カテゴリー「札幌時代」の13件の記事

2024/07/16

知床で夢を買った話

1.
1973年
札幌の学校に通っていたとき、夏休み早々に、札幌21:05発急行大雪52号に乗った。
大雪52号は下りの函館本線を走り、旭川で3分間停車した後石北線に繋がり、乗り換えなしで終着駅網走に翌朝の06:59分に到着する。

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日本交通公社発行時刻表1973年より 以下同じく

曜日は忘れてしまったが、その日は、尋常な混み方ではなかった。
札幌始発の列車だったので運よく私は座ることが出来たのだが、次の停車駅の江別やさらに岩見沢駅においても降りる人よりも新たに乗車する人の方が多く、人いきれがいっそう濃くなってきた。

通路は立ったままの人で埋め尽くされていて、無頼漢は既に網棚に寝そべっている。
4人掛けの箱席の通路側に私は座っていたのだが、私の左の肘が乗るはずのひじ掛けにはワンピースを着たお姉さんのお尻が乗っていて、細いひじ掛け板からはみ出したお尻の肉が私の左腕を圧迫していた。

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札幌から既に2時間が経過しても混雑の状況に全く変化が見られず、ついに深川辺りで19才の私はひじ掛けのお姉さんに「俺、下で寝るから、ここ座れば。」と言ってしまった。
板張りの座席の下は、支える四本の鋳物の脚が生えているだけで、人一人潜り込めるほどの空間がある。

私はそこに足をたたんで潜り込み、頭だけを通路に置いた寝袋に預けて、横になった。
肩の上にはお姉さんの青いワンピースに包まれたお尻が乗っていて、目を開けるとサンダルを脱いで脚を組んだお姉さんの右の足の裏がひらひら揺れていた。
上川辺りでようやく眠りに落ち、北見を過ぎたところで目が覚めた時には、もう車内はガラガラ、お姉さんは挨拶もなくいなくなっていた。

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1970年の網走駅(無料画像より)

網走駅前のカニ飯屋で腹をこしらえ、湧網線を使いサロマ湖へ行き、打たせ網で揚げたばかりの北海シマエビの茹でたてをたらふく頂いた。再び、網走までもどり、釧網線に乗って斜里で降り、バスでウトロまで行って民宿に泊まった。

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翌早朝ウトロ港から乗り合いの釣り船に便乗して入れ食いのカジカ釣り。
得物は全部船の船尾に追いすがるウミネコにくれてやり、バスで知床五湖の入り口まで行き徒歩で一周した後、網走まで戻って19:36発の下り大雪52号で札幌まで、という行程。

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この時の知床五湖は、エゾ松林の中を悠然と一人で歩き回る事ができた。
これが私と知床の初めての出会い。
札幌・網走間の乗車賃は急行券を合わせても往復4千円ほどで宿代やオプションの費用を含めても学生の小遣いでまかなえるギリギリの1万円で事足りた。

2.
1979年
瀬戸内海は大三島で、五右衛門風呂付きの古いお家を借りて所帯を営み始めた1979年ころ。
きっかけはとうに忘れてしまったが畑正憲氏に傾倒し、文芸春秋社に依頼して毎月刊行される「畑正憲作品集」を宅配してもらい読み漁っていた。


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画像は日本の古本屋HPより拝借

ヒグマのドンベイ飼育のお話や、厚岸浜中町沖の無人島・嶮暮帰島に家族3人で移り住んでの冒険談、浜に打ちあがった無数の毛ガニを五右衛門風呂で茹でて食べたお話等に、ただ々憧れ配本されるのを毎月楽しみにしていた。

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画像はヤフオクHPより拝借

本には毎月、著者や「どうぶつ王国」の近況報告の様なたぐいの「ムツゴロウ新聞」なるものが付録されていていた。
ある号のその
新聞に、知床の現状を訴え「しれとこ100平方メートル運動」への勧誘と寄付金を募っていると言う記事を見た。
そして、このことはその後の長い旅暮らしの挙句、私の頭の中から、すっかり忘れ去られていた。

3.
2024年
駅舎は替わっていたけれど駅前のカニ飯屋は健在だった。

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今回、レンタカーを駆って網走から線路沿いを走る。
時代は車社会に変わったいまでも、釧網線はいまだオホーツクの飛沫を浴びながら、一両単行の気動車で走り続けていた。
駅舎をカメラに収めながら、「天国に続く道」を辿り、斜里・ウトロの町を通り抜け、辿り着いた駐車場の向こうにはオシャレな建物が置かれていた。

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「知床五湖フィールドハウス」と銘打ったその建物は知床観光の拠点である。
2011年に環境省がおよそ2億円をかけて整備した建物で、 釧路自然環境事務所の委託を受けて公益財団法人 知床財団が運営している。
(公財)知床財団の前身は斜里町が造った「自然トピアしれとこ管理財団」で、現在の「知床財団」は羅臼町も参加している。

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50年前は乗り合いバスの終点で降り立って、トドマツの林の中をてんでに歩いて回った記憶があったのだが、流石に今は立ち入りに厳しいルールが出来上がっている。
雪がなくなる4月下旬から11月上旬までが開園期間で、その期間内で更に、立ち入りルートが設定されている。
ヒグマ対策で電気柵を巡らせた往復1.6kの高架木道は、夜間を除き無料かつ無条件での、散策が許されている。
と言っても、駐車料金500円が既に支払われているのだが。

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一方、昔ながらの地上遊歩道は、ヒグマの活動期の5月から7月末までの間は登録されているガイドの引率無しでは入れない。
ガイドはすべて登録されていて、勿論有料。
観光客一人当たり距離の距離に応じて6,000~3,500円程が必要だ。
熊の心配のないそれ以外の時期は、250円を支払い10分程の講習を受けなければ遊歩道には入れない決まりになっている。

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熊に追われたら逃げる脚を既に弱めている我々老人は、迷わず木道を選択してスタート、片道800mすらおぼつかない。
木柵コースは笹の群生地の上に架けられていて、遮るものなく流石に見通しは素晴らしかったが、かつてエゾ松の森の中を深々と歩いた面影は全くない。

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あとで聞くと、この笹は開拓放棄地に後から生えたもので、地下に根を張り巡らしているため、他の植物の生育を妨げているという。
昔のような森に戻す為には、先ずこの笹の地下茎ごと文字通り根こそぎ撤去してから、幼木を植える必要があるらしい。
熊は出なかったが鹿が水辺でのんびりと口を動かす1.6キロを完歩して駐車場まで引き返す。

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画像下方の緑の草地の日陰に鹿が寝ています

つまらない土産物屋の建物を素通りしてフィールドハウスの戸を開けた。
がらんとした中は財団職員やガイドの情報交換の場所らしく、奥には、ヒグマ活動期以外の時期に行われるレクチャー会場があるようだ。
カウンタの中にただ一人いた知床財団の職員らしい女性に私は訪ねた。

『大昔の話で恐縮だが、「知床1㎡運動」というモノに賛同してかつて土地を購入した覚えがあるのだが、それはどの辺りになるのか?』と。
『100㎡運動というものはありましたがいつ頃のお話でしょうか』

『去年亡くなった畑正憲さんの呼びかけに賛同して、大三島にいた頃だから45年ほど前のことだね。』

『「知床100㎡運動」が始まったのは1977年です。今から47年前になります。』
『100㎡なんて家が建つような面積なんか買う金なんかなかったころだから1㎡だったはず。』

『「1㎡運動」と云うものは御座いませんでした。100㎡のお間違いでは?』
『100㎡で幾らだったの?』
『一口8千円と聞いておりますが。』

『それくらいだったら若造でも払える金額だね、そうか、100㎡だったのか。』

『その節はありがとうございました。お陰様で今はこんなに自然が回復しております。』
『あんたが産まれていない頃の話に礼を言われても困るよ。で、そこはどの辺りなの?』

『運動の趣旨通り個人様の特定の土地の場所というものはありません。以前は野外掲示板に寄付された方の名札を掛けさせて頂いておりましたが、現在は、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」という建物内に収めており、誰でも自由にご閲覧いただけます』

『それ何処にあるの?』
『ここからウトロの方に戻って、知床横断道路との交差点を過ぎてすぐの「知床自然センター」の向いにあります』
『もうすぐ5時になるからもう今日は間に合わないね』
『いえ、5時半まで開いているはずです』

4.
資料 
知床の玄関口ウトロを経て知床五湖に向かう途中の岩尾別地区は、大正初期から戦後まで三次に渡る入植が繰り返されたが、厳しい自然の下で離農が相次いだ。
一帯が国立公園に指定されて間もない1966年には、斜里町が最後まで残っていた24戸を市街地に集団離農させている。

ところが、日本列島改造ブームに乗って、岩尾別の開拓跡地は土地ブローカーの恰好の標的になり、乱開発の危機にさらされた。
離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった。

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1974年 左端がウトロ港、右端は知床5個、白い部分が開拓跡地
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―

1977年2月、成田空港反対の1坪運動と、朝日新聞の1面コラム「天声人語」に載ったイギリスのナショナルトラスト運動の記事をヒントに、当時の藤谷豊町長が提唱したのが「国立公園内百平方メートル運動」である。
「知床で夢を買いませんか」がキャッチフレーズ。

参加者には離農跡地を百平方メートル当たり8千円で分譲する形をとるが、土地の分筆や所有権の移転登記はせずに斜里町が一括管理する行政主導型で運動が始まり、土地にはトドマツやシラカバ等の植樹をしていくことを掲げた。
拠出金は土地の買い上げと植樹費用のみに使い、宣伝や事務費などは町の一般財源を充てる、という画期的なものだった。

翌1978年には、斜里町が離農跡地120ヘクタールと町土地開発公社所有地31ヘクタールを買い上げる一方で、“公園内の土地保全”と“開拓跡地の自然修復”を図ることを目的に二つの条例を制定し、観光開発から知床を守り抜く運動が具体化していった。

20年後の1997年3月、運動参加者はのべ49,024人、金額では、5億2,000万円となり、「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成された。

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2014年 左端がウトロ港、右端は知床5湖、開拓跡地が緑色におおわれている
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―

