知床で夢を買った話
1.
1973年
札幌の学校に通っていたとき、夏休み早々に、札幌21:05発急行大雪52号に乗った。
大雪52号は下りの函館本線を走り、旭川で3分間停車した後石北線に繋がり、乗り換えなしで終着駅網走に翌朝の06:59分に到着する。
曜日は忘れてしまったが、その日は、尋常な混み方ではなかった。
札幌始発の列車だったので運よく私は座ることが出来たのだが、次の停車駅の江別やさらに岩見沢駅においても降りる人よりも新たに乗車する人の方が多く、人いきれがいっそう濃くなってきた。
通路は立ったままの人で埋め尽くされていて、無頼漢は既に網棚に寝そべっている。
4人掛けの箱席の通路側に私は座っていたのだが、私の左の肘が乗るはずのひじ掛けにはワンピースを着たお姉さんのお尻が乗っていて、細いひじ掛け板からはみ出したお尻の肉が私の左腕を圧迫していた。
札幌から既に2時間が経過しても混雑の状況に全く変化が見られず、ついに深川辺りで19才の私はひじ掛けのお姉さんに「俺、下で寝るから、ここ座れば。」と言ってしまった。
板張りの座席の下は、支える四本の鋳物の脚が生えているだけで、人一人潜り込めるほどの空間がある。
私はそこに足をたたんで潜り込み、頭だけを通路に置いた寝袋に預けて、横になった。
肩の上にはお姉さんの青いワンピースに包まれたお尻が乗っていて、目を開けるとサンダルを脱いで脚を組んだお姉さんの右の足の裏がひらひら揺れていた。
上川辺りでようやく眠りに落ち、北見を過ぎたところで目が覚めた時には、もう車内はガラガラ、お姉さんは挨拶もなくいなくなっていた。
網走駅前のカニ飯屋で腹をこしらえ、湧網線を使いサロマ湖へ行き、打たせ網で揚げたばかりの北海シマエビの茹でたてをたらふく頂いた。再び、網走までもどり、釧網線に乗って斜里で降り、バスでウトロまで行って民宿に泊まった。
翌早朝ウトロ港から乗り合いの釣り船に便乗して入れ食いのカジカ釣り。
得物は全部船の船尾に追いすがるウミネコにくれてやり、バスで知床五湖の入り口まで行き徒歩で一周した後、網走まで戻って19:36発の下り大雪52号で札幌まで、という行程。
この時の知床五湖は、エゾ松林の中を悠然と一人で歩き回る事ができた。
これが私と知床の初めての出会い。
札幌・網走間の乗車賃は急行券を合わせても往復4千円ほどで宿代やオプションの費用を含めても学生の小遣いでまかなえるギリギリの1万円で事足りた。
2.
1979年
瀬戸内海は大三島で、五右衛門風呂付きの古いお家を借りて所帯を営み始めた1979年ころ。
きっかけはとうに忘れてしまったが畑正憲氏に傾倒し、文芸春秋社に依頼して毎月刊行される「畑正憲作品集」を宅配してもらい読み漁っていた。
ヒグマのドンベイ飼育のお話や、厚岸浜中町沖の無人島・嶮暮帰島に家族3人で移り住んでの冒険談、浜に打ちあがった無数の毛ガニを五右衛門風呂で茹でて食べたお話等に、ただ々憧れ配本されるのを毎月楽しみにしていた。
本には毎月、著者や「どうぶつ王国」の近況報告の様なたぐいの「ムツゴロウ新聞」なるものが付録されていていた。
ある号のその新聞に、知床の現状を訴え「しれとこ100平方メートル運動」への勧誘と寄付金を募っていると言う記事を見た。
そして、このことはその後の長い旅暮らしの挙句、私の頭の中から、すっかり忘れ去られていた。
3.
