カテゴリー「あやしいお話」の147件の記事
2025/01/01
2024/07/16
知床で夢を買った話
1.
1973年
札幌の学校に通っていたとき、夏休み早々に、札幌21:05発急行大雪52号に乗った。
大雪52号は下りの函館本線を走り、旭川で3分間停車した後石北線に繋がり、乗り換えなしで終着駅網走に翌朝の06:59分に到着する。
曜日は忘れてしまったが、その日は、尋常な混み方ではなかった。
札幌始発の列車だったので運よく私は座ることが出来たのだが、次の停車駅の江別やさらに岩見沢駅においても降りる人よりも新たに乗車する人の方が多く、人いきれがいっそう濃くなってきた。
通路は立ったままの人で埋め尽くされていて、無頼漢は既に網棚に寝そべっている。
4人掛けの箱席の通路側に私は座っていたのだが、私の左の肘が乗るはずのひじ掛けにはワンピースを着たお姉さんのお尻が乗っていて、細いひじ掛け板からはみ出したお尻の肉が私の左腕を圧迫していた。
札幌から既に2時間が経過しても混雑の状況に全く変化が見られず、ついに深川辺りで19才の私はひじ掛けのお姉さんに「俺、下で寝るから、ここ座れば。」と言ってしまった。
板張りの座席の下は、支える四本の鋳物の脚が生えているだけで、人一人潜り込めるほどの空間がある。
私はそこに足をたたんで潜り込み、頭だけを通路に置いた寝袋に預けて、横になった。
肩の上にはお姉さんの青いワンピースに包まれたお尻が乗っていて、目を開けるとサンダルを脱いで脚を組んだお姉さんの右の足の裏がひらひら揺れていた。
上川辺りでようやく眠りに落ち、北見を過ぎたところで目が覚めた時には、もう車内はガラガラ、お姉さんは挨拶もなくいなくなっていた。
網走駅前のカニ飯屋で腹をこしらえ、湧網線を使いサロマ湖へ行き、打たせ網で揚げたばかりの北海シマエビの茹でたてをたらふく頂いた。再び、網走までもどり、釧網線に乗って斜里で降り、バスでウトロまで行って民宿に泊まった。
翌早朝ウトロ港から乗り合いの釣り船に便乗して入れ食いのカジカ釣り。
得物は全部船の船尾に追いすがるウミネコにくれてやり、バスで知床五湖の入り口まで行き徒歩で一周した後、網走まで戻って19:36発の下り大雪52号で札幌まで、という行程。
この時の知床五湖は、エゾ松林の中を悠然と一人で歩き回る事ができた。
これが私と知床の初めての出会い。
札幌・網走間の乗車賃は急行券を合わせても往復4千円ほどで宿代やオプションの費用を含めても学生の小遣いでまかなえるギリギリの1万円で事足りた。
2.
1979年
瀬戸内海は大三島で、五右衛門風呂付きの古いお家を借りて所帯を営み始めた1979年ころ。
きっかけはとうに忘れてしまったが畑正憲氏に傾倒し、文芸春秋社に依頼して毎月刊行される「畑正憲作品集」を宅配してもらい読み漁っていた。
ヒグマのドンベイ飼育のお話や、厚岸浜中町沖の無人島・嶮暮帰島に家族3人で移り住んでの冒険談、浜に打ちあがった無数の毛ガニを五右衛門風呂で茹でて食べたお話等に、ただ々憧れ配本されるのを毎月楽しみにしていた。
本には毎月、著者や「どうぶつ王国」の近況報告の様なたぐいの「ムツゴロウ新聞」なるものが付録されていていた。
ある号のその新聞に、知床の現状を訴え「しれとこ100平方メートル運動」への勧誘と寄付金を募っていると言う記事を見た。
そして、このことはその後の長い旅暮らしの挙句、私の頭の中から、すっかり忘れ去られていた。
3.
2024年
駅舎は替わっていたけれど駅前のカニ飯屋は健在だった。
今回、レンタカーを駆って網走から線路沿いを走る。
時代は車社会に変わったいまでも、釧網線はいまだオホーツクの飛沫を浴びながら、一両単行の気動車で走り続けていた。
駅舎をカメラに収めながら、「天国に続く道」を辿り、斜里・ウトロの町を通り抜け、辿り着いた駐車場の向こうにはオシャレな建物が置かれていた。
「知床五湖フィールドハウス」と銘打ったその建物は知床観光の拠点である。
2011年に環境省がおよそ2億円をかけて整備した建物で、 釧路自然環境事務所の委託を受けて公益財団法人 知床財団が運営している。
(公財)知床財団の前身は斜里町が造った「自然トピアしれとこ管理財団」で、現在の「知床財団」は羅臼町も参加している。
50年前は乗り合いバスの終点で降り立って、トドマツの林の中をてんでに歩いて回った記憶があったのだが、流石に今は立ち入りに厳しいルールが出来上がっている。
雪がなくなる4月下旬から11月上旬までが開園期間で、その期間内で更に、立ち入りルートが設定されている。
ヒグマ対策で電気柵を巡らせた往復1.6kの高架木道は、夜間を除き無料かつ無条件での、散策が許されている。
と言っても、駐車料金500円が既に支払われているのだが。
一方、昔ながらの地上遊歩道は、ヒグマの活動期の5月から7月末までの間は登録されているガイドの引率無しでは入れない。
ガイドはすべて登録されていて、勿論有料。
観光客一人当たり距離の距離に応じて6,000~3,500円程が必要だ。
熊の心配のないそれ以外の時期は、250円を支払い10分程の講習を受けなければ遊歩道には入れない決まりになっている。
熊に追われたら逃げる脚を既に弱めている我々老人は、迷わず木道を選択してスタート、片道800mすらおぼつかない。
木柵コースは笹の群生地の上に架けられていて、遮るものなく流石に見通しは素晴らしかったが、かつてエゾ松の森の中を深々と歩いた面影は全くない。
あとで聞くと、この笹は開拓放棄地に後から生えたもので、地下に根を張り巡らしているため、他の植物の生育を妨げているという。
昔のような森に戻す為には、先ずこの笹の地下茎ごと文字通り根こそぎ撤去してから、幼木を植える必要があるらしい。
熊は出なかったが鹿が水辺でのんびりと口を動かす1.6キロを完歩して駐車場まで引き返す。
つまらない土産物屋の建物を素通りしてフィールドハウスの戸を開けた。
がらんとした中は財団職員やガイドの情報交換の場所らしく、奥には、ヒグマ活動期以外の時期に行われるレクチャー会場があるようだ。
カウンタの中にただ一人いた知床財団の職員らしい女性に私は訪ねた。
『大昔の話で恐縮だが、「知床1㎡運動」というモノに賛同してかつて土地を購入した覚えがあるのだが、それはどの辺りになるのか?』と。
『100㎡運動というものはありましたがいつ頃のお話でしょうか』
『去年亡くなった畑正憲さんの呼びかけに賛同して、大三島にいた頃だから45年ほど前のことだね。』
『「知床100㎡運動」が始まったのは1977年です。今から47年前になります。』
『100㎡なんて家が建つような面積なんか買う金なんかなかったころだから1㎡だったはず。』
『「1㎡運動」と云うものは御座いませんでした。100㎡のお間違いでは?』
『100㎡で幾らだったの?』
『一口8千円と聞いておりますが。』
『それくらいだったら若造でも払える金額だね、そうか、100㎡だったのか。』
『その節はありがとうございました。お陰様で今はこんなに自然が回復しております。』
『あんたが産まれていない頃の話に礼を言われても困るよ。で、そこはどの辺りなの?』
『運動の趣旨通り個人様の特定の土地の場所というものはありません。以前は野外掲示板に寄付された方の名札を掛けさせて頂いておりましたが、現在は、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」という建物内に収めており、誰でも自由にご閲覧いただけます』
『それ何処にあるの?』
『ここからウトロの方に戻って、知床横断道路との交差点を過ぎてすぐの「知床自然センター」の向いにあります』
『もうすぐ5時になるからもう今日は間に合わないね』
『いえ、5時半まで開いているはずです』
4.