そして、この時からキャッチフレーズが「夢を買いませんか」から、新たに「知床で夢を育てませんか」と換えられて、守られた土地にかつてあった自然を復元する取り組み「100平方メートル運動の森・トラスト」を本格的にスタートすることになった。
また、これを機に保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、将来に渡ってこの運動地を守り続けることを明確にした。

2010年11月には、100平方メートル運動地内に最後まで残されていた11.92haの開拓跡地を取得し、目標としていたすべての保全対象地の取得を完了することができている。

 

5.
2024年
道の駅然とした佇まいの「知床自然センター」はすぐにわかった。
少し前に後にしてき知床五湖の駐車場にはたくさんの車が利用していたが、バスを含めて200台は収容可能と思われる「知床自然センター」の広大な駐車場には乗用車が3台しか停まっていない。
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この建物は、林野庁が起こした「知床国有林伐採問題」事件の最中(1988年)に斜里町が建てたもので、現在は「知床五湖フィールドハウス」と同じ(公財)知床財団の管理下に置かれている。
ただの道の駅ならばこのガランとした風景を見ただけで「閉鎖中」と勘ぐられ、建物内はもとより、駐車場にさえ入る車などないだろう。
シーズンには、ここにマイカーを置いて臨時に発着するシャトルバスで五湖へ向かう、という一般車立ち入り規制サービスの拠点にもなっていると言う。


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さて、「向い」にある筈の「しれとこ100平方メートル運動ハウス」は「向い」にはなく探し回った結果「裏」にあった。
この建物は「知床自然センター」建設に先駆けて(1987)建てられていて、これも斜里町の仕事らしい。

深い森に囲まれ、しかも、鹿がいた。
館内を隈なく見学したがその他の見学者はおらず、職員の姿も皆無だった。
閉館時間が迫っていることもあって急ぎどこかにあるべき私の名前を探した。

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しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借

入り口の脇に分厚い名簿が置かれてあったが寄付を受け付けた年代は新しいものばかり。
展示パネルが貼られている外廊下を1周すると建物の真ん中に四角い空洞(部屋)がある。
目測すると10m×10m、丁度100平方メートルの大きさの部屋である。
なるほど、100㎡の実際の大きさの表現かと思ったが仕掛けはそれだけではなかった。
壁一面に白い短冊が上から下までビッシリと張り付けられていて、近寄らなければそれは名札であるとは分からない。

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拠出金の提供者、言い換えれば知床に100㎡の土地を夢と一緒に買った人、49,000名余りの名札に違いない。
年代順なのか、あいうえお順か、ABC順か?
しばらくして、その名札は提供者登録住所の県別に、仕分けされていることに漸く気が付く。
愛媛県越智郡大三島町宗方で生活していた頃の話である。

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迷わず愛媛県の仕切りに飛びつくと、その中に私の名前が刻まれた名札があった。
周囲の名札の中には黄ばんだセロテープを剥がした痕跡のある物もある。
参加者が増える度に名札が都度1枚づつ造られ、47年前の1枚目からこのハウスに収容されるまでの10年間、知床の原野の風雪の中に置かれた歴史の面影を物語っていた。

5.
20年の間に5万人足らずの人から5億円強の金銭を預り、町が120ヘクタールの土地を買い集め保全した話。
夢が叶った物語の筈なのだが、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」を後にしてから振り返ると、そこに違和感が建っていた。
「知床五湖フィールドハウス」の建設費はおよそ2億円。
とすると、このハウスは1億円ほどか?
3階建てと見られる「知床自然センター」は10億か?

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『離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった』為に、苦肉の策で始めたこの運動。
そのたったの10年後に、運動で集めた拠出金よりも多くの金額を使って、斜里町は二つの観光施設を造ったことになる。

施設をだだ造っただけでは観光客は来やしない。
もしかしたら私たち拠出金提供者は、知床観光客を呼び込む為の全国に散らばるアンバサダー役に、現金と共に利用されたのかも知れない。

名札を残してくれるのは有り難いことだが、あんな豪華な建物の中よりも以前の様な原野の中で熊や鹿と一緒の方がそぐっていた、と考えるのは私だけではないだろう。

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かつては原野に野ざらしだった名札盤
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借

名簿だけで充分
「あんな無駄な建物造る金があるのなら、もっと違うことに使って!」
と、そう思わない輩はあの運動に参加していない筈だから。

とわ言え、私の名札が残されていたことに感動した。
なによりも、私自身が忘却していた半世紀も前の出来事を、今の現場の若い人たちが忠実に記憶し、かつ継承していることに驚きを覚えた。
彼らに感謝と共に今後の活躍に期待している。
2024/7/12 升

引用文献
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHP(しれとこ100平方メートル運動(北海道斜里町) (shiretoko.or.jp)
曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号)(曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号) | 滝川康治の見聞録 (takikawa-essay.com)


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2023/10/20

八甲田 Ⅱ

八甲田丸

当時の青森駅は、上野からの国鉄東北本線と福島からの奥羽本線の終点かつ青函連絡船との乗換駅で、まさしく北海道への出発口あるいは本州への玄関口であった。
このころ、青函連絡船は1日10往復の航路を津軽丸・八甲田丸・松前丸・大雪丸・摩周丸・羊蹄円・十和田丸の7隻の5千トンクラスフェリーが就航し、それぞれおよそ千名の乗客を乗せて運行していた。


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画像1 青森駅1975年 国土地理院航空写真より

1988年(昭和63年)に青函トンネルが開通すると、青函連絡船はその役目を新たに開業したJR津軽海峡線に譲って廃止され、青森駅は津軽海峡線の快速「海峡」の始発・終着駅の役割を果たしていた。
その後、2016(平成28年)に北海道新幹線新青森駅が開業し青森駅から北海道方面へ向かう旅客列車はなくなり、北の果ての玄関口の役割を終えた。


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画像2 記念館八甲田丸

かつては1番線側に青函連絡船の岸壁があり、連絡船の車両甲板につながる可動橋があった。
また、連絡船への貨車積み込みのため、構内の線路は岸壁に向かって北側に伸びた構造になっている。

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画像3 八甲田丸船尾 列車積載用の線路が見える

線路の向こうには、青函連絡船の巨大な胴体がディーゼルエンジンを唸らせて横たわっていた筈だが、近すぎるからだろう、舷側の一部が見えるだけでその全体像をついに一度も目にしたことはなかった。

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画像4 列車積載用の引き込み線

東海大の学生だけの千坂荘で暮らしていた頃、はす向かいの部屋の下宿生が青函連絡船の船長の倅で、往路か復路かに一度函館で途中下車して自宅に一泊させてもらった思い出がある。
彼の親父さんが乗っていた摩周丸は今、函館港の記念館として、青森港の八甲田丸と同じくしている。

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画像5 函館港の記念館摩周丸(2022/7月撮影)

北へ帰る無口な人の群れと一緒に早足で上った跨線橋の上からは眼下の線路の束が見渡せる。
上野まで繋がっている4本の線路はホームの数だけ幾筋にも膨れ上がり、やがて扇のかなめに向かう中骨の様に収束し、途絶えるとその先に陸奥湾が広がっている。

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画像6 青森駅2020年 国土地理院航空写真より

その海の向こうからちょうど今豪華に着飾った大型客船が入港してきて、取舵を切った。

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画像7 線路の末端から入港中のクルーズ船(2023/09/27 08:00)

2023/10/18 升

 

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2023/10/18

八甲田 Ⅰ

八甲田号

上野駅15番線を19:10に出発する夜行列車に初めて乗ったのは丁度50年前の18歳の時。
四角い板張り4人掛けのボックスシートで紺色の座席は固かった。

この列車を利用するについていつも少しばかりの抵抗があった。
この時間に上野駅に着くためには遅くとも17時半には帰省中の実家を出なければならず、折しもその時間帯は夕食前であり、食べて行けという、母の言葉を振り切らなければならない後ろめたさがあったからだ。

早めに炊いた熱々の飯をかきこんでの旅立ちだったのかも。
あるいは、迷惑そうな顔をしている私に列車の中でと、握り飯も持たせてくれたのかも知れない。

この急行列車は盆暮の帰省ラッシュ時には2本の臨時増便も出るほどの人気だったが、9月も半ばを過ぎたこの頃はボックスを独り占め出来て、くの字に横になって寝ることにも支障がなかった。

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画像1 1973/9月号 時刻表 日本交通公社

急行八甲田52号。
19:04にB寝台車と座席指定車両を備えた正規急行八甲田号が上野駅14番線から発車する。
しかし私が乗るのは、そのすぐ後に同じホームの反対側15番線から出る、臨時列車急行八甲田52号で全席自由席の正に貧乏学生の為にあつらえた様な列車である。
リッチな14番線が満席でも15番線はガラガラだった。

上野発19:10。
大宮19:38→小山20:20→宇都宮20:42→西那須野21:28→黒磯21:28→白河21:58→郡山22:31→福島23:14→白石24:00→塩釜01:06→小牛田01:29→一ノ関02:11→水沢02:33→北上02:47→花巻03:00→盛岡03:29北→福岡04:50→八戸05:21→三沢05:42→野辺地06:05→浅虫06:28→と急行八甲田52号は東北本線をひた走り、青森駅06:47に終着する。

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画像2 1973/9月 東北本線上野→仙台時刻表 *下欄外に駅弁メニュー有

大宮辺りで検札が行われ同時に、必要な客には、青函連絡船の乗船名簿記用紙が渡される。
白河辺りから、「お休みの邪魔になる」との車掌のアナウンスが入り、車内放送も途絶える。

長時間停車駅は、宇都宮で6分、黒磯で7分、郡山2分、福島10分、白石5分、一ノ関2分、盛岡で2分、八戸で2分。
何故か仙台には停まらない。
その他の駅は発車ベルがすぐに鳴るか、ベルの鳴らない駅もあるというアナウンス。
それらの駅を利用する予定の客は寝ているどころではないだろう。

それから、何処とも知れない幾つもの薄暗く人気のない駅に時々思いついたように停車をしながら、延々と無言の旅が続く。
上野駅で買い込んだウイスキーの小瓶を早々に空にしても寝付かれず、車窓の闇に飛び去る遠い灯りを眺ている。
たまにドップラー効果でゆがむ踏切のカンカン音を聞き流しながら。

 

