カテゴリー「大三島時代」の13件の記事

2024/07/16

知床で夢を買った話

1.
1973年
札幌の学校に通っていたとき、夏休み早々に、札幌21:05発急行大雪52号に乗った。
大雪52号は下りの函館本線を走り、旭川で3分間停車した後石北線に繋がり、乗り換えなしで終着駅網走に翌朝の06:59分に到着する。

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日本交通公社発行時刻表1973年より 以下同じく

曜日は忘れてしまったが、その日は、尋常な混み方ではなかった。
札幌始発の列車だったので運よく私は座ることが出来たのだが、次の停車駅の江別やさらに岩見沢駅においても降りる人よりも新たに乗車する人の方が多く、人いきれがいっそう濃くなってきた。

通路は立ったままの人で埋め尽くされていて、無頼漢は既に網棚に寝そべっている。
4人掛けの箱席の通路側に私は座っていたのだが、私の左の肘が乗るはずのひじ掛けにはワンピースを着たお姉さんのお尻が乗っていて、細いひじ掛け板からはみ出したお尻の肉が私の左腕を圧迫していた。

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札幌から既に2時間が経過しても混雑の状況に全く変化が見られず、ついに深川辺りで19才の私はひじ掛けのお姉さんに「俺、下で寝るから、ここ座れば。」と言ってしまった。
板張りの座席の下は、支える四本の鋳物の脚が生えているだけで、人一人潜り込めるほどの空間がある。

私はそこに足をたたんで潜り込み、頭だけを通路に置いた寝袋に預けて、横になった。
肩の上にはお姉さんの青いワンピースに包まれたお尻が乗っていて、目を開けるとサンダルを脱いで脚を組んだお姉さんの右の足の裏がひらひら揺れていた。
上川辺りでようやく眠りに落ち、北見を過ぎたところで目が覚めた時には、もう車内はガラガラ、お姉さんは挨拶もなくいなくなっていた。

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1970年の網走駅(無料画像より)

網走駅前のカニ飯屋で腹をこしらえ、湧網線を使いサロマ湖へ行き、打たせ網で揚げたばかりの北海シマエビの茹でたてをたらふく頂いた。再び、網走までもどり、釧網線に乗って斜里で降り、バスでウトロまで行って民宿に泊まった。

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翌早朝ウトロ港から乗り合いの釣り船に便乗して入れ食いのカジカ釣り。
得物は全部船の船尾に追いすがるウミネコにくれてやり、バスで知床五湖の入り口まで行き徒歩で一周した後、網走まで戻って19:36発の下り大雪52号で札幌まで、という行程。

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この時の知床五湖は、エゾ松林の中を悠然と一人で歩き回る事ができた。
これが私と知床の初めての出会い。
札幌・網走間の乗車賃は急行券を合わせても往復4千円ほどで宿代やオプションの費用を含めても学生の小遣いでまかなえるギリギリの1万円で事足りた。

2.
1979年
瀬戸内海は大三島で、五右衛門風呂付きの古いお家を借りて所帯を営み始めた1979年ころ。
きっかけはとうに忘れてしまったが畑正憲氏に傾倒し、文芸春秋社に依頼して毎月刊行される「畑正憲作品集」を宅配してもらい読み漁っていた。


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画像は日本の古本屋HPより拝借

ヒグマのドンベイ飼育のお話や、厚岸浜中町沖の無人島・嶮暮帰島に家族3人で移り住んでの冒険談、浜に打ちあがった無数の毛ガニを五右衛門風呂で茹でて食べたお話等に、ただ々憧れ配本されるのを毎月楽しみにしていた。

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画像はヤフオクHPより拝借

本には毎月、著者や「どうぶつ王国」の近況報告の様なたぐいの「ムツゴロウ新聞」なるものが付録されていていた。
ある号のその
新聞に、知床の現状を訴え「しれとこ100平方メートル運動」への勧誘と寄付金を募っていると言う記事を見た。
そして、このことはその後の長い旅暮らしの挙句、私の頭の中から、すっかり忘れ去られていた。

3.
2024年
駅舎は替わっていたけれど駅前のカニ飯屋は健在だった。

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今回、レンタカーを駆って網走から線路沿いを走る。
時代は車社会に変わったいまでも、釧網線はいまだオホーツクの飛沫を浴びながら、一両単行の気動車で走り続けていた。
駅舎をカメラに収めながら、「天国に続く道」を辿り、斜里・ウトロの町を通り抜け、辿り着いた駐車場の向こうにはオシャレな建物が置かれていた。

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「知床五湖フィールドハウス」と銘打ったその建物は知床観光の拠点である。
2011年に環境省がおよそ2億円をかけて整備した建物で、 釧路自然環境事務所の委託を受けて公益財団法人 知床財団が運営している。
(公財)知床財団の前身は斜里町が造った「自然トピアしれとこ管理財団」で、現在の「知床財団」は羅臼町も参加している。

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50年前は乗り合いバスの終点で降り立って、トドマツの林の中をてんでに歩いて回った記憶があったのだが、流石に今は立ち入りに厳しいルールが出来上がっている。
雪がなくなる4月下旬から11月上旬までが開園期間で、その期間内で更に、立ち入りルートが設定されている。
ヒグマ対策で電気柵を巡らせた往復1.6kの高架木道は、夜間を除き無料かつ無条件での、散策が許されている。
と言っても、駐車料金500円が既に支払われているのだが。

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一方、昔ながらの地上遊歩道は、ヒグマの活動期の5月から7月末までの間は登録されているガイドの引率無しでは入れない。
ガイドはすべて登録されていて、勿論有料。
観光客一人当たり距離の距離に応じて6,000~3,500円程が必要だ。
熊の心配のないそれ以外の時期は、250円を支払い10分程の講習を受けなければ遊歩道には入れない決まりになっている。

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熊に追われたら逃げる脚を既に弱めている我々老人は、迷わず木道を選択してスタート、片道800mすらおぼつかない。
木柵コースは笹の群生地の上に架けられていて、遮るものなく流石に見通しは素晴らしかったが、かつてエゾ松の森の中を深々と歩いた面影は全くない。

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あとで聞くと、この笹は開拓放棄地に後から生えたもので、地下に根を張り巡らしているため、他の植物の生育を妨げているという。
昔のような森に戻す為には、先ずこの笹の地下茎ごと文字通り根こそぎ撤去してから、幼木を植える必要があるらしい。
熊は出なかったが鹿が水辺でのんびりと口を動かす1.6キロを完歩して駐車場まで引き返す。

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画像下方の緑の草地の日陰に鹿が寝ています

つまらない土産物屋の建物を素通りしてフィールドハウスの戸を開けた。
がらんとした中は財団職員やガイドの情報交換の場所らしく、奥には、ヒグマ活動期以外の時期に行われるレクチャー会場があるようだ。
カウンタの中にただ一人いた知床財団の職員らしい女性に私は訪ねた。

『大昔の話で恐縮だが、「知床1㎡運動」というモノに賛同してかつて土地を購入した覚えがあるのだが、それはどの辺りになるのか?』と。
『100㎡運動というものはありましたがいつ頃のお話でしょうか』

『去年亡くなった畑正憲さんの呼びかけに賛同して、大三島にいた頃だから45年ほど前のことだね。』

『「知床100㎡運動」が始まったのは1977年です。今から47年前になります。』
『100㎡なんて家が建つような面積なんか買う金なんかなかったころだから1㎡だったはず。』

『「1㎡運動」と云うものは御座いませんでした。100㎡のお間違いでは?』
『100㎡で幾らだったの?』
『一口8千円と聞いておりますが。』

『それくらいだったら若造でも払える金額だね、そうか、100㎡だったのか。』

『その節はありがとうございました。お陰様で今はこんなに自然が回復しております。』
『あんたが産まれていない頃の話に礼を言われても困るよ。で、そこはどの辺りなの?』

『運動の趣旨通り個人様の特定の土地の場所というものはありません。以前は野外掲示板に寄付された方の名札を掛けさせて頂いておりましたが、現在は、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」という建物内に収めており、誰でも自由にご閲覧いただけます』

『それ何処にあるの?』
『ここからウトロの方に戻って、知床横断道路との交差点を過ぎてすぐの「知床自然センター」の向いにあります』
『もうすぐ5時になるからもう今日は間に合わないね』
『いえ、5時半まで開いているはずです』

4.
資料 
知床の玄関口ウトロを経て知床五湖に向かう途中の岩尾別地区は、大正初期から戦後まで三次に渡る入植が繰り返されたが、厳しい自然の下で離農が相次いだ。
一帯が国立公園に指定されて間もない1966年には、斜里町が最後まで残っていた24戸を市街地に集団離農させている。

ところが、日本列島改造ブームに乗って、岩尾別の開拓跡地は土地ブローカーの恰好の標的になり、乱開発の危機にさらされた。
離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった。

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1974年 左端がウトロ港、右端は知床5個、白い部分が開拓跡地
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―

1977年2月、成田空港反対の1坪運動と、朝日新聞の1面コラム「天声人語」に載ったイギリスのナショナルトラスト運動の記事をヒントに、当時の藤谷豊町長が提唱したのが「国立公園内百平方メートル運動」である。
「知床で夢を買いませんか」がキャッチフレーズ。

参加者には離農跡地を百平方メートル当たり8千円で分譲する形をとるが、土地の分筆や所有権の移転登記はせずに斜里町が一括管理する行政主導型で運動が始まり、土地にはトドマツやシラカバ等の植樹をしていくことを掲げた。
拠出金は土地の買い上げと植樹費用のみに使い、宣伝や事務費などは町の一般財源を充てる、という画期的なものだった。

翌1978年には、斜里町が離農跡地120ヘクタールと町土地開発公社所有地31ヘクタールを買い上げる一方で、“公園内の土地保全”と“開拓跡地の自然修復”を図ることを目的に二つの条例を制定し、観光開発から知床を守り抜く運動が具体化していった。

20年後の1997年3月、運動参加者はのべ49,024人、金額では、5億2,000万円となり、「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成された。

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2014年 左端がウトロ港、右端は知床5湖、開拓跡地が緑色におおわれている
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―

そして、この時からキャッチフレーズが「夢を買いませんか」から、新たに「知床で夢を育てませんか」と換えられて、守られた土地にかつてあった自然を復元する取り組み「100平方メートル運動の森・トラスト」を本格的にスタートすることになった。
また、これを機に保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、将来に渡ってこの運動地を守り続けることを明確にした。

2010年11月には、100平方メートル運動地内に最後まで残されていた11.92haの開拓跡地を取得し、目標としていたすべての保全対象地の取得を完了することができている。

 

5.
2024年
道の駅然とした佇まいの「知床自然センター」はすぐにわかった。
少し前に後にしてき知床五湖の駐車場にはたくさんの車が利用していたが、バスを含めて200台は収容可能と思われる「知床自然センター」の広大な駐車場には乗用車が3台しか停まっていない。
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この建物は、林野庁が起こした「知床国有林伐採問題」事件の最中(1988年)に斜里町が建てたもので、現在は「知床五湖フィールドハウス」と同じ(公財)知床財団の管理下に置かれている。
ただの道の駅ならばこのガランとした風景を見ただけで「閉鎖中」と勘ぐられ、建物内はもとより、駐車場にさえ入る車などないだろう。
シーズンには、ここにマイカーを置いて臨時に発着するシャトルバスで五湖へ向かう、という一般車立ち入り規制サービスの拠点にもなっていると言う。


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さて、「向い」にある筈の「しれとこ100平方メートル運動ハウス」は「向い」にはなく探し回った結果「裏」にあった。
この建物は「知床自然センター」建設に先駆けて(1987)建てられていて、これも斜里町の仕事らしい。

深い森に囲まれ、しかも、鹿がいた。
館内を隈なく見学したがその他の見学者はおらず、職員の姿も皆無だった。
閉館時間が迫っていることもあって急ぎどこかにあるべき私の名前を探した。

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しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借

入り口の脇に分厚い名簿が置かれてあったが寄付を受け付けた年代は新しいものばかり。
展示パネルが貼られている外廊下を1周すると建物の真ん中に四角い空洞(部屋)がある。
目測すると10m×10m、丁度100平方メートルの大きさの部屋である。
なるほど、100㎡の実際の大きさの表現かと思ったが仕掛けはそれだけではなかった。
壁一面に白い短冊が上から下までビッシリと張り付けられていて、近寄らなければそれは名札であるとは分からない。

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拠出金の提供者、言い換えれば知床に100㎡の土地を夢と一緒に買った人、49,000名余りの名札に違いない。
年代順なのか、あいうえお順か、ABC順か?
しばらくして、その名札は提供者登録住所の県別に、仕分けされていることに漸く気が付く。
愛媛県越智郡大三島町宗方で生活していた頃の話である。

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迷わず愛媛県の仕切りに飛びつくと、その中に私の名前が刻まれた名札があった。
周囲の名札の中には黄ばんだセロテープを剥がした痕跡のある物もある。
参加者が増える度に名札が都度1枚づつ造られ、47年前の1枚目からこのハウスに収容されるまでの10年間、知床の原野の風雪の中に置かれた歴史の面影を物語っていた。

5.
20年の間に5万人足らずの人から5億円強の金銭を預り、町が120ヘクタールの土地を買い集め保全した話。
夢が叶った物語の筈なのだが、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」を後にしてから振り返ると、そこに違和感が建っていた。
「知床五湖フィールドハウス」の建設費はおよそ2億円。
とすると、このハウスは1億円ほどか?
3階建てと見られる「知床自然センター」は10億か?

