カテゴリー「横浜時代」の251件の記事

2024/07/16

知床で夢を買った話

1.
1973年
札幌の学校に通っていたとき、夏休み早々に、札幌21:05発急行大雪52号に乗った。
大雪52号は下りの函館本線を走り、旭川で3分間停車した後石北線に繋がり、乗り換えなしで終着駅網走に翌朝の06:59分に到着する。

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日本交通公社発行時刻表1973年より 以下同じく

曜日は忘れてしまったが、その日は、尋常な混み方ではなかった。
札幌始発の列車だったので運よく私は座ることが出来たのだが、次の停車駅の江別やさらに岩見沢駅においても降りる人よりも新たに乗車する人の方が多く、人いきれがいっそう濃くなってきた。

通路は立ったままの人で埋め尽くされていて、無頼漢は既に網棚に寝そべっている。
4人掛けの箱席の通路側に私は座っていたのだが、私の左の肘が乗るはずのひじ掛けにはワンピースを着たお姉さんのお尻が乗っていて、細いひじ掛け板からはみ出したお尻の肉が私の左腕を圧迫していた。

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札幌から既に2時間が経過しても混雑の状況に全く変化が見られず、ついに深川辺りで19才の私はひじ掛けのお姉さんに「俺、下で寝るから、ここ座れば。」と言ってしまった。
板張りの座席の下は、支える四本の鋳物の脚が生えているだけで、人一人潜り込めるほどの空間がある。

私はそこに足をたたんで潜り込み、頭だけを通路に置いた寝袋に預けて、横になった。
肩の上にはお姉さんの青いワンピースに包まれたお尻が乗っていて、目を開けるとサンダルを脱いで脚を組んだお姉さんの右の足の裏がひらひら揺れていた。
上川辺りでようやく眠りに落ち、北見を過ぎたところで目が覚めた時には、もう車内はガラガラ、お姉さんは挨拶もなくいなくなっていた。

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1970年の網走駅(無料画像より)

網走駅前のカニ飯屋で腹をこしらえ、湧網線を使いサロマ湖へ行き、打たせ網で揚げたばかりの北海シマエビの茹でたてをたらふく頂いた。再び、網走までもどり、釧網線に乗って斜里で降り、バスでウトロまで行って民宿に泊まった。

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翌早朝ウトロ港から乗り合いの釣り船に便乗して入れ食いのカジカ釣り。
得物は全部船の船尾に追いすがるウミネコにくれてやり、バスで知床五湖の入り口まで行き徒歩で一周した後、網走まで戻って19:36発の下り大雪52号で札幌まで、という行程。

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この時の知床五湖は、エゾ松林の中を悠然と一人で歩き回る事ができた。
これが私と知床の初めての出会い。
札幌・網走間の乗車賃は急行券を合わせても往復4千円ほどで宿代やオプションの費用を含めても学生の小遣いでまかなえるギリギリの1万円で事足りた。

2.
1979年
瀬戸内海は大三島で、五右衛門風呂付きの古いお家を借りて所帯を営み始めた1979年ころ。
きっかけはとうに忘れてしまったが畑正憲氏に傾倒し、文芸春秋社に依頼して毎月刊行される「畑正憲作品集」を宅配してもらい読み漁っていた。


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画像は日本の古本屋HPより拝借

ヒグマのドンベイ飼育のお話や、厚岸浜中町沖の無人島・嶮暮帰島に家族3人で移り住んでの冒険談、浜に打ちあがった無数の毛ガニを五右衛門風呂で茹でて食べたお話等に、ただ々憧れ配本されるのを毎月楽しみにしていた。

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画像はヤフオクHPより拝借

本には毎月、著者や「どうぶつ王国」の近況報告の様なたぐいの「ムツゴロウ新聞」なるものが付録されていていた。
ある号のその
新聞に、知床の現状を訴え「しれとこ100平方メートル運動」への勧誘と寄付金を募っていると言う記事を見た。
そして、このことはその後の長い旅暮らしの挙句、私の頭の中から、すっかり忘れ去られていた。

3.
2024年
駅舎は替わっていたけれど駅前のカニ飯屋は健在だった。

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今回、レンタカーを駆って網走から線路沿いを走る。
時代は車社会に変わったいまでも、釧網線はいまだオホーツクの飛沫を浴びながら、一両単行の気動車で走り続けていた。
駅舎をカメラに収めながら、「天国に続く道」を辿り、斜里・ウトロの町を通り抜け、辿り着いた駐車場の向こうにはオシャレな建物が置かれていた。

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「知床五湖フィールドハウス」と銘打ったその建物は知床観光の拠点である。
2011年に環境省がおよそ2億円をかけて整備した建物で、 釧路自然環境事務所の委託を受けて公益財団法人 知床財団が運営している。
(公財)知床財団の前身は斜里町が造った「自然トピアしれとこ管理財団」で、現在の「知床財団」は羅臼町も参加している。

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50年前は乗り合いバスの終点で降り立って、トドマツの林の中をてんでに歩いて回った記憶があったのだが、流石に今は立ち入りに厳しいルールが出来上がっている。
雪がなくなる4月下旬から11月上旬までが開園期間で、その期間内で更に、立ち入りルートが設定されている。
ヒグマ対策で電気柵を巡らせた往復1.6kの高架木道は、夜間を除き無料かつ無条件での、散策が許されている。
と言っても、駐車料金500円が既に支払われているのだが。

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一方、昔ながらの地上遊歩道は、ヒグマの活動期の5月から7月末までの間は登録されているガイドの引率無しでは入れない。
ガイドはすべて登録されていて、勿論有料。
観光客一人当たり距離の距離に応じて6,000~3,500円程が必要だ。
熊の心配のないそれ以外の時期は、250円を支払い10分程の講習を受けなければ遊歩道には入れない決まりになっている。

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熊に追われたら逃げる脚を既に弱めている我々老人は、迷わず木道を選択してスタート、片道800mすらおぼつかない。
木柵コースは笹の群生地の上に架けられていて、遮るものなく流石に見通しは素晴らしかったが、かつてエゾ松の森の中を深々と歩いた面影は全くない。

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あとで聞くと、この笹は開拓放棄地に後から生えたもので、地下に根を張り巡らしているため、他の植物の生育を妨げているという。
昔のような森に戻す為には、先ずこの笹の地下茎ごと文字通り根こそぎ撤去してから、幼木を植える必要があるらしい。
熊は出なかったが鹿が水辺でのんびりと口を動かす1.6キロを完歩して駐車場まで引き返す。

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画像下方の緑の草地の日陰に鹿が寝ています

つまらない土産物屋の建物を素通りしてフィールドハウスの戸を開けた。
がらんとした中は財団職員やガイドの情報交換の場所らしく、奥には、ヒグマ活動期以外の時期に行われるレクチャー会場があるようだ。
カウンタの中にただ一人いた知床財団の職員らしい女性に私は訪ねた。

『大昔の話で恐縮だが、「知床1㎡運動」というモノに賛同してかつて土地を購入した覚えがあるのだが、それはどの辺りになるのか?』と。
『100㎡運動というものはありましたがいつ頃のお話でしょうか』

『去年亡くなった畑正憲さんの呼びかけに賛同して、大三島にいた頃だから45年ほど前のことだね。』

『「知床100㎡運動」が始まったのは1977年です。今から47年前になります。』
『100㎡なんて家が建つような面積なんか買う金なんかなかったころだから1㎡だったはず。』

『「1㎡運動」と云うものは御座いませんでした。100㎡のお間違いでは?』
『100㎡で幾らだったの?』
『一口8千円と聞いておりますが。』

『それくらいだったら若造でも払える金額だね、そうか、100㎡だったのか。』

『その節はありがとうございました。お陰様で今はこんなに自然が回復しております。』
『あんたが産まれていない頃の話に礼を言われても困るよ。で、そこはどの辺りなの?』

『運動の趣旨通り個人様の特定の土地の場所というものはありません。以前は野外掲示板に寄付された方の名札を掛けさせて頂いておりましたが、現在は、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」という建物内に収めており、誰でも自由にご閲覧いただけます』

『それ何処にあるの?』
『ここからウトロの方に戻って、知床横断道路との交差点を過ぎてすぐの「知床自然センター」の向いにあります』
『もうすぐ5時になるからもう今日は間に合わないね』
『いえ、5時半まで開いているはずです』

4.
資料 
知床の玄関口ウトロを経て知床五湖に向かう途中の岩尾別地区は、大正初期から戦後まで三次に渡る入植が繰り返されたが、厳しい自然の下で離農が相次いだ。
一帯が国立公園に指定されて間もない1966年には、斜里町が最後まで残っていた24戸を市街地に集団離農させている。

