カテゴリー「石神井時代」の14件の記事

2022/09/28

三宝寺池の妖怪伝説

《 2年7組クラス会出欠票
10:30 集合 「石神井公園・三宝寺」散策
12:30 開会 「久保田食堂」会食
15:10 開会 「蔵味珈琲」二次会
9月24日(土)までにご返事ください。欠席者は近況報告書いてね。》

近況報告
池袋線石神井公園駅南口を出て、商店街をひたすら西に直進し、三宝寺池と日銀グランドの間にある深い広葉樹林に囲まれた小道を抜けた先から再び始まる住宅街の、四軒目が私の自宅でした。

中学生の私は越境して桜台の学校に通っていました。1969

都内でも一流の自然公園となった今と違い、当時の石神井公園は昼間でも人の姿はまばらでした。
学校からの帰宅途中、池のほとりで不良グループに囲まれ数発のパンチと強烈な頭突きを一発喰らって250円をカツアゲされた時も、周囲に人影は見当たりませんでした。

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家から眼と鼻の先にはかつてテニスコート二面程の原っぱがあり(現在野鳥誘致林として金網で囲まれている区域)子供達は三角ベースに興じ、親父たちには恰好のゴルフの練習場になっていました。

中学三年になったばかりの頃、その原っぱの片隅にあばら家が建てられ出入口にはむしろがぶら下がっていました。
そのうちに、なにかの撮影に使われているという噂が。
それがTVドラマの主人公「一条直也」の師匠「車周作」のねぐらであることを知ったのは『柔道一直線』が放映を始めてからです。

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高校受験の勉強がたけなわになった冬になるまでに、 番組にすっかり感化されてしまっていました。
深夜、柔道着を着こんだ私はひそかに自宅を抜け出し、竹刀を片手に裸足で三宝寺池を駆け巡り、クヌギの木に柔道帯を結びつけ「地獄車」の特訓をして汗をかき、音もなく帰宅する、のが日課です。

三宝寺池には天狗が出ると云う噂がささやかれる中、私は一人パックインミュージックを聞きながら机に向かっていました。


寒くなると三宝寺池にはマガモやオシドリ等が渡って来てにぎやかになりますが、嘴の黄色いカルカモは周年見受けられます。
夜は池縁に備えられた防釣杭にとまって嘴を背中の羽毛の中に埋めて眠るのが常でした。

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ウシガエルがブォーブォーと鳴き始めるとある夏のたそがれ時、手が届きそうなところに、一羽のカルカモが杭の上に片足立ちで丸まっていました。
彼等とお友達になれる絶好の機会です。
ズボンの裾を膝までたくし上げた私は裸足の脚を池水に突っ込みます。
ところが水深は浅いものの底泥が思いの外に深いのです。

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ズボンを脱ぎ更にブリーフも脱ぎ、再び一歩を踏み出し手を伸ばします。
が、気配に気付いたカルカモは沖へ向かって泳ぎ出しました。
もう引き返す気など毛頭ない私は、Tシャツを脱ぎ棄て、それを追います。
古来の泳法「横泳ぎ」を駆使する私は音を立てずに静々と生温い湖面を進みました。
と、奴が大きく羽ばたき、卑怯にも夜空に飛びあがりました。
水面には奴が蹴った幾つかの足跡が残っていただけです。

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虚しく上陸すると悲鳴が上がります。
素裸でずぶ濡れ、頭から水草が垂れたままの私の目前には、夜陰に紛れてベンチで行為中のカップルがいたのです。

いつしか、三宝寺池に河童が棲むと囁かれるようになったころ、私は泥まみれになってラグビーに夢中でした。
以来、不良グループに囲まれても素早く逃げだす技を手に入れました。

追伸
左目の周りにアオタンをこさえ帰宅した私は、報復を恐れ家族にも「転んだ」事として、沈黙を通ました。
数ヵ月後、私は担任の長井先生から職員室に呼ばれました。
『警察から、「補導したとある高校生の余罪を追及したところ、三中の校章を付けた中学生を過去に襲ったことを白状した」と、連絡があった。うちの生徒であの時間、あの辺にいるのは君しかいないが、、、』
と事件が明るみになり、即日、自宅に刑事が訪れ事情聴取。
彼らは院に送られました。

石神井警察署の優秀な警察官達のお陰で、その後、石神井公園周辺の治安は平安に守られております。
あれから半世紀が過ぎ去り、住む人のいなくなったあの家を、とうとう処分しなければならなくなってしまいました。
天狗も河童も出没しない落ち葉舞う秋の公園を満喫してお楽しみください。

2018/09/20 升(2022/9/28加筆)
*画像①1969筆者撮影 自宅2階から見た石神井公園西入り口付近(木立の向こうに例の原っぱが雪で真っ白)
 画像②1969筆者撮影 三宝寺池のほとりに下りる階段
 画像③④⑤⑥1969筆者撮影 三宝寺池近景

 

 

 

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2018/08/12

だるまさんみーつけた!(加岳井広氏に捧ぐ)

 家人の兄が亡くなってしまった。

 70を前に逝く人を「まだ若いのに!」などというこの時代。

 10年前に54で逝った『若者』が残した絵本の数々があることを過去紹介したことがある(こちら

 私が著者の死を知り、その作品を初めて手にした当時、「100万部突破!売り切れまじか」などの情報に惑わされ、あわてて幼稚園に通う孫娘に買い贈った覚えがある。2018081117440001_2jpg

 著者加岳井氏と同じ患いで亡くなった義兄。

 彼の暮らしていた札幌に向かう飛行機に乗るため、久しぶりに利用した京急線 ドアに貼られ「ただるまさん」を見つけた。750万部も売れているらしい。
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そう云えば、義兄はだるまさん顔だった。

合掌

2018/8/12 舛

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2018/01/25

名門の礎(赤松さんに捧ぐ)

 一昨年、日本代表の若者達が活躍してくれたお陰で多少なりともメジャーなスポーツになったラグビーだが、「セプター」の名はその波に便乗することもなく、いまだにマイナーなままだ。

 

 日本人のほとんどは、かつていや今も、日本中のラガーマンが使用するグッツのほとんどにこの名前「SCEPTER」のロゴが入っていることを、知らない。

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 半世紀前、ラグビーボールは牛の皮4枚を縫い合わせた物で作られていた。

 計四スジになる縫い合わせの一本の中央に15センチ程の亀裂がありそこから楕円のゴムチューブを入れる。チューブの真ん中には10センチ位のヘソノウ様のホースが付いてそこから自転車ポンプで空気を入れて膨らませた後、折り返し、輪ゴムで縛って空気漏れを止める仕掛けだ。

 最後に、ヘソノウを内側に押し込み、ニードルと呼ばれていた湾曲した金属針を使い亀裂を革紐で縫い止めて仕上げ、使用に供した。

 日々のボール管理は最下級生の役目と決まっていた。彼らはボールの総数を人数割りした数を預かり、練習後、泥まみれのそれを唾液のみでピカピカに磨き上げるのが義務だった。仕上げは学生帽で磨き、そお、顔が映るほどに。

怠る物が一人でもいたり、仕上がりが悪い物が一つでもあったりすると、連帯責任と称して、最下級生全員が激しい「しごき」を受けることになる。

 ボールにはすべて「SCEPTER」というロゴが大きく印字されており、おろしたては特別念入りに磨きあげられ、試合用に使われた。

 

ロゴマークはボールを使用するにつれ薄くなり、やがて読み取れなくなった頃には皮がのびて真円に近いボールになる。当時、子供を作るマニアルを得たばかりの我々は、丸々と膨らんだそれを、「妊娠ボール」と呼んで慈しんでいた。

 

 

 地方での生活を切り上げて横浜に帰郷した四半世紀ほど前、若かりし頃一緒にボールを磨いた仲間に誘われるまま後輩達の練習相手にならんとし、現役時代に幾度か通ったセプターの店舗を訪れた。

新宿駅西口を出て、あやしい立ち飲み屋街を抜け、大ガード下を横断し、線路の西沿いを幾ばくか歩いた辺りに店舗はあった。

丁度、西武新宿駅の線路を挟んだ反対側に当るうらぶれた日当たりの悪い場所で、東に開いた間口二間ほどの小さな店内はラグビーグッツで溢れていた。

 

 練習用のジャージ・パンツ・ストッキングそれにスパイクシューズを選びレジカウンターへ進むと、片隅にピカピカに磨き上げられ飴色に輝く、妊娠ボールが置かれていた。

 

「懐かしいなぁ」と声をあげると、

 

「どちらですか?」と返って来た。もじゃもじゃ頭で小太りの30代。私をラグビー経験者と認識して出身校を訪ねてきたのだろう。

 

「都立大泉」

 

「名門じゃぁないですか!」

 

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大泉高のラグビー部は昨年創部70周年をむかえた。都立高校では最長の歴史らしいが、前身の東京府立20中時代を含めれば更なる大河となるだろう。

 

関東大会の常連だったこのチームの試合用ジャージは、明るいブルーに白のストライプを走らせたもので、初代顧問の母校である教育大(現筑波大)のユニフォームを基調としている。

 

その伝統だけでも「名門」の称号を頂ける資格がありそうだが、昭和47年の全国大会東京都予選、秩父宮ラグビー場で行われた決勝戦で目黒高と対戦し、準優勝した時が最も輝いた頃と言えよう。