八戸辺りで白々と明るくなると再び車内放送がはじまる。
『皆様、急行八甲田52号を御利用下さいましてありがとうございます。現在、列車は時間通りに運転しています。あと10分程で三沢に到着致します。どうかお忘れ物ございませんようにお支度を願います。』

右手車窓に三角小島が目印の浅虫を過ぎれば次は終点。
青森駅からの乗り継ぎの案内が始まる。
奥羽本線弘前・秋田方面、津軽線三厩方面、それぞれの出発ホームと時間の案内の後に、連絡船への案内が続く。

大宮辺りで検札時に渡された連絡船乗船名簿に記入していれば、終点青森駅、右端の1番線に静かに入線。
列車左側のドアが一斉に開きホームに降りるとなぜか皆早足になる。
二等船室の大部屋に良い占有空間を確保するためだ。

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画像3 1973/9月 東北本線時刻表仙台→青森および青函連絡船 時刻表

06:47青森着の急行八甲田に接続する連絡船は07:30出航。
乗船賃は絨毯敷きのます席自由席(大部屋)で500円。
出航までの40分の間に立ち食いの熱い素うどんを啜る。
連絡船内の弁当メニューで新巻弁当250円、にしん蒲焼弁当300円の時代だから、素うどんは50円位だったか。

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画像4 青森港岸壁にある「津軽海峡冬景色」の歌碑

北に帰る人達が無口だったかどうかも、竜飛岬をごらんしたのかも覚えていないが、この連絡船は4時間で津軽海峡を渡り11:20に函館港の函館駅前に着岸する。
デッキは寒いしきっと大部屋でゴロゴロしていただけなのに違いない。

東北本線も青函連絡船も国鉄経営で、函館港でも着岸岸壁際に国鉄函館本線11:50発急行宗谷が待っている。
札幌行は特急おおぞらや特急おおとりが急行宗谷よりも先行して次々と発車するが、室蘭から千歳を回っていく太平洋ルートで遠回りな為、札幌到着時刻はほとんど一緒で貧乏学生がチョイスする必要がない。
日本海回りの急行宗谷は、畏れ多くも、本当の北の外れ稚内行である。
これを知ると思えば遠くに来たもんだとしみじみもしよう。

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画像5 1973/9月 函館本線函館→旭川時刻表 *下欄外に駅弁メニュー有

駅弁で一番安かったいかめし150円を森駅で買い昼飯。
この列車は、大沼公園→森→八雲→長万部→俱知安→小樽と停まり、札幌に16:25に着いた。
上野→札幌21時間30分の旅。
下宿の川沿町までは札幌駅から少し歩いたバス停から、17時頃発の札幌市営バス藻南線硬石山行きで約30分、しめて22時間半の行程になる。
下宿の千坂荘、きぬ小母さんに前もって連絡してあれば、あったかい晩御飯が食べられる時間にはたどり着けた。

運賃は、距離対応計算で上野→青森間739.2k(乗車賃2,560円+急行券300円=2,860円)。
青函連絡船500円。
函館→札幌間286.3k(乗車賃1,220円+急行券300円=1520円)。
しめて4,880円也。

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画像6 青森駅1番線 かつての上野(画像上方向)からの線路の端末、左側に引き込み線路があった。

一方、対抗の航空便は、JAL・ANA共に羽田札幌便はその頃でもほぼ1時間置きに飛んでいて、ノーマル運賃は片道13,900円。
ところが、12歳以上~22才未満の若者に空席がある便に限って使えるスカイメイト割引を使うと、ノーマルの半額(6,950円)で乗れた。
この便の味を一度知ってしまった後は、空港で1日ゴロゴロする覚悟でも、飛行機を使うようになった。
途中の食費を含めると残念ながらこっちの方が安くなる。
2023/10/18 升

 

参考資料
https://ameblo.jp/kazkazgonta/entry-12705443668.html ごんたの徒然旅日記
1973年9月時刻表 日本交通公社発行 

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2022/12/01

恩師逝く(工藤先生に捧ぐ)

 工藤先生ご逝去の報を受けまして、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 札幌校舎内の化学実験室ではじめてお目にかかって以来、ラグビー部の顧問をなさっていたお陰もあり、お世話になりっぱなしでなんの恩返しも出来ないまま逝かれてしまいました。

 「先生。ご無沙汰です。今札幌にいます。」

 「おー!マスか、おらの家さ来い」

 奥様にもあの時お世話になりました。札幌から沼津校舎に移動した大学2年生の冬の事です。

 私達が札幌校舎最後の海洋学部の学生だったこともあり、我々が大学を卒業する春にはわざわざ清水までお祝いに駆け付けて頂き、海辺にあった駿河湾を一望できるアパートの私の小さな一室に一週間お泊まり頂いたこと、懐かしく思い出します。南に向いた窓を開けるたびに

 「マス、海はいいなぁ」

とおっしゃっていました。

 卒業後も私の結婚披露宴に主賓としてご列席頂き、またラグビー部OBの集まり(泥球会)でお会い出来、その度に適切な御指導を承りました。なかでも車エビ養殖の仕事から転職した折には「男の一生の仕事を途中で放り出した不逞の輩」と非難され、

 「マス、おらの部屋さ来い!」

その経緯を御自身が納得されるまで、朝まで寝ずに話を聞いて頂きました。

 15年程前、泥球会の集まりで富山の氷見でお会いしたのが最後になりました。その時、先生は札幌の丸井今井の包み紙にくるまれたビンナガ鮪の刺身用の柵を持参され、

「マスにまた刺身を造って欲しくてなぁ」と頭を掻いておられました。清水のアパートの事を覚えていらしたようでした。

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「マス、海はいいなぁ」

「マス、おらの部屋さ来い!」

「マス、おらの家さ来い!」

「マス、ばんこばんこ呑めぇ!」

 

2018/12/30 享年84 合掌

2018/12/31 升

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2022/11/29

北回帰(リメンバー色のラベンバー)

1973 春
白衣の教官は500ccの三角フラスコを取り出しグラニュウー糖を2サジ入れた。
そしてアルコールランプにマッチで火をつけフラスコを焙る。
中のグラニュウー糖が弾け、見る見る焦げてくる。
フッと火を消し、試薬棚の扉を鍵でガチャガチャと音を立てて開けた。
中から1本の未開栓のビンを取り出し、私に開るようにと眼が云う。
ビンのラベルを覗き込むと“試薬用エチルアルコール 純度99.99%”とある。
固く押し込まれた乳白色の内蓋を引き抜く作業に手こずっている私に、教官のいらついた一重目蓋の眼が下から迫る。
試薬の小瓶を受け取った白衣の教官は、それがまるでノーベル化学賞レベルの崇高なる化学実験であるがごとく、無言のまま、トクトクといい音を立てながら無色透明な液体をフラスコに注ぎ込んだ。
最後に左手の親指と薬指でフラスコを眼の高さまで挙げて、ガラス棒でカランカリンとかき混ぜる。
そこには清透な琥珀色の液体が仕上がっている。
それを50ccのビーカーに移し、「飲めぇ」と言った。

水質分析。
現代ではその殆どが機械で分析され数値がデジタル表示されるものばかりだが、当時は完全マニアル分析でフラスコやビーカーそれにピペットなどを駆使して行う。
実習は、マニアル書の順番通りに様々な試薬を混ぜ込んでいけば、特に化け学の知識がなくても、習得可能な技術なのだ。
しかし、昨晩の飲み過ぎやラグビーの練習で手を傷めていたりするとこれがいけない。
0.1ccの試薬をホールピペットで計量する等という繊細な動作が鈍り繰り返し失敗する。
「先生、今日はもう勘弁して下さい。次回には必ず。」
泣きべそをかきはじめた私に鬼の様な教官は、
「なにきさまー!甘ったれたこと言うんじゃない。出来るまでやれ。気合を入れてやる、終わったらオラの部屋さ来い!」
鼻の穴を膨らまして叱る。
白衣の教官の目を盗み、手が震えていない仲間の手を借りて実験を終え、恐るおそる教官室の戸を叩く。
「おー!升か。甘えんぼーによく効く薬を煎じてやる。まっ!はいれ。」

キッチリと50ccに注がれたビーカーの液体を飲み干してしまった私に、
「試薬を使い切らんと来年の予算が削られるのでな。どうだ、余市のよりまろやかだろぅ? もう一杯やれぇ!」

このとんでもない化け学の教師は未だに化け物なのだが、当時、東海大学札幌校舎ラグビー部顧問をも引き受けていた。
K先生という。
顧問と言っても、ご本人にラグビー選手経歴はない。
練習グランドで見かけることも全くなく、その上ルールをご存知かどうかも甚だ疑問だった。
この顧問が部活に率先して参加するのは唯一“コンパ”だけなのである。

私が、主将の飯塚氏ら2年生に勧誘されるまま雪まだ残る北の大地で、およそ半年振りに楕円のボールを蹴り始めてしばらくたった後、新入生歓迎コンパが催された。
恒例とのことで、校舎のある山を降り、豊平川沿いの藻南公園で露天の宴会だ。
この時私は始めて“北の恩師”を拝顔させていただいた。
“北の誉”や“千歳鶴”の一升瓶が地べたにゴロゴロ転がり、中には白濁したドブロクまで用意されている。
地元サッポロビールなど洒落た飲み物は微塵もなく、ツマミはカチンコチンの氷下魚の干物のみと言う粋な計らいであった。
「升、バンコバンコ飲めぇー!」道産子弁丸出しのK師のお言葉以降、私の記憶はそこから失しなわれたままである。
今、振り返るにこの儀式こそ私にとっての“洗礼”だったのかも知れない。

 

1973 秋
北海道にはラグビーチームの数に限りがある。
それでもゲーム(試合)がしたいが為に互いに連絡を取り合い、日を決め処を定め、集まって楽しむ。
大学所属ラグビー部とは言え、我々の学舎には1・2年生しか存在していない。
その限りなく高校生に近いラグビーチームの対戦相手は、4年生のいる大学チームはもとより、社会人チームも範疇に入る。
社会人チームのほとんどは北海道に点在する自衛隊の所属で、なになに空挺団とか〇〇戦車隊など恐ろしげなチーム名を持ち、その名に値するごついおっさん達が相手だった。

