレープフルーツジュースと牛乳の3割引き商品を探していけば新杉田駅ビル1F内の食品売り場に、シャッター解放の10時丁度に到着します。

この食品売り場の一画にある魚屋は、私のお気に入りで、本社は三浦半島南端の城ヶ島にあります。
三崎港や長井港に水揚げされた地の魚を中心に、市場のその日の相場で店頭に並べる、近年珍しい正当な魚屋です。

近年のスーパーマーケットの魚売り場は、一年中同じ魚が同じ値段で並んでいる、つまらないものです。
ところがこの店は30円/100g等という法外な単価でイワシやアジを、時にはエビやカニを並べていたりします。
普通のスーパーマーケットで同様なことをすると「他の品物が売れなくなる」という、つまり店舗側利益だけの理由で、この様な飛び入り的売り方を排除しているようです。

例えば、定置網に思いのほか今日はアジが滅法入ってきたがどうやって裁こうか?と嬉しい悲鳴を上げている網元・漁協・生産者の立場に立ち、さらに、少しでも安く買いたいという購買者の利益、この双方の間に位置するのが市中の魚屋の勤めだと思います。

このお気に入りの昔気質のお店に開店早々に行く理由は、そんな獲れたて爆安の魚目当てだけでなく、早朝から商品ケースの向こうで捌いた魚のアラがその時間だけ並ぶからなのです。
アラ炊き、アラ汁、骨の剥き身、ただ同然のこれだけあれば美味しいご飯がいくらでも頂けます。

この魚屋で魚を見繕い、例の八百屋で糠漬けの材料を贖うのが日課でした。

 

しかし、その日は寄り道を余儀なくされました。
上空には2機のヘリコプターが私の頭を中心点に時計回りに同心円周上を爆音を立てながら旋回していました。

 


横浜 磯子 商店街で4棟焼ける火事 青果店から出火 けが人なし
2023年9月2日 11時47分 ―NHKニュースWEB―

 

<2日午前、横浜市磯子区の青果店から火が出て、周辺の店舗を含めあわせて4棟が焼ける火事がありました。
この火事によるけが人はいないということで、警察と消防が火事の原因など詳しい状況を調べています。
2日午前9時半すぎ、横浜市磯子区杉田1丁目の青果店で「2階のゴミ箱から火が出ている」と従業員から消防に通報がありました。

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NHKニュースWEBより

警察によりますと、火はおよそ3時間半後に消し止められましたが、この火事で、青果店が全焼したほか、周辺の店舗や住宅あわせて3棟の外壁も燃えたということです。
また、この火事によるけが人はいないということです。

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現場は、京急線の杉田駅からおよそ200メートル東の商店街で、警察と消防が火事の原因など詳しい状況を調べています。>

 

NHK他の報道の後、火災は広がり、隣接の中華料理屋とその裏手の居酒屋も類焼したようです。
事故から1週間が経った今でも商店街に煙の臭いが漂い、私は野菜の入手先に手をこまねいています。
これを機に、横浜市や消防署が望むこの地域一帯の、味気ない再開発の魔の手が伸びてこない事を願っています。

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2023/09/09 升

 

 

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2023/02/28

欣治の一乃湯

箱根駅伝で毎年見慣れている風景を自分で車を走らせるとその街道が思いのほか狭いことに驚く。
小田原から箱根湯本の駅まで左側を沿っていた早川は、駅を過ぎると急に蛇行の幅が大きくなる。
そのクネクネを逆に縫い上げるように国道1号線はイロハに登り続ける。

函嶺洞門を颯爽と潜り抜けるランナーの姿がこの辺りの象徴的な風景だ。
バイパス化して川と道の交点には橋が二つ増え、現在は五つの橋が連続して架かっている。
最後の橋を過ぎると見切ったように流れは道の右側の山の深みに分け入って見えなくなる。

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画像ー1

この辺りは塔ノ沢と呼ばれ、登山鉄道の駅は山に立ち入った高い場所にある。
宿はその5番目の橋を渡った所にあり、敷地の東と北の2辺が、大きく湾曲した早川の流れに囲まれて、戦国の時代であれば正に天然の要害といった立地に建っていた。