2024年
駅舎は替わっていたけれど駅前のカニ飯屋は健在だった。
今回、レンタカーを駆って網走から線路沿いを走る。
時代は車社会に変わったいまでも、釧網線はいまだオホーツクの飛沫を浴びながら、一両単行の気動車で走り続けていた。
駅舎をカメラに収めながら、「天国に続く道」を辿り、斜里・ウトロの町を通り抜け、辿り着いた駐車場の向こうにはオシャレな建物が置かれていた。
「知床五湖フィールドハウス」と銘打ったその建物は知床観光の拠点である。
2011年に環境省がおよそ2億円をかけて整備した建物で、 釧路自然環境事務所の委託を受けて公益財団法人 知床財団が運営している。
(公財)知床財団の前身は斜里町が造った「自然トピアしれとこ管理財団」で、現在の「知床財団」は羅臼町も参加している。
50年前は乗り合いバスの終点で降り立って、トドマツの林の中をてんでに歩いて回った記憶があったのだが、流石に今は立ち入りに厳しいルールが出来上がっている。
雪がなくなる4月下旬から11月上旬までが開園期間で、その期間内で更に、立ち入りルートが設定されている。
ヒグマ対策で電気柵を巡らせた往復1.6kの高架木道は、夜間を除き無料かつ無条件での、散策が許されている。
と言っても、駐車料金500円が既に支払われているのだが。
一方、昔ながらの地上遊歩道は、ヒグマの活動期の5月から7月末までの間は登録されているガイドの引率無しでは入れない。
ガイドはすべて登録されていて、勿論有料。
観光客一人当たり距離の距離に応じて6,000~3,500円程が必要だ。
熊の心配のないそれ以外の時期は、250円を支払い10分程の講習を受けなければ遊歩道には入れない決まりになっている。
熊に追われたら逃げる脚を既に弱めている我々老人は、迷わず木道を選択してスタート、片道800mすらおぼつかない。
木柵コースは笹の群生地の上に架けられていて、遮るものなく流石に見通しは素晴らしかったが、かつてエゾ松の森の中を深々と歩いた面影は全くない。
あとで聞くと、この笹は開拓放棄地に後から生えたもので、地下に根を張り巡らしているため、他の植物の生育を妨げているという。
昔のような森に戻す為には、先ずこの笹の地下茎ごと文字通り根こそぎ撤去してから、幼木を植える必要があるらしい。
熊は出なかったが鹿が水辺でのんびりと口を動かす1.6キロを完歩して駐車場まで引き返す。
つまらない土産物屋の建物を素通りしてフィールドハウスの戸を開けた。
がらんとした中は財団職員やガイドの情報交換の場所らしく、奥には、ヒグマ活動期以外の時期に行われるレクチャー会場があるようだ。
カウンタの中にただ一人いた知床財団の職員らしい女性に私は訪ねた。
『大昔の話で恐縮だが、「知床1㎡運動」というモノに賛同してかつて土地を購入した覚えがあるのだが、それはどの辺りになるのか?』と。
『100㎡運動というものはありましたがいつ頃のお話でしょうか』
『去年亡くなった畑正憲さんの呼びかけに賛同して、大三島にいた頃だから45年ほど前のことだね。』
『「知床100㎡運動」が始まったのは1977年です。今から47年前になります。』
『100㎡なんて家が建つような面積なんか買う金なんかなかったころだから1㎡だったはず。』
『「1㎡運動」と云うものは御座いませんでした。100㎡のお間違いでは?』
『100㎡で幾らだったの?』
『一口8千円と聞いておりますが。』
『それくらいだったら若造でも払える金額だね、そうか、100㎡だったのか。』
『その節はありがとうございました。お陰様で今はこんなに自然が回復しております。』
『あんたが産まれていない頃の話に礼を言われても困るよ。で、そこはどの辺りなの?』
『運動の趣旨通り個人様の特定の土地の場所というものはありません。以前は野外掲示板に寄付された方の名札を掛けさせて頂いておりましたが、現在は、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」という建物内に収めており、誰でも自由にご閲覧いただけます』
『それ何処にあるの?』
『ここからウトロの方に戻って、知床横断道路との交差点を過ぎてすぐの「知床自然センター」の向いにあります』
『もうすぐ5時になるからもう今日は間に合わないね』
『いえ、5時半まで開いているはずです』
4.
資料
知床の玄関口ウトロを経て知床五湖に向かう途中の岩尾別地区は、大正初期から戦後まで三次に渡る入植が繰り返されたが、厳しい自然の下で離農が相次いだ。
一帯が国立公園に指定されて間もない1966年には、斜里町が最後まで残っていた24戸を市街地に集団離農させている。
ところが、日本列島改造ブームに乗って、岩尾別の開拓跡地は土地ブローカーの恰好の標的になり、乱開発の危機にさらされた。
離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった。
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―
1977年2月、成田空港反対の1坪運動と、朝日新聞の1面コラム「天声人語」に載ったイギリスのナショナルトラスト運動の記事をヒントに、当時の藤谷豊町長が提唱したのが「国立公園内百平方メートル運動」である。
「知床で夢を買いませんか」がキャッチフレーズ。
参加者には離農跡地を百平方メートル当たり8千円で分譲する形をとるが、土地の分筆や所有権の移転登記はせずに斜里町が一括管理する行政主導型で運動が始まり、土地にはトドマツやシラカバ等の植樹をしていくことを掲げた。
拠出金は土地の買い上げと植樹費用のみに使い、宣伝や事務費などは町の一般財源を充てる、という画期的なものだった。
翌1978年には、斜里町が離農跡地120ヘクタールと町土地開発公社所有地31ヘクタールを買い上げる一方で、“公園内の土地保全”と“開拓跡地の自然修復”を図ることを目的に二つの条例を制定し、観光開発から知床を守り抜く運動が具体化していった。
20年後の1997年3月、運動参加者はのべ49,024人、金額では、5億2,000万円となり、「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成された。
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―
そして、この時からキャッチフレーズが「夢を買いませんか」から、新たに「知床で夢を育てませんか」と換えられて、守られた土地にかつてあった自然を復元する取り組み「100平方メートル運動の森・トラスト」を本格的にスタートすることになった。
また、これを機に保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、将来に渡ってこの運動地を守り続けることを明確にした。
2010年11月には、100平方メートル運動地内に最後まで残されていた11.92haの開拓跡地を取得し、目標としていたすべての保全対象地の取得を完了することができている。
5.
