カテゴリー「久米島時代」の27件の記事

2012/03/11

スペシャリストへの道程

1 一番だしのとり方を説明した次の①~④について、適切ではないものを選びなさい。

A  固くしぼったふきんで昆布をふき、鍋に昆布と水を入れて30分ほどおく

 鍋を火にかけ強火で10分、沸騰したら昆布を引き上げる

 差し水をしてからかつお節を入れ、煮立ったら火を止める

 アクをとり、かつお節が沈んだらふきんなどで静かにこす。アクがでるのでしぼらない

1127日(日)とある検定試験に地図をたよりに試験会場である「築地厚生会館」へ赴いて驚いた。
沖縄本島北西に位置する久米島でクルマエビの養殖場を任されていた30年ほど前のころ、スタッフの教育を兼ねた慰安旅行先に東京を選び、当時主たる出荷先であった東京都中央卸売市場で、全国から集まるクルマエビの競り売りの現場を視察することにした。
経費を切り詰めるため、我々と取引のある築地の荷受(東京都中央卸売市場内で東京都から許可を得た「大卸会社」)の斡旋を得て一夜の宿になったのが当該試験会場だったのである。

問2 タイは古来より日本人に愛されてきた魚です。
とくに色や姿かたち、名前の語感から、お祝いの席に珍重され、今も代表的な高級魚です。
タイについての次の説明のうちから、適切ではないものを選びなさい。

 

A  心機能を正常に保つビタミンB1、老化防止によいビタミンE、貧血を防ぐ鉄分などの栄養素を豊富に含んでいる

B  “エビでタイをつる”というのは、わずかな元手で大きな利益を生むたとえである

C  静岡県の名産「興津鯛」はアマダイを一夜干しにしたものだが、アマダイはタイの仲間ではない

D  海を力強く泳ぐタイは高度回遊魚に含まれ、身に大量の色素タンパク質を持ち、脂がよくのる

会場に入って驚いた。
合格しても社会的になんら利潤・責任さえもないこの検定試験に70名もの人が集まり(受験料4,800円也)、内17名の女性のほとんどは20代と見た。
試験は大学入試試験同様に秒刻み且つ厳格に進行し、携帯機は電源を切られ、カンニング者は即刻退席を告げられ、試験中の用足しには身体検査付きで許可するとのことである。

問3 水産物の食品表示は、私たちが安全に食べるための情報を伝えてくれますが、表示には例外も多く、ときには表示内容が現実に即していない場合もあります。
次のうちから、表示義務に反しているものを選びなさい。

A  外国の海でとれたマグロだが、日本の遠洋マグロ船が漁獲したものなので「国産」と表示した

B  刺身の盛り合わせパックを販売する際に、産地がさまざまで特定できないので、産地表示をしないで販売した

C  原産国チリでは「メロ」と呼ばれているが、日本ではなじみがうすいので、「ぎんむつ」の名称を表示した

D  養殖のカキだが、人工的にエサを与えたものではないので、「養殖」の表示をしないで売った

会場を出て驚いた。 
そこには「場外市場」なるものがあり、会場に隣接している。
休市日に当たる場内の閑散と対照的に人数が出ていてしかも行列が多数箇所発生していた。
江戸前寿司・串焼の魚介・海鮮丼など食いもん屋の他、鮮魚・マグロ・漬魚・干物・乾物などのプロの素材店が休市日にも拘らず所々開店し素人相手に商売をしている。
水産物の相場を知る人にとって恐ろしく高いそれらの商品を買う人の群れは「観光客」そのものであろう。

 問4 TAC(総漁獲可能量)は、水産資源を守るために、魚の種類ごとに漁獲量を制限するもです。
日本でおこなわれているTACには、どのような特徴があるでしょうか。
次のうちから、適切ではないものを選びなさい。

A  TACは科学的根拠に基づいて設定されるが、漁業者の都合なども考慮されることがある

B  日本でTACが設定されている魚介類は7種類で、それ以外の魚介類にはTACの制限はない

C  漁獲量が多い魚種についても、国民生活上重要という理由からTACに設定されているものがある

D  魚食の盛んな日本では、数百種類ある有用魚種のほとんどにTACを設定して資源管理をしている

 

問5 卸売市場を経由する「市場流通」は水産物流通の主流ですが、スーパーやデパートなどの大規模店では、卸売市場を通さずに国内外の出荷者から直接水産物を買いつける「市場外流通」という方法が多くとられています。
「市場流通」と「市場外流通」はそれぞれ利点もあり、欠点もありますが、それはどのようなことで しょうか。
 
次のうちから、適切ではないものを選びなさい。

A  「市場流通」では仲卸業者の手数料などの中間コストがかかるが、「市場外流通」では、それが省ける利点がある

B  「市場流通」では水産物を各地より少量ずつ合わせて出荷ができるが、「市場外流通」では単一種的流通になりがちである

C  「市場流通」はプロの目利きで状況に合わせた適正な値決めがおこなわれるが、「市場外流通」では出荷者と大規模店との折り合いで価格が決定する

D  「市場流通」は養殖魚や冷凍品が中心なので流通量が安定しているのに対し、「市場外流通」は、産地直送なので高品質である

120205_092831これらの類の50問中7割を正解とすれば漁食スペシャリスト検定3級の栄誉ある資格が与えられる。
普通、3級があるのなら2級及び1級がなければ困るのだが、現在のところ何処を探しても見当たらない。
想うに出題者自体がいないのだろう。
2012/03/11

問1 正解 B

問2 正解 D

問3 正解 C

問4 正解 D

問5 正解 D
らしい!

 

 

 

 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/05

Hold Me Tight(ホーミタイ)あんた あたしの・・・

プロローグ

上田正樹熱唱の『悲しい色やね』の有名なフレーズ。
作詞:康珍化、作曲:林哲司の名曲である。

 

1.中古車事情

日産のワゴン車で“Homy”と言う車がある。

沖縄ではメーカー側の配慮にて販売されず、同型車の“キャラバン”が販売されてた。

困るのは、中古車で大量に内地から流通される“Homy”が平然と市中を徘徊していることだ。

 

2.子宮で聞く声

先日、異様な音を聞いた。
いや、声なのだ。

Photo_6

若干24歳のJ.タバースレン氏の喉唱で、モンゴルの西部アルタイ山脈の部族に伝わるという、現地語でホーミーと呼ばれる独特の音楽らしい。なんでも、喉・鼻・胸・頭蓋骨を使い、笛の様な高音と低く搾り出す様な低音を、下腹から圧力を掛け一人の人が同時に出し、共鳴させる発声法と聞いた。

類似の音を日本で探れば、浪曲師の声、縁日の香具師の声、日常では「竹や~竿だけ~」の声が上げられよう。

だが、ホーミーの声は迫力が異なる。

さざ波の様にやさしく、地獄の様にオドロオドロしい、声なのだ。

 

この何処となく懐かしい音色を司会者は「大自然からのメッセージ」と説明していたが、私は子宮の中で聞いていた筈の母親の声のような気がした。

 

 

3.披露宴は潰れた

清水君の結婚式は、埼玉は飯能市のお寺の、仏前で執り行われました。

披露宴もそのお寺の中で、ご親戚やお友達の代表・会社関係代表者たちで、極めて一般的に開かれました。

 

新郎新婦のご新居は新郎の職場のある久米島です。

島内からの参加者は会社の社長と私のみでした。

遠方なので仕方ありません。

 

そこで、島で作った新郎の友人達から「島でもう一度披露宴をするベーよ。」との声が上がり、あっという間に段取りが出来上がりました。

2期工事で竣工したばかりの久米アイランド付帯多目的パーティー会場のこけら落としをも兼ねて、ホテル側の全面的バックアップもあり、100余名の人が集まりました。

もちろん、両家のご両親様は招待した上でのコトです。

 

沖縄の披露宴は地域の宴席と理解していただいた方が早く、親族一同はその接待役で、三線・民謡・琉舞・寸劇等を会場付帯のステージ上で披露するのがしきたり。

そして最後は出席者全員のもとカシャーシーでお開き。

 

今回の場合は新郎のご友人たちの主催なので舞台は彼らの持ち場です。
滞りなく式次第が進行し、島の人達はなんと芸達者ぞろいなのかと感服していたところ、既に泥酔状態の新郎が新婦の手を引いて、唐突にステージに上って行きました。

もちろん、式次第には無い飛び入りでした。

身長185㎝と145㎝のカップルの登場に会場からは沢山の拍手や指笛の嵐。
彼はマイクを握り歌い始めました。

 

♪ にじむ街の灯りをふたりみてた

 桟橋に止めた車にもたれて

 泣いたらあかん 泣いたら

 せつなくなるだけ

 

HOLD ME シ TIGHT 大阪ベイブルース

おれのこと 好きか あんた聞くけど ♪

 

新郎が沖縄でGetした18番の歌です。

 

♪ HOLD ME  TIGHT そんなことさえ

わからんようになったんかい ♪

次第に声が大きくなります。
小さな新婦は新郎の大きな腕で抱きしめられたまま逃げられません。

♪ HOLD ME  TIGHT 大阪ベイブルース・・・♪

とうとう新郎はステージの上で新婦を押し倒してしまいました。
ホーミしたい!ホーミしたい!と叫びながら。

 

ご両親様の眼の前です。

彼の歌う屈曲された歌詞の意味は解らないとしても、これはまずい。

あわてた私は、舞台裏に駆け込みスポットライトを消し、幕を下ろす一幕。

 

4.アナウンサーの試練

NHK 那覇放送局7時のニュースから。

「今年も那覇市内の桜の名所漫湖公園の桜が満開の時期を迎えています。漫湖公園では家族連れや・・・・」
ヤマト姓を持つアナウンサーの顔が強張る、恒例の早春の話題。

 

エピローグ
♪ 大阪の海は悲しい色やね

   さよならをみんなここに捨てに来るから

    夢しかないよな男やけれど
     一度だってあんた 憎めなかった
  HOLD ME TIGHT 大阪ベイブルース
   河はいくつもこの街流れ
    恋や夢のかけら
     みんな海に流してく
  HOLD ME TIGHT 大阪ベイブルース
   今日でふたりは終りだけど
  HOLD ME TIGHT あんた あたしの
   たったひとつの青春やった ♪