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画像ー2(絵葉書)

< はやかわの かまびすしさに つつまれて

沢の水音に包まれて風呂ギライの私が半刻も温泉に浸かっていました。
本を読みながら。
寛永期、家光時代の創業との事。
当時の建物かは存じ上げませんが設計者に脱帽。
建物・内装の古めかしさとは対照的に、若い人少人数での対応はスマートで完璧。
コロナ禍が産んだ新次元の接客技術かと。
部屋よし風呂よし飯よし接客よし。
この宿ならば胸を張って人に紹介できます。
ほめ過ぎたので苦言を一言。
電話番号でナビるととんでもない所に連れて行かれます。>

上記の文章は「じゃらん」に現在掲載されているその宿の「口コミ」で私が投稿したものだ。
書いたものはありのままの気持ちで、評価は朝食の4以外は、全て満点の5を付けさせてもらった。
朝食のマイナス1はアジの干物が冷たかったからに他ならない。
文末の苦言は電話番号が予約センター(別場所)だったためで宿自体の評価と異なる。

以上あまりにも気持ちが良い宿であったためか残念ながら写真を撮ることも忘れてしまい、写真はチェックアウト後に撮った1枚(画像ー1)と夕食に出た船盛の写真だけ。

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ところが、この度実家の仏壇を整理していたところ、祖父(明治25年生)の遺品の中から見つかった大量の絵葉書の中に、この宿の名前が書かれた絵葉書の外袋が出てきた。

色褪せた赤い紙の外袋の中に、私がひと月前にスマホに収めたものと瓜二つの建物が現れた。
他のハガキの日付から明治41年頃に入手したものと思われる。

今から115年も前の頃で、なるほど内部は、4階建てなのにも拘わらずエレベーはなく、2階の部屋から1階の大浴場に行くにも4階の食堂に行くにもペタペタと草履を鳴らして階段を使った。

だが、その当時の4階建ての建物がいまだ現役で客を泊めているとは考えにくく改めて調べてみた。

この辺りで最初に出来た宿という意味で「一乃湯」と名が付いたこの宿の創業は1630年という。
寛永期、3代家光の時代だ。

 

安藤(歌川)広重の「箱根七湯図会」の浮世絵にも描かれている由緒正しい宿であった。
広重の絵は嘉永5年(1852)の作とされている。

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画像ー4(ICSA Cafeより)

橋の右側が一乃湯で建物の配置は全く同じだが建物は2階建てなので現在の4階建てとは異なっている。

いまの建物は明治期のものという。
欣治の絵葉書には電話番号として、湯本8番43番と印字されている。
箱根に電話が引かれたのは明治35年(1902)9月の事なので絵葉書の発行はそれ以降となる。

余談になるが、解説当時湯本局の電話は、二番(福住楼)、三番(環翆楼)、四番(玉の湯)、五番(新玉の湯)、六番(塔之沢福住楼)、八番(一の湯)のみで、絵葉書にある43番は以降増設した回線と考える(箱根温泉「箱ぴた」より)。

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画像ー5(福住楼HPより)

ちなみに、湯本の福住楼には電話番号2番を掲げた電話ボックスが残されている。

現在の宿の評価は、私などが解説するより「日本文化情報発信サイト IHCSA Cafe」より下記引用させて頂く。

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画像ー6(絵葉書 
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画像―7(ICSA Cafeより)

<明治時代の木造建築である今の建物は、現代の建築諸法令に照らしても十分な頑丈さを保ち続けており、部屋数は現在21あるが、1つとして同じ造りの部屋が無い。

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画像ー8(絵葉書)
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画像ー9(ICSA Cafeより)

競争力を保つために価格を抑える必要性とのトレードオフとして、ここには女将や下足番、仲居さん、料理人はいない。旅館として提供すべきことを選択し、集中させたのである。
箱根地域でグループ7館を統括する総料理長が1名いる他に各館に料理人を置かず、マルチタスクをこなす従業員が手分けして調理の最終作業を行っている。>