2024年
道の駅然とした佇まいの「知床自然センター」はすぐにわかった。
少し前に後にしてき知床五湖の駐車場にはたくさんの車が利用していたが、バスを含めて200台は収容可能と思われる「知床自然センター」の広大な駐車場には乗用車が3台しか停まっていない。
この建物は、林野庁が起こした「知床国有林伐採問題」事件の最中(1988年)に斜里町が建てたもので、現在は「知床五湖フィールドハウス」と同じ(公財)知床財団の管理下に置かれている。
ただの道の駅ならばこのガランとした風景を見ただけで「閉鎖中」と勘ぐられ、建物内はもとより、駐車場にさえ入る車などないだろう。
シーズンには、ここにマイカーを置いて臨時に発着するシャトルバスで五湖へ向かう、という一般車立ち入り規制サービスの拠点にもなっていると言う。
さて、「向い」にある筈の「しれとこ100平方メートル運動ハウス」は「向い」にはなく探し回った結果「裏」にあった。
この建物は「知床自然センター」建設に先駆けて(1987)建てられていて、これも斜里町の仕事らしい。
深い森に囲まれ、しかも、鹿がいた。
館内を隈なく見学したがその他の見学者はおらず、職員の姿も皆無だった。
閉館時間が迫っていることもあって急ぎどこかにあるべき私の名前を探した。
入り口の脇に分厚い名簿が置かれてあったが寄付を受け付けた年代は新しいものばかり。
展示パネルが貼られている外廊下を1周すると建物の真ん中に四角い空洞(部屋)がある。
目測すると10m×10m、丁度100平方メートルの大きさの部屋である。
なるほど、100㎡の実際の大きさの表現かと思ったが仕掛けはそれだけではなかった。
壁一面に白い短冊が上から下までビッシリと張り付けられていて、近寄らなければそれは名札であるとは分からない。
拠出金の提供者、言い換えれば知床に100㎡の土地を夢と一緒に買った人、49,000名余りの名札に違いない。
年代順なのか、あいうえお順か、ABC順か?
しばらくして、その名札は提供者登録住所の県別に、仕分けされていることに漸く気が付く。
愛媛県越智郡大三島町宗方で生活していた頃の話である。
迷わず愛媛県の仕切りに飛びつくと、その中に私の名前が刻まれた名札があった。
周囲の名札の中には黄ばんだセロテープを剥がした痕跡のある物もある。
参加者が増える度に名札が都度1枚づつ造られ、47年前の1枚目からこのハウスに収容されるまでの10年間、知床の原野の風雪の中に置かれた歴史の面影を物語っていた。
5.
20年の間に5万人足らずの人から5億円強の金銭を預り、町が120ヘクタールの土地を買い集め保全した話。
夢が叶った物語の筈なのだが、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」を後にしてから振り返ると、そこに違和感が建っていた。
「知床五湖フィールドハウス」の建設費はおよそ2億円。
とすると、このハウスは1億円ほどか?
3階建てと見られる「知床自然センター」は10億か?
『離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった』為に、苦肉の策で始めたこの運動。
そのたったの10年後に、運動で集めた拠出金よりも多くの金額を使って、斜里町は二つの観光施設を造ったことになる。
施設をだだ造っただけでは観光客は来やしない。
もしかしたら私たち拠出金提供者は、知床観光客を呼び込む為の全国に散らばるアンバサダー役に、現金と共に利用されたのかも知れない。
名札を残してくれるのは有り難いことだが、あんな豪華な建物の中よりも以前の様な原野の中で熊や鹿と一緒の方がそぐっていた、と考えるのは私だけではないだろう。
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借
名簿だけで充分。
「あんな無駄な建物造る金があるのなら、もっと違うことに使って!」
と、そう思わない輩はあの運動に参加していない筈だから。
とわ言え、私の名札が残されていたことに感動した。
なによりも、私自身が忘却していた半世紀も前の出来事を、今の現場の若い人たちが忠実に記憶し、かつ継承していることに驚きを覚えた。
彼らに感謝と共に今後の活躍に期待している。
2024/7/12 升
引用文献
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHP(しれとこ100平方メートル運動(北海道斜里町) (shiretoko.or.jp))
曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号)(曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号) | 滝川康治の見聞録 (takikawa-essay.com))
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