カテゴリー「沼津時代」の5件の記事

2023/12/25

クスノキは残った ③

2021 令和3年3月 29 日(月)発表 

報道取材情報(沼津市) 名称等 東海大学沼津校舎跡地の公募売却について

実施日時 令和3年3月29日(月曜日) ~
担 当 財務部 資産活用課

1 内 容
沼津市では、東海大学沼津校舎跡地の有効活用による地域活性化を図るため、民間事業者による対象地の活用提案を公募します。

2 対象地の概要
番号 所在 登記地目 概算地積
物件番号1 沼津市西野字霞 316-1 外の内 学校用地 約 33,000 ㎡
物件番号2 沼津市西野字霞 341-5 外の内 学校用地、山林 約 148,906 ㎡

3 スケジュール(予定)
項 目 予定時期
募集要項の公表 令和3年3月 29 日(月)
質問書の受付・回答 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 24 日(月)
参加登録の受付 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 31 日(月)
提案書類の受付 令和3年6月1日(火)~令和3年6月 30 日(水)
プレゼンテーション審査 令和3年7月上旬
審査結果の通知 令和3年7月上旬

4 実施要領の公表について
 3月 29 日(月)15 時から沼津市ホームページに募集要項を公表します。

以降、東海大沼津校舎跡地利用に関する情報は沼津市ホームページ上には見当たりません。
沼津市に問い合わせたところ、
沼津市財務部資産活用課から、
「お問い合わせいただきました東海大学沼津校舎跡地の活用について、以下のとおりお答えいたします。
平成29年に寄附を受けた東海大学沼津校舎跡地は、平成29年8月に旧4号館校舎へ静岡県のAOI-PARC、令和2年4月に体育館跡地へSMC㈱が立地していますが、それ以外の未利用地について、公募売却に向け、令和3年3月に民間事業者からの活用提案を募集しました。
しかし、同年5月末までの参加登録期間に民間事業者からの提案はなく、売却には至りませんでした。
現在、今後の活用について検討を進めており、時期を見て売却に向けた公募等を改めて実施していきたいと考えております。
よろしくお願いいたします。」(2023/12/19)
との回答が返ってきました。

さらに、「市立公園化」など沼津市自体の企画検討の是非を問い合わせたところ、
「東海大学沼津校舎跡地については、民間事業者による土地利用を前提として活用の検討を行っております。沼津市が当該地を行政目的で利活用することは、現在考えておりません。」

とのこと。

沼津市民は、東海大学から2017年に寄付された243,194㎡の学校用地及び山林(図1の青枠内無着色部分)の有効活用に苦慮しているのかも知れない。
逆に言えば、貰ったはいいが、買い手も付かず、管理費だけがかさみ、迷惑だと思い出したのかも知れません。

図1の着色部分は植栽に関しても整然と管理されているのにも拘らず、その周辺の「荒れ」様は目をおおいたくなるものがある。

Numazu01bp図1 沼津市資料より

私たち親の世代が苦労して工面した高額な入学金と授業料収入の一部で購入した土地と建物のほとんどが、今や無駄な投資に終わっていることは卒業生として悲しむべき事象でしょう。

半世紀前に、それぞれの夢をもって集った愛鷹山のパラダイス。
学生たちが歩いた周辺にいまでもその面影が残されています。
原駅舎の脇には、いつの時代に画かれたものなのか、手書きの大きな観光案内地図が設置されていて、それには今でも東海大学の文字がそのままです。

Img01857_20231218114301図2 原駅前の案内地図 拡大

駅前の十字路から見渡せる山の中腹には、唯一残された沼津校舎4号館(現アオイパーク)の白亜の建物を遠望することが出来ます。

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図3 原駅前交差点から遠望する旧4号館

原駅始発の通学バスは、田んぼを縦断して根方街道にぶつかると左折、しばらく麓を並走して周辺の下宿生を集めて山道に入る。
その通学バスの登り口の信号は今も「東海大学入り口」のまま。

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図4 根方街道 東海大入口
茶畑の間から望む景色は今も変わりありません。

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図5 バス道路 三保半島から御前崎

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図6 バス道路 伊豆半島 大瀬崎

傷みが目立つバス道路を登っていくと落ち葉の吹き溜まりが現れ、轍の間隔からこの道の通行量の程が覗えてしまいます。
大学健在の頃から、サルや鹿が出没していた、という噂は本当のようです。

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図7 樹枝を被り落ち葉で埋まる道路
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図8 登り詰めた分岐点、直進「アオイパーク」右手が野太馬の松の広場

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図9 かつての野太馬の松の広場
「野太馬(ヌタバ)の松」高さが17.4メートルの黒松でした。
樹齢は350年といわれます。
沼津の四名松として、大泉寺の「首掛けの松」、蓮興寺の「大松」、法華寺の「大松」と共に親しまれてきましたが、セン虫の影響で1983年(昭和58年)1月に伐採されました。

沼津キャンパス内に、伐採された「野太馬の松」の根本近くの一部(高さ76㎝×横130㎝×奥行95㎝、幹回り約3.5m)が保管されていました。
朽ちたところを取り除き、さらに強度・耐久性を増すための処置を行い、後世に長く残せるようにし、湘南校舎から昨年(2022)に清水の折戸校舎に移され現在展示設置されているはずです。

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図10 現在の野太馬の松の広場


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図11 中央並木道、ここは両サイド沼津市管理地

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図12 1973年の入学時にはもっと小さかったと思われる
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図13 樹齢50年の隔たりを今に伝えるクスノキの並木
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図14 落ち葉で埋まる並木道 その先の階段

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図15 こんな素敵な写真はもう撮ることは出来ない
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図16 中央階段、左側はアオイパーク管理下にあり、右側は沼津市受寄贈地、手入れの違いが顕著

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図17  92段を登る  かつての1・2・3号館は草に替わった。

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図18 下校で賑わった校舎前バス停
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図19 停車スペースの白線だけ乗っている もう待っていてもバスは来ない
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図20 階段からの風景
東海大学沼津キャンパスは1973年(昭和48年)、海洋学部の1,2年次生が教養課程を学ぶ校舎として愛鷹山の中腹(静岡県沼津市西野)に開設され、開発工学部の学び舎に引き継がれ、そして廃校となった。

現在、開発工学部の時代にかつてのラグビーグランドの上に新設された4号館の建物だけが残り、そのほかの建物はすべて取り壊され、体育館跡地に私企業が新しく建てた建物がある他は更地になっている。
旧4号館を見下ろす場所には開発工学部の第一期卒業生が残した記念碑が残され、かれらの存在した歴史はこれからも残されていく。

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図21 中央階段下の記念碑

ウイキペディア内の「東海大学」を閲覧すると、廃校になったキャンパスとして沼津校舎が挙げられているが、「設立1991年・理工学部開発工学部」の記載だけに終わっており、海洋学部の文字はない。
すなわち、我が海洋学部生の足跡は、92段の中央階段と海洋学部初年度に植えたクスノキの並木にしか残されていないことになる。