欣治がこの絵葉書を入手したのは私立成城学校中学科4年生の16歳の頃。

当時はもちろん女将も下足番も仲居さんも料理人もそして芸者さんも沢山いたはずである。
絵葉書は誰かの土産で貰ったものか、果たして、自身が宿泊利用したのか定かではない。
だが、やせぎすで坊主頭の青年が浴衣を着てあのギシギシ鳴る狭い階段を上り下りする姿を思い浮かべるのは楽しい。

再びお世話になる機会あれば「宿帳」など閲覧させて貰おう。

2023/02/28 升

あとがき

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2階中央の出っ張りの左側が私の泊った部屋

 

 

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2022/12/18

 増上寺|崇源院|建長寺 ④

この文章は2022年12月に書いている。
増上寺徳川家墓所の考古学的調査(昭和33~35)により崇源院八角堂形宝塔直下の地中から掘り出された創建の宝塔は五つに分かれており、その高さは積算して5mを超す長大な石の彫刻物であったのに拘わらず、その後案の定、行方不明となっていた。

「増上寺|崇源院|建長寺」シリーズ①②③は2014年3月に記載した。
おりしもその同じ年に彼女の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部が見つかっていた。
場所は山梨県甲州市在の恵林寺というお寺の境内。
発見された宝塔の部位は下から二番目の塔身部。この内部に遺骨が納められていた。

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図1 増上寺で発掘された崇源院宝篋印塔の塔身

その塔身(墓石)の調査報告書「高橋修:再発見にかかる崇源院(二代将軍秀忠夫人)墓石の碑文考」から、私の長年の疑問のほとんどが解消されたので是非ご一読ください(青色活字をクリックで原文にリンク)。

以下要約させて戴きました。

1.墓石
墓石の大きさは高さ82.4~84.5㎝、幅137㎝で、金箔の付着が認められることから、宝篋印塔全体に金箔が貼られていたと思われる。

2.碑文
 【H.26今回の写】                    【S.33発掘時の写】

(北面)
① 多少修繕奉持斎戒         多少修繕奉持斎戒
② 起立塔(像飲)食沙門        起立塔□□食沙門
③ 懸繒燃燈散花焼香           □□燃燈散花焼
④ 以此廻向願生彼国           以此廻向願生彼国
(東面)
⑤ 天下和順日月清明         天下和順日月清明
⑥ 風雨以時災厲不起         風雨次災厲不起
⑦ 崇源院一品太夫人昌誉大禅定尼尊儀
⑧ 国豊民安兵戈無用         国豊民安兵戈無用
⑨ 崇徳興仁務修礼譲         崇徳興仁務修礼譲
(南面)
⑩ 其有得聞彼仏名号         其有得聞彼仏名号
⑪ 歓喜舞踊乃至一念         歓喜舞踊乃至一念
⑫ 当知此人為得大利           当知此人為得大利
⑬ 則是具足無上功徳           則是足無上之功徳
(西面)
⑭ 夫尊像者三仏同証       夫尊像者三仏同
⑮ 密意恒沙功徳照用       密意恒沙功徳照用
⑯ 己然真宗秘蹟稍異         己真宗秘□□□
⑰ 右令寔以終窮極謐         有寔以終窮極謐
⑱ 斉凡秘術世伏是宝         斉□□伏是宝
⑲ 祚万歳天地久(長)黎        祚威天地久裂□
⑳ 民快楽永々                  此快楽永々
㉑ 寛永三年九月十五日      寛永三年九月十五日
㉒  桑誉了的叟謹書            桑誉了叟謹書

*旧字は当用漢字を充当、〇は便宜上の番号、(東面)等は発掘時の墓石方面、( )内の文字は推定。
*[筆者添付]S.33発掘時の写:「増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体」1967年 P.62~63より。アンダーライン部が異なる。

