カテゴリー「興津時代」の21件の記事

2024/05/01

海王丸

1.
駿河湾奥のアパートの2階の窓から海が直ぐそこにあった。
直下にコンクリートの護岸が走っていたが、それでも不安だったのだろう、護岸の向こうにテトラポットの山を築いた。

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護岸とテトラポットの間に20m程の空間が出来上がり、近隣の住民が勝手に畑にしていた。
おのずと、護岸を梯子で下り、畑を横切り、テトラをよじ登って越え、僅かばかりの波打ち際に出る者はいなくなった。

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時化の翌日、誰も来ないその波打ち際には駿河湾特有の深海魚が打ちあがっていて貧乏学生の食料になった。
アパートの窓ガラスは塩がこびり付いていていつも視界がわるい。
ある朝、窓を明けると水平線に奇妙な物が浮かんでいる。

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二階の窓から水平線までの距離は10㌔ほどか。
地球は丸く、遠くから近づいてくるものは、上の方から見えてくる道理がある。
始め、チビ太がいつも持っていた串に刺したおでんに見えていたが、やがて火の見やぐらになった。

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それが帆船だと気が付いたのは、やぐらが次第に横に広がりその下から、真白い船体が見えた時。
御前崎と石廊崎の間を抜けて来て、清水港に入るため、取舵を切ったに違いなかった。

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1975年当時、匹敵する船舶は日本丸と海王丸の二隻。
そのあと、江尻ふ頭まで行って高いマストの先端をまじかで見たのだが、この朝目撃した船が、どちらだったのかは残念ながら失念した。

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『操舵は舵輪を操舵手が持ち操船者(船長・航海士)の号令で舵輪を回します。操舵手は操舵号令を受けたなら直ちに復唱し、命ぜられた通に操舵を行い、操舵終了後直ちに報告します。舵輪の回転による舵の角度は、船橋前面の舵角指示器に示されます。』

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操舵号令:例
Midship ミジップ…舵を中央にする。
Port five ポートファイブ…左に舵角5度まで舵輪を回す。
Star board ten スターボードテン…右に舵角10度まで舵輪を回す。

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『帆走中はこの舵輪で操舵します。通常は2名で行いますが、時化てくると舵が重たくなるので4名で舵を回します。』

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『帆走中、航海士と当番実習生はこの場所の風上側に立ち、常に海面や水平線付近の雲の動きに注意し、風や天候の急変に備えます。どんなに風雨が烈しくなってもこの場所でセール全体を見渡し、進路の保持及び船体の安全ために必要な指示を行います。』

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興津の私のアパートの目の前で、50年前、真っ白い横腹を見せたのはPort tenを実行した瞬間だったのだろうか?

 

2.
神戸の川崎重工業で昨秋、国内最大級の潜水艦「らいげい(雷鯨)」の命名・進水式があった。
たいげい型四番艦らいげいは全長約84メートル、幅約9メートル、高さ約10メートル、排水量3千トン。
ディーゼルエンジンで電気を作り、リチウムイオン電池に蓄めた電気で水中を時速40kで音もなく進む。
ステルス性に優れ、最大6人の女性自衛官が乗れるように、女性用寝室なども整備していると言う。

同社の前身川崎造船は戦艦榛名、空母瑞鶴、伊型潜水艦等、数々の日本海軍の艦船建造の実績がある。
海に溶け込むネズミ色の艦船が続続と産まれていくその脇で、白亜に輝く4本マストの姉妹帆船が神戸の海に進水したのは1930(昭和5)年の事。

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1月27日に進水した姉船は日本丸、次いで2月14日に進水した妹船は海王丸と命名され、二隻とも文部省航海練習所の所属として、多くの実習生を乗せて訓練航海を行った。

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太平洋戦争の最中には全身灰色に塗り潰され、帆装も取り外されて石炭輸送業務に使用され、そして戦後は復員船の務めも果たした。

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「海の貴婦人」の名を取り戻したのは1955(昭和30)年のことで、引退する1989(平成元)年までの間に地球50周分の106万海里の海を航した。

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日本丸は1985(昭和60)年に、海王丸は1989(平成元)年にそれぞれの二世に業務を引継ぎ引退した。

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現在、日本丸は横浜市によって横浜港みなとみらい地区日本丸メモリアルパークに、海王丸は公益財団法人伏木富山港・海王丸財団により射水市海王町海王パークに、係船され一般公開されている。

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日本丸は明治期に造られたドック内に浮かんでいるため波浪で揺れることはない。
周囲の海面を囲っているだけの海王丸、「揺れるよ!」チケット売りの小母ちゃんが脅かす。

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両船とも定期的に検査を受けており、船舶検査証明書を保有、現在でも平水区域での航行が認められている。
ちなみに、平水区域とは、河川、湖沼や港内と、東京湾、大阪湾、伊勢湾など法令に基づいて定められた51カ所のエリアのことで、外海に接していない穏やかな水域のことだ。

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すなわち、日本丸は東京湾の観音崎と富津岬を結ぶライン、海王丸は富山湾の富山港と能登小木港をL字に結んだラインの内側なら、いつでも94歳の妖艶な姿で走り抜ける事ができる。
海王丸では船長はじめ乗組員の名簿を発表し、抜錨の機会を窺っている。

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それぞれの二世も今40才と35才となって老齢の域に達している。
引き受け先は?廃船か?
建造費だけでなく維持費も高額につく次の帆船を新造する必要があるのか?
造船技術の継承は?
デジタル時代の海事訓練にそもそもアナログ帆船が必要か?
などの議論がとうに巻き起こっている。

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日章旗で着飾った700億円する潜水艦のよりも、真っ白い船体にブルーのストライプ日本丸Ⅲ・海王丸Ⅲの進水式を近い内にこの眼で見たいものだと思っている。

2024/05/01 升

 

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2023/01/04

ぼくは童子のLPを持っていた

       目にしみるぞ  青い空
       淋しいぞ  白い雲
       ぼくの鳩小屋に 伝書鳩が帰ってこない
       ウウウウウー ウウウウウー
       もうすぐ ぼくの背中に  羽根が はえるぞ
       アアアアアー アアアアアー
       朝の街に  ぼくの 白い カイキンシャツが飛ぶ
       母よぼくの 鳩を撃て
       母よぼくの 鳩を撃て
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー 

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私は高校途中で中退しちゃたわけです。
もう7~8年前になるわけで、
そのころ大抵周りでは進学したり就職したりいろんな形で進んで行くわけだけども、なんにもすることがなかった私にとって、どうやって毎日時間をつぶしていいかわからない、そんな時期があったわけです。
で、東京の渋谷という駅から名所めぐりのハトバスが出ているわけです。
その半日コースのハトバスに乗って時間を潰していた時期があるわけです。
そのころ作った歌で 僕と観光バスに乗ってみませんか 。

       もしも君が 疲れてしまったのなら
       ぽくと観光バスに乗ってみませんか
       色あざやかな 新しいシャツを着て
       季節はずれのぼくの街は  なんにもないけれど
       君に 話ぐらいはしてあげられる

       ぽくの小さな 海辺の観光地に もうすぐ冬がきます
       君も一度 気がむいたら たずねて下さい 雅兄

       もしも君が すべていやになったのなら
       ぼくと観光バスに乗ってみませんか
       君と 今夜が最後なら トランジスターラジオから流れる
       あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい
       あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい 

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とぉー、次の唄は短い歌で 春爛漫 です。

       桜の花びら
       踏んで 歩いた
       君と肩くんで 熱くこみあげた
       春よ 春に 春は 春の
       春は遠く
       春よ 春に 春は 春の
       春は遠く

       悲しみは 水色にとけて
       青い空の 青さの中へ
       青く 青き 青の 青い
       青さの中へ
       青く 青き 青の 青い
       青さの中へ
       哀しい夢 花吹雪 水の流れ
       ンーン ンーン
       春爛漫 

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仲間が何人も申し合わせたように規則正しく集まってくる喫茶店があった。
いつもアメリカへ行くことばかり夢見ている男、下手糞な自称詩人、売れない役者、映画三昧、競馬新聞ばかり見ている退屈な男たち。
それは遊園地のメリーゴーランドの様に騒々しく陽気で また寂しいものだった。

      春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
       うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ

       君と話し疲れて いつか 黙りこんだ
       ストーブ代わりの電熱器 赤く燃えていた

       地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた
       悪い夢のように 時がなぜてゆく

       ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
       チャーリー・パーカー 見つけたヨ
       ぼくを忘れたカナ

       だめになったぼくを見て
       君もびっくりしただろう
       あのこはまだ元気かい 昔の話だネ

       春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
       うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ 

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センチメンタル通りの夜はふけてゆきます。
ほろ苦い青春の最後の夜です。

       いつか この町捨てる時
       君は一人で出てゆけるかい
       みんな夕方になると 集まった映画館
       すっかり さびれてしまったけれど
       今夜は久しぶりに 君とロックハドソンの
       ジャイアンツでも しみじみ見たい気持ちだね

       いつか この町捨てる時
       君は笑って出てゆけるかい
       思い出 多すぎるこの町を
       捨てること出来るかな
       とってもこの店 さみしくなったけど
       今夜はあの頃 懐かしんで
       明るい目抜き通り
       しみじみ歩きたい気持ちだね

       いつか この町捨てる時
       君は涙見せずにゆけるかい
       朝の始発の汽車で 君もあのこと行くのかい
       今夜は何も言わないで
       昔みたいに酔ってダンスを踊ろうよ
       青春ってやつのお別れに 

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最後の歌になります。
君と僕は同じ視線で結ばれた友達と云うやさしい放浪者だった。
君と二人して夜明けの町の新しい空気に酔いしれて二人彷徨った。
いつか君と僕は同じ視線で結ばれた友達と云うやさしい放浪者だった。
サヨナラ僕の友達。

       長い髪をかきあげて
       ひげをはやした
       やさしい君は
       ひとりぼっちで ひとごみを
       歩いていたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       夏休みのキャンパス通り
       コーヒーショップのウィンドウの向う
       君はやさしい まなざしで
       ぼくを呼んでいたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       息がつまる夏の部屋で
       窓もドアも閉めきって
       君は汗をかいて
       ねむっていたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       行ったこともないメキシコの話を
       君はクスリが回ってくると
       いつもぼくに
       くり返し話してくれたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       仲間がパクられた日曜の朝
       雨の中をゆがんで走る
       やさしい君は それから
       変ってしまったネ
       さよなら ぼくの ともだち

       ひげをはやした無口な君が
       帰ってこなくなった部屋に
       君のハブラシとコートが
       残っているヨ
       さよなら ぼくの ともだち

       弱虫でやさしい静かな君を
       ぼくはとっても好きだった
       君はぼくのいいともだちだった
       さよなら ぼくの ともだち
       さよなら ぼくの ともだち
       さよなら ぼくの ともだち 

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どうもありがとうございました。

どうもありがとうございました。
ちょっと話を聞かせてくれますか? 
あのう、中学生・高校生が多いのでその頃のお話が聞きたいのですが、さっき何か、途中で中退したというお話しでしたね。
それまで、どのような中学生時代・高校生だったのでしょうか?
なんか、すごく孤独な感じが曲の中で出てくる気がしたんだけれども。
どうですか?

体があんまり強くなかったから、あんまり団体生活が途中から出来なくなっちゃったわけすね。あんまり活発ではなかった。

クラブ活動などしなかったわけだ。家に閉じこもったことはなかったですか?

友達とうまくやっていけなくなってしまいどうしても休みがちになってしまい、いつの間にか行かなくなってしまう。

作詞の活動はそのころもやっていたのですか?

そのころはなんにもしていなくて歌を作り始めたのは二十歳くらいから。
それまでプラプラしていた時期がすごく長く、たまに、町で友達なんかに会ったりすると、こう、みんな色々変わっていたりするわけなのに自分だけいつも同じ場所でもたもたしていて、取り残されたみたいに焦る時期があるわけなんです。
それで、夜寝つかれなくなりましてね。
不安もあったんだろうし、このままでいいのかなと思ったりして。
その頃詩を書き始めて、時間つぶしに書き始めました。

今歌っている詩っていうのはその頃のことを思い出して書いているのですか?