ゲームの“処”は札幌市内がやはり多かったが、小樽や苫小牧・室蘭などへも遥々遠征に行く。
草ぼうぼうのグランドの木陰でジャージに着替え、草の中でラグビーを楽しむ。
ノーサイドの後は地元の対戦相手のおじさんに教えて貰い、ジャージにスニーカーのいでたちのまま銭湯に行く。
番台のおばさんの冷たい視線を掻い潜り、一番風呂を堪能しているおじさんに睨まれ、洗い場に15人分の多量の泥を堆積させたまま、キンキンに冷えた北海道牛乳を飲み干して、帰途に付く。

Photo_20221128164601

(画像搾取先)http://www.obihiro.ac.jp/top_page.html

北海道大学ラグビー選手権大会が開催されたのも札幌から遠い遠い帯広だった。
当時、道内の大学選手権を獲得する為には先ず一回戦を勝ち進み、次いで準決勝戦、それから最後の決勝戦に勝つ必要があった。
これを3日間で消化するハードなスケジュールだったが、正月の花園(全国高校ラグビー選手権大会)に比べれば楽なものだ。

この時ばかりはK顧問に引率され、飯塚主将以下チームのメンバーは前日から帯広の旅館に宿泊して万全な準備を整えた。
珍しい事に、今回の交通費・食事付き宿泊費は大学が負担してくれている。
試合会場は帯広畜産大学の広大なキャンパスの中。
ポプラ並木の間では牛が寝そべり、馬がポクポク歩き回っていた。

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1番 左プロップ   中野(千葉県出身1年)
2番 フッカー    上野(熊本県出身2年)
3番 右プロップ   橘高(埼玉出身2年)
4番 左ロック    飯塚(群馬県出身2年)
5番 右ロック    長田(長野県出身1年)
6番 左フランカー  柏村(東京都出身2年)
7番 右フランカー  小池(群馬県出身1年)
8番 ナンバーエイト 升本(神奈川県出身1年)
9番 スクラムハーフ 鈴木(明)(東京都出身1年)
10番 スタンドオフ  池永(佐賀県出身2年)
11番 左ウイング   樫村(香川県出身2年)
12番 左センター   鈴木(修)(茨城県出身1年)
13番 右センター   千ノ本(三重県出身2年)
14番 右ウイング   内田(東京都出身2年)
15番 フルバック   上谷(奈良県出身2年)
リザーブ
20番 長谷川(福島県出身2年)
21番 米本(北海道出身2年)
22番 藤沢(宮崎県出身1年)
23番 佐賀(大阪府出身1年)
24番 高橋(出身地忘却1年)

以上がフルメンバーだったが、その当時のルールでは試合開始後のメンバー交代は許されていなかったので、①~⑮の背番号を背負った者で最後まで戦うのが掟だ。
初戦の対戦相手は春先に惨敗を喫していた北海学園大学。
誰しもが春と同じ結果になると信じて疑っていない。
だが、泥球チームはあの記念すべき惨敗の後、茨城高萩高の名センター鈴木(修)を迎え、明大ラグビー部OB栗原氏の熱烈指導を受け、更に夏には、群馬県赤城山山麓にこもり札幌校舎OBである3年生の先輩にも駆け付けてもらい、厳しい夏合宿を敢行し、成長していた。

ホイッスルが鳴り響いた。

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中野・上野・橘高のフォワード第1列がセットスクラムを耐えしのぐ。
飯塚・長田のロック陣はラインアウトを互角に争う。
慌てた北海学園が盛んにスクラムサイドを突いてくるが柏村・小池・升本のフォワード第3列が1発で止める。
フォワード戦を諦めた相手はバックスにボールを回し始める。
が、千ノ本・鈴木の両センターがゲインラインを越えさせない。
パント攻撃にはフルバックの上谷及び内田・樫村の両ウイングが確実に処理をする。

さすがに、劣勢は歪めず自陣25ヤード付近の攻防が継続したが、慌てている相手にペナルティが目立ち始めた。
そのペナルティキックを鈴木修が敵陣25ヤード奥深く、タッチラインにつぎつぎと蹴りだす。

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一進一退の緊張の中、マイボールスクラムから出されたボールをハーフ鈴木明典の懐深く綺麗な弧を描くダイビングパスにより、スタンドオフへ。
パスを受けた池永は敵バックライン後方へ正確なハイパントを蹴りだす。
ラッシュしたフォワード陣が激しいルーズスクラムからボールを奪い取り再びバックラインに回った。
ゲインライン直前で池永のハリパスを受けたセンター千ノ本がそのまま雄叫びを上げて頭からトイメンに突っ込み、新たなモールポイントを作る。
この三次攻撃から即座に出されたボールは、密集にいまだ敵バックス数名が取り残されたまま、我がバックラインを華麗なパス回しで右へ流れ、ウイングに繋がった。
内田の快足でそのままトライかと思われたが、ホイッスルが鳴る。
ライン参加していたフルバック上谷からのパスがスローフォワードの判定だ。

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敵陣25ヤード内での相手ボールのセットスクラム、だが、泥球チームは諦めなかった。
フッカー上野がなんとスクラムインされた相手ボールを巧みな脚捌きで奪い取ったのだ。
ロック陣の股座を素通りして来たボールは、フランカー陣で相手のディフェンスラインが修正される前に拾い上げられ、スクラムサイドをすかさず突き前に出る。
敵スタンドオフとブラインドサイドのウイングに阻まれるも、後続のフォワード陣でモールを組み、ゴールラインへなだれ込んだ。
押さえ込んだのは長身ロックの長田である。
   
「ピィーッ!」レフリーの右手が高々と上がり、「トライ!」。

ゲームは後半戦で追い上げられたものの泥球チームはゴールラインを死守し、小雨降り出すも、3点リードのままノーサイドのホイッスルが鳴った。

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10対7、初勝利にもろ手を挙げて喜ぶK顧問には、だがその時、笑顔とは裏腹に心の底に大きな不安が発生していた。
大学側から氏が預ってきたのは一泊分の宿泊費だけだったのだ。
明日の準決勝に備え宿で泥だらけになったジャージの洗濯に汗する学生達のかたわらで、師はただ一人、受話器を相手に奥様と電信為替の交渉に汗していた。

謝辞:本コーナーを書くに当たり、数々の資料及びご助言を頂きました、飯塚敬治氏に深く感謝いたします。有難う御座いました。

 

1974 春
K恩師にとって悲しい別離が待っていた。

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海洋学部が札幌校舎から撤収され、校舎には輝かしい記録を作ったチームメンバーから僅かに工学部の学生だけを残し、海洋学部の学生は清水・沼津の各校舎へそれぞれ旅発って行った。

 

1975 師走
冬休みを利用して、私は余市にあった身欠ニシン工場でアルバイトを兼ねた実習をした。
工場は知人の実家が経営しているもので、1週間の滞在後、札幌にいるその知人を羊々亭に招待して感謝の意を表した。
気が付くと、帰りの旅費がない。

「先生。ご無沙汰です。今、札幌に来てます。実は困ってます。」
「おー!升か、おらの家さ来い。」

 

1976 春
K先生は北海道東海大学と名を改められた学舎内の“おらの部屋さ”で、1本の外線電話を受け取った。

「工藤先生でいらっしゃいますか? はじめまして、私、東海大清水校舎の岩崎と申します。
実は、この春、私の研究室を卒業した桜井均君の就職の件で、至急彼に連絡を入れたいのですが、工藤先生にお心当たり御座いませんものかと。
やぁー、同じく札幌で先生にお世話になったと言うマスモト君からのアドバイスなのですが。」

受話器からいきなりこぼれ落ちてくるやたら大きな声に驚いたKには、その電話の直前に、電話の相手先で交わされた会話をもちろん知る由もなかった。
Photo_20221128173001 電話の発信元(海洋学部折戸校舎岩崎研究室)では、いつものように当日の早朝に竿釣り船からくすねて来たカツオで、昼飯用の刺身とアラ炊きを作っていた。
その最中、唐突に研究室の師に私は声をかけられた。
「桜井君を緊急に探しているのだが、心当たりはないかね?」
  
桜井氏は泥球チームの2年先輩で、当時私は面識がなかったものの、飯塚主将を始め先輩達から氏の武勇伝は耳にタコが出来るほど拝聴していた。
この研究室に今私がいるのも氏の繋がりのお陰に間違いなかった。

「日高の牧場で働いていると聞いておりますが?」
「それは知っている。いま連絡したが数日前に彼は辞めたらしい。就職口が見つかった、一両日中に面接に行かせないと拙いのだが。」
「はぁー?私が知っている訳なぃ、、、あっ、待ってください。日高→北海道→札幌。分かりました先生!札幌校舎に電話して工藤という化け学の先生に問い合わせて見て下さい。桜井先輩の所在を必ずご存知のはずです。」

私の推理は的中した。
「升本君、捕まえましたよ! なんと、工藤先生のご自宅に居候していました。」
きっと、桜井さんにも「おらの家さ来い。」とおっしゃったに違いない。

 

1977 早春
北の恩師は彼の育てた最後の海洋学部生を送る為、卒業式が迫った頃、遥々清水までやってきた。
泥球チームの残党達を集め新清水のスナック“道産子”で大歓迎会を開き、師を囲んで久しぶりにバンコバンコ飲む。
“道産子”のママさんが生っ粋の道産のんべえの真髄をまのあたりに見守る中、卒業間近の学生の一声で、前の路上で相撲大会が始まった。
だが、夜の繁華街の真ん中に設けられた急あつらえの土俵は、およそ3分後にはけたたましいサイレンの音と共に、赤色回転灯によって掻き消されてた。

「喧嘩はお前たちか?」複数のパトカーから降り立つ厳つい静岡県警制服組の代表が、警棒に手を添えながら、大きな声で怒鳴った。
通行人の誰かが通報したのだろうが、極めて都合が悪い事に、師の顔面から多量の血液が滴り落ちている。
「ご迷惑をお詫び致します。だが、私はこの春失業していく教え子たちと相撲をしていただけで、喧嘩ではありません。不覚にも、私の初戦の相手が元高校レスラーであった事を忘れてしまい、この様です。申し訳ない。」
騒然とする事件現場で師は言ってのけた。