ところが、日本列島改造ブームに乗って、岩尾別の開拓跡地は土地ブローカーの恰好の標的になり、乱開発の危機にさらされた。
離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった。

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1974年 左端がウトロ港、右端は知床5個、白い部分が開拓跡地
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―

1977年2月、成田空港反対の1坪運動と、朝日新聞の1面コラム「天声人語」に載ったイギリスのナショナルトラスト運動の記事をヒントに、当時の藤谷豊町長が提唱したのが「国立公園内百平方メートル運動」である。
「知床で夢を買いませんか」がキャッチフレーズ。

参加者には離農跡地を百平方メートル当たり8千円で分譲する形をとるが、土地の分筆や所有権の移転登記はせずに斜里町が一括管理する行政主導型で運動が始まり、土地にはトドマツやシラカバ等の植樹をしていくことを掲げた。
拠出金は土地の買い上げと植樹費用のみに使い、宣伝や事務費などは町の一般財源を充てる、という画期的なものだった。

翌1978年には、斜里町が離農跡地120ヘクタールと町土地開発公社所有地31ヘクタールを買い上げる一方で、“公園内の土地保全”と“開拓跡地の自然修復”を図ることを目的に二つの条例を制定し、観光開発から知床を守り抜く運動が具体化していった。

20年後の1997年3月、運動参加者はのべ49,024人、金額では、5億2,000万円となり、「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成された。

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2014年 左端がウトロ港、右端は知床5湖、開拓跡地が緑色におおわれている
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―

そして、この時からキャッチフレーズが「夢を買いませんか」から、新たに「知床で夢を育てませんか」と換えられて、守られた土地にかつてあった自然を復元する取り組み「100平方メートル運動の森・トラスト」を本格的にスタートすることになった。
また、これを機に保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、将来に渡ってこの運動地を守り続けることを明確にした。

2010年11月には、100平方メートル運動地内に最後まで残されていた11.92haの開拓跡地を取得し、目標としていたすべての保全対象地の取得を完了することができている。

 

5.
2024年
道の駅然とした佇まいの「知床自然センター」はすぐにわかった。
少し前に後にしてき知床五湖の駐車場にはたくさんの車が利用していたが、バスを含めて200台は収容可能と思われる「知床自然センター」の広大な駐車場には乗用車が3台しか停まっていない。
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この建物は、林野庁が起こした「知床国有林伐採問題」事件の最中(1988年)に斜里町が建てたもので、現在は「知床五湖フィールドハウス」と同じ(公財)知床財団の管理下に置かれている。
ただの道の駅ならばこのガランとした風景を見ただけで「閉鎖中」と勘ぐられ、建物内はもとより、駐車場にさえ入る車などないだろう。
シーズンには、ここにマイカーを置いて臨時に発着するシャトルバスで五湖へ向かう、という一般車立ち入り規制サービスの拠点にもなっていると言う。


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さて、「向い」にある筈の「しれとこ100平方メートル運動ハウス」は「向い」にはなく探し回った結果「裏」にあった。
この建物は「知床自然センター」建設に先駆けて(1987)建てられていて、これも斜里町の仕事らしい。

深い森に囲まれ、しかも、鹿がいた。
館内を隈なく見学したがその他の見学者はおらず、職員の姿も皆無だった。
閉館時間が迫っていることもあって急ぎどこかにあるべき私の名前を探した。

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しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借

入り口の脇に分厚い名簿が置かれてあったが寄付を受け付けた年代は新しいものばかり。
展示パネルが貼られている外廊下を1周すると建物の真ん中に四角い空洞(部屋)がある。
目測すると10m×10m、丁度100平方メートルの大きさの部屋である。
なるほど、100㎡の実際の大きさの表現かと思ったが仕掛けはそれだけではなかった。
壁一面に白い短冊が上から下までビッシリと張り付けられていて、近寄らなければそれは名札であるとは分からない。

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拠出金の提供者、言い換えれば知床に100㎡の土地を夢と一緒に買った人、49,000名余りの名札に違いない。
年代順なのか、あいうえお順か、ABC順か?
しばらくして、その名札は提供者登録住所の県別に、仕分けされていることに漸く気が付く。
愛媛県越智郡大三島町宗方で生活していた頃の話である。

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迷わず愛媛県の仕切りに飛びつくと、その中に私の名前が刻まれた名札があった。
周囲の名札の中には黄ばんだセロテープを剥がした痕跡のある物もある。
参加者が増える度に名札が都度1枚づつ造られ、47年前の1枚目からこのハウスに収容されるまでの10年間、知床の原野の風雪の中に置かれた歴史の面影を物語っていた。

5.
20年の間に5万人足らずの人から5億円強の金銭を預り、町が120ヘクタールの土地を買い集め保全した話。
夢が叶った物語の筈なのだが、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」を後にしてから振り返ると、そこに違和感が建っていた。
「知床五湖フィールドハウス」の建設費はおよそ2億円。
とすると、このハウスは1億円ほどか?
3階建てと見られる「知床自然センター」は10億か?

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『離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった』為に、苦肉の策で始めたこの運動。
そのたったの10年後に、運動で集めた拠出金よりも多くの金額を使って、斜里町は二つの観光施設を造ったことになる。

施設をだだ造っただけでは観光客は来やしない。
もしかしたら私たち拠出金提供者は、知床観光客を呼び込む為の全国に散らばるアンバサダー役に、現金と共に利用されたのかも知れない。

名札を残してくれるのは有り難いことだが、あんな豪華な建物の中よりも以前の様な原野の中で熊や鹿と一緒の方がそぐっていた、と考えるのは私だけではないだろう。

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かつては原野に野ざらしだった名札盤
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借

名簿だけで充分
「あんな無駄な建物造る金があるのなら、もっと違うことに使って!」
と、そう思わない輩はあの運動に参加していない筈だから。

とわ言え、私の名札が残されていたことに感動した。
なによりも、私自身が忘却していた半世紀も前の出来事を、今の現場の若い人たちが忠実に記憶し、かつ継承していることに驚きを覚えた。
彼らに感謝と共に今後の活躍に期待している。
2024/7/12 升

引用文献
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHP(しれとこ100平方メートル運動(北海道斜里町) (shiretoko.or.jp)
曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号)(曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号) | 滝川康治の見聞録 (takikawa-essay.com)


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2024/06/28

あさひが照らす落石の岬

日本各地から出航した北米航路の船舶は、まず太平洋岸を北上し、昼ならば北海道の東の端の白地に太い赤のストライプの入った灯台を、夜ならば8秒間隔で光る灯りを、霧の中ならば30秒間隔で5秒を二回吹鳴する霧笛を、それぞれ頼りに主舵を切って日本列島に別れを告げ大陸に進路を向けたという。

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落石灯台 by海上保安丁

東経145度30分55秒、北緯43度9分52秒、そのまま真東へ進路とれば、北米大陸はバンクーバーとサンフランシスコの中間、オレゴン州辺りにぶつかる位置。
灯台の周辺は湿地に覆われ、国の天然記念物に指定されているツツジが自生していて、環境保全地域になっている。

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 落石海岸三里浜 byじゃらんネット

そのため、車両の乗り入れは禁止されていて、灯台に行くためには車を置いて、木道や草原を2キロほど歩く必要があるため、魅力をいっそう高めている。
晴れた日には太平洋のパロラマが一望でき、振り返れば草原に覆われた海抜50mの断崖上を、JR花咲線が縦走する姿が絵になることでも名を上げている。

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根室半島

高く突き出た岬を頭に、低く細くなっている付け根分部を頸部に見立て、アイヌ語の「オクチシ」(うなじ)に由来した地名で、和名は「おちいし」と読みます。
集落は、表現豊かなアイヌ民族の言葉通りに岬に突き出した高台の根元にある低いところにあって、惣万君の故郷です。

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落石町 byグーグルマップ

あんなに晴れていた納沙布岬から40kの道のりを南下するにつれて霧が出てきました。
ほぼ直線と言っていい対向車もない道道142号線を80㌔で走っていると「落石駅」の矢印が突然見えてきます。

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この花咲線の駅は、惣万君が5駅先の根室駅まで毎日、道立根室高校への通学の為に使っていたものに違いありません。現在の利用客は10名/日程との事ですが当時は、150名ほどいたとの事で、もっと賑わっていた筈でしょう。
もっとも、終着の町根室の駅舎も思いの他大きくなく、そうそう、東海道線の原駅の駅舎に匹敵するくらいでした。