思い出すって言うこともないんですけれど、その頃書いたものが多いです。

今の心境を・・・

1976年NHK FMスタジオライブからー
2023/01/04 升

今はもう なくしてしまった
窓を開けると 海のアパート 
黒いジャケット 一枚のLP
グットバイ
雨のクロール 大好き だったね

あとがき
あのかなしいせつない声でうたう彼女がもうとうのむかしに逝ってしまっている事実をあきに知りました。
昨年の暮れNHKのチャンネルで70年代の歌が、当時の映像付きで、てんこ盛りに流れる番組をたまたま見ました。
すべて私自身歌えるものばかりで思いのほか見入ってしまいました。
途中、動いている森田童子が僕たちの失敗を歌っています。
「薬が回ってくると」や「仲間がパクられた日」など過激な歌詞は、当時から当然NHKでは放送禁止のはずだし、まして、森田童子の映像などあるはずがないと信じて疑わない自分がいました。
わたしよりも二つ上の彼女が23歳の時に出したアルバムを21歳のぼくが買い、いつまでも持っていることをしった友人はみなぼくのことを悲しい顔をしてふりむいていきました。

あめにきみの泳ぐクロールとてもきれいね
ぼくはもうけっして泳がないだろう

 

 

 

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2009/01/28

追善 ポナペへ (福家謙一氏に捧ぐ)

 

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 2003年晩秋、私は凡そ90通の手紙を出した。

 

海鳴会の案内状である。同封した返信用葉書の回収率は3割程度のものだったのだが、眼を引いた内容の葉書があった。Ponape_sts0449333_l

 

 

 

「ただ今、ポナペ永住のため出発の準備をしています。出発が遅れることがあれば出席させて下さい。」

 

 私よりも14期も後輩からのご返事であった。もちろん会ったことはない。葉書に書かれていたアドレスに「楽しみにしています」とメールを入れたが、すでに返信はなかった。

 

 2008年晩秋、船橋市でご遺体の無い葬儀がひっそりと執り行われた。

 

海鳴会を代表して列席した会の恩師によると、福家君はポナペ到着直後に行方不明となり現在に至ったという。事件なのか、事故なのか、海なのか、山なのか、街なのかさえ、判らずじまいだったらしい。

 

二十歳の夢を三十半ばで叶えた矢先の悲しい現実がそこにあった。

 

合掌。

2009/01/28

ポナペの画像は、19911128スペース・シャトル〈アトランティス〉より撮影されたものを拝借致しました。

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2007/08/03

第三十一盛秋丸(後書)

2007年梅雨

「卒業生なのですが、自分の卒業論文を読みたくなったんですが、保管されていますか?」

 

海洋学部の代表番号に電話を入れた。しばらくして、、、

 

「卒論は図書館で管理しています。図書館にお電話をまわします。」

・・・「図書館です。」

 

「卒業生なのですが、自分の卒業論文を見ることが可能でしょうか?」

 

「学科、卒論のタイトル、指導教官名、卒業年度、お名前、をお教えいただけますか?」

 

「水産学科、船上における…、岩崎先生、昭和48年度、マスモトヨシオ、ですが。」

 

「お待ち下さい、今目録を探しております――――、あ、御座いました。」

 

「それは閲覧させて頂けるのでしょうか?」

 

「ハイ!もちろん。では、受付に用意しておきます。いつでもどうぞ。」

 

 

梅雨空の中、久し振りに母校を訪ねた。

数年前から行われていた耐震強度改善工事が完了したのか、校舎を囲んでいた養生がすっかり取り払われ、塗装も新たに見違えるほどになっていた。

 

図書館は食堂の上とばかり思っていたのだが、食堂の上も食堂その奥も食堂、3階は売店とまたまた食堂。

へたな量販店のレストラン街よりもはるかにグルメな建物に一新されていた。

 

途方に暮れた私は学生を捕まえて

「図書館って何処に行ったの?」

と問うた。

 

「ここをまっすぐ行くと道路に出ます。その道路を横断して右方向に歩くと大きな建物が見えます。そこの1階に図書館があります。」

学生は、折戸湾ではなく、駿河湾の方向を指差して説明した。

 

雨の中、5分も歩く図書館。

はたして、受付にそれは置かれていた。

裏表紙を見ると昭和54年に過去1度だけ貸し出し記録があった。

酔狂な人がいるものである。

110円でコピーをとった。

 

異様に多い女子学生に気を取られながら、グルメ街へ戻り2階で“じゃこ丼(450円)”を食べた。

 

食堂から鍋で購入してきたライスと研究室で作ったアラ炊きで昼を過ごしたあの頃のセピアは、大胆に腹を露出した女子学生の臍ピアスに乗っ取られたのかもしれない・・・

 

1976初夏。

東海大学海洋学部水産学科岩崎研究室は、8名の学生が卒業論文作成の為の、資料作りに追われていた。

だが、同研究室の9人目の学生である私は暇を持て余していた。

 

当時の水産学科は更に“水産資源開発”と“水産増殖”の二つの課程に分課されていて、岩崎研究室はいわゆる「漁撈(魚を獲る)」を主に考える“水産資源開発課程”の範疇の研究室だ。

 

私は“水産増殖課程”に籍を置き過去3年間魚を増やす為の勉学に勤しんできたのである。

しかし、水産の基礎であると思っていた、魚を直接触る事や漁船に乗る事、はほとんど無かった。

 

岩崎研究室を母体とした“海外水産開発研究会”というサークルに3年の時から参加して、講議で足りない漁労の実際を徐々に教わり始め、その勢いで“水産増殖課程”から“水産資源開発課程”へ越境し卒業論文を書くに至った。

 

大八木と言う学生も同じ経緯を持っていたが、彼は他の研究生(三宅)とグループを組み「1976年度紀南・伊豆近海の海況とまき網によるカツオ・マグロ類の漁況およびキハダの生態」をテーマに、難しげな統計学を駆使してデスクワークに取り組んでいた。

 

これらのテーマとグループ分けは恩師岩崎が決める事なのだが、私は何故か一人ボッチ、テーマは「マグロの飼育」。

面白そうなテーマだった。

 

恩師のご指導で、

「先ず文献を掻き集めなさい」、

「次いで漁船に便乗してマグロを生きたまま運んで来なさい」

と、指示された。

 

通常、遠洋カツオ竿釣船の操業は12月~5月の間、日本の遥か南方海域でカツオを狙い、6月から東海域でビンナガマグロを追う。

したがい、私は6月出港予定の竿釣船に乗せて貰い、漁場で釣り上げたビンナガを水槽で泳がせたまま、清水港に持ち帰る。

と、云うのが計画の概要である。

簡単な作業だと思った。

 

当時は「マグロの飼育」をテーマにした研究は極めて少なく、1週間も図書館に通えば未読文献は皆無になった。

4月の中旬。

最早、乗船まですることがない。

 

清水港に日参して、水揚げ中の漁船から漁場のデーター入手や漁獲魚の測定を実施し、統計学と格闘している他の連中を尻目に、日々、私は彼らが漁船からくすねてくる魚を調理して昼飯を作る役目。

 

ようやく、出港の日が決まったのは6月の初めのことだった。 

2歳年上の同僚・今宮の同乗も決まった。

無鉄砲な私のお目付け役として彼を一緒に乗船させたのは恩師のご配慮と、彼が「昭和51年度日本近海の海況とビンナガの漁況及び生態」をテーマに同じく惣万と言う研究生と共同卒論を書く必要があった為だろう。

ビンナガの生態を知るのには漁船に乗るのが一番に違いない。

 

「梅雨時なので合羽を忘れないように。食事は心配しないでもいいが嗜好品は各自持ち込むように。なに、港に行けば船員相手の船具屋が沢山あるから何でもそろうよ。」

 

やさしそうな漁労長(船上の総責任者。漁船の船長は単なる操船担当者と考えていい)の説明を受け、ひと月分のタバコと安物の合羽を買い込み、私たちは乗船した。

三保の東海大付属水族館から拝借したキャンバス水槽は既に仲間が船に運び込んでくれていた。

 

 

40日間の航海の後、一晩で盛秋丸から頂いたお金を使い果たし、翌日から「卒業論文」の執筆にとりかかった。

供試固体が少なすぎる事を恩師にとがめられたが今更仕方がない。

体力的限界と、漁船上の融和、そして何よりも、魚を養っているよりも釣っている方が楽しかったのである。

 

あっという間に3枚程のリポート用紙に、しかも、写真をふんだんに取り入れた「論文」を仕上げるともう夏休み。

昨冬に恩師から紹介された瀬戸内の海老養殖場にアルバイトを兼ねた実習に飛んだ。

 

頃合いを見計らい研究室に戻ると恩師の口がいつもより曲がっていた。

「君は小学生か?夏祭りで掬った金魚の観察絵日記ではないのだ。」

「しかし、これが総てなのです。金魚もトンボもそんなにかわりません。」

「それは判る。が、この文章は論文の末尾に掲げる“要約”に当たるもので、君のには本文がまるで見当たらない。」

「はぁ~・・・」

「少なくてもこの10倍、30枚程度のボリュームにしないと卒業は難しいねぇー!」

 

統計計算に明け暮れる難し顔の仲間達。

頼りの山本栄二は乗船したまま帰ってこない。

以降数ヶ月間、私は辞書を片手にひたすら文章を膨らます作業に励んだ。

国文学生か?

 

私の書く、ダラダラとしたわかり難い文章は、第三十一盛秋丸を降りた時から始まったようだ。

 

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2007/08/02 升

参考文献

新海洋科学漁業技術研究所 特別号 20028月:「私の調査研究業績集報

鰹鮪漁場開発動態・魚群行動及び海の変動と漁獲量の関係、数種の漁業生態学的研究」

岩崎行伸編著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第三十一盛秋丸(本文)

1.出港
第三十一盛秋丸390t:三重県南勢町船籍。

乗組員:漁労長(船頭)1名・船長1名・機関長1名・甲板長兼冷凍長1名・料理長1名・その他甲板員およそ13名・学生2名(今宮・私)。以上、総勢20名を乗せた船は、1976/06/08早朝、乗組員の家族や友人に見送られ音もなく清水の埠頭を離れた。 

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2.仕込み

本航海はビンナガ狙い。

と言えども操業体系は対カツオと全く同じ。

最初の仕事は最も重要な生餌(カタクチイワシ)の仕込から。


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仔細の場所は忘れてしまったが伊豆あるいは三浦半島周辺だったようだ。

専門の業者の生簀に接舷、生簀の網を絞り込む。


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絞り込んだカタクチイワシをバケツで掬い、 人海戦術のバケツリレー。

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イワシの活きの良否が漁の良否を決定してしまうため皆必死だ。
イワシの行き先は船底のいたるところに設置された海水が循環する魚槽。

尾数は不明だがバケツ1杯幾等の取引だと聞いた。
この日、バケツ千杯に近いカタクチイワシが収容され、魚槽のなかで黒いドーナツの様に弧を描いて群泳していた。

 

3.漁場へ
さて、いよいよ漁場に向かう。

早速キャンバス水槽の組み立てを開始する。
この水槽、先の望星丸実習航海(小笠原)で、学生達が釣り上げた魚を展示用にする為、水族館職員が持ち込んでいたもので馴染みがあった。

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容積は2t

海水は、船のいたるところから水道水の如くバルブをひねれば、船底から新鮮なままポンプアップされて来る。

後は魚を待つばかりだ。

ところが、順調だったのはここまで。

魚が上がらない。

 

船は先ず舳先を北に向けた。

次第に寒くなる。

しかも雨ばかり。

船は揺れる。

餌場を離れた時から船は臨戦状態を維持する。

すなわち、明るい間、アッパーブリッジで漁労長を筆頭に数名の男が合羽にヘルメット姿でへばりつき、双眼鏡を覗いている

0023彼らは魚群(ナグラ)を探しているのだ。
カツオ・マグロ類の海表面での群泳ポイントには幾つかの目印が立つ。

一番判り易いのは海鳥の群を見つける事。
下からカツオ等大型魚に追われたイワシ等の小魚が、逃げ場を失って水面を飛ぶ。
それを狙って海鳥が集まる仕組みだ。
これを“鳥付き”と呼ぶ。

次いで、大きな流木あるいはクジラやジンベイザメなど。
小型回遊魚はそれらの大きな影が憩いの場所となるらしい。
前者を“木付き”、後者を“サメ付き”と言う。

漁労長以下主だった人達が雨の中アッパーブリッジに陣取る中、一般の作業員がノウノウト寝ているわけにもいかないのが現実。
これもまた、合羽にヘルメットを被り、なるべく雨がかからない場所を狭いデッキの上で見つけてしゃがみ込み、待機しなければいけない。
1日目が暮れ、2日目が終わり、そして3日目が過ぎた。
寒く、海しかない海を唯見つめて。
そして船はひと時も休まず揺れている。

4.魚群
待つ事4日。 
鳥だ。右舷前方に鳥の群が海面で踊っている。

Photo_20230610140201船は面舵をとって鳥付き群を左舷側に寄せて停止する。
ブリッジの下の餌撒き台に上った熟練者が、たま網でカタクチを掬い、海面に向って小刻みに遠投を始めた。
同時に舷側から勢いよくシャワーが吹き出す。
この演出によってカツオやビンナガのたぐいはイワシの大群が海面で飛び跳ねているものと思い込むらしい。

鳥付き発見の合図と同時に乗組員は直ちに竿を片手にそれぞれの戦闘配置に付く。
海面から一番高い位置にある舳先の竿が活き良いよく跳ね上がり、銀色の塊りが水中から踊り出す。
その塊は、垂直にブリッジの高さ位にまで弧を描きながら空を飛び、デッキの真ん中に落下した。

