カテゴリー「天草時代」の19件の記事

2018/12/19

築地は く の字に曲がる青春だった

セリ場や仲卸があった主な建物は、弧を描いている。

これは国鉄東京市場駅がかつて存在した事が大きな要因となっている。

線路がこれらの建物に平行して存在しており、これを利用した鮮魚貨物列車などが入線していた。

しかし生鮮食品でも貨物運送が貨物列車からトラックに徐々に移行し、その影響で冷凍車や活魚車などの貨車や鮮魚貨物列車なども廃止され、駅も廃止された。

―出典: ウィキペディア(画像も)

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1.

私が初めてそこを訪れたのは水産学を学んでいた大学の2年生の時である。

1年前を札幌にあった校舎で過ごした私は、南区川沿町の下宿を起点に山の上にあるラグビーの練習場とすすき野を行ったり来たりする、水産学と余りにもかけ離れた学生だった。

 

沼津市の国鉄原駅前の離れを借り、同級の中尾君から譲り受けたおんぼろのCB50で山の上に通学を始めた二年生。

付近はひたすらススキの原っぱと田んぼが広がり、請われて隣に住む小学生の家庭教師を引き受けている、すこぶる真面目な学生をしていたのだが、いまだ水産とはかけ離れた生活だった。

 

夏休み、CB50で練馬の石神井に帰省した私はふと思いつき、早朝の街道を都心に向かった。

地図を頼りに走り回りようやくそこに着いた時には既に朝の時間の終わる頃、周辺はゴミがうず高く積まれているだけだった。

 

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そこの商いは午前9時からではないことを教わり、ゴミの山の端っこに落ちていたメカジキの角を拾って帰った。

 

2.

次にそこを訪れたとき、私の生活の場は瀬戸内海の大三島にあった。

エビの養殖場に就職し、ひたすら技術屋に専念しその現場の例年の3倍量の車エビを生産した。

初めて迎えた正月休み、新幹線での帰省し、翌早朝そこに向かった。

会社が数日前まで毎日のようにエビを送っていたそこを見ておきたかったのだが、だれもいなかった。
年末年始はここも休みなのだと知った。

 

3.

その5年後、久米島に移った私はエビを作るだけでなく販売を含む一切を任された。
着任当初、車エビ養殖施設に不可欠な底砂が真っ白なサンゴ砂で、必然そこにもぐるエビもロウソクの様に白く、加熱した時の紅白の発色を重んじる車エビとしての商品価値を著しく低下せしめていた。

 

「大三島の時のエビは最高だったのになんだぁこれは!」
などと各地の市場に叱られ値が取れない。
同じ作業をし、同じエサ代を掛けても利益が上がらず悔しい思いをした。

オーナーと話し合い、島外のとある海底から黒い砂を運び白砂と入れ替えた途端、縞模様のはっきりとした車エビが仕上がった。


この処置でようやく市場で戦える商品を持つことが出来たのだが、どうしたことなのか、なかなか高値を得ることができない。

ああこの頃、何度築地に通った事だろう。

 

 

 市場の仕組み

国(農林水産大臣)の認可を得た市場を中央卸売市場と言い、都道府県知事の許可を得たものは地方卸売市場と呼ばれる。
いわずもなが、築地市場(東京都中央卸売市場築地市場)は国認可の範疇に入る。
市場で扱われる商品は青果物・肉類・水産物に大別されるが、以下水産物の場合について述べる。

中央・地方の別を問わず市場は、荷受(にうけ)と呼ばれる卸売業者と仲買(なかがい)と呼ばれる仲卸業者との間の売買で成り立っている。
そして商品は、いずれの市場でも、荷主→荷受→仲買→消費者の順に商品が流れるのが基本だ。

荷主とは一般的には生産者であるが、漁業者に限らず加工業者あるいは輸入商社等、個人・企業・団体を問わず万人が荷主たる資格を有している。
釣り好きのおじさんが岸壁で釣り上げたメバル3尾を上場しても、嫌がられるはずだが、全く問題ない。


築地には東京都から許可を受けた卸売会社(荷受)が
5社ある。
荷主は自由に荷受を選択し(複数選択可)、直接本人があるいは運送業者を介し、入札に間に合う時間に納品し、荷受にその商品の販売を「委託」する。
危険物や腐敗物等を除き、基本的に荷受は委託を拒否できない。


荷受は、委託された商品を差別して扱ってはいけないルールの中で、都道府県知事の認可を得た仲卸業者(仲買)に、競売(セリ)あるいは相対(アイタイ;双方の話し合い)で値を決定し販売する。

従って一般の者は卸売業者から直接購入することは出来ない。


荷主側から見れば、少しでも高く売ってくれる荷受に委託することが理想で、仲買は少しでも安く売ってくれる荷受けを選ぶのが当然で、よほどの信頼関係が成立していないと荷受業はやってられない。

この取引における荷受の収入は売値の5.5%(委託手数料)のみで、委託手数料を差し引いた金額を当日荷主に支払うのが原則で、一連の流れは逐次都道府県の設置した市場課に報告・記録される。
従って、荷主にとっては代金未払いのリスクがほとんど無い事が公認市場取引の一番の魅力となっている。

 

 築地活き海老セリ場の風景

ここで築地の活エビセリ場の様子をとらえた「東京魚市場卸協同組合」のサイト(こちら)の画像を二つ拝借して 説明を加えていこう。

市場に出荷される業務用活車エビの最小梱包単位は一般的には1キロで、体重別に選別された海老を段ボール箱に整然とならべ、上下を杉のおが屑でびっしり詰められる。
1㎏箱には中に収められた海老の尾数が表示され、更に6~8箱まとめてマスターカートンに収めて輸送する。

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築地ではセリ前に、各荷受けが荷主から委託された荷物からランダムにサンプリングし、おが屑を取り除いた重量・活着率を検品し、開封したまま、活力・色・殻の硬さ・身の張り・サイズが揃っているか等仲買に触らせて「下付け」を受けさせる。
開封された箱のエビはその後の生存率が低下するため、仲買が嫌がるのが普通で、この様な検品は築地以外の市場では例を見ない。

 

セリは午前5時の荷受業者の鳴らすハンドベルの音を合図におもむろに始まり、ふたつのグループに分かれて同時に進行する。
一つのグループは荷受二社が、今一つは残りの荷受三社が日替わりで一社ずつ順次ずれながら担当する。


小さな台に荷受A社代表の3名が登る。
中央が花形のセリ人で東京都の試験を通過した有資格者で、脇の
2名はその補佐。

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セリ人が立つ台に相対する階段状のステージには仲買が、許認可番号が大きく表示された帽子を被り、それぞれひいきの荷受が担当するグループに分かれて登る。

セリ人はセリ場の自社枠に並べられた荷物の順に荷主名とサイズ・数量を口頭で表わし、直ちに、仲買等はその商品のそれぞれ買い入れ希望キロ当たり単価を「やり」と呼ばれる指先で示す(参考画像)。
例えば
7300/kgは7=親指と人差し指を、3=中指・薬指・小指を、片手で繰り返し閉じたり開いたりして現す。

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セリ人は対する十数人の仲買人の表示している「やり」を瞬時に読み取り、同値の場合は更に競わせて一番高値を付けた業者にせり落とす。
荷受1社の持ち時間は扱い数量に関係なく8分間と定められている為、素人が全く分からないうちにあっという間に事が終わることになる。
すなわち、(3社×8分=)24分間で、2トンの入荷を平均7000円で売った場合、1400万円の売買が行われることになる。

 

当時の築地の活車エビの入荷量は平均2トン/日。
この2トン入荷時の平均相場7000/kgをボーダーラインとして、入荷量に応じて相場が上下する。
今日高値だったからといって荷主のほとんどが出荷量を増やせば翌日暴落するのが当たり前で、築地は特にこの傾向が強いのが特徴だ。
それをコントロールするのも荷受の仕事の内で、必然的に集客・集荷力の強い荷受に情報が集まる。


この理屈に気が付き、築地の5社ある荷受の内活エビの扱い量の多い2社にしぼり荷を送ることに切り替えた。
さらに、セリ人本人と毎日キャッチボールを繰り返し、セリ直前のエビの状態以外にセリ値を左右させる仔細な要因を見いだした。

すなわち、

 セリ台別
セリはふたつのグループに分かれて同時に進行する。
一つのグループは荷受二社が、今一つは残りの荷受三社が日替わりで一社づつ順次ずれながら担当する。
このため、集荷力の強い荷受が揃うセリ台に買い手が集中し、他方のセリ台より高値で取引される場合が多い。

 荷受けセリ順
当日の雰囲気で高値が先セリに来る場合と後セリに来る場合がある。

 荷物のセリ順
同一荷受の中でもセリ順(荷物の置き順)によってセリ値が変わる場合がある。
それぞれの荷受は入荷量や仲買の購入意欲など当日のセリ場の雰囲気を読み取り、予め荷主ごとに荷物を並べた順番でせり落としていく。
従って、よい荷受は尻上がりになるか尻下がりになるかを見極める力が要求される。

 最も重大な要素
入荷量の増減により昨日9000/kg 今日5000/kg等といった相場乱高下が当たり前の築地エビ市場の中で、暴落時でもさほど値が落ちないブランドのエビがいる。