 

2007/05/05

 

あとがき

J.タバースレン氏はホーミーだけでなく馬頭琴・笛及び口琴の奏者でもあります。

ネックの先端が馬の首先にデザインされている事から馬頭琴と呼ばれているようで、白樺の木から総て手作りで、モンゴル政府では今『一家に人竿』キャンペーン実施中とのことでした。

 

馬のシッポを紙縒んだと言う弦は2本しかなく、J.タバースレン氏は、それを親指も含んだ左手5指総てを小刻みに動かし演奏していました。

六弦のギターを5指で弾く困難とは裏腹に、得体の知れない指捌きを間近で見てしまいました。

 

笛は横笛です。

演奏後、幸運にも現物を触診する機会に恵まれた競輪選手の証言では、音楽の授業で使うリコーダー同様に塩ビ製で二分割可能な楽器とのコト。

奴はその横笛を縦に吹いたりする。

 

圧巻は、“オーソレミヨ”の独奏。怪物は最後の音を、息継ぎしないまま何と2分の間、吹き続けた。

これは無呼吸潜水記録を誇る“河童・中川”に於いても不可能なことだろうが、私は看破した。

その妖怪は口で笛を吹きながら、鼻で空気を吸っているのだ。

 

口琴=むっくり、北海道や沖縄を旅した人は土産物屋で手に入れられる。

竹を網針様に細工して口に咥え、一方に通した紐を引いたり弾くコトで音をだし、口腔内でその振動を共鳴させて、ラウジサウンドとして聞かせる楽器。

 

今回、化け物が用意してきた口琴は二種類。

オーソドックスなむっくりとは別に金属製の物をしたためていた。

それは大き目のクリップの様に遠目で窺え口唇にスッポリと収まった。

 

若者の右中指が化け物の右頬を無造作に叩く。

ビヨーン・ビョン・ビヨーン、耳なし法一の琵琶の音が会場いっぱいに響いた。

日本が誇る、横綱を奪われ、忍者をも奪われた一瞬だった。

沖縄公演は危ない。

0001_5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/23

アサリの芽 12

腹節を取りまく暗紫色の太い横縞が6本。
頭部の中腸線直上にも同色の大きな斑。
縞と縞を繋ぐ薄陶色。
何よりも尾や歩脚の先端の彩の鮮やかなこと。
青と黄色のコントラストが動物の持つ色彩とは思えない、虹色を呈している。

その美しい身体を冷たい指先で摘み上げた時、背側にグイッと反り返るモノ。
肉がはち切れんばかりに充満し、甲殻がカブトムシの様に固いモノ。
セミの様ではいけない。

いい海老の見分け方である。
そして、活き海老である以上、輸送用のオガクズの中さらには店の生簀の中で何日活き続けられるかまでもが、購入者にとって必要な条件となる。

Photo_20230524165001

台湾産や沖縄産の海老が一段落する6月から秋口にかけてが、当時の活き車海老流通の端境期である。
亜熱帯地域からこの時期活きたまま海老を運ぶには相当のリスクが伴うためだ。
例え出荷可能な海老を持っていても高温下の輸送途上で衰弱し、せり場で叩かれる。
従って、高温期以前に出荷を完了するのが常套手段で、奄美諸島から台湾に至る産地の市場入荷は5月のゴールデンウイーク明けの声を聞くと共に収束に向かう。

これら亜熱帯地域からの入荷は築地市場だけでも日々3tを上回っていた。
生産者を辛うじて潤す海老の相場を維持する為の上場量ボーダーラインは、国内最大の消費地築地と言えども僅かに2t/日。
そこに国内各地からの入荷も含め4tの荷物が連日押し寄せてくるのだから、必然的に相場は低迷を続け、荷主(生産者)にとっては辛うじて餌代を賄えるだけの水準に否応無しに落ち着いてしまう。

ちなみに、1㌔の海老を生産する為には、人類が直接摂取可能な雑小海老・イカ下足・雑魚・雑貝など㌔120円程度で買える“生餌”を16㌔、あるいは、“生餌”を単に、乾燥→粉砕→添加(植物タンパク・油脂・ミネラル・水)→混合→圧縮→裁断→乾燥しただけの㌔650円の“配合飼料”3㌔、を飼料として海老に与えなければならない。

いうなれば、これ以上の歩留まりの悪い水産加工はないのだが、本題と逸脱する展開になる為、異なる機会にこの重大な問題について改めて報告するにこの場は留めたい。

さて、5月まで潤沢な入荷が継続した亜熱帯産の海老が収束する6月以降、日本国内で流通される活き海老は、種・屋久島以東の列島各地の養殖もの及び天然漁獲ものに限られる。
しかも、最も養殖歴の長い天草・瀬戸内地域は度重なる疾病被害の為に青色吐息。
築地の入荷量は予想通りあっという間に2tを大きく割り込んだ。

 

苦労して運んだ海老も細菌性疾病(ビブリオ)に羅したものの、まずまず仕上がっている。
「そろそろ銭にするべょ~。」

 

Photo_20230524165301

高水温期、出荷する海老の状態の良し悪しは池からの水揚げの瞬間に決定される。
養殖池からの取り上げ方法は様々で、定置網・流し網・底引き網(電気網)など、養殖池の形態や規模、時期に合わせて用いられるが、暑い時期は籠網に勝るものはない。
籠網とは餌の臭いで海老を誘導し入ったら出られない所謂“ネズミ捕り器”様のトラップのことで、脱皮直後の海老は入らないし、網の目合いの調節で基準以下のサイズの海老を網目から逃がす事によって選別能力をも備え持っている。

夕方に籠の中央部にサンマなどを切り身にしてぶら下げ、漏斗状の開口部が水流の下手になるように池底に投げ込んでおく。
これを翌朝回収すれば海老がギッシリ入っていると言う寸法だ。
いきなり水から引き上げられた海老は、我が身に何が起こったのか?一瞬はおとなしい。
そして、そのまま放置すると次の瞬間には一斉に跳ねる、バケツの中でネズミ花火が数百同時に破裂したかの有り様で、うっかり素手を入れようものなら、体の各先端にある鋭い剣先に突かれ、血だらけ間違いない。
こうして気中で一度暴れた海老は、透明であるべき筋肉が白濁し、その後如何なる処置を施しても活力の低下は治癒しない。

“暴れ”を抑制する手段は唯一“冷やす”事。
私たちは池水温よりも10℃以上も低い海水を作業船に用意して、池から揚げた海老を間髪入れずにこの冷水に収容する。
「うっ!」、海老はたちまち眼を回し? 体を“海老の如く”曲げ、横転する。
腹足だけはユラリユラリと動かしている。
観賞魚取り扱いマニアルの基本である“水合わせ”を全く無視したこの処置こそ海老を高く売る最初の秘訣なのだ。

Photo_20230524165601


更に海老を高値で販売する秘策を私は持っていた。
築地市場には“海老組合”と称する活き海老をセリで購入する仲買達が作った組織がある。
“海老組合”の要求で各荷受は、その日に上場する海老を荷主ごとにランダムにサンプリングして、オガクズを落とし重量・生残率などを検品して開示しなければならない。
目方のないものが叩かれるのは当たり前の事だが、生残率が最も厳しく相場に影響する。

例えば、1㌔で40尾入っているサイズの海老で生残率100%の場合の相場が¥10,000/kgだとすると、1本死んでいた場合は9,000円、2本死んでいると8,000円にまで、何の遠慮もなく下がる。
そして、築地の荷主別のセリ値が2時間後には表にまとめられて、全国の業者(荷主や荷受)にFAXで送られる。

これは荷主にとってかなりのプレッシャーとなる。
完璧な海老でない限り築地で勝負できなくなるのだが、私はこのシステムを逆手にとった。

活き車海老は1㌔当たりの入り数(尾数)が10の単位でそれぞれ別物の値動きをする。
大きさによって用途が異なる事及び入荷量の差の為なのだが、それぞれ10本サイズ・20本・30本・・・60本・・・・100本サイズと表示され、通常、大きいほど高値が付く。

問題はその隙間の海老。
例えば、1㌔で45本の海老はどうなるの?なのだが、築地の場合は当たり前の様だが40本と50本の間の値段がつく。
ところが、その他の市場ではこの部分が曖昧にぼやける。49本と40本ちょうどをおなじ物として売る市場が多々ある。
そして、25gの海老の方が20gの海老より高く売れるのが普通だ。そこで、、、

①出荷場で㌔当たり39本・48本・57本になるような選別をする。
②その他の市場には①をそのまま出荷する。
③築地に出荷するものはそれぞれ1~3尾をプラスして、40・50・60本丁度にして出荷する。

Photo_20230524165701

Abaut40・50・60、築地の流す情報に表示されない曖昧な“下一桁”を、巧みに操るいかさま師のなせる業。
これが作戦のシナリオだ。ところが、、、
「まっさん! そぎゃん難しいコト、うちらようせんわ。まず、あんたがやって見せて。」
作業船上でひっくり返ったままの海老を平然と出荷場に持ち帰った私を既に斜めの目線で見ていた春さんが、『この海老を39本・48本・57本サイズに別けてね。』と云う私の指示に対する代表意見を述べた。
初めての出荷作業なのでやっさん・ヨシさんも応援に駆けつけてくれている。
「なんと情け無い。あんたら生まれたときから海老と付き合っているんだろうに!」

冗談を飛ばしながらも指先だけは緊張し選別作業を始める。
籠の中には50gから15gの海老がごちゃ混ぜにひしめいている。
まずそれを大まかに大・中・小に別ける。
それを更に二つに別ければ6段階の選別ができる理論なのだが、ここから先が味噌になる。
我が心臓の鼓動を聞きながら、“中”を別け終わる。
「よし!ますみネェサン、これ1㌔計って数かぞえてみぃ。」
「よかよ~、ひー・ふ~・み~、、、」おどけた大きな声は、だが次第に小さくなり、最後は無言。
「うそー!48本あったよー!」
はったりがまかり通った瞬間である。