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『離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった』為に、苦肉の策で始めたこの運動。
そのたったの10年後に、運動で集めた拠出金よりも多くの金額を使って、斜里町は二つの観光施設を造ったことになる。

施設をだだ造っただけでは観光客は来やしない。
もしかしたら私たち拠出金提供者は、知床観光客を呼び込む為の全国に散らばるアンバサダー役に、現金と共に利用されたのかも知れない。

名札を残してくれるのは有り難いことだが、あんな豪華な建物の中よりも以前の様な原野の中で熊や鹿と一緒の方がそぐっていた、と考えるのは私だけではないだろう。

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かつては原野に野ざらしだった名札盤
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借

名簿だけで充分
「あんな無駄な建物造る金があるのなら、もっと違うことに使って!」
と、そう思わない輩はあの運動に参加していない筈だから。

とわ言え、私の名札が残されていたことに感動した。
なによりも、私自身が忘却していた半世紀も前の出来事を、今の現場の若い人たちが忠実に記憶し、かつ継承していることに驚きを覚えた。
彼らに感謝と共に今後の活躍に期待している。
2024/7/12 升

引用文献
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHP(しれとこ100平方メートル運動(北海道斜里町) (shiretoko.or.jp)
曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号)(曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号) | 滝川康治の見聞録 (takikawa-essay.com)


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2023/09/18

グチの煮付

大三島町宗方の塩田跡地を養殖池に改造するという設計の段階から藤永クルマエビ研究所の指導を受け、四国興産㈱の1号池と2号池が、業界初の画期的エビ養殖池として仕上がったのは1973年のこと。

すなわち、粘土底18,000㎡×2面の池全面に分厚いビニールシートを貼り、その上にエアレーション用の塩ビパイプを10メートル間隔で置き、それらの押さえとして鉄筋を縦横無尽に張り巡らせ鉄杭で固定、さらに池中央に総面積の1/3にあたる砂場の区画を設けたものだ。

この設計のメリットは、酸欠事故防止、砂場の汚染が軽減される他、エビの潜砂域が特定され収穫作業が容易になる事が考えられた。

しかし、実用に供するとデメリットの方が大きかった。

まず、投下した飼料がシートの合わせ目に入り込み腐敗する、収穫作業時に網を入れるとシートの押さえの鉄筋に引っかかる、池干し時に池底が泥濘し車両が入れない、シートにフジツボの付着が甚だしい、鉄筋の跳ね出しが多く作業船の往来に障害がある、等など多様なもの。

さらに、彼の研究所は初年度の生産後、90m×200m×2面を覆っていたシート全てを取り外し手洗いさせた後再敷設を命じたという。

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画像の2号池(上から3番目)には、まだ初年度の仕様(5区画の砂場)がそのまま残されている事から、
1975年頃の撮影と思われる。国土地理院空撮1974~78より

藤永クルマエビ研究所との契約は2年で終了し、以降、残された養殖場長以下のスタッフは、池底にある砂以外の物の撤去に幾年もの間腐心を余儀なくされた。

私がこの養殖場に緑色のカローラでたどり着いたのはこの頃(1977年)で、既に1・2号池は全面に砂が敷き詰められ、更に3号池と5号池の増設を終え、総飼育面積は90,000㎡となっていた。

 

当時、私は敷地内にあったプレハブの建物に寝泊まりしていた。
この建物は、創業当初藤永クルマエビ研究所からの技術指導員伊藤さんがご家族で生活されていた物と聞いていた。
もちろんお会いしたことはなかったが、養殖技術のみならず養殖池そのものを作る土木技術さえも有するレジェンドであるとあちこちで耳にしていた人物である。

養殖場のスタッフは場長以外全て通勤徒歩圏内の人ばかりで、トラさん、照兄(てるニイ)、賢兄(けんニイ)、昭ヤン、私の男組。鉾姉(ほこネエ)、立枝姉(たちえネエ)、淑子姉(よしこネエ)の女性組。

エビが池にいる限り、場長も含め交代で事務所付帯の畳部屋で、泊まり込みの宿直をする。
私は、近くの食料品店兼旅館に朝食を取りに通い、昼・晩は弁当を作って貰っていた。

宿直部屋と私の寝床はお隣同然なので、その日の当番の人と晩の弁当を共にしながら、私だけは晩酌もする。
必然的に会話がはずみ、ほとんどのスタッフと打ち解けて、いつの間にか地の方言を自在に使うに至っていた。

場長は今治の人で、毎朝愛媛汽船の今治始発フェリーに軽トラックで乗り込み、1時間をかけてやってくる。荷台には、場長の実兄で四国興産㈱の社長が経営する今治の水産卸会社(森松水産)が、その日に仕入れたエビの餌が積まれている。

帰り車には、梱包された全国の市場向けの活きクルマエビの製品が積まれ、場長が午後の早い便で宗方港から車だけフェリーに乗せて今治に運ぶ。

場長は宗方港の桟橋に置いてある原付で養殖場に戻り、今治港での軽トラックの受け取りは社長が出向き、日通航空今治営業所に製品を持ち込む流れである。

そして、場長は17時の終業と共に再び宗方港に走り、原付を乗り捨て、フェリーで帰宅すると云う日課で、日々回っていた。

 

当時は配合飼料が出回り始めた頃で、製品自体の信頼度も薄く、生エサに比べて高価なものだった。

クルマエビにとってベストの飼料はアサリとされていたが価格高騰の為、代替としてムラサキイガイが用いられていた。この貝は広島湾の牡蠣養殖筏に勝手にとりつき、牡蠣にとっては飼料であるプランクトンおよび溶存酸素採取の競合相手となり、業者にとってはその駆除が悩みの種である。

そのイガイを大型ダンプで日々運搬し、クラッシャー機で外殻を潰して飼料に供していた。
このイガイが20円/kg。
殻を外した肉量はおよそ15%なので実際の飼料としての単価は133円/kg相当になる。

この他の主な餌は徳島エビと呼ばれる冷凍の小エビで80円/kg。
つまり、肉量換算で100円/kg以下であれば、雑魚・雑イカ・雑エビ、なんでもがエビの餌に値して多少の鮮度落ちは厭わない。

 

場長が朝軽トラックに積んでくるのはその類の雑物で、朝の競りで売れ残ったような魚介を見合った単価で、社長が買い集めたもの。
大半は鮮度の遅れた異臭の放つものだったが、時にはまだ脚が動いているシャコがトロ箱いっぱいに収まったものや、小さいが刺身で行けそうな魚が混じっている。

そんな魚が場長が泊まりの日の晩飯のおかずになる。
聞けば、彼と社長の兄貴はこの仕事の前は自前の漁船をもって、そろって漁師をしていたと言い、船上での飯炊きは生れた時から身に付いているとのこと。

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その日の「餌」はトロ箱10杯程のグチ(イシモチ)の山。
2~3匹を外し残りをグチャッと潰して池に放り込む。

終業後、一風呂浴びた場長が鍋に酒と醤油と砂糖を入れて火にかけ、下ごしらえ済のグチをぶち込む。
一匹相伴に与ったが淡白でとても美味しい魚。
エビは贅沢な物を食べるんだなぁとの印象だった。

 

その後、「イシモチはエビの餌である」という概念から抜け出せずに半世紀の間生きて来たのだが、その他の水産物の資源的減少と価格高騰のあおりをうけて、近年になってこの魚が店頭を飾る機会が増えてきた。

今回贖ったグチは60円/100gの代物。
この単価はアジ・イワシの並み相場と同等なのだが、「エビの餌」時代のなんと6倍でクルマエビ用配合餌料に匹敵する単価である。

と、グチっていてもはじまらない。
生姜を利かせて煮付ければ、あの時の杉村場長の手料理より上手に仕上がった。

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2023/9/17 升

 

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2011/08/17

鮑今昔

三つ昔余も前のことに最早相成ってしまったのだが、私は大三島に暮らしている。

瀬戸内海来島海峡最大の島だ。

 

周囲89キロの島と云えど、この島には大山祇神社がある。

 

戦の神で、平安時代からの武将の刀剣・甲冑の類が奉納されており、その多くが国宝あるいは重要文化財に指定されている。

なかでも、私のような助平を瞠目させるのは14世紀半ばの大宮司の娘鶴姫(日本テレビ「鶴姫伝奇」1993年放映ではゴクミが演じた)が着用したセクシーな胴丸で、胸部がたわわに膨らみ腹部がキュッと締まっている。

よほど胸が大きかった大きかったに相違ない。

 

あまり知られていないが神社の敷地内に昭和天皇が海洋生物研究に使われた15トンの船「葉山丸」が「海事博物館」として有料で展示されている。

三つ昔前から入館者が少ないのは、へんてつもない小舟を設置しただけの施設を大仰な「海事博物館」とネーミングしたギャップから来る「?」であり、「葉山丸記念館」としたほうが納得しやすい。

 

この島で私は度々に漁に出た。

夜間の干潮時、シーナイフを右脛に帯び、左手に懐中電灯、右手に手銛を握り、磯に入る。

岩陰にボーっと寝ているクロダイやアイナメ、ウツボと格闘中のタコを手銛で抜き、闇の海底にしか顔を出さないアワビ・サザエのたぐいをシーナイフで抉る。

獲りたてのコリコリは、これはもう、猟人にしか味わえぬ。

さてそのアワビ、「葉山丸」が昭和天皇を乗せヒドロゾア(昭和天皇のご研究主題)の採取に駆け回っていた頃、葉山周辺の磯部の海底にはもちろん無数の鮑が間違いようもなく息づいていた筈である。
そしてかつて鶴姫が食したものと同等であったはずである。

筆者はかつて栽培漁業を考えた長大な雑文の中で、三浦半島に生息するトコブシのほとんどが人工的に生産した放流種苗由来のものであることを書いたことがある(こちら参照 http://y-masu.way-nifty.com/mar/2007/04/post_3997.html)。

外殻の中心部に残る白い斑点がまさに標識として有意し、それが当時与えられた餌に起因するものと断定した。

私の勤務する加工場では20年ほど前から西京漬けを製造しており、その因果でN水産から各種のサンプルの依頼が来た。
金目鯛・ツボ鯛・銀ヒラス・メダイ・アジ・サバ・ホタテ・アワビ・エビに至る原料を工場の親会社にあたる荷受け会社の営業が揃えた。
万が一採用されてヒットした場合、相当量が出る可能性があるため、原材料切れを起こさない在庫豊富な冷凍原料を慎重にチョイスしなければいけない。