仲買から先の流通は、荷主によって梱包された状態のまま未開封で高級料理店へ納品される物と、仲買の店舗の中で開封され活魚水槽に収められる物とがある。
後者の取り扱いを受けるエビは着荷状態が不安定など、検品が必要なブランドで死エビや活力のないエビが選別される。

前者の扱いを受けるエビは、仲買を通り越して料亭や三ツ星レストランのお墨付きを直接もらっている「客が付いた」と言われるものだ。
サイズがそろい色や身の張りがよく殻が剥きやすいのは当たり前で、何より死なない「活力」要求される。
「死なないエビ」はおが屑の中でも
1週間ほどは眠り続け、生簀の中ではほぼエンドレスの生命力を持っている。
死んだ物は車エビといえども「活」を売りにする店にとって「死なないエビ」は最大の魅力となる。

従って、当日売り切れないほどの量が入荷された日でも、明日でも売れる「死なないエビ」だけは高値安定で引き取られることになる。
そして、こうした質の良い海老を安定量連日継続して上場することが重要だ。

余談だが、その日の築地のセリ値は、荷受の手で各荷主のサイズ別取引単価が一覧表にまとめられ、即刻、全国の主要荷主及び主要卸売市場の関連荷受業者にFAXで送られる。
地方の市場はある意味で築地との集荷に於いての競合相手で、築地相場より安く売り続ければ荷物は来なくなる。したがって、多方面の市場に出荷先を持つ荷主はとにかく築地の相場を上げないと地方での相場も期待できないことになる。

ああ、何度築地に通った事だろう。

 

若気の至り

久米島内の増設だけでは飽き足らない会社は、竹富島及び種子島に相次いで養殖場を造り、数年後には、私が着任した当初のおよそ6倍の車エビを造り出す日本屈指の車エビ生産企業になっていた。

情報を多方面から集め、相場上昇のチャンスを機敏に掴み、博打の様に築地への出荷量を調整するようになり、いつの間にか、「お祭り男」の称号を荷受から頂いた時期もあった。

究極の出番は不謹慎ながら昭和天皇の「大葬の礼」の時だった。
平成元年
224日、新宿御苑から武蔵野陵で執り行われた国を挙げた儀式。
国家公安組織は対テロ対策の一環として、国内外から参列する来賓客が利用せざるを得ない羽田空港の到着貨物制限をも行った。
当日は公休日となり、市場も休市になったはずで、仔細は忘れてしまったが、結論として羽田に空輸されてくる海老を降ろせない日が一日(前日の
23日と思われる)だけあった。
当然、築地市場の入荷は、瀬戸内の一部陸送可能な地域の海老を除き、その日はゼロと予測された。

幾日も前からこの情報は我々を含む関係者に流されていたので、
「仲買は前日に買い溜めるから、当日は普通の休市日状態になる筈で、荷物を送っても下げ相場になるだろう」
と云うのが荷受の判断だった。

だが私は「お祭り男」だったのだ。
全国の市場間を、モグラの様に縫って走る、一部の業者しか知らないトラック便を秘かに手配し、築地に送る荷物を大阪空港経由で陸送し、閑散としたセリ場に久米島のエビだけを積み上げたことがある。


午前5時前、セリ場をウロウロしているといつの間にか荷受のセリ人に声をかけられる。
セリ後は一番暇な接待役の海老部の部長達に誘われ場内にある極上のすし屋でご馳走になる。
そのあと仲買の店を巡りウロウロしていると事務処理を終えたセリ人に捕まり、朝飯と称して彼らの社員食堂でクジラの尾の身の刺身を頂く。
更に、銀座に繰り出し、対築地専門であろう朝からやってる女性付き高級クラブまで連れていかれる。

久米島のスタッフ全員でセリ場見学に訪れ、荷受けに強請り車エビ料理店へ全員を接待させた。
朝まで友人と飲み泥酔したままセリ場に回り、「今日はね、久しぶりにセリ場に酔っ払いが来ましたよ」と、荷受けから全国の御同業に「聞かせ」られる。

だが、依然として私の造る海老は並の海老のままだった。
ああ、何も知らない若造だったのである。


.

隣国台湾から養殖車エビが連日大量に市場に出回るようになり、気候が似通っていて出荷時期が重なる沖縄産の車エビ養殖業界に大打撃を与えるようになった。

入荷量2トンで平均
\7000/kgで維持されていた築地の相場はあっという間に崩れ、国産もので\3000/kg\4000/kg、台湾もので\1000/kg\2000/kg、が当たり前になり国内養殖業者は経営危機に堕ちいった。
ちなみに、飼料費だけで
1kgの海老を造るのに少なくても2000円の経費が発生する。

 

同じ頃、車エビ養殖の発祥地である瀬戸内海や天草地方の施設で、ウイルス性疾病による全滅事故が相次いで起こり、国の栽培漁業センターや水産試験場及び大学等の研究機関が総出で対応したが、処置方が見つからないまま被害が数年続いた。
そうした末に、台湾産クルマエビによる価格暴落と病害によって西日本各地で倒産する養殖場が相次いだ。

そんな頃、倒産した天草の養殖施設を賃借し、会社は沖縄での損失を埋めるべく事業所を立ち上げ、生産を開始した。
ウイルスに侵されるリスクを伴うため、通常一年を要する生育期間を短縮し、台湾から未成熟な海老を購入し短期間養成して商品サイズにするという道を選択し実行した。

台湾産の海老はパッカーと呼ばれる梱包・出荷専門業者が不特定多数のオーナーの養殖池から海老を買い集め日本の市場に、パッカーの名義で送り込んでいる。
従って同じブランド名でも極端に云えば箱ごとに中の海老の状態が異なり、更に一様に色が悪い為、市場では二束三文で取引されている。

そんな海老でも日本の施設に収容後10日もすれば日本産れの海老と全く見分けがつかなくなる。
そればかりではなく、天草の半築堤方式と呼ばれる低密度粗放養殖法およびイカを主体にした天然飼料の利用のおかげで健康かつ身の張り・色目の抜群な海老に仕上がった。

 

 トップブランドへの道
沖縄で要求された配合飼料利用の高密度養殖下では造りえなかった「見事な海老」を造り得た私は、それを大切に売ることだけを考えた。

各市場の荷受はセリ当日の早朝に荷主に対しその日の仕切値(セリ値)を報告する義務がある。
これを「聞かせ」と云うが、ほとんどの場合電話を利用する。

余談になるが、「聞かせ」の数日後に送られてくる伝票「仕切書」の数字が口頭の「聞かせ」の数字が異なっている事が稀にある。
その総てが「聞かせ」より「仕切書」の値段が安いもので、荷受けの担当者個人の犯行だ。
すなわち、高く売る力がないのに継続して荷物が欲しい場合に使う詐欺行為で、発覚されると担当者は首が飛ぶ。

「聞かせ」の口上は担当者によりまちまちだが、セリ値報告以外に当日の海老の着荷状態やセリ場の雰囲気そして翌日の入荷量予想等を連絡する。
そして、こちらの作業状況を確認して「明日も宜しく」と終わるのが普通だ。

高く売る為の鉄則を実践しながら出荷を初めてひと月もしないうちに、築地のセリ人の「聞かせ」に変化が訪れた。

「今日は大暴落!メチャメチャでした。でもマスさんの海老はいつも通りお客さんが付いているから大丈夫。」
という言葉が聞かれるようになった。


築地のトップブランドになった瞬間だった。

 

異変は2年目に来た。
ウイルス禍がとうとう台湾の海老におよんだ。
春先から台湾の養殖場の海老がバタバタと死に、辛うじて天草の施設に種苗を入れ終わった頃には、ほぼ北部の宜蘭から南部の高雄に至る台湾全土は全滅状態に陥っていた。

前年まで国内消費量のおよそ7割を占めていた台湾産の海老の入荷が皆無になり、必然的に国内相場は久しぶりに高騰した。
連日¥
8000/kgを上回る日々が続き、そうして最も活き海老の消費が増える正月を迎える時期が来た。


再びの余談になるが、¥
8000/kgで売れた事を「聞かせ」で報告する場合、市場関係者は略して「ハチマル」と言う。8100はハチイチ、8200はハチニイ、8300はハチサン、8400はハチヨンと続く。ピンマルは10の意味だが1000 or 10000かは品物や前後の流れで判断するのが慣例となっている。

さて、年末、全国の中央・地方市場の営業は30日が最終日で年始は5日からとなっている。
この日は在庫が置けぬ為受注分しか買わない仲買が殆どで、
29日のセリで仲卸の「買い」が終わると云っていい。

天草に入って二年目のその朝、受話器から聞きなれた築地T水産のOさんの「聞かせ」が始まった。
25本型(25尾/1㌔)、サンニイ」
とさらっと云い、
30本型 ニイナナ、40本型 ニイニイ」
と続けた。

前日の28日までハチマル以上の相場を維持してきた築地が大暴落かと、声も出せない私にOさんが笑って、

「三万ですよ!さんまん。築地最高値を更新しました!」

 

数ヵ月後、倒産した企業から賃借していた「宝の海老」を産み出す養殖場の賃貸契約更新が銀行等債権者の同意を得られない為、事業所を閉じた。
私の車エビとの拘わりもこの時終わった。

 

5.