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落石駅に到着したのが11:40分、10分前に厚岸根・室方面行が出たばかりで、列車が撮れなくて残念でした。

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駅の時間表を見ると1日6往復、面白いことに惣万君が利用していた頃(1973)のJTB時刻表に記載されている本数と同じでした。
7:10発に乗り根室7:37着、帰りは16:50発→17:17着が通学列車でしょう。

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いまは、落石港発→根室高校前経由→根室市民病院行のバスが1往復運行されているようです。

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道道142号線に戻るとすぐに、今年4月に中学校が統合して新たに根室市立落石義務教育学校とされたそれまで小学校だった校舎があり、その先に同時に廃校となった中学校の校舎が見えます。
5月にこの付近でヒグマが出たとニュースになっていました。

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どちらも惣万君の母校でしょう。
3月に落石中最後の卒業式があり、卒業生代表の挨拶は惣万凛桜さんだったとの、根室新聞記事を見つけました
惣万君によればご両親は既に亡くなり、彼のお姉さんも弟さんも札幌などに出ていて、20年ほど前に墓仕舞いもしたが、今でも落石の惣万姓は皆父方のご親戚とのこと。
凛桜さんも彼の御親戚のお一人に違いないはずです。

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 中学校前の道道を道なりに進んで行くとおしゃれな郵便局の前に暖簾が下がっているお店がありました。
目指す朝日食堂です。
惣万くんからは「88の婆さんだからもうやってないかも知れないよ」と云われていたお店。

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暖簾が出ていたので営業中に間違いありません。
引き戸をガラガラと開けると、カウンター席にもその向こうの調理場にも誰もいません。

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「こんにちわ~」を繰り返すと奥から出てこられました。
名物エビラーメンを注文し、撮影の可否を問うと快く許して頂きました。

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柱に貼られた保健所発行の食品衛生責任者証のお名前は惣万照子さん、間違いありません。
スマホに保存しておいた若い頃の惣万君の写真をお見せして自己紹介をすると、たちまち相好を崩されました。

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麺を冷蔵庫から取り出しながら語り始めたヨシタカちゃんの若い頃の物語。
落石№1の漁師だったヨシタカちゃんのお父さんの事、その三番目の弟に28才で嫁いで40年前にこのお店を開いたこと。

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ヨシタカちゃんが仕事で海外に行っていた頃、奥さんがお父さんの葬式のために一人でここまでやってきてくれた時の事。
毎年静岡からお茶を送ってくれて、一緒に入っている綺麗な字で書かれた、近況を読むのが楽しみなこと。

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お礼に港の魚を送ってやりたいけど最近はいい魚が獲れなくなったこと。
落石で揚がった真っ赤なホッカイシマエビ入りの美味しいラーメンを平らげてもまだ、お話が尽きません。

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営業は2時までとの事、もうすぐ閉店の時間です。
「最近は脚が痛くなって、齢が齢だし、いつまで続けられるか分からない」と云いながら送っていただきました。
いつまでもお元気で、ごちそうさまでした。

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外に出ると辺りはすっかり霧に包まれていました。
下り坂が続き集落と思われる地域に出ると周辺は完全にホワイトアウト状態です。
道路の前方には草地とも砂地とも思われる僅かな面積が見えるだけで、海岸なのか山なのかさえ分からなく、方向を失う危険を感じ引き返しました。

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あとで聞けば灯台に繋がる木道は改修工事中で通行止めになっていたそうです。例え辿り着いていても何にも見えなかった筈と舌をだしています。
頼りの霧笛も、15年前に廃止され、もう道案内は叶いません。
霧のなかを更に道を下って行くと漁港にでました。
ウミネコ達も見通しの効かない空を飛ぶのをあきらめたのか一斉に羽を休めています。

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向こうに落石岬、高さ50mの大気を観測している地球環境モニタリングステーションが幽かにみえました。
整備された大きな水揚げ場が目に入りましたが船の出入りはもとより人の姿も見られません。
日本で一番早く日が昇る町は、この日霧の中に沈んでいて、朝日食堂だけが灯台の様に輝いていました。
2024/6/16 升

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2024/06/09

赤魚粕

最近、粕漬けをあまり見かけなくなった。
奈良漬もまたしかり。
漬け魚界では素材に風味を与えてくれる、西京に勝るとも劣らない、優秀な副材料だ。

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日本酒を絞り取った後の米のカス。
昔は、粕汁にしたり、甘酒をこしらえたり、板粕を素焼きにしておやつにしたり、魚肉や野菜を漬けたり、活躍の場所がたくさんあった。
昭和人の飲んだ日本酒のピーク量は年間170万kℓ。比べて令和4年人のそれは40万kℓ。
酒粕は酒の生産量の10%なので、彼の時代よりも粕自体もおよそ1/4まで減っている筈だが、それでも40万tもある。
飼料にも利用されない余り物は廃棄されていると聞く。
もっとも、圧縮機械の普及でギューノネが出ないほどとことん絞られているので、近年の酒粕は本物のカスになってしまっているからかもしれない。

赤魚という名前の魚はおらず、北欧辺りでたくさん獲れる、赤い底魚の数種をひっくるめた総称。
日本には、ドレス加工され3㌔づつ投げ込みで凍らせた小箱を、マスターカートンに3枚重ねて入ってくる。

加工の為、1日数トンを処理する場合、解凍が一番厄介になる。
水道水を多量に使うと塩素によって赤が飛んでしまうため自然解凍が要求される。
気温との相談になる作業だが、真冬などは前日の夕暮れ時から、作業場の床・テーブルを問わず平らな場所に丸裸にして放置しておく。
日が当たるとあっという間に「白魚」になってしまうので要注意。

今はどんなメーカーも二つ割り機を使うが、当時は包丁の二枚卸。
まな板の前にかごを並べ、包丁を入れながら大小5段階に餞別して、かごに振り分けていく。
スピード勝負の職人芸。
完全に解凍されていないと包丁が途中で止まるので完全解凍が望まれる。
次いでダンべで塩水処理にまわる。

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オリジナル酒粕は、ほぐした板粕にレシピに基づき塩・砂糖・味醂・味の素・98%の酒精(絞り過ぎでアルコール分が足りないため)を添加して、大きな練り機で練り上げる。
魚の赤色を協調したいがために白い粕に仕上げるが、贈答用の詰め合わせの場合は別途「練り粕」という熟成させた褐色の粕を用いる。

塩水に漬け込むと魚の身はプリプリになって如何にも美味しそうに化ける。
粕を塗りながら平たい発砲の箱に上身下身左右一対で皮目を上に並べて冷凍する。

久しぶりに頂いた赤魚の粕漬け。
30年ほど前の出来事、思い出させてくれた。
2024.06/09 升

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2024/05/03

ジンタンガラスの冷奴Ⅱ

沖縄に出かけた事のある人は一度は眼にしたことがあるはずの土産物の一つに「スクガラス」があります。
超有名なので今更なのですが、スク=アイゴの稚魚、カラス=塩漬け、で「稚アイゴの塩漬け」のウチナーグチです。

アイゴの卵は初夏に海藻などに産み付けられ受精後1~2日で孵化します。
仔魚たちは流れ藻などに付いて表層を漂いながら動物プランクトンを食べて大きくなります。
およそ1ヵ月で3㎝程度の稚魚になると食性が変わり、沿岸域に入り込み、海藻を好んで食べるようになります。
アイゴは背鰭の棘に毒がある他に、海藻を摂餌すると内臓や表皮から異臭を発するため、「バリ(尿)」と呼ぶ地域があるほどに流通から敬遠される魚です。
ゆえに漁獲圧が低く、三浦半島の相模湾側では大量のアイゴ成魚が海藻を食べ尽くし、沿岸域に磯焼けを起こす騒ぎが起きていました。

沖縄では、旧暦で6~8月の1日(ついたち)、新月の大潮時に満ち潮に乗ってリーフの割れ目からラグーン域に群れを成して押し寄せるアイゴの稚魚(スク)を捕獲する風習が古くからあります。
「海からの贈り物」といってお祭り騒ぎ、スクがまだ海藻を食べ始める直前のワンチャンス的な漁と云えるでしょう。

水揚げしたばかりのスクを100㌔程づつ分け合って買い付けた土産店は、樽の中で塩漬けし、熟成を見計らって、お婆が店番をしながらあの小さな魚を一匹づつ箸を使って瓶に並べていきます。
腐るものではないので慌てる必要はなんにもないさぁ~、です。
頭を下に、向きを揃えて先ず1段目を、瓶底の内壁に張り付けます。
そして、その円周の内側に同じく頭を下にした魚を隙間なく刺し込んで埋めていく。
2段目以降も同じ手順で積み上げて瓶の口いっぱいになったら漬け汁を並々と注ぎ蓋を閉じます。