資料
知床の玄関口ウトロを経て知床五湖に向かう途中の岩尾別地区は、大正初期から戦後まで三次に渡る入植が繰り返されたが、厳しい自然の下で離農が相次いだ。
一帯が国立公園に指定されて間もない1966年には、斜里町が最後まで残っていた24戸を市街地に集団離農させている。
ところが、日本列島改造ブームに乗って、岩尾別の開拓跡地は土地ブローカーの恰好の標的になり、乱開発の危機にさらされた。
離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった。
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―
1977年2月、成田空港反対の1坪運動と、朝日新聞の1面コラム「天声人語」に載ったイギリスのナショナルトラスト運動の記事をヒントに、当時の藤谷豊町長が提唱したのが「国立公園内百平方メートル運動」である。
「知床で夢を買いませんか」がキャッチフレーズ。
参加者には離農跡地を百平方メートル当たり8千円で分譲する形をとるが、土地の分筆や所有権の移転登記はせずに斜里町が一括管理する行政主導型で運動が始まり、土地にはトドマツやシラカバ等の植樹をしていくことを掲げた。
拠出金は土地の買い上げと植樹費用のみに使い、宣伝や事務費などは町の一般財源を充てる、という画期的なものだった。
翌1978年には、斜里町が離農跡地120ヘクタールと町土地開発公社所有地31ヘクタールを買い上げる一方で、“公園内の土地保全”と“開拓跡地の自然修復”を図ることを目的に二つの条例を制定し、観光開発から知床を守り抜く運動が具体化していった。
20年後の1997年3月、運動参加者はのべ49,024人、金額では、5億2,000万円となり、「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成された。
―しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借―
そして、この時からキャッチフレーズが「夢を買いませんか」から、新たに「知床で夢を育てませんか」と換えられて、守られた土地にかつてあった自然を復元する取り組み「100平方メートル運動の森・トラスト」を本格的にスタートすることになった。
また、これを機に保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、将来に渡ってこの運動地を守り続けることを明確にした。
2010年11月には、100平方メートル運動地内に最後まで残されていた11.92haの開拓跡地を取得し、目標としていたすべての保全対象地の取得を完了することができている。
5.
2024年
道の駅然とした佇まいの「知床自然センター」はすぐにわかった。
少し前に後にしてき知床五湖の駐車場にはたくさんの車が利用していたが、バスを含めて200台は収容可能と思われる「知床自然センター」の広大な駐車場には乗用車が3台しか停まっていない。
この建物は、林野庁が起こした「知床国有林伐採問題」事件の最中(1988年)に斜里町が建てたもので、現在は「知床五湖フィールドハウス」と同じ(公財)知床財団の管理下に置かれている。
ただの道の駅ならばこのガランとした風景を見ただけで「閉鎖中」と勘ぐられ、建物内はもとより、駐車場にさえ入る車などないだろう。
シーズンには、ここにマイカーを置いて臨時に発着するシャトルバスで五湖へ向かう、という一般車立ち入り規制サービスの拠点にもなっていると言う。
さて、「向い」にある筈の「しれとこ100平方メートル運動ハウス」は「向い」にはなく探し回った結果「裏」にあった。
この建物は「知床自然センター」建設に先駆けて(1987)建てられていて、これも斜里町の仕事らしい。
深い森に囲まれ、しかも、鹿がいた。
館内を隈なく見学したがその他の見学者はおらず、職員の姿も皆無だった。
閉館時間が迫っていることもあって急ぎどこかにあるべき私の名前を探した。
入り口の脇に分厚い名簿が置かれてあったが寄付を受け付けた年代は新しいものばかり。
展示パネルが貼られている外廊下を1周すると建物の真ん中に四角い空洞(部屋)がある。
目測すると10m×10m、丁度100平方メートルの大きさの部屋である。
なるほど、100㎡の実際の大きさの表現かと思ったが仕掛けはそれだけではなかった。
壁一面に白い短冊が上から下までビッシリと張り付けられていて、近寄らなければそれは名札であるとは分からない。
拠出金の提供者、言い換えれば知床に100㎡の土地を夢と一緒に買った人、49,000名余りの名札に違いない。
年代順なのか、あいうえお順か、ABC順か?
しばらくして、その名札は提供者登録住所の県別に、仕分けされていることに漸く気が付く。
愛媛県越智郡大三島町宗方で生活していた頃の話である。
迷わず愛媛県の仕切りに飛びつくと、その中に私の名前が刻まれた名札があった。
周囲の名札の中には黄ばんだセロテープを剥がした痕跡のある物もある。
参加者が増える度に名札が都度1枚づつ造られ、47年前の1枚目からこのハウスに収容されるまでの10年間、知床の原野の風雪の中に置かれた歴史の面影を物語っていた。
5.
20年の間に5万人足らずの人から5億円強の金銭を預り、町が120ヘクタールの土地を買い集め保全した話。
夢が叶った物語の筈なのだが、「しれとこ100平方メートル運動ハウス」を後にしてから振り返ると、そこに違和感が建っていた。
「知床五湖フィールドハウス」の建設費はおよそ2億円。
とすると、このハウスは1億円ほどか?
3階建てと見られる「知床自然センター」は10億か?