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 都立の高校チームを準優勝にまで導いた、当時のコーチ、赤松氏が昨年末亡くなった。お別れ会は、氏の強烈な洗礼を受けたごつい男達が100ほど集まり、ご遺族を囲んでにぎやかに執り行われた。

慶大の連中は、♪青い山脈♪を模した猥歌を「松が来る来る 松が来る 中略 はやくして はやくしないと アゲインが来る」と合唱して、喝采を浴びた。

 氏は大泉から慶大に進んだ10期上の先輩で、一年生の時から徹底的に鍛えられた私などは目を合わすことも避けたい存在で、みな「赤鬼」と呼んで恐れた。トヨタの営業をしていた氏は、毎日のように真っ黒のクラウンをグランドに横付けし、ジャージに着替える。ストッキングは履かずモジャモジャノスネ毛が丸出しだった。

走りながらのパス回し練習の際、私ひとりが遅れると氏の「アゲイン!」の声が悪魔の様に幾度も飛ぶ。炎症で樽の様に腫れあがった膝とふくらはぎを抱えた私は、先輩や仲間達に引きずられて、それでものろまな牛の様に走った(走らされた)夏合宿。打ち上げ時に「がんばり賞」を氏から頂いて感涙した。

 

不思議なことに、夏休みが終わる頃腫れの引いた私の脚は、駿馬の様に走ることが出来ていた。三年生の冬、秩父宮でその脚は縦横無尽に走り回ってくれたものだ。

 

私が社会人となった頃、奥様のご趣味なのかピンク色の家具に囲まれた氏の新婚アパートに招かれた時、はじめて鬼ではなかったことを知りおかしかった。瀬戸内の島でトラフグの種苗を作り大儲けした報告をする私に「へぇー、そんな商売があるの!」と眼を輝かせてくれたものだ。

 

酒に酔うと、氏を敬って慶大のラグビー部に進んだ近所に住む、私と同期の仲間を弟の様に慕ってあまえていたと聞く。晩年は初孫の女の子と遊ぶのが何よりの楽しみな好々爺だったそうな。

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 「名門じゃぁないですか!」

日本ラグビーを創成期から支えてきた老舗の専門店、さすがに良く知っていた。

 高校ラグビー界の名門校都立大泉、その堅固な礎を私達は忘れない。

合掌

2018/01/24 升

 

* 画像2は都立大泉高校ラグビー部OB会HPから拝借加工致しました。

 

 

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2014/06/08

か が く い ひ ろ し の ―――――  だ る ま さ ん(加岳井広氏に捧ぐ)

『もう30年も前のことになります。

私は今でいうNPO法人の様な組織で、保育施設を立ち上げる為に、奔走していました。

様々な補助や助成金をやりくりしても足りず、関係者はそれぞれアルバイトをしながら、資金を捻出する日々でした。

 成人式を終えたばかりの頃、少しでも単価の高いアルバイトをと思い、裸婦モデルを選びました。

今はこんなですが、当時は素敵なプロポーションだったのですよ。

 そんなある日の事、芸大の彫刻科に呼ばれての仕事でした。

私はいつものように指示されたポーズをとって数人の学生の前に座りました。

 と、目の前の一人の学生が顔を赤くして俯いているのに気が付きました。

よく見ると加岳井君です。

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高校生の時から絵が上手だった事は知っていましたが、まさか、芸大に進学していたとは思いもよりませんでした。

 仕事を投げ出すわけにもいかず、互いに会話のないまま、私はポーズをとり続け加岳井君は俯いたまま何やらデッサンを書いていました。

 これが今まで私が27組のクラス会を敬遠していた理由の一つです。

 今回は思い切って出席して久しぶりに楽しい思いをさせて頂きましてありがとう。』

 都立大泉高25期2年7組クラス会恒例の近況報告の一コマ。彼女のスピーチの後、拍手と共にざわめきが起こった。

「次回には絶対加岳井君を呼ばないと!」と、53歳のオバサン陣。

「加岳井は要らない!その時のあいつの作品だけでいい。」とは、53歳のオジサン群。 

2007/02/11 升

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「かがくいひろし原画展」本日まで。お急ぎください。
切り抜きは2009/10/28 毎日新聞より。

合掌

2014/06/08 升

 

 

 

 

 

 

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2009/02/19

ぽつぽのお庭(目白の森)

 児童雑誌「赤い鳥」は、主催者である鈴木三重吉の自宅・北豊島郡高田村大字巣鴨字代地3559(現・豊島区目白3-17-1付近)で創刊された(1918(大正7)年7月)。

 

夏目漱石門下の鈴木三重吉は、当時の文壇の作家たちの協力を得て、芥川竜之介の「蜘蛛の糸」「杜子春」、有島武郎の「一房の葡萄」などの作品をはじめ、小川未明、坪田譲治、新美南吉、平塚武二などの童話、北原白秋などの童謡作品を紹介し、日本の近代児童文学における優れた童話作家、童謡詩人を育成、輩出した。

 

 創刊号に掲載された「赤い鳥の運動に賛同せる作家」の名は、泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川竜之介、北原白秋、島崎藤村、森森太郎、森田草平、鈴木三重吉。そのほか、三木露風、谷崎潤一郎、小川未明、佐藤春夫、西条八十、菊池寛、豊島与志雄なども「赤い鳥」に童話や童謡を執筆した。

 

 一流の文豪の執筆陣を揃えただけでなく、次世代の作家・詩人の育成、児童の綴り方運動などにも力を入れ、日本の児童文化のはばたきに大きな役割を果たした。
 また、清水良雄を主任画家に迎え、表紙や挿絵には清水をはじめ当時人気の画家たちの絵が起用された。
 

1919(大正8)年に赤い鳥社は日本橋へ移転(おしるこ屋さんの2階)し、その後また目白に戻って近辺を転々としている。
  1920(大正9)年には赤い鳥社を高田町3559へ、1922(大正11)年には自宅兼赤い鳥社を高田町3575(現・目白3-18-6)に移す。

1924(大正13)年10月は市谷田町3-8に赤い鳥社、自宅を長崎村字荒井1887(現・目白4-8)へ、

1925(大正14)年3月は自宅兼赤い鳥社を長崎村字荒井1880(現・目白4-5)に置く。

1926(大正15年)赤い鳥社が日本橋・加賀銀行5階へ。

1927(昭和2)年、自宅兼赤い鳥社が四谷区須賀町40番地に移転する。

1936(昭和11)年627日、肺臓ガンのため、鈴木三重吉逝去。

同年8月に「赤い鳥」は終刊。

同年10月には「赤い鳥鈴木三重吉追悼号」が刊行された。

 

以上 銀貨社HPより抜粋

 

 父の祖父の長女の次男坊を父側から如何に呼称するのか知らないが、私の父は、父の父親の従兄弟がオーナー社長として経営する株式会社の役員を務めていた。

 私に物心が付いた頃から正月の三日は決まって、父の会社のオーナーであり私の親戚筋に当たる「お殿様」の様な御仁のもとへ、年始のご挨拶に家族全員で訪れた。

 

 お洒落をして石神井公園駅から電車に乗り、椎名町駅で下車。改札を出て直ぐに大きなガードを潜る。クネクネとした路地をしばらく歩くと、大きな通りに出る。

大きな通りにはチャンと一段高い歩道があって、その脇に、われ等一行が必ず立ち寄る生花屋があった。 

その店で母が献上花を購い、再び迷路の様な細い路地に入った。

最後の路地を右に曲がると左手に路面から1段高い垣根が奔り、その中に小さく切られた木戸を勝手に潜る。

芝生に埋め込まれた飛び石を数十個緊張した足取りで進むとようやく「お殿様」のお屋敷の玄関に達する。

何の趣向だか、玄関の脇に殻長2尺余りの大シャコ貝の片身が凹面を上に置かれていた。

 

 間口一間の玄関を父が開け、おとないを告げると「女中」様が「いらっしゃいませ」と応じ、私たちは、玄関のたたきに植えられた蒼い石の塊に脱いだ靴を揃え、「殿様」への接見場のお部屋へとあないされ、従う。

 

 座敷には既に膳が予め用意されていて、頑是無かった私も「殿様」の御出ましを暫時畏まって待つ。

殿様はきまって焦げ茶色の着流しの上に同色の袢纏姿で直ぐに現れ、上座に御座し、新年の挨拶を交わし、御屠蘇で〆た。

 

 後続する酒席の前に、ぽち袋に納まったお年玉が私と姉の小さな掌に配され、同時に、鉛筆・色鉛筆・ボールペン等が年齢に応じたご配慮を賜り、「お土産」にもたされた。

 

 

 新潟新津育ちの我母が私の父方の祖母から仕込まれたと言う、我が家のお節を、元旦・二日と食した私には、親戚筋にあるとはいえ、我が家伝来の母の作ったお節をはるかに超越した「粋」を感ずる小鉢の数々に感動した。

 

「遊郭では、この様な膳が出るのだな?」 

三矢サイダーがグラスの中で気泡を弾く音を聞きながら、小学生の私は何故だか肯いていた。

 

 自宅兼赤い鳥社を、鈴木三重吉が長崎村字荒井1880(現・目白4-5)に構えた1925(大正14)年3月の時、路地を挟んだお向かいに、路面から1段高い垣根が奔るお屋敷があった。

初代が1922(大正11)に身罷ったっそのお屋敷は、その当時、襲名したばかりの二代目(明治37年生)の時代だ。


 二代目とフミ夫婦の間に残念ながら子は出来なかった。

だが、長女に読み聞かせる純粋な児童雑誌がないが為、自ら創作運動を提唱し、長女(すゞ)誕生から2年後に鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊したらしい。

したがい、大正5年産まれの9歳のすゞが私達の「お殿様」のお向かいに寝起きし、「お殿様」のお屋敷のただ広いかった庭で遊んでいたかも知れない。

 

ぽつぽのお手帳

 すゞ子のぽつぽは、二人とも小さな/\赤いお手帳をもつてゐます。
この二人は、「黒」よりもにやァ/\よりも、「君」よりも、だれよりも一ばん早くから、すゞ子のおあひてをしてゐるのです。

 一ばんはじめ、或る冬の、氷のはつてゐる寒い日に、二だいの大きな荷馬車がお荷物をつんで、ぽつぽたちのながく住んでゐた村から、町の方へ、こと/\出ていきました。
ぽつぽは、あのまゝかごにはいつて、その二ばんめの荷馬車の、一ばんうしろに乗せられてゐました。

二人は、一たいどこへいくのだらうと言ふやうに、しきりにきよと/\くびをうごかしてゐました。
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お父さまはそのときぽつぽに言ひました。
「二人ともおとなしくして乗つてお出(い)で。こんどは海の見えるお家へいくんですよ。」と言ひました。

「そして、そのおお家へ、小ちやなすゞちやんが生れて来るのですよ。」と、小石川のお祖母(ばあ)ちやまがそつと二人におつしやいました。
ぽつぽは、「お祖母さま、お祖母さま、そのすゞちやんといふのはだれでございます。」と聞きました。

 お母さまは、だまつて、たゞかるくわらひながら、みんなと一しよに車に乗りました。

 ぽつぽは、それからこんどのお家へつきました。
そのじぶんには、すゞ子の曾祖母(ばあばあ)は、まだ玉木の大叔母(おばあ)ちやんのところにいらつしやいました。
あき子叔母(をば)ちやんもまだ来てゐませんでした。
おうちには、千代といふ小さな女中がゐました。

 ぽつぽは、せんとおなじやうに、お部屋のそとの、ガラス戸のところにおかれました。
このお家は、おもてからはいつて来ると、たゞの平家でしたけれど、上へ上つて、がらす戸のところへいつて見ると、そのお部屋のま下が広いおだいどころで、そこからはお部屋はちようど二階のやうになつて、つき出てゐました。

 そのお部屋のぢき目のまへは砂地でした。そして、そのすぐさきが海でした。
ぽつぽはガラス戸の中から、どんよりした青黒い海を、びつくりして見てゐました。
まつ正面の、ずつと向うの方には、小さな赤い浮標(うき)がかすかに見えてゐました。

 その向うを、黄色いマストをした、黒い蒸汽船が、長いけむりをはいて、横向きにとほつていきました。
二人のぽつぽは、「おや/\、あんな大きな船が来た。おゝ早い/\。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」とおほさわぎをしました。

 お母さまはこのお部屋へおこたをこしらへて、小さなすゞちやんが生まれてくるのをまつてゐました。
そして千代と二人ですゞちやんの赤いおべゝをぬひました。

 暗い冬はそれからまだながくつゞきました。
昼のうちは、おもてのじく/\した往来を、お馬や荷車やいろ/\の人がとほりました。
それから、お向ひのうどんやで、機械をまはすのが、ごと/\ごと/\と聞えました。

 しかし夜になると、あたりはすつかり穴の中のやうにひつそりとなつて、たゞ、海がぴた/\と鳴るよりほかには、何の音も聞えませんでした。

 暗い海の中には、星のやうなあかりがたつた一つ、ちかり/\と消えたりとぼつたりしました。
それは、昼に赤く見えてゐた、あの浮標の上にとぼるあかりでした。

 ぽつぽは、そんな晩には、さびしさうに、夜でも、「ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」となきながら、
「すゞ子ちやんはまだおうまれにならないのですか。
いつでせう、いつでせう。」と聞きました。

 二
 そのうちに、だん/\と五月が来ました。海の空もはれ/
\とまつ青(さを)に光つて来ました。

 お母さまは、ネルの着ものに、青いこうもりをさして、千代をつれて、そこいらへ買ひものにいきなぞしました。

 往来には、もういつの間にか、つばめが、海の向うから来て、すい/\とかけちがつてゐました。電信の針金にもどつさりとまつてゐました。

 お父さまは、すゞちやんはいつ生れるのでせうねと、よく、小石川のお祖母(ばあ)ちやまとも話し/\しました。

 お家のちかくには、高井さんのおばあさまといふ、それは/\よいおばあちやまがいらつしやいました。
そのおばあちやまが、とき/
\おみやをもつていらしつて、小石川のお祖母ちやまとお二人で、早くすゞちやんが生まれるやうに、いのつて下さいました。

 すると、六月の或晩でした。お母さまには、あすはすゞちやんが生れるといふことがわかりました。
お父さまも、それはよろこんで、すぐに小石川のお祖母ちやまに来ていたゞきました。

 でも、ぽつぽにだけは、みんなだまつてゐました。
ぽつぽがよろこんで、あんまりおほさわぎをするとうるさいから、あとでそつと見せてやることにしたのでした。

 その晩お母さまは、すゞちやんの寝る小さな赤いおふとんをちやんとしいて、そのそばへやすみました。Dvc00003_m1_2 お父さまがあくる朝日をさまして見ますと、ちやんとすゞちやんが生まれてゐました。
まつ赤(か)なお顔をした、小さい赤ん坊のすゞちやんは、一人で赤いおふとんの中に、すや/\とねてゐました。

お父さまは、よろこんで、
「お祖母さま、小さなすゞちやんが生れて来ましたよ。」と言つてよびました。お祖母ちやまは、かけていらしつて、
「あら/\かはいゝすゞちやんね。」と言つて、それは/\およろこびになりました。
すゞちやんはそれからしばらくたつて、はじめてお母さまにお乳をもらひました。

 すゞちやんは、とき/\「おぎァ/\」と泣きました。それから、「おふんにやい/\」と言ふやうにも泣きました。

 ぽつぽは、はじめてすゞちやんの泣き声を聞くと、
「あれはだれでせう。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、しきりにお父さまに聞きました。

お父さまは、
「あれはすゞちやんだよ。こんど生れた赤ちやんだよ。」と言ひました。すると、ぽつぽは、よろこんで、
「おやさうですか。」と、ぱた/\おほさわぎをしました。

そして、
「早く見せて下さい。早く/\。」と二人でねだりました。
 しかし、すゞちやんは、まだたうぶんは、そつとねかせておかなければならないので、ぽつぽのところへつれていくわけにはいきませんでした。

 ぽつぽは、まいにち/\、
「どうぞすゞちやんを見せて下さい。早く見せて下さい。」と言つて、かはる/
\ねだりました。

それで或日お父さまは、すゞ子をそつと、おふとんにくるんで、ぽつぽのかごのまへにつれていきました。そして、
「すゞちやん/\、ごらんなさい。これがおまいのぽつぽだよ。」と言ひました。

ぽつぽは、
「すゞ子ちやん/\こんちは。」
「すゞ子ちやん私(あたし)もこんちは。」と、それは/\おほよろこびでかう言ひました。

 でも、まだ小ちやなすゞちやんは、まぶしさうに目(めんめ)をつぶつて、おぎァ/\といふきりで、ぽつぽを見ようともしませんでした。
すゞちやんは、たとへそのとき目(めんめ)をあけても、まだ、ぽつぽどころか、お父さまもお母さまも、なんにも見えなかつたのでした。

だれでも小さなときは、目(めんめ)があつても見えないし、お手(てて)があつても、かたくちゞめて、ひつこめてゐるだけです。
ちようど、足(あんよ)があつても、大きくなるまではあるけないのとおんなじです。

 そのうちに、だん/\と暑い八月が来ました。海はぎら/\と、ブリキを張つたやうにまぶしく光つて来ました。すゞちやんは、昼でも、小さなおかやの中にねてゐました。

 お母さまは、お部屋の鏡だんすのふちから、ねてゐるすゞちやんの目(めんめ)のま上へ横に麻糸をわたして、こちらの柱のくぎへくゝりつけました。
そして、赤いちりめんのひもの両はしに、小さな銀の鈴をつけて、それをその糸へつるしました。

 すゞちやんは、目(めんめ)がさめて、かやをどけてもらふと、黒い、きれいな目(めんめ)をあけて、その赤いひもをぢいつと見てゐました。
お母さまはとき/
\立つて、そのひもをこちらの方へ少しひいて見ました。

 さうすると、すゞちやんの黒い目(めんめ)は、すぐに、はすかひにこちらの方を見ました。
こんどは向うへやると、すゞちやんはまた黒目をうごかして、そちらの方を見ました。
鈴はひもがうごくたんびにりん/\となりました。

お母さまは、
「まあ、ちやんと見えるのですね。」と言つて、うれしさうに笑ひました。お父さまは、こちらのいすにかけて見てゐました。
お部屋の三方には、まつ白な、うすいカーテンがかゝつてゐました。
その中に、すゞちやんの着てゐる赤いおべゝと、つるした赤いひもとが、きわだつてまつ赤に見えました。


 お父さまは、それからまた或日、すゞちやんを、ぽつぽのまへへだいていきました。ぽつぽはよろこんで、
「すゞ子ちやん、すゞ子ちやん、こんちは。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と言つて、おじぎをしました。