船を取り巻いたビンナガ魚群の遊泳習性から舳先の左側が最も釣り易い場所らしい。
この場所は常にボースン(甲板長)の定位置。
この航海の
1本目もボースンの竿から揚がった。

 

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次いで、船尾から、そして左舷舷側総ての竿が瞬く間にしなりだす。
こうなったら入れ食い。
魚群は狂乱し、船の周囲を右往左往しているに違いない。

船頭がアッパーブリッジから駆け下りてきた。

「おい学生。見ているだけじゃつまんないだろ。釣ろう釣ろう!」

船頭は竿掛けから3本を抜き取り私たちに一本づつ握らせたうえで自らも舷側に立った。

 

5.一本釣
釣り針は反しのない針にカラフルなビニール紐の切れ端を括りつけた擬餌針を使う。
それをイワシと思い込んだ魚が食いつく。

ガクンと強烈な当りと供に下に引き込まれる。
太いグラスファイバーの竿の柄をぶ厚いゴム製の“へそ当て”に押し付け支点として、てこの原理を使い、テグスの先端を否応無しに海から引き抜く。

空中の魚がテグスの頂点に達する寸前にフッと力を抜き、竿先を前に軽くノックするのがコツだ。
テグスが瞬間緩み、擬餌針の重い頭の部分がクルッと反転して下を向く。
擬餌針には反しがないので、この時、空気中で魚が勝手に針から外れ、船上に落下する。

これがカツオ竿釣り漁法の奇抜な仕掛けと認識してはいたものの3k・4kのビンナガの引きは予想を遥かに上回る。
海中に引き落とされないように必死で脚を踏ん張り、満身の力を込めて竿を立てる。
と、一気に海から尾鰭を振るわせた魚が躍り出す。
「やったー!」
と思っていると魚はそのまま空中で綺麗な放物線を描きながら泳ぎ、船幅を超えて右舷側の海中に落ちた。

 

「ばかやろぅ!」
舳先からボースンの怒鳴り声が聞こえる。

ホームランと言って禁じ手なのだ。
傷ついた魚を群に返すと他の魚が警戒してナグラが消えると怒られた。

 

「すみませ~ん!」
舷側中央の船で最も魚が寄りにくい場所で陣取っていた船頭がニコニコ顔でコツを見せてくれる。
私たちが
1本揚げる間に彼は既に10本揚げている。

 

6.実験

数分で疑似餌の竿に当たりが止まった。

以降は生餌釣りにチェンジする。

今度は反しのある釣針に生きたカタクチを引っ掛けての戦い。

これは老練の人の仕事で若い衆はひたすら餌運びに回る。

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文字通り船上は戦場さながら、デッキはビンナガの血でヌルヌル、オマケに頭上から大砲の弾の様な魚が音もなく降って来る。

両手にカタクチの入ったバケツを下げ、船首に近い魚槽から船尾まで走る。

さすがはラガーマン、ツルンと転んでもバケツは反さない。

 

何杯目かのお代わりを配達に行ったところ、一人のオジサンが、丁度釣り上げた魚を左脇に抱え、針を外している。

「おい学生!これやって見ろ。」
針を外した魚を軍手の左で鷲づかみにして私に差し出す。

「はい、ありがとうございます!」

 

プルプル身を震わす魚をまるで赤子を扱う様に大事大事に抱きかかえ、水槽に走る。

だが、この記念すべき第1号魚は水槽収容と同時に一直線に走って内壁に衝突、眼球を突出させて☆になった。

 

その後、貴重な試験魚を何匹も頂きトライした結果、当初から狭い水槽の中で円を描いて上手に泳ぐ魚に当たった。
やった!



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丁度、漁が一段落して船頭たちも珍しげに集まって来る。

水槽内で泳いでいるビンナガを、ましてやこんなことを真面目にやる阿呆を、見るのは初めてだと言って笑っていた。

 

後はこの魚が何処まで生きるか?の観察。

明日まで生きていたら餌をやらないといけない。

等々考えながら、一時間置きにチェックに行く。

 

側壁衝突防止の意味で日没前に水槽の上に照明を灯した。

3時からの操業でくたくたの体を抱え、チェック体制を自ら緩和して夜間は2時間置きに変更した。
同僚は船酔いで苦しんでいる。

26

ビンナガの最大の特徴は命名の由来でもある胸鰭にある。
その他のマグロ類あるいはカツオ類に比較しても胸鰭が異様に長い。
体長の半分の長さにも達する胸鰭を水平に開いて泳ぐ様は水中のペンギンの姿に類似している。

ビンナガの群にたまに混在しているカツオのそれは極めて申し訳程度に付いているだけだ。
円遊泳の姿を見る限り、弧の中心側の胸鰭の開いている角度がもう一方に比べて大きい。
すなわち、胸鰭が方向舵の役割をしている事は容易に察しられる。
だが、何故こんなに長いものが必要なんだろう。

 

ベッドで仮眠を取りながら日没後2回目のチェックに軋む体を起こすと、奴は死んでいた。
もう動かないあの長い胸鰭は側壁との接触で出来たものだろう、ボロボロになっていた。

 

7.ワッチ
航海中の約束ごとの一つに“ワッチ”当番を他の乗組員と同様にシフトを組み込まれていた。
“ワッチ”とは操舵室を交代で管理する事だが、日中の操業時はほとんど船長が舵を握っている為、シフトはもっぱら操業後の夜間に限られる。


最初の日は船長が付き合ってくれるとのことで、
22時に眠い眼を擦りながらブリッジに登った。
待っていた船長のレクチャーが始まる。

「本船は北に進路をとって航海中だ。
水産の学生だから羅針盤くらい知っているだろう?
そう、ジャイロコンパスとも云う。
真ん中の針が常に
Nを指すように見ていてくれればそれでいい。
じゃぁお休み。
あ~、機関場も皆寝ているから宜しく。」

はい、と言う間もなく船長は船橋から消えた。
皆疲れているのだ。

ブリッジから見る夜の太平洋。
船首灯の明かりでぼーっと本船の舳先が浮かぶ。
その他は海とも空とも判らぬ境目のない暗黒な闇、ここで終わりなのか何処まで広がっているのかさえ識別できないまま、船はただ揺れ続ける。

そういえば船の停め方教わらなかった。

羅針盤は船の横揺れのためかNを刺した針の左右を微妙に行ったり来たりしていた。
しばらくすると、
W側に2度ほど傾いたままになった。
明らかに本船は西よりに進路が傾いたものと判断された。
この場合、舵をどっちに向ければいいのか?
思案のすえ、面舵(舵輪を時計周りに)を少しきった。
船は東側に首を振るはずだ。
だが、羅針盤は動かない。
そこでもう少し面舵をきってみる。
と、今度は羅針盤がいきなり時計回りに動き針は
E側に傾き始めた。

どうやら、舵輪を回すタイミングと実際に船の動きが反応するタイミングに時間差があるようだ。

更に、舵輪をどの程度まわしていいのかわからない。
海賊映画等で「面舵いっぱ~い!」と叫びながら直径が背丈ほどもある舵輪を思いっきりぐるぐる回転させる場面を思い浮かべた。
本船の舵輪は直径
40cmほどだが同じ様なものを今私は握っている。

あれやこれや試行錯誤しているうちに羅針盤が次第にNを中心に大きく揺れだした。
きっと船は大きく蛇行しているに違いなかった。

最早、ニュートラルな舵輪の位置さえ判らない。
漆黒の洋上、船底からの重厚な機関音が、一人ブリッジに佇む私を、焦燥のルツボヘ駆り立てていた。
羅針盤の針は既に
Sを指していた。

額に浮かぶ脂汗を拭い、私は腹をくくる。
―しばらくほおって見ておこう―
舵輪から手を放す。
するとどうだろう、舵輪が勝手に回りだした。
羅針盤の針は
Sを通り過ごしてEを越えそしてNに固定された。

これを自動操舵装置と言うコトを後から訊いた。
進路方位を設定すれば諸般の原因で進路を逸脱しても船自体が自分で定められた進路に修正してくれるらしい。
船長は確かに「見てればいい。」と言ったことを今更悔やんでも仕方がない。

誰にも云えない内緒のはなし、あの時、第31盛秋丸(290t)の航跡は間違いなく太平洋上に○を描いていた。

日の出から日没まで、一般乗組員と同じ仕事をこなし、ワッチが廻り、且つ、ビンナガの飼育を継続するには体力的に限界を感じ、実験はしばらくお休み。

 

8.大漁
実験をお休みして100%漁師になった。
航海はまだ始まったばかりだ。

船は北緯37°辺りで面舵を切り東へ進路を変えた。
次第に夜明けが速くなり、午前
2時から操業が始まる。

雨、雨、雨。
いつ発見されるかまるで解らない魚群を待ち、震えながらデッキで固まる。
楽しみは飯だけ。

3食を船尾にある調理場で料理長が一人で賄う。
プロの漁師達はそれを船尾のデッキにうんこ座りしながらそそくさと平らげ、それぞれの持ち場に戻っていく。
この船で温かいのは飯だけ。何と因果な場所にいるのだろう。
いつになったら帰れるのだろう。

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イルカの群がずぶぬれの私をあざ笑うかのように通り過ぎていく。
時折、操業体制に入るが群が小さいのだろうか喧騒はほんの数分で終わる。
港で購入した薄い合羽はもうボロボロに破けていた。

その日も雨だった。
魚群発見!いつもの様に冷え固まった体に鞭打って、竿を取り舷側に立つ。
だが、その日は少し違った。鳥が凄い! 
そして30分たっても1時間たっても魚の当たりが止まない。
その上、鳥までも釣られて来る。
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船上はあっという間に魚の山だ。
若い者だけで手分けをしてブライン凍結液が満たされた魚槽に散乱する魚を放り込む。
その間も頭上から魚が降る。
無人の竿釣ロボットもフル稼働だ。

ロボットの竿が上がらなくなったのは、2時間ほど後の事。
引き続き餌釣りに移行する。
カタクチの配達は既に阿吽の呼吸でこなせる私は最早第
31盛秋丸にとって欠かせない人材になっていた。
その私が目撃した。
ロボットの竿が再び魚を揚げた事を。

どうやら、トンボ(ビンナガの別名)の第二群がやって来たらしい。

この情報で船は再び疑似餌釣りに変更。
この繰り返しがこの日海上が漆黒の闇に包まれるまで4度繰り返された。
普段は船底にこもって出てこない機関長までもが船尾の釣台に居座っていた。
食事はコック長が船尾で魚を釣り上げる合間に握った握り飯が
2度配給されただけ。

19時。
どっぷり日の暮れた操業後の飯は流石に旨かった。
ついさっき、ビンナガに混じって釣られたカツオがオカズ。
豪快に包丁を入れた刺身を炊き立てのご飯に乗せ、卸し生姜にワサビ更にマヨネーズを加えて、熱い番茶をヤカンから注ぎ、ズルズルかき込んだ。

 

9.洋上の宴
“巨大魚群遭遇”の情報は昨日の内に盛秋丸の事務所経由で僚船へ暗号によって発信されていた。
翌朝、太平洋の真ん中は既に銀座通りになっていた。
洋上のあちらこちらに散らばっていた僚船が結集している。

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ふと見ると、左舷90度に第28盛秋丸がいる。
まさに僚船、しかもこの船には「カツオ・マグロ竿釣およびまき網漁業の操業形態上の問題点」と言うテーマで単独乗船中の岩崎研究室の同僚、山本栄二が乗っているはずだ。

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手を振っては見るが個人の識別が出来る距離ではなかった。
後日談になるのだが、第28盛秋丸はこの時、航海中に病死した乗組員を冷凍保存したまま操業を続けていたらしい。

死人が出てもカタクチを使い切るまで帰港しない、無情の掟、海の男の運命だ。

そうして、154°E 36°N 、中部太平洋の真っ只中で繰り広げられた狂乱の宴は、ビンナガ魚群の拡散移動と供に、終焉を迎えた。
期待通りにカタクチの生簀が次々に空き、換わりに釣り上げたビンナガの冷凍庫となっていく。
船にゆとりが出来たのだろう、大船頭の顔もわずかに緩む。

僚船が次々に離れていく中、第31盛秋丸はこの日洋上泊になった。

メイン機関を停止して海流に身を任せる。

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お決まりの遊びなのだろうか、それとも仕事の一部分なのか、船尾から晩飯の残飯のカツオの頭を針にかけて流す。
しばらくして引き上げると、
サメが食いついていた。
老練な船員は暴れるサメを瞬時に処理し鰭だけを切り取って、後はレッコ。
唖然と見ていた学生は胃袋を頂いて早速“胃内容物”調査に余念がない。

 

10.断念

大漁の後、乗組員の顔が緩んだ。

船の生活にも慣れ、気心も互いに通じるようになった。

戦闘中にあちこちで、

「おーい、学生!これはどうだ?ちっちゃいぞぅ!」

声がかかる。

私が小型のビンナガを探している事を理解して貰っている。

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6月の下旬再び実験を開始した。

だが、前回の飼育記録を上回れない。

港に活きビンナガを持ち帰るためには、操業最終日に勝負をかけるしかあるまいと思った矢先、船頭が切り出した。

 