『離農者から土地買い上げを要請された斜里町は、財政難のために環境庁へ一括買収を求めたこともあるが、実現を見なかった』為に、苦肉の策で始めたこの運動。
そのたったの10年後に、運動で集めた拠出金よりも多くの金額を使って、斜里町は二つの観光施設を造ったことになる。
施設をだだ造っただけでは観光客は来やしない。
もしかしたら私たち拠出金提供者は、知床観光客を呼び込む為の全国に散らばるアンバサダー役に、現金と共に利用されたのかも知れない。
名札を残してくれるのは有り難いことだが、あんな豪華な建物の中よりも以前の様な原野の中で熊や鹿と一緒の方がそぐっていた、と考えるのは私だけではないだろう。
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHPより拝借
名簿だけで充分。
「あんな無駄な建物造る金があるのなら、もっと違うことに使って!」
と、そう思わない輩はあの運動に参加していない筈だから。
とわ言え、私の名札が残されていたことに感動した。
なによりも、私自身が忘却していた半世紀も前の出来事を、今の現場の若い人たちが忠実に記憶し、かつ継承していることに驚きを覚えた。
彼らに感謝と共に今後の活躍に期待している。
2024/7/12 升
引用文献
しれとこ100平方メートル運動の森・トラストHP(しれとこ100平方メートル運動(北海道斜里町) (shiretoko.or.jp))
曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号)(曲がり角にきた知床100㎡運動(『北方ジャーナル』1996年7月号) | 滝川康治の見聞録 (takikawa-essay.com))
2024/06/28
あさひが照らす落石の岬
日本各地から出航した北米航路の船舶は、まず太平洋岸を北上し、昼ならば北海道の東の端の白地に太い赤のストライプの入った灯台を、夜ならば8秒間隔で光る灯りを、霧の中ならば30秒間隔で5秒を二回吹鳴する霧笛を、それぞれ頼りに主舵を切って日本列島に別れを告げ大陸に進路を向けたという。
東経145度30分55秒、北緯43度9分52秒、そのまま真東へ進路とれば、北米大陸はバンクーバーとサンフランシスコの中間、オレゴン州辺りにぶつかる位置。
灯台の周辺は湿地に覆われ、国の天然記念物に指定されているツツジが自生していて、環境保全地域になっている。
そのため、車両の乗り入れは禁止されていて、灯台に行くためには車を置いて、木道や草原を2キロほど歩く必要があるため、魅力をいっそう高めている。
晴れた日には太平洋のパロラマが一望でき、振り返れば草原に覆われた海抜50mの断崖上を、JR花咲線が縦走する姿が絵になることでも名を上げている。
高く突き出た岬を頭に、低く細くなっている付け根分部を頸部に見立て、アイヌ語の「オクチシ」(うなじ)に由来した地名で、和名は「おちいし」と読みます。
集落は、表現豊かなアイヌ民族の言葉通りに岬に突き出した高台の根元にある低いところにあって、惣万君の故郷です。
あんなに晴れていた納沙布岬から40kの道のりを南下するにつれて霧が出てきました。
ほぼ直線と言っていい対向車もない道道142号線を80㌔で走っていると「落石駅」の矢印が突然見えてきます。
この花咲線の駅は、惣万君が5駅先の根室駅まで毎日、道立根室高校への通学の為に使っていたものに違いありません。現在の利用客は10名/日程との事ですが当時は、150名ほどいたとの事で、もっと賑わっていた筈でしょう。
もっとも、終着の町根室の駅舎も思いの他大きくなく、そうそう、東海道線の原駅の駅舎に匹敵するくらいでした。
落石駅に到着したのが11:40分、10分前に厚岸根・室方面行が出たばかりで、列車が撮れなくて残念でした。
駅の時間表を見ると1日6往復、面白いことに惣万君が利用していた頃(1973)のJTB時刻表に記載されている本数と同じでした。
7:10発に乗り根室7:37着、帰りは16:50発→17:17着が通学列車でしょう。
いまは、落石港発→根室高校前経由→根室市民病院行のバスが1往復運行されているようです。
道道142号線に戻るとすぐに、今年4月に中学校が統合して新たに根室市立落石義務教育学校とされたそれまで小学校だった校舎があり、その先に同時に廃校となった中学校の校舎が見えます。
5月にこの付近でヒグマが出たとニュースになっていました。
どちらも惣万君の母校でしょう。
3月に落石中最後の卒業式があり、卒業生代表の挨拶は惣万凛桜さんだったとの、根室新聞記事を見つけました。
惣万君によればご両親は既に亡くなり、彼のお姉さんも弟さんも札幌などに出ていて、20年ほど前に墓仕舞いもしたが、今でも落石の惣万姓は皆父方のご親戚とのこと。
凛桜さんも彼の御親戚のお一人に違いないはずです。
中学校前の道道を道なりに進んで行くとおしゃれな郵便局の前に暖簾が下がっているお店がありました。
目指す朝日食堂です。
惣万くんからは「88の婆さんだからもうやってないかも知れないよ」と云われていたお店。
暖簾が出ていたので営業中に間違いありません。
引き戸をガラガラと開けると、カウンター席にもその向こうの調理場にも誰もいません。
「こんにちわ~」を繰り返すと奥から出てこられました。
名物エビラーメンを注文し、撮影の可否を問うと快く許して頂きました。
柱に貼られた保健所発行の食品衛生責任者証のお名前は惣万照子さん、間違いありません。
スマホに保存しておいた若い頃の惣万君の写真をお見せして自己紹介をすると、たちまち相好を崩されました。
麺を冷蔵庫から取り出しながら語り始めたヨシタカちゃんの若い頃の物語。
落石№1の漁師だったヨシタカちゃんのお父さんの事、その三番目の弟に28才で嫁いで40年前にこのお店を開いたこと。
ヨシタカちゃんが仕事で海外に行っていた頃、奥さんがお父さんの葬式のために一人でここまでやってきてくれた時の事。
毎年静岡からお茶を送ってくれて、一緒に入っている綺麗な字で書かれた、近況を読むのが楽しみなこと。
お礼に港の魚を送ってやりたいけど最近はいい魚が獲れなくなったこと。
落石で揚がった真っ赤なホッカイシマエビ入りの美味しいラーメンを平らげてもまだ、お話が尽きません。
営業は2時までとの事、もうすぐ閉店の時間です。
「最近は脚が痛くなって、齢が齢だし、いつまで続けられるか分からない」と云いながら送っていただきました。
いつまでもお元気で、ごちそうさまでした。
外に出ると辺りはすっかり霧に包まれていました。
下り坂が続き集落と思われる地域に出ると周辺は完全にホワイトアウト状態です。
道路の前方には草地とも砂地とも思われる僅かな面積が見えるだけで、海岸なのか山なのかさえ分からなく、方向を失う危険を感じ引き返しました。
あとで聞けば灯台に繋がる木道は改修工事中で通行止めになっていたそうです。例え辿り着いていても何にも見えなかった筈と舌をだしています。
頼りの霧笛も、15年前に廃止され、もう道案内は叶いません。
霧のなかを更に道を下って行くと漁港にでました。
ウミネコ達も見通しの効かない空を飛ぶのをあきらめたのか一斉に羽を休めています。
向こうに落石岬、高さ50mの大気を観測している地球環境モニタリングステーションが幽かにみえました。
整備された大きな水揚げ場が目に入りましたが船の出入りはもとより人の姿も見られません。
日本で一番早く日が昇る町は、この日霧の中に沈んでいて、朝日食堂だけが灯台の様に輝いていました。
2024/6/16 升
2024/02/04
「秋刀魚の味」サンマは何処に?