 お父さまは、
「こつちよ/\、すゞちやん。こつちをごらんなさい。」と言ひながら、すゞちやんをかごのまへにすゑるやうにして、ぽつぽを見せようとしました。

しかし、すゞちやんは、片手をかためてしやぶりながら、ちがつた方を向いたきり、いくらをしへても、ちつともぽつぽを見ようとはしませんでした。
ぽつぽは、
「まあ、まだ/\お小さいんですね。いつになつたら、すゞちやんが、ぽつぽやとおつしやるでせうね。」と、さも、まちどほしさうにかう言ひました。
お母さまは、
「ほんとにいつのことでせうね。」と言ひながら、お乳の時間が来たので、すゞ子をおひざにとりました。
「なに、ぢきですよ。今にすゞちやんが一人で、ぽつぽのところへ来るやうになりますよ。」

 ちようどいらしつてゐたお祖母(ばあ)さまは、かうおつしやりながら、お乳をいたゞいてゐるすゞちやんの、黒い髪の毛をおなでになりました。
「あゝ、ぽつぽに

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、いゝものを上げてよ。」と、お母さまは、ふと思ひ出したやうに、帯の間から、小さな赤いお手帳を出してぽつぽにわたしました。

 お父さまとお母さまとは、いつもすゞちやんが早く大きくなつてくれることばかりまつてゐました。ぽつぽも、そのことばかり言つてまつてゐました。

 その十一月に、ぽつぽは、また、すゞちやんや、みんなと一しよに、ちがつた町の方へ遠く引つこしました。それは、ちか/\に玉木の大叔母(おばあ)ちやんが、はる/\曾祖母(ばあばあ)をつれて、すゞちやんを見に来て下さるからでした。
そして、あき子叔母(をば)ちやんもお家の人になるので、すゞちやんの生れたお家ではせまくてこまるからでした。

 すゞちやんは、とき/\あき子叔母ちやんのおひざにだかれて、ぽつぽのかごのところへいきました。
ぽつぽはこちらのお家でもまたガラス戸の中へおかれてゐました。
すゞちやんは、ぽつぽのかごのわきに立つちをさせてもらふと、ちようどお口がふちのところへ来ました。
すると、すゞちやんはいつの間にか、ちゆッ/\と、ふちをしやぶつてゐました。
それから、お手(てて)にもつてゐるがら/\をふりました。

「まァ、すゞ子ちやんは、先(せん)から見ると、ずゐぶんおほきくおなりになりましたね。」
 ぽつぽはかう言つて、叔母ちやんとお話をしました。

 それからまた寒い冬が来ました。その冬があけると、すゞちやんはそろ/\はひ/\をし出しました。
それからまた青い八月がまはつて来ました。
すゞちやんは、歩いてはたふれ、歩いてはたふれして、よち/\ともう十足(とあし)ばかりあるけるやうになつてゐました。
そのときには、すゞちやんを見たい/\と言つておほさわぎをしてゐられた曾祖母(ばあばあ)も、もうこちらへ来ていらつしやいました。

 或日、すゞちやんは、よち/\とおすだれのそとへかけて出ました。
あき子叔母ちやんは、
「あら、あぶない。」と言ひながら、あわてゝおつかけていきました。すゞちやんはもう少しでたふれるところを、ばたりと、ぽつぽのかごにつかまりました。
「すゞ子ちやん、こんちは、ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、ぽつぽがおじぎをしながら二人でかう言ひました。

するとすゞちやんはかごにつかまつたまゝ、そのまねをして、
「ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と言ひ/\おじぎをしました。あき子叔母ちやんは、それを聞いて、
「おや、今のはすゞちやんでせうか。」と、ふしぎさうな顔をして、ぽつぽに聞きました。ぽつぽはにこ/\笑ひながら、
「えゝ、おしまひのはすゞ子ちやんですよ。まァおじやうずですこと。さあ、もう一ど言つてごらんなさい。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、言ひました。

すゞちやんはまたまねをして、
「ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、おじぎをしました。あき子叔母ちやんはびつくりして、
「あら、まあ、ほゝゝ。ちよいと、すゞちやんがぽッぽゥ、ぽッぽゥつて言ひましたよ。」と、思はずおほきな声でお母さまをよびました。

すゞちやんはその声にびつくりして、「わァ。」と泣き出しました。

 これは、すゞちやんが口を利いた一ばんのはじまりです。お父さまやお母さまはそれを聞いておほよろこびをしました。ぽつぽもそれはよろこんで、来る人ごとにその同じお話をしました。

 すゞちやん、あの二人のぽつぽは、こんなときからのぽつぽですよ。
 お母さまは、もう先(せん)のお家のときに、すゞちやんの生れてから今日までのことで、二人のぽつぽのしらないことは、すつかり話して聞かせました。

ぽつぽは、それをみんな、お母さまにいたゞいた小さな赤いお手帳へつけておきました。
二人が見てしつてゐることは、もとよりすつかりかきつけてゐます。

 ですから、すゞちやんは、大きくなつて、ごじぶんの小さなときのことがわからないときには、いつでも、ぽつぽのお手帳を見せておもらひなさい。

 にやァ/\や、黒が来たのは、ぽつぽにくらべればずつと後のことです。にやァ/\は、すゞちやんが、やつとはひ/\するころに、或をぢちやんがもつて来て下さつたのでした。
黒は、たつたこなひだ、お家の犬になつたばかりで、もとは、そこいらののら犬だつたのです。そのつぎに、一ばんおしまひに、君(きみ)がおもりに来たのです。

底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版 1978(昭和53)年1130日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第五巻」文泉堂書店1975(昭和50)年9
初出:「赤い鳥」赤い鳥社1918(大正7)年7月 著者:鈴木三重吉
入力:tatsuki 校正:伊藤時也 2006719日作成
青空文庫作成ファイルより全文引用しました。(ブログ掲載上の都合でルビの配置を私が多少変えたことをご了承下さい)

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「お殿様」のご遺骨が巣鴨の染井霊園に納骨された後、かつてのお屋敷の跡地は「目白の森」と銘打って、豊島区民の力により公園として保存されました。

 

 幼少のすゞや私が遊んだ頃、幼木だった「庭木」は今、巨木と化し、まさに区立公園の名に恥じない都会の「森」に生まれ代わっています。

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 喧騒の駅池袋から徒歩15分の「都会の森」、鬱蒼さを年々増す雑木と落ち葉の堆積の中で、私は「蒼い石」を見つけた。

 

それが、私がその昔「脱いだ小さな靴を揃えて置いた石」だったと気付いたのは、私がこの雑文の冒頭を書き始めた時でした。

Photo_20221022133802

ぽつぽがふたり、落ち葉(おちば)の下をせわしなく嘴(くちばし)で突(つつ)いていました。

2009/02/16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007/11/29

ルール(ラグビーが与える女子バレーへの影響)

主な反則行為

アウトオブポジション:
ポジションまたはローテーションの反則(ローテーションの順に従ってサービスが行われない)

オーバータイムス:
チームがボールを返球する前に4回触れた場合

ホールディング:
競技者がボールをヒットせず、ボールをつかんだり投げたりした場合

ドリブル:
一人の競技者がボールを連続して触れた場合

アウトオブバウンズ:
ボールがアンテナ(コートの左右を示すためネットに取り付ける棒)に触れた場合や、アンテナの外側を通過してボールを返した場合

タッチネット:
競技者がボールに触れるための動作中、ネットやアンテナに触れた場合

ベネトレーションフォールト:
オーバーネットやパッシングザセンターラインなど相手エリアに侵入した場合

以上が6人制バレーボールの主な反則行為である(日本バレーボール協会オフィシャルサイトから)。

 

東洋の魔女達が東京五輪で披露した「回転レシーブ」「時間差攻撃」は空中戦主体のバレーボール競技において、身長に劣る日本勢に金メダルをもたらした。
だがその後、身長・体力に勝る外国勢が魔女化して依頼、我日本代表女子チームは苦戦を強いられたままでいる。
男子バレーはカワイクないのであまり見ない。

日本女子チームも近年巨人化し、なおかつスタイルがいい。
ゲームに際して髪をきりっ
と揚げた眉毛が如何にも凛々しく頼もしいのだが、長い長い脚を内股に屈曲し、ジャンプする姿に日本女性の美しさを感じる。

大きな大和撫子の谷間に普通の体躯の女の子が二人、敏捷に動き回っているのが印象的だ。
一人はセッター、もう一人はリベロというポジション、いずれもこまわりのスペシャリストだ。
リベロとはレシーブ専門、攻撃にルール上参加出来ない。云わば、「回転レシーブ」創造元の末裔だ。

セッターは「時間差攻撃」「移動攻撃」「ツーアタック」「バックアタック」を成し遂げる為の重要なトス専門職でこれも日本のパテントの継承者たる。
かつて猫田と言う、お名前どおりの猫忍者ぶりを発揮する小柄な男子セッターが活躍したことを私は忘れない。

これら日本のお家芸を継承する小柄な体躯の選手を代表メンバーに組み込んだ柳本監督に感謝を申し上げたい。

だが、世界と日本の差は依然歴然たるものがある。
世界ランク上位チームとの対戦時にはまるで子供相手同然の差を見せ付けられる。
状況は日本ラグビーのほうが低迷している。
彼らは外国人選手を多用しながらもなおかつ100点もの差を付けられて敗戦したりしている。