平成3010月6日。

今日の午後12時をもって80余年の歴史を総て閉じる築地市場をおとずれたのは11時過ぎ。


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新橋駅から朝日新聞社ビルを回り浜離宮恩賜公園前を通過して「やっちゃば」側から向かう。
信号が青になったのか、歩道の向う側から道幅いっぱいに人の群れが湧いて出て来た。
大半が日本語以外の会話で膨らむ人の群れに仕方なく呑みこまれながら市場のゲートを通過する。

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乾物屋や調理器具を扱う小店が立ち並ぶ迷路の様な小路を押しつ押されつ進むと、広大な広場(駐車場)に出る。
その向こう側が懐かしい、建物が「く」の字に曲がる、水産関連棟が立ち並んでいるのだが、警備員が周りを固め、「この先一般の人は入れません」を連呼している。
平時は観光客も含む一般の人の見学入場を許してきた市場も、閉店作業と大田市場への引っ越し作業とを同時に行う、喧噪の日の安全を配慮した入場制限で仕方ない。

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25年前まで市場関係者であった私の平然と歩く姿を見咎める人はいない。
仲買表店の半ばはいまだ営業を続ける中、裏では83年分の大量のごみが吐き出され、さっきまでセリが行われていたはずの空間に山を作っていた。

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セリ場には同じ間隔で上に上る階段がある。

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人の靴裏で丸くえぐられたコンクリートの階段は歴史の重みを語っている。

Pa0616182階には荷受5社の管理部事務所が戦前の建築模様のまま、

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3階部分には営業部の事務所が連なっている。Pa061620

築地最後の昼食の準備をしていた社員食堂のキッチンには、揚げたての大きな海老天が積み上げられ油が切られていた。

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こんな日だから奮発して活車エビを使ったに違いない。

2018/12/19 舛

 

 

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2006/12/23

アサリの芽 13

夏が来る前に決めた事があった。
単身赴任を5ヶ月も続けると、先ず、“家事”がいやになる。

最初の事務員は、本社・経理担当の人が“この人すご~い!”と唸るほどの資格保持者で二十歳のポッチャリ顔の女の子だった。
が、“男”がいたらしく、早々に3日間の無断欠勤を問い質した途端いなくなった。
新聞折込で募集を出し、応募があった2名の内の一人。
特に若い方を優先採用したワケではないのだけれど。

2代目の事務員に迎えた女性(前回応募で落選したもう一人の人に失礼を承知で事情を説明し、有り難く入社頂いた。)は、若いながら3人の子供を持つ主婦で、底抜けに明るい。
よく気が付く人で、私の潜水作業後の風呂を沸かしてくれるし、たまには昼食を作ってくれたりもする。
素顔はキツネ顔だが眼鏡をかけるとDr.スランプのアラレちゃんに変貌を遂げる。
加代ちゃんというのだが、ある日、素麺を茹でている最中に鍋をひっくり返してしまったらしい。
ジーンズに熱湯がかかり慌てて脱いで流水で冷やし、素麺を完成させた後、病院に行ったという。
その間、パンツ1枚の姿で事務所内を徘徊していたらしいが、残念な事に私は目撃していない。

夜は夜で、近くのマスミさんやハルさんが、“作り過ぎた”コトを言い訳に、煮物や天ぷらを差し入れてくれる。
流石に洗濯と皿洗いは完璧にこなしていたが、億劫で仕方がない。
私が単身で生活している事により少なからず他人(スタッフの女性陣)に不要な気を遣わしている筈なのだ。
何とかしないと!

世の中、様々な単身赴任の姿があるのだろうが、そのほとんどは都会に家族を残し旦那だけが他所へ赴く。
出稼ぎも単身赴任の一つの形だが、この場合は古里に家族を残し旦那が他所へ赴くのが普通だ。
私の場合、北海道出身の女房と瀬戸内生まれの子供2人を沖縄の離島に残し、東京出身の私だけ天草にいるという、実に奇妙な配置の中にいた。当初の予定では、久米島・天草双方を私が行ったり来たりする目論見であったが、現状はそれが叶わない。

 

子供たちの“転校”だけが唯一の気がかりだったが、夏休みを利用して、家族の転居を敢行した。
久米島から主に営業を担当して貰っていた後輩(清水くん)に来てもらい、入れ違いで帰島。
荷物をコンテナに押し込めた晩は、久米アイランドのスウィートルームに厄介になり、カタマラン上でのパーティーが嬉しかった。


養殖場に同居することを提案したが諸般の事情で棄却された。
知人経由で紹介された引越し先は敷地100坪の中にあった。
北西の角に二間幅の玄関があり、細い格子の入った擦りガラスの引き戸をくぐれば土間だ。
すなわち、家の中に地べたがあるわけで、その古さをまず入り口から語っていた。
土間の向こうのかまちの端から梯子様の階段が玄関先の方角に向け掛けられており、太い梁が剥き出しの、二階とも・屋根裏とも・中二階とも言える薄暗い空間へ伸びている。
かまちを上がると台所との間に6畳間があり中央の畳を上げると囲炉裏が封印してある。
居住空間は田の字に襖で区切られていて、天井が高く、畳も床の形に合わせたあつらえ物で気持ちのいいものだが、使い勝手としては非常に悪い。
南および西側は幅1間の縁側で囲まれ、日向ぼっこには最高だ。

東側は崖っぷちが迫り視界の障害となるものは何もなく、面する台所・風呂場の窓を開けただけで、不知火海を望むことが出来る。
子供たちがこれから通う小学校もやはり台所から見渡せ、田んぼのあぜ道を子供の足で歩いても10分で、家族も気に入ってくれた。
ここまでは理想的な子育て環境なのだが、あとが少しだけ具合が悪い。
この辺では「すぐそこ」とは車で20分ほどで走れる範囲をいう。
メートル法に変換すると15キロの道のりを、しかし、歩くと4時間ほどかかり、往復するとなるとほぼ半日を消化する事になる。
唯一の公共交通手段であるバスは1時間に1本。
スーパー(ニコニコ堂)は“すぐそこ”だし、養殖場も“すぐそこ”なのだが、ペーパードライバーの妻に10年ぶりにハンドルを握らせるコト、が より文化的に生活する為には不可欠だ。
さっそく、元教習所教官の私は久しぶりに教官席(助手席)に陣取り、路上教習を実施することになる。

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自宅は地図右側の阿村小学校付近の借家

家族の引越し以降、私は毎日養殖場へ通う生活に変った。
帰宅時間は19時。
風呂を使い夕食を喰らった後、21時にただ寝る為だけに職場に出勤(まいもどる)する日々となった。
以前よりなんだかややこしい。
夏休みの間は昼前に妻が子供たちを乗せて車でやって来て昼飯を作る。
現場が忙しければ、女房をそのまま“パート”のオバサンとして使い、子供たちは事務所で加代ちゃんと遊んでいる。
なんだか前よりいっそうややこしい。

 

そんなある日の午後のこと、
「奥さん、状況を察するに、まだ天草観光もしていないでしょう。宜しければ私がご案内します。お子さんもご一緒にどうぞ。」
家族は、私を仕事場に置いたまま、竹山の運転する白いベンツの後部座席に消えた。
2006/10/05 升

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アサリの芽 12

腹節を取りまく暗紫色の太い横縞が6本。
頭部の中腸線直上にも同色の大きな斑。
縞と縞を繋ぐ薄陶色。
何よりも尾や歩脚の先端の彩の鮮やかなこと。
青と黄色のコントラストが動物の持つ色彩とは思えない、虹色を呈している。

その美しい身体を冷たい指先で摘み上げた時、背側にグイッと反り返るモノ。
肉がはち切れんばかりに充満し、甲殻がカブトムシの様に固いモノ。
セミの様ではいけない。

いい海老の見分け方である。
そして、活き海老である以上、輸送用のオガクズの中さらには店の生簀の中で何日活き続けられるかまでもが、購入者にとって必要な条件となる。

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台湾産や沖縄産の海老が一段落する6月から秋口にかけてが、当時の活き車海老流通の端境期である。
亜熱帯地域からこの時期活きたまま海老を運ぶには相当のリスクが伴うためだ。
例え出荷可能な海老を持っていても高温下の輸送途上で衰弱し、せり場で叩かれる。
従って、高温期以前に出荷を完了するのが常套手段で、奄美諸島から台湾に至る産地の市場入荷は5月のゴールデンウイーク明けの声を聞くと共に収束に向かう。

これら亜熱帯地域からの入荷は築地市場だけでも日々3tを上回っていた。
生産者を辛うじて潤す海老の相場を維持する為の上場量ボーダーラインは、国内最大の消費地築地と言えども僅かに2t/日。
そこに国内各地からの入荷も含め4tの荷物が連日押し寄せてくるのだから、必然的に相場は低迷を続け、荷主(生産者)にとっては辛うじて餌代を賄えるだけの水準に否応無しに落ち着いてしまう。

ちなみに、1㌔の海老を生産する為には、人類が直接摂取可能な雑小海老・イカ下足・雑魚・雑貝など㌔120円程度で買える“生餌”を16㌔、あるいは、“生餌”を単に、乾燥→粉砕→添加(植物タンパク・油脂・ミネラル・水)→混合→圧縮→裁断→乾燥しただけの㌔650円の“配合飼料”3㌔、を飼料として海老に与えなければならない。