築地市場を単なる広告塔と位置付けている為、各サイズ最小梱包単位(1k×8)の出荷に留めるのが鉄則だ。
例え相場が低迷しても荷物を止めてはいけない。
その結果、活着率100%且つ入れ目も十二分に入った“丁度”の入り数で、体色・体硬バリバリの海老は、たちまち築地相場筆頭の最高値を得る。

その情報があっという間に全国に流れる。
その他の市場は常に築地の相場とのにらめっこ、市場間競争に負けると荷物が来なくなる。
そして、、、
「えらいすんません!今日は完全に負けました。明日は頑張りますサカイ明日も積んでや!」となる。
さらに、その状態を1ヶ月も継続させるとブランド品の称号が与えられる。
相場に関係なくその海老を買う仲買が現れてくるのだ。

暴落して平均相場が7,000円を下回った時でも我が海老だけが1万を越えたままで推移しだした時、竹山から電話が入った。
「凄い海老になりましたねぇ。贈答用に少し分けてもらいたかったのですが、お宅のこの相場じゃ手が出なくなりました。」

市場相場より高い値段でも、奴だけには、売る気は毛頭無かった。
2006/08/30 升 

画像は全て久米養殖㈱インスタグラムから拝借しました。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/03

スウィートテン・パールイヤリング

1.工業団地は近くて遠い
 Itoman
結婚10年目の年。
沖縄県I市所有の埋立地が企業誘致をしている情報を耳にした。
あっという間に、その製造業特定分譲地を買おうと言う結論に達した。
単価は破格に安く、道路が広く、那覇空港にもほど近い。
さらに、様々な優遇特典や助成金も得られる。
バブル崩壊前の時代、企業としては美味しい話だ。
だが、I市側の販売審査は極めて厳しいものであった。

まず、購入した土地で何を作る(製造する)のかを問われる。
当たり前の話だが、事業計画書(趣意書・資金計画書・土地利用計画図面・構築物設計図面・電気水道使用計画書・汚水排水計画書・使用人員計画書など)を添付した上で、製造物名や製造工程を提出しなければいけない。
もちろん、事前に会社の登記簿謄本・定款・企業実績・取締役会議事録は提出済みだ。

当初、那覇国際空港に近い立地条件を最大に利用して、台湾産活き車えびの建て直し基地を作らんとして、循環式海水ろ過装置付き大蓄養水槽を累々と並べた設計図添付の事業計画書を創って提出したが、魚介類の養殖や蓄養は水産業とみなされ製造業の範疇から除外される理由から計画は棄却されてしまった。

 

広大な埋立地にはまだまだ空地が沢山あり、I市側も企業誘致に必死だ。
「この計画ではどうか? まさに、食品製造業に違いないのだが。」
次の機会に市を訪れた私は、既に顔なじみになった担当職員に、差し替え用の書類を出した。
職員は書類を一読後、満面の笑みを浮かべ、

「これならば問題ありません。
早速この製品のサンプルを提出して下さい。
私たちも今後沖縄を代表するアイテムとして応援させて頂きますよ。」

口頭ではあったが“分譲許可”の見込が出た事を帰りしなに、沖縄公庫(沖縄振興開発金融公庫)の融資担当に報告し、帰島した。
顔なじみの公庫の担当はニッと笑ったが、私は困り果てていた。

 

2.困った時の味噌頼り
私は再提出した事業計画書内趣意書にかく書いた。

『年間百万人の観光客が訪れる沖縄に於いて、彼らが持ち帰る土産物に纏わる経済的波及効果は今や県の基幹産業の一翼を担うまでに成長しております。
しかしながら、那覇空港を筆頭に県内の土産物店を垣間見る限り、琉球ガラスや陶器などの工芸品・琉球泡盛・黒砂糖製品が目立ち、水産製品はスクガラス・イカ・シャコガイなどに代表された瓶詰めの塩辛が細々と置かれているだけです。
千歳空港に燻貝柱・羽田空港にクサヤ・福岡空港にカラシ明太子・鹿児島空港にさつま揚げがあるように、那覇空港にも県を代表する水産加工品を置く事が急務となっております。

今や沖縄県下の車海老生産量は日本一となるまでに成長しております。
弊社におきましては長い歳月をかけ、素材の全てを県産品で賄った「車海老の味噌漬」の開発に成功致しました。
つきましては、今回その製造拠点を御市工業団地内に移し本格生産を開始し致したく、計画を進めている次第です。
中略
更には、当該工場の屋根全体を那覇空港離発着便搭乗乗客に対する広告塔と位置付け、巨大な車海老の絵を描き、水産立県沖縄を広く内外にアピールし県の水産振興にも寄与出切る意気込みであります。後略』

 

困った事はI市に提出する製品サンプルがない。
サンプルどころか車海老の味噌漬けなど作ったこともない。
だが、言い出した以上後に引けない。
先ず、兄弟会社のホテルの板長に、島の素材だけを使って海老の味噌漬が出来るかどうか、打診。
“大丈夫”の返事をもらい、試作品を一緒に作る。

その工程は、
① 海老が曲がらないように尾から頭にかけ竹串を刺す。
② ①を1.5%の沸騰した塩水に入れ、海老が浮き上がってきた時点で取り上げ、氷水で冷やす。
③ 久米島味噌に黒砂糖・久米仙を練り合わせ、西京味噌風のあわせ味噌を作る。
④ 串を抜いた海老をサラシで包み、③を塗り込み、+5℃で48時間熟成させる。

二日後に試食した処、これが旨い。
レシピはこれであっという間に完成した。

商品化するためには、更に、包装形態並びにパッケージの考慮が必要だ。
今回、可能な限り、実用的及び安価なものに仕上る事が必須条件。
私はレトルドカレーのパッケージをイメージして海老の味噌漬は真空包装にする事に決めた。

早速、特大ガスコンロに特大鍋、ステンレス調理台にステンレスシンク、そして、真空包装機を購入(〆て100万円)。
一方、加工食品を製造・販売するには保健所の許可が必要との事が判明し、消防署に同居している島の保健所に相談に行った。
活き海老の出荷時期には梱包資材のオガクズが頭から舞い落ちる出荷場に、味噌漬製造用に購入した備品を置き、掃除を徹底した上で保健所の担当者に見てもらう。

「出入り口に防虫網を設置していただければOKです。」

 

惣菜製造業の許認可を得、いよいよ本格製品サンプルが出来上がり、I市に持ち込んだ。
「ほーっ!なかなかおつな味ですな。」
試食をすませた担当がティッシュペーパーで手を拭きながら云った。
「いいでしょう。今度の審議会にかけます。お手数ですがサンプルをもう少しご送付ください。審議員全員に試食させます。」

 

かくして、I市工業団地内分譲地購入プロジェクトは成功裏に完了した。
実際にその土地と建物(設計図面提出済み)の内部で何を作るのかは、今から考えればいい。

 

3.売れない原因
さて、印刷物という物は原版が高いもので、100部と10,000部の価格差は紙代とインク代の差額であって、見積価格はほとんど同じになる。
味噌漬専用の化粧箱は必然的に10,000個納品されていた。
設備投資も100万円を既に上回っている。

私は“車海老の味噌漬”を本気で売ろうとしていた。
とりあえず、レシピを提供してくれたリゾートホテル久米アイランドの売店と久米島空港の売店に置かせてもらう。
さらに、郵便局の“ふるさと小包”に登録をしたうえで全国の郵便局にチラシを置いた。
那覇営業所のスタッフには那覇市内のビジネスorリゾートを問わず宿泊施設の客室にパンフレットを置いてもらう様、脚で回ってもらい数件のホテルとの契約が成立した。

一方、那覇空港に立ち並ぶ土産物売店へのアプローチを依頼する事も忘れない。
だが、一向に売れない。
その最大理由が販売価格にあることはあらかじめ予測していたが、予想をはるかに上回る“全然売れない!”日々が継続した。

 

末端売価=原材料費+副資材費+製造光熱費+製造人件費+原価償却費(開発費含む)+広告宣伝費+営業人件費+販売代理店リベート+利潤。左記の当たり前の公式に則った場合、活き海老の販売単価よりも特に副資材費・製造人件費・代理店リベートの部分の経費負担が多く、結果、日本全国津々浦々に活きたまま宅配可能な活き海老の販売単価より海老1尾換算でははるかに高いものになる。

もくろみでは仕掛けがあった。
主原材料である海老はもちろん自社生産の車海老だが、活き海老として出荷できない水揚作業中に衰弱した“アガリ”と呼ばれる固体を使う。
通常“アガリ”は氷詰めにして市場に出荷しても活き海老の1/3程度の値段しかもらえなく、活き海老の平均相場7,000円/kgの時代そのほとんどは冷凍にして島内価格3,000円で販売していた。
したがって、原材料単価は3,000円でも計上可能であったのだが、”アガリ”も活き海老と同じ生産コストを持つ、さらには、万が一、途方もなくヒットした場合をも想定し、全生産量の数パーセントにも満たない”アガリ”だけに原材料を依存するわけにいかず、原価計算上原材料費には7,000円を当てた。
海老はピクピク目の前で跳ね回っていてこそ、7,000円の値打ちだと信じて疑わない製造・販売者の立場である私にとっても、この味噌漬けは高すぎた。

 

4.敵前逃亡は銃殺刑に値する!
売れない月日がただ経過したある日、
「空港売店のコンタクトに成功しました。近日中に担当部長様が本社を訪問します。」
那覇営業所からの嬉しい連絡。

翌々日、指定の到着便を迎えに島の空港まで出向いた私はYS-11のタラップを降りてくる不思議な人物を目撃した。
その男は到着カウンターを通過すると私に接近し
「久米さんですか? 私、沖縄四つ越の者ですが。」
私の待っていたお方に間違いはなかったが、暑いのにも係わらずスーツにネクタイ姿の、その人物の左手にはなんと手錠がかけられていた。

沖縄四つ越。
東京銀座を始め全国到る所の都市にビルディングを持つ老舗デパートの現地法人は、那覇空港ターミナル内の売店をも経営している。
一通りの挨拶をすませ社長の待つ養殖場の応接室に案内する。
私の視線は手錠に釘付けのままだ。
「せっかくですので実はお土産を持参しました。なかなか手に入らない逸品ばかりです。」