Img006801

そのラグビーのルール用語に「ラインアウト」と言う単語がある。
ボールがタッチラインを割った地点で、双方のフォワードプレイヤー(8名×2)がタッチライン5メートル後方に垂直に並び、タッチライン上から列の中央に投げ入れられるボールを奪いあうプレーを差し、ボールを投げ入れる権利はボールを蹴出されたチームに与えられる。(フリーキックおよびペナルティーキックを除く)

Photo_20221130082001

ボールを投げ入れる側は、キャッチングを有利にするため、投げ込む選手とキャッチャーとの間に数々のフォーメーションを作り、これを暗号化されたサインで結んでいる。
すなわち、相手のタイミングをずらすテクニックである。
具体的には、一番先頭に並ぶ選手に低いボールをいきなり投げたり、早いボールを投げる格好をして山なりのスローボールを中央の選手に投げたり、遠投して後尾の選手に走らせたり、様々である。

このプレーも云わばバレーボールと同様に空中戦の要素が高く、背の高いキャッチャーを擁する方が有利になる。
175cmの私は高校時代のチームの中で、それでも背が高かったのでキャッチャーを任されていた。

Photo_20221130082201

当時は許されていなかったのだが、現在のルールではキャッチャーがジャンプする際、補助(サポーター)が付けられる。
これをリフティングと呼んでいる。
キャッチャーの前後に並ぶ選手がキャッチャーの太もも辺りを抱え人間櫓(やぐら)を作るのだ。

このルール改定は、身長の低い日本チームに一見有利になる、と思われがちだがそうではなかった。
双方同等な練習を積んだ場合、背の低い人達が作る櫓は背の高い人達のそれよりやっぱり低くなるのである。


さて、柳本ジャパンは未公開で秘密裏に練習を始めよう。
栗原恵(186cm68k)がジャンプした際、大山加奈(187cm82k)が後ろから栗原の尻を、荒木絵里香(186cm83k)が前から同じく太ももを、支え上げるのだ。
栗原のしなやかな指先は一挙に地上4mの高さに固定される。
これは凄い事になる。セッター竹下(159cm55k)の余裕を持ってあげたボールを、最早ブロックの届かない高さから、狙い済ました栗原のスパイクが鋭角に相手コートに突き刺さる。

この技は、しかし、一大会でしか通用しない。次大会では全世界のチームがより高い櫓を組んで来るからだ。その一大会、来年5月開催の世界最終予兼アジア最終予選を柳本ジャパンはこれで乗り切る。

北京五輪、各国の櫓が乱立する中、ジャパンは新たな兵器で望む。

竹下佳江はセッターのポジションを高校生河合由貴(168cm62k)に譲り、佐野優子(158cm54k)はリベロを廃業する。
栗原・大山・荒木は元より、木村沙織(182cm65k)・高橋みゆき(170cm69k)等に空中高く投げ出される竹下・佐野両選手は軽々と世界の櫓の上空を舞いあがり、北京の星となる筈だ。

2007/11/27 升

画像①:1972/11/19  大泉高VS.青山高 全国大会東京都予選準決勝 於秩父宮 撮影:猪又芳明氏
画像②:1972/11/23  大泉高VS.目黒高 全国大会東京都予選決勝 於秩父宮 撮影:猪又芳明氏
画像③:1971/5  大泉高VS.千葉東高 関東大会 撮影:猪又芳明氏

 

 

 

 

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2006/12/23

椎の実

石神井公園は三宝寺池の北側に日本銀行が所有する広大な運動場がある。
地元では日銀グランドと呼称されている。
周囲を目隠しフェンスで囲み一般の人々から完全に隔離されていて、周辺の人々でさえ中に立ち入ったコトのある人は希薄だ。
幼少の頃、実家のお隣さんが“其の筋”にお勤めのお宅だった因果で、グランドの片隅にあるプールの利用券を頂いて何回か遊ばせて頂いたコトがある位。

Syakujii_park_1989_air
国土地理院空中写真サービス(1989撮影)より拝借

だが、400メートルの陸上トラックや野球場、テニスコート群などの施設には足を踏み入れた事はない。
近年、その存在が社会的に問題視されているようだが それはさておく 事にしよう。グランド南側の石神井公園と隣接する部分には細い遊歩道が設けられている。
西武池袋線石神井公園駅へ行く場合の私達の通り道で、同沿線の桜台駅にある小・中学校まで越境通学していた少年の私にとって、目隠しされても歩ける庭の一部のような場所だ。
三宝寺池池水面を基準にすると“海抜”5m程の高台に位置するその遊歩道の南側には、江戸の時代に三宝寺池をお堀として立地した石神井城主とそのお嬢さんを奉ったとされるあやしい塚(殿塚・姫塚)や、時期には桜咲き誇る花見の名所など、都民の隠れ散策場となっている。

Map

道の東端、フェンスの向こう側、即ち日本銀行に所有権がある敷地の南東の角に1本の椎の木がある。
巨木と言っていいだろう。
桜台に通っていた頃は野生の日本リスが木陰で走り回っていた。
枝先はその頃から既にフェンスを越え、秋口には遊歩道に実を落とす。
小ぶりだが、ずんぐりとしておらず、細身の円錐を形取り、頂点が小生意気にクイッと曲がっていたりもする、
黒光りする逸品で他のドングリと明らかに風格を異にしている。

付近にあるイチョウの木下に落下した銀杏は早朝から拾われてしまい、私が朝通る時刻にはオレンジ色の果肉部分だけが散乱し、異臭を撒き散らしている。
椎の実には興味があるのはリスだけなのか他のドングリと同じように踏み潰されていることもある。
道端にうず高く積もった枯葉の下が天然の貯蔵庫で、翌年の春が来るまでいつでも香ばしい炒り椎の実を楽しめる。

これが食べられることを教えてくれたのは、2年前丁度椎の実が落ちる頃に亡くなった親父。
桜台往復の時代から40年たった今でも、毎年“日銀グランドの恵み”は天上から降り続けている。

フライパンの中で椎の実を転がしながら火で焙り、一つ二つパチンパチンと弾け始めた頃が食べごろだ。
2006/11/14 升
* 石神井公園を詳しく知りたいお方は下記URLを紹介いたします。
2022年 石神井公園 - 行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー (tripadvisor.jp)

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2006/04/09

2年7組(北原幹也君に捧ぐ)

東京都高校ラグビー新人戦第2戦が昭和47年1月30日、都立大泉高校グランドで行われた。
対戦するは大泉高校と保善高校。Zenkei_20221126164801
ホームグランドでのゲームとなった大泉の各選手は、多くのクラスメイトや他の運動部部員達に校舎の窓や屋上から応援されている事を意識してか実力以上の物を発揮したのだろう、強豪保善を相手に大泉は劣勢との前評判を覆し14対3で快勝した。
頼もしい3年生の先輩方が引退された後の1・2年生だけのチームで、私はその時2年7組に在籍していた。

都立大泉高校25期2年7組同級会が過日、四ツ谷で催された。
15時集合のこの席に私の都合が間に合わない。
「幹事役殿。残念ながら欠席させて下さい。もし、2次会あるいは3次会があるのならご連絡下さい。19時には合流出来そうです。」
 
19時。
私は指定された四ツ谷の“パステル”という名の店のドアを恐る恐る開けた。
聞けば、店のオーナーの奥様が私たちの同期の同窓とかで、貸切の店内には15時から飲み始めたクラスメイト20名&恩師の懐かしい顔が、何とそのまま全員いる。
開演後4時間も経過した酒席には最早食い物は見当たらず、半端に開栓されたドリンクのみが点々と立ち並んでいる。

4時間も遅刻した者は否応も無く目立つ存在だ。
駆け付け10杯の後に、三十余年振りに再会したクラスメイトに近況報告。
ようやく落ち着いて隣席の同じ年の“おばさん・おじさん”達とゆっくり飲み始めた頃、ほぼ対角線上に位置していた一人の男がヌーッと立ち上がった。
09 「みんな聞いてくれ! 升本はラグビー部だった。
俺は剣道部だったが試合で保善にコテンパンにやられた事がある。
ところが、あいつらラグビー部は大泉のグランドで保善に勝った。
あそこまでよく戦ってくれた。
翌日、升本が左腕を吊って教室に出てきた姿を見て、俺はクラスメイトとして誇りに思った。」

ラグビーをしていてよかった。感激のあまり酒が進む。
年を追うごとに足は遅くなってしまったが、酔うのは逆に速くなっている。
4時間先を行く剣道部に1時間後には追い付いていた。

温かい集まりをまた一つ見つけました。

2006

2006/03/22 升

2014/03/08、剣道部のあいつはず~と先に逝ってしまいました。
私が一番輝いていた頃の証人を失ってしまいました。
合掌

 

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2005/10/28

フィナーレはアレグロで(大八木の別れ歌)

アタックナンバーワンの「バレエ」ではなく、白鳥の湖の「バレエ」。 
五月「五日」ではなく、「いつか」来る筈。 
そう、この単語は 「か」 にアクセントを集中し 「れん」 は 「か」 よりも少しだけ下げ、やさしく発声するのが正しい読み方である。
決して「可憐」な花の抑揚を持って発音してはいけない。 