いうなれば、これ以上の歩留まりの悪い水産加工はないのだが、本題と逸脱する展開になる為、異なる機会にこの重大な問題について改めて報告するにこの場は留めたい。

さて、5月まで潤沢な入荷が継続した亜熱帯産の海老が収束する6月以降、日本国内で流通される活き海老は、種・屋久島以東の列島各地の養殖もの及び天然漁獲ものに限られる。
しかも、最も養殖歴の長い天草・瀬戸内地域は度重なる疾病被害の為に青色吐息。
築地の入荷量は予想通りあっという間に2tを大きく割り込んだ。

 

苦労して運んだ海老も細菌性疾病(ビブリオ)に羅したものの、まずまず仕上がっている。
「そろそろ銭にするべょ~。」

 

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高水温期、出荷する海老の状態の良し悪しは池からの水揚げの瞬間に決定される。
養殖池からの取り上げ方法は様々で、定置網・流し網・底引き網(電気網)など、養殖池の形態や規模、時期に合わせて用いられるが、暑い時期は籠網に勝るものはない。
籠網とは餌の臭いで海老を誘導し入ったら出られない所謂“ネズミ捕り器”様のトラップのことで、脱皮直後の海老は入らないし、網の目合いの調節で基準以下のサイズの海老を網目から逃がす事によって選別能力をも備え持っている。

夕方に籠の中央部にサンマなどを切り身にしてぶら下げ、漏斗状の開口部が水流の下手になるように池底に投げ込んでおく。
これを翌朝回収すれば海老がギッシリ入っていると言う寸法だ。
いきなり水から引き上げられた海老は、我が身に何が起こったのか?一瞬はおとなしい。
そして、そのまま放置すると次の瞬間には一斉に跳ねる、バケツの中でネズミ花火が数百同時に破裂したかの有り様で、うっかり素手を入れようものなら、体の各先端にある鋭い剣先に突かれ、血だらけ間違いない。
こうして気中で一度暴れた海老は、透明であるべき筋肉が白濁し、その後如何なる処置を施しても活力の低下は治癒しない。

“暴れ”を抑制する手段は唯一“冷やす”事。
私たちは池水温よりも10℃以上も低い海水を作業船に用意して、池から揚げた海老を間髪入れずにこの冷水に収容する。
「うっ!」、海老はたちまち眼を回し? 体を“海老の如く”曲げ、横転する。
腹足だけはユラリユラリと動かしている。
観賞魚取り扱いマニアルの基本である“水合わせ”を全く無視したこの処置こそ海老を高く売る最初の秘訣なのだ。

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更に海老を高値で販売する秘策を私は持っていた。
築地市場には“海老組合”と称する活き海老をセリで購入する仲買達が作った組織がある。
“海老組合”の要求で各荷受は、その日に上場する海老を荷主ごとにランダムにサンプリングして、オガクズを落とし重量・生残率などを検品して開示しなければならない。
目方のないものが叩かれるのは当たり前の事だが、生残率が最も厳しく相場に影響する。

例えば、1㌔で40尾入っているサイズの海老で生残率100%の場合の相場が¥10,000/kgだとすると、1本死んでいた場合は9,000円、2本死んでいると8,000円にまで、何の遠慮もなく下がる。
そして、築地の荷主別のセリ値が2時間後には表にまとめられて、全国の業者(荷主や荷受)にFAXで送られる。

これは荷主にとってかなりのプレッシャーとなる。
完璧な海老でない限り築地で勝負できなくなるのだが、私はこのシステムを逆手にとった。

活き車海老は1㌔当たりの入り数(尾数)が10の単位でそれぞれ別物の値動きをする。
大きさによって用途が異なる事及び入荷量の差の為なのだが、それぞれ10本サイズ・20本・30本・・・60本・・・・100本サイズと表示され、通常、大きいほど高値が付く。

問題はその隙間の海老。
例えば、1㌔で45本の海老はどうなるの?なのだが、築地の場合は当たり前の様だが40本と50本の間の値段がつく。
ところが、その他の市場ではこの部分が曖昧にぼやける。49本と40本ちょうどをおなじ物として売る市場が多々ある。
そして、25gの海老の方が20gの海老より高く売れるのが普通だ。そこで、、、

①出荷場で㌔当たり39本・48本・57本になるような選別をする。
②その他の市場には①をそのまま出荷する。
③築地に出荷するものはそれぞれ1~3尾をプラスして、40・50・60本丁度にして出荷する。

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Abaut40・50・60、築地の流す情報に表示されない曖昧な“下一桁”を、巧みに操るいかさま師のなせる業。
これが作戦のシナリオだ。ところが、、、
「まっさん! そぎゃん難しいコト、うちらようせんわ。まず、あんたがやって見せて。」
作業船上でひっくり返ったままの海老を平然と出荷場に持ち帰った私を既に斜めの目線で見ていた春さんが、『この海老を39本・48本・57本サイズに別けてね。』と云う私の指示に対する代表意見を述べた。
初めての出荷作業なのでやっさん・ヨシさんも応援に駆けつけてくれている。
「なんと情け無い。あんたら生まれたときから海老と付き合っているんだろうに!」

冗談を飛ばしながらも指先だけは緊張し選別作業を始める。
籠の中には50gから15gの海老がごちゃ混ぜにひしめいている。
まずそれを大まかに大・中・小に別ける。
それを更に二つに別ければ6段階の選別ができる理論なのだが、ここから先が味噌になる。
我が心臓の鼓動を聞きながら、“中”を別け終わる。
「よし!ますみネェサン、これ1㌔計って数かぞえてみぃ。」
「よかよ~、ひー・ふ~・み~、、、」おどけた大きな声は、だが次第に小さくなり、最後は無言。
「うそー!48本あったよー!」
はったりがまかり通った瞬間である。

築地市場を単なる広告塔と位置付けている為、各サイズ最小梱包単位(1k×8)の出荷に留めるのが鉄則だ。
例え相場が低迷しても荷物を止めてはいけない。
その結果、活着率100%且つ入れ目も十二分に入った“丁度”の入り数で、体色・体硬バリバリの海老は、たちまち築地相場筆頭の最高値を得る。

その情報があっという間に全国に流れる。
その他の市場は常に築地の相場とのにらめっこ、市場間競争に負けると荷物が来なくなる。
そして、、、
「えらいすんません!今日は完全に負けました。明日は頑張りますサカイ明日も積んでや!」となる。
さらに、その状態を1ヶ月も継続させるとブランド品の称号が与えられる。
相場に関係なくその海老を買う仲買が現れてくるのだ。

暴落して平均相場が7,000円を下回った時でも我が海老だけが1万を越えたままで推移しだした時、竹山から電話が入った。
「凄い海老になりましたねぇ。贈答用に少し分けてもらいたかったのですが、お宅のこの相場じゃ手が出なくなりました。」

市場相場より高い値段でも、奴だけには、売る気は毛頭無かった。
2006/08/30 升 

画像は全て久米養殖㈱インスタグラムから拝借しました。

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2006/06/11

アサリの芽 11

水温が上昇してくると夕方の時刻は忙しくなる。
光合成の最終産物である酸素が、飼育水中の植物プランクトンをはじめ付着性藻類や光合成細菌などから、日中多量に排泄される。
その結果、海水の平均飽和溶存酸素量およそ6.5ppm(水温により変動)を上回り晴天時には15ppmに達する事もある。
魚類の幼魚にとっては気泡症(血管内に酸素の泡が出来て血栓する)を起こし、致死する場合もあるが、甲殻類には直接弊害はないようだ。

酸素が過飽和になると海水に溶け込めなくなった酸素が水中のあらゆるものに気泡となって付着し始め、気泡に取り囲まれた比較的軽いものは水面に浮き上がってくる。
池底の、海老の養殖には障害となる、多細胞藻類や海老の排泄物等が日暮れ時にポカリポカリと浮いてくる。
この浮遊物(私たちは“アク”と呼んでいた)の排除こそ底層の浄化に欠かせない自然の恵みなのだ。

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その日、5号池のコーナーに風で吹き寄せられたアク(肥溜の内容物と見た目同じ)をタモ網で掬い取り、飛沫を顔に浴びてしまったますみ姉さんを笑っている時、彼女の顔が突然こわばった。
眼が北を凝視している。
振り向いた皆が見たものは、対岸の山から海に流れ落ちるおびただしい黒い雲の塊だった。
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15年前の今日、6月3日 16時過ぎの事だ。
合掌。
2006/06/03 升

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2006/04/09

あさりの芽 10

すべての準備作業を完了し、緊急支援隊を解散、皆それぞれの“島”に戻って行ったのは4月の中旬。
ここからはレギュラースタッフだけの操業になる。
メンバーは、そのまま残した日大農獣医学部出身1名、当該賃貸借契約の賃貸人前田善の長女ますみ、次女ひとみ、前田匡康の妻はるみ、新聞折込で募集採用した二十歳の事務員、それに帰れなくなってしまった私、の6名。

12㌶の養殖場を6人で何が出来る?と言われそうだが、こんなもんだ。
出荷時期及び池掃除時期以外の仕事は基本的には一日一回の餌やりだけなのだ。
生や冷凍の魚介類を餌としていた時代は、ムラサキイガイの殻を一日何トンもクラッシャーで潰したり、冷凍アミエビ・徳島エビやイカげそをカッターで割ったり、いわゆる調餌と呼ばれる作業が一日の作業の中で大きな比重を占めていたが、配合飼料の使用比率の向上と供に大幅にその負担が軽減している。