こうしてのんびりと仕上げられ、小瓶の中でバッキンガム宮殿の衛兵みたいに並べられた、商品は昔からかなりの高値で売られていました。
他にイカや姫シャコ貝の塩漬けが同じ便で売られていましたがただ塩辛いだけで、いわゆる発酵食品の旨味を感じる物はスクガラスただ一つでしたので、高額であっても納得できる土産物でした。

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 那覇港のスク水揚げ量(沖縄タイムスWeb 2022.8.7より拝借)
そんなスク(アミアイゴの稚魚)も近年水揚げ量が激減していると言う。
なにぶん、経済的価値が小さいためなのかこの魚のあらゆる方面での資料に乏しく、総漁獲量すら数字が見えないなか、図3のデーターは貴重です。
有識者は当たり前の合言葉「乱獲と海洋環境の変化」としか言わない。
ここ横浜までは届いてこないが、2024年の今、既に漁獲規制などの資源保存対策が取られているかも知れない。

今は、比較的漁期の長いフィリピンで獲られた原料を用い、並べることなく乱暴に小瓶に充填されたそれを良く見かけるます。
なんだか悲しいですね、昔の様にもっと大事に丁寧に並べて欲しいものです。


丁度スクと同じくらいの大きさのアジを流通筋では「ジンタン」と呼んでいます。
豆アジとも云いますが「仁丹」がその語源です。
トロ箱いっぱいギッシリと収まった銀色の豆粒が「仁丹」輝きに見えたのでしょう。
ジンタンは大きくなっても海藻は食べないから大丈夫。

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今年の旧暦6月1日は新暦の7月16日、沖縄のスクの初水揚げに先駆けて、早くも湘南ではジンタンが揚がっています。
頭も鰓腸もそのまんま、塩をまぶして瓶に詰め、冷蔵庫に入れるだけ。

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我が家の瓶は、5年前から毎年ジンタン継ぎ足しの年代物。
底知れぬ風味が八丈のクサヤを上回り夏の冷奴を更に旨くする逸品です。

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新参のホタテひも明太と味比べ、島豆腐の代わりに木綿でどうぞ。

2024/05/03 升

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2024/03/17

密航船水安丸乗船者を追って⑯

年表
*クリック、拡大して閲覧ください。

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2024/03/17 升

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2024/03/02

密航船水安丸乗船者を追って⑮

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東和じかんHP(こちら)より

北上川は本来、岩手県八万平市から奥羽山脈沿いを盛岡市・一関市・登米市を流れ、石巻から仙台湾に注ぐ河川だった。
登米市の南の端にある氣仙沼線の終点柳津駅付近から、氾濫を繰り返す北上川を東に逃がす、治水工事が始まったのは明治44年からの事。
従って、及川甚三郎が若い頃に使った水運ルートは現在の旧北上川と呼ばれる流れに違いなく、翁の生き様のごとく正に一直線の流れである。

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鱒淵川(画像下)と頼光寺(赤印)

仙台から海沿いを走っていた三陸道は、石巻から海岸を離れ旧北上川沿いを北に遡る。
東和町登米東和ICを降りて、大きく蛇行する北上川を二度渡り支流の二股川沿いを北に5Kほどにある、道の駅林林館から右折して県道233号に入る。
馬籠東和線と呼ばれるこの街道は、二俣川の更なる支流、鱒淵川沿を縫うように走り、東に進めば馬頭観音華足寺、細越の及川屋敷、甚三郎の生家小野寺家の屋敷にたどり着く。
そう、この「幅二間ほどの」小さな川の流域が物語の始まりの地域だ。その入り口にある小高い丘の上に甚三郎終焉の地がある。


Photo_20240204171401頼光寺入り口、右手が山門
国道から二俣川にかかる飯土井橋を渡り、最初の左の分岐を曲がって鱒淵川沿いの細い道から再び小さな橋を渡って鱒淵川を越える。
突き当りを左折し道なりに進む。
車がすれ違えないほどの、轍が砂利に食い込んだ細い道だが、川沿いには石塀に囲まれた広く重厚なお屋敷が並んでいる。
道は直ぐに鱒淵川を離れ右にカーブすると田んぼが連なり景色が急に広がる。
二俣川が削り取り運んだ土砂が作った盆地だろうか。
Photo_20240205091101頼光寺本堂

二俣川と鱒淵川のつくる鋭角な交点に、クサビを打ち込むように迫る山肌の三角の頂点に、古刹がある。
名を表したものは何もないが頼光寺だ。
赤い涎掛けと毛糸の帽子を被った地蔵さんに迎えられ、小さな山門を潜った先にある石段を登る。
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石段を登ると広い境内の向こうに赤い屋根の本堂があった。

ようやく明るくなった朝の6時、境内には人の気配はない。
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裏山の斜面はお墓の団地、この中から探し出せるはずがない、どこもかしこも「及川」の姓ばかり。


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諦めて踵を返すと鐘楼の向こうの斜面にもお墓がある。



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段々畑をめぐるあぜの様な小道を本堂脇から登っていくと目の前に「細越」「及川家の墓」と刻まれた、南に向く、大きな石が現れた。


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鱒淵の及川家の菩提寺頼光寺の墓地には「及川家の墓」と刻まれた石碑があり、裏面には「昭和四年七月泰二郎建」とだけしか記されてはなかった。」ー密航船水安丸p342―
昭和53年(1978)11月、新田が訪れ描写した通りに文字が刻まれた大きな石が、まるで私を呼び寄せるように、そこに起立していた。

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脇には法名碑があった。
新田の著書にも山形の「失われた風景」にもこの法名碑について触れていない。

そこには、
祖英端院基航領鑑清居士 昭和2年四月四日 甚三郎 74才
盛心院實譽妙勝大姉   明治36年1月15日 甚三郎妻うゐの 45才
祥光院泰翁天瑞居士   昭和26年12月19日 泰二郎 74才
浄光院泰室貞道大姉   昭和24年12月29日 泰二郎妻みゑ 73才
義敬□楽滑大姉      昭和3年6月15日 敏子 18才
と刻まれている。

その内容からかれらが頼光寺を訪れた後に置かれたものと考えるのか普通だ。
山形は、
うえの(ういの)さんが、甚三郎さんに呼ばれで、カナダに渡って一年経ったか、ただねうちに思い病気を患ってねす。それで細越さもどされできてねす。すぐ亡くなられたのです。村中大騒ぎだったですね。」ー「失われた風景」p119ー
新田は、
ういのは十月の末にサンバレーを出発して、故郷に帰ると、一ヵ月半ほど病床にあったが、終に空しくなった。ー中略ーういのが死んだのは明治三十三年(1900年)をあと数日残す、寒い日であった。」ー「密航船水安丸」p118・p120ー

と、それぞれ甚三郎の先妻ういのの死の経緯を、カナダから鱒淵に帰国後「すぐ」あるいは「一か月後」としている。
さらに新田は、享年を明治33年(1900)12月末と特定している。
ういのの帰国を明治33年(1900)10月末とするならば、頼光寺にある法名碑のうゐのの命日、明治36年(1903)1月15日までの間に2年余の時間が流れていることになる。
ういのが安政6年(1859)生まれとすると碑に刻まれた享年45歳は計算上間違えはないが、2年余の時間は普通「すぐに亡くなった」とは云わない。
Photo_20240205091701                 及川家の墓から見る日の出

一方、この時間差はさらなる問題を引き起こすことになる。
新田によれば、甚三郎と後妻やゑの結婚は、彼らがサンバレーからドン(及川)島に引っ越した明治34年(1901)だとし、やゑのの第一子栄治の誕生はその翌年の明治35年(1902)としている。
つまり、頼光寺法名碑にある先妻の命日から計算される存命時に、あろうことか、甚三郎はやゑのと結婚し子までなしたことになってしまう。
この時間差はさらに尾を引く。
法名碑にあるうゐのの命日明治36年は新田が書く甚三郎が二度目の帰国をした年で、横浜に英米商会を設立した年でもある。
この時、頼光寺のうゐのの墓標の前で、彼女の死因が甚三郎による強制労働によるものだとする地域の噂を耳にする件も記されている。
そして、翌明治37年(1904)には長女しまも生まれている。