カレン』。

197478_20230831162701
国鉄清水駅前(1974~78)国土地理院

 1.
昭和52年。
清水駅前の県道を北に向かい、持ち込んだ太刀魚を刺身にして貰った魚屋の200m程先を西に曲がると、木造モルタル造りで灰色の古ぼったいアパートがあった。
太刀魚を刺身にする腕を持っていない頃のことである。
そのアパートの大家の息子さんは海洋学部の先輩で可愛い妹さんがいた。
時折、子供を抱いた近所に住む美しい若奥様の姿を見かけ、その素敵なうなじに学生たちは一様にドキドキしていた。

部屋の中は常に雑然とし、畳の上には電気コタツと60センチ水槽が置かれた小さな机があるほかは、家具らしいものは見当たらない。
水槽の中にはピンクの透明なテンジクダイと大きなウツボアナゴが混泳している。
この部屋に泊まったことのある友人の証言によると、深夜枕元でボタッと嫌な音がし跳ね起きて見ると、ウツボアナゴが畳の上でのたうちまわっていたそうな。

おもちゃの様なキッチンには使い古したアルミ鍋が備品として常設されていて、その部屋を訪れる人々に借主得意の“煮込み玉ねぎラーメン”を振舞う大事な道具となっていた。
その部屋の主、大八木悟は10分もの時間をかけ、札幌一番味噌ラーメンに玉ねぎを放り込みコトコトと煮る。
仕上がった麺はドップリと汁を吸収し焼きうどんと見間がうほどのボリュームになる。
これを冷や飯に乗せいただくのである。
 

そして、部屋の片隅にはいつもギターが転がっていた。
卒業もまじかに迫った3月のある日、コタツを囲んで煮込みラーメンをつまみに酒を飲んだ。
もはや、卒論を書くためにゼミを日参する必要もなく、既に仲間の何人かは就職先や実家へと清水を離れて行っていた。
大八木もそして私もあと数日の内にそれぞれの新しい道へ旅発たんとしていた。
窓の外には“なごり雪”がちらつき、ラジオではみゆきが“わかれうた”を歌っている。
大八木がいつもの様にギターを持ち出し、「自分で創った」とテレくさそうに、歌を歌いだした。

 

あなたに出会って僕は強く生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は逞しく生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は一生懸命生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで
さようならまたいつか会えるその日まで

 

途に倒れて誰かの名を 呼び続けたことはなくても 別れはいつもついてくる。

 

2.
平成15年11月静岡清水。
東海大学海洋学部海外水産開発研究会OB会(海鳴会)が、主席率が10%に満たないまま、おりしも学園祭で賑わう母校校舎内で堂々と進行した。
海鳴会にとって始めての試みであり、現役学生も多数参加する。
50を越えるOBと、倅と同世代の若者との懇親の場であり、幹事役の私ははなはだ緊張した。
式次第の詳細に至り綿密なシナリオを書き上た。

お開きは歌で締めよう。
グランドフィナーレの歌は既決されていた。
昔コンパの度に大合唱した歌だが、その歌に纏わるヒーローの到着が20:00になる。
16:00開幕の酒宴を延々4時間もの間“まとも”な状態で引っ張れるはずが無い。
途中、帰途に付く人もいるだろうし、泥酔者も現れる頃だ。
打開策は「中締め」を18:30に入れることで解決した。

そのプレフィナーレに使う歌に心当たりがあった。

「大八木、あの歌覚えているか?」 
「どの歌だ?」 
私は受話器に向かって歌い始める。

「あぁー、俺が作った歌やろ? 覚えとるがな。」 
「タイトルは何という?」 
「しーらん。たぶん始めからなかったかも。」 
「OB会で使いたいがいいか?」 
「なら、ギター抱えていかなならん。」 
「タイトルと歌詞を少し付け加えたいがいいか?」 
「好きにしたらええがな。」

会の中でもメジャーではないこの歌を知るものは恐らく数名だろう。
この歌の最大の特徴はしごく単純なこと。
すなわち、誰でもすぐに歌える。
だが、オリジナルフルコーラスを歌いきっても時間的に短すぎる。
初耳の人は、歌詞①を聞き流し、歌詞②はクチパクで、歌詞③でようやく口ずさむ、のが普通の行動パターンであろう。
この推測下では合唱が始まるや否や歌が終わってしまう事になる。
私は“いつか その日まで”とタイトルをでっち上げ、あくまでもオリジナルを尊重し歌詞ⅱ・ⅲ・ⅳ部分を加筆し、歌いだし(歌詞①)及び大合唱になっているはずの末尾(歌詞②・③)部分にオリジナルを移動した。

2003/11/04 18:30
「宴たけなわとなっていますが、ここで中締めを行いたいと思います。
本日は12期の大八木さんにはギターご持参で駆けつけてもらっております。
大八木さん御自作の歌にてまずは締めさせていただきます。
なお、お料理等まだまだ沢山残っております。
8時にご到着予定の方もおられます。
本会場は明朝まで借り切っておりますので、皆様お時間の許される限り引き続きご歓談いただきますよう、お願いいたします。」
台本どおりの司会挨拶の後、懐かしい歌声が流れやがて大合唱へと誘った。

 

あなたに出会って僕は強く生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は優しく歌うこと覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は熱く語るここと覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は遥か想うこと覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は逞しく生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は一生懸命生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで
さようならまたいつか会えるその日まで

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3.
平成16年6月東京池袋。
東京都練馬区立開進第三中学校卒業21期生同窓会が、90%の高出席率の下、にぎやかに開かれた。
50歳記念を銘打ったお陰かもしれないが、40歳記念の時も同様で、とにかく異様な盛り上がりを呼ぶ。
幹事役グループの緻密な連携に毎回のように頭が下がる。

恩師のご挨拶、立食による懇談、写真撮影を滞りなく終え最後はお決まりの校歌斉唱の流れ。34
会場の隅っこでアコーディオンの伴奏が始まり、遠い昔確かに聴いた覚えのある歌を、驚いたことに私を除いた全員が声をそろえて歌った。

伴奏者は私のクラスメイトの一人だったが、彼女がキーボードを操れたことは知らなかった。
彼女の細い指先から次々と作り出される音の流れは、私の五感を圧倒する。
大きな眼は黒い瞳がその面積を占有し、小さな口元は微笑みを絶やさない。
小柄な体に大きく重たそうなアコーディオンをいともなく抱きかかえ、踊るように歌うように・・・。

校歌斉唱後もBGMを奏で続ける彼女に近づき、“アルプスの少女ハイジ”の主題歌を、思わずリクエストしてしまった。
500ルクスほどの店内で拝顔した50歳になる同級生のパホーマンスは、それほど私には“ハイジ”に見えたのだ。

 

4.
幼少の記憶で私はバイエルを卒業している。
さらに、その証拠として、とあるステージ上のグランドピアノにむしゃぶりついている蝶ネクタイに半ズボン・ハイソックス姿の私のセピア色の写真、さらには、そのとき録音したレコード盤まで現存している。 
この事実はゆるぎないもので、私 生涯の自慢の種として間違いなく墓の中にまで持ち込む覚悟である。
ところが、今の私は音譜がまるで読めない。
読めないのだから必然的に書けない。
ハイジさんと学び舎を共にした頃、通信簿の音楽欄は常に1であった事から中学時代既に音文盲に陥っていたことは容易に推察できる。

琉球王朝には文字がなかった。
従って、この国の歴史を遡る為にはクチ伝えあるいは同じ時代に文字を持っていた他国の古文書を資料とする以外方法がない。
話が出来るのにそれを記録することの出来ないもどかしさを琉球王朝の人達は気付いていたのか知らないが、私はこの歳に至り音譜を読むことも書くことも出来ない事に悲しみを感じている。
紙と鉛筆だけで自分の音感情を人に伝えられないからである。

聞けばハイジさんは音大ピアノ科出身との事だ。
「歌聞いただけで音譜を書ける?」 
「はぁーい!」 
「じゃぁ頼むよ。一つだけ気になっている歌があるんだ。」 
「OK!カセットでも送ってくれればやるよ。」

早速私は大八木氏に連絡し、その歌を録音して郵送するよう依頼した。
ところが、電話口では快諾したはずの氏からの郵便物が1週間経っても2週間経過しても届かない。
催促のメールを打ってもその返信すら来ない。
このままではハイジさんに対しても失礼に当たる。
業を煮やした私は我が肉声を持って対応する手段に出た。
だが、我が家でこれを実行すれば“お父さん やばくないー?”と家族総出で白い眼で見られるのは必至である。
当時の私は余命あと幾ばくか?状況の父親を抱えており、唐突に遺言を話し出したときに対応する為、常時車に小型録音機を搭載していた。
父親の入院先の病院とハイジさんのご自宅とは、東京環状8号線を挟み相対峙するほどの近さである。
私は病院に向かう途中、ギターではなくハンドルを握りながら、第三京浜爆走中の車内を録音スタジオとして使用した。

「なんだか君の声に似てるよー。雑音もすごいし。」
流石に耳が鋭い。
「昔からよく言われるんだ、俺と大八木の声がよく似てると。あいつのことだからきっと車の中で録音したに違いない。」

数日後、楽譜も作れしかも好きな楽器で演奏も聴ける優れもののソフトを購入したとのメールと共に、楽譜ファイルが送られてきた。
ファイルを開けいじくるとなんとメロディーが聞こえてきたのだ。
それは概ね私のイメージにそぐったものだったが、細かな部分において所々に違和感がある。
だが、それを修正する手段を私は持っていない。
ハイジさんとメールのやり取りの仲で“2行目の歌詞の く をもっと長く”、“3行目の り をほんの少し高く”など、音楽用語を全く知らないものが文字だけで表現していてもらちが明かない。