朝一番、池に潜水し、海老の出現および昨日与えた餌の残り(残餌)の有無を観察する。
何れも「確認されず。」がベスト。
へい死海老は拾い揚げ、ヘドロなど底質状態を把握する。
健康な車えびは日中砂に潜っているため、例え1平方メートル当たり200尾の海老を養っていようとも、人間の肉眼では砂しか見えないのが当たり前だ。
一方、残餌が見られる場合、結果的には投餌量過多なのだがその結論に至るまでの物語を正確に把握する事が肝要だ。
環境悪化(水温低下・酸素欠乏など)あるいは海老の生理的変化(脱皮・疾病)による摂餌量の減少、投餌した餌の不具合(イカの耳や底棲魚は好まない・浮き餌の沈殿)や海老の逸脱事故も思考の範疇に入れておかなければいけない。
残餌と海老がいずれも散見されるような場合は非常事態であり、瞬時に適切な処置を施さないと数時間以内にその池の海老は全滅する場合すらある。

 

潜水作業は私と農獣医学部の二人交代で行っていた。
農獣医学部は1年ほど前、フラーと久米島に遊びに来て
「この島が気に入りました。養殖の知識はあります。仕事させて頂けませんか?」
で、見ず知らずではあったが採用した経緯がある。
天草移動決定後久米島に一旦もどり、家財道具を車に積み込みフェリーを乗り継いで再来していた。
私と同じく事務所兼宿舎の一室で寝泊りしていたが、松島温泉街の飲み屋の3階にアパートを借りたと言い出した。

宿舎にいる限りは家賃無料だが、アパートは全額個人負担になる。
“ようやく奴も天草定住を決め込んだな! これで俺は当初の目論見通り再び自由になれる。やれやれ。”
とほくそ笑んだ矢先のこと、
「あのー、親に話したら“いつまでも遊んでないで帰れ!”と言われました。なんでも、仕事も探してくれたようで、すみませんがここ辞めさせてもらいます。」
「アパートはどうした?」
「解約しました。」
若いことはいいことだがなんとも簡単なものだ。
3日後の夜、いつもの様に私の作った夕食を供に無言のまま口に運び、そして奴は出て行った。
雨交じりの生暖かい横殴りの風が吹く夜だった。

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また一人になってしまった。
池全体が見渡されるキッチンの奥の6畳間(きっと前の管理者の居室であろう)で一人ポツネンと寝て起きる。
カーテンを引かない窓が明るくなれば起床し、先ず池を見渡す。
夕飯の残り物のアサリの味噌汁とメバルの煮付けで朝飯をかき込み、風呂を焚く。
階下に降りて池を一巡するのを日課にしていたが、満潮に重なるとそこは唯の海なのでいつの間にかその日課は消滅した。
風呂が沸き、ウエットスーツ姿に変身を終えた頃にはハルさん達がやってくる。
「3号池の樋門の網、牡蠣取りしようね。後で合流するから交換のタンク持っていといてね。」仕事を創り、私は海中の人になる。

水から上がり、自ら焚いた風呂に入り、朝飯の残りのアサリの味噌汁とメバルの煮付けで昼飯を食い、海老に餌を撒いていると夕方になる。
大潮の干底ならば終業後樋門の外でみんなでアサリ堀。
ついでに昨日入れたトラップから特大のメバルを揚げる。
今夜は珍しく、アサリの酒蒸とメバルの刺身。
そして寝る。

 

ある朝、松の悲鳴で起こされた。
それは紛れもない悲鳴だった。
松は以前からこの養殖場で飼われていた番犬だ。
柴犬の雑種で白地に茶色のブチが入る雄犬だ。
人の残飯なら何でも食べる雑食犬だが中でもアサリの味噌汁を飯の上にかけたものが好物で、見事な舌捌きでアサリの殻だけを残す。
2階の事務所兼居住区へ登る外階段の下に簡単な小屋がありそこが松のネグラだ。
世話は近くに転居したハルさんがしているし、こちらの方も多少は心強いので経営移転後もそのまま置いていた。

犬は攻撃を仕掛けられると先ず鼻頭にシワを寄せ、牙を剥いて低く唸り相手を威嚇する。
攻撃の度が過ぎると“キャイン、キャイン”と悲鳴に変わる。
松の悲鳴に飛び起き、事務室の窓から下を窺がうと、見覚えのない黒塗りの大きなベンツが養殖場の入り口を塞ぐように頭から斜めに突っ込んでいる。
フロントグラスまでもシャドウが入っている気持ちの悪い塊だ。
このたぐいの車を使用する職業は極めて限られており、私にはその黒い塊が如何なる目的を持って訪れたのかも承知していた。
階下に降りると黒ずくめの男が二人大きな声で吼えている。
その声の先に、しゃがみ込んで背中を向け、松をかばって抱きしめているハルさんがいた。
男の一人の手には何処で拾ったのか棒が握られている
。恐らくその棒で松を小突き廻していたに違いない。

「春さんどうかしたか?」
振り向いたハルさんの眼が濡れてる。
「どちらさんで?」
「お前か沖縄から来た若い衆ちゅうーのは。だが、お前には用はない。この婆さんの旦那に用事がある。」
「だからおらんちゅうとろうが!」
ハルさんも気丈だ。
謄本上の債権者は真っ当な銀行筋ばかりだが(浅海開発㈱を除く)、闇でも相当な金額の借金があるとは竹山から聞いていた。
「あのー、何処のどなたかも存じ上げませんが、前田水産さんの金銭的な事は浅海開発の竹山さんが全て管理していると聞いておりますが?」
「たけやまぁー、知らんなそんな奴。」
2006/03/10 升

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2005/12/12

あさりの芽 9

日本中の水産卸売市場は条例で定められた日を休市としている。
日曜祝日は勿論のこと隔週の水曜日がそれに充当するが、逆に、連休の最中や年末など臨時開市と称して特定営業日を設けている。
全国の市場は情報・物流のネットワークで結ばれており、一市場の単独営業はリスクが多く困難と言える。
ところが、日本の地図的へそであるタコで有名なA市の市場はへそ曲がりで、日曜日を営業し木曜日を休む。

休市日は当日の市場内(荷受側)労働者は基より、前日は出荷者(荷主側)、物流関係者は両者を繋ぐ時間帯が休息日になりえる。
荷主はただの1軒とはいえへそ曲がりを相手にしてしまうと休みが無くなる。 
A市中央卸売市場はタコだけを扱っているわけではなく海老も扱う。
通常営業日の活き車海老(マキ海老)の扱い量は100k程度なのだが、日曜日には2~3倍の扱い量に膨れ上がる。
前日の土曜日に仕入れそこねた客がA市内だけでなく遠方からも遥々買いに来るのがその理由だ。

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へそ曲がりはにおいで互いを識別し肩を寄せ合うのか、私はこの市場とお付き合いをしてしまっていた。
市場と総じているが正確には当該市場内卸売り会社との取引である。
当初は安藤と言う牛乳瓶の底眼鏡をかけたドスの利いた声を持つ小父さんが担当だったが、彼は関西人特有の“おどし”で荷物を呼ぶ(集荷する)。「えーでっか、升本さん。明日30甲積んでや、1甲でも削ったら付き合い止めさせて貰いまっせ!」
別に脅迫される様な弱みは掴まれていなくても、言いなりに出荷しないと“どつかれる”雰囲気だ。
半ば、してやられた気分でいると翌日の“聞かせ(せり販売報告電話)”は「まわしのピン丸(平均販売単価1万円/kg)。どがいでっしゃろ。」で仕切ってくる。通常営業日の相場が7千円の時である。
やがて、安藤氏が部長に昇格し、担当が氏の一の子分である黒石と言う坊主頭に替わってもこのあやしい関係は継承された。

休日出勤のリスクを吹き飛ばすこの蜜の様な美味しい市場は、有志の同業他社から当然狙われる。
何故、升本が休日にせこせこ働いているのだろう?きっといい話に違いない。
私の出荷先を荷札から看破した彼らは当該荷受に相場を問い合わせる。
問い合わせの電話を取った瞬間から黒石氏は“卸売市場法”を犯す罪人に変わる。
すなわち、あらゆる出荷者に対し公平にあるべき事が義務とされる荷受の彼らが、相場を低く改ざんして問い合わせに対する回答とするのである。

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それでも諦めずに一方的に送られて来た荷物はごみ同然の価格で売り飛ばしてしまう。
普通の荷主はその市場には二度と積まなくなる(出荷しない)。
独占禁止法に触れそうなこの荷受のマキ海老に対する荷主は、2社に限られていた。
その一つが久米島養殖であり、いま一つはカネ宮水産なのだ。
安藤・黒石両氏は沖縄最大大手と天草最大大手の養殖業者から各出荷時期を上手くコントロールして周年に渡り市場を牛耳っていたのだ。
平等に開かれた公設市場にあって消費者にとってはある意味で好ましくない現象とは言えるが(良品の安定供給はメリットとなる)、荷主及び荷受の利益追求にとっては理想的な蜜月関係と言える。
黒石氏は氏にはもったいないほどの美しいご婦人を伴い、ハネムーン旅行で久米島を訪れたほどである。