高所恐怖症の私など下を見下ろせば目眩がする、そのほとんどの石垣の上辺に柵が設置されておらず、転落事故が起きていないことが不思議だ。
その一角に松坂市立歴史民俗資料館がある。
明治末期に図書館として建てられたもので、建物自体も国の有形文化財になっている。
建物の一階はその名の通り地域に纏わる歴史を語る古いものが展示され2階部分は、松坂商人の子として生まれ父親の故郷であるこの地で青春の10年間を暮らした、昭和の映画界の巨匠小津安二郎の記念館とされている。
昨年(2023)の12月から今年(2024)の2月末まで、小津安二郎生誕120年を記念し「望郷の松坂」と称して、特別展が催されている。
普段は別の常設展示品が置かれている一階分部の半分ほどのスペースにも所狭しと、安二郎と松坂の繋がりのあるプライベートなハガキや写真、ノートなどが、展示されているが残念ながら撮影禁止。
2階は彼の関わった映画の資料が並べられている。
こちらも撮影禁止だったが唯一民家の間取り模型だけは撮影が許されていた。
それは、安二郎の遺作となった「秋刀魚の味」(昭和37年 松竹)の主人公平山親子が暮らす家の模型で、資料館の学芸員が映画の画面を見ながら手作りで再現したものという。
周平が着替えているところが居間②、その奥の路子と次男の和夫がいるのが居間①。
「遅くなるのならそう言わないともうご飯作らないわよ!」路子が怒っている。
食卓として使われているようで、鴨居の上の仏像の額が印象的。
周平に、路子が呼ばれたところが居間②。
「三浦には婚約者がいたんだ」と三浦の先輩でもある長男の幸一から告げられた路子。
密かに三浦に恋心を抱いていた路子は無言で席を立ち、二階の自室に向かう。
居間①とは襖で区切られ夜は周平と和夫の寝所になっている。
周平が死後を怒鳴っている洗面所、玄関の反対側で廊下①の突き当りの位置だが、模型では少し右手にづれている。
この台所も模型では省かれているが、玄関からの撮影、廊下②の電話器が見える。
サッポロビールのロゴの入った箱が棚の上に置かれている。
スポンサーだったのか、座敷のビールや野球場の看板など頻繁にサッポロビールが出てくる。
昨年末NHKの「最後の講義」という番組に、路子役を演じた岩下志摩が ゲスト出演した。
番組中、俳優を目指している若者たち相手に自分の女優人生を語る中で、この画像のシーンの撮影時の思い出を次の様に語っていた。
「自分が恋していた男が既に他の女性と婚約していることを父親と兄に告げられた後のシーンで、無言で机に向かい布の巻尺を指先に巻き付ける場面。
たった十数秒のカットに小津監督は何度も何度もやり直させて、80回はやったと思います。もう何が何だか分からなくなってしまいました。OKが出た後の食事会の席で監督が、『人間はね、悲しい時に悲しい顔をする人ばかりではないんだよ』と仰られたことを今でも覚えています。」
私が写真を撮っているのに気が付いた青年が模型を作った苦労話を話しかけてきた。
この岩下志摩談の話をすると、有名な逸話だったらしく彼も承知していて、話が弾んだ。
来週には「浮草」ロケ地志摩市で上映会を企画しているとの事だった。
小津安二郎監督の作品は、TVで放映されたものは全部視聴している。
この「秋刀魚の味」には幸一の住む団地の近隣駅として、東京大田区東急池上線の石川台の高架駅が路子の着物姿と一緒に、登場している。
どの作品も、70年前の首都圏戦後復興期の価値観・風俗・暮らし方を如実に反映していて、見ていて実に興味深い。
動画の昭和館とでも云おうか。
映画「秋刀魚の味」はかれこれ三回ほど見たけれど、サンマの刺身はおろか塩焼きすらお目にかかったことがない。
TV放映のものでは、当時のポスターの絵の様な寿司屋らしきカウンター での、笠智衆と着物姿の岩下志摩のツーショットシーンは流れない。
このカウンターで、サッポロビールで「サンマ」をつつきながら、父と娘の絆を深めあうシーンがあった筈と勘ぐっている。
ノーカットのオリジナルを見たいものである。
私が「秋刀魚の味」にこだわっているのは、内緒なのだが、昔お付き合いしていたお嬢さんが「路子」に瓜二つだったからに他ならない。
2024/02/03 升
2023/12/11
海洋学部の通学船
母校東海大清水校舎では、昨年(2022)年4月よりJR清水駅前からキャンパス前まで、東海大学生専用の「通学船」を運航している。
「潮風を感じながら富士山を眺め、運が良ければイルカにも出会える」が売りの「通学船」だ。
東海大は、「三保の水族館」として親しまれた海洋科学博物館と自然史博物館を施設の老朽化を理由に、今年(2023年)3月有料入館を終了した。
同大は、周辺にあった三保文化ランドも2000年に閉園しており、1970年代から維持してきた三保半島先端の「遊んで学べる施設」は全て閉じることになった。
運航は、清水港と西伊豆土肥港を結ぶ駿河湾フェリーの富士山清水港クルーズ㈱に、委託している。
富士山清水港クルーズ㈱は、フェリーの他駿河湾内の観光船やJR清水駅⇔三保への水上バスの運行も行っており、両博物館の事実上閉館に伴う利用客の減少を補う形となったようだ。
利用対象は、本学静岡キャンパスの大学生・大学院生等の他、教職員も対象になるらしい。
運航ルートは、JR清水駅前(江尻のりば) ⇔ 折戸キャンパス前(折戸のりば)で、折戸からJR清水駅前行の便はエスパルスドリームプラザ(日の出のりば)を経由する。
いずれも所要時間は約20分。
運航日は、2023年度秋学期は2023年9月21日(授業開始日)~2024年1月30日(定期試験最終日)の授業実施日(補講日含む)、定期試験実施日。
さらに、運航本数は授業時間に合わせて1日9便程度と完璧に学生生活に密着しており、授業あらば祭日運行も可としている。
乗船賃は、①2023年度秋学期定期乗船券 25,000円、②乗船券(10枚1セット)3,000円で、静鉄バスJR清水駅~東海大前(片道25分)運賃340円よりも速いしお得だ。
記
東海大学さま専用通学船の運行開始のお知らせ
平素は格別のご愛顧を賜り厚く御礼申し上げます。
弊社では、2022年4月より江尻~折戸~日の出~江尻の間を東海大学さま専用通学船の運行を開始するため各種準備をしているところです。運行ダイヤに付きましては、東海大学さまからの指定日(授業・試験期間、特別行事等で年間200日程度)を別記時刻表例等により運行いたしますので、ご案内申し上げます。なお、本航路は通学船用航路であり、一般の方にはご利用いただけないため、皆様にはご不便をお掛け致しますがご理解の程、何卒宜しくお願い申し上げます。以上
運賃は回数券で300円/片道とバスより40円も安い。
一方の定期券はその考え方が面白い。
一般の公共交通機関の「定期券」は、一か月~六か月、月単位の特定区間乗り放題券であるのに対して、「通学船」のそれは、大学の学期+授業日に合わせた日時で発行されている。
案内にあるように、9月21日から翌年の1月31日までの「秋学期」の授業日を75日として往復利用した場合、25,000/(75×2)≒167円が片道料金となって更にお得だ。
キャンパス内車両乗り入れ自由な時代で、車通学で学生生活を過ごした私には、今の学生生活を伺い知ることは出来ない。
昨年から折戸キャンパスに開設された「人文学部」(募集定員180名)と海洋学部の定員と合算すると1学年530名、4学年合計で2,120名、院生・教職員を合わせると総計は2,200名程か?
運行会社では、1日、その総数の1/5の利用者を期待しているという。
そして、その全員が定期券を購入しても年間2,200万円程度にしかならない。
<2023年度秋学期授業期間中(2023年9月21日~2024年1月23日)の時刻表>
※定期試験期間は、定期試験の時間に合わせた運航となります(下記参照)。
※日曜・祝日、夏期・冬期・春期休暇中は運航しません。なお、祝日の授業日は運航します。
※天候等の理由により欠航する場合は、在学生・保護者向けポータル(TIPS)にてお知らせします。
なんだか悲しいです。
2023/11/19
日展へ(品川97都営バス)
1.
歩いて2分の所に京急の駅がある立地で暮らしているので、私はバスを利用する事がほとんどない。
都心に出ても、地上を走る鉄道や地下鉄が手指を流れる血管の様に無尽に繋がっており、しかも時刻表通り正確に運行しているとあっては、時間不案内なバスは敬遠してしまう。
そんな私が同じ路線を走るバスに過日、もう何回目だろう、乗車を果たした。
そのバスは、品川駅の高輪口から新宿駅西口行きの方向幕を掲げて走る、都営バス。
品川駅を出ると、第一京浜を上り、新設高輪ゲートウエイ駅前を左折して泉岳寺前の魚らん坂を登る。
魚らん坂下から明治通りを左にしばらく走り、光林寺・フランス大使館をやり過ごし、天現寺橋を右に回って外苑西通りに入る。
都立中央図書館の置かれた有栖川宮記念公園と広尾駅の間を通り過ぎ、スイス・オマーン・ルーマニア等各国大使館の間を、走り抜ければ雨が降っていなくても西麻布に出る。
青山霊園の広大な墓石群の右側、環状三号線に入ってすぐのバス停「青山斎場」で下車すれば、通りの向こうにある国立新美術館まで徒歩5分。
2.