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デパ地下などに多くの店舗を有する日本屈指の大手魚屋のN水産は、現在社長様の肝煎りで、魚介類の西京味噌漬けの販売に取り組んでいる。

私の工場ではオリジナルの西京味噌を用い、製造工程もできる限り手間を省き、銀ヒラス・メダイなど大型の魚だけを切り身にし、その他はフィーレ(3枚卸)のまま味噌に漬けた。

困ったのは殻付のままコチコチに凍っているアワビでしかも単価を考慮してかトコブシほどに小さい。

殻と内臓を除去すると大人の親指ほどしかない。

スライスするのも面倒なのでそのまま味噌を塗してサンプルに供した。(画像上)

 

過日、南房総に小旅行に出かけ、太平洋が一望できるホテルに一泊した。
フロントの受付嬢がそのままベルボーイとなり且つ夕食および朝食のウエイトレスまでもを兼ねる奇妙なホテルなのだが、設備と眺望は一級と言っていいだろう。
和風にアレンジされたフルコースディナーのメインディッシュは蒸したアワビだった。(画像下)

虹色の光沢美しいこれらの鮑の殻は数十年前から台湾などで陸上養殖されていたが、近年日本においても盛んになりつつある。

鶴姫ならばペンダントとして胸元に吊るしたかもしれない。

2011/08/17

 

追)西京漬けサンプルはどれも大受けと聞いた。

 

 

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2009/08/03

四丁目の異邦人 5

大三島でヒレ物(魚類)の種苗生産に着手することになった時、私は応援を請いに清水市の母校を訪れた。
マダイの種苗生産を研究対象の一つとしている研究室を恩師に紹介していただき、今春卒業見込みの学生と話をした。
私の様な野放図な学生が当時はまだ生存していたようで、2年後輩で神奈川は山奥出身の、一人の学生が大三島就職を即断してくれた。
彼はマダイを実際に作った経験もあり私は瞬時に心強いパートナーを得た。

思い出せば、彼の入社と、私の結婚と、初めてのクルマエビの自家種苗生産、が同時期に重なり合って、あわただしい一春を送った事が懐かしい。
彼の入社の翌年には養殖場付近に社宅が2棟建ち、私の家族と独身の彼がそれぞれ入居した。
田んぼを埋め立てた社宅の敷地は広く、私と彼(江川君)は早速小石交じりの固い山土を掘り返し、そのほとんどを開拓して畑を作り上げた。

養殖場の他のスタッフも周囲の人も皆柑橘類の栽培を代表とした農業に携わっている地域で、若い水産畑の技術屋二人組みが毎夕鍬を振るっている姿は、周囲の注目と笑いをかって然るべき行動だったろう。

所帯持ちの私は必然的に家計の為にトマトやピーマン、ナスにキュウリなど生活必須野菜の栽培を余儀なくされる。
だが、独身貴族の江川君は気楽なもので、スイカやメロン等に挑戦する。

彼が来て初年度のトラフグは見事に失敗、2年目に200万尾の生産に成功、3年目には400万尾をつくりあげ、ようやく軌道に乗った。
物事、軌道に乗ると退屈するのが私の性分で、出荷を終え丁度暇を持て余している時期に沖縄から“来ないか?”の声がかかると、1も2もなく退職願いを提出した。

旅たちの前の晩、
「この畑も明日からお前一人だなぁ。」
「来春は瓢箪を作ろうと思っています。」

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建て替えた家に舞い戻り、取って置いた例の丸太の端材で居間に続くベランダを作り挙げ、旧門柱に使用した丸太を手鋸で輪切りにして庭の飛び石替わりの埋め込みを終えた頃のことだ。
世の中はゴールデンウイークに突入していた。
何処にも旅行など行く当てのない私は、いたずらの材料を仕入れに、いつものDIYショップへ向かった。
花木売り場はこの時期、各種夏野菜の苗が所狭しに並んでいる。
ベランダ菜園用のトマトとナスの苗木を探していると“大瓢箪”なる苗木が眼に留まった。
あの夜から十数年の時が流れたその時、江川君の云ってた瓢箪ってなんだろう?と、ふと思い出した瞬間だった。

瓢箪の苗木を購入したものの、棚を作るのも面倒なので、庭の日当たりの良いモミジの木の根元に植えた。
苗木はするすると成長し、幹をつたわりやがて鬱蒼としたモミジの木陰に消えた。

秋口に、近くに住む友人を招き、梅ノ木の下でBBQを洒落込んでいた時の事。
突然、頭上の枝がバキバキッと乾いた音を立てた。
見上げると、友人の薄い頭頂から50㎝の処に薄緑色の物体がぶら下がり、ユラユラ揺れている。
長さ30cm直径15㎝程で腰が見事にくびれている。
瓢箪だった。
モミジから隣の梅の木に伝って伸び、人知れず開花して結実したものが肥大して重くなり、枝を折ったに違いない。

文献を漁り、本格栽培を開始したのはその翌年の事だ。
少しでも多くの実を収穫したいが為、種子からの出発を試みた。
大瓢・大長等大型種を主体に種子を購入し、加温を施して3月初旬に種を蒔く。
育種装置はガラス水槽に高めのスノコを敷き、底に水を入れて観賞魚用ヒーターで温め、スノコの上に種子を蒔いたビニールポットを並べたもので、槽内はサーモスタットを用いて30℃で管理する。
7~10日で発芽し、ポットのまま間引きをしながら本葉6~7枚になるまで水槽で育苗する。

発芽と同時に忙しくなる。
先ずは土壌つくり。
苗を植える予定の場所を、直径1m深さ50㎝ほど掘り下げ、魚のアラや残飯・犬猫の糞及び無機肥料を適当に混合して埋め戻す。
夕顔科の植物は肥料喰いなのでこの土壌つくりで全ての成果が決定されるといっても過言ではないと書いてあった。

次いで棚の支柱立て。
葉が繁茂して結実を迎える時期には、棚の上に同じ面積の畳が乗る事になると思っていたほうが正しく、支柱はしっかりとしたモノを立てる必要がある。
正直な話で、瓢箪の蔓は人造物を嫌う。
青竹を見立てた市販の塩ビの支柱は蔓の巻き付きが弱く、風で飛ばされる事があり、支柱に巻き付かせるならば出来れば杉の丸太か竹を使うべきだ。
棚も竹を使いたいところだが塩ビでも充分使用に耐える。
支柱にしっかりと括りつけ30cm程の間隔で升目に組む。大型瓢ならば1株当たり少なくとも1畳分のスペースが必要だろう。

さて、いよいよ植え付け。
根が充分に張った苗をポットから引き抜き、支柱に近い場所に植えつける。
3月に発芽させた場合、植え付け時期の気温がまだ低いので、苗をビニールで覆う配慮が必要だ。

すくすく成長し蔓が棚に達する前に蔓の先端を切り落とす。
すると、その下の葉の付根から子蔓が出る。
元気のいい子蔓を2本残して他は撤去する。
子蔓に葉が6~7枚付き、その先端が棚を越えたとき、再び芽摘みを施して同様に孫蔓が合計4本出来る。

これは孫蔓に雌花が付きやすい事から行われる剪定で、放置しておくと花が咲いたと喜んでも実は雄花ばかりと言う結果になる場合が多い。
孫蔓も本葉6~7枚で止めて雌花の開花を待つ。
雌花の子房は既に将来なるべき瓢箪の形を持っているので開花前でも雄花と区別される。

一つの棚で複数の株を管理している場合、夕方に開花する雌花に雄花の花粉を受粉させて廻る頃には各孫蔓が交差し合い、曾孫蔓以降の万全な剪定作業は不可能となる。
あとはほったらかしになってしまうのが例年のパターンだ。

前述したが夕顔科は肥料喰い。
水の要求量も半端ではなく、適度な追肥と散水を怠ると、せっかく結実した瓢箪も成熟前にしおれて落果する。

 

本格栽培1年目の年は、家屋の南側の庭を使い、結果的に家族の大クレームが付いた。
愛犬の日除けに頃合いの棚になると思っていたのだが、大長瓢の鈴生りで、棚の下は人はともかく犬までも侵入できなくなってしまったのだ。

1年目の反省を踏まえ2年目は大長瓢の栽培拠点を当時平塚にあった職場の花壇に移し、自宅ではもっぱら丈の短い大瓢に切り替えた。
庭の棚からロープを幾筋も2階のベランダまで繋げ、曾孫蔓以降の多次元栽培を試みると共に、耕作面積を拡大する目的で家屋の北側にあるコンクリート敷きの駐車場にも棚を作り、巨大な発砲スチロール箱を利用してプランター栽培に挑戦した。

この効果は著しいものがあり、多次元栽培ではまるで夕張で高倉健を待つ“黄色いハンカチ”の様に、四丁目のくすんだ青空に中瓢がぶら下がった。
一方駐車場でぶら下がっている逸物を車の屋根に当たらないよう、古女房の古ストッキングの中に入れ棚に釣り上げていると、お向かいのお婆とはす向かいお爺が珍しくそろい踏みしている。

お婆曰く
「かわったヘチマもあるもんだのぅ。」
お爺曰く
「今度はなんのイタズラじゃぁ?」

だが、この頃から私の瓢箪栽培に暗雲が立ち込めて来た。
家人のクレームはもっぱら棚から落下する毛虫の糞に集中。
よく観察すると薄緑色の青虫が葉の裏側や幼果に取り付き表皮を貪り食っている。
最初は体長1㎜程度なのだが、あっという間に3㎝程に成長する。
調べると、夕顔科の植物大好き虫で名をウリキンウワバと云う、夜行性の蛾の幼虫らしい。

不思議な事に、何処から来て何処に行くのか、私は未だその成虫およびサナギを目撃した事はない。
最初は平塚の花壇に被害をもたらし、次いで、自宅がやられた。
翌年もその翌年もやられ、更に、年を追う毎に被害が甚大になる。

瓢箪を諦め大ヘチマに切り替えた事があるが、これは盗難にあった。
長さ1m直径15cmに及ぶあっけに取られる大物が出来上がったが、犬の散歩帰りの女房が肩に担いで足早に遠ざかっていく、ヘチマ泥棒の姿を遠目で目撃している。
成熟前のまだ重たいものだったのだが、犯人はヘチマが食材であるとの認識のある沖縄地方を含む東南アジア出身の輩に違いなかろう。

犯罪を誘発する作物を作るのは私の本意ではなく、結果、現在は瓢箪もヘチマも作れなくなってしまった。

収穫した瓢箪はカシューを塗り重ね、会津塗り等漆塗りの技法を駆使して数々の芸術作品にして、サヨナラを言わなければならない人達への記念品として活用してきたが、在庫残り僅かになった。

2007/02/25 升

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2008/01/12

トーチランプ

配管業を本業としながら農業を営んでいるその方は、既に60を越えるお歳で、鉄パイプ(鋼管)を焼いた砂で自在に曲げる技を取得している。

海水やエアーの配管が所狭しと張り巡らされているのが陸上の養殖場の普なる設備で、その配管施工を私たちはその名人に常々総てお願いしていた。

鋼管を焼いた砂で曲げるほどの技量を持つ職人にとって、塩ビ管はまるで玩具のようで、使い古したトーチランプ(もちろんガソリン・トーチ)一つで、エルボー(L字継ぎ手)や平ソケット(直線の継ぎ手)などのパーツを全く使わずに、どんどんエスロンパイプを延長していく。

手間賃と継手代のどちらが高いか?の議論はさておき、早速私は弟子入りをした。
もう30年も前、大三島でのことだ。

 

ここで、トーチランプの薀蓄を述べねばなるまい。
トーチとはタイマツのこと。
松明⇒手に持つ炎⇒トーチランプがネーミング源か?。

今はカートリッジ式ガストーチの時代となったが、市販のカートリッジ式には現在大別して2種類。
外観は全く同じに見えるのだが、バーナー専用のガスボンベ使用を余儀なくされるものと、何処でも手に入る携帯ガスコンロ用のボンベが使用できるものだ。