「今から前線上を航海する。

tの水槽と言えども、ワシらの予想を超える横揺れが気になる。

君には気の毒だが水槽を撤去させて貰う。

本船の安全の為だ。」

 

返す言葉など何もなかった。

 

11.帰港 

辛い事の方が多かった航海も、カタクチイワシ満杯の魚槽が総て釣り上げたビンナガの冷凍庫に様変わりし、いよいよ帰港。
出港後早40日にならんとしていた。


船上の雰囲気は一変し、のんびりとしたハワイ航路の様だ。
甲板の清掃を終えると清水入港までの2日間乗組員はそれぞれ船上の余暇を楽しむ。
と言っても、プライベートスペースは寝台車ほどの寝床だけなので、ゴロゴロしているだけなのだが。

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船頭に声を掛けられアッパーブリッジで舵を握らせて貰ったのもこの時の事。
梅雨が明けたかのような明るい日差しが燦として降り注いでいた。

1976718日清水港入港。

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入港後は早速水揚げ作業。研究室の仲間がこぞって応援に駆け付けてくれていた。
魚槽でコチコチになっている魚を1本づつコモに入れクレーンで吊り上げ、陸上冷凍庫用のコンテナに収容する。
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普通は何の抵抗もなく魚槽から魚が取り出せるのだが、ブライン凍結の工程がうまくいっていないと魚同士がくっ付いて剥がれない。
これは甲板長兼任の冷凍長の責任らしく、バールとハンマーを手にした彼はその一個の魚槽に防寒服を着てもぐったまま出てこない。

ここで、釣り上げた魚の冷凍保存方法について書かなければいけない。
保存場所はカツオやビンナガを釣り上げる為の必需品である活きたカタクチイワシが泳いでいた魚槽を使用する。
すなわち、カタクチイワシを泳がしている時は海水が循環する活魚槽であり、彼らが操業努力によって消化された時点で魚槽は漁獲物の冷凍庫に早変わりする優れものの機能を持っている。

魚槽の内壁には冷媒が循環する放熱管が張り巡らされている。
漁獲物を冷凍処理する前処理として魚槽に海水を1/2容量ほど注入し食塩を添加して濃塩水(20%)を作る。
次いで濃塩水を-18℃まで温度を低下させる。
濃塩水が不凍液である事を利用して、-18℃の液体に漁獲した魚を次々に放り込めば、魚は浮いた状態のままあっという間に凍る。
これをブライン凍結法と言うが、最後に、濃塩水を抜き去ればコチコチに固まった魚がギッシリと詰まった冷凍庫に早変わりする。

魚槽の容積と温度さらに収容する魚の量が冷凍処理の成否を決定するらしく、作業中、冷凍長は魚槽に付きっ切り。
雑に魚を放り込んだりすると、ピッと睨まれる。
Ooyagi
水揚げ作業が終わり、40日の間お世話になった乗組員にお礼を済ませ船頭に挨拶しにいくと、何と金一封を頂いてしまった。
固辞したのだが「少ないが労働の対価だ。」と言う説明でありがたく頂戴した。

 

船は明朝次なる航海に出るという。

家族が駆け付けた乗組員は近くの旅館でひと時の団欒を営み、独り者は紅灯の海を漂う為に陸へ上がる。

 

思いがけない金を手にした学生は、研究室の仲間と供に当時清水港一高級と言われていたクラブ・ミンクスへと向う。

ブリッジからの視界に慣れてしまった眼には、タクシーのフロントガラスからの視界が異様に狭く感じ、窮屈だった。
2007/07/31

 

 

 

 

 

 

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2007/08/01

第三十一盛秋丸(前書)

船上におけるビンナガ飼育の試み

 

Ⅰ 緒言

 近年、カツオ・マグロ類の飼育技術は一段の進歩により、長時間飼育における生態習性研究が進められている(Tester;1952,’55,Hsiao;1952,’55,Miyake;1952,Van Weel;1952,Clemens;1956)。

 

 水槽内における飼育に関するカツオ・マグロ類の研究は、ハワイにおいてTester1952)らによって開始された。
その後、
Nakamura1962,’66)、Magnuson(1965)らによって収容輸送水槽の改良、大型化などにより、本類の長期間飼育が可能なものとなっている。


 我が国の研究は、
1965年、東海大学丸船上においてのカツオ・キメジ飼育実験を初めとし(井上ら;1967)、日本におけるカツオ・マグロ類の飼育による生態研究が推進された。
そして、井上ら(
1970,72)、原田ら(1971)鈴木ら(1973,’75)、竹内ら(1970)、大谷ら(1974)、石川ら(1975)などにより基礎的研究が進められている。
1970年には、有用魚類大規模海中養殖実験事業の一環として、マグロ類養殖技術開発企業化試験が水産庁遠洋水産研究所を中心として組織され、総合的研究の中で、カツオ・マグロ類の人工孵化、養殖時代の可能性を示唆している。

 

 しかし、本類におけるこの一連の研究の中でも、ビンナガの飼育に関する報告は全く見るべきものがない。
この理由として、ビンナガの回遊生態からみて、他のカツオ・マグロ類と異なり、沿岸部に来遊しないことや、飼育に適当な幼魚の採集が極めて希で、しかも、小型魚の来遊期が短期間であることがあげられよう。


 本実験は、ビンナガを陸上の水槽に移し、総合的な飼育生態研究への手懸かりとなることを目的とし、
1976年カツオ竿釣漁船上の小型角水槽にビンナガ,Thunnus alalunga を活魚収容し、ほぼ20時間の収容・飼育を試み、この間、収容初期におけるビンナガの行動に関する観察から二,三の知見を得たのでここに報告する。


 本論に先立ち、終始技術指導、御助言、御校閲を頂いた本学講師岩崎行伸氏、ならびに、ビンナガの採集の機会を与えて頂いた、静岡県清水市盛秋丸漁業社長山本正平氏、困難な船上作業に御協力を頂いた、三重県所属カツオ竿釣漁船第三十一盛秋丸の漁労長加藤明生氏始め、船長、乗組員の方々、実験に使用した小型水槽を心よく御借しいただいた東海大学海洋科学博物館・飼育課の方々、そして、船上において終始御協力を頂いた卒研学友今宮充君に対し、ここに深く感謝申し上げる。

 

Ⅱ 飼育装置および方法

 本実験は、197668日~718日の間、三重県所属カツオ竿釣漁船第三十一盛秋丸(390t)の第2次ビンナガ航海に乗船する機会を得て、船上におけるビンナガの飼育・輸送の試みに関し、実施したものである。

 

 カツオ・マグロ類の飼育・輸送に関し、その生存時間はすでに、飼育水槽の容積に影響するとの報告が知られる(井上ら;1967、鈴木ら;1975)。
また、既往の飼育例により、小型魚の有利性を示された。
そこで、本実験は小型のビンナガを対象とするために、すなわち、小型のビンナガの来遊期は、例年
6月上旬から7月上旬にかけて、野島崎東方黒潮前線の北緯37度線付近に達し分布するとしている(井上・岩崎;1976)。
このことから、小型ビンナガの採集は、これを考慮し乗船航海を計画し、主に
3637N155175Eの海域でビンナガ・カツオ操業された際に水槽内の収容の試みを実施したものである。

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Fig.1  船上に設置されたキャンパス角水槽

 ビンナガを収容した水槽は、外枠に鉄製、内枠に板を骨組みとするもので(Fig.1)、 1.6×1.4×1(深さ)m、容積2.3tの内側にキャンバスシートを張った組み立て式角水槽を使用した。
この水槽の船上における配置は右舷後部上甲板に設置した(
Fig.2)。0011   この位置は、船尾の釣獲場所から水槽収容に至る間、最も近い距離で、しかも、作業上危険性少なく、通常およそ1530秒程度の時間で収容作業が可能な場所である。

 水槽内に取り入れた海水は、現場の海水をくみ上げたもので、これは装備の散水用パイプからホース(内径22㎜)にて毎分100120ℓを常時給水した。すなわち、この水槽を満水および一循環するには、およそ2025分程度の時間を費やした。
排水は、ビニールホースにより水槽底からサイフォン式によった。
また、電気流速計(
CM-1B,東邦電探)を用いて、水槽内の流速を測定した。
航海中飼育水槽内の水位は、船体の動揺による海水の流出や、散水による注水量の減少から若干異なっている。
しかし、ビンナガの収容中は、ほぼ水深
0.60.8m1.41.8t)の水位が保たれていた。

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Fig.3  ビンナガの採集作業

 ビンナガの採集は、船尾甲板にて竿釣り漁法により釣り上げたものでFig.3に示す。 
針は反しの有無の
2種類に分けられた。

竿釣りされたビンナガは、比較的小型の魚を選び供試魚とした。

 

 水槽内にビンナガを収容するには、次の2つの方法をとった。
すなわち、収容は、ハンドリングを避けるために竿のまま魚体を宙吊りにして水槽に移した。
他の方法は、針から外されたビンナガを両手でハンドリングし、抱えて水槽に収容した。
これらの方法により、釣獲から水槽に至る時間は極めて短く、いずれも
1530秒程度要された。

 

 一方、水槽内のビンナガの遊泳行動、生存時間などを、比較検討するために同じ条件で、同海域で混獲されたカツオKatsuwonus pelamis(体長4851cm)5尾につき活魚収容した。

0012_2

 実験はTable1 に示すように4回にわたり、合計10尾のビンナガおよび5尾のカツオを水槽に収容した。
収容したビンナガは
10尾と少ない尾数に止まった。
このことは、釣獲された小型ビンナガの占める、操業による漁獲割合が、全漁獲量からみて少ない事や、あるいは、小型魚にあっても釣獲時に釣針あるいはハンドリングによって、致命的な傷を負ったものが多くあり、これらのビンナガは水槽への収容には至っていない。

そして、船上での収容作業は、漁獲能率に支障を来たし、さらには、危険度を増すため、
1尾の収容にかなりの時間を費やした為、少数の収容に止まった。
なお、ビンナガ群の
1操業当たりは、漁獲時間510分程度で、50300尾ほどであった。
さらに水槽内に多量のビンナガの収容は、魚体の大きさにもよるが、観察に困難な為に、少なくも
2尾を限度とした。

 

 なお、収容中、水槽内の環境は、水温18.7℃~20.2度、塩素量19.0919.31‰であり、この環境範囲はビンナガの漁獲時とほぼ同等の値であった(Fig.7)。
また、夜間時には、カツオ・キメジの飼育の例(井上ら;
1967)を考慮し、予め水槽内中央部の水面下約10cmの所に水中灯(100V,60W)を垂下点灯した。

 

 本実験において、ビンナガの生存時間の判定には、供試番号14の魚に対しては、ビンナガが遊泳力を完全に失い、水槽底部に横転した時刻をもって死亡とした。
その他の死亡時刻は、鰓蓋運動の停止をもって判定してある。
前者の場合、ビンナガの鰓蓋から流出する血液および体表から脱落した粘膜によって、海水が極度に濁るため、その後の収容に大きく影響するおそれがあったからである。

 

Ⅲ 観察結果

 

 1 採集時および収容初期におけるビンナガの行動

   ビンナガの採集は、竿釣りにより、釣針に反しのある餌釣りと、反しのない擬似針を用いた。
いずれの場合も収容に至る間のビンナガの動きは大きくみて①狂乱状態、②全く静止、③その他、の
3っに区分できる。

 

①の状態のビンナガは、針を外す作業および水槽に収容するまでの輸送作業の際にハンドリングが多くなり、その結果作業中に鰓蓋から出血を見るものもあった。
これらのビンナガを水槽に収容すると、その瞬時から無方向に直線的な鋭い動きを呈し、水槽側壁と激しく衝突した。衝突すると、その程度にも影響するが、一般的に瞬時に動きが停止し、方向を変え泳ぎ始めるか、あるいは、側壁に吻端を接触しながら遊泳旋回した。
また、顕著なものは、一時遊泳力を全く失い、腹部を返しながら、水槽底で静止し、横転した。
しかし、この静止状態は
23秒間であり、その後再び遊泳を始め鰓蓋あるいは吻端から血液を流しながら、直進・衝突・横転を繰り返した。
このような魚は、早いもので
12分で完全に遊泳行動を停止し死に至った。

 

③のビンナガは輸送作業中に魚の眼球を手で被うと、ビンナガの動きが柔らぎ水槽収容後は、先の②のビンナガの動きと同様な経過をたどった。
すなわち、収容後一定の円軌跡、あるいは、一定の遊泳速度を持って旋回運動を始めた(
Fig.4)。

0002 収容初期における、これら②、③のビンナガは、井上ら(
1967)による、キメジの船上飼育実験の初期に見られる神経質な動きを全く示さなかった。

一方、同じ条件下で収容したカツオは、収容直後に①のビンナガ以上に狂奔して遊泳し、側壁と強く衝突し、この際、眼球が突出したものも一例あった。
 このようなカツオは全て
5分以内で死に至っている。

