カテゴリー「セピアなお話」の17件の記事

2023/04/19

恩師逝く(岩崎先生へ)

2022/02/20
招待状
岩崎先生
先日、趣味の陶芸で新聞に載った奈良の山本栄二くんから連絡があり長話をしてしまいました。
そろそろ皆さんリタイアしている年齢の上、三宅は5度目のがんの手術を予定しているし、惣万は透析で長いこと苦しんでいるようです。
そう、冗談ではなく生きている間に気の合う仲間でもう一度集まりたいね、という話に落ち着きました。
コロナのお蔭で、葬式は家族だけで行われ友人の最期に駆けつけること
も叶わない昨今、これが最後の同期親睦会となるかもしれません。
今回は身近な親しい先輩何人かにも声をおかけする予定です。
お会いできる日を楽しみにしています。
親睦会発起人代表:三宅

日時:4月23日(土)18時頃から
場所:静岡市清水区近郊のホテル
升本

 

2022/02/20
親睦会幹事 升本殿
久々の懇親会のご案内(ご招待】を頂き、有難うございました。
当日-週間は、「ぺースメ-カ-」の9年後の電池交換手術の予定になっている為と、夜間外出できない状態ですので、残念ながら、不参加です。
海水研0Bのメンバ-もほぼ、定年後、趣味と呆け防止と自己満足の、第3・第4の人生計画(オマケ】を進めていることと思われる。
後期高齢者にとっては、出歩き困難の腰痛・筋肉痛や目視・歩行困難となっており、不要不急・自粛・引き篭もりの趣味等を愉しんでる。
今年も10月以後、運転免許状を返す予定です。
ここえ来て、孫たちや個人タクシ-利用の考えです。
先ずは、不参加と近況まで。
皆さんからメ-ルやハガキを受けるこを愉しとする。
(岩崎)

 

2022/02/21
岩崎先生
手術のうえ夜間外出不可とあらば無理にお誘いもできません。
どうでしょう、我々焼津行の往路あるいは復路の途中、清水市内にてランチなどご一緒頂けませんか?
もちろん、今後のコロナの動向次第ではすべて中止もあり得ますが。
いずれにしてもまだ先の事なのでまた連絡させてください。
升本

 

2022/04/15
懇親会の件
みなさま、早くも台風が列島近海を通り過ぎようとしておりますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、先般ご案内済みの懇親会の確認です。

日時
2022年4月23日(土)18:30開宴
 開宴までにチェックインされてください。

場所
************** 
 海鳴会(升本)で予約しております(受付番号******)。

アクセス
 **駅北口から無料送迎バスが運行しています。
 チェックインは15時からです。最上階の展望大浴場天然温泉をお楽しみ下さい。

宴会(別個室)
 メニュー
 〈前 菜〉三種
 〈造 り〉焼津ミナミマグロ・大々鱒紅富士・鰆等七点盛り
 〈煮 物〉季節の万頭
 〈焼き物〉鮪ほほ肉チーズ焼きセロハン包み
 〈蒸し物〉茶碗蒸し
 〈食 事〉白飯 止椀 香の物
 〈デザート〉桜パンナコッタ等

 さらに、下記4点のメインディッシュ中からお好きなもの2点を選べます。
 19日までに
升本までご連絡下さい。
 A【鯛と春野菜のアクアパッツァ】
 B【特選和牛静岡そだちと遠州地鶏一黒しゃもの陶板焼き】
 C【季節の天婦羅】
 D【特選和牛静岡そだちのビーフシチュー】
  ご指定なき場合はA&Bとさせていただきます。

ドリンク
 飲酒ドクターストップの朋輩が複数参加の為、ノンアルコール宴席とさせていただきます。ご了承ください。

寝室
 10畳間2室にて雑魚寝となります。

朝食
 コロナ対策の為個食となります。

概算経費
 一泊二食飲み放題(ノンアル)付税込み20,000円/人の予定です。
 {(プラン料金-割引+刺身盛交換費+飲み物代)/人×7名+宴会室使用料}÷7名=個人分担金
 {(16,500-1,000+1,800+1,980)/人×7名+4,400/部屋}÷7名≒19,909円

報告
 夜間外出禁止を理由に欠席を表明されておりました岩崎先生から下記内容のメールを頂き、ご自宅近隣でのランチ会も諦めました。
小生、4月20日に入院し、ぺ-スメ-カ-の手術を行うことが予定された。
 先回の術後の回復が長引き、コロナのワクチン後も長引いてすっかり体力の限界を知り、海水研OBの皆さんとの再々会を断念し、家に籠ることし、
     blogを愉しむことにする。 
 先ずは、7人の活躍を期待する(岩崎)

 なお先生のblogはhttps://mabaseiw*2258.livedoor.blog、twitterはhttps://twitter.com/mabaseiw*です。
 応援メッセージをどうぞ!
升本