東海大学創立者である松前重義氏が、湘南校舎と折戸の海洋学部の間を移動中、車窓から遠望されたこの山腹の「野太馬の松」 に見惚れてこの地に学舎建設を決断したという。

この松はその巨大さから駿河湾を航行する船舶の道しるべになっていたとも云われている。
その海の道しるべが倒れてしまった昨今、役割を引き継いだように海洋学部のクスノキが「野太馬の松」を上回る高さに成長し、駿河湾を見下ろしている。
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図22 そして クスノキだけ残った
現在の所有者である沼津市民の皆様には、なんとかこのクスノキの並木の保存を末永くお願い致したく、東海大学海洋学部沼津校舎卒業生の一人としてここに陳情する。
資金がなければ流行りのクラウドファンディングの手もあるだろう。
東海大同窓会会員だけでも40万人を超えると言う。
千円づつ寄付すれば4億円。
なんとかならないものか?
一帯を市立自然公園にして頂けるならば、私、無償で草刈りに馳せ参じる覚悟あり。

2023/12/18 升

Photo_20231225160901 画像16及び22は、東海大生産工学部卒の宮田智子氏から提供いただきました。
宮田 智子(@tomoko.miyata.5) • Instagram写真と動画
画像9・12・15・18は「キャンパスの歩み」から拝借、その他は2023.12、2024.05筆者撮影。

中央階段直下のクスノキの葉っぱ

 

 

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2023/12/22

クスノキは残った  ②

50年前、札幌校舎から移動した私は、JR東海道線原駅前に住み、開校二年目の山の上の校舎に通っていました。
北口しかない駅舎を出て駅前を線路と平行に走っている旧東海道を右に曲がり、2本目の路地を左に入った、鈴木さんのお家の離れを借りていました。
鈴木邸はかつての東海道に面して大谷石の見事な門構えのお屋敷でした。
鈴木邸正門手前の狭い路地を入ったところにある裏門内に、離れは二棟。
向かって左側の大きな家に飯田さんご家族三人が住んでおられ、右手に鈴木邸の勝手口が開き、私はその真ん中の小屋を借りていました。

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図1 JR原駅前の旧東海道

「離れ」と云うと優雅な雰囲気です、確かに一軒家なのですがおかしな間取りで、三畳敷の部屋がベニヤで仕切られた形で並列に並び、一方が玄関と台所もう一方にトイレがついている、正に小屋と呼んだ方がふさわしい建物でした。
大学側や誘致した沼津市の要請で、急遽空いている空間に押し込めて作った、学生向けの建物だったのかも知れません。
その小屋の、台所のある部屋に座卓を置いて飯を食い、トイレの方に簡易ベットと机をおいて寝起きしていました。

家の門とそれに続く小さなお庭を共有している飯田家の皆さんと直ぐに親しくなり、私は一人息子の徹君と彼の従妹で近所に住む同じ原小三年の優子ちゃん、二人の勉強をみるバイトをするようになりました。
風呂は大家さん宅で頂き、週二回のバイト時には飯田さんのお家で夕飯をご馳走になる生活。

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図2 海洋学部沼津校舎ラグビー部創部時のメンバー(1973)

開校二年目になる校舎では、立ち上げたばかりのラグビー部の活動に明け暮れていました。
登校開始当時に学務課に問うと、「ラグビー部」の登録は開校時既になされているが、活動した形跡がないとの事。

同期生とはいえ編入者である我々札幌組は彼らに取れば外来種に違いない。
早速、登録されていた代表者で唯一部員の学生を探し出し再興を促したが、引継ぎを終えると彼はどこかに消えてしまった。
結局、札幌ラグビー部経験者数名と、訳の分からん水産学科の友人と同じく1年生数名をダマクラカして、一から立ち上げた草ラグビークラブ。
授業が終わると体育館近くにあった部室で着替え、重いタックルマシンを担いで並木通りを横切り、10メートルも下にあったラグビー部専用の草茫々で砂利だらけの菱形グランドで汗を流す毎日。

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図3 原海岸、ごろた石が海中まで続き潜っても面白くない浜だった(1973)

週末になると、千葉から総武線と東海道線を乗り継いで、Sさんが原駅から降りてきます。
空色のワンピースを細く白いベルトでまとめた彼女と、駅前にあったスーパーであつらえた軽食を部屋で食べていると、決まって徹が
「あっ、お姉ちゃんがきてる!」
と邪魔しに来ます。

追い出しても聞かないので、仕方なく優子ちゃんも誘い、松原を越えた海岸まで4人で散歩に出かけたものです。

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図4 原海岸(2023)
その頃は線路の向こうの松林を潜っていけば、まあるい石ころがゴロゴロ転がっている、海岸に直ぐ出ることが出来ました(注)。
ところが、現在は松林の向こうは分厚いコンクリートの擁壁で遮断され、海は遥かな遠いものになってしまっています。

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図5 日本一の高さを誇る海抜17mの沼津市~富士市(延長20km)の防潮堤(2023)

原の駅から大学行の路線バスが、真っ赤な鉄塔と螺旋階段が目立つ、キャンパス1号館の玄関先まで通っていました。
私は、友人から譲り受けたホンダのCB50というスポーツタイプの、オンボロ原付にまたがり茶畑の農道を伝ってあの山を登り下り。
ある日の帰り道、1号館前から続く大きく時計回りに湾曲した急な下り坂をエンジンブレーキだけで下山中、見通しの悪い中央並木通りから下り車線を使って右折して登ってきた2トントラックと正面衝突。

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図6 事故現場(1974~84)国土地理院

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図7 事故現場(2015)パオパオ日記より

タックルの要領で肩から突っ込み、トラックのフロントグラスに蜘蛛の巣状のヒビが、バイクの前輪がエンジンにめり込み、メットが割れる程の事故でしたが、体は無傷でした。
変に逃げずにとっさにこっちから体当たりしていったのが幸いしたようです。
ラグビーをやっていてこれほど良かったと思ったことはありません。
学務課が間に入ってくれて、お相手に新しい中古のバイクを買ってもらい、決着しました。

そうそう「離れ」の話。
私が3年次、清水に引っ越した際、ラグビー部の後輩(広田君)に徹達の家庭教師も含めて「離れ」ごと引き継いでもらいました。

ところが、早々に広田君が事故で亡くなってしまい、その後の消息は途絶えたままです。
もちろん飯田さんご家族もとうの昔に転居され、見る限りは二軒ともどなたも住んでおられなかった様です。

駅から徒歩5分のその離れは今年4月まではそのまま残っていました。
しかし、夏の間に取り壊されたらしく、今は単車を停めていたアスファルト敷きの路地だけが昔の面影です。

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図8 鈴木邸跡(2023)

この思い出深い「離れ」がそのまま残っていたことは、私にとっては懐かしく、たいへん有り難いことなのですが、その反面、原駅を含むこの地域全体が再開発されず、昭和のまま遺跡のように取り残されたように思われていました。
かつて、朝は列車が到着する度に降りて来た学生たちが待機しているバスに乗り継ぎ、午後にはバスから東海道線に乗る学生たちで賑わっていた原駅。
駅舎や駅前のターミナルは整備されましたが、駅前にあったスーパーも消え、昼の日向にも拘らず、通りを行き交う人の姿はあまり見かけません。
旧東海道の古刹を何軒も残しながら、住みやすい街を維持して頂けることを願ってやみません。