およそ三十分の山手線内側南北縦断バスの旅を経て「第十回日展」を閲覧してきた。
第十回と極めて浅い数字を冠しているが、平成26年に名称を改めてからのもので、明治40年の起源から数えるとなんと通算116回目の開催という。
この展覧会には、日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書の五科の作品が、公募によって一同に集まってくる。
今年は総搬入数11,328点の内、入選した2,369点と663点の無監査作品を含め、合計3,032点の芸術品が陳列展示されているという。
美術館の1階が日本画と工芸美術、2階が洋画と彫刻、3階に書の展示部屋があって、それぞれの枠の中は更に迷路のような展示通路になっていて壁面に二次元作品が、テーブルあるいは台に三次元作品が所狭しと並べられている。
日本画・洋画共に人の背丈ほどの大きな絵画の迫力にまず圧倒され、数の多さに疲労する。
意外にも魚など水中生物を描いた作品が多い。
魚類図鑑に掲載されそうな正確な描写のものから明らかに「間違いイワシ」の絵もある。
表現の自由、芸術だから文句はいえない。
彫刻の展示場は異様だ。
ほとんど等身大の人の像が、様々なポーズをとり、様々な方向を向いて、微動だにしない。
パントマイヤーが混じっていて、突然動き出さないものかと、不埒に思ってしまう。
中にはこんなものが芸術か?と首を傾げる作品もあって、かの作品からはく離したと思われる塗料の破片が台座に積もっていた(手で触って可)。
こんなものかと言い放ってしまったが、もちろん、こんなものも私には作れない。
この作者はきっともうすぐ二代目太郎と呼ばれるはずだ。
図7 木代喜司作(日展会員)「戦争のない世界」
前回同展に訪れた時、とある作品の画像を携帯で撮影したところ、たちまち会場係員と思われる女性スタッフに囲まれ、こっぴどく叱られらる苦い思い出があった。
今年も同じ規則だろうと思って遠慮していたが、作品にスマホを向けている観衆が多数いる。
念のため、受付に立ち戻って掲示を見ると、営利目的でない限りSNSへの投稿もOKだと記載されていた。
近くにいた水墨画から抜け出した御姫様の様に清楚で美しい受付嬢に、叱られた経緯を話すと、笑顔で対応して頂き、
「ただし絵画の中には撮影禁止の作品があるので注意してください」
とのこと。
「人物写実画の場合、モデルさんの肖像権が発生する恐れがあるからです」
なるほど、写真かと思われる精密な作品が沢山あった。
3.
美術に造詣のない私が日展に足繁く通うのには訳がある。
話は長くなるが、私が大学二年のハタチの暮れに、水産加工実習をかねて一人で北海道に渡った時の話題を簡単に書いたものが、当該ブログの初稿となっている。
タイトルは「ニシン」{ニシン: Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)}でクリックしてご一読頂ければありがたい。
そして、別の切り口で、後に下記内容の一節を投稿した事がある。
<1975 師走
冬休みを利用して、私は余市にあった身欠ニシン工場でアルバイトを兼ねた実習をした。
工場は知人の実家が経営しているもので、1週間の滞在後、札幌にいるその知人を羊々亭に招待して感謝の意を表した。
気が付くと、帰りの旅費がない。>
{北回帰(リメンバー色のラベンバー): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)} より抜粋
すなわち、日展に通うその理由は、この記事にある「知人」の作品が、この会場に展示されているからに他ならない。
しかも、その知人のお姉さまの作品もいつも一緒に毎年入選され、同じく展示されている。
さらに驚くべきことは、その知人の親友が、私と44年もの間一緒に暮らしている、カミさんなのである。
つまり、文章にある「羊々蹄」で、私のおごりのジンギスカン食べ放題・生ビール飲み放題を満喫した知人とは、お世話になったY水産のお嬢さん姉妹と彼女達に私を紹介してくれた当時ハタチで未来のカミさん、三名のことなのである。
そんな事件の5年後、私たちの結婚のお祝いにY水産のお母様とお嬢さんが、はるばる東京まで駆け付けてくれた思い出もある。
時を経て、妻の友人Aさんはお父様の実家のあった富山の小矢部市に、姉のIさんはお隣の石川県津幡町にそれぞれ嫁ぎ、半世紀後のいまだに妻と交流が続き、そして素敵な手仕事の作品を毎年産み出し続けていらっしゃる。
彼女達の作品は共に、日展五科の中の工芸美術分野で、日展曰く、実用品に美しさや装飾性を加えて作られた作品で、陶磁器、漆、染色、彫金など更に多岐にわたる分野に別れている。
Aさんは「人形」、Iさんは「染色」のジャンルの作品を毎年造り続けている。
図10 林明代作「YO LO」
既に作風というものが出来上がっているのだろう、私よりか幾分この道に造詣の深い妻の手にかかると、550余りの作品の群れの中からたちまちお目当を探し出し、私を案内してくれる。
今年の日展工芸美術科の審査主任である三田村氏のお言葉をお借りすると、
<外部の審査員二人を交えて 19 人で、鑑審査にあたっての意気込みなどを話し合うことから始める。
作者の思いと努力に対して、尊敬の念を持ち、作品と真摯に向き合い、作品の良さを感じ取っていきたいとの思いで鑑査に入る。
立体、平面の入落を一審、二審、三審と日を重ねて行う。
この間皆が一切無言で、作品と向き合い、良い作品への挙手を繰り返し行う。>
という厳しい審査を通過しての作品。
もちろん私などには評などし得ないが、姉のIさんの作品(染物)は墨を使っているためか畳表程の大きな作品のイメージはいつも「黒」。
日本海のどんよりと重く垂れさがった黒い雲の下で、怒涛の波が常に浜辺に押し寄せていた冬の力強い余市がIさんか。
あるいは、ニッカウイスキー創立をテーマにした朝ドラ主題歌で中島みゆきの歌う「麦の唄」に表された優しくも力強い余市がAさんか。
あの海辺の小さくも暖かな工場で、ニシンの脂でツヤツヤの同じ両親の手で育てられた姉妹が、相反する色彩で自分を不可思議に表現していた。
4.