手錠の片側から外されたアタッシュケースの鍵を開けながら売店担当部長はのたまう。
無言で見つめる我々の眼の前のテーブルは、アタッシュケースの中身であっという間に埋め尽くされた。
それは光り輝く宝石・貴金属のたぐいで、その全てに商札が付いている。
「如何ですか?四つ越扱いですからご安心してお買い求め頂けます。」

0の羅列が異様に長い商札から数字の単位を把握するのに時間がかかったが、その商品群の平均単価はおよそ100万円。
この手の物にまったくの興味と金のない私は、
「社長、素敵じゃぁないですか、その300万のネックレスなんか奥さんにきっとお似合いですよ!」
即座に振った。
「申し訳ありません。急用を思い出しました。後は君に任せる。」
社長は即座に逃げた。
気まずい沈黙の時間が流れる中、並べられた貴金属がまるで味噌漬けの化身の様に鈍い光沢を放ち続けていた。

「丁度今年で結婚10年目になるので、せっかくですから、その記念になる“単価”の物を見繕って頂けませんか?」
私は乾き切った声でようやく発言した。
「それはめでたい。では、これなんか如何でしょう?丁度100万ですが。」
手錠が返す。
「いやぁー、100年も今の女房と連れ合いたくないもんで。10周年記念で是非。」
「なるほど、お気持ち解ります。でも申し訳ないことに、10周年品は一つしか持ち合わせがありません。これでよろしいか?」
手錠はテーブルの一番端っこに置かれていた真珠のイヤリングを持ち上げた。
「いやー!素敵ですねぇ。女房が逆立ちして喜びますよ。」
それが一番安い商札が付けられている事を看破していた私は、湿った声で頷いた。

 

5.反撃のバースデイプレゼント
来た時と同じように手錠はケースと左手を手錠でつなぎ、YS機中の人となった。
「とんでもない輩がきた。
俺の財布から10万円かすみ取っていきやがったぞ!
どうしてくれる!
味噌漬の売り上げを上げない限り、あの10万は営業経費として会社は出さない。
それにしてもあの手錠男、味噌漬はおろか海老の話なにもしないで帰って行ったぞ。
君ら何か勘違いさせるようなアプローチをしなかったか? 
次回はこっちから乗り込む。アポイント頼む。」
二人しかいない営業所のスタッフを叱咤した。

 

「11月21日 Am11。沖縄四つ越本店7階“蒼龍”にて会食のアポ取れました。」
営業所からの連絡。
私は当日の不測の欠航を避けるため前日の最終便で那覇に飛んだ。
なじみのビジネスホテル“エアウエイ2”に宿を取り、付帯の小料理屋でなじみの板さん相手にブリ鎌の照り焼きと手羽先の塩焼きを平らげ、頃合いを見てなじみのスナック“ピアジェ”に足を運んだ。

ピアジェはいわゆる3次会用の飲み屋で23時以降から早朝までが稼ぎ時で、開店の21時頃にはこじんまりとした店内に客はいない。
カウンターにボックス席が二つ、10名も入れば満席の店だ。
カウンターの端っこに座り、ミネラルウオーターの空き瓶に水道の蛇口から直接水を注いでいるママさんの姿をぼんやりと眺めながら、水割りのグラスを傾けていた。

水が並々と注がれた10本程度の瓶を流しに並べ、それぞれの口に割り箸を深々と差し入れる。
箸の体積の分だけの水が溢れ出て、割り箸を抜き去った後の瓶には均一な空間が出来上がる。
瓶を丁寧に拭き、カウンターの端に並べれば、れっきとした開栓直後の瓶詰ミネラルウオーターに化ける。
「凄い事してるねぇー!」
「浄水器を使っているから同じなの。」
「そーゆー問題か?なぁるほど。」
納得しながらも、
「その瓶のオリジナルはいつから使ってる?」
「オープンの時に仕入れただけだから1年前ね。」
「たまには内側を洗わないと!ほら、水面部分に水垢がついているぞ。」
「大丈夫、酔っ払いには見えないから。」
 無駄話をつまみに3杯目の水割りの氷がカランと音を立てた時、背後のドアが開いた。
「やっぱりいましたねー。場長が那覇出張だと聞いて探り当てました。我々は昨日から来てます。」
アイランドの営業支配人だ。
その後ろから入ってきた総支配人が、
「きょうは場長、バースデイでしょう?ピアジェのママと二人きりでお祝いとは許せませんなぁ。さぁ、パーッといきましょう!」

 

6.独唱 カエルの唄
翌朝、見慣れたエアウエイ2のシングルルームのベット上で覚醒した。
妙に重たい頭をもたげて辺りを見回す。
どうやら、私は下着一枚の姿で寝ていたようだ。
ライティングデスクのイスの背もたれに脱ぎ捨てたスーツが無造作に掛けられている。
そうだ四つ越に行かなければ行けない。
時計を見る。
10時ジャスト。
いい時間だ、シャワーを浴びてすっきりして出かけよう。


サニタリールームをふらつきながら開け、熱いシャワーを頭から浴び、歯を磨く。
生き返った気分でバスタオルを腰に巻き部屋に戻ると、先ほどまで気が付かなかった異臭が漂っていた。
異臭のみなもとが私の脱ぎ捨てたスーツであることを発見するのに時間はいらない。
それはスーツと言うよりも雑巾と呼ぶ方がふさわしい程に変わり果て、しかも恐らく自身の物であろうおびただしい嘔吐物が付着して乾燥の経過を辿っていた。

約束の刻限まで後40分。
行動の選択肢は次の三つに限られた。
①雑巾を着て行く。
②丸腰デパート4階の紳士服売り場で着替えを調達する。
③ドタキャンする。

蒼ざめた脳みそで先ず財布を確認。
千円札2枚と帰りの航空券を数え、②案が消えた。①と③の二択に迷ったが“雨が降ろうと槍が降ろうと約束したゲームに中止は有り得ない。”と言う標語で育った古いラガーメン精神が③を消去した。

意思方向決定後、タオルを熱湯で絞り乾燥途上の嘔吐物をおよそ15分の間クリーニング屋以上の手さばきで拭い続けた。

11時5分前、営業所のスタッフと待ち合わせをして四つ越のエレベーターに乗る。
雑巾から布巾に昇格した以前のスーツは湿気て重たく、体温で温められ湯気が出ているようだ。
密閉された狭いエレベータに運悪く乗り合わせた一般客共々、我がスタッフもそれぞれ鼻を塞ぎ、射る様な視線を布巾に浴びせる。

布巾がただ俯いて肩を震わせていたのは泣いていたわけではなかった。
再び、羞恥心をも焦がしてしまうほどの激しい吐き気が私を襲って来たのだ。
十二指腸側から胃が収縮し、内容物が食堂を遡り、口腔一杯に溢れ出る。
それを気合で繰り返し嚥下する。
エレベータは4・5・6階で恨めしくも乗客を交換し、7階の扉が開いた時、胃内容物の体積は私の口腔容積をとうとう上回った。

開いたドアの向こうの笑顔で立ち塞がっている“手錠”に、右手で口を塞いでいる私は左手で手を振り、当時は当たり前に設置されていたエレベータ出入り口脇にある円筒形の灰皿にしがみ付く。
万人が見守る中、灰皿を抱いた私は、“カエルの唄”を歌い放ってしまった。
♪ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲロゲロゲロゲロ、ゲッ、ゲッ、ゲッ!♪

 

7.一万部の重み
“カエルの唄”独唱の末、取引失敗の責任を取り、私は自らを天草事業場へ左遷させた。
工業団地の一件を引き継いだ種子島事業場の場長があわてて電話をよこした。
「味噌漬けホントに作るの?」
「それは貴方の裁量に委ねます。方針変更にI市がグズグズ言うようならば、“前任者が勝手にでっち上げた事で彼は解雇されました”とでも云っとけばOKでしょう。」

1年後、屋根に大きな海老の絵を描かれる事もなく埋立地に建てられた建物は、地元のスーパーの小分け作業の下請けを業とする内容で操業が始まった。
私は天草事業場閉鎖と共に退社したが、風の便りではそれも3年あまりで閉鎖されたと聞く。

 

2年ほど前、藤枝に住む親しい友人と会う機会があった。
11月の事。
「郵便局でお前がまえいた会社のチラシを見つけた。つかいものにしたいがどう?」
私は2分ほどの時間をかけ当該商品誕生の経緯を口頭で説明した。
商品誕生16年後の事だった。
「やめた!活き海老のほうにする。」
友人はさすがに賢い。

島の資材置き場で16年もの間、私の発注した1万部の化粧箱の一部が眠り続けていたに違いなかった。
そして現在(平成17年)、“沖縄産車海老の味噌漬”商品番号5389-120は“ふるさと小包”カタログブック花鳥風月 花コース1 から抹消されている。
どうやら18年の歳月をかけようやく1万個の化粧箱を使い切ったのか、1万個弱がゴキブリにかじられ尽くされたのか、私は知らない。

 

あとがき
 写真撮りのため愚妻に頼み当該曰く付きのイヤリングを出して貰った。ところが蓋を開けてびっくりアキサビヨー! 
Sh0410sinnjyu

 

「リング」だった。

 

 純粋にスウィートテンのプレゼントだったと信じて疑わなかった妻に、私がその“物”を正確に覚えていない事、その上、本屈文を読まれてしまった事により、今、二重の冷たい眼で今睨まれている。あのおぞましい井戸から這い出てTVから抜け出してくる“貞子”のまなこで。

 

 カエルの唄が 海鳴の様に どこか遠くで聞こえた。
2006/04/26 升
連載で始めたシー、いまさらタイトルを換えられないしー!

| | | コメント (0)

2006/04/23

舫い綱(カツオドリⅡ)

舫い綱(カツオドリⅡ)

<カツオドリ1>にあの時書く事をためらった一つの文節と、掲載を躊躇した一枚の写真がありました。

~<半年に亘る工事の終盤、池の漏水及び注排水設備点検試験を行った。
口径400mmの水中ポンプ4台から順調に揚水し、計算通りの時間で満水になった。
漏水もほとんど無いことを確認した24時間後、排水門を開けた。
潜砂池に紛れ込んでいた赤土が押し出され正面の西表島に向かって一直線に流れた。
河野が見ていたら怒られそうだった。
暇を見つけて遊びに行った。
10年前と同じように白浜で、今度は互いに一人で、髭を蓄えた34才の河野に再会した。>~
この時の河野はまるで大事な毛布をどこかに置き忘れてしまったライナスの様な顔をしていた。
「どうしたの?」の問いに
「あの人とはだめになった。」 
沼津時代と同様に解り易い答えが返ってきた。⇐ためらった文節Bbbyup