そのしまが、カナダから引き揚げ来た13歳の時(1917)、横浜にある泰二郎の家を訪ね<母より若い義姉と自分と同じ年位の甥に会った>と新田は書いている。
泰二郎妻みゑの命日と享年から、彼女は明治9年(1876)生まれで泰二郎の二歳年上女房で、しまとの対面時は41才。
しまの母親やゑの(当時35)より6歳も年上だがよほど若造りな女性だったのか?
同年代の甥の行方は判らないが早逝した当時7歳だった敏子(娘?)が一緒に葬られている。


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及川家の墓から北上川方面を望む
及川とよは少なくとも二回ここ頼光寺を訪れている(山形)。
甚三郎の葬儀の際と終戦後の食料の買い出しを兼ねての時だ。
共をした妹うんの娘ビアトリ―チェによれば、仙台から列車とバスを乗り継ぎ、あとは北上川の土手沿いに遠い一本道を歩いたという。
二人並んで墓前に腰を下ろして、木の葉がふれあう音を聞いていたという。
「(佳景山の)及川甚三郎の墓は山を背にした見晴らしの良い小丘にあった。

黒御影石の墓碑の表面には「及川家の墓」と深々と彫りこまれ、側面には、
祖及川甚三郎ハ幼名良治、登米郡米川村大字鱒淵下台家小野寺十郎治ノ三男二生ル。細越家ニ入リ、祖父及川甚三郎
義保ノ名蹟ヲ継グ。国内産業ニ力ヲ致シ、外英領加奈陀BC州ニュウウエストミンスター市ライオン島ニ拠シ、加奈陀フレーザー河漁場ヲ開拓ス。今ニライオン島ハ及川島ノ称アリ。帰来、桃生郡鹿又村字佳景山ニ住シ、コノ地ニ歿ス。鱒淵頼光寺ニ葬ル。事跡ノ概要ハ鱒淵華足寺ナル彰徳碑ニ明ラカナルモ、自叙ニヨレバ詳シクソノ事跡ノ企画ノ壮大ヲ想望シ得。内助ノ妻やゑのハ鱒淵染谷家ニ出デ栄治、志まノ二児アリ。栄治ハフレーザー河ニ於テ水死シ、志まハ細越家ノ分岐トシテ家系ヲ継承シタ。児孫コレヲ照鑑セヨ。
西紀一九六九年九月 二代及川亮一郎
そして、この墓碑の裏には次のように記されていた。
祖英端院基航領鑑清居士 昭和二年四月四日 及川甚三郎 七十四歳
英媼院随応貞節清大姉 昭和三十八年一月二十日 及川やゑの八十一歳
中略
鱒淵の及川家の菩提寺頼光寺の墓地には「及川家の墓」と刻まれた石碑があり、裏面には「昭和四年七月泰二郎建」とだけしか記されてはなかった。
私は、この二つの墓(佳景山の墓とこの墓)を頭の中で比較しながら、また振り出した冷い雨に打たれていた。」ー密航船水安丸p342―
ようやく泰二郎の足跡を見つけた。
2024/03/01 升
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2024/02/26

密航船水安丸乗船者を追って⑭

泰二郎・通衛兄弟

後に甚三郎の後妻となったやゑのとの間に産まれた栄治・しま兄妹については両著書に詳しいが、先妻ういのとの間の兄弟に関する物語が極めて乏しく
二人の人物像は全くうかがい知れない。

以下は新田の著書から拾った甚三郎と先妻との間にできた兄弟に纏わるシーンの全てである。

明治29年 (1896) 、甚三郎初めてカナダに渡る。
明治32年 (1899) 、初回の一時帰国の後、甚三郎(45)は家族を伴って再び渡加する。家族とは、先妻ういの40才、長男泰二郎21才、次男通衛13才、それにやゑの17才である。
明治33年(1900)、泰二郎(22)倒れたういのに付き添って帰国し、ういのを看取る。
明治34年(1901)、甚三郎(47)やゑの(19)と結婚。
明治36年(1903)、甚三郎三回目の帰国時に横浜で英米商会を設立し、妻帯した泰二郎に鱒淵で合う。
明治38年(1905)、通衛19才、ハイスクールに通学。栄治3才と仲良し。
明治40年(1907)、甚三郎帰国、横浜で泰二郎と合流し、一緒に故郷で人材集めをする。
明治45年(1912)、通衛26才、大学を卒業しトロントの企業に就職。
大正  5年(1916)、泰二郎38才、横浜の英米商会を手放し18年ぶりに単身及川島来島。以降、及川島の経営を執り、甚三郎は帰国する。
大正  6年(1917)、甚三郎、やゑの、しま帰国。
大正13年(1924)、泰二郎帰国し佳景山の甚三郎に会う。

一方、山形の著書は以下である。
明治29年  (1896) 、甚三郎(40)初めてカナダに渡る。
明治32年(1899)、泰二郎(21)、通衛(13)、母うえのとやゑの(17)と共にカナダへ渡る。
明治33年(1900)、泰二郎倒れたういのに付き添って帰国しういのの死を看取る。
明治34年(1901)、甚三郎やゑのと結婚。
大正  3年(1914)、金華山丸(北洋漁撈株式会社所属)事件。
大正  6年(1917)、甚三郎、やゑの、しま帰国。
年代不明      、泰二郎、佳景山の甚三郎に会う。
昭和  2年(1927)、甚三郎死亡、泰二郎が遺体を鱒淵に運び頼光寺に埋葬。 

総じると、兄弟は、明治32年(1899)家族と共にカナダに渡り、兄泰二郎は翌年病気の母と共に帰国し、そのまま大正5年(1916)までの間日本に留まり、大正13年(1924)までカナダで暮らし、その後帰国。
弟通衛は最初の渡加後そのままカナダの高校大学を卒業してトロントの企業に就職、という流れになる。

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図1 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正11年11月・中山訊四郎著)p272・273

及川兄弟を書いたものが「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(中山訊四郎著)のなかの同胞人物観(宮城県)のコーナーp234・235にある。 
「及川甚三郎君 同泰次郎君 同通衛君」というタイトルで、
抜粋して下記意訳した。

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図2 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)p274・275

前略 泰二郎君は明治35年(1902)カナダに渡り、甚三郎氏が帰国し引退後、事業の一切を引き受け経営を続けた。泰二郎君も父君の志を受け豪胆なれど軽挙妄動を慎み、計算づくで事に当たる人柄。
しかし、北洋漁撈株式会社に挫折を招いた過去がある。同社は資本金20万ドルを以て組織され、前警視総監園田安賢氏を社長として神奈川に本社を設けて日加物産の輸出入を図り、先ず汽船金華山丸を雇用して日本貨物を満載しカナダに出航した。
フレーザー河の河口に入ったが、カナダの官憲から移民密輸の嫌疑を受け事件になったが事実を説明し無事に解決し、塩鮭等の物資を積み帰国を果たした。しかし、日本当局からの嫌疑をも喚起したことから株主多数の不安を招き会社は挫折に到った。
これは泰二郎君の最も遺憾とする所ではあるが、時の運であって如何ともしようがない。今は時代の趨勢を静かに観察して、資力の充実を期し、適当な機運に乗じて再起することを疑わない。
そして、益々地盤を堅め、ニューウエストミンスターの日本人会支部長に推挙され、育英事業に関わって幼稚園や小学校を設け、漁業を奨励するなど公共事業に多く携わり、同地の将来の発展のため誘導啓発に勉める一方、自ら経営する及川島に於いては野菜の栽培で好成績を挙げ、島首として威風堂々である。

通衛君は泰二郎君の弟。
早くからサンフランシスコで学び、カルホルニア大の商科を卒業した。
カルホルニアの各企業は礼を尽くして就職を促したが彼は総て断り、大正5年(1916)に及川島に来る。
及川島では島外の白人との折衝や、島内の労働者と共に飽きることなく事業に取り組んだ。
彼の性格は豪放な父親に似ず、着実謙虚で守備固め型の人で、同島の発展に欠くべからざる人材であったが、近年彼は日本へ帰り、某大会社の社員として今や重要な地位にあり、細心綿密なる手腕で大成するものと思う。後略

「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)は、本シリーズの⑫で及川うんと吉江三郎の結婚を報じたニュースの切り抜きで、一度登場している。
山形はこの資料について、
「この書は、大正期に流行した人物鑑のたぐいであり、利用するには、少々眉に唾をつけてかかる必要があるp144。」と評しているのでそれなりに読まないといけないようである。
数字で表された年代はなるほど怪しいが、及川甚三郎の業績や金華山丸事件など参考になる部分も多くある。
記事の書かれた年代は特定できないが、甚三郎が日本に引き上げた後のことも記載されていることから、大正6年(1917)から本書発行の大正10年(1921)の間と思われる。