誰が考えても後者のほうが使い勝手が良いのだが、現在どのDIYショップを覗いても前者しか見当たらないし、価格も高い。
業界の策謀と見るのが当然だろう。

ボンベにノズルを装着し、バルブを開け、引き金(点火装置)をカチッとやればゴーゴーと炎が噴出する。
いわば100円ライターの手軽さで使える優れもの。
工事現場のみならずキッチンでも活躍する。
カツオの土佐造りや流行の“炙り寿司”などこれさえあれば簡単だ。


さて、いよいよガソリン・トーチの構造講釈に移るとしよう。
材質は真鍮で出来上がっている。
したがって、磨き上げれば、レトロなるオブジェとして充分な品格を産まれ持っている。

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基本編
構造の80%は燃料を収容する部分に占められ、およそ1ℓのガソリンが備蓄可能。
円柱型ガソリンタンクの上部にラッパ状の火炎噴射ノズルがある。

ここまではカートリッジ式と同様なのだが、ガソリン・トーチにはさらに必須付帯部品が二つ取り付けられている。

その一つは燃料加圧用ポンプ。
トーチの取っ手に当たる部分が二重構造に細工されていて、上部のバルブをピストンすることにより、内蔵弁がガソリンタンク内に空気を送り込む仕組みだ。
シコシコすればするほどタンク内の空気が加圧され噴射圧が増大する。

いま一つの部品はノズルの直下に設けられた小さなお皿で、これが何の為にあるのかをご存知のお方はもう充分にマニアだ。

使用方法。
まず、トーチランプを裏返す。
ランプの裏側はロート状に窪み、円の中心部分にネジ式の栓がある。
この栓を開けてガソリンを補給する。
底部全体がロートなのでジョウゴを必要としないのがこの道具の素敵な処である。

砂等の異物が混入しないように注意しガソリン注入後栓を閉め、平らな場所に置き、ピストンを繰り返す。
20回程か、適度な反発圧を感じたところでピストンバルブをネジ止めして固定する。

ついで、例の火炎噴射ノズル直下の小皿にガソリンを注ぎ入れ、マッチあるいはライターで火を付ける。
黒煙と供に赤い炎が上がりノズルを包み込む。
これはノズルを焼くことにより噴射されたガソリンを瞬時に気化させる理屈に基づいている。

ノズルが充分に焼けた頃合いに、後方にあるバルブを開け、ノズルに点火する。
加圧が充分であればゴーゴーと青白い炎が一直線に飛び出す。

一度火が付けば、逆さにしようが横にしようが、お構い無しに使えるのがこの道具の優れた処である。

応用編 

①塩ビ管を曲げる。
塩ビ管にはVU 管とVP管がある。
前者は主に排水用に使用されています。
VP管は圧力に耐えうる肉厚構造で給水用に使われます。
VU管は肉厚が薄すぎるので、火を近づけるとあっという間に溶けてしまう為、トーチランプでの加工には不向きだ。
ここでは、VP管を対象にする。

まず、曲げたい部分を遠まわしにトーチで焙る。
同じ場所を長く焙るとパイプが焦げてしまうので、パイプを転がしたりして気長に満遍なく焙ること。
塩ビ管がゴム状の弾力を帯びてきたらしめた物、自在な角度で曲げられる。
これでエルボー(直角の継ぎ手)等は不要になる。
さらに、1m以上の細い単管であれば全長焙れば円を作り出す事も出来る。

②塩ビ管をつなげる。
まず、管の先端部分を焙る。
要領は曲げる時と同じ、焦がさないように。
同じ管径の接続の場合は、いたって簡単、軟らかく膨らんだパイプの先端に一方のパイプを挿入するだけ。

異径管の接続は少しやっかいになる。
塩ビVP管の規格は内径13㎜をスタートに16・20・25・30・40・50・75・100・125・150~と続く。
たとえば、40㎜と30㎜の接続。
一見簡単そうだがどうしてこれが難しい。
30㎜管の外径は40㎜管の内径より小さい。
従って、40㎜の内側に30㎜を繋げるためには、下記二つの様に、頭を使わなければいけない。

その1 ― 30㎜と30㎜を接続し30㎜管の外径を大きくしたうえで不要な部分をカットする。
40㎜管を炙り、外径を太くした30㎜管を挿入する。

その2 ― ビール瓶の胴体にガソリンを吸わせた糸を底辺に水平となるよう巻きつけて点火して焼く。
熱い内に木槌で叩けば糸で焼けた部分で瓶が両断される。
40㎜管の先端を炙り柔らかくし、ビール瓶の口の方を逆さに立て、内側のすり鉢状になっている凹部分に押し込む。
これで40㎜管の先端が細くなる。
次いで、30mm管の先端を炙りビール瓶の口(凸)部分を押し込んで先端を広げ、先に作った40㎜管の細い方を差し込んでおしまい。
要所要所、必要時に水で冷やせば炙った塩ビ管は瞬時に固くなる。

トーチランプならではの仕事だ。

 

こうした技術を取得していると、我が家にある20余の金魚水槽管理に付帯する、あらゆるパイプ加工に応用できる。
13mm~75mmのエスロン材があれば、高額の市販飼育パーツなど購入することもなく、自在に作ることができる。

だが、問題が一つだけある。
エスロンパイプの端切れが捨てられなくなるのだ。
例え1cmの端材であっても異径管の接続に使えることを知っているとゴミではなくなる。

私にとってゴミではない宝の山が、家人にとってはただのゴミ。
私の趣味は何処まで行ってもいつも家人に叱られる。

この技を教えてくださった野々江の師匠村上氏はもう90歳を越えているはずだ。お元気か?

2007/10/31 升

追)燃料タンクに微細な異物が混入することが度々あり、ガソリン噴射時にノズルに詰まり、炎が消える。
このトラブルの対応用に細いピンが普通付帯されている。
このピンを噴射口に外から挿入して異物を押し込めれば再び使用可能になる。
このピンを紛失した時は、昔の紙製の荷札に付いていた細い針金で代用できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007/12/09

ケン兄

今年も大三島のケンニイからミカンが届いた。

毎年毎年10キロ箱で2ケース、どうんと、送っていただく。

自分で栽ったものを、どうんと贈ってはばからない、しかも年々おいしくなっている。

まさにうらやましい人の代表である。

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「キミちゃんかい、相変わらず声は若いのうゃ。ミカンおおきに!」

「マッサン。60になったばかりじゃけん、まだまだ若いわ」

「ほーね!おめでとーお。で、ケン兄はいくつになった?」

68じゃけん、もう完全にお爺じゃ。ここにおるけん、今代わろうわい」

ケン兄が電話口に出た、

「マッサン、養殖場がとうとうだめじゃ、潰れてしもうた!」00012

 

ケン兄は私の大三島時代にお世話になった人。

日本クルマエビ養殖史の最初から現在までを、技術的見地ではなく、現場の立場から見続けて来た一人だ。

半農半漁時々観光で生計をたてる島で、ケン兄も大きなミカン畑を経営しながらの養殖場勤務だった。

 

愛妻キミちゃんの胸が少しだけ小さいことが何かの拍子で話題になったとき、
「うちの嫁はなぁー、乳(ちち)はこまいが乳豆(ちちまめ)は太かぞ!」
と、カラカラ笑ったものだ。

養殖場を定年退職した現在、柑橘類の品種改良に自費と情熱を投入する、憧れの夢人に変貌を遂げている。

 

ふところの太いケン兄から、以前一緒に汗して勤めた養殖場の暗い倒産劇の仔細を聞いてしまった私は、このまま電話をハッピーにエンドできなくなった。

 

話題を変えて、

「ケン兄、パール柑って知ってる?天草の名産なんだけど」

「おー、聞いたことはある、皮の厚いやつだろ。それがどがいした?」071115_184908

10年前に食べたパール柑の種を植えたら芽が出てね、庭に植えたら今年初めて実が成った。それが20センチを超える大玉でね、あれ、銭にならないかしらん?」

 

まじめな話は大三島弁がもう使えない。

この柑橘で一攫千金を企んでいる私がいた。

 

「そりゃー、ザボン系じゃな!わしの畑にも1本ある。じゃがな、マッサン、よーく聞けよ、ありゃー喰いもんじゃない。正月になぁー、見て楽しみだけのもんじゃ!」

「うっ!・・・・・」

 

柑橘栽培の師匠ケン兄の一言で、今年の「年に一度のご挨拶」は、よりアンハッピーな気分で幕が閉じた。

 

2007/12/08

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007/07/07

ヤンバルクイナ

大崎上島の一周道路を時計回りに廻ると、島の北端に程近く、路面ぎりぎりに迫る大きな池が左手に見える。
フェンス沿いに進むと左にポッカリと入り口が開いていて池面へと下り坂で繋がっている。

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ダイヤ養殖、その入り口こそ私にとって海業界へのまさに入り口だった。

坂を下りきった右手に事務所があって、奥には独身社員の田中さんと渡辺さんの住む部屋があった。

当時のスタッフは、本社筋である三菱重工経由で三原から通ってくる社長、池田場長、堀江副場長、技術屋の渡辺・田中、それにお名前を忘れてしまったが何でも作っちゃう器用な人がいた。

事務の小母さんと10名ほどのパートの小母さんもいた。

 

在学時代、恩師から先輩が勤める養殖場を紹介され、4年次の夏季休暇4_20230803162001及び冬休みに訪れた。

5期上の先輩渡辺さんのお部屋に居候を決め込み、長期に亘って車海老養殖の実際を経験させて貰った上、アルバイト賃金まで頂いた。

 

堀江さんを始め現場の人達から「卒業したら来るがいい」と言われていたが、実際に行って見ると、今年は新規採用の予定は無いと社長から申し渡された。

慌てたのは現場の人達で親身になって私の就職先を探して頂いた。

ダイヤ養殖はその数年前まで車海老養殖の創始者でもあるF研究所から技術者2名を常駐させて技術指導を受けていた。

その経緯から、F研究所経由でたちまち大崎上島の隣の島(大三島)の養殖場への就職が決まった。

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なんせ隣の島なので再々ダイヤ養殖へは脚を運ぶことになる。

渡辺さんはもとより堀江さんまでもが私を後輩扱いして歓迎していただいた。

堀江さんは養殖場の入り口に隣接するお家で雑貨屋を営む奥様(チャコちゃん)と暮らしていて、奥様のお手料理を再三ご馳走になった。

エビの病気を見ない古き好き時代だった。

 

数年後、渡辺さんが沖縄の企業へ移籍され、その1年後に私も沖縄へ飛ぶことになった。

そう、車海老の養殖のメッカは沖縄へと変遷しつつあった。

 

お別れの挨拶で堀江さんを訪ねた。

相次ぐ弟子達の旅立ちを前にしてチャコちゃんのお料理をつつきながら、「わしゃ~、ヤンバルクイナじゃけん。」 

「はぁ~?」

「飛べないのさ。」

ポツリと言った。

 

沖縄本島の浦添漁協が養殖場を新設した時、当時のスタッフの一人と親しくなった。

養殖はまったくの素人だったのだが、

「ヤンバルクイナをはじめてカメラに収め、報道したのは私なんです。」と云う。

あの鳥はホントに飛べないの?の質問に、

「飛べません。でもヤンバルはとても素敵なところだから、他に飛んでいく必要がないのかも知れません。」

 

むすび


 竹原市沖の海遊園が釣り堀スタート

竹原市沖の大崎上島最北端の東野町でクルマエビ養殖と海の生物と触れ合える自然体感園を開園している(有)海遊園(豊田郡東野町37-2、堀江保社長)はこのほど、同所にあるエビの養殖池を利用して自然に近い環境で成長したチヌやスズキ、ギザミなど近海魚の釣り堀を今年から始めた。