メールが舞い込んだのは<カツオドリⅠ>をインターネット上に放鳥した3ヶ月後のことです。
私のカツオドリが戻って来ました。

********************************

河野です。
長きにわたりご無沙汰でした。
昨日、カリフォルニア大サンタクルーズ校に研究員として滞在しているカツオドリ研究の仲間から、下記のようなメールが届きました。
『カツオドリ関係でネットを彷徨っていたら、河野さんのご同輩の方でしょうか、河野さんについての記述を見つけました。
http://y-masu.way-nifty.com/mar/2006/01/post_f6d7.html 』

カリフォルニア経由の若き日の自分や仲間達、彼女の姿、フラッシュバックしてしまいました。

読んでいて、はじめは誰か分からなかったよ。
俺の方は、相変わらず、仕事はボチボチ、、、遊びが目的のような暮らしをしています。
数年前に、西表網取の研究室をソーラと自動発停用補助発電機に代え、自動化しました。
そして、同じ西表島の浦内川河口に浦内研究室を設けて、基本的な運営機能も移してしまいました。
網取は、海鳥の調査研究をする時期、5~9月に滞在し、それ以外は浦内、しかし毎週行ったり来たりです。

ところで、西表の研究所の開設が1976年ですから2006年でなんと30年、島で50を超えるとはね。

ですが、北海道には相変わらず毎冬通い続けていますよ。1ケ月くらいはいるかもしれない。登って、滑って、温泉入って、夜は学生さんたちの卒論直し、、、ネットが便利になって、こんな暮らしもできるようになりました。
機会があったら連絡して下さい。

追伸)
添付写真は、 

Photo_20230511141101
①最近の俺とサバニの舳先でモヤイをとっていたおばさん。

Photo_20230511141301
そして② 

最近の遊び、川辺で暮らすようになったので、海に出やすい。
Outrigger canoeやSurfski(シットオンタイプの Ocean racing kayak)が日々の遊びです。

河野@西表浦内

********************************

ご無沙汰、ご無沙汰。

ようやくヒットしました。やれやれです。
あの衰弱したカツオドリを持ち込んだお方のHPには2度ほどメールやコメントを送ったのですが“あやしい者”と思われたのか、無しのツブテでした。
カリフォルニア経由とは何と素敵な!
ハネムーンベイビーの娘に一昨年男の子が産まれ、私は困った事にお爺さんになってしまいました。
現在、横浜におります。
1年前まで毎日平塚に通っていました。
茅ヶ崎を通過する度、貴君を思い出していたりしていました。
茅ヶ崎に帰る事あればご一報下さい。
ところで、例のカツオドリは元気になったの?
追伸
① 中川やタツロウのホームページの存在 知ってる?
② 白い山のもやい綱のおばさんに再びお会い叶う日を、お婆さんと二人、期待しております。


********************************

みんな、ひきずってるね。
中川も、升も、もちろん俺も、、
早々に、もやいのオバさんにも、この話とWebページを転送して伝えましたが驚いてました。
相変わらず、あのまま、ずっと別居、遠距離“変”愛というやつなんですけどね。
“元気にリタイヤ共同生活”が我らの標語です。
空間的距離は変わらんけれど、時間的距離はずいぶんと近くなって、なんせ今回もカリフォルニア経由ですから、正にです。
彼女も、さらに驚くことに、杖をつきながら、足が痛い、腰が痛いと言いながら、客の迷惑も考えずにまだ仕事してるんだけどね。
当時は一度行ったら太平洋上からアンカレッジ経由で2週間、冷戦が終わった今では大陸の上を飛んで往復4日間、、
八重山もプロペラからジェットへ、石垣西表間のフェリーは35分、1日20往復、、そしてメールですから。

例のカツオドリは、10年前に仲ノ神島で標識した鳥なんだけど、衰弱し過ぎて、ダメでした。
毎年、落鳥した海鳥を何羽も野生復帰させるのだけど、ダメなことも多くあって。
ところで、神島では、20代の頃に標識した鳥が少しですが、まだ生き残って、繁殖しています。
升のHPのどこかに書いてあった言葉で、『今では、もうどこの空を飛んでいるのか分からない、、』というような素敵な表現があったけれど、当時は足環標識と観察しか方法が無かったのに、今では加速度・深度ロガーだのGPSだのが開発されて、自分のことよりカツオドリのことの方が分かるようになってきた。

散漫な話ばかりでした。
また連絡します。

河野@西表浦内  (* タツロウ氏のHP教えて。中川のはもちろん知ってます)

*******************************


引きずるとほつれるので、幼稚園生の手袋のように、首からぶら下げて私は歩いております。
タツロウ氏のHPは見つかりましたか?

さて、もやいのM(送ってもらった画像タイトルがM&Hだったので勝手に解釈しました。忘却をごめんなさい。)おばさんの件。
竹富島から2回目にお世話になった時、あなたは確かに「あの人とはダメになった。」と運動会の徒競走で転んでしまった小学生のような顔をしていました。
私がHP上で愚妻を交えた画像をチョイスしたのはそんな理由です。
あの時にUPするのを躊躇した画像を添付します。

Photo_20230511142301

『杖をつきながら、足が痛い、腰が痛いと言いながら、客の迷惑も考えずにまだ仕事してる』 M さんを大事にして下さい。
老後の事を考えて。
追伸
海鳥が30年以上も空を飛び廻り続ける事が出来るなんて知らなかった。
ロガーやGPSを携帯して貰うより、風力発電付き超小型ビデオカメラを持たせたほうがいい。
きっと、カッパの映像より凄いのが頂けるはずだ。

*******************************

しかし、ほんとにまあ、ご記憶の良いことで。

ドジで不器用な俺は、障害物競争で引っかかったり、の繰り返しでした。
だけども、都会暮らしのオバさんから見れば、都会に少ない、そのあまりのダサさを、見ていられなかったようで、引っかかった網を外しに来てくれました。

30年近くも齢を重ねて、互いに寄りかかって、ようやく人らしくなりました。

この写真も2枚ともに、Mオバさんに送らせてもらいます。
升の話、とても喜んでました。

タツロウ氏のHPも見つかりました。会える機会はないのですが、中川を通して、時折、彼や畑中の噂話などが届きます。

ところで、この冬に、大学丸Ⅱ世佐藤孫七船長が亡くなられたこと、ご存知です?
小樽港、西表への航海、西表に来てからの調査、赤道域の調査航海などなど、船上で様々なご教示を受け、ずいぶんお世話になりました。

学生時代に繋がる、大学下のカワゾエ町や小樽港、毎年、Mオバさんと北海道ニセコへの行き帰り、近くを通っています。
例年、3月のこの時期、二人であちらこちらの春山歩き、ですが、、今年は仕事切れずでした。

ところで、昨年、早朝にぜんぜん知らない、やけに馴れ馴れしいオバさんとムービーをかまえたままのオジさんが訪ねてきて、河野君、河野君、、、
きっと俺の知らない親戚かなにかなんだと思うぐらいの感じでしたが、それは、我らが水産学科増殖唯一(あれっ二人だっけ)の姫、『栗原育代』でした。
海洋土木の同級生、川原というのと結婚したんだけどね。
育代、覚えてます?

河野@西表浦内研究室

Photo_20230511143001

* 写真は、05年度保護飼育し、無事に野生復帰していったカツオドリ若鳥ですよ

{「杖をつきながら、足が痛い、腰が痛いと言いながら、客の迷惑も考えずにまだ仕事してる」 M さんを大事にして下さい。
老後の事を考えて。}

痛感しています。

*******************************

孫七船長に合掌。

入学式、オリエンテーションの時。
苗字の頭文字があいうえお順で近くもない、その集まりでは珍しい一人の女性らしきお方が、何故だか私の前におりました。
クラス点呼の後、フッと振り向いたその人はニッと笑いながら 「ねぇねぇ、マスモト君のマスってどうかくの?」
○○○○の常習犯であることを見抜かれた私は、顔を赤らめながら 「うん!手でかくんだよ!」
それが最初で恐らく最後の栗原育代との会話だったかも知れない。

画像にtakasiの文字が含まれていますが、中川が撮ったの?

追伸
ネットで都立大泉高校25期を検索してください。
何処かに最近の中川と私の年老いた顔が何枚かご覧いただけるはずです。
そう、希有な巡り会わせで中川とは高校・大学とも同期でしたが、当時は互いにあまり疎通なく過ごしていました。
互いの実家は徒歩10分の距離です。
今回、”引きずり仲間”として急速に接近しております。
信長さんの時代に言わせれば人生終わりの年齢を越えてしまいました。
あと、30年。
常にワクワクする余命を昔の仲間と分かち合えれば幸いと思っています。


********************************

『画像にtakasiの文字が含まれていますが、中川が撮ったの?』

Photo_20230511143501

かのカツオドリの名前です。
2005年夏季に、保護飼育し、飛び立っていった2羽のうちの1羽です。
カッパのタカシではなく、担当の院生と学生の名前、Takashi & Hikaru です。
6月から11月まで網取から放し飼いにし、その後、渡去していきました。

Photo_20230511143701

放し飼い、写真のような感じです。

でも、カッパのタカシにも、似ているような気がします。

今回のこと、升やM、俺の昔の姿、升やタツロウ氏のHP、過ぎた日々が新鮮でした。
一気に生き返った気がしました。

日々、接している当時の俺たちと同じ年頃の学生さんたちに、升のHPを見せてやりたいとおもってます。
大人に成りきれず、相変わらず、海に、山に、うつつを抜かしている俺でありますが、、、、

『あと、30年。常にワクワクする余命を昔の仲間と分かち合えれば幸いと思っています。』
同感です。

河野@西表浦内

*******************************

舫い綱(もやいづな):船を岸壁や別の船につなぎとめるロープの事。
サバニの舳先のしなやかな指先で捌かれた太い一筋のロープは、およそ30年もの長い間、それぞれの海を行く二人をしっかりと舫っていたようです。0006_2