水槽内におけるカツオの収容時の行動については、すでに井上ら(1967)、Nakamura1972)により詳しく報告されているのでここでは省略するが、これらの報告と大きく異なるものでなかった。

このように、ビンナガの収容初期の動きを3っに大別した。そして、②、③の魚は収容初期から安定した円遊泳の行動を呈し、いずれも比較的長時間にわたり生存させることができた。

 

2 水槽内における生存時間

  水槽に収容したビンナガ10尾および比較上カツオ5尾の生存時間の結果はFig.5に示す。
この図から明らかなように、
10分間以内で死亡したビンナガは、6尾であり、他の4尾は5時間以上生存できた。
最も長く生存した
2尾は、19時間30分、次いで18時間20分であった。

0013

収容後10分以内で死に至ったものと、5時間以上生存したビンナガは、いずれも採集初期の魚体の動態によって明らかに生存時間の長さが決定されよう。

比較的長時間生存した2尾のビンナガ(魚体番号5,8)は、両者において、収容方法に大きな差異があった(Fig.5)。

すなわち、1尾は全くハンドリングすることなく、他の1尾はハンドリングをしたものである。
しかし生存時間の結果から見ると、採集方法の異なりによって、その後のビンナガの生存時間に差異は認められなかった。
換言すると、この程度の生存時間の範囲内では、軽度のハンドリングの有無はビンナガに大きな影響を与えていないことになる。

また、魚体番号
12のビンナガでは、暗夜条件下での行動・生存時間を眺るために、夜間水槽内の水中灯を点灯せず、また水槽付近にある船上灯の光線の入射を避けるために、キャンバスシートを被った(Fig.5)。
この暗夜条件下では、ほぼ
1時間で死に至った。
この主な要因は水槽内が暗くなる事によって、側壁の視認が低下するためと見て、その結果側壁との接触・衝突による死亡が考えられる。
このことから、夜間の狭い水槽内でのビンナガの飼育・長時間生存には、日没前からある程度の照明が必要なものである事がいえよう。


 死亡したビンナガを水槽から取り出して観察すると、
10分以内で死亡した魚体の外観は、一般に前鰓蓋骨、間鰓蓋骨、鰓蓋骨および胸鰭上部に擦れのためと思われる表皮の剥がれが顕著で、しかも、吻端には側壁との強い衝突による裂傷が認められた。
また、比較的長時間にわたり収容できたビンナガでは、前述の表皮の剥がれの他、原鰭前後部、尻鰭基部ならびに周辺に赤く充血の跡が見られた(
Fig.6)。0014しかし、吻端に認められる外傷は、短時間で死に至った魚体ほど顕著に表れず、吻部が軟化した程度であった。
このことは、長時間生存したビンナガは、泳力の消耗が著しく、その結果、側壁との衝突の瞬間における強さが弱められているためと思われる。


 以上の点から、ビンナガの生存時間に影響をおよぼす諸事項をまとめると、採集時のビンナガの動態および夜間時における照明の有無が考えられる。
 したがって長時間飼育を目的とするためには、水槽収容直後の側壁との強い衝突を避けるものとして、採集時に狂乱動態の比較的小さい魚を抽出し収容する。
次に夜間時の点灯により、側壁との接触・衝突を避けることであろう。
また、本実験では、採集収容当時の魚体の傷による影響は明らかでなかった。

 

3 水槽内における遊泳速度

 

  水槽内のビンナガは通常、他のカツオ・マグロ類の飼育例と同様に、円軌跡を描き遊泳した(Fig.7)。0015 回転軌跡の直径は、最大1.2m、最小で0.75m、平均0.975mであった。
ここで
1分間におけるビンナガの旋回数から飼育経過時間ごとに水槽内のビンナガの遊泳速度を計算した。
この結果は
Fig.8に示す。0016 これによると、最高2.2kt、最低1.2ktの速度で遊泳したことになる。
そして、両ビンナガとも水槽収容後は早く遊泳し、その後、ある程度の時間まで速度を低下する傾向が認められた。
このことは、ビンナガが水槽内の飼育環境に対して慣れのため生じたと考えられる。
さらに、日没後、点灯の有無にかかわらず遊泳速度は増大している。
しかし、この
2尾だけの資料では明らかでない。

他のカツオ・マグロ類の遊泳速度を比較のため既往の研究結果からまとめ、Table2に示す。0017_2
 水槽内における報告から眺ると、本実験のビンナガの速度
1.22.2ktは比較的速い値となる。

しかし、各供試魚の体長を比べると、本実験のビンナガは、水槽の大きさにもよるが、前者よりも体長で1040cmほど大型であった。 Yuenの海洋中での観察(1966)によると、海洋中のカツオの遊泳速度は体長に比例すると述べている。 このことから、水槽内におけるビンナガの遊泳速度は、キメジ・ハガツオ等と比較して、一般的に遅く遊泳していたことがうかがわれる。

 

4 水槽内におけるビンナガの遊泳行動の観察

 

  採集時に狂乱状態を示さなかったビンナガは、収容後直ちに水槽の底部に位置し、しかも、側壁から1035cmの間隔を置きながら円軌道を画く泳ぎを始めた(Fig.9)。

26_20230804154701

Fig.9  水槽内のビンナガの遊泳

 

遊泳中のビンナガは、第一、第二背鰭に速度に見合った角度をもたせ、旋回中は回転方向の内側の胸鰭を外側のそれよりも比較的角度を大きくもたせ(Fig.10)、推進力として尾鰭部におって、離鰭を巧みに動かしながら遊泳した。

0018_3
 Clemens(1956)の観察した、スマ;Euthynnus幼魚は、遊泳中、第一背鰭を背溝内に納め、興奮時および索餌の際の減速時のみ立てると述べている。 

このことから、終始第一背鰭を立てていたことは、いかに本実験のビンナガが、水槽内でゆるやかな速度で遊泳していたことが判断されよう。 

また、ビンナガの最大の特徴である長い胸鰭は、Magnnson(1970)によるスマの動きと同様に、胸鰭を推進力として動かしていない。 

したがって、長い胸鰭は、一般的に水平翼として上下左右の運動方向を調節するためのものであると考えられる。 

そして、富永(1965)は自然界の観察から、ビンナガの胸鰭の作用は水流に魚体を水平的に維持するものであるとした。しかし、注水ホースからの流勢を利用し水槽内に0.31.3ktの水流を一時的に作ったところ、前述のごとき動きは見られず、また、水流に対しても定位しなかった。

 

遊泳時の回転方向は一定でなく、1時間の中でも数回にわたって不規則に方向を変えた。
方向転換の瞬間には、両胸鰭を大きく拡げ、極度に速度を低下し、水槽の角に吻端を接近させながら頭部を上に起きあがり、転換方向に大きく魚体を曲げた。 

同時に転換方向の内側の胸鰭を開き、外側のそれを体側に付けて反転した。 
また2尾同時に収容した実験では、互いに旋回方向を異にし、同一方向に回転した時間は極めて少ないものであった。

 

日中の収容時に水槽内に明暗部を設定した(Fig.11)。0019 明暗部を有する水槽内でのビンナガの遊泳は、明部に沿う傾向があることが観察された。
これは、水槽が極めて小型であること、また、飼育時間が短い、などにより断定はむずかしいが、夜間の懐中電灯(3.8V,1.9W)の光線下に寄ってくることから判断して、井上ら(1970)の述べるクロメジに、正の趨光性の点で類似した動きであると考えられる。
 

また、夜間に水中灯を使用しなかった供試魚(魚体番号12)では、船上灯の光線の入射を避けるために、水槽をシートで被い暗夜の状態にした。 

この直後のビンナガの動きは、側壁との接触・衝突が激しく、方向を全く見失っていた。

しかし約5分後には慣れによるものか、再び円軌道を描いて遊泳するようになった。
このことは、遊泳速度の項で述べたように、ビンナガが飼育環境に対し慣れることを現している。
このように、暗夜条件下での遊泳は、昼間時よりも大きな円軌道を示すが、側壁との距離は極めて狭いもので、ほとんどの位置で胸鰭の先端を側壁に接触させさがら、アンテナの役目を果たしているものか、円遊泳をした。

 

収容中吻端をしばしば水槽側壁に打ち、時として横転する場合も見られた。
また、体を斜めにして吻端を水面上に出し、いわゆる「鼻上げ」の状態を呈した(Fig.12)。0004 井上ら(1967)の飼育によるキメジの死亡の前兆、あるいは、鈴木ら(1975)によるカツオ・クロメジ・ソーダガツオなど、一旦状態不良となった固体に回復の見込みはほとんどない、との報告がある。
しかし、ビンナガはこれらの現象とは異なり、その後、
10時間以上生存していたことになる。

 

死亡直前には急に直線的な動きをとりその結果水槽側壁との衝突頻度を増し、水槽の角に吻端を接触させながら水面に浮き上がり、口部を露出して開閉運動を行った。
そしてこれらの動作を繰り返し、遂には水底に横転し、次いで鰓蓋の運動を停止して死に至った。
このような死に至る経過は、カツオ、キメジ、クロメジなどの飼育例とほぼ同様であり、カツオ・マグロ類の共通した経過をたどっている

 

 

Ⅳ 議論

 本実験では、ビンナガを19時間30分および8時間分にわたり活魚収容し、この程度の時間であるならば、輸送可能であることを示した。

 カツオ・マグロ類の飼育の難易の順位に付き、井上ら(1967)、鈴木ら(1972)によると、困難と思われるものから、カツオ-ハガツオ-ソウダガツオ-クロメジ-スマ-キメジの順であると考えられている。

Nakamura(1972)によれば、大型水槽(7.2×1.2m)によって、キメジ・メバチを58ヶ月飼育した記録がある。
ここで本実験で試みたビンナガ・カツオの飼育の難易さを比較してみると、
Fig.5の生存時間から明らかなように、ビンナガは比較的カツオよりも飼育が容易であると考えられる。


そして、井上ら(
1967)により、キメジ体長3240cmのものを直径1.5mの円形水槽で、19時間生存させており、本実験では、使用水槽の大きさとしてはほぼ同様であるが、ビンナガは体長4855cmと大型であった。これらのことから推すと、飼育の容易な事はキハダに準ずるものであろう。

 

 魚類の長時間飼育の難易は、上柳ら(1971)、鈴木ら(1975)によれば、魚類により深部血合肉の発達の度合に関係し、カツオ・マグロ類のような血合肉の多い魚類は、他の養殖可能な魚種に比べて飼育が困難であると指摘している。
この点、マグロ類の中で、白肉の多いビンナガは、他のカツオ・マグロ類よりも比較的飼育が容易であると判断されよう。

 

 今後の課題は、ビンナガを陸上水槽で長時間飼育し、行動・生態観察をすることである。
この場合、次に述べる諸点を改善すれば、実現は可能であると考える。

 

 すなわち、井上ら(1967)、Nakamura(1972)、鈴木ら(1972、‘75)が指摘しているように、他のカツオ・マグロ類の場合と共通し主に輸送・飼育水槽の大型化であろう。
例えば、軽量でしかも角がなく遊泳面積の大きなドーナツ型水槽が考えられ、夜間に、ビンナガの正の趨光性を利用しドーナツの中心に照明を置き、魚の遊泳を中心に沿わせ、外壁との接触を防ぐものである。
 
 この水槽により、死亡の重要な要因である衝突を防ぎ、同時にビンナガの遊泳速度を上げ、濾水量不足による窒息死を減少せしめる。
また、本実験では、収容時間が極めて短かったため比較は出来ないが、採集具、方法の改良により、魚体の外傷を最小限にとどめ、さらに、早期の餌付けにより、飢餓死を防ぐ。

そして、ビンナガの場合は、浅野(
1964)の報告によれば、東北近海に体長2530cm程度のビンナガ当歳魚が89月に来遊するとしている。そこで、この期の小型ビンナガを抽出し、採集時に状態不安定な魚を避け、さらに、上述のような水槽を用いることにより、ビンナガの長期間飼育は可能であると信じるものである。

 

Ⅴ 要約

 19766月に三重県所属第31盛秋丸の船上において、小型角型水槽(1.6×1.4×1m)容積2.3tに、ビンナガ(体長4855cm)およびカツオ(体長4851cm)を収容し飼育を試みた。
この間、生存時間、遊泳行動などを観察し、次の結果が要約される。

 

1 船上水槽において、最も長いもので19時間30分、次いで18時間20分ビンナガを収容し飼育することが出来た。

 

2 この間のビンナガの遊泳速度は、1.22.2ktであり、魚体の大きさから判断し、他のカツオ・マグロ類よりも比較的ゆるやかに遊泳していたことが判明した。

 

3 採集時に状態不安定なもの以外のビンナガは、収容直後から安定した円遊泳の行動をとり、水流に対して定位することもなかった。また、正の趨光性を呈した。

 

4 直接の死亡原因は、水槽内の照度に関係し、衝突によるものと考えられる。

 

5 ビンナガはカツオや他のマグロ類と比較し、飼育が容易であることが考察された。

 

6 今後、飼育水槽の完備、対象となる小型ビンナガの抽出により、長時間飼育の可能性が考えられる。

 

引用文献

 

浅野政宏(1964):19638月・9月に東北海区で漁獲されたビンナガについて、東北海区水産研究所報告、NO.24,~27.