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図3「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行 中山訊四郎著)p482・484(注:傍線等書き込みは筆者)

図3の在留県人リストは、水安丸女性乗員の一人だった鈴木ひさよさんが亡くなり同時に甚三郎がカナダを引き上げた大正6年(1917)4月以前の記録と推定される。
この時期、泰二郎・通衛兄弟さらにとよ・うん姉妹、ともに及川島周辺で暮らしていたと考えると面白い。
「人物鑑」であるから、誇張はあるはずだし同胞を悪意ある中傷をもって書くはずもないだろうが、日本語の活字として泰二郎・通衛兄弟の人物像を表した貴重な資料と言える。


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図4 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年・中山訊四郎著)広告欄

20240214_0094図5 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)p638(注:傍線は筆者)

同じく加奈陀同胞発展大鑑付録から複写したもので、「祝加奈陀同胞発展大鑑」とある図4は広告欄に。
図5は商店の住所録様のもので、新田・山形の著書にも度々登場するドン島(及川島)の隣ライオン島(佐藤島)の、佐藤惣右衛門氏も掲載されている。
両資料とも泰二郎一人の代表名で止まっていることや「祝」の意味から、加奈陀同胞発展大鑑発行年の、大正10年(1921)時点の現地状況を表したものと思われる。
甚三郎がカナダを引き上げた大正6年(1917)以降ひとり残された泰二郎が孤軍奮闘していた時代だ。

一方、ご当地カナダではフレーザー河周辺の鮭漁を中心とした水産業の歴史に関する研究の一環として、「及川島」に特定した研究(注1)も行われている。
引き金となったのは新田の著書を英語で翻訳したDavido Sulzの「Phantom Immigrants 」の出版(1998)である(原文はこちら)。
「Phantom Immigrants 」に関してはシリーズ⑥(こちら)で紹介したのでここでは省略する。
翻訳者のDavido Sulz氏は、その後も新田の著書を深掘りし、2003年にビクトリア大から「Japanese “Entrepreneur” on the Fraser River: Oikawa Jinsaburo and the Illegal Immigrants of the Suian Maru.(フレーザー川の日本人「起業家」:及川甚三郎と水安丸の不法移民)」と題する論文(原文はこちら)を発表している。
この論文の第二章「Verifying the Nitta Account(新田資料の検証 )」の中で、先の図2 「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(p274・275)を伝記辞典として、その内容を引用したうえで、その内容を否定するかのように次のように書いている。

<In the Nitta story, Taijiro simply returned to Japan with Uino in 1900 and stayed
there as the Yokohama connection until 1916 when he returned to Canada to assume  control of the colony. Other sources, however, indicate much more for Taijiro. One, for example, indicates that Taijiro went to Japan in November 1908 and returned in July 1909; before and after this trip he was self-employed at Ewen’s Cannery in New Westminster. He was in Canada but unmarried between 1917 and 1919, and was still in New Westminster in 1926.152 While the biography in the Historical Materials also reports that Taijiro took control of Jinsaburo’s enterprises on the return of the “esteemed father” to Japan, it does not portray him as the administrator of demise:>
新田の話では、泰二郎は1900年にういのと共に日本に帰国し、1916年にカナダに帰国してコロニーの支配権を握るまで、横浜のコネクションとしてそこに留まっているとしている。
しかし、他の情報源(JCNMA, Kobayashi, Issei Life Histories:注2)では、泰二郎についてもっと多くのことを示している。
例えば、泰二郎は1908年11月に日本に行き、1909年7月に帰国した。
この旅行の前後に、彼はニューウェストミンスターのイーウェンの缶詰工場で自営業をしていました。
彼はカナダにいたが、1917年から1919年の間に未婚であり、1926年にはまだニューウェストミンスターにいた。

興味深いのは、新田は甚三郎がカナダを引き上げるまで泰二郎は一度もカナダに来ていないとしているが、日系カナダ人公文書館の資料では、ウエストミンスターで就業しながら日本とカナダを行ったり来たりする泰二郎の足跡が残されている。
原文、「He was in Canada but unmarried between 1917 and 1919,」とは一体如何なる意味なのだろう。
ちなみに、甚三郎がカナダを引き上げたのは1917年であり、1919年の出来事として思い当たることは木川田あき(及川とよ)の帰国(山形)ぐらいだ。

更に、リッチモンド市の公文書館に残されているバック鈴木(注3)インタビューのボイスレコーダーから、
<This son was one of the first Japanese playboys, I guess. He was very well acquainted with the aristocracy over in Victoria [inaudible] wonderful [inaudible] even though he was a married man in his own right, he had money, he spent [inaudible] father’s money [inaudible] he had a grand time”>(RCA- Richmond City Archives, Buck Suzuki interview. )
この息子は、日本で最初のプレイボーイの一人だったと思います。彼はヴィクトリアの貴族階級と非常によく知り合いだった[聞き取れない]素晴らしい[聞き取れない]彼は既婚者であったにもかかわらず、彼はお金を持っていて、父親のお金を使い、素晴らしい時間を過ごした
と、Sulzはバック鈴木の声を書きとっている。

そして、Sulzは結論として次の様に述べている。

<Finding the truth of Taijiro in this triangle of historical novel, laudatory biographical dictionary, and memories of someone who may have known him in childhood would be an intriguing challenge, indeed.>
歴史小説、称賛に値する伝記辞典、そして幼少期に彼を知っていたかもしれない誰かの記憶のこの三角形から泰二郎の真実を見つけることは、確かに興味深い挑戦です。

<According to Nitta, the other son, Michie, attended school in Vancouver and university in Toronto; he was the educated son who chose to move away and assimilate rather than return to the family enterprise. However, the biography of the three Oikawas noted above states that Michie studied Commerce at California State University and turned down lucrative offers in San Francisco to return to Lion Island in 1916. His skills lay in communication with non-Japanese and Japanese from all walks of life; he was meticulous, modest, and conservative. At the time the biography was written, he had recently returned to Japan to take a prestigious position with a large firm. Whatever the truth of these two sons, further investigation would likely show them to have had more involvement with Jinsaburo, and more interesting lives, than Nitta credits them with.>
新田によると、もう一人の息子通衛はバンクーバーの学校に通い、トロントの大学に進学した。
彼は教育を受けた息子で、家業に戻るのではなく、離れて同化することを選びました。
しかし、3人の及川達の伝記は、通衛がカリフォルニア州立大学で商学を学び、1916年にサンフランシスコで有利な申し出を断り、ライオン島に戻ったと述べている。
彼のスキルは、外国人やあらゆる分野の日本人とのコミュニケーションにありました。
彼は細心の注意を払い、謙虚で、保守的でした。
この伝記が書かれた当時、彼は日本に帰国したばかりで、大企業で名誉ある地位に就いていました。
この二人の息子の真相がどうであれ、さらなる調査により、新田が信じているよりも、甚三郎と関わりがあり、興味深い人生を送っていたことがわかるだろう。

バック鈴木は甚三郎がカナダを引き上げる前年の大正5年(1916)及川島生れである。
新田が「妻を残し単身で再び泰二郎が及川島に来た」としている年でもある。
その時泰二郎38才、その後泰二郎が在加していた(Sulz)とする1926年にバック鈴木はようやく10歳。
泰二郎と面識があったとしても「プレイボーイ」「貴族階級」「父親の金」などという言葉は、恐らく彼が成人した後、父親や周りの大人たちからの受け売りでだと考えるのが自然だ。
だとしたら、バック鈴木の語ったこの逸話は当時の関係者すべてに周知されていた事実なのかもしれない。

2024/02/21 升
⑬へ戻る ⑮へ続く

引用文:①「加奈陀同胞発展大鑑 附録」(大正10年発行・中山訊四郎著)
②Japanese “Entrepreneur” on the Fraser River: Oikawa Jinsaburo and the Illegal Immigrants of the Suian Maru. by David Kenneth Allan Sulz

© David Kenneth Allan Sulz, 2003 University of Victoria

注1 論文例「 The History of the Japanese Fishing Village on Don and Lion Islands and the Effect of Racism」(こちら)。
    映像は「
Japanese History on Don and Lion Islands」こちら)。
注2 JCNMA, Kobayashi, Issei Life Histories :日系カナダ人博物館・公文書館、小林、一世ライフヒストリー
注3 バック鈴木:山形の著書第3章に詳しく紹介されている人物。水安丸乗船者の一人鈴木源之助氏の長男、戦後日系漁民を率いて、対立していた白人漁業組合と和解し、新しい漁業労働者組合結成の立役者。甚三郎の帰国前年の大正5年(1916)生れ、昭和52年(1977)死去、61歳。