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当時のカネ宮水産は疾病害により廃業に追い込まれた天草周辺の同業者の施設を買収あるいは賃借し、急激に生産量を上げていて市場への影響も強力なものであった。
対する我々は久米島を筆頭に竹富島・種子島と着々と事業所を展開しそして天草に至っている。
両陣営の大きく異なる点は一つだけ。
カネ宮水産は天草周辺に点在する養殖池から取り上げた海老を一箇所の出荷場に集約し、同一ブランド名で全国の市場にばら撒く。
地域の農協の様なこのやり方は市場占有力を最大限に活かす理想的手段である。
一方、我々は1000キロもの海を隔てた海老が到底おなじブランドになるはずもなく、各事業所がてんでに売る形態だ。
然るに、我々の存在はそれほど目立つものではないのだが、到る所でカネ宮水産とぶつかる。
私は最大のライバルと位置づけていた。
「おい、黒石。ついに天草まで来た。もうカネ宮の海老に頼らなくてもうちのグループから一年中積んでやるがどうだ。」
「すんません、升本さん。そればっかりはご勘弁下さい。うちにも付き合いっちゅうもんがあります。すんません、天草事業所の海老だけは積まんで下さい。すんまへん、後生でッせ!」
黒石の返事が詰まり、親分安東が久しぶりに応対した。

 

そのカネ宮水産の池に農薬が投げ込まれたと言う。
海老は農薬に極めて弱くppbの単位で死に至る。
ペットボトルの一本でもあれば事は済む。
その現場は我々の池から10k程南下した国道の右手に隣接していた。
国道を北上する車の左車窓から手の届く距離だ。
そういえば、竹山の白いベンツは左ハンドルだ。
2005/12/03 升

 

おまけ
http://www.city.akashi.hyogo.jp/sangyou/ichiba/osakana/

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2005/12/05

あさりの芽 8

問題山積みのプロジェクトの中で当たり前の様に些細なトラブルが発生した。
契約日を過ぎても契約書添付の土地・建物賃貸借契約に関わる覚書第2条が履行されないのだ。
即ち、“甲は,本契約開始日までに、賃貸借物件⑧ の居宅部分から、乙の経費負担による代替住宅に転居するものとする。”の内容の居宅部分=久米島養殖天草事業場管理棟兼従業員宿舎予定部分、から“甲”の家族が転居しないのだ。
代替住宅が見つからないのがその理由であったが、何れにせよ契約不履行に違いはない。
既に、彼らとは養殖池の掃除作業において一緒に汗を流す仲であったので、いざこざは避けたいのだが、私たちにも計画がある。
困り果てていたところ竹山が連日押しかけ、まるでそれが彼の本業であるが様に“甲”一家に対し脅しをかける。
地上げ屋そのものの言動を持って。
            
徒歩5分程の空き家に彼らが越した後、早速、久米島養殖㈱各事業所から人選し、天草事業所緊急援助隊を呼び込んだ。
即ち、種子島事業場から元陸上自衛隊戦車操縦士の2名、那覇営業所から元海上自衛隊巡視船甲板員の1名、久米島事業場から日大農獣医学部水産学科出身の1名、リゾートホテル久米アイランドから休職中の元総料理長1名、さらに、竹山の浅海開発㈱から竹山の同期生と言う社員1名が続々結集した。
同時に先遣員の臨時会計係は種子島に帰島。
                             Photo_20230509161501
天草事業場は5名の応援を得てもなお多忙な状況だ。
池掃除を継続しながら、作業完了の池に、台湾からの大型種の投入が既に始まっているからだ。
種苗の殆どの到着が夜間に集中し、間髪いれずに放流作業が始まる。
 
梱包資材であるオガクズを海老ごとふるいにかけ分離する。
金網を斜めに立てかけ、海老だけが末端の籠の中に転がり落ちる仕掛けを手造りで開発済みだ。
籠に集めた海老を海水で洗い、冷却水槽に収容する。
この水槽は、水温を開封時のオガクズ温度と放流池水温との中間温度に設定され、更に、1ppmのOTC(塩酸オキシテトラサイクリン)が溶解されていて、温度馴致と共に細菌感染症予防対策としての薬浴の場を担っている。
水槽に30分程寝かし順次池に放つ。
この作業は云わばオガクズとの戦いで、1トンの海老を処理した後には1トンのオガクズの山が築き上げられていて、作業員は、鼻腔はもちろん全身真っ白な怪人に変身している。

私はこの多重作業時の混乱を避ける為、基本的人員配置を施した。
池掃除部分は陸・海自衛隊に依託し、私と“甲”一家は種苗受け入れ担当、水産学科は放養後の池管理、総料理長は“潮間仕事軍団”の送迎及び私を含む6名分の三食の賄い。
幸い、“潮間仕事軍団”には貴重なるご信頼を賜り、作業完了後の一括払いOKのご了承を頂いていた。
だがトラブルは相次ぐ。 
                          
「升本さん!升本さん。困ったことになりましたよー。
一昨日から例のカネ宮水産の社長が来てましてねー、沢山買い捲って行きました。
いやー、升本さんの海老はもちろん確保してありますがねー、問題は飛行機のキャパなんです。
福岡便だけでは積み切れないんですよ。カネ宮さんの荷物が多すぎましてねー。
それで、大阪便も使いたいのですがねー、これを使うとねー、熊本便最終に間に合いません。
陸送すると到着が未明になってしまいますが如何しましょう?」
「OK! 受け取り側が寝なければいい話のようだからどんどん送って!」

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5号池から天草五橋を望む

「升本さん! 困ったことになりましたよー。
トラクターが池の中で立ち往生してしまいました。エンジンがかからないんです。
セルが回らないのでバッテリーを外して今充電中なのですが、潮が上がってきて間に合うかどうか!」
戦車隊の報告に飛び出すと、竹山の一の子分である栄松氏から拝借しているポンコツが前輪の殆どを水中に没している。
大潮に伴い恐らく後1時間でマフラーからエンジンに海水が浸入するだろう。拙い!
国道沿いの土木工事現場にユンボが置かれていたことを思い出した私は走った。
黄色いヘルメットの小父さんに事情を説明し操縦席に飛び乗り、キャタピラを唸らせてトラクター救出に向かう。
サンダーバードⅡ号の様に。
現場到着と同時に、沈没寸前のトラクターの煙突マフラーから黒煙が上がり、傍観者一同の歓声が聞こえた。
充電が間に合ったのだ。

 

「升本さん! 困ったことになりましたよー。
一晩寝かせた方が美味いので昨日からカレーを作っていたんですが失敗しました。
砂糖と塩を間違いました。どうしましょう?」 

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沖縄洋食調理師会の重鎮でもある総料理長が狼狽している。
試食したがその本格カレーはただのシオッカレー。
その日の昼食は外食に決定。

 

「桝本さん!ニュース見ましたか?新聞にも載っています。
カネ宮の海老が全滅しました。
国道沿いの一池だけらしいのですが、誰かが農薬を投げ込んだようです。
あっ、私では決してありません。」
受話器の向こうで竹山のにやついた顔が目に浮かんだ。
2005/11/29 升

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2005/11/09

みるく

 天草五橋を渡り切り松島温泉街を抜ける。二コニコ堂を左に折れ、山を一つ越えると阿村だ。
 不知火海を一望とする高台に木造二階建一軒家がある。100坪の敷地、もちろん隣接する20坪の畑付きで、家賃月1万円。
 土間に続く六畳間の畳の下に囲炉裏が眠っていることを、私は早くから見抜いていた。

 仲里村立久米島小学校から、松島町立阿村小学校に転校したばかりの娘が、ハツカネズミの成体と見紛う大きさで白く薄い皮毛に覆われた桃色の生き物を、どこからか拾ってきた。
 眼も開いておらず歩行もできないところから、この生物が成体ではない事を瞬時に看破した私は、観て見ぬ振りを決め込んだ。
 数日の内に☆になる運命に違いない。 関われば私の人生の、悲しみのページがまた一つ増えるだけだ。

 私は両手で我が眼と耳を被った。
 晩酌の球磨焼酎を啜る際に、しかし、垣間見てしまった。 
 娘の母親が彼女の手のひらの中で納まってしまう”それ”に、学研の実験キッドに付随していたプラスチック製のピペットで、牛乳を飲ませている。 
 細い鳴き声から察するに”これ”はネコ科の生物に違いない。 
 久米養殖天草事業場と印字された小さなダンボール箱にタオルを敷き詰め、収容されているようだった。

 明くる朝、少なからず結果が怖かったが、家族の顔色から判断し、まだ生存しているらしい。 
 クルマエビとフグの開眼前(注:彼等は卵の中で発眼する)の飼育には絶対の自信が有る私にも、ネコは知らない。
 とうとう気になってしまい、ニコニコ堂の本屋で、ネコ飼育マニアル本を購入した。 

 文献にまず頼るのが水産学士のやり方だ。 
「肉食ほ乳類動物であるネコに、草食ほ乳類の乳を与えても成長しない。」 とあった。 脂肪分割合がまるで異なるらしい。
 私は天草の都心(地元の人がよく言う"直ぐそこ")の本渡に向け、300万尾のクルマエビを放り出し、ネコミルクを買いに往復2時間の旅に出る。 

 金魚のえさと犬猫飼育グッツ及び釣り道具を狭い店舗で一緒くたに販売している見るからに怪しい万屋で、一缶だけ置かれていた猫用粉ミルクと猫用哺乳瓶を手に入れた。

 濃厚なるネコミルクを、果たしてピンクの生き物は哺乳瓶からグビグビと飲んだ。 
 あっという間にその小さな腹が膨れ、箱の中で眠る。 
 日を追うごとにその腹は暴慢し、首を摘んでぶら下げると水を入れたイチゴミルク色の風船のように、くたびれた風景になってきた。