関連記事(沼津時代: Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

注)
伊勢湾台風被害の影響で初めは県の工事で昭和34年以降13M高さ(現在の海側1段下の道路)の防潮堤工事が始まった。
その後、昭和41年の台風で吉原地区で人的被害が発生した事から県が国に要請して現在の17m高さの工事が始まった。
ー国土交通省河川国道事務所富士海岸事務所所長談ー

Takashio_p2図9 原海岸防潮堤断面図(沼津河川国道事務所HPより)
県工事{T.P.(東京湾平均海面水位)+13m}の上に国工事(T.P.+17m)が重ねられている。

したがって、1974(昭和49)年当時原海岸付近に防潮堤が存在していたかもしれないのだがどうだろう。

201624図10 静岡新聞2016.2.4夕刊より

2016 平成28年4月26日(火)

前略
元東海大学沼津校舎開発工学部は、昨年3月末で閉校しました。愛鷹山の中腹にあって、周囲はお茶畑に囲まれ、南に駿河湾や伊豆半島を、北西には富士山を望む学習・研究環境としては申し分のないところでした。
しかし、実際に行ってみると、根方街道から車で急勾配の道路を10分ほど走るところにあり、通学には不便なところと感じました。閉校になった理由はよく知りませんが、この不便さがその理由の一つだったかもしれません。

麓には大学生専用の下宿もあり、多くの学生が利用していたと思われます。
「賄い付き下宿」という看板も目につき、私が大学生の頃、習志野で経験したような光景でした。
その下宿は、閉校になって以降、次の入居者がほとんど見られず、所有者にとっても大変な負担を強いられていることも見て取れます。
かつて、多くの学生を当て込んで栄えていた学生街も、一挙に疲弊しています。

そんな厳しい状況下、明るい話題も見えてきました。
大学側は、耐震性のない建物を撤去して更地とし、耐震性のある建物と全敷地を沼津市に寄付するとのことです。また、静岡県は残された施設を「機能性のある農作物の研究開発するための先端研究施設」として活用する方針を表明しています。既に平成15年度2月補正予算にこの関連予算を盛り込みました。静岡県が目指す今後の農業振興の大きな柱の一つとして期待されています。
大学が生まれ変わって活用されることは大変良いことではありますが、多くの学生により賑わっていた街を取り戻すことは大変厳しい状況と言わざるを得ません。
後略

大学閉校の影響 - 鈴木すみよしブログ (goo.ne.jp)より抜粋、図11も。

Photo_20231213173001図11 かつて大学生で栄えた賄い付き下宿も、今は居住者がいない


2017 平成29年 4月14日
東海大跡地を研究開発拠点として売却、沼津市が公募
静岡県沼津市は、2017年3月末に寄付を受けた東海大学沼津校舎跡地を民間事業者に売却する。地域振興に資する研究開発などに活用することが条件だ。5月から公募を開始する。

Numazu01bp図12 物件1と2が今回の対象地(資料:沼津市)

東海大学沼津校舎は、1973年に海洋学部教養部として開校し、1991年からは開発工学部として、人材育成や産業の創出など、地域の活性化の役割を担ってきた。
だが、少子化や人口の首都圏一極集中の進行など、開校当時と社会情勢が大きく変化したことで、2015年3月の全学部生・大学院生の卒業をもって閉校となっていた。
寄付を受けるのに先立ち沼津市では、2016年9月から10月にかけて「対話型調査」を実施し、民間活用の可能性を確認していた。

売却対象地は、沼津市西野字霞の学校用地2カ所だ。
一つは、約5600㎡で最低売却価格が1㎡当たり7400円(図中の物件1)。
もう一つは、約1900㎡で同1万900円(図中の物件2)だ。
いずれも、新東名高速道路駿河湾沼津スマートインターチェンジの近くに位置する。

Numazu03bp図13 物件2の状況(写真:沼津市)

また、静岡県が大学跡地の一部を使用し、農業の生産性向上を目指す「先端農業推進プロジェクト」の拠点として、2017年夏の開所に向けた施設整備を進めるなど、今後、有効活用が見込まれる土地と位置付けている。

応募者は事業計画および対象地の買受希望価格を提案する。
市は、選定委員会による提案内容の評価を踏まえて優先交渉権者および次点候補者を選定する。

提案書類は5月1日から19日まで受け付け、5月下旬に審査して結果を通知する。
市と優先交渉権者は、事業内容や価格などについて協議・調整のうえ、7月中旬に仮契約し、その土地売買契約を締結する予定だ。

ー日経BP 総合研究所 新・公民連携最前線より(図12・13も)ー
東海大跡地を研究開発拠点として売却、沼津市が公募|新・公民連携最前線|PPPまちづくり (nikkeibp.co.jp)

2010_20231213175301図14 左上が沼津校舎、その下に工事中の新東名と駿河湾沼津SAが見える(2010)国土地理院

2017 平成 29 年6月2日(金)発表

報道取材情報(沼津市)
名 称 等 東海大学沼津校舎跡地活用事業者の公募結果について
実施日時 平成 29 年6月2日(金曜日) ~
担 当 企画部 政策企画課

1 内 容
沼津市では、平成 29 年3月末に学校法人東海大学より東海大学沼津校舎跡地の土地及び建物等の寄附を受け、民間事業者による有効活用を図るため、公募売却により「地域振興に資する研究開発施設等」の立地を図ることを目的とした、提案型の事業者の募集を行いました。
このたび、5月 26 日(金)に事業者選定委員会を開催し、選定結果を踏まえ次のとおり優先交渉権者を決定いたしましたのでお知らせします。
<優先交渉権者>
・所在地 東京都千代田区外神田四丁目 14 番1号
・事業者名 SMC株式会社 代表取締役社長 丸山 勝徳
・活用予定地 沼津市西野字霞 317-1 外の内(約 5,600 ㎡)
・事業概要 自動制御機器製品の研究開発を行う(仮称)沼津技術センターの整備

2 事業者選定の経過
平成 29 年3月 27 日に募集要項の公表、5月1日から 19 日まで提案書類を受け付け、書類の提出があった1社について、5月 26 日の「東海大学沼津校舎跡地活用事業者選定委員会」において、応募者によるプレゼンテーション及び委員との質疑応答を行い、事業内容、事業計画について審議した結果、上記の事業者が優先交渉権者としてふさわしいとの評価を受けました。

この結果を受け、沼津市では「SMC株式会社」を優先交渉権者として決定し、今後、契約の締結に向けた協議を行ってまいります。

3 今後のスケジュール(予定)
上記の協議が調った後、仮契約を締結し、沼津市議会の議決をもって本契約へ移行することとなります。
施設開業は、平成 31 年2月以降を予定しております。

出典:沼津市HP

 