厳重注意の末、程なく静岡県警パトロール隊は撤収していった。
この時、ものの見事に“支え吊り込み腰”で師を顔面からアスファルトに投げ落とした元高校レスラーが当時静岡県警に就職内定していた事実があったのだが、誰一人口を割る者はいなかった。

奴は現在でも静岡県警制服組パトロール隊に居座り、その罪を償い続けている。

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「升、お前の部屋さ泊めろ。」包帯の取れるまで格好が悪いので帰れないと言う。
駿河湾の潮騒がいつでも聞こえる私のアパートで、ミイラ顔の男は一週間を過ごす間、南に向いた窓を開けるたびに「升、海はいいなぁー」幾度も呟いていた。

 

1992 梅雨
卒業と同時に私は大三島での生活がはじまった。
その後も、沖縄や天草で生活を営んでいた為、今から25年も前に組織された“泥球会”の集まりに一度の参加も叶わなかった。
諸般の理由で現在の住所 横浜に帰り、養殖業とは離れた業種に再就職したその年の6月、東京のど真ん中で開かれた会に初めての出席を果たせた。

北の恩師とは私の婚礼の折に足を運んで頂いた以来の再開だった。
14年の歳月の流れのせいか、師の風貌がいっそうその言動に限りなく近づいていて私は驚いた。
丁度、アインシュタインとバック・トゥ・ザ・ヒューチャーのブラウン博士を合体したおもむき、と 表現すれば容易に想像できるだろう。

師の久しぶりの参加で会は盛況で、札幌以来およそ20年ぶりにお会いする先輩や初見の先輩方と、賑やかな酒宴を昔の様に楽しんだ。
2次会は出席者の全員が宿泊するホテルの幹事役が利用するツインルームの1室。
飲み物とつまみを持ち込み、ベッドで寝そべるもの、床にあぐらをかく者、永遠と続く。
過半数の参加者がそれぞれの自室に戻り始めた頃、
「升、おらの部屋さこい。」一人呼ばれた。

Photo_20221128174601 「升、お前が海老の養殖の仕事からリタイヤした理由を、おらはまだ聞いていない。」
北の恩師が切り出した。
眼が据わっているのはアルコールのせいではないだろう。
筋の通らない話で納得する相手ではない。
私は時間をかけ、事の詳細を説明した。

「なるほど、辞めた理由は解った。がなぁ、新しい今の仕事に関して、お前は誰かに相談したのか?」
師の追及は継続する。
私は当時いつも携帯していたメモ帳を取り出し、説明を再開した。
メモ帳には泥球メンバーをはじめ、首都圏で生活している友人・知人のリスト、およそ100名が記載されている。
〇で囲んだ人達に会い、☐で囲んだ会社を訪問し、最終的には師もご存知である“南の恩師”岩崎先生のご紹介を頂いた経緯を、私は長々と語った。
「よし!」
師の眼差しがいつものドングリ眼に戻った頃、小さなシングルルームのカーテンの向こうには既に太陽がニコニコと顔を出していた。
「升、朝飯を食うべ! みんなを起こして来い。」

その日、北の恩師はとうとう一睡もしないまま、疲れ果てている20年前の元学生達を叱咤しながら、夕刻まで銀座ライオンの生ビールを飲み続けた。まさに化け物である。

 

2003 梅雨
氷見で再会を果たした時の事。
前日から当年の幹事役のご自宅に泊まりこんでいるという北の恩師が、「あっ!忘れていた。」と、照れ臭そうに師のリュックから何やら取り出したのは、午前0時を回った頃だ。
“丸井今井”の袋に包まれているところから察するに札幌で入手したものに違いない。0004_1

師は「また、升に刺身を作って欲しくてなぁ。」と、言ったまま布団に入ってしまった。
袋の内容物はトレイにストレッチされたドドメ色の物体で、水産物と判断されたが、「?!」の代物だ。
狼狽する私を尻目に「ビンチョウの柵だ。」と、速攻見抜いたのは、さすがにあの事件以来、鰹・鮪巻網漁船団の連合会に務める桜井氏だった。
ビンナガ肉は発色の頂点でもほんのりとした桜色が限度。
その時期を過ぎれば退色が始まり、やがて嫌な色に変わる。
露の真っ只中のこの時期、保冷もされず2日の間、師の背中に納まり続けたビンナガはなるほど納得がいく色に仕上がっていた。

「食べよう!」この時間まで生き残っている数名が、宴会場の隅っこに移動させられた座卓の周りで頷きあう。
過半数の参加者はその空いたスペースで既に布団に包まれ、いびきをかいている。
私は早速、宿の調理場へ走る。
だが、ここペンションの調理場も食堂さえも入り口は完璧にロックされている。
「まな板、割り箸、ワサビ、は何とかするにしても、包丁、醤油 の必須アイテムの入手が困難です。」
私の報告を受け、
「俺の爪切りに確かナイフが連結されていた筈だ。」誰かが言う。
刃物さえあれば刺身は切れる。
「では、醤油を調達して来ます。ちょっと待ってください。」
座卓の上に転がったままの徳利を一つ摘まみ上げ、私は玄関前に立ち並ぶテトラポットを掻い潜り、富山湾の海水を徳利に移動して戻る。

―また、升に刺身を作って欲しくてなぁ。― 
数十年も前、駿河湾を見渡せる小さなアパートの一室で、私が作った刺身をいまでも覚えていてくれたに違いなかった。
師の土産の“柵”は爪切りで平作りにされ、富山湾のまろやかなれども清澄な“薄口醤油”は、見事に私たちを食あたりから守ってくれた。


2006  6月
無理なくそして長く、と言う北の恩師の言葉を持って札幌泥球会が誕生して今年で25周年を迎えた。
当時の飯塚主将を中心に前後1年ずつ、即ち、札幌海洋学部の最終3年間のメンバーで始められたが、現在はその上もそしてその下にも繋がっている。
幹事役は毎年持ち回りの為、開催地は全国を点々とする。
師は歳を理由に近年度々欠席をするようになってしまったがまだまだお元気のようだ。
今年も早々と梅雨のない札幌から案内状が届いた。

 

 第25回泥球会幹事殿   
ご苦労様です。
本日、スカイマークエアラインをようやく予約致しました。
千歳17:15着の為、開演に少々遅刻致します。すみません。
城ヶ島から北の酒盛りに直行致します、ゆえに、宿のお手配お願い致します。
今回もジンギスカン食べ放題・生ビール飲み放題だったら最高です。空いた皿とジョッキの数の減った分だけが、老いた証になるから。
ご当地在住の同期長谷川晋から出席の連絡はありましたか?もし、ない様でしたならご連絡下さい。沼津校舎で私が引きずり込んだように、今回も、マスモトが引きずって参ります。
先生の喜ぶお顔が何よりの楽しみです。

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追伸
札幌校舎の聳える南ノ沢地区はラベンダー栽培の発祥の地だったらしく、数年前から私たちの後輩諸君らが学舎の周辺に植栽し、今や、富良野に負けない程のラベンダー鑑賞名所になっていると聞きました。
歴史を知らぬまま、私たちが泥まみれにしたあのジャージは、今思えば、ラベンダー色一色のシンプルなものでした。どなたのデザインなのでしょうか。
ラベンダーの語源は知りません。
鮮やかな“リメンバー”色のこの花は 毎年 この時期 咲き群れてくれるらしい。
7月初旬が満開の時。少しだけ早いですが、すすき野から地下鉄真駒内駅まで20分、真駒内から定鉄バス川添町経由20分程で、ラベンダー色のリメンバーに 再会できそうです。
升 

画像http://www.htokai.jp/LAVENDER/
2006/06/21 升

関連記事 『ニシン』『べレンツ』『登舷礼』『賀状』『ラムの呼ぶ街1』『ラムの呼ぶ街2』『ぶらら
 

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2009/12/15

4丁目の異邦人 ⑦

樹木

私の住んでいる敷地は借地で、私道の突き当りに屋敷を構える大家さんを囲むように、私道の両側8軒が店子に当たる。
幼少の頃は5軒だったのだが、当時一番広い敷地を借りていたお向かいさんが敷地内に4軒の家を建てて又貸ししている為、隣組が増えた。

 Mk_map8こんな事が許されるのが“旧借地権”と言うものらしく、20年毎更新の賃貸借契約を60年前とほぼ同じ内容で我が家も地主さんと結んでいる。
地主さんは死んだ親父よりも年長でおおらかな人なのだが、神経質な息子さんが一人いる。

 

家を改築したり増築する場合でも契約書上では地主の承諾を得る必要がある。
改築の為の測量結果から実際の借地面積と契約書に記載されている面積がなんと10坪も異なっている事が判明していた。
我々が損をしている形で、恐らくその昔公図上でいいかげんに線を引いた結果なのだろう。

我々が損を被っている限り、ご近所様の何処かのお宅が徳をして居るのは間違いない理屈となる。
問題を定義しても親父は渋い顔をするだけ。
事を起こすと近所付き合いが息苦しくなりそうだし、なによりも、契約当事者である大正生まれの老人二人の顔がなくなりそうだ。

この問題は次回の更新時まで持ち越そうと口をつぐんでいた矢先、改築の為の承諾を得るお話し合いの席で、地主の息子さんが切り出してきた。「現在、私道に課せられている全ての税金および補修・維持費は私のほうから負担しています。今後その負担をなくすため、市道として横浜市に管理を委託する方針です。そのための最低必要条件は路幅が4メートル以上なければなりません。従いまして、今回の建て替え時におよそ30cmのセットバックをしていただく事が私どもの唯一の条件です。」
更なる悪条件の提示に憤慨したものの、時代の流れとして承諾した。

私道に面したお家のセットバック第1号となった我が家の外周は必然的にお隣のそれよりも30cm引っ込む形になる。
これは景観上少しばかり見苦しいし何よりも損をした気分だ。
その上、
「お宅が承諾してしまったら今度ウチの改築の時に拒否できなくなるじゃん!」
と牽制してくる隣組の輩まで出現する。

これらの各事情を総じて解決するため、私は私道に面する外塀を生垣にすることにし、ベニカナメモチの類似植物であるレッドロビンの幼木をセットバックライン上に30cm間隔で植えた。
建て替え前の古い家には、柿・イチジク・梅・ビワの果樹が植えられていたが、柿とイチジクの木は私道上に大半の枝がはみ出している事を理由に、改築の際残念ながら撤去した。
梅・モミジ・ビワの老木は連なるようにそのままの姿で残し、新たに八朔・カボス・スダチの購入苗木を植え、ついでに再び柿の苗木も植えた。