 

2022/04/21
お見舞い
岩崎先生
無事手術を終えられたと思いますがいかがでしょうか。
術後の日達が前回悪かったと言われていましたが心配しております。
さて、お元気なはずとしてお願いが二つあります。

一つは、23日の夜7時頃先生の携帯宛に電話をしてもよろしいでしょうか?
懇親会席上で皆に携帯を回し先生の声をと考えております。

もう一つは、山本君に制作を依頼しておりました「カツオの焼き物」が焼き上がったとのこと。
つきましては先生のご自宅まで持参したい由もうしております。
24日日曜日の昼過ぎになろうかと思いますが、ご都合いかがでしょうか?
玄関先にてお引き渡しの上早々においとまするつもりです。

 ご返事お待ちしております。
先生の携帯は、090-****-****に変わりありませんか?
升本

 

2022/04/22
升本殿へ
見舞いありがとう。
無事、終えたが、術後は稍々不安定。25日には退院。
携帯は070-****-****。23日は病院。mailは後日送る。
(岩崎)

 

2022/04/23(当日)
岩崎先生
入院中とあればこちらから電話もはばかられます。
本日懇親会は六時半からの予定ですので、恐縮ですがご都合よろしいお時間に、先生の方からお電話頂ければ幸いと考えています。
私の携帯は090-****-****です。
升本

 

2022/04/25
ノンアル懇親会の報告
アル中治療中のM君と透析患者直前のO君の健康をおもんばかり、懇親会は、海鳴会初のノンアルビールの乾杯で静々と始まりました。
宿の不手際で追加のノンアルの用意がなく、2杯目からピッチャー入りの生ビール、次いで冷酒のお銚子がならび、ついに焼酎のボトル。
M君O君ごめんなさい。

途中、ペースメーカー交換手術で入院中の岩崎先生からの着信、一人5分以上の超長電話。
先生の大声にさぞかし病院関係者のヒンシュクをかった事でしょう。
欠席された大木先輩にも携帯がまわり賑やかなままお開き
お部屋に引き揚げ、田中・桜井両先輩差し入れのドリンクで二次会が始まり、就寝は未明。
お疲れ様でした。

なお、出席者全員の制作費負担で山本君に依頼して焼きあがった苦心の逸品「鰹皿」は、本日(25日)退院の先生のご自宅にお近くにお住いの田中先輩からお見舞いを兼ねて記念品として届けていただく予定です。

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集合写真:左から升本・今宮・田中・桜井・三宅・大八木・山本(敬称略)

升本

ハタチの頃の学生は 学舎の奥の研究棟 マグロとカツオの日暮れには おこる猥歌の鈴声と転がる転がる一升瓶。

 

2022/04/26
顛末書
皆様へ
先生にも皆様と同じ「報告書」を同時に送りました。
早速返信を頂きましたので転送させていただきます。
また、記念品配送役を快く引き受けていただきました田中先輩からも、
『先ほど岩崎先生のお宅に伺いました。退院したばかりですので玄関越しで山本さんからのカツオのやきものをお渡ししてきました。元気そうで皆様の事を懐かしがっていました。昼食会ぐらいでしたら出てこられそうですので、お元気のうちに出来ればともおもいます。』

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と添付の画像(添付しました)付きメールをいただいております。
以下先生の文章です。例の鳥や富士山の絵葉書画像が添付されていましたので添付させていただきました。
升本

時の経つのは早いものだ。過日、東海大学海水研のOB会に参加できず、残念に思うが、一時の、携帯電で談笑できたこと、涙腺が緩るむ。
今日、田中殿からの鰹皿記念品(山本栄二作)頂き、小生の退任記念の鰹木像(贈海水研)と共に玄関先に置く。
加齢と共に、部屋に籠ることになり、目下、せど裏山物語り作りの為身近な野生・四季彩々・富士山と自然観察のデジタル記録編集に加齢を忘れて、熱中している今日この頃だ。
この写真記録は小生の、My blogslivedoor   &  twitter   or   facebook   等に発表している。

先ずはお礼と、各位のご活躍を期待する。
尚、添付写真を閲覧する限り、各位が生き々とした面々を感じ、明日への望みを感じた(岩崎)

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このおよそひと月後の令和4年6月1日、先生のご葬儀がご親族だけで執り行われました。
コロナ嵐のなか、わたしたち教え子は先生に呼び集められたのかもしれません。

合掌

2022/10/01 升

関連記事:登舷礼: Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     第三十一盛秋丸(前書): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     第三十一盛秋丸(本文): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     第三十一盛秋丸(後書): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     青紫蘇実の塩漬(岩崎老師へ捧ぐ): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     アサリの芽 7: Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