2017年 平成29年 6月19日

SMC、沼津市に技術センターを計画/東海大学沼津校舎跡地を活用

静岡県沼津市はこのほど、東海大学沼津校舎跡地の優先交渉権者をSMC(東京都千代田区)に決定したと発表した。
場所は沼津市西野字霞317-1外の内。

概算地積は約5,600㎡。
自動制御機器製品の研究開発を行う(仮称)沼津技術センターの整備を計画する。
同市は、2017年3月末に学校法人東海大学より東海大学沼津校舎跡地の土地及び建物等の寄附を受け、民間事業者による有効活用を図るため、公募売却により「地域振興に資する研究開発施設等」の立地を目的とした、提案型の事業者の募集を行っていた。
市によると、対象地は新東名高速道路駿河湾沼津スマートインターチェンジの至近に位置していることや、県が対象地の一部を使用し、農業の生産性向上を目指す「先端農業推進プロジェクト」の拠点として、2017年夏の開所に向けた施設整備を進めているなど、その有効活用の可能性のある土地だとしている。

■ 計画概要
所在地:静岡県沼津市西野字霞317-1外の内
概算地積:約5,600㎡
事業概要:自動制御機器製品の研究開発を行う(仮称)沼津技術センターの整備
SMC、沼津市に技術センターを計画/東海大学沼津校舎跡地を活用

設備投資ジャーナルSMC、沼津市に技術センターを計画/東海大学沼津校舎跡地を活用 | 設備投資ジャーナル (setsubitoushi-journal.com)より

 

2017年 平成29年 8月6日   
沼津市役所

【東海大沼津キャンパス跡地に、先端農業の研究拠点「AOI-PARC」誕生!】

8月3日、静岡県が産学官金の協力で、産業分野や学術分野などが互いの技術やアイデアを持ち寄って、農業をはじめとする関連産業で新たな価値を生み出す「アグリ・オープンイノベーション(AOI)プロジェクト」の拠点施設「AOI-PARC」(アオイパーク)の開所式が行われました。この施設は、旧東海大学開発工学部の校舎の1•2階を改修したもので、県農林技術研究所、慶應大学、理化学研究所など計14事業所・機関が入居します。
施設内には、植物に照射する光の量や温度、湿度などを変えて30万通りの環境条件が設定できる次世代栽培実験装置など、最先端の実験設備を備えており、農業を成長産業にするために、科学的な知見を幅広く集め、加工や販売、流通の革新も目指します。

詳細は県HPでhttp://www.pref.shizuoka.jp/san.../sa-310/sentannougyou.html

 

2018 平成30年 7月1日

沼津市で褒状伝達式

学校法人東海大学に紺綬褒章
学校法人東海大学にこのほど紺綬褒章が授与され、6月25日に沼津市役所で褒状伝達式が行われた。
紺綬褒章は公益のために私財を寄付した個人または団体を国が顕彰する制度。
今回の受章は、学校法人東海大学が昨年3月に旧東海大学沼津校舎の土地(24万3194平方メートル)と建物(旧4号館と同館を使用するために必要な建物等)を沼津市に寄付したことによるもの。
今年2月24日付で内閣府から授章が発令されていた。
2015年3月まで開発工学部などが置かれた旧沼津校舎の用地には現在、静岡県によるアグリ・オープンイノベーション施設「AOI-PARC」が開設。
静岡県内外の研究機関や企業が連携して農業の生産性革新に関する研究に取り組んでおり、東海大も参画している。
伝達式には沼津市の賴重秀一市長らと東海大から石丸明弘副学長が出席。
賴重市長から石丸副学長に褒状が手渡された。
石丸副学長は、「静岡県は学園建学の地でもあり、今後も協力できることがあれば積極的に取り組みたい」と話した。

東海大学新聞WEB版より

 

2021 令和3年3月 29 日(月)発表 

報道取材情報(沼津市) 名称等 東海大学沼津校舎跡地の公募売却について

実施日時 令和3年3月29日(月曜日) ~
担 当 財務部 資産活用課

1 内 容
沼津市では、東海大学沼津校舎跡地の有効活用による地域活性化を図るため、民間事業者による対象地の活用提案を公募します。

2 対象地の概要
番号 所在 登記地目 概算地積
物件番号1 沼津市西野字霞 316-1 外の内 学校用地 約 33,000 ㎡
物件番号2 沼津市西野字霞 341-5 外の内 学校用地、山林 約 148,906 ㎡

3 スケジュール(予定)
項 目 予定時期
募集要項の公表 令和3年3月 29 日(月)
質問書の受付・回答 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 24 日(月)
参加登録の受付 令和3年3月 29 日(月)~令和3年5月 31 日(月)
提案書類の受付 令和3年6月1日(火)~令和3年6月 30 日(水)
プレゼンテーション審査 令和3年7月上旬
審査結果の通知 令和3年7月上旬

4 実施要領の公表について
 3月 29 日(月)15 時から沼津市ホームページに募集要項を公表します。

2023/12/18 升

つづく

拝借画像
スローライフを送る ヨガインストラクターのヨガと野菜のある暮らし 「ベジタリ庵のパオパオ日記」:東海大学沼津校舎は閉校 (i-ra.jp)

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2023/12/20

クスノキは残った ①

海洋学部は1962(昭和37)年4月に開設され、教養課程は主に湘南キャンパス、一部は札幌キャンパスなどで学び、3年次以降の専門課程を清水キャンパスで学んでいました。

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図1 湘南キャンパス 1974~78
      メインストリートの左中央がラグビー場 
   

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  図2 札幌キャンパス、右下は東海大第四高校 1974~78
図左端中央野球場の下がラグビー場

離れ離れの非効率性を軽減するため? 清水に近い沼津に教養課程が置かれました。
東海大学沼津キャンパスは1973(昭和48)年、海洋学部の1、2年生が教養課程を学ぶ校舎として開設されました。

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 図3 清水キャンパス1974~78 
     中央野球場の右上がラグビー場    
         
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図4 沼津キャンパス1974~78
中央通り左側茶色部分の真ん中がラグビー場

東海大学沼津校舎は標高230mのところにあった。
そして学生たちはその麓に下宿していたのがほとんどだった。
ということは歩いて通学するには毎日200m以上の山に登らなくてはならないということだ。

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画5 山腹に聳えていた沼津校舎 2010頃

他の私立大学に比べ高めの学費に比べ、生活費も親に仕送りしてもらっていたので、バイトなどはいろいろと行っていたが、あまり金のない学生が多かった。

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図6 沼津キャンパス1974~78
南側(画像下)に東名と新幹線が走っている

学生アパートの周りは田んぼだらけで1万5千円の中古バイク(ホンダのスーパーカブ)を購入し、それを足がわりに使っていた。
スーパーカブは私にとってすばらしい車だった。
燃費はリッター50キロ 沼津から東京の実家までやく150キロだったから3リッターで帰れる。
そのころガソリン1リッターの値段は75円だったから225円で東京まで帰る事が出来た。
しかし原動機付自転車は高速道路は走れない。
国道246号を制限時速30キロで走り、沼津から東京まで5~6時間の道のりだった。
沼津で天然のヤマイモをもらった時は佐々木小次郎のように背中にたすきに背負って帰った。
学生時代に東京・沼津 また東京・清水間は30往復くらい走ったのではなからろうか。

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図7 沼津キャンパス1974~78
南側(画像下)にR1、JR東海道線(原駅)、相模湾原海岸が見える