背中のリュックが重い。
西門から出て、乃木坂のトンネル下をくぐる。
トンネルの中で歌って踊っているのか、お嬢さん46人の集団はいなかった。
衆議院青山宿舎裏門に仁王立ちしている大柄な警察管がいぶかし気な眼で私を追う。
横断歩道を渡り「坂の上の雲」で大活躍した秋山好古・真之兄弟が眠る青山墓地の斎場前でバスを待つ。
来た時と同じ都営バス品川97「新宿駅西口行き」は三停留所前まで来ているという点滅のサイン。
<青山斎場>→<青山いきいきプラザ入り口>と北に走り、次は秋篠宮殿下のお住まいのある赤坂御所と秩父宮ラグビー場の間にある<青山1丁目駅前>に停車する。
停留場から日本ラグビーの聖地秩父宮ラグビー場のバックスタンドまで200mほど、レフリーの吹くホイッスルの音や観衆あげる歓声が聞こえるかもしれない。
青山通りを渡ると、道路は東側を並走していた外苑東通りと合流して、路名は外苑東通りに替わりさらにバスは北上を続ける。
<北青山一丁目アパート前><権田原><信濃町駅南口>を経て中央線を横断し<信濃町駅前>に到着する。
(慶応病院前)のサブタイトルの付いたこの停留場で下車。
背中の荷物、船戸与一「猛き箱舟」上下巻、好川之範「土方歳三最後の戦い 北海道199日」、山形孝夫「失われた風景 日系カナダ漁民の記録から」、三浦しをん「風が強く吹いている」等のハードカバー、新田次郎「密航船水安丸」文庫本、計6冊の名著をリュックから取り出し、病院総合案内所脇にあった<入院患者差し入れ品預り所>の専用袋に入れ替え、宛先を7D病棟 761号室 Mと書いて踵を返した。
そういえば、これの差し入れを読むMは、Aさんに会ったことがある。
2023/11/17 升
2023/11/02
忘却(Oblivion)
忘却(Oblivion)
Lourdes 急に息苦しくなるの重たいわ
あなたのベッドの白いシーツ
ふたりの愛なんか忘れたわ
Lourdes 急に息苦しくなるの重たいわ
胸の上のあなたの手
まさか夜なのにね
舟はどこかにこぎ出して行ったわ
人はそれぞれに別れて
忘れていくのよ 忘れていくの
Tard どこかの古臭いバーであの夜
バイオリンが二人のメロディーを
また詩ってももう忘れたわ
Tard 頬をあわせて別れたわあの夜
みんなぼやけてしまい
忘れていくのよ 忘れていくの
Court あまりに時が速く過ぎ去って
一夜のカウントダウン
二人の愛さえ忘れてしまう
Court あまりに時が速く過ぎ去って
あなたの細い指先が
私の心を貫くの
ふたり駅のホームで
目を合わさないまま別れたわ
忘れていくのよ 忘れていくの
「Oblivion 」というタイトルの楽曲は、「エンリコ四世」というイタリア映画のインストルメンタルとして、ベネズエラ出身のアストル・ピアソラが作曲したバンドネオン奏曲で、オリジナルには歌詞がない。
(ピアソラのヴァンドネオンバージョンはこちら)
映画「エンリコ四世」はマルチェロ・マストロヤンニやクラウディア・カルディナーレ等著名な俳優を配し、1984年カンヌ国際映画コンクールに作品を出品したものの、売れなかったという。ー出典(映画com)ー
その後、二人の歌手がそれぞれ彼の音符に勝手に歌詞を付けて歌い、これが思いのほかヒットした。
その歌手の一人ミルバとピアソラは1988年にそろって日本公演も果たしている。ー出典(ピティナ・ピアノ辞典)
ミルバとピアソラの演奏はこちら
以来、この4分程の悲しい曲は、映画「エンリコ四世」のインストルメンタルから離れ一人歩きを始めることになる。
2014年ソチ五輪の女史フィギュアスケート金メダリストのアデニア・リトニコワがエキジビションで使用し、彼女の美しさを強調した曲としても名を馳せた。ー出典ウイキペディア(画像も)ー
一方、日本でも、笠井美幸・竹下ユキ・中山エミ・TAKAKO・石川三鈴・片山富子・加藤登紀子等が、それぞれ勝手に日本語で歌詞を付け、シャンソンとして歌い上げている。
オリジナルの歌詞がどれなのかも定かでない中、彼女らが「訳詞」と銘打った歌詞には相互性がなく、それらの歌詞からもオリジナルを見出すことはもはや難しい。
ピアソラが最も高く評価したとされるミルバの歌っている歌詞はフランス語。
著作権で守られているのでここに記載することは叶わなが、日本のシャンソン歌手の面々に準じて、私が勝手に訳した物を冒頭で披露させていただいた。
直訳に限りなく近くしかも雰囲気を残したものと自負している。
元ウイーンフィルのコンサートマスターで読饗の同職をも勤めていたダニエル・ゲーテ氏(Gaede.jp|ダニエル・ゲーデオフィシャルWebサイトhttp://www.gaede.jp/)が率いるゲーテ弦楽四重奏団のコンサートが昨夜、逗子市で開かれた。
四重奏団としては2011年の震災慰問公演以来4回目の来日公演との事だが、ゲーテ氏とは昨年ウイーン・ピアノ五重奏団を率いての来日で初めてお目にかかっている。
昨夜の演目は「ベートーベン 弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調」と「シューベルト 弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調」の二つ。
それぞれには「Serioso(厳格に)」および「Death and the Maiden(死と乙女)」の悲壮な副題が付き、前者はおよそ20分、後者はおよそ40分、共に四楽章で短調だけの悲しい曲だ。
昨年の反省から今回はあらかじめYouTubeで予習を行ったうえで拝聴したため、楽章の間に手を叩く事もなく過ごせたばかりではなく、終曲後誰よりもいち早く拍手をするというあこがれの暴挙を成し遂げることが叶った。
ところが、拍手に答えて演奏されたアンコールの3曲はもちろん事前発表などあるはずがない。
先のベートーベンとシューベルトの奏曲の第四楽章の終わりは共にカルテット4人の持つ弓が勢いよく弦の上を滑ったあと、同時に高々と跳ね上げてフィナーレを告げるパホーマンスがあった。
だが、アンコール3曲は共に真綿に包んだような曲の切れ目があり、それが楽章の終わりなのか、曲の終わりなのか、初めて聞く耳で躊躇している間に消え入るように静かに終わってしまった。
ゆえに、拍手の起こるタイミングが1拍子も2拍子も遅れてしまう結果となった。
これには流石に演奏者も苦笑い。
まことにごめんなさいの一言だ。
至福のひと時を楽しんだ帰り道、アンコール曲の手書きによるタイトルが、会場の出口に貼りだされていた。
ダニエル・ゲーテ氏のバイオリンがギーコギーコと異音を発てる最後の曲がとてもよかったのだが、手書きの曲名は「マーク・カールソン Hidden Pearl」と「ピアソラ オブリビオン」の二つだけだったのでタイトルがわからない。
もっとも、「オブリビオン」がアンコールの1曲目だったのか果たして2曲目だったのか、今となってはひたすら「忘却」なのだが。
画像はフレンドシップコンサートオフィシャルブログ(こちら)から拝借しました。
2023/11/01 升
2023/10/22
八甲田 Ⅲ
八甲田山
たくさんの峰と山の上に多くの田んぼの様な湿原がある事からその名が付いたと云われる八甲田山。
実は、八甲田山という名の単体の山が存在する訳ではなく、18から成る火山群の総称だという。
中でも大岳が一番高く1,585mがその標高で、五所川原から弘前にかけてどこからでも眺められる岩木山に次いで青森県では高い山らしい。
だから、津軽富士とも呼ばれている美しい姿を誇っている岩木山の様に、山体そのものの姿を見た覚えも、あるいは、写真で拝んだ覚えも無いのである。
私が八甲田の名を知ったのは、正にその名を冠した東北本線を走る急行列車を利用したことに起源するのだが、その後、新田次郎氏の著書や高倉健主演の映画を見るに至り、改めて感慨に浸ったものである。
明治35年に210名中199名もが遭難死した事件現場は現在の県道40号線。
その道のすぐ脇に、今はロープウェイ山麓駅があり、ゴンドラで田茂萢(たもやち)岳 の上まで快適に運んでくれる。
落雷事故の復旧作業のため運転をしばらくの間取り止めていたとの事、この日が運行再開の初日、訪れる人も少なかろうと思っていたが違った。
大型バスが駐車場に停まっていて後からも続いて来る気配。
フロントガラスには「Carnival Luminosa様御一行」と名盤が掲げられていたが意味がわからない。
小さな待合室には八甲田山塊からの湧水が蛇口から流しっぱなしになっていた。
その冷たい湧き水をカラのペットボトルに汲んでいると、バスからぞろぞろ「Carnival Luminosa様御一行」たちが、降りて来た。