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2024/02/11

密航船水安丸乗船者を追って⑬

とよと泰二郎、失われた関係

本シリーズ⑩で後藤金平氏について触れた。
17歳のとき水安丸でカナダに渡り、1966年(昭和41)金平氏77才の時に喜寿の思い出として綴ったという「60年を回顧して」は、実弟の後藤六郎氏が編集し小冊子として自費出版されている。
オリジナルを蔵している図書館はなく、不鮮明な複写版が宮城県図書館の宮城資料室に、ただの一部保存されているだけである。
だが幸いなことに、元東和町教育委員会主事小野寺寛一氏がまとめた「カナダへ渡った東北の村 : 移民百年と国際交流」(耕風社、初版1996.3月)の中にこの全文が収められており、国会図書館で誰でも閲覧可能だ。

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図1 「60年を回顧して」 {「カナダへ渡った東北の村 : 移民百年と国際交流」(耕風社、初版1996.3月)p310}

以下要点のみ(p310)抜粋した。

『前略 朝風に帆をはらませて走ったその翌朝、甲板上に三人の女性が居ったのに目を見はった。男子のみの船中に天下った美女、一人は二十四、五歳、此の人は後に及甚様の長男泰治朗さんと仲が良く、私が七年前帰朝の際訪問して昔語りをした。カナダを早くひきあげて仙台市に及川旅館を経営して居られた。一人は十八歳の素晴らしい容色の整った美人、後に私共一行のために寝食を忘れて骨折ってくれた領事書記吉江氏の妻女となり、昭和十二、三年頃夫のもとを去って仙台にひきあげた人、もう一人は同行中の鈴木さんという方の妻君であった。後略』―「60年を回顧して」小野寺寛一編1996.3 ―(下線は筆者挿入)

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図2「60年を回顧して」複写版表紙(宮城県図書館蔵)

唯の1部だけ保存されているオリジナルの複写版を宮城県図書館宮城資料室から頂いた同じ部分のコピーが図3である。
読み辛い為p40の同部分を下記打ち直した。

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 図3「60年を回顧して」複写版表紙(宮城県図書館蔵)p40


『前略 出帆の日は何日であったか忘れたが、たしか9月の十日頃であったように思う。朝風に帆をはらませて走ったその翌朝甲板上に三人の女性が居ったのに目を見はった。男子のみの船中に天下った美女、一人は二十四、五歳、此の人は後に及甚様の長男泰治郎さんの嫁女となり、私が七年前帰朝の際訪問して昔語りをした。カナダを早くひきあげて仙台市に旅館を経営して居られた。一人は十八歳の素晴らしい容色の整うた美人、後に私共一行の為に寝食を忘れて骨折ってくれた領事書記生の吉江氏の妻女となり、昭和十二、三年頃夫のもとを去って仙台にひき上げた人、もう一人は同行中の鈴木さんという方の細君であった。後略』―「60年を回顧して」後藤六郎編 出版年不明(下線は筆者挿入)

そしてもう一つある。
後藤金平氏が「60年を回顧して」記述の前年、66歳の時に書いた、弟の完治さん宛てに送った文書(後藤金平氏手記)が残されている。

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図1 「後藤金平氏手記」 {「カナダへ渡った東北の村 : 移民百年と国際交流」(耕風社、初版1996.3月 p300)}

1906年、鱒淵出身の及川甚三郎氏計画の下に企画された北洋漁業者なるものが、明治三十七年、八年の日露戦争の惨禍を受けた三十九年の九月末、一切の準備を整ひ、水安丸一九六トン二分といふ四本マストの帆船で、萩の浜出帆、上院八十三名が、一人ひとりが海員手帖を受く、外女性三人、一人は同行鈴木さんの妻女、一人は上陸後及甚様の長男泰次郎氏と結婚、一人は上陸当時尽力したバンクーバー駐在領事書記吉江三郎氏と結婚、現在二人共仙台市内在住。
当時、乗員の年齢層は、四十を出た人は三、四名、二十五、六―三十代の物が大部分を占め、十八歳のものは三名、この中の一人が私でした。後略』―「後藤金平手記」後藤完治蔵(下線は筆者挿入)



何れの文章にも水安丸の女性乗客についての記述がある。
氏名の記載こそないが鈴木さんの妻女以外の二人は、及川とよ・うん姉妹である。
そしてとよの人物像として、金平氏は甚三郎の長男泰次郎(泰二郎)と後に「嫁女となり」あるいは「結婚」、と明記されている。
ところが小野寺寛一氏が関与編集した「60年を回顧して」は、その他の箇所は一字一句オリジナルに忠実に同じくしているのだが、この「嫁女となり」の文節に限って「仲が良く」と改ざんし曖昧な表現でお茶を濁している。
一方の妹うんの結婚やその後の生き様の描写は克明に調べた山形の記録にある通りの内容だと言える。

念のため登場人物の行動を時系列で年代考証を行って見た。
山形によれば、及川とよが仙台大火後に帰国したのは38歳の大正8年(1919)、1906年の事件からカナダに永住している金平氏に取っては「そうそうの帰国」になるのだろう。
同じく、妹のうんが吉江三郎に見切りをつけ帰国し仙台のとよの家に落ち着いたのは44歳の昭和10年(1935)。
金平氏のいう7年前の帰国は、昭和34年(1959)になるから、及川とよは78歳、うんは69歳、「現在二人共仙台在住」になる。
とよは翌1960年3月29日(78)に亡くなっているので、金平氏と仙台で昔話に花を咲かせた筈であり、この頃まで及川旅館が存在していたと考えられる。

すなわち、金平氏の記憶に多少時期的誤差はあるものの、創作はないものと思われる。
従って、及川とよと泰二郎の婚姻関係は、期間や戸籍上はとにかく、現実と考えざるを得ない。

新田は「密航船水安丸」の執筆に際し、バイブルの様に、金平氏の「60年を回顧して」を暗記するほど読み重ねたとしている。
山形は文献欄に金平氏の著書を載せてはいないものの、新田の著作は揚げていることから金平氏の手記を見逃す筈はないだろう。

合点がいかないのは、新田・山形両氏がそれぞれの著作の中で、及川とよと泰二郎の関係について、一切触れていない事だ。
男と女の話。
小説家であればいかようにでも話は膨らませた筈なのに、あえて書かない、あるいは書けない事情があったのか。
山形に至っては仮名まで使って二人を現実から遠ざけている節がある。

渦中の及川甚三郎と先妻ういのの長男泰二郎の行方は、大正13年カナダから帰国し、佳景山に父を訪ねて(新田)依頼行方がわからない。
2024.02.11 升

「密航船水安丸乗船者を追って⑫」はこちら。 ⑭へ続く

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2024/02/04

「秋刀魚の味」サンマは何処に?

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図1 松坂城跡入り口

「野面積み」、「打ち込み接(はぎ)」、隅石の「算木積み」などいろいろな石積みが集約された展示場の様な、切り立った石垣のある松阪城跡。


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図2 本丸下段の石垣、落ちたらお仕舞、命がけで撮影

高所恐怖症の私など下を見下ろせば目眩がする、そのほとんどの石垣の上辺に柵が設置されておらず、転落事故が起きていないことが不思議だ。

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図3 歴史資料館玄関

その一角に松坂市立歴史民俗資料館がある。

明治末期に図書館として建てられたもので、建物自体も国の有形文化財になっている。
建物の一階はその名の通り地域に纏わる歴史を語る古いものが展示され2階部分は、松坂商人の子として生まれ父親の故郷であるこの地で青春の10年間を暮らした、昭和の映画界の巨匠小津安二郎の記念館とされている。


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図4 資料館パンフレット

昨年(2023)の12月から今年(2024)の2月末まで、小津安二郎生誕120年を記念し「望郷の松坂」と称して、特別展が催されている。

普段は別の常設展示品が置かれている一階分部の半分ほどのスペースにも所狭しと、安二郎と松坂の繋がりのあるプライベートなハガキや写真、ノートなどが、展示されているが残念ながら撮影禁止。
2階は彼の関わった映画の資料が並べられている。
こちらも撮影禁止だったが唯一民家の間取り模型だけは撮影が許されていた。
それは、安二郎の遺作となった「秋刀魚の味」(昭和37年 松竹)の主人公平山親子が暮らす家の模型で、資料館の学芸員が映画の画面を見ながら手作りで再現したものという。


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図5 平山家の模型(白抜き文字は筆者による後付け)