食生活も切り詰めたものだった。
家からの仕送りでは外食なんて出来るものではない。
全員自炊が原則だった。
朝はパンにミルク 昼は学生食堂のカレーライス 夜はご飯に肉野菜炒め、味噌汁にお茶が普通の食事だった。
しかしダイビングなど自分の好きな事をやるためにはお金が必要となる。
学生アパートのとなりの畑中という人間は後に水中写真研究会のメンバーになるのだが、家から仕送りされてきた米と塩昆布とお茶だけで2ヵ月ほど暮らしていた。
あるとき彼は風邪をひいたが、栄養失調気味の体だったのだろう。
起き上がれなくなり、私が毎日食事をもって行って、食べさせていた。


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図8 沼津校舎パンフより

みんなで米だけを炊き 胡麻塩だけで、空腹を満たした事もある。
1個15円のキャベツを買って来て、1週間暮らしたり、のりの佃煮とご飯とお茶だけで、5日間を過ごしたこともある。
次の仕送りが来るまで、寝袋に入り、冬眠するという者もいた。
学生時代に皆でで集まるとラーメン ギョウザ ライスを1度でいいから食べてみたいという話題になった。これは卒業まで実現しなかった。
学生食堂のカレーが70円から90円になり、110円になった時は、ほんとうに暴動が起こった。


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図9 学園史ニュース№6より

しかし全員が貧乏だったので、それを楽しんでいたような気がする。
むしろ金を持っていることは恥ずかしいことだった。
ほんとうに食うに困れば、食事を食べさせてくれる友達はいくらでもいた。中略
金はなかったが楽しい青春時代であった。
―Kappa World「河童の独り言」より抜粋



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図10 沼津校舎パンフより

その後、海洋学部の教養・専門両課程を清水に統合することとなり、1987(昭和62)年度の2年次生から順次清水へ移転しました。
1988年度からは1~4年生すべてが清水で学ぶ体制となり、沼津教養部は1987年度末(1988年3月)、15年に及ぶ役目を終えました。
そして、1991(平成3)年に開設された開発工学部の学舎となって再スタートを切りました。


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図11 沼津校舎パンフから

1991年、まだ開校したばかりの…「沼津キャンパス」
第1回 愛鷹祭 ZARD LIVE(大学関係者と、所属事務所の関係者が…知人同士という、きっかけで実現)
当時…学園祭にかかわった関係者によりますとLIVEのパンフ作成、企画、運営…全てが手探り状態
沼津市の街中、高校の前や…富士駅、沼津駅前にて「Good-bye My Loneliness」を流しながら、PR活動やチケット販売…実地
チケット代は、1,500円(当日まで売れ残り、直前には…500円で販売されたとか)

O0800068313194069997図12 1991.11.03 第1回 東海大学沼津キャンパス 愛鷹祭のチケット
第1回愛鷹祭 ~初めてだからやさしくしてね♡~
「Zard LIVE IN TOKAIUNIV. “GOOD-BYE MY LONELINESS”」
DATE:1991年11月3日(日) 
PLACE:東海大学沼津校舎体育館
START:PM4:00~
PRODUCE:東海大学愛鷹祭実行委員会
Zard CONCERT TICKET 前売り券 ¥1.500/当日券 ¥1.800

ZARD(まだ、Zard表記の時)メンバーは、デビュー当初の5名
坂井泉水(ヴォーカル)、町田文人(ギター)、星 弘泰(ベース)、道倉康介(ドラム)、池澤公隆(キーボード)

泉水さんは、黒色短めジャケットに白色シャツ…、黒色ホットパンツ姿&黒色ブーツの装いで…ご登場☆

~セットリスト~
01.「こんなに愛しても」
02.「Lonely Soldier Boy」
03.「もう探さない」

(MC)
「Good-bye My Loneliness」の楽曲紹介中に観客から…「知ってるよ!」との声がかかり泉水さんは、「ホント!?」と嬉しそうな表情だったとか…

04.「Good-bye My Loneliness」
05.「女でいたい」
06.「不思議ね…」

(衣装替え)
時間がかかってしまい… 道倉さんの合図により、会場からの“泉水コール!”を受け再登場☆

07.「Oh! Sugar Baby」
08.「恋女の憂鬱」
09.「愛は暗闇の中で」

(アンコール1)
会場から“アンコール”の声援。他の4名のメンバーに続き…泉水さんも再び登場!
10.「もう探さない」
11.「It's a Boy」

(アンコール2)
12.「Good-bye My Loneliness」

とても、盛り上がりを魅せた学園祭LIVEだったそうです
ー2011.11.03  ブログ「穏やかな時間(とき)の中に」よりー

華やかなオープニングで始まりました新学部でしたが、2012年度をもって開発工学部正規課程が終了し、その歴史に一つの区切りを迎えました。

2010_20231212092101 図13 沼津キャンパス2010
ラグビー場の跡に4号館が出来ている


2008.12.08(中日新聞より)
「東海大・沼津校舎の開発工学部廃止 来春入学生卒業後に」
<地元の沼津市政策企画課は「市内唯一の大学で住民からは存続の要望もある。今後の方針をきちんと提示してほしい」としている。

開発工学部は、組織改編で1988年に廃止された沼津校舎内の海洋学部教養部の後を継ぎ、91年に開設された。県と同市は学部の校舎整備などに約70億円を投じていた。>

 

2008.12.08(毎日jpより)
「東海大:開発工学部廃止へ 10年度から募集停止--沼津校舎 /静岡」
<東海大学沼津校舎(沼津市西野)にある開発工学部(西山幸三郎学部長)が廃止されることが5日までに分かった。来春は入学生がいるが、その後の募集をストップする。

同大学長室企画課によると、理工系学部の志望者減少を受けて進めている学部再編の一環。開発工学部全体では5年間定員割れが続いており、廃止を決断したという。
今年度は定員1440人に対し、学生数は780人にとどまっている。
同学部の5学科のうち、人気が高く唯一定員を満たしている医用生体工学科は、湘南校舎(神奈川県平塚市)に移転するが、他の4学科は廃止する。
沼津校舎は研修センターなどへの転用を検討している。

沼津市によると、同学部は県東部唯一の理工系学部として、県と同市が熱心に誘致活動を行い、校舎の新築や改修に県が約45億円、市が約22億5000万円の補助金を出している。
同市は「沼津市の産学官連携の拠点で、県のファルマバレー事業にも参加していただけに、廃止の影響は大きい」と話している。

一方、4日に地元の平沼自治会などが、同市に学部存続の要望書を提出。
同自治会の杉沢正昭会長は「地元には学生向けのワンルームマンションを経営している人も多く、影響が大きい」と撤回を訴えている。>

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図14 沼津校舎閉鎖の日の1号館前(2015)

2015年03月31日
東海大学沼津校舎は閉校
桜が満開を迎える本日 3月31日 17:00 東海大学 沼津校舎 閉鎖となりました。 

帰路の学坂のカーブをひとつ曲がる毎に 終了したんだな~と いろんな思いがこみ上げてきました。
先週は沼津駅周辺の飲食店で教職員の皆さんと 別れを惜しみながらの最後のお別れ会の食事会でした。 
ここ数日は毎日、退職されたり 他校に移動された教職員の方々、卒業生の方が代わる代わる閉鎖される校舎に遊びに来てくれていました。