 消化した高濃度の脂肪が排泄されていないのだ。 本には「親ネコが舐め取る」 と書いてあった。
 娘に 「責任上、お前がやれ!」 と云っても、キャー々云って一向に拉致があかない。 
 指先でさすっても、こよりでつついても反応はない。 
 救命のつもりのネコミルクが致命的な粉になる時が近づいている。 
 
 小さな命を救ったのは1歳になった、あの天下の駄犬コロだ。
 とうとうヨーヨーに変化した奇怪な生き物の楊枝のような尻尾を持ち上げ、コロの鼻先に突き出した。 
 たったの一かみで張りつめた薄い腹の皮が千切れ飛ぶ危険を顧みずに冒険に打って出たのは、嶮暮帰島で羨ましい生活を送っていた畑正憲氏の著書から得た機転だった。

 我が駄犬は、ムツゴロウ師の名犬 ”グル” と同様な行動をしてくれた。
 すなわち、ぺろぺろ・ベロベロ 縁もゆかりもない さらに 属名も異なる 彼のペニスよりも小さい生き物の更に小さい  肛門を 舐める。 
 ネバーエンディング・ストーリーに登場した、犬の顔を持ち、且つ、あり得ない毛むくじゃらの表皮を持つ、龍のようなキャラクターと、コロの顔が同様に大仏様の御顔に似ていた。

 1週間も経たないうちに、摂取・消化・吸収・排泄の基本的成長サイクルを取り戻したその小さい奴は、全身が純白の綿毛で覆われ、そして、眼が開いた。 右が金、左がエメラルド。 

 頼りゲのない4本の脚をわなわな震わせながら歩き始めた。 
 玄関土間を転げ落ち、敷居を乗り越える。 
 その向こうにはトロ箱で作った犬小屋 コロがいる。 
 「ミィー」 一声鳴いた。 

 昼寝の真っ最中のコロがめんどくさそうに左眼だけを開ける。
 踵を返し、さらに全身を揺らしながら、縁の下に消えた。
 「おーい、ミルク。 迷子になるぞ!」 娘がつけた名前だ。
 縁の下を覗く。 
 ミルクは囲炉裏の下辺を被う石積みの下に佇み、己が背負ってしまった将来を、高価な両眼でただ見つめていた。
2005/01/03 升

 

 

 

 

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2005/11/08

樋門(ガラサー山編)

プロローグ
<兼城港のすぐ沖合いに浮かぶ小島で、日暮れになるとカラスの寝床となったことからガラサー山とよばれています。
島から突き出したような岩柱をもっているので男性の象徴とされ、ミーフガーとは対照的な意味をなします。>

 

本文
陸上養殖施設の水の取り入れ口あるいは排水口には、施設の規模に応じストレーナーが取り付けられている。
観賞魚用の水槽のろ過循環器に於いても同様である。 
その役割は魚を逃がさないためや、不必要物の進入を遮断することにある。 
樋門とは本来「水門」を指す単語だが、天草の海老養殖業界でも注排水門周囲に張り巡らされたストレーナー部分も含め、『樋門』と呼んでいる。 
樋門の構造は養殖池底と隣接外海最低潮位の高低差、及び、当該地先干満潮位差により、更に、隣接外海生物生態学的環境によって大きく異なる。


天草のクルマエビ養殖池の従来形は池ではない。 
その実体は、浅海の入り江を累々と石積で区切り、干潟と言われる海域を「養殖漁業権」を持って人間が合法的に「青い星」から取り上げた、海そのものだ。 
この究極的(人類本来の知恵)漁業経営手段を編み出したのは、私が当時多大なお世話を頂戴した維和島(いわじま)の末裔たちのお父様だ。

天草地方の干満差は大潮時でおよそ6メートルに達する。 
すなわち、今干潟となっている場所が6時間後には水深6メートルの海底になる。
海老を養う水域と外海を遮断しない限り、商品の散逸はもとより、豊潤な海の産物、鯛・チヌ・イカ・タコ・ぼら・子の代・フグに至る海老大好きなる捕食魚が怒涛のように押し寄せる。
 
しかしながら、高さ6メートル以上に及ぶ石積を海の中で築くことは、景観をも含めた自然保護上・干潟有効利用上、さらには施主の経済的理由、により万里の長城と匹敵する愚かなる世界遺産となってしまう。 
それらの総てを暗黙の内にしかも100年も前に構築したのが、天草の海に生きる先輩方の素敵な知恵だったのです。
彼等は石積の高さを、その内側を人が賄いできる最小限(2メートル)に抑え、その上を網で囲う究極の設計を描き出したのです。
 
この設計の長所は、人間の作業を伴わずに、必要水深を維持しながら換水が可能な事。 
短所は飼育水質の人為的操作が不可能なこと、及び、池の干し揚げ作業が干潮時に限られる事。 
この長短を簡便に云えば、管理体系のほとんどが、自然任せ 「海」 まかせなのである。


そんな天草の養殖池にも樋門はある。
水門は石積み部分の最深部に設けられており、部厚い鉄板は池の内側にしか開かない“まねきしき”のものだ。 
ようするに、外海の水圧が池のそれより大きくなれば勝手に開き、小さくなれば閉じる。 
その作用によって、池は水深を干潮時でも維持でき、上潮時に、石積み上部を被う広範囲なスクリーンに与えられる水圧を軽減しているのだ。


久米養殖天草事業場1号池において、樋門付帯のスクリーンネット(戸板状の物)の交換作業を行っていた。 
最干潮時を狙い、朝の6時にパートさんに集合してもらい、短時間で終了させないと潮が上がる。
 
諸般の事情で当時我所有の労働力は、その養殖場全体の倒産前の所有者の妻子及び兄弟姉妹のみ。
我社の管理棟になるべき建物には、未だに前所有者らが生活を営んでいた頃の出来事だ。 
即ち、パートのおばさん達は1号池隣接の我社の管理棟になるべき建物から出勤して来るのだ。

「はるさん、どがいにしてもこれははずれん! カキがびっしりついとる。」
樋門の上で私の引き抜いた戸板状のスクリーンネットを、干しあがった池底で清掃・補修するのがこの日の作業目的。
「男手が要るなら、修二を起こしてこようか?」
「ああー、頼むわ、はるさん」
修二ははるさんの次男坊、中学2年生だ。
はるさんが消えてしばらくした後、ほんの20メートルと離れていない建物の2階のベランダに、坊主頭が現われた。 
Tシャツにトランクス姿の修二はいかにも迷惑そうな顔で、
「何をせいちゅうの?」 
眼をこすりながら言った。
「修二! まずションベンばひってこい!」 
彼のトランクスを突き上げている物を目撃し、思わず叫んでしまった。

 

エピローグ
空の玄関、久米島空港滑走路北端で北風の吹く頃、着陸した航空機は北端でUターンしピットに向かう。 
従って、滑走路北端で左右の座席に座る何れの搭乗客も東側の視界に、隣接の海老養殖場に連立する樋門群の向こうに、まるで彼等を出迎えるが如く、ポッカリと浮かぶミーフーガーを垣間見る事が出来る。

海の玄関、久米島兼城港は島の南東に開いた港だ。 
すぐ沖合いに浮かぶ小島で、日暮れになるとカラスの寝床となったことからガラサー山とよばれている、 トランクスから突き出したような岩柱をもっているので男性の象徴とされ、ミーフーガーとは対照的な意味をなします。

Photo_20230903110601

海路にて久米島を訪れる男性のほとんどは、“アキサビヨー!”を連呼して項垂れる人が多くいると聞いております。
2005/02/06 升

画像は根本佳恵氏提供。

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2005/10/09

アサリの芽 7

竹山の流石に的を絞った問いに
「派遣担当者は既に決定しています。私は月に一週間ほどお邪魔する程度でしょう。 あー、竹山さん、担当の若いのは貴方の後輩でもありますよ。宜しく かわいがって下さい。」
嘘でも出鱈目でもなかった。
当該プロジェクトにGoサインが出た途端、私は人を探した。
 
既述した様に極普通の養殖場に”いつでも外に出せる“人材など抱えているはずがない。
私の無茶な求人先は常に母校に限られている。
「先生 また一人頼みますよ。今度は天草です。例の竹山が持ってきた話です。奴に翻弄されない胆の据わったのが欲しいのですが?」
「水産協力隊(海外青年協力隊)でケニヤ帰りのが一人いるが。」
「それ いただきました。早速 明日にでも久米島に来るようご連絡ください。」

いつものやり取りで電話を切る。 
恩師推薦の人材で今まで当てが外れたことがなかった。 
半年ほど前にも恩師からの押し売りで“本人の事情で日本に住めなくなった”曰く付のあやしい後輩を受け入れたが、彼は既に私の右腕となって動き回ってくれている。
アフリカ帰りの奴ならさぞや頼もしい猛者に違いない。期待は高まる。