2本の太いワイヤーと同じく細いワイヤが見える。
100人乗りのゴンドラは、銀髪まじりの金髪をかぶった大柄で太っちょな英語圏の人達を多くのせ、ゆったりと出発した。
今までこの様な狭い公共の場でガヤガヤと私語で騒々しいのは日本人ばかりなりと自負していたが、大きな間違いであることを思い知った。
そのノイジーなこと甚だしく、ゴンドラが鉄塔の中継点で大きく揺れる度に、総出で悲鳴をあげる大騒ぎ。
日本語で一生懸命周辺のガイドをするお嬢さんの声も聞き取れない。
山の上の駅には、日本の小母さんが出迎えていて、達者な英語で何やらガイドを始めるほどの歓迎ぶり。
なにものかしらと後から調べたらビックリ仰天。
Carnival Luminosaとは、カーニバル・ルミノーザ号というバハマ船籍のクルーズ船92,720tのことで、シアトルからのお客様を千名ほど載せ、この日函館港から青森港に入港している。
そう、この日の朝8時ころ函館駅の跨線橋から見えた海上に浮かぶゴウジャスな姿はこの船だったのである。
前港函館では函館駅前の記念館摩周丸に接舷していた様だが、青森港では八甲田丸係留岸壁の対岸に位置する青森新港中央ふ頭に接岸したとのことだ。つかのまの上陸の間に青森観光を楽しんでいるのだろう。
そういえば、少し前に訪れた弘前のねぷた村で、津軽三味線の演奏を一緒に聞いていた英語圏の外国の人達も同じ乗船客だったかも知れない。
ロープウェイ山頂駅のゴンドラから駅舎までの狭い通路の壁には、吹雪の中を昔の軍装で雪に埋もれて歩む軍隊の写真や、歯を食い縛る北大路欣也、雪原で凍り付く三國連太郎、雪まみれの高倉健等の、映画から切り取ったスナップ写真が隙間なく並んでいる。
こんな風光明媚な所にまったくにそぐわない。
写真の意味を知る私には不快感しかなかったが、はるばるシアトルから訪れてくれた、お客さんたちの眼には如何に映ったのかしら。 画像7 中央左が大岳、その左に井戸岳が見える。
とまれ、彼らは青森滞在9時間で、この日の夕方6時には次の停泊地東京お台場に向け出航するという。
最終目的地はオーストラリアの東端ブリスベンらしい。
彼らと分かれた私は、121年前青森の歩兵第五連隊がついにたどり着けなかった最終目的地田代元湯方面へむかい、連隊が彷徨した悲しみの青森田代十和田線を東に走った。
2023/10/20 升
2023/10/20
八甲田 Ⅱ
八甲田丸
当時の青森駅は、上野からの国鉄東北本線と福島からの奥羽本線の終点かつ青函連絡船との乗換駅で、まさしく北海道への出発口あるいは本州への玄関口であった。
このころ、青函連絡船は1日10往復の航路を津軽丸・八甲田丸・松前丸・大雪丸・摩周丸・羊蹄円・十和田丸の7隻の5千トンクラスフェリーが就航し、それぞれおよそ千名の乗客を乗せて運行していた。
1988年(昭和63年)に青函トンネルが開通すると、青函連絡船はその役目を新たに開業したJR津軽海峡線に譲って廃止され、青森駅は津軽海峡線の快速「海峡」の始発・終着駅の役割を果たしていた。
その後、2016(平成28年)に北海道新幹線新青森駅が開業し青森駅から北海道方面へ向かう旅客列車はなくなり、北の果ての玄関口の役割を終えた。
また、連絡船への貨車積み込みのため、構内の線路は岸壁に向かって北側に伸びた構造になっている。
線路の向こうには、青函連絡船の巨大な胴体がディーゼルエンジンを唸らせて横たわっていた筈だが、近すぎるからだろう、舷側の一部が見えるだけでその全体像をついに一度も目にしたことはなかった。
東海大の学生だけの千坂荘で暮らしていた頃、はす向かいの部屋の下宿生が青函連絡船の船長の倅で、往路か復路かに一度函館で途中下車して自宅に一泊させてもらった思い出がある。
彼の親父さんが乗っていた摩周丸は今、函館港の記念館として、青森港の八甲田丸と同じくしている。
北へ帰る無口な人の群れと一緒に早足で上った跨線橋の上からは眼下の線路の束が見渡せる。
上野まで繋がっている4本の線路はホームの数だけ幾筋にも膨れ上がり、やがて扇のかなめに向かう中骨の様に収束し、途絶えるとその先に陸奥湾が広がっている。
その海の向こうからちょうど今豪華に着飾った大型客船が入港してきて、取舵を切った。
2023/10/18 升
2023/10/18
八甲田 Ⅰ
八甲田号
上野駅15番線を19:10に出発する夜行列車に初めて乗ったのは丁度50年前の18歳の時。
四角い板張り4人掛けのボックスシートで紺色の座席は固かった。
この列車を利用するについていつも少しばかりの抵抗があった。
この時間に上野駅に着くためには遅くとも17時半には帰省中の実家を出なければならず、折しもその時間帯は夕食前であり、食べて行けという、母の言葉を振り切らなければならない後ろめたさがあったからだ。
早めに炊いた熱々の飯をかきこんでの旅立ちだったのかも。
あるいは、迷惑そうな顔をしている私に列車の中でと、握り飯も持たせてくれたのかも知れない。
この急行列車は盆暮の帰省ラッシュ時には2本の臨時増便も出るほどの人気だったが、9月も半ばを過ぎたこの頃はボックスを独り占め出来て、くの字に横になって寝ることにも支障がなかった。
急行八甲田52号。
19:04にB寝台車と座席指定車両を備えた正規急行八甲田号が上野駅14番線から発車する。
しかし私が乗るのは、そのすぐ後に同じホームの反対側15番線から出る、臨時列車急行八甲田52号で全席自由席の正に貧乏学生の為にあつらえた様な列車である。
リッチな14番線が満席でも15番線はガラガラだった。
上野発19:10。
大宮19:38→小山20:20→宇都宮20:42→西那須野21:28→黒磯21:28→白河21:58→郡山22:31→福島23:14→白石24:00→塩釜01:06→小牛田01:29→一ノ関02:11→水沢02:33→北上02:47→花巻03:00→盛岡03:29北→福岡04:50→八戸05:21→三沢05:42→野辺地06:05→浅虫06:28→と急行八甲田52号は東北本線をひた走り、青森駅06:47に終着する。
大宮辺りで検札が行われ同時に、必要な客には、青函連絡船の乗船名簿記用紙が渡される。
白河辺りから、「お休みの邪魔になる」との車掌のアナウンスが入り、車内放送も途絶える。
長時間停車駅は、宇都宮で6分、黒磯で7分、郡山2分、福島10分、白石5分、一ノ関2分、盛岡で2分、八戸で2分。
何故か仙台には停まらない。
その他の駅は発車ベルがすぐに鳴るか、ベルの鳴らない駅もあるというアナウンス。
それらの駅を利用する予定の客は寝ているどころではないだろう。
それから、何処とも知れない幾つもの薄暗く人気のない駅に時々思いついたように停車をしながら、延々と無言の旅が続く。
上野駅で買い込んだウイスキーの小瓶を早々に空にしても寝付かれず、車窓の闇に飛び去る遠い灯りを眺ている。
たまにドップラー効果でゆがむ踏切のカンカン音を聞き流しながら。
八戸辺りで白々と明るくなると再び車内放送がはじまる。
『皆様、急行八甲田52号を御利用下さいましてありがとうございます。現在、列車は時間通りに運転しています。あと10分程で三沢に到着致します。どうかお忘れ物ございませんようにお支度を願います。』
右手車窓に三角小島が目印の浅虫を過ぎれば次は終点。
青森駅からの乗り継ぎの案内が始まる。
奥羽本線弘前・秋田方面、津軽線三厩方面、それぞれの出発ホームと時間の案内の後に、連絡船への案内が続く。
大宮辺りで検札時に渡された連絡船乗船名簿に記入していれば、終点青森駅、右端の1番線に静かに入線。
列車左側のドアが一斉に開きホームに降りるとなぜか皆早足になる。
二等船室の大部屋に良い占有空間を確保するためだ。
06:47青森着の急行八甲田に接続する連絡船は07:30出航。
乗船賃は絨毯敷きのます席自由席(大部屋)で500円。
出航までの40分の間に立ち食いの熱い素うどんを啜る。
連絡船内の弁当メニューで新巻弁当250円、にしん蒲焼弁当300円の時代だから、素うどんは50円位だったか。
北に帰る人達が無口だったかどうかも、竜飛岬をごらんしたのかも覚えていないが、この連絡船は4時間で津軽海峡を渡り11:20に函館港の函館駅前に着岸する。
デッキは寒いしきっと大部屋でゴロゴロしていただけなのに違いない。
東北本線も青函連絡船も国鉄経営で、函館港でも着岸岸壁際に国鉄函館本線11:50発急行宗谷が待っている。
札幌行は特急おおぞらや特急おおとりが急行宗谷よりも先行して次々と発車するが、室蘭から千歳を回っていく太平洋ルートで遠回りな為、札幌到着時刻はほとんど一緒で貧乏学生がチョイスする必要がない。
日本海回りの急行宗谷は、畏れ多くも、本当の北の外れ稚内行である。
これを知ると思えば遠くに来たもんだとしみじみもしよう。