私は学会事務局と大学臨時職員として 20年間も勤務させていただいて、長い間お世話になりました。 
家から近いのが一番よかったわ♪ さて、明日からはゆっくりマイペースな生活を送ります。
ー2015年03月31日(ブログ「ベジタリ庵のパオパオ日記」より)図14もー

2023/12/12 升

続く

引用文献リンク集

①KAPPA WORLD TOP/水中撮影河童隊 (coocan.jp)

②ザードチケット画像元
ZARD伝説の1stライブの地、東海大学沼津校 2016. 8. 6 sat | Feel Sound & Life (ameblo.jp)

穏やかな時間(とき)の中で… ZARD 20年前の…ファースト LIVE(東海大学沼津キャンパス 愛鷹祭)&11/9 TV情報(1番ソングSHOW) (fc2.com)

④スローライフを送る ヨガインストラクターのヨガと野菜のある暮らし 「ベジタリ庵のパオパオ日記」:東海大学沼津校舎は閉校 (i-ra.jp)

⑤パンフレット{沼津キャンパスのあゆみ (tokai.ac.jp)}

東海大学学園史ニュース6号 (tokai.ac.jp)

*航空写真はすべて国土地理院より拝借しました

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2006/08/20

ノレソレ(ウナギのAll Ages)

プロローグ
大学2年生のとき、札幌海洋学部の学生は全員沼津校舎へ移動した。
沼津校舎でも札幌泥球チームの残党達と新たにラグビーチームを作り、またまた走り回る毎日。

そんな最中、何処が気に入られたのか当時間借りしていた3畳二間の“小屋”に隣接するお家から、小学3年生の息子さんの家庭教師を引き受けた。
あやしい私の指導でも眼を見張るほど彼の学力査定数字は上がり始めた。
その小学生(透)が、それまでよほど勉強嫌いであったのか、学校の先生が指導をしくじったのか、は定かではない。
やがて、近所に住む同学年の透の従兄妹(優子)も“あやしい塾”の門下生となった。

塾舎は透の家の居間を提供してもらい、週2回の講義の後は透のお母さん手作りの夕飯を塾生たちと共にご馳走になった。
私の小屋を中心にして北隣(山側)が透の家で南隣(海側)が大家さん宅。
講義後の給食を平らげた私はいつも大家さん宅に呼ばれお風呂を頂いていた。

夏には踏み切りと国道1号線を渡って原海岸で野外授業。
時には、東海道本線に乗って上野の動物園や水族館まで遠足。

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ある日、いつもの様に私の帰宅直後に“小屋”を襲ってきた透は、小さな皿の上に白い紐の切れ端の様な奇妙な物を載せて私に近づけ、
「お兄ちゃん、これなんて言う魚?」と聞く。
なんでも、昨日お母さんが買ってきた生シラスの中に混じっていたそうな。

シラス=鰯の稚魚であり、海の生き物だ。
しかるに、シラスと昆獲されたそのあやしい生き物も今まで恐らくは海の中で生活していたに違いない。
だが、海の生き物を専門に勉強している筈の、質問者にとっては“先生”に当る、私には見た事もない生き物だった。

「ホーッ、珍しいものを見つけたねぇ。明日、大学の研究室で解剖してみないと判らないから少し待ってね。」
もっともらしい言い訳で急場を凌ぎ、透が帰った後、“小屋”の本棚に置かれている数冊しかない水産とか魚のたぐいのタイトルの付いた本をこっそり漁った。
魚類図鑑に見当たらず、厚手の表装で仕上げたぶ厚い水産学専門書にも類似の絵はなかった。
最後に開いた小さな文庫本の隅っこにそれは白黒の写真と共に記載されていた。
自分で購入し一度眼を通した本であったのにまるで興味がなかったのだろう。
「レプトケファレス」と名付けられたその海の生き物はウナギ・アナゴの変態期幼魚の一ステージの俗称。
柳の葉っぱに似て扁平した細長い体形を持ち、柳葉幼生とも呼ばれる。
下顎が突き出しているのがアナゴの幼生で、上顎が出ている物がウナギの幼生との事。

Photo_20230512155601透から投げかけられた難問を無事クリヤーした喜びも束の間、私は専門知識を何も持たない焦燥感に駆られた。
ラグビーをおろそかにし始めたのはこの頃からだ。

 

ノレソレ
その透が40歳を通過した頃まで、ウナギ類の生活史は未だに全容解明できないでいた。
古くから日本人にとって極めて身近な生き物であるウナギが、何処で産卵し、何を食べて育ち、何故河に上り、そして、下るのか? 
人類の誰もが知らないまま、図々しくも、蒲焼を喰らい続けていたのである。

ウナギは孵化した後、レプトケファレス期を経て養殖対象種苗となる「シラスウナギ」と呼ばれる成体と同じ体形に変身することは、プランクトンネット採集調査などによって判っていた。
海から上って来るシラスウナギを河口で待ち受け夜間灯火で集めて四手網などで採り上げる。
然しながら、受精卵を得る技術が確立されてもなお、シラスまでに達する為に彼らの要求する飼料が探求出来ないのが、人工採苗に至っていない理由だった。

ウナギの完全養殖は、マグロを成し遂げた水産業界にとっても、一水産養殖研究者に係わらず技術者にとっても、今や、究極の対象頂上である。
今年の土用のウナギが高騰した原因は、依存せざるを得ない天然種苗捕獲量が、少なかった為との事だ。
末端では、5,000尾/1k程度の天然種苗が100万円で取引されていると言う。
即ち、200円/尾のイニシャルコストが1尾1000円の蒲焼に含まれていることになる。

近年、マリンスノーと呼ばれている水中を浮遊する微細な有機物のゴミをウナギの幼魚が餌として摂取している事が、胃内容物調査から判った。
平成14年、それを元に人工飼料が開発され、受精卵からレプトケファレスを経て刷らすウナギまでのおよそ10ヶ月に及ぶ飼育が成功し、ウナギの完全養殖への糸口が見つかったのだ。

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通常の人ならばこのノーベル賞物の技術開発成功のニュースを耳にした途端に「蒲焼が安くなる!」事を想う筈だ。
だが、あやしい私は一人懸念する。
孵化から養殖対象サイズまでの時間は、車海老の場合でおよそ1ヶ月、マダイに代表される魚類で2ヶ月ほど。
その期間、現場担当者は想像を超える精神且つ肉体的疲労を覚える。
ウナギの場合の1ラウンド10ヶ月という気が遠くなる数字は、そのまま年間一発勝負、と受け止めなければいけない。
天然ものより安価で供給できるまでにはまだまだ時間がかかると見ている。

時期になると、海水入りビニール袋に酸素を詰め発砲スチロール箱に梱包された荷物が首都圏の水産卸売市場にも入荷される。
蓋を開けると透明な魚がユラユラ揺れている。
これがノレソレで、アナゴのレプトケファレスである。
活きたままの踊り食いが通の食べ方らしい。
シラウオの様にトレイに盛られ魚売り場に置かれていることもあるが、感動的な味覚は期待しない方がいい。
刺身コンニャクといい勝負だ。
水中に浮かんでいるゴミだけをひたすら栄養源としているのだからしかたがない。
やはり、アナゴもウナギも成魚まで育て上げ、充分脂がのってから食べた方がいい。