天然物の釣りに近い手応えが楽しめることから、太公望の注目を集めている。
釣り堀は、海で産卵・孵化(ふか)した魚類や甲殻類をクルマエビの養殖に使用していた広さ約一・六haの池に自然導入し、一部魚の種苗も移放する。
その後米ヌカやバクテリアなどを同池にまくことで、自然に繁殖した小生物やプランクトンが餌になり、自然に近い環境で成長する仕組み。
同池には釣り堀用に現在、約二十~三十㎝にまで成長したチヌやスズキ、ギザミ、ヒラメなど約十五種類の魚が生息している。

釣り堀は入場料大人一人三千円、十五歳未満は一人二千円。
予約制で一日十人まで。
釣れるのは四時間。
釣具はレンタル可能で、餌付き一式五百円。
自前の道具や餌の持ち込みもできる。
釣り上げた魚は全て無料で持ち帰り可能で、送料自己負担で宅配便も利用できる。
申し込み・問い合わせはTEL08466・5・3356まで。

大崎上島の生産者たちでつくるFFアイランド大崎会に所属し、地元産品のPR活動でも活躍している同社の堀江保社長は、
「釣り堀など自然体感園事業は、当社が管理している施設を活用して、都市部に住まわれている人たちや地域の子どもたちに、海と親しむ場を提供することが目的です。ぜひ一度お越しください」
と呼びかける。

(有)海遊園は、平成十二年三月に閉鎖したダイヤ養殖(株)(三原市)が経営していた養殖場跡地に、平成十二年六月、同所の閉鎖を機に退職した元場長の堀江保さんが地元の有志三人と設立。
同所には四区画に仕切った養殖池があり規模は合わせて約十ha
その内の一区画(約三・四ha)で粗放・有機栽培したクルマエビを十一月から三月にかけて、個人の自家消費向けに販売している。

また同社はクルマエビ養殖以外にも他の三区画の養殖池を利用して、今回の釣り堀のほか三月から四月まで開園する魚すくい・カニ取り企画を「自然体感園」と名付け、二区画で広さ約五・〇haの養殖池を有料で開放している。
また同施設の隣接地に今年二月から、ブルーベリーやミカンなど柑橘類を植栽し、フリーゾーンとして果樹園などの整備も進めている。
ーびんごトピックス  2001530日号よりー

師匠堀江保はいつ見てもいい仕事している。
教わらなければいけないことがまだまだたくさんありそうです。

2007/07/07 升

なお、師匠はhttp://blog.seikoji.main.jp/?month=200603から、2006/03/16の記事で拝顔が叶います。

あとがき 2023/8月
この施設は現在下記サイトの企業が素敵に利用されているようです。
 FARM SUZUKI - ファームスズキ広島県大崎上島

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2007/04/22

栽培漁業 第四部

  種苗生産実務

 

残念ながら私はマダイを作った経験がない。
海産魚の種苗生産は各地の水産試験場が開発したマダイ種苗生産のマニアル(「マダイ種苗生産の現状と問題点」九州・山口ブロック水産試験場マダイ種苗生産研究会編 昭和52330日 社団法人日本水産資源保護協会 発行)を基本として、以降多様な魚種の種苗生産に応用・展開され、今日に至っている。

トラフグもその範疇に入り、採卵方法からふ化までの受精卵管理にマダイと比較して大きく異なる点があるものの、ふ化後の管理は基本的に同様である。
ここでは、トラフグの種苗生産の実際(およそ30年前の)を時系列で述べていく。

 

  グリーン(海産クロレラ)の培養
トラフグの初期飼料であるワムシの餌となる。
元種は水産試験場などで入手する。300目以細のネットを通過した海水で順次希釈し、硫安・硝酸カリ・尿素(100g15g5g/t)で施肥をする。

  光合成を満遍なく促進させる為に、エアレーションによる撹拌が必要。
培養濃度は白色円形の透明度板(径
15センチ)による目視観察でコントロールされ、透明度15センチ程度(2×107乗細胞/cc)を基準において希釈培養を繰り返す。

  一般的に1週間で2倍に増殖する。

  ワムシの混入を防ぐ為にも、ワムシの培養槽から出来るだけ離れた場所に設置する。

  ワムシが混入した場合は2ppmの塩素で処理できる。

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  管理にさほど手間がかからないが、イーストとクロレラだけでワムシを培養する場合、ワムシ培養槽容積の数倍の容積がクロレラ培養の為に必要とされる。
その昔はなかったが、近年では濃縮クロレラなる青汁の様な液体が市販されているらしくクロレラ培養槽の容積比率が軽減されている筈。

 

 ワムシ(シオミズツボワムシ)の培養
多くの魚類の仔魚は最初に口にする餌として“口に入る大きさ”で“緩慢に動くもの”を選択する。
多様な動物プランクトンの中で、その条件に匹敵しかつ安定した培養が可能である生き物がシオミズツボワムシ(以下ワムシと言う)で、もともとはウナギの養殖池に多量に発生する厄介者として知られていたらしいが、日本の水産試験場陣が海産魚用に開発した最大の革命的技術と言える。
この“活き餌”の存在によって、その後、トラフグを初めとして殆どの海産魚の種苗生産技術が、今日に於いても確立され続けている。

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  漢字では「輪虫」と書くこの生き物は1㎜の1/5ほどの大きさで、どちらが頭でどちらがお尻か分からない。

  リンドウの花の様な体形で、開口部の先端には無数の繊毛を有し、その反対側にはムーミンのシッポが付いている。

  繊毛を振動させながら餌を取り込み、同時に水中を徘徊する。

  シッポの付け根に睾丸の様な黒い物体を1~2個ぶら下げている固体が混じるが、それが彼らの卵だ。

  環境が悪化すると、卵の周りに固い殻のシールドを作り(耐久卵)、水のないところで何年でも子孫を眠らせることの出来るしたたか者でもある。

この風変わりな生き物は海水と淡水が交じり合う汽水域に普通に見られるが、種苗生産を行う水産試験場などでは周年培養を継続しているので元種はお願いすれば分けて貰える。
0.10.3ミリ程のワムシが食べられる餌の大きさは23ミクロン程度のものでクロレラ(単細胞緑藻類)の細胞長に匹敵し、1時間当たりおよそ1万細胞のクロレラを1匹のワムシが捕食する報告もある。

  
ワムシにとっても、更に、ワムシを捕食する海産魚介類にとっても、クロレラ給餌が理想的なのだが前述のようにクロレラ培養には膨大な培養面積が必要になる。
従って、クロレラ培養面積削減の為に代替の餌としてイースト菌が使われる。
パンを焼く時に使われるあのパン酵母で、生あるいは冷凍されたものを用い、ドライイーストは不可である。


海産魚の仔魚は高度不飽和脂肪酸要求量が高く、イーストで培養されたワムシで仔魚の飼育を継続すると
1週間程度で高度不飽和脂肪酸不足で全滅するコトが知られており、これを補う為に仔魚に与える直前のワムシにはクロレラを充分に摂取させる。
近年利用されている濃縮クロレラも高度不飽和脂肪酸が足りないとのコトで、やはりクロレラの添加が必要らしい。

なお、クロレラの代わりに予め高度不飽和脂肪酸を添加した油脂酵母という商品も当時から市販されており、クロレラ不足の事態には心強い存在だ。

さて、ワムシ培養の実際を述べていこう。
水産試験場などから入手したワムシの元種を、飼育水1cc当たり100個体ほどの密度になるよう、希釈あるいは濃縮して培養をスタートする。
エアレーションによる適度な通気は不可欠である。
先行して培養を開始しているクロレラに余裕がある限り、最初はクロレラ海水を使った方が無難だ。

クロレラ培養槽とワムシ培養槽とを配管で繋げて置けば、スイッチ一つでポンプが稼動し、新鮮なクロレラ海水が供給され、これがワムシへのクロレラの給餌方法だ。

ワムシの数は日々計数する。
計数結果でその日の管理メニューを組み立てる為、計数作業は必然的に朝一に行われる。
エアレーションで培養水面がポコポコ盛り上がっている辺りから駒込ピペットで培養水
1ccを正確に吸い取りその中のワムシを数える作業だ。

熟練すればピペットのままカウント出来るのだが、抱卵数までも確認する為には顕微鏡が必要になる。
升目の刻まれたスライドグラスの上に培養水を垂らし洩れなくカウントする。
左手でスライドグラスを升目に沿って動かしながら、右手指先に
2つのカウンターを置いて人差し指で成体を、中指で卵を同時に計数する。カチカチカチカチと。

容量5t以上の水槽では複数のサンプルを取りその平均値を用いて容積倍をすればその水槽の総個体数である。
たとえば、
10tの水槽に200固体/ccがカウントされた場合、その水槽に20億のワムシが蠢いていることになる。
彼らは日々全個体数のおよそ
20%増加するのが平均値で、抱卵率の増減は明日以降の増殖率を占う一つの鍵になる。


例に挙げた水槽の明日の予測培養密度は
240固体/ccに達し、これは少し多い。ワムシは100200固体/ccの間で最も増殖率が高くなる。そこで密度調整すなわち間引きを行う。

120個体/ccに調整したいのならば基本的に水量を倍にすれば良く、空いている水槽に培養水1/2を分槽した上で、新たな飼育水で満たす。餌としてワムシを翌日に使う場合は300目のネットで培用水の1/2をサイフォンで抜きながらワムシだけを濾し取り、別水槽でクロレラを給餌する。
ちなみに、イースト培養のワムシを濾し取り濃縮すると薄いピンク色に、クロレラのモノはアズキ色を呈する。

密度調整を施した後にイーストの給餌を行う。

ワムシ100万固体に対しイースト1gが日間給餌量の目安で、午前と午後に分け、水に溶かしたものを培用水にヒシャクで撒くのが一般的だ。

12億のワムシには1.2kのイーストが1日の糧となる。

私がいた瀬戸内海大三島の施設には20t×10面・40t×2面・100t×2面・120t×2面・200t×3面の水槽を備えていたが、ワムシ使用ピーク時には、仔魚槽40t×2面・クロレラ培養専用槽120t×2面以外の全ての水槽でワムシが蠢いていた。

最大在庫2千億固体に達するワムシの増殖率とクロレラの増殖率のコントロール、そして何よりもその最大在庫時とワムシを捕食する仔魚のワムシ要求量とが合致しない限り、机上計算上で予定した種苗の数の確保が出来なくなる。

微細動物の為に想像を絶する神経と肉体を費やすのがワムシの培養なのだ。

 

  採卵

  トラフグの採卵は全て漁労によって漁獲された天然親魚を用いた(現在は親魚を加温・日昭量調整などを施し養成し、且つホルモン注射により、自在に採卵時期を変化させる技術を用いているらしい)。
場所は漁船上であったり、水揚げされた産地市場の中だったり、様々だ。

  余談になるが、私が試験的にトラフグに関わり始めた30年ほど前はトラフグの成熟卵と精子は、漁師や市場関係者の物珍しさのお陰もあって、無料で手に入ったが、2年後には有料(魚体重の減った分の請求)になり、競合他社が増加しだした3年後以降専門のブローカーなるあやしげな業者も出没し、親の肉よりも高い代物になってしまった。

 

  トラフグの産卵期は春先で、棲息水温の高い所から順に卵巣が成熟していく。

  養殖業者は年内に対象魚が金になるか否かが経営に決定的な影響を及ぼす為、早期に出来るだけ大きな種苗を要求する。

  為に、我々種苗屋は少しでも水温の高い南の漁場(鹿児島や天草)から採卵の旅を開始する。

  僅かな情報が頼りのこの旅は、エセ情報や天候不順などの理由で、10日以上の現地滞在は覚悟して出発しなければならない。

トラックの荷台の、携帯発電機・ガソリンタンク、エアレーション用小型ブロア、受精卵を収容する500ℓ容の蓋付き水槽複数、海水採取用のホース・水中ポンプ、洗卵・計量用のザルと台秤、人口受精作業用のバケツおよび軍手、は必須アイテムだ。