常緑樹の柑橘類が大好きなのだが、夏蜜柑はお隣さんに、柚子・金柑はお向かいさんちに鈴生りなので避けた。
何年か後に、美味しく頂いたあとの天草特産パール柑から実生の苗木3本を育て、これも植えつけた。
さらに、実生の苗を育てる事に興味を持ち、次いでアボガドの発芽に成功し、これも植えてしまった。
ネズミの額ほどの庭に。

レッドロビンは年2回春・秋に深紅の新芽を息吹く植物で、当初の期待通り2年後には既にお隣のブロック塀ラインを枝先が越えた。
築後十数年たった今、梅・ビワ・柿・スダチ・カボス・八朔の順に四季折々の果実が、のうのうと我が家の敷地からはみ出して実るようになっている。

犬の散歩を装って敷地内の見回りに朝晩忙しい地主の息子さんは、最近私の挨拶にも答えてくれず、下を向いたまま足早に通り過ぎていく。
実生から出発したパール柑・アボガドは樹径100㎜樹高5mを越える巨木に成長したがいまだ着花の兆しはない。
柑橘類は家に幸を呼ぶとの逸話を耳にしたコトがあるが現在のところ特別の幸は訪れていない。
きっと、私の凶部分を彼らの力で拮抗して貰っている結果なのだと、反省しきり。
残された人生、唯一パール柑の結実に大なる期待をしている。

2007/03/22 升

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007/01/18

鰍鍋

< 札幌発の夜行列車は異常に混んでいました。
何とかボックス席通路側の座席を確保した私は、“北の誉”の小瓶を飲み干し、うとうとしていました。
ふと気付くと私より少し年上に覗える女性が、私の脇で辛そうに立っています。 
32年前の事です。
その列車の座席の下には空間がありました。
私は21歳ほどに見える生足且つサンダル履きの女性に、彼女のお尻の下で私が横になる事だけを条件に、席を譲りました。 
女性を庇うべき紳士たる当然の行為でした。

私は窓がわに足を向け仰向けに横になります。 
寝返りする間隙はなく身長175㌢の頭の半分が通路に突き出していました。
周囲には網棚で寝る輩や、ザックに座り込んで寝るもの、立ったまま”地蔵”に化身した人。 

列車はチョウ満席のまま、北に向け走りつづけます。

半棺桶のような私の占有した僅かなスペースは それでも眠れる環境 と思われました。
私は自分のシタタカさに優越しながら睡眠行為を貪ろうとしたその時、小さな裸の足裏が眼前にぶら下がったのです。 
どうやら、お嬢さまは足を組んで寝た模様。 
以来、もんもんとした眠れない夜を過ごしました。 

「何この人。 寝た振りして下から覗いてるよ!」 
ミニスカートの裾を押さえながら叫ぶ若い女の声で再生した私は 唯のヘンタイ扱い。
一言の挨拶もなく、かわいい足の裏の持ち主は既にどこかで下車したようでした。
座席の下から這い出すと既に夜が開けていて、何処で降りたのか車内はガラガラ、乗客は地元の通勤・通学者と思われました。

Photo_20230102150901

網走駅。
早朝に項を垂れて下車。 
尾岱沼でホッカイシマエビの茹でたてをいただき、バスで知床へ向かう。

知床は人が入れない。
入ってはいけない。
野生の桃源郷。
と思いました。 

羅臼で見つけたまるで安アパートの一室のような民宿に宿を取り、乗合釣り舟に乗りました。
“カジカ”の入れ食いです。
海の中も野生で満ち溢れていたようです。
持ち帰る処のない二十歳の学生は、釣り舟の船尾に追いすがるウミネコ達に、30センチ超の釣果およそ100匹を空中で譲った思い出があります。>
ー知床世界遺産登録時の投稿文より抜粋(海鳴会HP)ー


東急ストアの魚売り場ご担当バイヤー様には度々驚かされてしまう。
メカジキの生首はもとより、以前は“ハッカク”のパック入りを見かけた。
先日は、現在量販店での取り扱いがタブーとなっている鯨肉の塊が刺身用として置かれていて、その勇気にエールを送らんと思ったばかりだ。

昨日、私にとって懐かしい“カジカ”を発見し、598円/尾という高額にも関わらず購入した。
前述の思い出話のごとく、あの時、全てのカジカを海鳥に提供してしまったので、カジカを自分の手で捌いたのは今回が初めて。
包丁を入れながらすぐに気付いたのは「こいつはアンコウか?」。
風貌・風体ともカサゴあるいはオコゼに類似しているのだが、皮や鰭の感触、内蔵及び鰓の有り様、更に肉質までもが、過去何千尾と捌いた経験のあるアンコウに酷似している。
即座に対アンコウ用マニアルに包丁を切り替えた。

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半身を刺身で頂き、頭・皮・鰭・鰓・内蔵と共に残りの骨付き半身を鍋にした。
鮟鱇鍋を食べた経験のある人で観察眼をお持ちの方ならお気付きの筈だが、鰭を形成しているスパイン(軟棘)が加熱により螺旋状に歪むのがアンコウの特徴だ。
軟棘にまでゼラチンが含まれているからに違いないが、カジカのそれも同様に歪んだ。

分類学的には、“アンコウ目アンコウ科”と“カサゴ目ケムシカジカ科ケムシカジカ属ケムシカジカ”に分けられており、両者は親戚でもないと云うのが現在の学説。
私はこの分類が間違っていると確信している。
どうやら、分類学者と云う人達は美食家ではないようだ。

市販のパック入りアンコウ鍋セット(ほとんどが大陸産冷凍原料由来、アンモニア臭のする物は避けたほうが無難)をつつくよりも、生のカジカ鍋の方がよっぽど美味しい。

魚辺に秋と書いてカジカと読む。
和名に付くケムシは余りにも失礼だ。

厳冬の知床の囲炉裏端、自在鉤に吊るされた鉄鍋でグツグツ煮込みフーフーと、熱々を喰らう贅沢を余生の夢の一つに加えたい。
2007/01/15 升

北の列車の画像は2006年冬、たびくる氏撮影。

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2006/07/17

ラムの呼ぶ町 Ⅰ

キリンビール園本館の受付で教えてもらった“一番近い”地下鉄の駅から南北線に飛び乗った。
知らぬ間に“東豊線”なる地下鉄が出来上がっていて、北・南・西・東だけで出来上がっていたその昔に比べると、いささかややこしい町になった。

昨日のこと、集合場所に一番近い地下鉄の駅が東豊線“豊水すすきの”であるとの案内状に従い、下車後の1~2分を節約する目的で利用した函館本線札幌駅から札幌市営地下鉄東豊線札幌駅への乗り継ぎを、あろう事か15分もの距離を歩かされてしまっていた。

南北線は札幌五輪開催に向けて開業した北海道では最も歴史ある地下鉄なのだが、反面、当初の技術を物語っているのか、あるいは、老朽化が原因なのか、最新鋭の横浜市営地下鉄ミナトミライ線に比べると甚だ揺れが大きい。

揺れる車両は、市街地を抜けると、山肌に張り付いた形の透明な避雪ドームの中を走る。
南の終点は真駒内駅であるのだが、その駅前にはありがちな商店街は微塵も無く、いきなり市営住宅が立ち並んでいる。
まさに、五輪運営だけを目的とした趣が現存していると言ってよいのだろう。

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2008年 国土地理院

多方面行きのバスがたくさん出発時刻を待っていたが、山行きのバスは20分待たないといけない。
ここは奮発してタクシーを選んだ。
私は金で時間を買う場合もある。

「山の上の大学まで頼みます。」
「今から、何か集まりですか?」
「いや、集まりはついさっき終わったばかりです。」
「と、いいますと?」
「久しぶりに同窓会があってね、中島公園のキリンビール園で今しがたお開きになりました。」
「あの山の上の大学の同窓会ですか?」
「うん!」
「それは懐かしいでしょう。で、日帰りですか?」
「いや、昨日の晩の1次回会に間に合わせてきました。」
「では、先ほどのジンギスカンは5次会位ですか?」
「あはは、図星です。すすきのでずいぶんやりました。」
「すすきのは前と変わったかも知れませんが、この真駒内はあまり変わっていないでしょう。
オリンピックの選手村はそのまま市営住宅として今でも残っているし。」
「私はねぇ、ジャネット・リンが来た翌年に、山の上に通う為、川沿町に下宿していました。
そのころの真駒内は植栽されたばかりの街路樹だったんでしょう、何処からでもお山の学校と藻岩山それとアイスリンクが見える高さだったのに、木々が育ってうっそうとした今はなんだか札幌が狭くなった様に感じるね。」
「お客さん、悪いけどそんな齢なの?」
「わるいね、そんな齢で。でもね、ホントは真駒内にはあんまり出なかったんだ。川沿町からすすきのに出るのはバスの方が便利だったから。」
「それじゃー、川添町経由で行きましょう。今はね、道路がたくさん出来たけど、五輪大橋が出来る前の石山通りは今の旧道しか無くてね、大橋と同時にバイパスが出来た時は、ソリャァー感動もんでしたよ。」

車は大橋を渡り、藻岩山の下を左折して、石山通り旧道に入る。

「旧道はあまり変わってないようですね?」
「そう、建物は建て替えられた筈ですが、町並み自体はおんなじです。」
「だろうね、そこの銭湯に通っていた覚えがあるけど、名前が横文字になってる。」
「今流行の奴ですね。」
「冬はね、あの銭湯から下宿に戻る間に髪が凍るんだ。」
「あはは、それもいい思い出ですね?」
「うん、周りはジャガイモ畑ばかりでね、秋には夜中に芋掘りもした。あっ!これはないしょだよ! でも、すっかり家が建ったねぇ。」