 

エピローグ
本日、私の甥っ子がとある外人と共にテロ対策に騒がしい米国へ再び飛び立った。
普通でない甥っ子の友人だからそもそも普通でないと理解した方が早いのだが、この小柄な外人(Mr. Derrik)、箸を巧みに使い、鰻丼を平らげた。

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だが、甥っ子共々“肝吸”には手が出なかったようだ。
いずれ、“肝吸”の味を受け入れられるようになった頃、Mr. Derrik率いるバンド”All Ages”に更なる脂が乗ることを期待している。
2006/08/16 升

注:ステージの上で甥っ子のTomがデリック君のコトを「外人」と紹介していた為、あえて私の好まない単語をそのまま引用しました。

引用文献(画像も)
① 静岡県水産試験場浜名湖分場http://www11.ocn.ne.jp/~hamanako/unagi/shubyouseisan.htm
② 独立行政法人水産総合研究センター養殖研究所:http://www.nria.affrc.go.jp/index-j.html

蛇足:やはり、ステージの上で甥っ子のTomが”All Ages” を「年齢制限なし」と訳していたが、私は「全ての世代」と勝手に解釈した。

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2005/09/18

須崎沖(柴田氏に捧ぐ)

 「俺は人を殺したことがある。」 
 学生が一人生活するだけの部屋にしては小奇麗でしかも広すぎる部屋の中の出来事。唯の一度だけ、彼は問うた訳でもないのに私に話した。

 「俺は以前ボクシングもやっていた。俺の右ストレートがもろに当たり、試合中に相手がダウンした。テンカウント後も彼は立ち上がらずリングから担架で運ばれた、その日のうちに死んだと聞いたのは試合後一週間もたった後だった。以来、ボクシングはやめた。」

 そのアパートの居間に当たる部屋の壁面には水中銃が水平に掛けられていた。いや、飾ってあると云った方がふさわしいかもしれない。シャフトの先端がどす黒い付着物で覆われているのが眼を引いたが、私の問いに「血だ。」と答えた。

 「小笠原はヤギが野生化し大繁殖している。あの水中銃のシャフトに付いてるのは父島のヤギの血だ。」最初に柴田さんの部屋を訪れた時の事である。以来、度々その部屋を訪れたが殆どの機会、素敵な女性が慎ましやかに動き、奥様然として細やかな世話をして頂いた。

 私が札幌から2年次に移籍した開校2年目の海洋学部沼津校舎にはラグビー部は登録だけされており有名無実のサークルだった。 山の中腹に聳える校舎の下には棚田の様に、野球や陸上・サッカーなどのグランドがあり、一番下の田んぼにラグビーポストが一面の草で覆われていた。札幌でラグビーをした仲間を呼び、目的もなく草刈を始めた最中、誰かが楕円のボールを持ちこんだ。

 札幌校舎からのラグビーの仲間は5名しかいない。上級生は同時に清水校舎に移籍してい、ラグビーから遠ざかっていると聞いていた。同期の水産の仲間(素人)を数名引きずり込み、更に、一年生を勧誘し何とかゲームが出来る頭数になった時、海洋学部本部である清水校舎のラグビー部主将から連絡が入った。

 「一緒にやらないか?」それが柴田さんとの最初の出会いであった。
 50になる私の年代でもリアルタイムで拝顔したことのない“伝説の俳優”赤木敬一郎によく似た風貌を持つ彼は、ラグビージャージを着ると全身鋼に変化する。特に、バックス・センターのポジションを好み、ボールを持てば対面のセンターに頭から突っ込みポイントを作る、タックルも勿論膝頭に飛び込む。

 この場面だけ見ると自虐行為と受け取られてしまいそうだが、ウイングの位置でボールを貰った時が圧巻で、鋭いハンドオフで、彼が走った後には少なくとも3人は仰向けに倒れていた。私の浅いラグビー暦の中で出会った唯一のスーパーマンである。n1

 

 あるとき、カジキの“突きん棒漁”なる漁船に見学乗船同行を誘われた。私は水産学科に籍を置きながら酒とラグビーに溺れていた為、水産漁具・漁法学の知識にも乏しく“突きん棒漁”を知らない。恐るおそる先輩に尋ねたところ、「船上から手銛を投げてマグロやカジキを漁獲する漁法。」と、至って簡単な説明を頂いた。

 マグロの類いの漁法は、延縄や引き縄あるいは巻き網そして手釣に限られると信じて疑わなかったが、まさか戦後30年の時代に江戸時代に見られた様な捕鯨漁法が現存し、しかも、鯨類よりも遥かに小さく且つ俊敏な動きをするマグロ類にそんな粗野な方法が通用するとは全くの考えの外だった。

 

 どこをどの様に走っていったのか最早覚えていない。おそらく柴田さんの車に便乗させて頂いての伊豆・須崎行のはずだ。道中如何なる話題の会話をしていたのか? 狭くくねくねとした下り坂を走り降り、小さな漁港にたどり着く、船主のお宅にお邪魔して“突きん棒漁”の解説をがっしりとした体格のご老人に伺い、そして 私の記憶はいきなり船上風景から鮮明に回帰する。hune_062

 波高1m、濃藍色の黒潮頂上は大きくうねり、海水だけで仕立てられているはずの半透明のひだが活発にぜん動運動をしている。およそ10トンの漁船は船長と銛手及び学生2名を乗せ、うねりの頂上と谷間との2メートルの落差を頻繁に上下しながら、なお且つ前後左右に揺す振られていた。高いエンジン音と船上に張り巡らされたロープやケーブル・アンテナが鋭く風を切る音で声は用を足さない。

 「凪ならば出漁しない。」 乗船前の船主の説明だ。「表層を泳ぐマグロやカジキが、波の谷間の部分に露出させている尾鰭を見るけることが第一。波がないとこの発見の機会はない。」

 突きん棒船の舳先は異様に高い。喫水線から3メートルの高さはあろうと思われる舳先の最先端にサンダルの鼻緒が一組床板に打ち付けられている。銛手はこの鼻緒に左右の裸足を突っ込んで体を固定して仁王立ち、波間に魚影を探すのである。

 木の葉の如く3次元方向に揺れるその船の船尾デッキに立つことさえ困難な私には、銛手が平然と行っている作業をただ唖然として手摺にしがみ付きながら、見守る事しか出来ない。狭いブリッジには船長が陣取り操船役を担っている。次第に私の三半器官が反応してくる、船酔いだ。どうやら地獄の船に乗ってしまったようだ。

 突然、銛手の左手が10時の方向を指差した。右手には既に長い銛が握られている。船長は直ちに減速し取舵を取る。嘔吐物が脳みその中にまで侵入する寸前の私はここで救われ覚醒した。

 眼を凝らし、銛手の握る銛の延長線上を探る。だが、悪魔のような波の塊りしかみえない。船は蛇行しながらも、まるで射手が操船しているように銛先と船尾が一直線上に向き、銛手と船長の見事なコンビネーションに驚嘆する。その先に巨大な魚が大きな鎌の様な尾鰭の先端を海面に出し入れしながら遊泳しているはずなのだろう。だが、私(当時の視力2.0)には何も見えない。