 

Clemens(1956):Rearing larval scombrid fishes in shipboard aquaria,California Fish and Game,42()69-79.

 

遠洋水産研究所(1973):マグロ類養殖技術開発試験報告、10704月~19733月、1~156.

 

原田輝雄、熊井英水、水野兼八郎、林田修、中村完二、宮下盛、古谷秀樹(1971

:クロマグロの幼魚の飼育について、近畿大学農学部紀要、4、153157

 

井上元男、天野良平、岩崎行伸、青木光義(1967):飼育によるマグロ類の生態研究-Ⅰ、長時間飼育と生態観察、東海大紀要海洋、2153157

 

――――、岩崎行伸、天野良平、青木光義、山内稔(1970):飼育によるマグロ類の生態研究-Ⅱ、明暗部持った水槽内におけるマグロ類の行動、東海大学紀要海洋、4、5058

 

――――、――――、青木光義、宮下明、矢富洋道(1972):カツオ・マグロ類およびカジキ類他外洋性大型魚の馴致と養成に関する研究-Ⅰ、生簀および陸上水槽によるクロマグロ、カツオ、ハガツオ、ソーダガツオ、スマ、バショウカジキ、シイラの馴致と飼育、東海大学紀要海洋、66978

 

――――、――――、(1976):ビンナガ・カツオ・マグロ類の魚場図集(57年併記式)、東海大海洋研究所、マグロ資料NO.52、1~17.

 

石川栄一、師丘泰介、工藤恭平(1975):音響および照度変化に対する水槽内のカツオ・マグロの行動、卒業論文、Ⅰ~58

 

Magnuson,J.J.1965):Tank facilities for tuna behavior studies. Progres. Fish Cult.,27(4);230-233.

 

―――――――(1970:Hydrostatic equilibrium of Euthynnus affinis,a pelagic teleost without agas bladder. Copeia,1970();56~85.

 

Nakamura,E.L.(1966):Fiberglass tanks for pelagic fishes.Prog.Fish Cult.28,1,60-62.

 

―――――(1972:Development and uses of facilities for studying tuna behavior.Behavior of Marine Animals,2,245-277.

 

大谷巌、荻原淑人、渡辺雄二(1974):紀南・伊豆近海の海況と旋網によるカツオ・キハダ漁況に関する研究、卒業論文、Ⅰ~97

 

鈴木克己、西源二郎、塩原美敬、岩崎行伸(1972):カツオ・マグロ類およびカジキ類他外洋性大型魚の馴致と養成に関する研究-Ⅱ、陸上水槽におけるカツオ・マグロ類の長期間飼育について、東海大紀要海洋、67988

 

――――、岸本浩和、田中洋一(1973):カツオ・マグロ類の水槽飼育に伴なう頭部の変形、魚雑、20,2,113~119.

 

――――、西源次郎、塩原美敬(1975):カツオ・マグロ類の採集と輸送、動水誌、17,Ⅰ,Ⅰ~6

 

――――、――――、――――(1975):カツオ・マグロ類の水槽内弔意期間飼育、動水誌、17,Ⅰ,715

 

竹内経久、西村茂博、堤徒俊天、磯貝高弘、樺沢洋、三上成次、渡辺秀美、岸幸弘、大井繁、鈴木秀夫、池田熊蔵(1970):外洋性魚類の飼育について、(1)マグロThynnus thynnusの飼育について、京急油壺マリンパーク水族館年報、32229

 

上柳昭治、森慶一郎、西川康夫(1971):昭和46年度マグロ類養殖技術開発企業化試験中間報告、水産庁調査研究部、78

 

Yuen,H.S.H.(1966) :Swimming speeds of yellowfin and skipjack tuna,Trans.Am.Fish Soc.,95(Ⅱ);203209

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007/07/19

Ⅱ世

学生時代の仲間の間で“Ⅱ世”と云えば誰しもが一隻の船を思い浮かべる。

仲間を延長して海洋学部同窓生のほとんどが同様の筈。

Photo_20230804135401名物船長佐藤孫七氏操る海洋観測船「東海大学丸Ⅱ世」がその船の名前。
海洋学部の学生は必修科目である海洋実習で少なくとも1度や2度お世話になっている船である。

1967/07
進水の701t
当初アンチローリングシステムを搭載していると聞いていたのだが、その後、時化の時に機能しないことが判明して撤去されたらしい。

私が1年生の時、小樽港でが始めての出会い(“登舷礼”参照)だから、その当時は5歳の新鋭船だった。
そして、3年時の専門海洋実習では、清水を僚船・望星丸で出港し、天草の三角港でⅡ世に乗り換えるといった面白い経験がある。
接岸出来ない牛深港では港内に投錨してライフボートで上陸した。
2_202308041357011993年末退任したと聞き、廃船になったとばかり思っていた。
残念ながら孫七船長もこのほど逝ってしまったことは“カツオドリⅡ”で報告した通りだ。

いま、天女が衣を置き忘れたと言う三保の松原から左回りに三保半島を廻る。
三保灯台、セスナが並ぶ三保空港をかすめ1本道は大きく
U時に180度曲がる。
右手に白い船体が鮮やかな船が鎮座しているのは1本道を曲がり終えた頃。思わず車を止めた。
2_20230804140001
Ⅱ世に違いない。
ブリッジのウインドウ数と舳先にあった真ん丸い大きな穴に違和感があるものの、ライフボートもそのままにⅡ世が雨の中、無言で地面に座っている。
アッパーブリッジの風向計だけが南の風に煽られて音もなく小さなプロペラをしきりに回していた。

デッキにつながる階段取り付けられていたが、鍵のかかった鉄格子に阻まれ船内を窺う事は出来なかった。
陸に上がったⅡ世の舳先の先に古びた水族館があった。
開設当時は最先端技術を駆使した設備だったのだろうが、今では垢抜けしない水族館の部類になってしまっている。

ミズダコの水槽。
1m四方程の水槽のガラス上部に巨大な吸盤がいくつも張り付き、幅いっぱいに足をくねらせているが、全身像が窺えないほどそいつはでかかった。
2_20230804140401

太い脚の隙間に白い米粒大の卵が房状につながった卵塊が見えた。
きっと、水槽上部のコンクリート壁面に産み付けたものだろうが、このスペースで2固体のタコが共存できるとは考えられない。
したがって、槽内交接は不可能。 
ミズダコは一生に一度だけ交接するという。
時期は冬の始まりの頃。
交接腕を雌の体内に挿入して精子を送り込み、やがて雄は死ぬ。
雌は雄から貰った精子を体内に貯蔵し、翌年の梅雨時に産卵し同時に精子を放ち受精させるらしい。
このタコは恐らく、何処か北の海の中で交接を終えた雌で、その後捕らえられ、槽内で産卵・受精したものと考えられた。 
産卵後の雌は餌を摂らずに半年の間卵を護り続け、稚ダコの孵出と同時に死んでいくらしい。

P711001122_1雄大な海洋を自在に航海した大学丸Ⅱ世の亡骸のそばに、ミズダコⅡ世の誕生が見られるのは冬になる。

 

2007/07/19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2005/11/27

尻高

学生は金が無い。 ただし、昔の学生に限られる。
学生は酒が飲みたい。

清水から伊豆へポンコツに同乗して伊豆に向かう。 
真冬の早朝出発だ。
伊豆半島のとある国道脇の叢にポンコツを止め、切り立った崖をころげる様に下る。

相模湾の波が押し寄せる岩場にたどり着き、流木を集め、焚き火を起こす。
充分に焚き火で温まった男達は服を脱ぐ。 
トランクスが二人、ブリーフが一人。 
ブリーフは深紅のビキニだ。

Photo_20221208090601

やがてトランクス組みはブリーフに操られる鵜の様に相模湾の冷たい波下に放たれる。
トランクスを穿いた鵜の役割は水温10℃に生息するシッタカ獲り。 
トランクス大八木はその皮下脂肪が内蔵ウエットスーツになって30分の水中作業に耐えられるが、トランクス升は15分でギブアップしてしまう。
「お前早や過ぎるぞ! なまけるな!」
焚き火の前に陣取っている赤いブリーフ姿の委員長に叱咤され、焚き火にあたる事も許されず、私は再び凍えた鵜になる。
鵜はやがて数10キロのシッタカを水揚げする。

Photo_20221208095701

赤ブリーフは途中拾ったアルミホイール鍋を無造作に焚き火に載せ、取れたてのシッタカをまるで自分のものの様に10個程つまみ希釈した海水で茹であげ、その4/10を鵜に与え、6を我腹に収める。
トランクスが乾き、服を着る。 何の為に赤ブリーフ姿になったのか? 
釈然としないまま、鵜は漁獲物を背負わされ、崖を上る。

赤ブリーフの、いや、いうなれば女衒の親父は、鵜が漁獲した水産物を沼津市内のグレードの高い飲屋に持ち込み、1,000円/㌔で現金に替え自分のポケットに入れる。
 
三人を乗せたポンコツはそのまま清水市内のグレードの一番低い飲屋に横付ける。
“道産子”と言う名のその店は、大きなジュークボックスに場所を取られ、カウンター席が6席あるだけ。 
カウンターの向こうに北海道出身の小母さん(ママさん)とラグビー部の藤沢がアルバイトで働いていた。 

サントリー・オールドを累積10本キープすると1本おまけが出るシステムで、既に、我々は35本目のおまけを飲み下していた。
その日も“道産子”にはいつもの先客が来ていた。 
清水市役所に勤めるという、40代後半・30代後半・20代後半の3人組で、いずれも女性である。
 
20代前半の我々が強いてこの小母さん達とお付き合いする必要は全くないのだが、年寄くさい赤ブリーフだけはいつも40代後半の隣に座る。
したたか飲み、店を出る頃には漁で疲労した鵜に記憶がない。 
おそらく赤ブリーフのポケットに収まった“シッタカ”の売上金で店の飲み代を支払ったはずだが、釣り銭はどうした?

赤ブリーフのお相手の年齢を超える年になり、高かった尻の位置は 今 無残にも低く垂れ下がっている。
2005/05/22 升

注)この記事はあくまでも半世紀前の出来事です。
 当時の地元関係者に対し改めて心よりお詫び申し上げます。
 現在では海上保安庁に逮捕される「密漁」という犯罪行為となります。
 水産資源保護を脅かすだけではなく地元漁業者に多大なる経済的損失を与えます。
 決して真似をしてはいけません。

 

 

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2005/11/15

八男坊(池永順二氏に捧ぐ)

1.青春編

静岡鉄道の電車は銀色の車体で新静岡駅と新清水駅との間を走っている。

双方の駅がJR駅に乗り込んでいないのには何か深い訳があると思うが、私は何も知らない。新静岡を出発した銀色の電車は、JR清水駅近くまで暫くの間東海道本線と併走した後、東海道本線が北に首を向けるのとほぼ同時に東を正面として終点新清水駅に到着する。

500メートル北にはJR清水駅が南北にプラットホームを伸ばしているのに対照して、この駅は東西に腕を広げている。駅の南側の巴町、駅東口正面を南北に走る国道149号線の向こうには相生町・旭町があり、何れも清水を代表する歓楽街である。

三保に繋がる国道とはいえこの界隈は片側1車線でさほど広くはないのだが、その昔数々の酔客が国道を走る車に戦いを挑んだ証の様に、横断地下道が地下牢の如く掘られている。

地下牢の東南に向いた出口の角地には、木造2階建ての店舗が35年以上も前から、変わらぬ営業を続けている。長い歴史の中で多くの貧乏学生や外国籍船員を虜にした「八男坊」である。

焼き鳥15円/串・スズメ丸焼き120円/2羽・熱燗100円/8勺、と言えばご納得頂けよう。


その伝説の焼き鳥屋「八男坊」で、一人の友人と、私は北と西側を海鼠壁に囲まれた格子戸を開けた。
昭和52年年11月、時計は21時を回っていた。

店内が薄暗いのは照明のせいだけではない。元は白かったであろう壁や木柱、カウンターに木製のテーブルに至るまで、柿渋を幾重にも重ね塗りしたように黒く押し黙っている為だ。

丁度6角形の一辺に当たる格子戸をくぐると左手に8脚の椅子が置かれたカウンターが海に向かい延びている。カウンターの奥の棚には透明な一升瓶や皿、お燗用のアルミタンポ、徳利・グラス・お猪口などが整然と置かれている。カウンターの後方には4人が座れるテーブルが三つ並んでいる。