  
採卵は至って簡単な作業で、水揚げの現場で腹から卵を垂れ流しながらノタウチ捲くっているデップリした♀を抱え上げ、腹を絞り、バケツに成熟卵を収容する。

  次いで同じく精子を垂れ流している♂を抱え上げ、腹を絞り、先に収めた卵にかけてよくかき混ぜる。

  5kを越える親フグを扱う場合、正に格闘もので、出刃包丁の様な鋭い歯に気を付けないと甚だ危険だ。

 

  以上で人口受精は完了する。

  その後の作業は、不要な精子を海水で洗い流し、ザルで水を切り計量して、輸送用の水槽に収容する。

  トラフグの平均卵重から計量結果で採卵数は割り出される(600/g)。

  ♀の大きさに影響されるが1尾から100万粒単位の卵を得ることが出来る。

  
トラフグの受精卵は、付着性沈性卵なので水槽収容後に放って置くと水槽の底で、団子状態のまま沈殿し、酸欠によって死亡する。

  これを避けるために強めのエアレーションを行い、常に水中に卵を浮上・分散させることが肝要。

  
輸送に長時間かかる場合や、
1日で予定の卵数が確保出来ずに現場に留まる場合は、数時間おきに水交換が必要になる。

  通気を止め、受精卵を一旦沈殿させ、上澄を廃棄したうえで新鮮な海水をポンプアップする。

私はとあるフェリー船上でこの作業を行っていた時、上澄をサイフォンで抜き取る為に30ミリのサクションホースの端を水中に突っ込み片方の端に口を付け、思いっきり吸い上げて水を呼んだ途端、勢い余って海水と一緒にフグの卵(テトロドトキシンを多量に含有している筈)を思いっきり飲み込んでしまったコトがある。
その時は、遺書まで書いたが事無く未だに生きている。

 

④卵管理

  ふ化場に到着した受精卵は再計量して、5,000/ℓを上限に、ふ化器に収容する。
ふ化器は、底辺が漏斗型で通気によって常に卵が水中を浮遊させる事が出来る専用の物が理想的だが、普通のパンライト(
500ℓ容の軽量・円筒形水槽)でも卵密度を下げれば問題はない。
卵が重なり合って沈殿すると窒息する。

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海水をオーバーフローさせ流水管理を基本とする。

  
水温
15℃の環境では受精後およそ10日でふ化する。

  
卵径およそ
1㎜の黄白色の受精卵は発眼すると黒ずんでくる。
だが、黒っぽくなったから発生が進んでいるものと安心してはいけない。
10日間という比較的長い卵内発生の間に、発眼卵の表面には糸状菌や藻類など様々なものが付着し、顕鏡しても卵内が窺がえない程になる。
生死を判定するにはカバーグラスで押し潰さないといけなくなる。

  付着物は卵内代謝にも悪影響を与えると思われ、ふ化率に影響を与える。
ふ化までに必要な積算温度を加味して加温を施し、ふ化までの時間を短縮したほうがいいのかも知れない。

 

⑤ふ化

  ふ化が近くなると卵内では仔魚が動き出し、受精後9日目の夜はふ化器の傍らで泊り込むことになる。

  数万~数十万の仔魚が次々にふ出すると、ふ化器の水面は通気の影響でキメの細かい泡が立ち込め溢れ出す。
生ビールの入ったジョッキの様だ。

  同じ親魚から採卵した受精卵だけを収容した単一のふ化器でも、全てのふ出が完了するまでには半日程の時間がかかる場合がほとんどで、発生の段階から魚にも個性があるのかも知れない。

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  産婆役の私たちは、ふ化器の泡の立ち具合を随時確認しながら、順次ふ化仔魚を回収する。

  通気を一旦停止し、未ふ化卵を沈殿させた上で、ゴマ粒大のふ化仔魚は海水ごとサイフォンを利用して、サランネット製の蚊帳様の仔魚採取ネットを逆さに張ったパンライト水槽に移動する。余分な海水はパンライトの天場からオーバーフローされ、ふ化仔魚が濃縮される仕掛けだ。

  海水を抜いたふ化器には新たに海水を注入する。

 

  以上の作業を繰り返し、“蚊帳”の中にある程度の密度になるのを見計らって、通気を強くして仔魚が槽内で均一になった瞬間に、内径30mmの塩ビパイプを水面から底面にかけ突き刺す。

  パイプの上端を手の平で密閉した状態で引き抜き〔柱状サンプリング〕、ビーカーに内容水を静かに注ぎ込み、仔魚をカウントする。

  容積倍で仔魚総数を把握した上で仔魚を仔魚飼育槽に移す。

  ふ化器を10本も管理していると休む間もない徹夜仕事になる場合が多い。

 

⑥ふ化仔魚の管理

 清透な飼育水と云う環境はあらゆる意味で免疫力に欠ける。

 そこで、仔魚を収容・飼育する水槽に予め培養クロレラを添加して取り敢えず飼育水中の微生物の優先種にしてしまう。

 添加量は飼育水が僅かに色付く程度で充分で、単細胞植物であるが故に水質の浄化、及び、仔魚の餌として給じるワムシの餌にもなる。

 通気は極弱めに、ゆりかごを軽く揺さぶる程度で充分だ。

 

  ふ化したばかりの仔魚の全長は 3㎜ほどの大きさで、口はまだ開口していない。

  細く透明な尾鰭を僅かに震わせながら水中を漂う。

  腹部には卵のうを持ち23日は摂餌せずに卵のうの養分を消費して成長する。

  したがい、給餌はふ化後3日目を目安に開始する。

 

  摂餌開始直後の仔魚は餌を追い求める力はなく、たまたま目の前にいる自分の口よりも小く、且つ、動く物をパクッとやるだけだ。

  従って、当初のワムシ給餌量は仔魚の個体数よりも“遭遇率”に重きを置き、10固体/cc程の密度になるようワムシを飼育水に添加する。

  
この場合、余りにも仔魚の収容密度が低いと、せっかくクロレラで2次培養された栄養豊富なワムシが多量に残ってしまい、挙句の果ては餓死寸前のワムシを捕食させる結果になりうる為、仔魚の飼育密度を過去実績から効率の良い基準に保つ必要がある。

  飼育面積が換えられない場合は、水深の調節でそれが可能となる。

 

  生物界の喰う喰われる関係は面白い物で、仔魚もワムシも+の走光性を持っていて、摂餌開始後23日も経つと光の当たる方向に仔魚が集積する様になる。

  そして、フッと見るとワムシも水面に白い帯状となって固まっている。

  逆の習性を持って生まれれば良いものの、彼らは食われるために活きているのかも知れない。

 

⑦稚魚の管理(プランクトン摂取時期)

  ワムシの摂取量は日増しに増加する。

  基本的な管理はワムシの培養と同じく飼育水中のワムシの個体数/ccをカウントし、常に23固体/ccを維持するように心がける事。

 

  すなわち、翌日のワムシ要求量を予測してクロレラによるワムシの2次培養を開始するワケだが、翌朝、既に飼育水中のワムシがゼロになっていることもしばしばある。

  慌てて、配合飼料や冷凍ワムシ(培養中に在庫過多になった場合冷凍保管する事がある)を“しのぎの餌”として投与するのだが、一切口にしないので困り者だ。

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  体色も黒ゴマ色から次第に黄金色を帯びてくる。

  体形もフグ独特のデップリトしたモノに近づいて来る。黒ゴマのままのものはやがて死亡する。

  
黄金色の仔魚をスライドグラス上で胃を切開し、内容物を顕鏡すると、
1尾から200300固体のワムシが出てくるのは驚き物だ。

 

  そして、問題はこの頃から発生してくる。

  前述のようにワムシの日間平均増殖率は20%である。

  たとえれば100億のワムシを維持しておけば毎日20億のワムシを稚魚の餌として採取可能と言う事だ。ところが、20%という数字はあくまでも平均値であって、50%の時もあればマイナスの日もある事を承知していないといけない。

 

  20億固体を採取した後に増殖率がゼロになったとすると、翌日のワムシ在庫は80億に留まってしまう。さらに、一旦増殖率が低下すると回復まで1週間ほどの時間が必要なのは経験済み。

  今日20億のワムシを摂餌した稚魚群の翌日の要求量は20億より減少する事はいたって有り得ない。

  代替の飼料がない場合、ワムシは以後23日で底をつく計算になる。

 

  フグの種苗生産に於ける飼料系列はワムシ→ワムシorアルテミア→ワムシorコペポーダ→魚介類ミンチ肉(配合飼料)の順である。

  彼らは全長9㎜までは動かない物は食い物として認知しない。

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  全長4mmにまで成長すればアルテミア(別名ブラインシュリンプ:アメリカ・ユタ州や中国の塩水湖に生息する甲殻類。成体で体長10mm程になる。塩水湖が干上がる等の環境悪化に適応し、再び訪れるであろう雨季を期待して、固い卵殻を持ち何年もの間水がなくても眠り続けられる、耐久卵を大量に放出し成体は死滅する。その量たる物、まるで砂漠の砂に匹敵するらしく、人は大型重機を持って採集にあたるらしい。缶詰や瓶詰・真空包装の形態で流通されていて、用途は淡水魚や甲殻類の稚仔魚の餌としてふ化幼生を使うぐらいしかない。80%海水に耐久卵を入れ、強制エアレーションを施した上水温30度で管理すれば、2436時間でノープリアス幼生として長い眠りから目覚めて来る。日本では近縁に豊年海老と呼ばれる種がいる。)のノープリウスが捕食できるようになる。

  しかし、イーストだけで培養されたワムシと同様に高度フ飽和脂肪酸含有量不足の為、アルテミア単独で給餌を継続すると海産稚魚は1週間で死亡する。

Photo_20230802171702

全長6mmに達すると大型のコペポーダ(カイアシ類:淡水・海水を問わずあらゆる水中に棲息する代表的動物プランクトン。海のミジンコ。)を飲み込める大きさになるのだが、コペポーダの安定培養技術は未だに開発されていない。橈脚(カイアシ)

 

  上記した飼料系列から全長9㎜までの稚魚にとって、ワムシの存在が生死に関わるほどの決定的な要素なのだ。

  換言すると、ワムシ培養能力で種苗生産尾数が決定される、という事。

 

  さて、稚魚が配合飼料やミンチ肉に餌付く前にワムシの絶対量が不足した場合、管理者は苦渋の選択を余儀なくされる。

  すなわち、稚魚の間引き。

  飼育を複数の水槽で管理している場合は、ワムシの適応量に合わせて、幾つかの水槽の飼育継続を断念する必要に迫られる。

  これを躊躇すると全滅のリスクの方が大になるとの認識が必要だ。

⑧稚魚の管理(固形飼料摂取時期)

 前項で述べたように稚魚が固形飼料に餌付くまでの間の管理は気を抜く暇はない。

 1日でも早く離乳食とも云える固形飼料に餌付くよう、稚魚の空腹時を意図的に作り、アカアミのミンチや配合飼料を少しずつそして気長に与え続ける。

 はじめの5日間程は完全無視が当たり前と思ったほうがいいだろう。

 そして、フッと稚魚の鼻頭らが離乳食を突き始めれば、この勝負、9割がた勝利が決定する。

 

 一度餌付いた稚魚はこの頃から水槽内を円形に回遊し、ひたすら次の投餌を待ちながら群泳を始める。

 アカアミ・シロアミ・イカナゴを主体に、フグの魚体に合わせてミンチ機械のプレートの目合いを変えながら与える。

 

 水面に餌が散ったその部分だけそのままの形のシルエットで波しぶきが浮き上がる。

 稚魚がわれ先に餌に飛びつく瞬間、奮闘1ヶ月後ようやく味わう養魚の醍醐味だ。
波しぶきが上がらなくなった瞬間が飽食点と見極め、常に腹八分目の給餌を心がける。

また、波しぶきの勢いの強弱は、疾病や水質悪化などあらゆる“異常”を知らせる彼らからの最初のメッセージになるので、投餌者はいつもと少しでも異なる反応を決して見落としてはいけない。