30年も前に神島を飛び立った海鳥が、青い青い空を高く高く飛びながら、いつも見守っていてくれたに違いない。
2006/04/12 河野&升

あとがき
「こうやって繋いで読まされると、まるで、男友達の前で、パンツを脱がされるような気恥ずかしさです。
が、この年齢になれば若い頃の恥はかき捨て、でよいのかもしれません。
升流でまとめて下さいな。俺は、それでよいです。」
河野@ カツオドリ

| | | コメント (0)

2006/04/09

眼摘み

3月3日はお雛様のお祭りだ。
このお祭りに対応して水産食品業界でも年に一度の“お祭り”を華々しく催す一部分がある。
ひな祭には色鮮やかなチラシ寿司が付き物で、その具材である穴子・海老・蟹・イクラ・鯛デンブなどなど海の幸の流通量が増加する。
これらの商材は冷凍管理が可能な為、流通業界ではあらかじめ手配を怠らない限り、混乱は起こらない。
問題はチラシ寿司をほおばりながら啜る“ハマグリのうしお汁”の原材料ハマグリに於いて多々発生する。
うしお汁用のハマグリは活きていなければならない。
ところが、足も手も無いこのハマグリ、はたして活きているのか一見しただけでは分からない。
うしお汁を作る鍋の中にたったの一個でも腐敗の進行した貝が混じればその鍋全体から異臭がたちのぼり、全てを廃棄する以外処置法はない。
この日のために1パック398円も出して購入した消費者は怒り、スーパーに怒鳴り込む。

Photo_20230507175101

現在安価かつ大量に日本国内に出回っている暗褐色の厚い殻を持つハマグリのほとんどは黄海沿岸のものだ。
広大な干潟で膨大な人海を用いて掘り出されたハマグリは石ころ同然にドンゴロスに詰め込まれ、裏面の区別なく日本に送り込まれる。
日本の各地には専用の畜養場があって一旦は日本の砂に潜る。
砂上に取り残された貝は即ち死んでいるのでここで選別が可能だ。
しかしながら、この手間をかけられるのは殻長7センチ以上の大きな貝に限られ、アサリに毛の生えた様な小さな貝はそのまま流通に乗る。

毎年2月の末日、横浜市内のとある食品加工場のワンフロアに盥に似た浅い簡易水槽が一面に並ぶ。
水槽には海水が張られ、ハマグリが重ならない程度に敷き詰められる。
かたわらで温風バーナーが焚かれ水温を上げる。
営業の若い衆の軍団が見守る中、元気のいいハマグリがパクッと口を開け水管を出す。
“ハマグリの芽摘み”と呼ばれ、若い衆が一晩中口を開けたハマグリだけを摘み取っていく。何トンも。

 

その昔、ハマグリの産地として有名な地域で畜養場を経営する業者から面白い話を聞いた。
北朝鮮に買い付けに行った時のこと。ハマグリを満載にしたトラックがとある河原で車を停める。
積荷のドンゴロスを引きずり卸おろし、ハマグリの蝶番を上にして河原の砂利の上にドミノ倒しの駒のように一直線に立てる。
貝と貝の間に隙間が開かないようにするのがこつらしい。
トラックの燃料タンクからガソリンをペットボトルにくすね、松の葉っぱに含ませて並んだハマグリの上に散布する。
一様に散布したら点火。
後は松葉ガソリンで火加減を調整しつつハマグリが蒸し上がるのを待つ。
これがことのほか美味いらしい。
早速送ってもらい、砂浜で試した。
松葉ガソリンの散布加減が分からずとうとう手に引火。
煤けたハマグリを取り上げた手は真っ黒。
身はガソリン臭。

ひな祭は慎ましくうしお汁がいい。
2006/03/07  升

| | | コメント (0)

2006/01/23

カツオドリ

magazine0307

 

今月の表紙
●撮影・解説 河野裕美
八重山諸島仲ノ神島のカツオドリは、季節風の吹く荒天の2~3月に産卵し、海が凪ぎはじめる4月ごろに雛がふ化し、親鳥は採食に追われるようになります。
雛はトビウオやトビイカを給餌され、100日前後で初飛翔します。
巣立ち幼鳥は、その後の1~3カ月間を繁殖島に留まり、秋にはフィリピン南部以南の海域へ渡ります。
多くはこの独立期に命を落としますが、生き残った若鳥は3~5年後に仲ノ神島に帰還します。
(東海大学地域研究センター研究員)

 

驚いたことに“タツロウ”氏(「ピラルクへの路」参照)は日本に滞在中だった。
なんでも、JAIC関連を巧みに利用して鹿児島水試で「環境を汚染しない養魚飼料」製造研修の為、帰国しているという。
正月には東京に戻るから会えればいいね、の内容のメールも頂いた。
そのまさに正月の真っ最中の2日の日に氏のご親友である河童氏から、
「本日、タツロウ氏のご実家で集まります。食い物・飲み物は各自持ち込みです。」
お誘いを頂いてしまった。
“各自持ち込み”がお気に入りの私は、タツロウ氏所縁の久米島産活き車えびと越乃寒梅を携え、西武池袋線東長崎駅南口に程近い銭湯の高い煙突が目印に聳え立つ、鴻池邸にずうずうしくもお邪魔した。

ご本人には勿論、存在しないはずのお姉様やお父様より先に逝かれた筈のお母様(「海」”タツロウ“参照)にまでお世話になり、大嘘つきの私は恐縮至極の末不慣れな美酒に大酩酊してしまい記憶が途絶えた。
江古田駅南口のカラオケ屋で中島みゆきをとうとうと歌い上げる自分に覚醒した時は午前2時を回っていた。
タツロウ氏の素敵な姪御さん・甥御さんの若い唄や河童氏の演歌を何曲か拝聴し、歩いて帰るというタツロウ御一族に手を振られ、同じ方向の河童氏とタクシーに乗り込んだのは午前3時を過ぎていた。
千川通り沿いの練馬区役所前を通過中、ふと私は河童氏に尋ねた。
「河野裕美は今何処にいる?」
「さっき、タツロウさんちから電話したが誰も出なかった。覚えてないのか? この酔っ払い!」

 

河野裕美。
岩崎裕美でも栗田裕美でも太田裕美でもなく、Hiromi Goでもない。
れっきとした私の友人のお名前であるが、珍しいことに彼の周辺にはあやしさが微塵もない。
札幌時代、我が下宿の崖下に彼の下宿部屋があり、今と同じく野放図な生活を送っていた私は度々彼の部屋を訪ね、欠席した講義のノートを閲覧させてもらった。
部屋は整頓されそして机の上にはいつも一冊のバイブルが置かれていた。

札幌→沼津→清水、東海大海洋学部史上唯一12期生の一部のみが経験できた校舎流転旅烏組の仲間河野は、札幌時代は愛煙家であったのだが沼津で突然嫌煙家に変貌した。
「どうしたの?」の問いに「あと1メートル深く潜りたいから」。
解り易い答えが返ってきた。
彼とは逆にその頃から喫煙に染まってしまったのは私だ。
同じ海を目指しながらも、広大な分野の中でそれぞれが異なる道を、その時から歩き出していたようだった。
そして、いつしか彼は日本の南西の果ての島に一人住み着いてしまっていた。
 
3月、4月は日本沿岸に生息するほとんどの魚の産卵期に当る。
その理由は海の自然対流の為であると教わった。
すなわち、冬のさむ空で冷やされた表層水が低層水よりも重たくなり上下水が入れ替わる。
低層水には様々な生物の排泄物や死骸が沈殿・分解された栄養塩類が豊富だ。
それが冬場に表層水が冷却され低層水よりも比重が大きくなり、上下がひっくりかえる。
その結果、表層に現れた豊潤な栄養塩類が太陽光線の助けを得て水生動物のみなもとの糧である植物プランクトンを爆発的に育み、これを引金に頂上の知れない食物連鎖が営まれる。
海老もフグもそのたぐいだ。

河野と同じく、札幌でめぐり合った人と式を挙げたのは4月の中旬のこと。
3月中に車えびの種苗を作り上げてしまおうと言う私の目論見が、親海老の入手が出来ない理由で伸びに伸び、なんと式前日に入荷した。
しかたなく、挙式のためだけに東京で一泊し、そのまま大三島に戻るという愚かな行程を踏んでしまった。
海老をつくり、トラフグをつくり、秋風が吹き出す頃にポッカリと暇になる。

なんの予約もしないで沖縄行きの飛行機に飛び乗ったのは11月の始め。
ハネムーンのつもりだったが行く宛など決めていない。
とりあえず那覇空港近くの古びたビジネスホテルに宿を取り、さて明日は何処にいこまいか? の旅。
室内の観光パンフレットを物色し、翌日出港予定の石垣行貨客船乗船を決定。
宮古島で夜明けを迎え、石垣港には午後の到着。
当然一等客室の船旅だ。
とりあえず石垣港近くの白亜のリゾートホテルに宿を取る。
異様に暑いのでフロントマンに、
「マスクにフィンそれにシュノーケルをかして!」
「もう冬なので泳がないほうが宜しいかと。」
と諭される。
水温は25℃もあるのに。
さて明日は何処にいこまいか? 
ふと、隣の島に河野がいることを思い出し、宿の電話帳をめくった。

 

翌朝、高速船に乗り込み西表島にむかった。
大原港で下船し島の東側から北側を巡る島半周道路をバスに揺られ、終点の白浜まで行く。
「白浜から先は道がない。サバニで迎えに行くから港で待ってて。」
電話口で昨夜河野に指示された通りの行程だ。
程なく沖合いからエンジンの音も軽やかに一隻のサバニが廻ってきた。
舵取りは真っ黒に焼けた24才の河野に違いなかったが、舳先に陣取りもやい綱を捌いている長い髪の素敵な女性が一緒だ。
ショートパンツから伸びる長い脚が小麦色に日焼けしていた。
「休暇で遊びに来ている友達だ。ルフトハンザのスチュワーデスをしている。」
挨拶もそこそこにサバニに乗り込み研究所のある網取へ向かう。