祭日前でもあり店内はほぼ満席。丁度、焼き鳥が一串10円から15円に途方も無い値上げを遂げたばかりで、テーブル席の外国籍船員たちは半年前に入港した時の勢いは無い。

砂肝とスズメそれに酒。私の注文に親父から反応があり、「焼き物は塩、酒は徳利で熱いの!」と答える。「もとい!スズメはタレにして。」と修正を加えた。

一つ跳びに空いていたカウンター席を詰めてもらって座っている、隣の青年は小柄で細身だが肩幅は広い。シワシワの黒い革ジャンにジーンズ。革ジャンの下はTシャツ1枚。

頭髪はスズメの巣のようにクシャクシャに纏まっているが、その中央部の頭皮がむき出しになっているのを隠す目的であることを、私は周知している。

札幌時代からのラグビー部の先輩で航海専攻科の学生だ。名を池永順二と言い将来は外国航路の船長を目指している。

私達が座るのと同時に徳利がカウンターの向こう側から置かれる。この店は特注すれば徳利で酒が飲めるが、通常はアルミタンポのまま出てくる。それをガラスのコップに手酌で注ぎキューッとやるのも美味いのだが、一人の時はお銚子にお猪口、私はこだわる。池永さんも同じ嗜好で、実に生意気な学生の二人連れだ。

砂肝は串焼きではなく皿の中でコロコロ転がりながら出される。炭火焼が看板のこの店には珍しく、砂肝は炒って出てくる。まず、フライパンに塩を振り熱する。塩がチリチリ唄い始めた頃、飾り包丁を入れ一口大に切った砂肝を入れ炒める。鮮度のいい砂肝は刺身でもいけるので焼き過ぎない事が肝要だ。

「升よ!この酒水っぽくないか?」
「実は私も感じていましたが、池永さんが黙って飲んでいるから、私の体調がおかしいのだと思い込んでいたところです。」
早速カウンターの小母さんに文句を言う。

「あーっ!お客さんごめんなさい。徳利を暖める為に入れたお湯を、入れ替えずにそのまま出しちゃった。だけどもう空っぽだよ! でもあんた達、これだけ飲んでからようやく今気が付いたの?」

この事件以来、二人は酒の味に関するこだわりを、一切捨てた。
たとえ水でも親しい人とであれば酔えるのだ。

 

2.さらば青春編

JR清水駅の正面を右折する。国道149号線だ。

200m程南下した東海道本線を横断する陸橋(清水橋)は今補修工事中である。その橋を渡りきった右手が静鉄の新清水駅東口。駅の向こうの巴町、国道の左手には相生町・旭町があり、何れも清水を代表する歓楽街である。

新清水駅前の海鼠塀で囲まれた古い2階建店舗前の信号を左折する。宵の口だと言うのにこの店には灯りが燈っていない。次の交差点を左に回る、更に次の信号を左に曲がり、そして東海道線の踏み切りの手前を左に折れると清水橋の側道に出る。

ホテルサンポートの駐車場に車を乗り入れる為は、一方通行のこの道路を使うしか道は無い。三浦を出たときからかけっ放しのCD“小椋佳best&best”に別れを告げて、ホテルサンポートに宿を取る。そそくさと外出した。ホテルの右隣には、粋な寿司屋と見まがうほど小奇麗な店舗がのれんを出している。

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その焼き鳥屋「八男坊」で昨夜、私は古い仲間たちと待ち合わせをした。待ち合わせと言っても、私の一方的なメールによるお誘いをしたに過ぎなかったのだが、ご丁寧にも何人かからは「残念ながら・・・」の返信を頂いていた。誰かひょっこり現れるかもしれない期待を持って私は「八男坊」の格子戸を開けた。
平成17年11月、時計は21時を回っていた。

店内は白を基調とし、カウンターも幅広くチーク色に輝いている。カウンターの正面にはガラス製の寿司屋でよく見かけるネタケースが置かれ、内部には魚ではなく串に刺された鳥類の肉片が収められている。カウンターの後方の広いスペースには同じくチーク色に輝く集合材製のしゃれた椅子席が並び、30余名の酔客を同時に収容可能と見た。

私はカウンター内部の厨房が丸見えのサイドカウンターに席を取った。その厨房は間取り・設備・テーブル・シンクに至るまで、どう見ても寿司屋のそれだ。焼き鳥屋が廃業した寿司屋を居抜で買収したに違いないが、文化の日の前夜にも拘らず客は私だけ、この焼き鳥屋も危ない。悲しいかな、寂れ行きつつある清水港を象徴する現象と受け取った。

広いカウンターの内側に、肥えた小母ちゃんと痩せた小母ちゃん、それに股が膝の位置にある薄汚いジーンズを履いた若い男がいるのだが、どうにも皆愛想が無い。30年前の話をしても笑顔すら戻ってこない。

ひたすら酒を飲むことに関してさほど気の短い仲間を誘った覚えは無いのだが、待ちあぐねて場所を変えてしまった後か? カウンターの中の痩せた小母さんに、店を訪れたかもしれない友人の人相を告げ、確認した。だが、それらしき人は来ていないとの返事だ。

砂肝とスズメ焼き、それに酒を注文した。痩せた小母ちゃんに聞かれ「焼き物は塩、酒は徳利で熱いの!」と答える。「もとい!スズメはタレにして。」と修正を加えると、頷きながらも徳利は置いていないとの返事が戻った。

カウンター越しの真っ赤な備長炭の上に、痩せた小母ちゃんが串に刺された砂肝を2本、無造作に乗せる。「あれー!昔はね、フライパンで炒ってたよ。」再び、30年前の話をしても笑顔すら戻ってこない。膝股ジーンズの男がアルミタンポとグラスを持ってきた。

 

私はグラスをもう一つ頼み、2つのグラス均等に酒を注ぎ、懐かしい池永さんに先ずは乾杯。
砂肝(100円)とスズメ(350円)が焼きあがった。痩せた小母ちゃんが練りカラシを皿の淵に添えて、私の前に置くのだが、何れの皿も串元が皿の右側にありどうも食べにくい。

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「でっかいスピーカーで今でもジャズ聞いてます?」
美味しそうな写真入ポスターが壁に貼ってあったので思わず枝豆(250円)を注文した。
だが、売り切れとの返事。

「ラグビーは?相変わらすスタンドオフですか?」
枝豆の替わりに冷奴(200円)を頼む。

「新婚旅行の折はお世話になりましたねー。伊万里で。」
カシラ(100円)。

「大三島で井戸堀り手伝って頂いた事覚えてます?」
焼酎お湯割り(350円)に切り替え。

「久米島沖から船舶電話で電話くれたでしょう?」
獅子唐(100円)。

「タンカーの船長とバスの運転手と何処が違うの?なんて失礼な発言いまさらながらお詫びします。」
モツ(80円)。

「杉田に越して来たときは、池永さんが軽トラックで駆けつけてくれたので大助かりでしたよ。」
レバー(80円)。

「庭の瓢箪、栗木のお家に持ち帰ってどうしました?」
ハツ(80円)。

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「あの時は驚きましたよ、だって、十字架の下で寝てるんだもの!冷たくなって。」
焼酎お代わり。

「賛美歌を歌いながら大泣きしてしまい奥さんをおどろかせてしまいました。」
豚タン(80円)。

「柴田さんには会えました? 五明さんは?」
鳥皮の煮込(250円)は初めての味だが美味くない。鳥皮は焼くに限る。

「杉田小学校のグランドでたまにボール蹴りをしてるんですが相手がいなくて寂しい思いしてます。なんで一人で逝ってしまったんですか?」

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肥えた小母さんがカウンターの向こうから私のもう一つのグラスを覗き込み、一向に酒が減っていないことをいぶかしみ出した。

頃合いだ。
グラスの冷えた熱燗を飲み干し、愛想の無い店におあいそを支払い、私は“八男坊新店”を後にした。

2005/11/14 升

あとがき
①旧八男坊と海鼠塀を共有している東側の蕎麦屋が年内に移転するそうです。
 伴いその2階建ての建物は解体されると聞きました。

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②本屈文に使用した画像は実際に私が携帯で撮影しました。
 当日店内から今回来られなかった仲間達にその画像をメールで送ろうとしました。
 ところが、何度試しても全て送信エラーの表示が出てしまうのです。
 アンテナは3本とも直立しているにも係わらず。

 私の肌は鳥皮の塩焼き状態に陥ってしまいました。
 ネット上に無事載るか非常に不安ながら筆を置きます。

③旧八男坊店舗概要に貴重なご報告を頂きました、海鳴会10期黒田・12期三宅・今宮、20期清水、各氏に感謝いたします。

③八男坊を出た私はいつもの様に道産子に向かいました。

道産子編
八男坊を後にした私はもう一つの伝説の店“道産子”を探しに徘徊した。

その店は私たちが清水を離れてから5年程あとに「もう歳なので店をたたみ引退します。」と、懐かしいママさんからお葉書を頂戴していたので、今あるはずも無い。
だが、店・建築物は界隈に遺跡の如く存在していても何の不思議も無いだろう。

巴町を3周した。

黒い瞳と黒い髪を持ちながら片言の日本語しか話せない若いお嬢さん達から町の角々で
「マッサージ、3ゼンエン。カラダゼンブスルヨ!ドウデスカ?」
とあり難い歓迎を頂いた。
「マッサージ、タダデイイカラオレガヤッテアゲルヨ。カラダゼンブシテアゲルヨー!ドウデスカ?」

誘惑を掻い潜り、巴町をあきらめた私は相生町裏通りに足を向けた。

末広鮨は開店休業状態だ。
“新世界通り” 路地とも窺がえる狭い飲み屋だらけの狭いアーケード。
入り口から3軒目の店造りに私は反応した。
アーケード内の殆どの店に灯りが付いていない中、“幸” と言うその店の看板がひっそりと白く光っている。

思わずドアを開けた私にカウンターの内・外から男女4人の好奇な視線が集中した。

が、その視線を跳ね返し瞬時に店内を私は観察する。
カウンターの幅、曲がり具合、席数、とまり木の後方にあるスペースはあの大きなジュークボックスを置くに十分だ。
カウンターの向こうの棚はダルマを並べるにふさわしい。

間違いない。
ママも藤沢も市役所3人組もそして私の仲間もいないが、道産子 だった。

「あのー、つかぬ事をお聞きしますが、この辺りに昔道産子と言うお店がありませんでしたか? 30年ほど前の事なんですが?」
「すみませんねー、30年前なら私生まれていませんので。」
40過ぎの小母さんがカウンターの中から笑顔で即答した。

“幸” の戸を閉めた私は “ラーメンの宴” を探しに更なる徘徊を続けた。

 

 

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2005/10/28

フィナーレはアレグロで(大八木の別れ歌)

アタックナンバーワンの「バレエ」ではなく、白鳥の湖の「バレエ」。 
五月「五日」ではなく、「いつか」来る筈。 
そう、この単語は 「か」 にアクセントを集中し 「れん」 は 「か」 よりも少しだけ下げ、やさしく発声するのが正しい読み方である。
決して「可憐」な花の抑揚を持って発音してはいけない。 

カレン』。

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国鉄清水駅前(1974~78)国土地理院

 1.
昭和52年。
清水駅前の県道を北に向かい、持ち込んだ太刀魚を刺身にして貰った魚屋の200m程先を西に曲がると、木造モルタル造りで灰色の古ぼったいアパートがあった。
太刀魚を刺身にする腕を持っていない頃のことである。
そのアパートの大家の息子さんは海洋学部の先輩で可愛い妹さんがいた。
時折、子供を抱いた近所に住む美しい若奥様の姿を見かけ、その素敵なうなじに学生たちは一様にドキドキしていた。

部屋の中は常に雑然とし、畳の上には電気コタツと60センチ水槽が置かれた小さな机があるほかは、家具らしいものは見当たらない。
水槽の中にはピンクの透明なテンジクダイと大きなウツボアナゴが混泳している。
この部屋に泊まったことのある友人の証言によると、深夜枕元でボタッと嫌な音がし跳ね起きて見ると、ウツボアナゴが畳の上でのたうちまわっていたそうな。

おもちゃの様なキッチンには使い古したアルミ鍋が備品として常設されていて、その部屋を訪れる人々に借主得意の“煮込み玉ねぎラーメン”を振舞う大事な道具となっていた。
その部屋の主、大八木悟は10分もの時間をかけ、札幌一番味噌ラーメンに玉ねぎを放り込みコトコトと煮る。
仕上がった麺はドップリと汁を吸収し焼きうどんと見間がうほどのボリュームになる。
これを冷や飯に乗せいただくのである。
 

そして、部屋の片隅にはいつもギターが転がっていた。
卒業もまじかに迫った3月のある日、コタツを囲んで煮込みラーメンをつまみに酒を飲んだ。
もはや、卒論を書くためにゼミを日参する必要もなく、既に仲間の何人かは就職先や実家へと清水を離れて行っていた。
大八木もそして私もあと数日の内にそれぞれの新しい道へ旅発たんとしていた。
窓の外には“なごり雪”がちらつき、ラジオではみゆきが“わかれうた”を歌っている。
大八木がいつもの様にギターを持ち出し、「自分で創った」とテレくさそうに、歌を歌いだした。