三日後に彼はやって来た。 
その時間差に私は大いに不満であったが顔には出さず、歓迎した。 
就職を希望するものが「明日おいで」と言われ、パスポート不要の国内で“翌日行けない”事情は 家族の不幸以外 あまり言い訳が立たない。 と、考えているからだ。
ニコニコ顔の私は久米島到着20分後の彼に早速 彼の業務内容仔細を説明した。
「久米島に三日間ほど滞在してもらい、その間に車えび養殖マニュアルを丸暗記してもらう。その後天草に養殖場管理責任者として常駐してもらう。なに、心配は要らない。当分の間、私が天草と沖縄を行ったりきたりする。私の指示通り行動してもらえば問題ない。」 

沖縄と天草の養殖形態が極端に異なる為、久米島の現場を参考にしてもらうと3日と言う極めて短い時間ではかえって混乱する。
契約書には記載されてはいないが、天草事業場の従業員として賃貸人である前田水産養殖の家族を雇用することが、ご本人との面接機会のないまま必然的に決定されていた。
 
その構成は、前田匡康前社長(前田善創業社長長男)の妻・および前田匡善現社長(前田善創業社長次男)の妹2人(前田善創業社長長女及び次女)・更に前田匡康前社長の長男・次男・長女・前田匡善現社長の妻に及んでいた。
天草周辺の養殖場のほとんどは入り江を囲った生簀の淵に作業場兼自宅住居を構え、文字通りの家内性生産を営んでおり、株式会社である前田水産養殖も規模は大きいもののその枠から脱却していない。 
すなわち、彼らは物心が付く以前から車えびと供に生活をし、その養い方の天草的概念及び車えびのハンドリング方など、庭先で鶏を養うがごとく体で取得しているのである。

合法的な賃貸借契約とはいえ今回のようなケースは、一般的に賃貸者側が敗者と見られ賃借者が勝者とみなされよう。 
勝者が敗者の家族をしかもそのほとんどを雇用するという 胡散臭い話に当初私は戸惑いを隠せなかった。 
だがどうだろう、多少の養殖経験の有る技術屋が単身乗り込み奮闘しようとも、4面合計10万㎡におよぶ生簀の管理など出来るはずがない。さらに、未経験者の労働力を現地採用するにも一から指導教育している時間的余裕もない。

私は決心していた。
彼らを運命共同体として私のほうから積極的に受け入れることを。

私は彼を久米島内のホテルの一室に閉じ込め、2年前に竹富養殖創業時用に書いた『車えび養殖概論および各論』(B4・80ページ)一冊を手渡し、専門知識の押し売りを始めた。
一般管理やハンドリング技術は現地運命共同体員に概ね委ねればよい。
重要なことは、対“竹山”対策、ただ一つだ。 
出鱈目な男の話に起因した 途方もない契約を履行し且利益を生み出すには 無茶苦茶が唯一の正攻法であることを私は確信していたのである。

賃貸契約期間開始当日(3月1日)にも台湾からの大型種苗を導入していかな

いと間に合わない。

台湾の水温が急上昇する4月までに海老の移動を終了したかった。

Photo_20230509161901平成3年2月23日私はケニヤ帰りの男を連れ天草入りした。 
同時に、昨年買収開設した久米島養殖種子島事業場の経理・総務担当者に臨時会計係兼土木作業員として応援を依頼し、養殖場から一番近かった民宿「濱荘」(赤崎:片道20分)を仮宿にして合流した。
 
早急に行わなければならない作業は養殖池の掃除及び注排水門(樋門)の補修である。 
放置期間の長かった池の底にはアオサやシオグサなどの海草が繁茂・あるいはヘドロ化し堆積している。
一方、壁面にはフジツボやイワガキが層を成して付着している。 
それらを完全に除去した上、底砂の攪拌洗浄を行うのが必須作業である。 
海草やヘドロの除去には熊手やスコップを持った人力に頼るのが常道な手段で、少人数でも池を干し上げた上で行えば、のどかな養殖場の冬の風物詩になりえる作業といえる。

  ところが、ここ天草の今回だけは異なった。半築堤式と呼ばれる天草の養殖池の従来形は池ではない。 
その実体は、浅海の入り江を累々と石積で区切り、干潟と言われる海域を「養殖漁業権」を持って人間が合法的に「青い星」から取り上げた、海そのものだ。
 
天草地方の干満差は大潮時でおよそ6メートルに達する。 
すなわち、今干潟となっている場所が6時間後には水深6メートルの海底になる。
海老を養う水域と外海を遮断しない限り、商品の散逸はもとより、海老を好物とする捕食魚が怒涛のように押し寄せる。 
しかしながら、高さ6メートル以上に及ぶ石積を海の中で築くことは、景観をも含めた自然保護上・干潟有効利用上、さらには施主の経済的理由、により万里の長城と匹敵する愚かなる世界遺産となってしまう。

Photo_20230509174601

それらの総てを暗黙の内にしかも100年も前に構築したのが、天草の海に生きる先輩方の素敵な知恵だった。
彼等は石積の高さを、その内側を人が賄いできる最小限(2メートル)に抑え、その上を網で囲う究極の設計を描き出した。 
この設計の長所は、人間の作業を伴わずに必要水深を維持しながら換水が可能な事。 
短所は飼育水質の人為的操作が不可能なこと、及び、池の干し揚げ作業が干潮時に限られる事。 
この長短を簡便に云えば、管理体系のほとんどが、自然任せ 「海」 まかせなのである。

海水が外海の潮汐と同時に干満する。
従い、干潮時間帯にしか作業が出来ない。
しかも、樋門が設置されている池の最深部は、大潮の最干潮時にしか地上に現れないという曰く付の池もある。
すなわち、我々の生産計画を全うする為の最初の作業スケジュール(池掃除日程表)は、必要作業時間数=池面積㎡÷一人当りの作業能力㎡/hr×頭数 の計算式では表しきれず、作業時間数は池底露出時間に支配されている為、作業完了期限までの干潮累積時間が短いほど、作業従事者を多くしないと作業完了期限に間に合わない。

私は竹山に人の手配を依頼した。
「15人ほどならば明日からでもOKです。条件は二つ。彼らには足がないので送迎が必要です。日当は現金の日払いで願います。集合は何時にしますか?」

有明町唯一のレンタカー屋を訪ねマイクロバスを借り、天草五橋を全て渡る往復1時間の道のりを迎えに行く。 
指定の桟橋(岩谷)で待っていたのは平均年齢60歳を遥か昔に越えた軍団だった。 
だが、聞けば彼らは“潮間(干潮時に限られた)”の仕事のプロという。 
マイクロバスの中では、出来損ないのパール柑をシワだらけの指先で剥きながら、まるで小学生の遠足のようにはしゃいでいたが、現場到着するやいなや目付きが変わる。

「まだシオが引ききっておらんばい。 上からやろわい。」
誰ともなく声がかかり軍団は池を囲む擁壁の天場に散る。 
手にしたこそぎ棒(棒の先に鉄のヘラの付いたもの)で擁壁に着生しているカキを落とし始めた。 
小一時間後、池底の最浅部が現れ始めるとてんでに熊手を持ち集まってきた。
「こん生簀ばよーけい広いばってん、樋門に向かって縦に攻めにゃならん。 なーに、あんたはワシ等の後をあのダンプば乗ってついてくればよか。」

生簀のほぼ中央を彼らは対角線上に位置する樋門に向かい、潮の引く速度に合わせ女性陣がまず熊手で海草を集め小山を作って行く。 
ついでスコップあるいはホークを持った爺様軍が小山を追随するダンプに放り上げる。 
何回かダンプのごみを捨てに行った頃には樋門に到達していた。
今が干底だろう。 
潮が止まっている束の間に樋門内部を清掃・補修。 
上げ潮に伴い往路の隣接ラインを、下って来たとき同様に熊手とスコップとダンプとで上る。
池の最浅部に再び辿り着いた時には、足元はもう波打際である。

潮任せの仕事の為いつ終わるのか予測が立てられない。
種子島からの臨時会計係りは波打際から這い上がると同時に日当の計算を始め、池の中でも背負い続けていたリュックサックから現金を取り出し封筒に仕分けていく。 
ニコニコ顔の軍団にひとしきり日当を配り終え、明日の打ち合わせをし、マイクロバスで送っていく。

 

潮は日々およそ1時間ずつ遅れていく。 
今日が早すぎた分を加味して明日の集合は今日の2時間後でいい。
現場から北へ30分 軍団を降ろし再び南下、現場を素通りして濱荘に付く頃には日がとっぷりと暮れていた。 
潮と砂 汗を風呂で流し、浴衣に着替え、濱荘の親父の粋な手料理を肴にビールをあおり出した時、常に無口なケニヤが珍しく口を開いた。
「あのー。 急に呼ばれたもので着替えも殆どありません。借りている部屋もそのままです。3日ほど暇を頂いて整理をしてきたいのですが如何でしょう。」
今人手を欠くのは痛いところではあったが、長い眼で見れば御もっともな話を承諾した。
 
翌朝、軍団を迎えに行く途中、熊本駅行きのバスセンターで彼の背中を見送ったのが最後だ。 
3日が過ぎ1週間が経過しても何の沙汰がない。
逃亡を図ったのは疑いの余地のないところだが、彼の連絡先を私は知らない。 
仕方なく紹介者の恩師に尋ねた。

「升本君、今回だけは申し訳ないことをした。どうやら彼は海水アレルギーらしい。」 
数時間後のご返事だった。
白のベンツでたまたま巡回に来ていた竹山が現場事務所でのその会話を耳にし、いつになく子犬の様な眼で私を見つめ、ニヤッと笑った。
2005/10/08 升

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