 

 この時期から稚魚は急速に成長する。

 それに伴い投餌量も増加し流水飼育下に於いても水質悪化が懸念され、かつ、ストレスを与えすぎるとフグ達はあの鋭い歯で互いを噛み合う。

 したがって、暫時適度な飼育密度になるよう分槽が必要。

 

 一方、魚病もこの時期から発生する。

 私は海水性白点病で全滅させた経験があるが、高密度集約種苗生産環境下では、避けて通れない現実がる。

 皮膚が白くビランし、尾尻も溶けたような小さなフグ達が、餌にも反応せず水中をただ漂い、やがて白っぽいズルズルの塊となって飼育槽の底に堆積して悪臭を放つ。

 粘液が糸を引くそのおびただしい死骸の山をスコップでかき集め焼却処分した事のある管理技術者は、魚病医学・薬学の圧倒的立ち遅れに始めて気付き、呆然とするばかりだ。

 

 養殖用の種苗は全長50㎜あれば充分で、この頃には沖だしして、網生簀飼育に対応が可能になる。

 

⑨取揚・出荷

 稚魚の胃に未消化の餌が残っていると取揚げ作業中にこれを吐き出す。

 嘔吐そのものは稚魚に致命的なダメージを与える物ではないが、活魚運搬車などに収容した場合、嘔吐物がたちまち水質を悪化させ最悪の結果を招くことがある。

 そのため取揚げ予定のある水槽は少なくとも給餌後12時間の間隙を置いた上で作業を開始する必要がある。

 

 槽内の一部の魚だけを処理する時は、出来るだけ朝一番に取揚作業を行い、その後残留稚魚に給餌する。

 稚魚が通過しえない目合いの帯状のモジ網の下縁に沈子・上縁に浮子を取り付けた刺し網様の平網を用意する。網の両端は竹棒で固定し、延長は水槽の幅いっぱい、網高は水深より高く縮縫〔イセ〕も充分に取る必要がある。

飼育槽の水深を人の膝高程度まで下げ、網の両端をそれぞれ人が持って魚を水槽の一箇所に追い込む。このとき、網の目合いが中途半端だと魚が網目に刺さり文字通り刺し網になってしまうので要注意。
また、有結節網は魚体を傷つけるので無結節網を使用する。

一箇所に追い込んだ稚魚をザルですくい上げ、まず平均体重を割り出す。
取り揚げたフグを全部計量し、それを平均体重で割った数字が尾数になる理屈なのだが、この理路整然とした算数に落とし穴がフグの場合1つだけある。

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フグ独特の習性で、パニックに追い込まれた彼らは水中では水を、空気中では空気を口から飲み込み胃を膨らませ、下関辺りの土産物屋にぶら下がっているフグ提灯同様の姿に変身する。

 敵に対する威嚇と身体を大きくする防御の双方の表れと思われる。
空気で膨れた物は差し支えないが、水を飲んだ場合体重は当然重くなる。ピンポン玉に変身するのは
100%ではなく、計量のザルによってまちまちでゼロの事もある。

しかも、水を切った状態のザルの中では胃の内容が空気なのか水なのか識別できない。
躊躇していれば魚が弱るばかりなので、計測者は“カン”で秤の表した数値を瞬時に修正する能力が要求される。
すなわち、ドンブリ勘定、いい加減な計数なのだが個々のザルの誤差が相殺され、集計された数字が正しくなればいいのである。

なお、作業中フグは目の前の物に手当たり次第噛み付く。
人の手足も遠慮なくその対象となり体長50㎜を超えるとかなり痛い。
フグ同士も噛み合って体表のいたるところに吸盤上の歯形が残るが、特に薬浴しなくても致命傷にはならない。

稚魚(種苗)の運搬には活魚車・活魚船が使われる
いずれも収容能力の限りがあるし、注文に応じた尾数で取り上げた種苗を一旦区切る必要が生じる。
この場合は予め平均体重から算出した総重量を設定し、計量係りの隣に記録兼暗算係を置いておくと便利だ。

カウントの終わったモノは、活魚車が横付けできる環境であればそのままザルで対応可能だが、そうでない場合には人海戦術によるバケツリレーが必要になり重労働が課せられることになる。

 

 余談
 種苗生産技術者はあらゆる場面でその重労働を軽減する為、“水”の移動にサイフォンを利用する。

少しでも水面に落差があれば高所→低所の移動はサクションホースを水中に突っ込んで思いっきり口で吸い込みサーフォンを稼動させる。ポンプのようにインペラが無いので種苗を傷つけることも無い。
種苗生産技術者はサイフォンの魔術者でなければ過労死するだろう。

 

       所要経費

  筆者等が1981年大三島で実際に行ったトラフグ種苗生産に於ける経費を下表に纏めた。

  試験開始後3年目にしてようやく技術的確立に至った時の生データーである。

  多くの種苗生産施設と技術的に異なる点は、廃止塩田転用のクルマエビ養殖池を利用した半粗放式種苗生産システムにある。

  なお、1982年には同方式にて400万尾の50mm種苗を生産した。

 ア 生産の概要
大三島の事業所には、クルマエビ養殖目的に廃止塩田跡を再利用した深さ1,5m程の素掘りの池が4面あり、瀬戸内海特有の干満による潮位差を利用し、水門の開閉で海水の交換を行う仕組みだ。

クルマエビ養殖の年間スケジュールは3月~4月にかけて九州沿岸で漁獲された親エビを購入しクルマエビの種苗を作り、養殖池に放養後の開いた種苗生産施設を利用してトラフグの生産に取り掛かるのが普通だ。

 

      試験的に行った初年度に、何かの拍子で孵化仔魚がエビの養殖池に流れ込み、エビの間引き出荷が始まる夏になって、エビ採捕用の網に70㎜サイズのフグが多量に混獲されたことから思いついたのが次に述べる「半粗放型トラフグ種苗生産方式」だ。

      既に述べたように、トラフグの種苗生産の量的な制限要因は初期餌料の供給能力にある。 
      そこで考えたのは、エビの養殖池(18,000㎡/面)に施肥を施し人工的に植物プランクトンを繁茂させそれを餌とするカイアシ類等の動物プラン        クトンの繁殖を促し、ワムシとアルテミア幼生で体長6㎜まで育てたトラフグ養魚を直接放つやり方である。

      当時の水試や栽培漁業センターなどは、狭い水槽で水量1㎥当たり何千尾の種苗を作り出す技術開発競争が凌ぎを削り、1事業所当たり数十万の生        産が限界だった時代の中、この乱暴な発想は受け入れられにくいものだった。

      ただ、18,000㎡×1.5m=27,000㎥の水量に300万尾の6㎜仔魚を放しても110尾/tという極めて薄い密度にしかならないことが唯一の心の         支 えとなった。

      実際、100m×180mの大きさのプランクトンで濃褐色に混濁した池に放流後、1週間ほどは彼らの存在の確認は全くできなくなる。死骸が浮き          上がらない限り生きている証拠だと信じるだけの時期。

     まるで、宇宙から大気圏へ再突入した宇宙船の通信が数分間途絶えるのと同じ緊張感だ。数日後、池の周囲に配置した餌まきおばさんの撒いたミン       チの欠片をポツリポツリ突きに現れる。勝利の瞬間。

      施肥には安価な雑菌だらけの鶏糞を用いたり、繁茂する植物・動物プランクトンの種類も量もコントロール不能のまま初年度で120万匹の生産に        成功したが、経過データーなど何もなく論文など書ける訳がない。

      これらの論文はかの世の中を騒がせた「STAP細胞事件」の様に追従あるいは再現実験が可能かどうかが問題視されるが、その後10年間この方法        で年間400~500万の種苗を生産し続ければ何をか言わんやである。

 イ 使用使用施設
  20t×10面・40t×2面・100t×2面・120t×2面・200t×3面の水槽及びクルマエビ養殖池18,000㎡×1面。

 ウ 経過

    受精卵780万粒→ふ化仔魚275万尾(ふ化率35.2%)→集約飼育全長7㎜まで180万尾(歩留65.5%)→粗放飼育50mm種苗122.1万尾(歩留67.8%)。

通算歩留44.4%、通算ワムシ投与数668.2億固体。

  エ 生産費〔円〕

採卵経費    13k                 65,000

施肥費

鶏糞      2400k              40,000

硫安       278k             ?

尿素        14k              ?

過燐酸石灰  35k           ?

      飼料費

イースト 2965k        680,000

油脂酵母              150,000

アルテミア耐久卵           80,000

アカアミ 32,520k       2,113,800

イカナゴ 14,790k          887,400

        飼料添加物
         クロレラエキス40        100,000
         ハマチエードS 60k       130,000
         ユベラフードE100 20k   30,000

          小計                       3,664,2003.00/尾〕

 

残念ながら、夥しい回数チャーターした活魚運搬船・活魚運搬車に支払った金額は不明。

人件費は筆者と同僚の薄給4ヶ月分およびバケツリレーを手伝って頂いたオバちゃんのパート代。

なお、当時のトラフグ養殖用50mm種苗の相場は100/尾だった。

 

 2006/12/03

  画像:ワムシ、神奈川県水産技術センター内水面試験場より。

コペポーダ、瀬戸内圏フィールド科学教育研究センター 竹原ステーション(水産実験所) 水産実験所トップページ (hiroshima-u.ac.jp)  Acrocalanus gracilis  (♀)
     その他、公益社団法人 山口県栽培漁業公社  トラフグ - 山口県栽培漁業公社 (jimdofree.com) より拝借致しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2005/11/08

樋門(ミーフーガ―編)

プロローグ
<「ミーフガー」と呼ばれているこの岩は、風と潮の浸食でできた大きな裂け目が独特で、女性の象徴とされています。
久米島では古くからこの岩を拝むことで子宝に恵まれると伝えられていて、今でも多くの女性が手を合わせにやってきます。
また、ミーフーガーに対して男性の象徴とされているガラサー山というのが兼城近くにあります。> 
《久米島観光案内書より》

mihuga

 

本文
陸上養殖施設の水の取り入れ口あるいは排水口には、施設の規模に応じストレーナーが取り付けられている。
観賞魚用の水槽のろ過循環器に於いても同様である。 
その役割は魚を逃がさないためや、不必要物の進入を遮断することにある。 
樋門とは本来「水門」を指す単語だが、瀬戸内の海老養殖業界では注排水門周囲に張り巡らされたストレーナー部分も含め、『樋門』と呼んでいる。 
樋門の構造は養殖池底と隣接外海最低潮位の高低差、及び、当該地先干満潮位差により、更に、隣接外海生物生態学的環境によって大きく異なる。 
最も過酷な樋門の役割を担っているのは瀬戸内海沿岸に分布する廃止塩田跡地利用の、いわゆる「瀬戸内方式」と呼称される形態の養殖池のそれだ。 
この方式は一つの水門によって注および排水を兼ねている。 
樋門付随のストレーナーが無い限り排水時の商品の散逸はもとより、注水時に新鮮な海水と供に豊潤な海の産物、鯛・チヌ・イカ・タコ・ぼら・子の代・フグに至る海老大好きなる捕食魚が怒涛のように押し寄せる。 

水産陸上養殖技術の要のノウハウ「換水」の設備部分を、一手に引き受けているのが「樋門」なのだ。
水中の植物プランクトンに飼育水の浄化を依存するのがクルマエビ養殖の特徴だ。 
すなわち、清浄な海水⇒投餌⇒排便・呼吸⇒飼育水富栄養化⇒植物増殖による分解⇒増殖植物の排除。
この当たり前の『青い星』特有のサイクルを私の先輩方が、巧みに利用したのがエビ養殖の起源だ。 
従って、樋門の維持管理が重要課題の一つになる

 

大三島3号池(18,000平米)の樋門(ここのスタッフはヒーモンと発音する)のスクリーンの全長は20メートルに及び、スクリーン(被覆金網)の清掃等作業がしやすいようにその内周の水面上に人一人歩ける程度の足場が取り付けられている。 
外枠はL字鋼で組み丈夫なものだが、LとLの間に渡した板は塩田時代の廃屋の外壁を剥いだ杉板で、案外弱い。