 右折して、いよいよ山登りの道にさしかかった。

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1974~78  国土地理院

「ここからが冬は危ないんですよ。」
「知ってる。ローリング族タクシーを何べんも見た事がある。」
「下宿はどの辺りでした?」
「この右側に小さなスーパーがあったはず。その裏のほうだった。」
「そのスーパーはそこのコンビニになっていますよ。そうそう、あの建物は覚えているでしょう?“東海アパート”って、いまでも大きく壁にかいてありますよ。」
「そんなのあったけな?覚えてない。覚えてるのはそこの四高脇の階段。雪が積もるともう大変だった。」
「そうでしょうねぇ。今はほら手すりが付いているけど、昔は無いですよねぇ。」
「なかった。ルートはこの“登山道”コース、ともう一つ、北側の湿地を抜ける林道コースしかなかった。
車道はつまんないし遠回りなので使わない。
よくこんな学校へ毎日徒歩で通ったもんだねぇー。」
「若かったんですね。で、恩師の先生方にはこれからお会いになるので?」
「いや、もうみんな退官して校舎には知ってる人は誰もいない。」
「でも、昨日お会いになれたんでしょう?」
「それがねー、みんな楽しみにして来たのに恩師だけがドタキャンしたんだ。
地元厚別の人がだよー。なんでも、私と入れ違いで東京に言ったらしいんだけど、酷い話だろー!」
「何かご事情があったんでしょう。」
「らしいんだが、昔から奇抜な事をする名人だった。ご家族の不幸事でなければいいんだが。」
「ご心配でしょうね。もうじきです、この右手のトンネルは初めてでしょう?中ノ沢に通じる道路が出来たんです。」
「ほー、すごいねぇ! ところで、校舎の周りがラベンバーで埋め付くされているらしいけどもう咲いてる?」
「ラベンバーは今年、開花が遅れていると聞いていますが、東海大に?ハテ、聞いた事ありませんが。」

2008
2008年 国土地理院

信号が青に変りタクシーは南の沢と中ノ沢を繋ぐ二車線道を横切って正門をくぐる。
無人の守衛所を左に緩やかな坂を更に登る。
右の車窓から野幌の開拓記念塔が見えた。
当たり前だが、昔と同じ方角に赤紫色の鉛筆を昔より少し白じんだ大地に垂直に突き刺している。
その視野の下側がなにやら紫色に染まっているのは私の遠近両用眼鏡の偏光・屈折の為ではなかった。

「ちょっと止めて! ほら、ラベンバーだよ! 右の斜面 ゼーンぶ ラベンバーだよ!

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どー、あんたも知らなかったねぇ。まだ咲きかけみたいだけど 俺のね 後輩たちが 植えたんだよ! みてよ! あの色が“リメンバー色”って言うんだ。」

坂道発進を余儀なくされたタクシーはそれでも5秒後に懐かしい校舎前に行き着いた。

 

日曜日、全ての扉が閉ざされていた。
降車する私に、
「お待ちしましょうか?」
「うん、あまり待たせないから。」
 “タン”とタクシーのドアが閉じた瞬間、目の前にそそり立っている閉ざされた無人のビルを見上げ、次いで、蒼い空を仰いだ。蒼穹の向こうに数々の懐かしい顔が浮かぶ。

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学舎の裏にグランドがあった筈だ。
重いタックルマシーンを肩に担ぎグランドまでの坂道を上り下りした、
それらしき方向へ歩いた。

と、背後から駆け足で迫る足音がする。
野球のユニホームを着た若い二人に振り向いた私に、ランニングの練習中だったのだろう彼らは、
「こんにちは」
立ち止まり、帽子をとり、腰をおり、そして 新月のような真っ黒い顔から白い歯を浮かばせて 闖入者である私に 望外にも 挨拶をくれた。

校舎の裏側には大きな棚田の如く、陸上競技用グランド・野球場・フットボール場の順に山肌を下る。
真ん中の野球場で何かの大会か、丁度、ゲームをしている。
ネット裏で私と同様な普段着姿の数人が観戦している。
先ほどの若者は私を野球観戦に来た関係者と間違えたのであろうが、それにしても実に爽やかな挨拶だった。

私たちの後輩諸君に違いないだろう。だが、彼らの期待を裏切り、私は野球場を素通りにして、その下にあるラグビー・ゴールポストの真下に一人たたずんだ。

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「ごめんね。帰りはね、北側の林道を歩いて降りたい。まだ、残っているかな?」
「お客さん。私はタクシードライバー。クルマが入れない道はご案内できません。
でも、お客さんならきっと見つかる筈ですよ。」

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空車のタクシーに手を振り、色づき始めたばかりと見える微かだが濃紫色の絨毯に近づく。
まだ蕾なのだろう香りのない織物にしゃがみ込んだ。
そういえば、ラベンバーってどんな匂いだったろう?
気が付くと、懐かしい川添町の家並みが、私を見上げている。
6月にしては珍しく蒸し暑い一日だった。

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2006/07/11 升

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ぶらら

序章
体育会系サークルの宿命なのだろうが先輩の指示する事に対し、何ら躊躇をせずに後輩はその指示を実行せねばならないという、暗黙の世界がある。
この風習は現体力の限界以上のものを培う為には相応の力を発揮する場合がある。
下級生は上級生の、今で言う“いじめ”に酷似した、“特訓”を受けやがて自らを超越した 肉体と技 更には 人格 を得る場合がある。
近年、このたぐいの指導方法に諸般の理由から、行政が介入するに至り心痛めるばかりだ。
愛情の片鱗もない強行指導は必然的に崩落する。
高校生の頃、私は“その”お陰で肉体だけはサイア人並みに養われたのだが、その後、北で更なる精神的試練を受ける事になった。

1. 
その日、ジャスマックプラザホテル4F宴会場にて、18:30から始まった1次会は2時間後にお開きとなる。
今回の参加者はドタキャンが1名発生し、寺江・岩崎・中尾・上谷・桜井・滝川・飯塚・橘高・升本(敬称略)の9名。
既に、ビール5ℓ・赤ワイン6ℓ・焼酎1.5ℓを消化していた。

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2次会は今回幹事役滝川氏のなじみのお店。すすきの のど真ん中に位置していて、綺麗なお嬢さんがたくさんいる。ここで、生ピアノ伴奏つきの歌を歌いながらウイスキー1.5ℓをやっつける。
締めは当然札幌ラーメンなのだが、3名が既に脱落していた。北の味を堪能し、ラーメン横丁を出てすすきの中通りを西へ闊歩している間に更に2名が消えた。
既に0時を回っている。

西4丁目の交差点を左に曲がり、帰路に付かんとするなり、(以下敬称を全て省略させて頂きます)橘高が
「もう一軒いくべぇー!」
吠え出した。
こうなるともう止まらない。
「升、女の手配はどうした?」
と続く、昔のように。

30年も昔のまま、先輩の命令は絶対的のまま、役柄を全うするのがこの年になると楽しみの一つになる。
三井ビル前に差し掛かっていた私は何の躊躇いもなく、一人の女性へすれ違いざまに声をかけた。
「焼き鳥食べませんか?あそこで。」
丁度、次の角の左手にそれらしき店が見えていた。
流行のキャミソールの重ね着にパンツルック、30代前半と窺がえるお嬢さんは、私の指さす方向を見届けると、
「行きましょう!」
花の様な笑顔で答えた。 
これをナンパと言いたいお方には私はケッシテ抗わない。

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即興で指さしたその店は焼き鳥屋ではなかった。
炉辺焼きの看板を掲げる二階建ての一軒屋。
格子戸を開けると五脚ほどの椅子が並ぶカウンター、その向こうに大柄かつ厳ついお顔のおじさんと、相対照的な小さなおばさんが、
「こんな時間からいいですか?」
さすがに控えめな私の質問に
「いらっしゃいませ」
と、温かく迎えてくれた。

「2階に小アガリがありますが宜しければお使い下さい。」
案内されるまま細い階段を上り、一見の客である我々5人は畳の上の座卓に落ち着いた。
上谷・橘高・桜井を向こうに、私とお嬢さんが左右に並ぶ配置。

てんでに注文を出す中、お嬢さんは会話を絶やさない。
まるで、札幌市の接客を一人で背負う勢いだが、微塵の嫌味がない。
吊られて上谷が、我々が今此処にいるワケを説明し始めた。
“聞き上手”のお嬢さんの巧みな誘導で皆の回顧の想いが目覚めたのだろう、会話が途切れない。
奇妙な事に、右手の箸も左のグラスも動いていない。
耳だけではなく、左の座布団に座った私には覗きがたい彼女の輝く瞳に、上谷・橘高・桜井の視線が集中していた。

コリコリの蝦夷アワビのお造りを平らげた頃には02時をとうにまわっていた。
私は、お隣のお嬢さんの肩をポンと叩き、
『そろそろ出ましょうか?』
だが、存外にその肩が蝦夷アワビの如く硬いのだ。
「こってるね?」
「そうなの!」

スポーツマッサージの得意な私は、今宵の恩返しの印として、彼女を座布団にうつ伏せに寝かせ、木綿の真白いソックスの足裏から、指圧マニアルに則り心臓方向へ両の親指を骨の隙間に差し込む。

これを“女性を押し倒し、馬乗りになって陵辱の限りを云々”と表現する輩に私はケッシテ抗わない。
彼女の身体 特に腰から肩にかけては 始めはまるで古タイヤのように私の親指を跳ね返していたが、2度3度と脊髄骨を往復するうちに次第に指先が埋まってきた。

「うわぁー、すっごく気持ちいい!」
と感謝されたのを、
“あーいい、もっともっとと女はよがり声をあげた”と表現する、口をあんぐりと開けたまま目の前で展開する男女の異様な行為をただ見守るしか方法のなかった輩達に、私はケッシテ抗わない。

 

背面マッサージを完了してもなお席を立とうとしない人たちを尻目に私は1階で一人会計を済ませ、2階へ戻るとなんと桜井とお嬢さんが名刺交換をしている現場に遭遇した。
ヒョイと覗き込むと“北の酒蔵 代表”の肩書きがある名刺だ。
「“北の酒蔵”って造り酒屋の社名?」私の問いに、
「いいえ、この店の名前です。」
お嬢さんはニコニコと答えた。

居酒屋の店主と知らず声をかけ、挙句、彼女自身が経営する店に図らずとも引き立ててしまったのは他でもないこの私だった。

 