【現代語訳】
(東面中央部)
⑦ 崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼尊について
(北面)
①(崇源院が極楽に往生できるようにするために)多くの善行を積み、身を清め、
② この塔を建て仏像を造り、僧侶に食べ物を捧げて供養し、
③ また、懸繒(絹の天蓋を仏殿に懸けること)、燃燈、散花、焼香をし、
④ これら仏事の供養をすることで、崇源院の極楽往生を願うものである。
(東面)
⑤(そうすれば)天下はよくおさまり、日月はさわやかで、
⑥ ほど良い時に雨や風がおき、激しい災害は起こらなくなる。
⑧ 国土は豊かになり、民心は安定し、戦争もなくなる。
⑨(崇源院は)得を崇め、仁を興し、礼儀と謙遜の精神に努めた。
(南面)
⑩ 彼女のこうした行いから、崇源院という戒名を得たのである。
⑪(彼女は)計り知れない喜びを得ることが出来、
⑫ さらにこの戒名により、深い恵が(彼女に)もたらされるであろう。
⑬ これこそまさにこの上ない功徳である。
(西面)
⑭(増上寺に安置されている徳川家康の)尊像は阿弥陀三尊と同じである。
⑮ 数多くの功徳をなすとの意がひそかに込められている。
⑯ いまだに浄土宗の教えにまつわる秘術はそれぞれ異なっているが、
⑰ このことについて最終的な結論を出して、詳しく解き明かすことができれば、
⑱(また、)これら秘術を統一させてたならば、世の人々はそれを謹んで受け入れるであろう。
⑲(右の事柄が実現できれば、)宝祚万歳(天子の位がいつまでも続くこと)・天地長久(天地は永遠に続くこと)、
⑳ 庶民の喜びは永遠に続くことになる。
㉑   寛永三年(一六二六)九月十五日
㉒     桑誉了的が謹んで記した

3.作成時期
碑文番号⑦の「一品」とは「従一位」の意味で、朝廷から送られたのは彼女の死後2か月たった11月28日。
および、「徳川実紀」の<崇源院殿周忌法会始まる(寛永4年9月5日)>などの記載から、墓石制作完成は寛永3年11月末から同4年9月までと考えられる。

4.碑文の作者
『増上寺史資料集』1.内「了的伝」から、<桑誉了的(1567~1630)は増上寺第14世住持(1625~1630)。お江の葬儀の導師を務め「崇源院」の法号もこの人が授けた。

*筆者注:崇源院の墓は日本各地にあり、その一つが京都金戒光明寺の宝篋印塔で春日局が寛永4年に建立しお江の遺髪が収められていると言われている。桑誉了的は増上寺に来る前に京都金戒光明寺の侍従を務めていた記録があることからの因縁かもしれない。

5.崇源院墓の変遷
お江の死後、寛永3~5年(1626~8)の間に増上寺北廟に火葬骨を収めた宝篋印塔が、南廟に位牌を安置した霊拝所が建立。
寛永9年に2代将軍秀忠が死去し翌年台徳院殿霊廟が完成し、寛永11~12年(1634~5)に「江戸図屛風」に両霊廟が描かれる。
正保3~4(1646~7)にかけ崇源院霊拝所が立て替えられ以前の建物は建長寺に移築された。
北廟の宝篋印塔は、同時期の地震で周囲の灯篭や石垣が崩れたため、慶安元年(1648)5月3代家光にその造り替えを命じられ(徳川実紀)、同年9月22日の崇源院23回忌までに解体・埋設され、現存する八角堂形宝塔が発掘時の位置に建てられた。

6.宝篋印塔埋設理由
①正保2~慶安2年(1645~9)の間に江戸近郊に震度5程度の地震が5回も相次ぎ、地震原因=徳川幕府の悪政への天誅 との解釈回避および宝篋印塔倒壊回避。
②寛永19~20年(1642~3)の大飢饉による人民の疲弊への思慮のため、絢爛豪華から質素な宝塔への交換。