Photo_20230506092201

亜熱帯ジャングルが直接海に落ちている岬をいくつも越え、鉄の遺跡の様な周囲に全くそぐわない波力発電実験塔の残骸の下をくぐり、30分程の遊覧の末河野の城である網取へ着いた。
1971年に廃村になった網取には海洋研究所の建物のほかは、先人達が築き上げた珊瑚の石垣以外人造物はなにもない。
住人は河野を含めた職員の3名だけ。
私たち夫婦は、“河野邸”でアカジンミーバイの透明な刺身と冷えた白ワインで歓迎され、無人のベッドが並ぶ学生宿舎に泊めてもらった。

Photo_20230512163001

4年後、私は網取を訪れた丁度10ヵ月後に産まれた長女たち家族とともに、久米島での生活を始めた。
毎年のように事業が拡大し、とうとう竹富島に養殖設備を作る話が舞い込んできた。
島の北側にある牛の放牧場に20haの陸上池を作る計画で設計の段階から介入した。
国立公園内の開発行為であるが為、特に環境汚染対策には十分な配慮を施した。
景観維持の為、施設を全てギンネムとアダンの林の内側に置き、取水溝はヒューム管埋設の他、海老養殖では類を見ない潜砂池をも排水路に設けた。
半年に亘る工事の終盤、池の漏水及び注排水設備点検試験を行った。
口径400mmの水中ポンプ4台から順調に揚水し、計算通りの時間で満水になった。
漏水もほとんど無いことを確認した24時間後、排水門を開けた。
潜砂池に紛れ込んでいた赤土が押し出され正面の西表島に向かって一直線に流れた。
河野が見ていたら怒られそうだった。

 

暇を見つけて遊びに行く。
10年前と同じように白浜で、今度は互いに一人で、髭を蓄えた34才の河野に再会した。

 

昨日、“カツオドリ”を検索中、素敵な記事を見つけた。

imgf9850be85m5gkc

2005.11.04
え~!こんどは『カツオドリ』がやって来た。
ほんと・・・久々の書き込み!
昨日、なんと我が家の庭に『カツオドリ』が現れた。
家の愛犬が突然、吠え出したので何事かと庭を覗いてみると、普段は海の上ぐらいでしかお目にかかれない鳥が居るではないか?
まさかと思いながらしばらく観察していると、どうも様子がおかしい。
歩き方が、よたっているようでどうも普通ではない。
20分ほど見ていると、道路のほうに飛び出したので妻があわてて、保護。
島の中にある、東海大の研究所に連れて行ったところ、やはり衰弱していたらしく、体重もとても軽いとの事。幸い怪我も無い様なので、放鳥出来るようになるまで面倒を見てくれるとの事で、やっと一安心でした。>

 

51才になった河野の仕業に間違いない。
2006年1月23日 升

 

引用文献
日本自然保護協会 会報 『自然保護』 2003 7/8月号(No.474)
 http://plaza.rakuten.co.jp/sunsunsun/

| | | コメント (0)

2005/11/27

スピッツ

♬新しい季節は なぜかせつない日々で 
河原の道を自転車で 走る君を追いかけた
想い出のレコードと 大げさなエピソードを
疲れた肩にぶらさげて しかめつら まぶしそうに
同じセリフ 同じ時 思わず口にするような 
ありふれたこの魔法で つくり上げたよ
誰も触れない 二人だけの国 君の手を離さぬように
   大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る♬

 

木造平屋の生家の八畳間で家族4人で寝起きしていた。 
八畳間には畳一枚ほどの床の間があり、南側の縁側との境に古めかしい書院が付けられていた。 
正面には大きく太い毛筆で書かれた解読困難な掛軸が下がり、その手前に大仰な家具調真空管ラジオが主が如く居座っていた。 
上段がラジオ本体で、下段を両親は絵本置き場として使っていた。 
高さ・幅・背表紙の景色がバラバラの絵本で2/3ほど詰まったその空間に、私のお気に入りの一冊があった。 
おそらく、同居していた本好きの伯母が、私か3歳上の姉のために買ってくれたものだと思う。 
ページの総てが絵で埋まり、ストーリーではなく絵の説明に近い5行ほどの文節が、申し訳程度にそれでも大きな仮名で、左上の空の中や、右のジャングル、左の海の中に印刷されていた。
「ロビンソンはひさしぶりにうみがめのスープをたべ、げんきになりました。」 
読んで貰ったのか、自分で読んだのか、たぶんその両方に違いないが、およそ50年後の今でも絵は忘れてしまったが、この文節だけを記憶している。 
沖縄の島々を飛び回っていた頃、時期によるのだろうが搭乗機の離着陸の際、海面すれすれの高度下の視界にかなりの数のウミガメを見た。
その度ごとに、「すりこみ」された私の本能が震える。 
ウミガメ⇒ロビンソン⇒スープ⇒美味しい⇒元気になる。

 

いつものようにポンプピットへの導水路からのエントリー。 
右手には水中銃。 
その日は大物狙いの予定だった。 
数日前、イソマグロ(沖名:トカキン)をしとめたばかりだったので、その余韻がいまだ銛先にこびりついていた。 
奴はどうゆうつもりか私のヘソ下3メートルで、いきなり直径1メートルの円周遊泳を相当な速度を持って始めた。 
海底静止用の10キロの鉛を腰に巻いていた私はホバリングの為垂直姿勢に建て直し、ゆらぐ足鰭の間から“ズン”。 
3キロの♀イソマグロが私に対する求愛動作であったのかも知れないと想像を豊かにしたのは、刺身で頂いた後の事だ。

この日も、100メートル沖へ出た頃、ヘソ下5メートルに再びトカキンが現われた。 
今度は10尾ほどの群だ。 
悠々と水面の私を追い越していく。 
1/10の確立でヒットすれば幸と、私は静かに腰を九の字に折り下半身を水上に立て忍者の如く音もなく接近し、“ズン”。  
水深3メートルで放った銛の発射音と同時に、トカキンの群の中央部分(照準点)がカラッポになる。 
逃げられた! と理解した刹那、リードロープを通じて何か手ごたえがあった。 
なんと、銛の刃先はトカキンの群の下にのんびりと泳いでいたアオウミガメの首筋をかすめていたのだ。

緑色に見える血液を透明な海の水に一筋の線を膨張させながら、それは微動だにもせずまるで故障した円盤のように、しかし、ゆっくりと沈んでゆく。 
保護動物を傷つけてしまった自責の念に愕然とする最中にも体長50センチ余りの彼は沈んでいく。 
このまま放置すれば文字通り海の藻屑、無駄死にだ。 
せめて、ロビンソンにしてあげなければいけない。lady_elliot4_small

 

3メートルを浮上し、水中銃をリセットする。 
水面にてロビンソンの行方及び落下速度を、さらに、我体力とを計算する。 
シュノーケルの細い管から周りのありったけの空気を私の肺にため、ロビンソンを再び追う。 
無駄を避け、垂直に。 
耳抜きを繰り返し、水深15メートル付近で追いついた。 

繰り返しますがこれは事故。 誤射の産物。 
私は謝罪の意を込めて慎重かつ丁寧に、余すところなくヒージャー汁用の大鍋でロビンソンをスープにした。 
今後、私のような無用な妄想に取り付かれないように一言感想を述べさせて頂きます。 
ロビンソン漂流記の作者あるいはロビンソン・クルーソー自身は美味いものをあまり食べた事がなかった様です。 
だから捕まえて食べないように。


魚市場の営業をしていた数年前のこと。 
所属していた近海特種課の同僚に“ウミガメの卵”という注文がある仲買から来た。 
特別なる水産物の売買の仲介を業とするセクションだが、もてあました同僚が私に応援をこうた。 
仕方なく、ウミガメの産卵地付近に生息している水産流通界の友人・知人に問い合わせた。 
「新聞に載りたければ自分で掘りにおいで。一躍君も有名人になれるよ。」 
異口同音の返事が返って来た。

 

恩師に 「君の文章はタイトルと内容が合致していない。」 との厳しいご指摘を頂いてしまいました。 
スピッツの歌より遥かに解かり易いタイトルだと、筆者だけは確信しております。
2005/03/17 升            
引用文献 作詞:草野正宗 “ロビンソン”

| | | コメント (0)

丸太

台風でもないのに夕方になって突然北風が強く吹き始めた。 
北に開いた東シナ海が夜間に満潮を迎えるため、念のため海側にあいた排水門の総ての海側に、波浪よけシャッターを取り付けた。
内側からチェーン・ブロックで引っ張り開閉する、内側にしか開かない招き式水門構造なので外圧に弱い。 
大波と共に拳大ほどの石でも噛み込もうものなら、水門は閉じなくなり気付かぬうちに養殖池は干上がってしまう。 
過去、幾度か夜中に潜水し、鋼鉄の水門とコンクリートの間に挟まった小石を強烈な吸引水流の中、取り除いた苦い経験があった。 
命がけの作業である。

この夜は宿直当番で、深夜の満潮時に見回りに行くと、案の定、水門部分にまで波が押し寄せていた。 
処置が正しかった事に安堵し、以後下げ潮になる事も踏まえ、私は六畳間の宿直室で仮眠を貪った。 
北の風も治まっていた。

翌朝、空は晴れ渡り南風、久米島北海岸の海は穏やかな何時もの風貌に戻っていた。 
何か違うなと気が付いたのは事務所から50メートルも歩いた頃だ。 
いつもは灰白色一色に見える、池から波うち際までの約100メートルの隆起サンゴ礁で出来たなだらかな勾配が、一面茶色に見えるのだ。 
人も何人か出ている様子。 
  
はて、何だろう? 池の護岸から改めて眺める。
丸太が累々としている。 
直径1メートル・長さ10メートル程の巨木の大群が、アキサビヨ一! 一面を埋め尽くしているのだ。 

やれやれ、後2メートル波が高かったならこれが全部養殖池になだれ込んでいただろう。 
胸を撫で下ろし、事務所でジャスミン茶を啜り始めた頃、出勤してきたスタッフが紅潮した顔でいった。
「場長、茶を飲んでる場合じゃないさぁー。 あれ1本20万だよ!」
「なに?」
「難破船からの流木は拾った人の物になるのさー。」
そう云えば、数日前のニュースで外国船籍のラワン原木運搬船の遭難事故を報道していた。
「ほんとか~!」