 射手の右手に握られた長い銛の角度が水平から次第に降角していく。相変わらず船は三次元遊泳をしており、波頭から落ちるときには半ば無重力状態に陥り、登りは相当なGがかかる。

 と、射手の両手がほとんど真下に近い角度で銛を海面に突き降ろした。獲物に刺されば返し針だけが魚の筋肉内に留まる仕掛けの矢じりにくくられたロープが音を立てて海中に吸い込まれていく。

 「獲物が単独の場合は矢じりに電気を流し即殺する。群れている時は他の獲物を逃がさない為に電気は使わない。」
 エンジンをアイドリングさせ、すかさず船長がブリッジから飛び出しロープの後端に目印の旗を付けたボンテンを海に投げ込む。この間射手は、新たな矢じりをリセットした銛を抱え、次なる魚影を既に追っている。

 船はしばらくの間蛇行操船を繰り返し、やがて射手が銛を置いた。群れは逃げたようだ。早速、一投目のボンテンを探す。先ほどの蛇行のお陰で私には位置がまるでわからない。だが、流石に船長だ、船を反転させ躊躇いもなく、まるで目標が見えているように全速で走る。減速したときには目の前に赤い旗が浮いていた。

 船長が面舵をいっぱいに切り取舵舷側からボンテンを取り込もうとした刹那、ボンテン自らが猛烈な勢いで接近してきた。旗を付けた竹竿が舷側に激突しバリバリと音を立てて砕け散る。銛に射抜かれたカジキが幾尋か下の海中でロープを引きずり廻しているに違いない。

 舳先から艫へ向け左舷喫水線上を猛烈な勢いで走るボンテンをそのまま見送り、魚の動きが止まるのを待つ。船は前・後進を幾度も繰り返し、ボンテンを追う。

 動きが止まった。船は滑るようにポカリと浮いたボンテンに接舷し、ギャフで引き上げ、ラインホーラーへロープを導く。
 「引き縄の場合と異なりテグスが切れる心配はないが、強引に引き上げると突き刺さっている矢じりが肉ごと脱落する恐れが有る。」

 図らずも、目の前で当時から私の愛読書である「老人と海」その実写版の展開が始まったのである。

 

 <そのとたん、かれは右手に引きの変化を感じた。見ると水中の綱の傾斜がちがってきている。かれは上体をそらして綱を引きつけ、左手を強く何度も腿にたたきつけてみる。やがて綱が傾いたまま徐々に浮きあがってくるのが見えた。

「やつ、あがってきやがる」かれは自分の手を見ながらいった、「しっかりしろ。頼むからしっかりしてくれ」
綱は徐々に確実に浮きあがってくる。小舟の前の海面がうねるように盛りあがり、ついに魚は姿を見せた。が、まだ出きらない。

 背の両脇から水がざあっと流れ落ちる。太陽の光線を受けて肌がきらきら輝く。頭と背は濃い紫色だ。脇腹に幾筋もの広い縞が走り、薄紫色に照り映えている。くちばしは野球のバットくらいの長さがあり、剣のように先が細くなっている。

 魚は水面から伸びあがるようにして全身を現したが、すぐにまた水のなかにもぐってしまった。ダイビングの選手のような鮮やかさだ。老人は大きな鎌のような尻尾が水中に消えていくのを認めた。綱がふたたびすべりはじめる。>ヘミングウェイ著 老人と海より

 現代の進化した漁具を持っても、矢尻の脱落あるいはロープの切断事故は、漁労従事者の不注意にあると云える。ラインホーラーを使用しながらも魚が引く強さに合わせラインを出したり引いたりする。強引な巻上げは命取りになるのだ。

 次第に巻き上げの速度が一定になる。魚が疲れたに違いない。舷側からほとんど垂直に海面に突き刺さっているロープの行方を、体を乗り出して見守る。

 回遊魚も保護色を持つ。体の上からも下からも認められにくい様、側線上部は黒潮色に、側線下部は水中から太陽光線に光輝く宇宙を見上げた色に化けているのだ。

 ロープの行く末の海中にポーっと灯りが滲んだ。瑠璃色の灯りだ。魚は既に側線下部、すなわち腹を見せているに違いない。海の下から見上げる宇宙の色・瑠璃色の塊が弧を描きながら次第に大きくなる。

 やがて水面に。3本の矢じりが見事に魚の後頭部に食い込んでいる。ギャフを入れ一気に船上に引き上げる。魚は引き絞った洋弓型に張りつめた尾をしきりにデッキに叩きつける。背びれが開く度に虹色の絹の帆が張られ、腹部には鮮やかな銀ラメ入り深紫色の縞模様がオーロラの様に現れ、また消える。

 その全てが海から得た瑠璃色の染料で覆われた表皮を持つ魚の断末魔のパホーマンスだ。その彩の演舞は限られた船上の人だけが見ることが出来る。

 円錐形の細長い吻 マカジキに違いないその魚は死を境に急速に色あせていく。そう、極普通のあお魚の背中が黒く腹が白い一般的象徴は、彼らの死装束に過ぎないのである。

 「突ん棒で獲った魚は活き〆状態で漁獲される為、ほかのどの漁法で獲った魚よりも高値で取引される。」

 僚船から無線が飛び込む、「マグロ、150キロの黒マグロをやった! 群れてる、早く来い!」。一本300万は下らない大物Getの情報に船は再び全速前進。3次元遊泳の航海は黒潮が赤金色になるまで続いた。

 

 「柴田さん帰港しましたよ、下船しましょう。」 文字通り“マグロ”状態でテンカウントどころか、終日ダウンし続けていたスーパーマンを促す。漁師がニヤニヤするなか、彼はかすれた声でかすかに言った、


「おまえ、普通じゃないな」。 
「はい、いつもトレーニングしています。酒で。」
いうまでもなく、氏の所属ゼミへ提出した“突きん棒船乗船リポート”は私が代筆した。

 

 その後、東海大湘南校舎で関東大学ラグビーリーグ戦グループ所属の体育学部主体のチームとの合同合宿に参加した。東海大の看板選手の間でも全く引けを取らないスーパーマンは夜な々々疲労困憊で爆睡中の私を起こす。「おい、焼肉食いに行こう!」

 深夜の宿舎を抜け出し血の滴るようなカルビをほうばりながら、「お前はいいな、酒が飲めて。」 焼酎をすする私の眠そうな顔を覗き込み、柴田さんはコカコーラをゴクリと飲んだ。
2005/09/18 升
引用 「老人と海」へミングウエイ(福田恒存 訳)

 

あとがき
 その後30年を経た今でも私はトレーニングを欠かしていない。
 氏はこの1年後、入社式直前の春、小笠原近海水深30メートルでただ一人浮かんだまま発見されました。スキューバは付けていなかったと聞く。

 葬儀の最中、悲鳴に近い嗚咽を漏らすあのフィアンセに声もかけられず、お別れした。

 卒業前に「お前も卒業したら俺の会社にこい。」と、お誘いを受けていました。彼が瑠璃色の海に同化していなければ、私の歩いた道は異なっていたはずです。

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