そのスクリーンの中で私は潜っていた。 
丁度干潮時で分厚い鉄の水門を開け、珪藻の増殖で茶褐色に色付いた池水を排水している。 
高水温期の午後、燦燦と照りつける太陽光線により飼育水中の珪藻を始めあらゆる植物が光合成を活発に行い、その結果、溶存酸素が飽和点をはるかに超える。
 
飽和量の倍の15ppmは当たり前だ。 水素イオン濃度(PH)も8.9まで跳ね上がる。 
これらの数値は魚類にとってははなはだ危険な水質レベルだが、クルマエビの「気泡症(酸素過飽和の飼育水下で鰓呼吸することによって血管内に気泡が生じ、死に至る)」は聞いたことはない。
 
この水中に溶け込み切れない酸素が、池底に沈殿したヘドロや海老の老廃物さらにシオグサ・アナアオサ・付着性藍藻に気泡となって取り付き、それらを水面に浮上させる。 
この自然の輪廻を無償で使うのが優れた養殖技術屋の条件の一つだ。 
すなわち、このときに水面に浮き上がった諸々を、水位差を利用しこれもまたタダで池外に排泄する、これ以上ない安価なるクリーンアップ作戦なのだ。


スクリーンの両端を解放し(クルマエビは夜行性だから)浮遊物を樋門の中に直接誘導する。 
当然20メートルに及ぶ被覆金網の外側にも盛んに浮遊物が吸い付けられ目詰まりを起こす。 
私は樋門内部に累積された浮遊物を開かれた水底の水門口に誘導するため、ヤス子姉(ネー)はスクリーンの目詰まりをボウズリ(デッキブラシ)でこそぎ落す任務を担い、それぞれの作業を行っていた。

ニコチンで汚染された私の肺では水中で2分しか運動できない。 
ヤス子姉がスクリーンの左端から年甲斐もないジイパンの脚をW型に広げしゃがみこみ、竹で延長した長い柄のボウズリを巧みに操っている姿を、スライドショウのように2分おきにマスク越しで確認する。 
12回目の呼吸の為浮上した時、ヤス子姉の両の足(長靴)は水面下に埋もれていた。
「なにしよん!ヤス子姉」
「ぷーゥ。」 
口から泡を吹いている。
「踏み抜いたんか?」
「ぷーゥ」 
おばさんの股間がL字鋼の先端に食い込んでいた。
「ぷーうぅ」 
干しあげた糠漬け前の大根のような脚を水中から押し上げる。
「ぼ、ぼぼが、うちのぼぼが、こわれてしもうた。」 
足場の上に横臥し叫ぶ。

ヤス子姉は特異な人。 
広大な養殖池を干しあげた後作業の最中、
「ちょっと、ションベンばってこうわい」 
「ヤス子姉よ、また池ん中に穴掘るのか?」 
男衆の野次にもなんら同ぜず、隠れる場所もない18,000平米の平坦な砂地の真中で、つるんと尻を剥き穴を掘る豪傑だ。 

「はて?この島は?」
といぶかしんでいた当時、
「まっさん、島の女皆がおかしいのではなく、おかしいのはあの人だけだよー」 
ほこネーから教わっていた。
「どがいね、やすこねー」
「うんにゃ、いたい」 
「医者に行くがいい。」
「が、ほんまにこわれてしもうたなら、うちおとうにしかられる」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「どがいになってる?」
その40を目前としたその女性は水中マスクの私の目前で、なんと!

 

エピローグ
久米養殖7号池樋門は分厚いコンクリートで保護されている。 
   
その樋門の東側600メートルの位置に聳え立つ、「ミーフーガー」と呼ばれている岩は、風と潮の侵食でできた大きな裂け目が独特で、久米島では古くからこの岩を拝むことで子宝に恵まれると伝えられているらしい。

Photo_20230903095001

だが、その姿を眼にしたことはない。 
男性観光客の殆どは顔を緩ませ、女性観光客の殆どがただ顔を赤らめるだけだ。
2005/01/30 升

画像①は久米島観光協会HPより拝借。
画像②は根本佳恵氏提供。

 

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2005/01/16

バイオレットパールカラー・ラブ

駅に着いたのは夜の香が漂い始めた頃だった。 
定期券を買う学生に紛れて千円の切符を買った。 
バスの運賃である。
 
遠いな。 
17時25分発の終バスは町中を30分ほど走った後、くねくねとする山路に入った。 
外は昨夜の雪が薄く、まだ解けずに広がっていた。 
二時間余り、昔の陽水の唄を心のプレーヤーで聞きながら、ヘッドライトに照らされた狭い路面の一点をぼんやりと見てすごした。
 
気がついたら大かたの乗客は、とっくに通り過ぎてきた集落で5人10人と散り、5~6人だけがまだまわりで揺られていた。 
運転手に、私が下車すべき停留所を聞いた。 
外は寒そうだけれども、あと30分ほどであったかい心に会えるはずだ。

スイス村と書かれたバス停でおり、一緒に降りたおばさんに教えられた道を行く。 
暗さと氷で足元が危ない。 
と対岸から彼が飛び出してきた。 大八木君である。 
卒業以来2年ぶり。 
正確を期するなら648日ぶりである。

養魚の仕事についた宿命であろう。 
彼は山深い渓流でマスを作り、私は孤島でエビを作っている。 
幼な子をたくさん抱えた二人は外に出られない。 
今回の旅は養魚の一環。 

昔、「人売りの今宮君」というニックネームを貰った人がいたが、私は人買いに大学へ行った帰りのより道である。 
後で人に静岡のついでに来たと言ったら笑われた。 
全くついでという近さではない。

「すまんなあ。 雪がなかったら車で迎えに行ったんだけどなァ。」
彼は雪道で車を落としている。 
凍りついたフロントグラスに10円玉大の穴をあけ、そこからの視界だけで運転した結果だそうだ。 
この日の朝、沼津でわかれた三宅君からの情報である。

さっそく、ニジマスの刺身と塩焼をこさえてくれた。 
すでにプロの腕前である。 
海水魚を食べつけている私の舌には川魚はうまかった。 
よくいう臭みはなかったが、海のものと全く味がちがう。 
肉のうまさにつられて頭までかぶりついた。 
マスの頭はやわらかい。

外は小雨がばらついている。 
酒も切れぬし、話も尽きない。 
突然、彼の口からこんな言葉が出てきた。

「ワシのヨメさんがさァァ。」
この地方独特のシリあがりの発音。
「へっ!」
「ワシのヨメさんがさァァ、今 町に行ってるんでなァァ、会わせられんで残念だなァァ。」
「ヨメが決まったんか。」
「そうだよゥゥ。」
「ありゃりゃ。」

彼に彼女が出来たことは風に聞いて知っていたが、何とヨメさんという言葉を聞こうとは思ってもみなかった。
「ワシのヨメさんがなァァ、かわゆくてかわゆくてのォォ。」
キリン児かダイジュカといわれるほどの体形と風貌を有する彼の周辺に、学生時代一つも浮いた話を聞いた事がない。 
たまに女性の名が出ても、それは誰が見ても明らかに片思いであり、全てが彼の悲劇となって幕が一瞬の内に下りた。 
私ものろけのよっちゃんと呼ばれた男、こんな山の男に負けてはならじと反撃を開始した。

「大八木君、ぼ、ぼくのヨメさんもちちはこまいけど、おしりもこまいよ。」
とわけのわからん事を言って、彼のほこ先をかわそうとしたが、彼、全然相手にしてくれず、
「やせてるんだけどなァァ、おっぱいは大きくてなァァ。」
「ホウかい、ほうかい! まあチチの話はエエワ。 この前ワシも結納を・・・・・・・」
「ワシのヨメさんがなァァ、今一人で下宿してるじゃん、だから心配で心配でさァァ。」
「何のそがなコツ、ワシなんかもう半年も食うてないんで、ほでも心は一つ、人類はみな兄弟ェ。」
「ワシのヨメさんがさァァ、かわい過ぎるんでさァァ、虫が付いたらどうしようかしらん。 町へ出た娘はみな変わってしまうみたいだからなァァ。」
「何ぞ、ぼくらなんか何たって愛しおうておるけん、せわないワ。ハハハハッ。」
「ワシのヨメさんがさァァ、まだ17才でよォォ。」
「ヘッ!」

 

この17という数字で私はあきらめた。 
完敗モンテカルロである。 
今の世の中、ナナちゃんでさえ、ナナ才ではないのである。
「な、何、ジュジュ17才。」
「ワシのヨメさんがなァァ。まだ高校生でさァァ。」
「ありゃりゃ。」
「彼女がワシに一目ぼれしてなァァ。ワシもはじめ冗談かと思って相手にせんかったんだけど、本気なんだなァァ。でワシキかわいいしさァァ、お母ちゃんも、もろうてくれて言うんでなァァ。」
「なるほど・・・・・」

それから後の数時間は聡オンステージである。 
とどめなく彼の口からあまい言葉があふれ出た。 
私の発する音は、「はあ」 「ふうん」 「よおい」 「アーア」 の四種に限られ、もはや人間ではない。 
メゲタ録音機である。 
彼から聞いたところによると、10日ほど前にここを訪れた我等が協力隊員・ソロモンの星、山本栄二君にも同様の仕打ちをしたらしく、栄ちゃん曰く、
「大山君だけはお友達だと思っていたのにな。 こんなとこ来なければよかったな。 アーア。」
 
これほど徹底したのろけ話を私は知らない。 
まるで石坂洋次郎を読むようだ。 
のろけという大人用語が、赤面するすがすがしさを持つ。 
男の誰もが、夢を見つづけている恋の真っ只中に今、かれは浸っている。 
バニラアイス色の恋だ。

197478

もう2時だ。 
河の音も寒さで凍りついた。 
下のスナックから彼の部屋へ移った。 
まだ寝かしてくれない。 

両頬のエクボで煙草がすえるほどの大きな穴をほっぺたに浮かべて、写真を見せてくれた。 
見覚えのある写真立てである。
確か2年前はメグミちゃんとアサミちゃんのブロマイドがはさまっていたはずだ。
 
拝見した途端、思わず声を出してしまった。 
「おうい!」 
そこには、メグミもアサミもいた。 
その他この世の愛らしさを一人で引き受けたような女の子がいた。 
妹である。 
ヨメというイメージなど全く浮かばない。 
眼が合ったら声も出せまい、赤くなろう、もちろん手に触れる事など許されない。

すかさず彼が追い討ちをかける。
「実物の3分のⅠぐらいのかわいさなんだよォォ。」
 
朝、彼の子供達に始めて会った。 
手が切れそうな冷たい水の中にいた。 
数千、いや数万、数十万尾の、水の色にバイオレットパールの染みを無数にちりばめた魚がいた。 
みごとな流線型。 
川を遡るためのものだ。 
海魚にはない皮膚の滑りが触れずに感じられる。 
ニジマス、ブラウントラウト、アイゴ、ヤマメ。 
澄み切った水に完全に溶け込んで呼吸をしている。 
まるで大八木君がここ板取村の空気に同化しているみたいに。

私には美しいほどその時金がなかった。 
帰りの運賃を計算したら、残りが5円であった。 
大八木君ありがとう。 
君の全財産を貸してくれたね。 
千円。 
電車の中でひもじくないようにと、ヨメさんのお母さんに頼んで、ハムサンドを作ってくれたね。

 

いま、新倉敷に着いたところです。 
三原まであと1時間。 
島までフェリーで更に1時間。 
明日から早速工事です。 
クルマエビ・マダイ・トラフグの孵化種苗生産施設をつくります。

(昭和53年11月30日 新幹線名古屋・新倉敷間にて)
2004/09/10 升 (海鳴9号 3.1979 掲載文)

画像は国土地理院航空写真1974~78 板取スイス村養魚場付近

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