2.
翌午前9時。
ジャスマックプラザホテル435号室の電話が静かに音を立てた。
既にホテル内の温泉露天風呂に入り、ビュッフェスタイルの朝食もお粥で頂き、シャキッとした気分で待っていた内線電話である。
「この、ヘンタイやろう! 起きているなら723にすぐ来い! 総会を始める。」

野太い声の主は飯塚さんに違いなかったが、私はどうやらヘンタイらしい。
泥球会の会員総会は夜を徹して行われる懇親会の翌朝に開催される慣例がある。
特別、会議室を借りる訳でもなく、この日は飯塚さんの泊まったシングルルームが集合場所となったようだ。
ドアロック・バーをドアの外側に押し出した間隙のあるドアから笑い声が漏れており、723は探さずともすぐに判った。
ドアを開けると、
「おー!来たなヘンタイ。」

ヘンタイ理由を掻い摘むと、
“昨夜、私は路上でナンパした女性を近くの居酒屋に連れ込み、個室に敷かれた座布団の上にその女性を押し倒し、馬乗りになって陵辱の限りを尽くした。”
と話が出来上がっている。
昨夜の同行者からの報告が出処なのだろうが、この多分に省略された内容では、誰が聞いてもまさしく私はヘンタイに違いない。
出席者の中で最年少者である私はその場の空気を読み取り、ただただ頭を掻いていたばかりだった。

 

終章
「1年坊は校内マラソン大会に全員出なさい! 2年生が給水ポイントでホローします。安心して走り、そして完走するように!」
「はい先輩! 頑張ります。」
お山の上にある校舎でスタートを切ったそのマラソンコースは、当たり前だがクロスカントリーそのものだった。
いき絶え絶えで給水ポイントに辿り着いた私をニコヤカな先輩が迎えて
「おー、升。 頑張れ! 水だ。」
だが、“ラグビー部専用”と書かれた紙コップの中身は水と同じ色をした清酒“北の誉”だった。

半年の間にスーパーサイア人に成長させられてしまった私に、更なる指令が来た。
「学園祭で体育会主催のフォークダンス大会を行う事が決まった。升、お前、代表で短大に行ってフォークダンスを教わって来い。そして、当日は10人以上の女子大生を連れて来ること。」
このインポッシブルなミッションをもクリアーしたのだが、その当日に集めてきた女子学生の中の1名は、その後も日本中私は連れて廻り、恐ろしい事に現在でも同じ屋根の下で暮らしている。
先輩の命令はあくまでも絶対的なものなのだ。
2006/06/30 升

あとがき
ノートのバッテリーの消耗が最近著しい。
1年前は杉田・三崎口間をのうのうと作文を楽しめていたのだが、最近は久里浜で勝手に休止モードになってしまう。
退屈しのぎに2ヶ月前から真由美の本を携帯するようになったが、“北の酒蔵”を出た翌日は札幌に同行したカバンの隅っこに収まっていた観光パンフを久里浜で引っ張り出した。
ジャスマックプラザホテルのチャックアウトの際にフロントサイドから集めたものだ。

その一つから“新緑の北大歩き”と、大きな文字のサブタイトルが一際目立つ「ぶらら」と言う50ページ程の小雑誌を見つけ読みふけった。
1年もの間札幌に住み、その後も数え切れない回数を訪れながらも、私は唯の一度も名門北大の門をくぐった事がない。
「ぶらら」の記事は素敵な写真を潤沢に使い、北の名門大学内の名所を心ゆくまで堪能させてくれた。

「ぶらら」の後半はお決まりの、“地元客で賑わう厳選24店”なる、食い物屋の紹介記事。
焼きタラバや毛蟹おまけにキンキ、31pにあるキリンビール園は昨日の昼飯を食い・飲み放題でやっつけたばかりだ。
次のページをめくった私は眼を疑った。
昨未明に<陵辱の限りを尽くされた>女性のお顔がお店の紹介と共にアップされていた。

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 ニシンのナメロウが旨くリーズナブルかつ落ち着くお店だ。
*ぶらら2006 Vol.33 平成十八年6月1日 ㈱財界さっぽろ発行 より画像引用 

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2006/01/12

賀状(千坂礼治氏に捧ぐ)

『 新春
新年明けましておめでとうございます。
皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
平成十八年 元旦 』

 かつて東海大学海洋学部札幌校舎は山の上にそびえていた。札幌市南区南沢5条1丁目1-1が現在の住所だが名称を札幌東海大学に改めている。32年も前に海を専門とした学部はこの山の上からいなくなってしまった。私はその山の、海を目指す、最後の学生の一人だった。
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 学舎は札幌駅から川添町までバスで30分、更に徒歩20分の距離にある。学舎に通う海を学ばんとする学生は、日本の津々浦々から集まった如何にもあやしい人たちだ。彼らは山の周辺に点在する下宿に、それでも3畳ほどのネグラで生活していた。

 私は川沿町の“千坂荘”と名付けられた木造2階建て賄い付き下宿屋で18才にしてはじめての一人暮らしを、見るからに奇妙な15名の同輩・先輩たちと共に開始した。

 札幌市街から定山渓方面に走る国道230号線(石山通り)には、藻岩山山麓にある五輪大橋の交差点手前から西へ分岐して、しばらくの間並行する旧道がある。札幌市中心部を流れる豊平川沿いが町名の由来である川沿町は山のふもとに位置していて、旧道から西側に折れると登り斜面が連続する。

 藻岩小学校手前を右折すると学舎まで車で登れる道が1本だけあった。入り口はかなりの勾配で積雪があるとブレーキをかけても車は停まらず、甚だ危険な道だ。急勾配を上り詰めたあたりの路地を更に右手に入り、突き当たり付近に千坂荘はひそやかな佇まいで存在していた。

 千坂荘の主は礼治さんと云い数年前に他界されてしまったが、陸上自衛隊を退官した直後の当時の親爺は藤岡琢也のTVそのもので、山岡久乃そのもののシャキシャキした きぬ夫人 と共に、16人の青春真っ只中なる少年達の里親役を完璧に務めていた。 

 主ご夫婦が生活する母屋の裏手に長屋の出入り口があり、アイヌ犬が繋がれていた。長屋は母屋から東側に延びていて、北側のほぼ中央に玄関がある。長い廊下を挟んで左右四部屋づつ個室があり、廊下の東端は便所・洗面所が配置され全自動洗濯機も複数台置かれていた。

 玄関脇の階段を登れば、サニタリー部分を除いた一階とほぼ同じ造りの二階に通じる。一階の廊下の西側の突き当たりには母屋に通じる狭い通路があって、ドアを開ければ母屋の一部でもあるいつも暖かい食堂があった。

 便所の隣の北向きの部屋が私の部屋だ。最悪の鼻香る場所ではあったが気に入っていた。隣室の輩が放つイビキに両側面から攻撃されるよりはるかに居心地がいい。室内には作り付けの畳のベッドが腰の位置ほどの高さにあり、その下が押入れとして利用出来る様になっている。

 机や椅子は歴代居住者からの遺留品をそのまま使っていた。窓はもちろん二重窓で当初東京育ちの私を感激させたものである。ガラス2枚向こうにはこじんまりとした家庭菜園がみられ、その下には河岸段丘による小規模な崖があり、近くにはついこの間ジャネット・リンが舞い踊った真駒内アイスアリーナが、遠くには野幌の開拓記念塔が眺望できた。

 誰が作ったのか小さな階段がその崖の端っこに設けられていて、アイヌの番犬に吼えられて主夫婦に叱られたくない“彼女”を連れ込まんとする輩の、あり難い進退路になっていたのだが、もちろん、私の部屋からは全て丸見えであった。

 

 校舎へ通う徒歩ルートは2本あった。一番の近道は、例の車道を一部利用して、東海大第四高脇の急斜面に設けられた肩幅ほどの登山道のような丸太階段をよじ登るルートだ。

 もう一つは、車道の北側にあった。このルートは白樺林の真ん中を突っ切るもので、雪解け時期にはフキノトウや水芭蕉が一面に現れ、エゾリスが周年走り回る素敵な湿地帯である。出口や入り口がどの様になっていたのか忘れてしまったが、幼少の頃に見たディズニー映画の“バンビ”が跳ね回りそうな素敵な空間で、時間のある限り私はこのルートを上り下りしていた。
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 自宅から通う学生は1%にも満たなく、また4年生大学ではあるものの、この校舎を利用している海洋学部および工学部の学生は3年次からはそれぞれの本校舎に移動する。したがって、必然的に在学生は1・2年生のみ。

 先輩後輩の序列も出来にくい環境下で、実家から遠く離れて暮らす若者達が生活情報をも含め、支えあう構造が自ずと出来上がっていた。誘い合って銭湯に行く。帰り道、洗い髪が凍りつくのを笑いあう。

 週末には1000円札を出し合い、バスですすき野へ団体で出張る。帰りは何故かバラバラになり、タクシー代など持たない私は度々歩いて帰った。途中雪道の上で寝込んでしまっても後続の誰かが叩き起こしてくれた。

 このヌクヌクとした育雛箱から巣立ち、皆何処かへ羽ばたいていった。数年前、偶然にも職場で長屋の丁度対角線の輩と再会したのが最後で、今はもう 何処の空を飛んでいるのか誰一人もわからない。

 

           虹の地平を 歩み出て
         影たちが近づく 手をとりあって
           町ができる 美しい町が
          あふれる旗 叫び そして唄
          ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
            あの星たちの あいだに
             眠っている 北の空に
          きみの名を呼ぶ オリンピックと

 

           雪の炎 ゆらめいて
         影たちが飛び去る ナイフのように
           空がのこる まっ青な空が
         あれは夢? ちから? それとも恋
          ぼくらは書く いのちのかぎり
             いま太陽の 真下に
           生れかわる サッポロの地に
           きみの名を書く オリンピックと
           生れかわる サッポロの地に
           きみの名を書く オリンピックと

 

 今年もきぬ母さんから年賀状をいただいた。末尾には手書きで、
『お子様方の成長された様子が目のあたりにみえて来るかんじがします。千坂きぬ』

 

 千坂荘で暮らした1年が私のあやしさの源泉であるように、孫と遊ぶ年齢に達した此の頃つくづく思います。ごめんなさい、孫誕生の報告をしておりませんでしたね。
2006/01/12 升
虹と雪のバラード : 作詞 河邨文一郎

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