 

あなたに出会って僕は強く生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は逞しく生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は一生懸命生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで
さようならまたいつか会えるその日まで

 

途に倒れて誰かの名を 呼び続けたことはなくても 別れはいつもついてくる。

 

2.
平成15年11月静岡清水。
東海大学海洋学部海外水産開発研究会OB会(海鳴会)が、主席率が10%に満たないまま、おりしも学園祭で賑わう母校校舎内で堂々と進行した。
海鳴会にとって始めての試みであり、現役学生も多数参加する。
50を越えるOBと、倅と同世代の若者との懇親の場であり、幹事役の私ははなはだ緊張した。
式次第の詳細に至り綿密なシナリオを書き上た。

お開きは歌で締めよう。
グランドフィナーレの歌は既決されていた。
昔コンパの度に大合唱した歌だが、その歌に纏わるヒーローの到着が20:00になる。
16:00開幕の酒宴を延々4時間もの間“まとも”な状態で引っ張れるはずが無い。
途中、帰途に付く人もいるだろうし、泥酔者も現れる頃だ。
打開策は「中締め」を18:30に入れることで解決した。

そのプレフィナーレに使う歌に心当たりがあった。

「大八木、あの歌覚えているか?」 
「どの歌だ?」 
私は受話器に向かって歌い始める。

「あぁー、俺が作った歌やろ? 覚えとるがな。」 
「タイトルは何という?」 
「しーらん。たぶん始めからなかったかも。」 
「OB会で使いたいがいいか?」 
「なら、ギター抱えていかなならん。」 
「タイトルと歌詞を少し付け加えたいがいいか?」 
「好きにしたらええがな。」

会の中でもメジャーではないこの歌を知るものは恐らく数名だろう。
この歌の最大の特徴はしごく単純なこと。
すなわち、誰でもすぐに歌える。
だが、オリジナルフルコーラスを歌いきっても時間的に短すぎる。
初耳の人は、歌詞①を聞き流し、歌詞②はクチパクで、歌詞③でようやく口ずさむ、のが普通の行動パターンであろう。
この推測下では合唱が始まるや否や歌が終わってしまう事になる。
私は“いつか その日まで”とタイトルをでっち上げ、あくまでもオリジナルを尊重し歌詞ⅱ・ⅲ・ⅳ部分を加筆し、歌いだし(歌詞①)及び大合唱になっているはずの末尾(歌詞②・③)部分にオリジナルを移動した。

2003/11/04 18:30
「宴たけなわとなっていますが、ここで中締めを行いたいと思います。
本日は12期の大八木さんにはギターご持参で駆けつけてもらっております。
大八木さん御自作の歌にてまずは締めさせていただきます。
なお、お料理等まだまだ沢山残っております。
8時にご到着予定の方もおられます。
本会場は明朝まで借り切っておりますので、皆様お時間の許される限り引き続きご歓談いただきますよう、お願いいたします。」
台本どおりの司会挨拶の後、懐かしい歌声が流れやがて大合唱へと誘った。

 

あなたに出会って僕は強く生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は優しく歌うこと覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は熱く語るここと覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は遥か想うこと覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は逞しく生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで

あなたに出会って僕は一生懸命生きること覚えました ありがとうでももうお別れ
さようならまたいつか会えるその日まで
さようならまたいつか会えるその日まで

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3.
平成16年6月東京池袋。
東京都練馬区立開進第三中学校卒業21期生同窓会が、90%の高出席率の下、にぎやかに開かれた。
50歳記念を銘打ったお陰かもしれないが、40歳記念の時も同様で、とにかく異様な盛り上がりを呼ぶ。
幹事役グループの緻密な連携に毎回のように頭が下がる。

恩師のご挨拶、立食による懇談、写真撮影を滞りなく終え最後はお決まりの校歌斉唱の流れ。34
会場の隅っこでアコーディオンの伴奏が始まり、遠い昔確かに聴いた覚えのある歌を、驚いたことに私を除いた全員が声をそろえて歌った。

伴奏者は私のクラスメイトの一人だったが、彼女がキーボードを操れたことは知らなかった。
彼女の細い指先から次々と作り出される音の流れは、私の五感を圧倒する。
大きな眼は黒い瞳がその面積を占有し、小さな口元は微笑みを絶やさない。
小柄な体に大きく重たそうなアコーディオンをいともなく抱きかかえ、踊るように歌うように・・・。

校歌斉唱後もBGMを奏で続ける彼女に近づき、“アルプスの少女ハイジ”の主題歌を、思わずリクエストしてしまった。
500ルクスほどの店内で拝顔した50歳になる同級生のパホーマンスは、それほど私には“ハイジ”に見えたのだ。

 

4.
幼少の記憶で私はバイエルを卒業している。
さらに、その証拠として、とあるステージ上のグランドピアノにむしゃぶりついている蝶ネクタイに半ズボン・ハイソックス姿の私のセピア色の写真、さらには、そのとき録音したレコード盤まで現存している。 
この事実はゆるぎないもので、私 生涯の自慢の種として間違いなく墓の中にまで持ち込む覚悟である。
ところが、今の私は音譜がまるで読めない。
読めないのだから必然的に書けない。
ハイジさんと学び舎を共にした頃、通信簿の音楽欄は常に1であった事から中学時代既に音文盲に陥っていたことは容易に推察できる。

琉球王朝には文字がなかった。
従って、この国の歴史を遡る為にはクチ伝えあるいは同じ時代に文字を持っていた他国の古文書を資料とする以外方法がない。
話が出来るのにそれを記録することの出来ないもどかしさを琉球王朝の人達は気付いていたのか知らないが、私はこの歳に至り音譜を読むことも書くことも出来ない事に悲しみを感じている。
紙と鉛筆だけで自分の音感情を人に伝えられないからである。

聞けばハイジさんは音大ピアノ科出身との事だ。
「歌聞いただけで音譜を書ける?」 
「はぁーい!」 
「じゃぁ頼むよ。一つだけ気になっている歌があるんだ。」 
「OK!カセットでも送ってくれればやるよ。」

早速私は大八木氏に連絡し、その歌を録音して郵送するよう依頼した。
ところが、電話口では快諾したはずの氏からの郵便物が1週間経っても2週間経過しても届かない。
催促のメールを打ってもその返信すら来ない。
このままではハイジさんに対しても失礼に当たる。
業を煮やした私は我が肉声を持って対応する手段に出た。
だが、我が家でこれを実行すれば“お父さん やばくないー?”と家族総出で白い眼で見られるのは必至である。
当時の私は余命あと幾ばくか?状況の父親を抱えており、唐突に遺言を話し出したときに対応する為、常時車に小型録音機を搭載していた。
父親の入院先の病院とハイジさんのご自宅とは、東京環状8号線を挟み相対峙するほどの近さである。
私は病院に向かう途中、ギターではなくハンドルを握りながら、第三京浜爆走中の車内を録音スタジオとして使用した。

「なんだか君の声に似てるよー。雑音もすごいし。」
流石に耳が鋭い。
「昔からよく言われるんだ、俺と大八木の声がよく似てると。あいつのことだからきっと車の中で録音したに違いない。」

数日後、楽譜も作れしかも好きな楽器で演奏も聴ける優れもののソフトを購入したとのメールと共に、楽譜ファイルが送られてきた。
ファイルを開けいじくるとなんとメロディーが聞こえてきたのだ。
それは概ね私のイメージにそぐったものだったが、細かな部分において所々に違和感がある。
だが、それを修正する手段を私は持っていない。
ハイジさんとメールのやり取りの仲で“2行目の歌詞の く をもっと長く”、“3行目の り をほんの少し高く”など、音楽用語を全く知らないものが文字だけで表現していてもらちが明かない。

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とうとう
「あたしんちのピアノの前で君が歌ってみるしか方法はないね。」
と怒られる。
意を決した私は、ご自宅でもピアノ教室を開いているハイジさん宅におずおずとお邪魔しハイジさんの伴奏の下、直立不動の姿勢で歌った。
そう、東海林太郎の様に。
何回目かの独唱の後、
「あのねー!君のは歌うたび毎に音が違う。」
両の手指を鍵盤に叩きつけイ短調な不協和音を響かせながら振り返るハイジさんの顔は、中学時代私の通信簿に1を付けたあの忌まわしい音楽の先生に酷似していた。

あの時は音楽実技試験だった。
メロディーを奏でられる如何なる楽器を使用してもよく歌唱も可なり、と云う当時の中学生の試験としては幅のある素敵な内容だった。
カスタネットが唯一得意の私には選択肢は“歌唱”しか残されていない。
先生のピアノの伴奏の下、“春の小川”を私は声高らかに歌った。
突然、先生が両の手指を鍵盤に叩きつけト短調な不協和音を響かせながら振り返り
「あのねー!君の“春の小川”は演歌に聞こえます。文部省唱歌をなんと失礼な!」

「さー!もう一度歌ってごらん。」
ハイジ先生は優しい。
修正の鉛筆で埋め尽くされた譜面を前に再び鍵盤を叩き始めた。

「出来たよー!これでどおー?」
数日後に届いたメールファイルは完璧なものだった。
ところが、その翌日大八木氏から「ピアノの先生のご自宅宛、例のカセットを送った。明日には届く。少し遅くなってすまない。」
1ヶ月ぶりの返信である。この男には時間の感覚がないらしい。
約束を守ってくれた事には感謝するが、奴の肉声が記録されたテープがハイジさん宅に届いた瞬間、私は大うそつきになってしまう。これは不味い。

「お許し下さい。今まで私は嘘を吐いておりました・・・」

「着いたよー。ギター入りだったよ。でも、君の歌とまずキーからして違うよ!これじゃ今の楽譜全部書き換えだよ。君のと君のお友達の歌とどちらが本物なの?」
「ご指摘まことに恐れ入ります。お手数ですがテープのほうで改めていただければ幸いです。」
楽曲カレンは幾たびかの苦悩の山を乗り越え2004/08に楽譜として完成した。
もちろん素敵な改名はハイジさんの手による。

 

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5.
その後、何回かこの歌にまつわる仲間の集まりがあった。
“カレン保存委員会”と銘打った集まりの度「上京されたし。」のメールを作曲者に打つのだが、返信が全くない。
集まりは主役のいないまま開催されるはめになる。

平成16年11月には三鷹“文鳥舎”を使わせて頂き、ハイジさんのピアノそしてリエさんの篠笛による素敵なコラボレーションは名曲“カレン”の東京初演に花を添えた。
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平成17年9月に開かれた“カレン保存委員会”では多方面からのご出席を頂き、結果その翌日には楽譜と共にデジタルなメロディーがインターネットを利用して世界中に発信された。

世の中の急速なITの発達の恩恵を身近に受け感激覚めやらぬある日の未明、私は小用の為ベッドから抜け出した。
金魚が泳ぐトイレに一刻も急がなければいけない。そのとき充電器にセット済みの携帯が唐突に振動し着信を告げた。

11月14日金曜日に東京に出張します。夕方には自由になりますのでどこかで会いませんか。近隣の仲間たちと相談して連絡下さい。大八木」
金魚を背中に私はしゃがみながらメールを開けた。
とうとう奴が来る。
ようし、1ヶ月あれば盛大なコンサートが用意出来よう!深夜にも関わらず我が灰色の脳細胞がむっくりと動き出した途端、再び着信のシグナルが鳴った。

10月14日金曜日に東京に出張します。夕方には自由になりますのでどこかで会いませんか。近隣の仲間たちと相談して連絡下さい。大八木」
この男、1ヶ月も前の私からのメールタイトルをそのまま返信表題に使い、しかも1ヶ月も間違った連絡を送りつけて来たのだ。
しかも3日後に来るという。

東京駅八重洲口。
ビックエコー八重洲中央店(カラオケ屋)の狭い一室は大八木の生ギターの音色で溢れていた。
いつの間に練習を積んだのか学生時代よりもはるかに上手になっている。
NGを連発したがMDに歌声を収録した。

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私には別れうた唄いの影がある 
好きで別れうた唄う筈もない 
他に知らないから口ずさむ。


2005/10/28 升
あとがき
大八木氏の学生時代のアパートを再現するのに苦労した。
当時の仲間にも取材した。
ところが、或る者はアナゴだと言い、また或る者はウツボに違いないと言い張り、互いに譲らない。
しかたなく如何なる魚類図鑑にも掲載されていない“ウツボアナゴ”を登場させた。
取材にご協力頂いた今宮氏ならびに三宅氏に感謝いたします。
なお、大八木氏ご本人にも尋ねたところ「俺のアパートがどうした?」の返信が珍しく入ったきり、未だに沙汰がありません。

まことに勝手ながら、本文中『カレン』と同じ年に生まれた“わかれうた”(中島みゆき)の歌詞の一部を引用させて頂きました。
最後に、私の長年に亘る想いを実現して頂き、且つ、本文の校正に至るまでお力添え頂きましたハイジ先生には、<直立不動>にてこうべを下げます。031102041

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