7.恵林寺に伝わった経緯
①1958年、第一回東京五輪開催の一環で増上寺域の一部の再開発が西武鉄道によって立案され、徳川将軍家墓所の調査開始。
②再開発に伴い千基以上もあったとされる石燈籠や将軍家宝塔は西武鉄道に引き取られ、所沢の西武園に移され、希望者に一部分譲。
③1968年、恵林寺に増上寺の石塔類(崇源院墓石含む)が搬入される。
④2014年、恵林寺内「信玄公宝物館」を中心とした調査により、恵林寺境内に現存確認される。

8.現状
2015年、恵林寺内信玄公宝物館内に搬入され常設展示、一般公開開始。
なお、恵林寺境内には他に13基の宝塔と将軍墓の石材類が存在している。

以上

最後に、高橋氏が素敵な文章を先の報告書の末尾に書いているので紹介しよう。
< 江(崇源院)の生涯は数奇を極めたが、彼女の墓石それ自体も不思議な縁に導かれながら流浪を重ねたのである。
昭和30年代に増上寺の地下から掘り出されてからは所沢に、さらに山梨県の恵林寺に移されたという変転の経歴をたどったのである。
だが、彼女の墓石の長かった旅もここでようやく落ち着くこととなった。>
2022/12/18 升

あとがき 1.
恵林寺でからくも日の目を見ることができた塔身部。
だが、付帯の相輪(長さ20.6㎝)、蓋(一辺190㎝)、球形(高さ75㎝・径115㎝)、台石(高さ85.0㎝・幅245.5㎝)はいまだ行方不明のままだ。

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図2 増上寺発掘時の崇源院宝篋印塔の石材

崇源院の宝篋印塔塔身が恵林寺に搬送されたのち、所沢では1979年の西武球場完成に伴い保管場所を失った石塔群が、記録不十分のまま、関東の寺院等に大量に放出されている。
付帯部分もその中に含まれているのか、あるいは、クラッシュされて漬物石に変身したのかわからない。
増上寺の石塔の所在に関する調査・研究を継続されている伊藤友己氏のサイト(増上寺の石灯篭 )では随時石塔発見情報を募集している。
道端に転がる不可思議な彫刻がなされている巨石を見つけたら是非サイトに報告してほしい。
総高5.15mに及ぶ宝篋印塔。
増上寺の地中に埋められてから今年で374年経過する今、再び組み立て直し金箔で化粧したかつての荘厳華麗な姿を仰ぎたい。
私の生きている内に。

残る疑問は、建長寺の「向う唐門」は増上寺のどこに建てられていたのか? のみになった。

あとがき 2.
臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺は甲斐武田一族の菩提寺で、1572年三方が原の戦いで徳川家康を蹴散らした半年後、51才で亡くなった武田信玄の墓がある。
信玄が逝った同じ年に産声を上げたお江の墓石の一部が信玄の眠る寺の境内で同じくしていることに少なからず違和感があった。
が、お江と二代秀忠の長男三代家光と桂昌院の四男で五代将軍綱吉の側近柳沢吉保が旧武田家家臣の出身であり、恵林寺で行われた信玄の133回忌の法要などに幕臣として参列し、墓も恵林寺にある。
ゆえに、世に悪名高い柳沢吉保の縁が恵林寺が増上寺の徳川家墓所の石塔を譲り受ける引き金となったと考えている。

引用文献

高橋修 再発見にかかる崇源院(二代将軍秀忠夫人)墓石の碑文考

図1・2は、鈴木・矢島・山辺編著「増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体」東京大学出版会 1967 から拝借。

あとがき 3.

221
恵林寺四脚門(国重要文化財)
信長に焼かれ、1606年家康が再建した現物。
2023/01/17 撮影 以下同じく
211
三門(山梨県文化財)
1582年、武田を滅ぼした信長が恵林寺の僧等をここに閉じ込め火をつけた。
住職は「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」を残し焼死した。
201
開山堂
この前庭に崇源院の石棺が人知れず置かれていた。
191
武田宝物館

161
石棺内部
171
東面
「崇源院殿一品太夫」

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