P9100017


とうとう
「あたしんちのピアノの前で君が歌ってみるしか方法はないね。」
と怒られる。
意を決した私は、ご自宅でもピアノ教室を開いているハイジさん宅におずおずとお邪魔しハイジさんの伴奏の下、直立不動の姿勢で歌った。
そう、東海林太郎の様に。
何回目かの独唱の後、
「あのねー!君のは歌うたび毎に音が違う。」
両の手指を鍵盤に叩きつけイ短調な不協和音を響かせながら振り返るハイジさんの顔は、中学時代私の通信簿に1を付けたあの忌まわしい音楽の先生に酷似していた。

あの時は音楽実技試験だった。
メロディーを奏でられる如何なる楽器を使用してもよく歌唱も可なり、と云う当時の中学生の試験としては幅のある素敵な内容だった。
カスタネットが唯一得意の私には選択肢は“歌唱”しか残されていない。
先生のピアノの伴奏の下、“春の小川”を私は声高らかに歌った。
突然、先生が両の手指を鍵盤に叩きつけト短調な不協和音を響かせながら振り返り
「あのねー!君の“春の小川”は演歌に聞こえます。文部省唱歌をなんと失礼な!」

「さー!もう一度歌ってごらん。」
ハイジ先生は優しい。
修正の鉛筆で埋め尽くされた譜面を前に再び鍵盤を叩き始めた。

「出来たよー!これでどおー?」
数日後に届いたメールファイルは完璧なものだった。
ところが、その翌日大八木氏から「ピアノの先生のご自宅宛、例のカセットを送った。明日には届く。少し遅くなってすまない。」
1ヶ月ぶりの返信である。この男には時間の感覚がないらしい。
約束を守ってくれた事には感謝するが、奴の肉声が記録されたテープがハイジさん宅に届いた瞬間、私は大うそつきになってしまう。これは不味い。

「お許し下さい。今まで私は嘘を吐いておりました・・・」

「着いたよー。ギター入りだったよ。でも、君の歌とまずキーからして違うよ!これじゃ今の楽譜全部書き換えだよ。君のと君のお友達の歌とどちらが本物なの?」
「ご指摘まことに恐れ入ります。お手数ですがテープのほうで改めていただければ幸いです。」
楽曲カレンは幾たびかの苦悩の山を乗り越え2004/08に楽譜として完成した。
もちろん素敵な改名はハイジさんの手による。

 

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5.
その後、何回かこの歌にまつわる仲間の集まりがあった。
“カレン保存委員会”と銘打った集まりの度「上京されたし。」のメールを作曲者に打つのだが、返信が全くない。
集まりは主役のいないまま開催されるはめになる。

平成16年11月には三鷹“文鳥舎”を使わせて頂き、ハイジさんのピアノそしてリエさんの篠笛による素敵なコラボレーションは名曲“カレン”の東京初演に花を添えた。
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平成17年9月に開かれた“カレン保存委員会”では多方面からのご出席を頂き、結果その翌日には楽譜と共にデジタルなメロディーがインターネットを利用して世界中に発信された。

世の中の急速なITの発達の恩恵を身近に受け感激覚めやらぬある日の未明、私は小用の為ベッドから抜け出した。
金魚が泳ぐトイレに一刻も急がなければいけない。そのとき充電器にセット済みの携帯が唐突に振動し着信を告げた。

11月14日金曜日に東京に出張します。夕方には自由になりますのでどこかで会いませんか。近隣の仲間たちと相談して連絡下さい。大八木」
金魚を背中に私はしゃがみながらメールを開けた。
とうとう奴が来る。
ようし、1ヶ月あれば盛大なコンサートが用意出来よう!深夜にも関わらず我が灰色の脳細胞がむっくりと動き出した途端、再び着信のシグナルが鳴った。

10月14日金曜日に東京に出張します。夕方には自由になりますのでどこかで会いませんか。近隣の仲間たちと相談して連絡下さい。大八木」
この男、1ヶ月も前の私からのメールタイトルをそのまま返信表題に使い、しかも1ヶ月も間違った連絡を送りつけて来たのだ。
しかも3日後に来るという。

東京駅八重洲口。
ビックエコー八重洲中央店(カラオケ屋)の狭い一室は大八木の生ギターの音色で溢れていた。
いつの間に練習を積んだのか学生時代よりもはるかに上手になっている。
NGを連発したがMDに歌声を収録した。

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私には別れうた唄いの影がある 
好きで別れうた唄う筈もない 
他に知らないから口ずさむ。


2005/10/28 升
あとがき
大八木氏の学生時代のアパートを再現するのに苦労した。
当時の仲間にも取材した。
ところが、或る者はアナゴだと言い、また或る者はウツボに違いないと言い張り、互いに譲らない。
しかたなく如何なる魚類図鑑にも掲載されていない“ウツボアナゴ”を登場させた。
取材にご協力頂いた今宮氏ならびに三宅氏に感謝いたします。
なお、大八木氏ご本人にも尋ねたところ「俺のアパートがどうした?」の返信が珍しく入ったきり、未だに沙汰がありません。

まことに勝手ながら、本文中『カレン』と同じ年に生まれた“わかれうた”(中島みゆき)の歌詞の一部を引用させて頂きました。
最後に、私の長年に亘る想いを実現して頂き、且つ、本文の校正に至るまでお力添え頂きましたハイジ先生には、<直立不動>にてこうべを下げます。031102041

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2005/06/05

プレースキック(信は力なり)

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1.
ラグビーの得点方法は大別すると2つ。
一つは敵陣のゴールライン後方にボールをグランディングする“トライ”。
もう一つは敵陣のゴールライン中央に立つ2本のゴールポスト間を繋ぐ長さ5.6メートル・高さ3.0メートルのクロスバー上を、脚で蹴ったボールが通過する“ゴール”がある。
 
“ゴール”は更に、“トライ”後のコンバージョンゴール、ペナルティゴール、ドロップゴール、の3つに分けられている。 
この内のドロップゴールは、両軍血みどろの戦闘中に如何なる場所からでも蹴り上げたボールが敵陣のクロスバーを越えれば3点を得ることが出来る、戦術的なプレイである。 
条件は一つだけ、キッカーは蹴る前にボールを一度だけグランドに落としリバウンドしたボールを蹴ることだ。 
相手のタックラーが迫るなか、よほどの好機と技術がないと成功しないし、失敗した場合、相手に攻撃権を譲ることにつながる為、よほどの混戦ゲームか大差をつけた余裕のチームが極稀に見せるプレイだ。

コンバージョンゴールおよびペナルティゴールは、ドロップゴールとは性格を全く異にする。 
「一人は皆のために、皆は一人のために」の標語を訓示にするラグビーに、コンバージョンゴールおよびペナルティゴールなるルールが存在すること自体に私は疑問を抱いている。 
この二つの“ゴール”に及ぶ起因は我軍のトライあるいは敵軍の法律違反なのだが、その式進行は両軍の動きを停止させたなかで静粛に執り行われる。
 
クロスバーを狙う権利を与えられたチームのゲームキャプテンの指示で、たった一人の人が先ず進み出る。 
コンバージョンゴール(2得点)の場合“トライ”ポイントから後方タッチラインの平行線上、ペナルティゴール(3得点)時は相手が反則を犯したレフリーが指差すポイントから後方タッチラインの平行線上から蹴る事がルール。 
さらに、相手チームは自陣ゴールライン後方に、みかたはキッカーより後ろに居なければいけないのもルールだ。
 
チームのその代表者自身がゴールポストとの距離・角度から選んだ場所に、土を盛り楕円のボールを固定する。 
両軍60個の眼さらにはスタンドの無数の瞳が見守る中、たった一人で、彼は助走のための後ずさりをまるで歩んできた彼の人生を振り返るが如く、一歩・二歩・三歩・・と、後ろを振り向かずに歩む。 
もはや視界には楕円のボールとゴールポストしかない。 
呼吸を整え、彼自身がプレースしたボールに向け踏み出した瞬間が、両軍の戦闘再開の合図だ。 
ゴールラインに居並ぶ男達が一斉に彼に向かい潰しに来る事を、彼は充分承知している。 
緊張の瞬間。 
この一蹴りがこのゲームの勝敗を決定するパターンもしばしばあるのだ。

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私は過去一回だけこの途方に暮れるやな役目を“プレースキッカー”負傷退場の因果で、ゲーームキャプテンの立場上、演じた経験がある。 
諸々のプレイヤーと同様の所作を行なったつもりだったのだが、私の右足から離れたボールはゴールポストに向かいはしたが、天空を飛ばず地を這った。 
コロコロと。

イコールこの得点方法はキッカー唯一人の個人的責任にかかってしまう。 
15名のプレイヤー一人々々が自身の身を殺しながらボールを奪い取り、さらに繋いで行く事によって初めて“トライ”が生み出されるラグビーというスポーツのなかにあって、異質な部分なのである。 

ルールだから仕方がない。 
この繊細な役目を担う人はチームの中でも、運動量あるいは相手との接触プレイの機会が比較的少ないポジションに配置されている人が行なうのがほとんどで、10番や15番の背番号をつけた人達が選ばれる事が多い。