即断で私はその日予定していた(海老を死なせないため以外の)総ての業務を放棄し、全スタッフに丸太確保を指示した。 
しかし、あの巨大な丸太を担いで運ぶわけにはいかない。 
聞けば、最初に丸太に目印を付けた者の所有権になると言う。 
さらに、その目印は例え釘1本でも「合法」らしい。 
私は全員に5寸釘を配布し、20万円がさんざめく遥かミーフーガーへと続く原野に解き放った。 
ウエットスーツを着用している者には、着岸前の浮遊丸太に泳がせ釘を打たせる徹底振りだ。
 
昼飯時にそれぞれが帰還した。 
それぞれの成果を集計するとどうやら150本の釘が消費されたようだ。 
150×20=3、000 という数字を私の電卓が弾き出した。 
中間管理職である私は当該3、000が、果たして、私も含む雇用もとの企業に還元されるのか? 私ももちろん含む個人に還元されるのか? 
六法全書を開き始めたとき、来客が相次いだ。
「釘より先に私は縄を巻いた。」
「釘より先に俺はナイフできずをつけた。」
「釘より先にワンはスプレーでペイントした。」
「釘より先に・・・」

場外乱闘が得意でない私は、島で“お爺”と呼ばれるほどの男(養殖場主任)にその交渉の全権を委ね、海老の餌巻き作業に従事した。
交渉結論。 
養殖場チームの取り分25本。 
その報告にも25×20=500が弾かれる。 
当初の目論見の1/6に減少したが、なに、500でも充分だ。
 
早速、縄・ナイフ・スプレー等各丸太所有権者との合同協議に移る。 
現金化のためには、先ず原野の丸太を重機を用いて大型トラックに積み港に運ぶ、更にこれをフェリーに積載し那覇港から再び陸路にて製材所に搬入しなければならない。
この壮大な丸太輸送プロジェクトの指揮を誰が受け持つか? 議論の焦点であった。 
本業に差し支える危惧があるため私は降板した。 
結局総意のもと、大移動の最初のポイントである“島のユンボ屋”に総てを委任し、売上はユンボ屋から支払われることになる。

作業が始まった、ユンボの大群が戦車の如く現われ、ワイヤーに巻かれた丸太を次々に釣り上げ10トントラックに積んでいく。 
3本の丸太を積載した10トン車の車列が山コーラルを敷き詰めた仮設道路にひしめく。 
数日後、会計報告が届いた。
原木代金  3万円/本(岩礁に打ち上げられた原木は、無数の小石を噛み込んでおり製材用ノコギリを多々破壊したため。)
諸経費     2万円/本(輸送費)

 

私たちは25万の現金を手に入れ、念願のソフトボールのユニホームおよび道具一式を購入した。

なだらかな隆起サンゴ礁で創られ、サクナや塩グサなど多くの海浜植物で覆われていた素的な大地は、無残にも仮設した赤土混じりの山コーラルに犯され、キャタピラの足跡が白いタツゥーとしていつまでも残った。 
どこまでもどこまでも、まるでガラガラヘビがノタウッタ跡のように。
2005/02/20 升

 

 

| | | コメント (0)

タルイカ

みがいたロールを解凍し、定規に合わせ柳刃で切る。 
切り取ったサクを一つずつ袋に入れ、真空包装。 
IQF後発泡スチロール箱に定貫で梱包する。 
私はいつも魚の血液や内臓あるいは鱗だらけの姿で工場内をうろついているので、生食用として供するこの商品の作業現場には、初日の作業指導に出向いた以来、滅菌用アルコールを頭から吹きかけた、お顔を除く清潔このうえないパートの女性陣に総てお任せしている。 
たまに「これ大丈夫?」との問いと共に、身質や色の異なったサクを持ち込んでくる。 
私の品質チェック法を彼等は充分把握しているので、問題のサクと一緒にワサビ醤油付きの当該ロールから取った刺身を忘れない。 
視覚で○×に分けた後、必ず試食する。 
私の「うまい!」を聞けないタルイカは、かわいそうだが廃棄処分となる。
 
私は水揚げ直後のタルイカの味を知る、首都圏では希有なる人間なのだ。
このイカの特徴はとにかく大きいこと。 
私の工場で扱う原料ロールは小さなもので6キロ、大きなもので10キロを超える。 
歩留まりを高めに考慮してもその成体は軽く20キロを超えていたはずだ。 
肉厚は3~5センチもあるのでそのサクは蒲鉾と見間違える可能性がある。 
スーパーマーケットの店頭にも並んでいる、ソデイカあるいはマツイカと表示されていることが多いが、あれはタルイカである。

 

標準和名:ソデイカ
俗名;セーイカ、オオトビイカ、マツイカ、心中イカ
英名:フライング・スキッド、ダイヤモンド・スキッド

体形的特徴:外套長は80センチに達し体重は20キロを超える。 
鰭がひし形に体全長に大きく広がりロケット型である。 
腕の大吸盤の角質環には20~26の鋭い歯があり、触椀のそれには15~20個の細い歯がある。 
軟甲のかたちも独特である。
 
生態的特徴:日中は水深約300~500mの間を、夜間には水深約0~150mの間を遊泳し、この範囲内で鉛直移動が繰り返し行われていた。
日没前には急激に遊泳水深が上昇し、日出時には遊泳水深が急激に深くなっていった。
交接が終了し、雄の精嚢をすでにもっている雌の成体が産卵期近くの春先に南下回遊を行ったことから、ソデイカの産卵場所は八重山諸島のはるか南方海域であることが示唆された。
南下回遊時の遊泳速度はほぼ一定で、毎時約2㎞であった。
一方、秋季には明確な南下回遊は認められず、ジグザグな水平移動であり、索餌を目的とした移動であることが推定された。
<沖縄水試石垣支所沖合資源研究室報>
平均寿命はおよそ1年とされ、産卵期は1~7月の長期に渡り、3~5月が中心となる。 
本種の卵塊は長さ約1メートル、直径15~20センチのソーセージ型をしており、小笠原では湾内で見つかることもある。 
沖縄では7~10月を禁漁期と定め、小型イカを漁獲から保護している。

 

以下はタルイカに命を掛けた熱き男達の感動のドラマである。

1989年に久米島漁協組合長ご一行が日本海地方に旅をした。 
組合費を捻出しての旅行だったので、いくつかの漁協に表敬訪問した痕跡を残さないとまずい。 
ご一行は昨夜の不慣れな日本酒に沈没し、常識的には早朝に訪れるべき、近隣鳥取県内のとある漁港を夕方になって訪れた。 
そこで久米島でも見たことのある巨大なイカの水揚げを目撃した。 
しかもかなりの大漁だ。 
ここではソデイカと呼ばれているようだが、あれはセーイカに間違いない。 
沖縄ではこのイカは夜間水面付近で釣り上げる事が常識で、漁獲量も微々たるものだった。
 
久米島のウミンチュ達は鳥取の漁師に問うた。 
「昼間に獲れるの?」 
驚くべき回答が返ってきた。 
「水深300メートルで釣れる。」

帰島した彼等は早速試験操業を開始する。 
水深300メートル。 釣れない。 
水深400メートル。 釣れない。 
釣果の得られない日々が続いた。 
もう止めようという声があがり始める中、組合長は諦めなかった。 
水深600メートル。 
記念すべきその25キロを超える大物がかかったのは試験操業開始10日目のことだった。

この日以来久米島の沿岸漁業は大きく変わった。 
それまでのこの島の釣り漁業は浅海の手釣り及び引き縄に限られていた。 
手釣りでは主に底魚のミーバイやアカマチ狙い。 
引き縄の主役はもちろんマグロ。
 
この引き縄組みが一斉にマグロ狙いからセーイカ狙いに切り替えた。 
引き縄漁―水産漁業用語でトローリングと云ったほうが解かりやすいかもしれない。 
すなわち、釣り針を仕掛けた餌を舟を走らせながら、まるでその餌がマグロがごく自然に日常捕食している魚に化けさせ、食い付きを待つ漁法だ。 
この漁法の苦楽を描いた文章が過去「ノーベル文学賞」を射止めているのでご参照いただきたい。 
久米島の漁船はポンポンエンジン付きサバニだ。 
ウミンチュは出航後先ず餌となるサバやカツオを釣る。 
そして日長一日中東シナ海海上を引き回すのだ。 
本マグロに当たればお祭り、カジキにヒットすれば幸運、
シイラが揚がってもラッキー。 

そのほとんどのサバニが重油を使い果たし坊主で帰港する。 
更に、万に一度お祭りや幸運に恵まれたとしても「ノーベル文学賞」にあるように、サバニにより大きな魚はサバニに揚げられない。 鼻先をロープで括り、水温30℃を超える表層を延々と引きずって来なければいけない。 
「ノーベル文学賞」にあるような事件が辛うじて避けられたとしても、鮮度で価格が決定される商品に値しない姿で戻ってくるのだ。

一方、セーイカの漁法を述べよう。 
必要資材は、ロープ・竹ざお・旗・擬餌針・テグス1,000メートルそれに発泡スチロール製の体積200立方メートル程の浮き。 
彼等は東シナ海洋上で旗を取り付けた竹ざおを浮きに括り付け、竹ざお下部に時の潮流に合わせた長さの疑似餌付きテグスを取り付け、海に委ねる。 
そして、サバニのエンジンを止め、漫画を読みながら竹ざおに結んだ旗が揚がるのをひたすら待つのだ。 
当時の浜値は850円/キロ、寝ている間に20キロ×850円、簡単な二択の問題だった。

発泡スチロール製の浮き=タル。 
この怠慢且つ合理的な漁法から産まれた新たなるソデイカの俗名が「タルイカ」の命名起源だと、私は確信して疑わない。
 その後、この漁法は沖縄本島海域はもとより、宮古・八重山諸島に伝播し、平成5年には東京都小笠原諸島にまで波及している。sodeika

 

 NHKプロジェクトXに、当時の久米島のウミンチュ達がその日焼けした顔ではにかんでくれる日を、私は待ち望んでいる。
2005/02/02 升

| | | コメント (0)