以下、再現度を検証してみる。

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図6 廊下①から玄関を見る

先ずは玄関、父親の周平が帰宅し、長女の路子が迎えるシーン。

庭と居間①の間の廊下①からの撮影、位置関係ばっちり。
小津監督は路子の衣装のブラウス一枚までこだわったと云われるが、背中に透ける下着が悩ましい。
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図7 廊下②からの玄関の敷台

図6に続くシーン、「またお酒臭い」と娘に怒られている。

電話を置いた廊下からの撮影、右側の障子は居間①のもの。
玄関との仕切り壁前に何気に置かれた籐椅子までもが忠実に模型に配置されている。

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図8 居間①

周平が着替えているところが居間②、その奥の路子と次男の和夫がいるのが居間①。
「遅くなるのならそう言わないともうご飯作らないわよ!」路子が怒っている。

食卓として使われているようで、鴨居の上の仏像の額が印象的。


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図9 居間②

周平に、路子が呼ばれたところが居間②。

「三浦には婚約者がいたんだ」と三浦の先輩でもある長男の幸一から告げられた路子。
密かに三浦に恋心を抱いていた路子は無言で席を立ち、二階の自室に向かう。
居間①とは襖で区切られ夜は周平と和夫の寝所になっている。


10_20240203111801図10 洗面所

「お~い!路子。シャボン、シャボンがないよ!」
周平が死後を怒鳴っている洗面所、玄関の反対側で廊下①の突き当りの位置だが、模型では少し右手にづれている。


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図11 台所

路子の結婚式の後、寂しく周平が一人台所でお茶を入れるシーン。
この台所も模型では省かれているが、玄関からの撮影、廊下②の電話器が見える。
サッポロビールのロゴの入った箱が棚の上に置かれている。
スポンサーだったのか、座敷のビールや野球場の看板など頻繁にサッポロビールが出てくる。


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図12 二階の路子の部屋

昨年末NHKの「最後の講義」という番組に、路子役を演じた岩下志摩が ゲスト出演した。
番組中、俳優を目指している若者たち相手に自分の女優人生を語る中で、この画像のシーンの撮影時の思い出を次の様に語っていた。

「自分が恋していた男が既に他の女性と婚約していることを父親と兄に告げられた後のシーンで、無言で机に向かい布の巻尺を指先に巻き付ける場面。
たった十数秒のカットに小津監督は何度も何度もやり直させて、80回はやったと思います。もう何が何だか分からなくなってしまいました。OKが出た後の食事会の席で監督が、『人間はね、悲しい時に悲しい顔をする人ばかりではないんだよ』と仰られたことを今でも覚えています。」

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図13 撮影OKだったポスター「東京物語」

私が写真を撮っているのに気が付いた青年が模型を作った苦労話を話しかけてきた。
この岩下志摩談の話をすると、有名な逸話だったらしく彼も承知していて、話が弾んだ。
来週には「浮草」ロケ地志摩市で上映会を企画しているとの事だった。

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図14 撮影OKだった「浮草」上映会のポスター

小津安二郎監督の作品は、TVで放映されたものは全部視聴している。
旅の一座を扱った作品「浮草」は異色の志摩でのロケだったと聞くが、「晩春」や「麦秋」の主人公の住居の設定が鎌倉で、北鎌倉駅や東京へ通勤に利用する横須賀線などが映し出されていて当時が偲ばれる。
この「秋刀魚の味」には幸一の住む団地の近隣駅として、東京大田区東急池上線の石川台の高架駅が路子の着物姿と一緒に、登場している。
どの作品も、70年前の首都圏戦後復興期の価値観・風俗・暮らし方を如実に反映していて、見ていて実に興味深い。
動画の昭和館とでも云おうか。

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図15 ウイキペディアから拝借

映画「秋刀魚の味」はかれこれ三回ほど見たけれど、サンマの刺身はおろか塩焼きすらお目にかかったことがない。
TV放映のものでは、当時のポスターの絵の様な寿司屋らしきカウンター での、笠智衆と着物姿の岩下志摩のツーショットシーンは流れない。
このカウンターで、サッポロビールで「サンマ」をつつきながら、父と娘の絆を深めあうシーンがあった筈と勘ぐっている。
ノーカットのオリジナルを見たいものである。

私が「秋刀魚の味」にこだわっているのは、内緒なのだが、昔お付き合いしていたお嬢さんが「路子」に瓜二つだったからに他ならない。
2024/02/03 升

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2024/01/30

歌島航路

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50台の車両と、500人の旅客を収容できる伊勢丸は、10台に満たない車と15人ほどの人を乗せ、定刻の10:50音もなく鳥羽の港を出た。
振り返ると保安庁の巡視船いすゞの向こうに、一昨日お世話になった、ホテルが山の上に聳えている。
4Lサイズの本ズワイ肩肉と5㌘に切りそろえた刺身、食べ放題の夕食を思い出す。

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400円の追加料金を払いブリッジ直下の展望特別室で気分は船長。
BMWで乗り込んだご夫婦がベンチシートで寝込んでいる以外に人はいない。
寝ているだけなら下の座敷でいい筈だが?


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答志島と菅島の間の穏やかな島並を抜けた途端、大きなうねり逆巻く外洋に出る。
太平洋と伊勢湾の境目を横切る航路だ。
真正面の島らしき陸地に進路を取っていた本船が取舵を切り始めたころ、左舷から小さな高速船に追い抜かれ、同じ彩色のフェーリーとすれ違った。

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伊良湖発の僚船鳥羽丸。
時計は出航後30分経過の11:20。
鳥羽⇔伊良湖全便同時刻発の伊勢湾フェリー、丁度この辺りが航路の中間点に違いない。
両船とも西の強風を受け、舳先からしぶきを吹き上げている。
木の葉の様に波に翻弄されていた高速船が二時方向の島の防波堤に吸い込まれていった。
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その頃合いに船内放送。
「右手の島は神島で御座います。およそ150世帯、人口300人。三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台になった島です。」
島の北側の急斜面一帯に上に広がる不思議な住宅街、見取れるうちに通り過ぎ、慌てて撮った写真は見事な逆光。
先の高速船は、鳥羽から答志島和具港を経由してきた鳥羽市営定期船で、この波の中11:25神島港着の定刻運行だ。

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突然あらわれた三島由紀夫。
人口千二、三百、戸数二百戸、映画館もパチンコ屋も、呑屋も、喫茶店も、すべて「よごれた」ものは何もありません。この僕まで忽ち浄化されて、毎朝六時半に起きてゐる始末です。ここには本当の人間の生活がありさうです。たとへ一週間でも、本当の人間の生活をまねして暮すのは、快適でした。(中略)明朝ここを発つて、三重賢島の志摩観光ホテルへまゐります。そこで僕はまた、乙りきにすまして、フォークとナイフで、ごはんをたべるだらうと想像すると、自分で自分にゲツソリします。
— 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和28年3月10日付)より―

この島は、三島氏が古代ギリシアの恋愛物語ををモチーフに小説を書きたいと、〈都会の影響を少しも受けてゐず、風光明媚で、経済的にもやや富裕な漁村〉を条件に水産庁に依頼して探してもらった島で、文中では「歌島(かじま)」とあるように古くはそう呼ばれていたという。
氏は昭和28年の春と秋、島の漁協組合長の屋敷にひと月の間寝泊まりして執筆されたとの事。私には三浦友和・山口百恵夫妻の映画が記憶にあるが、これまで5回も映画化されていて、昭和29年の初回映画の神島ロケの際には氏も見学に訪れたという。
その頃の千二三百の人口は今や1/4の300人にまで減り、映画館もパチンコ屋もないままだが、旅館・食堂・喫茶店はそれぞれ一軒づつあるらしい。
もっと早く教えてくれたら、あの高速船に乗って、神島に降りていた筈だ。

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自分の無知を恨んで席に戻ると、正面から波を突き破って疾走する船が来た。
船首の青い「横S」マークは保安庁の所属船。
PC58の記号と放水銃を備えているところから、「よど型消防巡視艇」と判明。


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普段は伊良湖港に停泊している第四管区・四日市海上保安部に所属する「あおたき」だ。
PC(Patrol Craft)35メートル型、アルミニウム合金製で、高速ディーゼルエンジン2基を搭載し、スクリューではなくウォータージェット推進器を採用している。
25㌩以上の航行能力があるからこの時全速前進車並みの時速60㌔は出ていたかもしれない。
どこかで船舶火災があったのだろうか?
「あおたき」の後姿を追って船尾側のデッキに移動している内に、本線は渥美半島に接岸した。

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定刻の11:50キッチリ1時間、船旅を久し振りに満喫した。
2024/01/30 升

参考資料:鳥羽市HP・ウイキペディア

 

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