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2.
『山口良治さんって、この前話してくれたラグビーの監督ですか? 京都市伏見工業高校ラグビー部総監督と書いてありますが・・』
友人からメールが舞い込んだ。 
2月4日、この日日本のどこかで優れた教育者の集まりがあるらしい。 
優れものでも教育者でもない私には無関係なのだが、この友人は優れた教育者の一人なのだ。

『鋭い眼、眉間の皺を持つ、いかついお方ならば間違い無くご本人だ。』
『明日その人の話を聞きます。』
『ホントならサインもらって! ついでに桜のジャージも頼む。』
『サインは請け負いますが、桜のジャージは着てこないとおもうよ。』
『身長185センチ、角刈り、眉間の深い縦皺、真一文字に結んだ薄いくちびる。
 四角い顔の額には一筋の傷があるはずだ。 
 35年前、夜の秩父宮、自陣左コーナーフラッグ直前で白ジャージのイングランド右ウイングの膝下に飛び込んだ時の傷である事を、その人は  覚えているはずだ。 
 その人の額から飛び散った血液で真っ赤に染められた桜が、眼に焼き付いて消えない。』
『了解。 明日このメール読んでもらいます。』

 

3.
1971/09/28 19:00 。
日本の花=桜の戦闘着を身に付け、秩父宮ラグビー場の照明塔の明りの下に、その男は立っていた。 
真白い公式試合用ジャージを着用した初来日のオールイングランドとの戦いの為だ。

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その男、身長185センチ・角刈りの四角い顔の内側には、鷹のような眼・鷲の如き鼻筋・眉間に刻まれる三筋の縦皺・一文字に結んだ薄い唇。彼の背中には、チームの中で最も運動量が要求され且つ最も危険なポジションである、7番(右フランカー)を背負っている。 
攻撃時には、バックスプレイヤーが作るポイントに常に二番手として飛び込み、その密集の核となる。 
ディフェンス時にはいち早く密集から離れ、ボールの行方を舐めるように追い、内側を抜いてくる相手を即殺するのがフランカーの役目だ。 
通常この役柄の人の顔面はボコボコで満身創痍、とても繊細な仕事はこなせないのが現状だ。 
だがその男、山口良治は全日本代表のプレースキッカーなのである。

その当時の状況を山口良治は、愛媛県ITV(あいテレビ)高橋アナウンサーに下記語っている。

この日、東京・秩父宮ラグビー場は伝説の舞台になった。
「日本 対 イングランド」
極東日本が初めて世界のトップに挑戦できるという夢がかなった瞬間だった。
実はこの4日前の9月24日、近鉄花園ラグビー場で行われた第一戦で、日本はイングランドと既に大接戦を演じていた。19対27。 
ラグビーの母国を本気にさせたこの一戦に、関係者は震え、選手の闘争本能はピークに達した。

そして4日後、ナイターで行われた日本対イングランドの第2戦。 
定員1万7500人の秩父宮を訪れたのは2万5000人。 
押し寄せたファンはスタンドに収まりきれず、フィールドの周囲にまで溢れ、午後7時のキックオフをじっと待っていた。

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そんな異様な熱気に包まれるスタンドの真下、儀式は始まった。 
けっして大きいとは言えないロッカールームに日本代表メンバー全員が集まっていた。 
テーブルの上には真っ白な塩がうず高く盛られていた。 
そして、物音ひとつしない静寂の中、監督大西鐵之祐は、地鳴りのような低くドスの効いた声でこう言ったという。

「おまえ達の骨は俺が拾ってやる」

そしてピーンと張り詰めた空気の中、メンバーの名が一人ずつ呼ばれた。
1番 原。「はいっ!」 2番後川。「はいっ!」 3番下薗。「はいっ!」、4番 小笠原。「はいっ」、5番寺井。「はいっ」、6番井沢。「はいっ」、「7番 山口」
「はいっっ!」…
「いいか山口。狙えるものはみんな狙えっ!」 
「はいっ!」

この時、山口さんは、かつて経験したことの無いあまりの緊張感に思わず声も上ずったという。
そしてこの時、大西監督の手にはとっくりと盃が握られていた。 
無言のまま、代表一人一人に盃が回され、飲み干して次ぎへ。 
決意の水盃…。 やがて一巡すると、盃は監督の元へ。 
そして一気に飲み干した監督は、やおら盃を床に叩きつけた。
「青春に悔いを残すな。日本ラグビーの新しい歴史の創造者たれ」

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大西監督の上ずった声がロッカールームに響き渡り、選手は体内から「恐れ」と名のつく全ての感情をかなぐり捨て、まるで催眠術にかかったかのように大歓声の中に飛び出していった。

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山口先生は続けた。
「そして高橋君。いよいよ試合だ。レフリーの笛がピーッと鳴った。
 そうしたらね、終わってたんだ…」

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「展開、接近、連続」の大西理論の集大成をはかったこの試合、「大胆な攻撃」と「捨て身のタックル」を厳命された桜のジャージ。 
倒して、走って、また倒して80分間。


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結果は 日本3-6イングランド。
日本の得点は後半34分、山口選手が決めたPGのみの3点だった。 
スクールウオーズのオープニングはこのシーンだった。

「高橋君、ここ触ってみろ」。
突然、山口先生は私の手を自分のひざに持っていった。 
スラックスごしに触れたひざ頭…。
「グラグラだろ。これが日本代表のキッカーの膝だよ。日本代表といったって、ケガばかりよ。骨折だって日常だ。でも、ラグビーはやめられないんだよ」

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4.
現在のキッカーのほとんどは楕円のボールをほぼ垂直に立て、サッカーのシュートのように斜め後ろから回り込み、けり脚を体の外側に回転させながら足の甲で蹴る。 
ボールは斜線の弧を描いてクロスバーへ飛んでいく。 

山口良治のプレースキックは独特だ。
彼はスパイクの先でグランドの土を掘り集め小さな山を作る。 
その山の頂上を少しだけ窪ませボールを置く。 
楕円球の頂点は真っ直ぐにクロスバーに向いている。 まるでミサイル発射台のように。 
そして、クロスバーとボールを結ぶ延長線上を後ずさり、助走路とする。 
沈黙の後、一歩、二歩、三歩、充分な加速をつけた右足の爪先が、ボールの下の頂点を打ち出す。 
あくまでも彼の蹴出したボールは真っ直ぐに、両ゴールポストに挟まれたクロスバーを超えていく。

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「日本に初めて訪れたチャンスです。キッカーはフランカー山口良治。 
山口は祈るようなポーズでボールをセットしております。 
場所は左中間。 距離は約40メートルもありましょうか。 
最高の精神力を要求される時間を迎えました。

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ゴール成功! 山口やりました。 
40メートルのロングキックに見事成功!日本代表に勝利のチャンスが生まれました。」                               (テレビ中継の実況アナ)

高校生の私はこの時、安価なゴールライン後方の最前列で観戦していた。 
後半戦は目の前が全日本のインゴールだったので、その伝説的なペナルティゴールの模様ははるか向こうで起こった「点」のようなもので、残念ながら記憶にない。
 
私の鮮明な記憶は、全速で走りこんできたイングランドのウイングを一発で倒した後、私の目の前でむっくりと起き上り静かに胸をはる、鬼の形相・血だらけの山口良治の姿だけだ。

 

5.
『サインもらったよー! 貴方のメール見せたら 「ソォソォー」 と嬉しそうな顔していたよ。』
堕落している私の友人のなかでも、珍しく優れた教育者であるこの友人を、今後“玉手箱さま”とお呼びしなければいけない。
「信は力なり」。
2005/02/06 升

画像3・4・5・8は、ようこそ秩父宮ラグビー場へから拝借
画像6・10は、ラグビーマガジン(ベースボールマガジン社)から拝借
画像7・9は、プロジェクトX挑戦者たち「つっぱり生徒と泣き虫先生」から拝借

あとがき
 この作文の最中にたまたま当時同じ風景を目撃していた旧友から連絡を頂きました。 すかさず、私は色紙Getの報告と共に、本作文中に描いた一つのラグビー・テストマッチに関わる、時代・状況・技術・ルール的「考証」を依頼した。 35年も前のことで、互いに記憶が定かでない中、返信を頂きました。 私の隣席の方とのやり取り及びSH名(ウェブスター?)に違和感がありますが、その主要部分を下記致しました。 思い出なのです。
『添削の必要はないかと思います。若干付け加えたいことがありますので書きます。
まず、当日のチケットを購入したのは私です。岸記念体育館にある関東協会の事務所買いに行きました。4枚買いました。
貴君、Nさん、S、私の4名で観戦したのです。
おっしゃるとおり、貴君とNさんは青山通り側のゴールエリアの後方、渋谷寄りのコーナーフラッグに近い位置だ。山口の額が割れたのが見えたのだったら後半のはずだ。なにせ昔のこと正確ではないと思うが、Nさんの肩に左腕を廻していたのがとてもうらやましく感じた、そう記憶している。私とSは絵画館前通り側、つまりバックスタンドの限りなく青山通りに近い安い席だったと思う。イングランドの選手の中で誰が好きか?と尋ねたら、9番SH、スターマースミスだとSは答えた。今もってその名前だけ覚えている。
ジャパンのFBインのサインプレー、菅平こと”カンペイ”が鮮やかに2,3度決まったことも忘れられない。万谷から伊藤にラストパスが通ってWTBが独走したにもかかわらず、ゴールライン直前で止められていた。
それにしても、なつかしい。』

謝辞 : 迫力をあらわにしたいが為、まことに失礼ながら敬称を略させて頂きました。
sh02851

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