駅弁で一番安かったいかめし150円を森駅で買い昼飯。
この列車は、大沼公園→森→八雲→長万部→俱知安→小樽と停まり、札幌に16:25に着いた。
上野→札幌21時間30分の旅。
下宿の川沿町までは札幌駅から少し歩いたバス停から、17時頃発の札幌市営バス藻南線硬石山行きで約30分、しめて22時間半の行程になる。
下宿の千坂荘、きぬ小母さんに前もって連絡してあれば、あったかい晩御飯が食べられる時間にはたどり着けた。
運賃は、距離対応計算で上野→青森間739.2k(乗車賃2,560円+急行券300円=2,860円)。
青函連絡船500円。
函館→札幌間286.3k(乗車賃1,220円+急行券300円=1520円)。
しめて4,880円也。
画像6 青森駅1番線 かつての上野(画像上方向)からの線路の端末、左側に引き込み線路があった。
一方、対抗の航空便は、JAL・ANA共に羽田札幌便はその頃でもほぼ1時間置きに飛んでいて、ノーマル運賃は片道13,900円。
ところが、12歳以上~22才未満の若者に空席がある便に限って使えるスカイメイト割引を使うと、ノーマルの半額(6,950円)で乗れた。
この便の味を一度知ってしまった後は、空港で1日ゴロゴロする覚悟でも、飛行機を使うようになった。
途中の食費を含めると残念ながらこっちの方が安くなる。
2023/10/18 升
参考資料
https://ameblo.jp/kazkazgonta/entry-12705443668.html ごんたの徒然旅日記
1973年9月時刻表 日本交通公社発行
より以前の記事一覧
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- フリューゲリッチな田植え 2019.05.27
- 謹賀新年 2019 2019.01.01
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- 起き上れハイライトブルー!(「わかば」しみる秋) 2011.09.14
- 4丁目の異邦人⑩(3.11) 2011.07.31
- ナンテンの華 2011.06.22
- 謹賀新年 2011 2011.01.01
- 連合軍 2010.11.30
- 二丁目の流れ人㉒ 2010.10.25
- 二丁目の流れ人㉑ 2010.10.19
- 二丁目の流れ人⑳ 2010.10.10
- 二丁目の流れ人⑲ 2010.10.05
- 二丁目の流れ人⑱ 2010.09.29
- 二丁目の流れ人⑰ 2010.09.23
- 二丁目の流れ人⑯ 2010.09.20
- 二丁目の流れ人⑮ 2010.09.12
- 二丁目の流れ人⑭ 2010.09.02
- 二丁目の流れ人⑬ 2010.08.25
- 二丁目の流れ人⑫ 2010.08.17
- 二丁目の流れ人⑪ 2010.08.10
- 二丁目の流れ人⑩ 2010.08.05
- 二丁目の流れ人⑨ 2010.07.31
- 二丁目の流れ人⑧ 2010.07.21
- 二丁目の流れ人⑦ 2010.07.15
- 二丁目の流れ人⑥ 2010.07.10
- 二丁目の流れ人⑤ 2010.07.02
- 二丁目の流れ人④ 2010.06.26
- 二丁目の流れ人③ 2010.06.20
- 二丁目の流れ人② 2010.06.12
- 二丁目の流れ人① 2010.06.06
- 4丁目の異邦人⑨ 2010.04.01
- 4丁目の異邦人⑧ 2010.03.06
- 4丁目の異邦人 ⑦ 2009.12.15
- サイドミラー 2009.09.25
- 四丁目の異邦人 6 2009.08.26
- 四丁目の異邦人 5 2009.08.03
- 蒼いふうせん・白いとうだい・赤いはなび・黄色いはな 2009.07.23
- 四丁目の異邦人 4 2009.07.14
- 四丁目の異邦人 3 2009.07.13
- 化け物病棟 2009.03.28
- Walther 2009.03.15
- ひな祭りの雪 2009.03.04
- ぺへレイのどんど焼き 2009.01.21
- 検証(水没した携帯宛に電話をした場合) 2008.12.09
- 「姫」に御座る! 2008.10.16
- 牧水(石垣鯛の駅) 2008.10.05
- 昼神温泉(線路は続かなかった) 2008.09.05
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑮ 2008.08.20
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑭ 2008.08.18
- 蜜月(真田虫ナターシャとの日々)⑬ 2008.07.31
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑫ 2008.07.20
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑪ 2008.07.16
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑩ 2008.07.09
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑨ 2008.07.05
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑧ 2008.06.29
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑦ 2008.06.25
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑥ 2008.06.23
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)⑤ 2008.06.15
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)④ 2008.06.10
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)③ 2008.06.06
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)② 2008.06.05
- 蜜月(真田虫「ナターシャ」との日々)① 2008.06.04
- すぴーど! 2008.05.30
- 百姓屋のチシャ 2008.05.13
- 「七」 2008.04.09
- 桜花、比良久 2008.03.05
- トーチランプ 2008.01.12
- 行列の出来る土産物 2007.10.26
- 大地に捧ぐ(ポプラ並木の下で) 2007.10.22
- 間欠泉 2007.05.15
- Hold Me Tight(ホーミタイ)あんた あたしの・・・ 2007.05.05
- 四丁目の異邦人 ② 2007.04.22
- 四丁目の異邦人① 2007.02.04
- あやしい囲炉裏とワンピース 2007.01.14
- サンダル 2006.12.23
- ラムの呼ぶ町 Ⅱ 2006.07.17
- ラムの呼ぶ町 Ⅰ 2006.07.17
- ぶらら 2006.07.17
- Re:ラジャー! 2006.06.11
- スウィートテン・パールイヤリング 2006.05.03
- 土筆 2005.11.09
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- 樋門(ミーフーガ―編) 2005.11.08
- フィナーレはアレグロで(大八木の別れ歌) 2005.10.28
- テイドン 2005.06.26
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- ポンプマン 2005.04.15
- ニ短調 2005.04.04
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- ウナギ 2005.01.02
- ビジネスホテル 2005.01.02
- 646便 2005.01.02
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- 指名手配(Tatunari Kura) 2004.11.07
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