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2023/03/31

石神井 桜 2023.3.29 満開

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2023/03/31 升

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2023/01/04

ぼくは童子のLPを持っていた

       目にしみるぞ  青い空
       淋しいぞ  白い雲
       ぼくの鳩小屋に 伝書鳩が帰ってこない
       ウウウウウー ウウウウウー
       もうすぐ ぼくの背中に  羽根が はえるぞ
       アアアアアー アアアアアー
       朝の街に  ぼくの 白い カイキンシャツが飛ぶ
       母よぼくの 鳩を撃て
       母よぼくの 鳩を撃て
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー 

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私は高校途中で中退しちゃたわけです。
もう7~8年前になるわけで、
そのころ大抵周りでは進学したり就職したりいろんな形で進んで行くわけだけども、なんにもすることがなかった私にとって、どうやって毎日時間をつぶしていいかわからない、そんな時期があったわけです。
で、東京の渋谷という駅から名所めぐりのハトバスが出ているわけです。
その半日コースのハトバスに乗って時間を潰していた時期があるわけです。
そのころ作った歌で 僕と観光バスに乗ってみませんか 。

       もしも君が 疲れてしまったのなら
       ぽくと観光バスに乗ってみませんか
       色あざやかな 新しいシャツを着て
       季節はずれのぼくの街は  なんにもないけれど
       君に 話ぐらいはしてあげられる

       ぽくの小さな 海辺の観光地に もうすぐ冬がきます
       君も一度 気がむいたら たずねて下さい 雅兄

       もしも君が すべていやになったのなら
       ぼくと観光バスに乗ってみませんか
       君と 今夜が最後なら トランジスターラジオから流れる
       あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい
       あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい 

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とぉー、次の唄は短い歌で 春爛漫 です。

       桜の花びら
       踏んで 歩いた
       君と肩くんで 熱くこみあげた
       春よ 春に 春は 春の
       春は遠く
       春よ 春に 春は 春の
       春は遠く

       悲しみは 水色にとけて
       青い空の 青さの中へ
       青く 青き 青の 青い
       青さの中へ
       青く 青き 青の 青い
       青さの中へ
       哀しい夢 花吹雪 水の流れ
       ンーン ンーン
       春爛漫 

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仲間が何人も申し合わせたように規則正しく集まってくる喫茶店があった。
いつもアメリカへ行くことばかり夢見ている男、下手糞な自称詩人、売れない役者、映画三昧、競馬新聞ばかり見ている退屈な男たち。
それは遊園地のメリーゴーランドの様に騒々しく陽気で また寂しいものだった。

      春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
       うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ

       君と話し疲れて いつか 黙りこんだ
       ストーブ代わりの電熱器 赤く燃えていた

       地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた
       悪い夢のように 時がなぜてゆく

       ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
       チャーリー・パーカー 見つけたヨ
       ぼくを忘れたカナ

       だめになったぼくを見て
       君もびっくりしただろう
       あのこはまだ元気かい 昔の話だネ

       春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
       うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ 

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センチメンタル通りの夜はふけてゆきます。
ほろ苦い青春の最後の夜です。

       いつか この町捨てる時
       君は一人で出てゆけるかい
       みんな夕方になると 集まった映画館
       すっかり さびれてしまったけれど
       今夜は久しぶりに 君とロックハドソンの
       ジャイアンツでも しみじみ見たい気持ちだね

       いつか この町捨てる時
       君は笑って出てゆけるかい
       思い出 多すぎるこの町を
       捨てること出来るかな
       とってもこの店 さみしくなったけど
       今夜はあの頃 懐かしんで
       明るい目抜き通り
       しみじみ歩きたい気持ちだね

       いつか この町捨てる時
       君は涙見せずにゆけるかい
       朝の始発の汽車で 君もあのこと行くのかい
       今夜は何も言わないで
       昔みたいに酔ってダンスを踊ろうよ
       青春ってやつのお別れに 

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最後の歌になります。
君と僕は同じ視線で結ばれた友達と云うやさしい放浪者だった。
君と二人して夜明けの町の新しい空気に酔いしれて二人彷徨った。
いつか君と僕は同じ視線で結ばれた友達と云うやさしい放浪者だった。
サヨナラ僕の友達。

       長い髪をかきあげて
       ひげをはやした
       やさしい君は
       ひとりぼっちで ひとごみを
       歩いていたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       夏休みのキャンパス通り
       コーヒーショップのウィンドウの向う
       君はやさしい まなざしで
       ぼくを呼んでいたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       息がつまる夏の部屋で
       窓もドアも閉めきって
       君は汗をかいて
       ねむっていたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       行ったこともないメキシコの話を
       君はクスリが回ってくると
       いつもぼくに
       くり返し話してくれたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       仲間がパクられた日曜の朝
       雨の中をゆがんで走る
       やさしい君は それから
       変ってしまったネ
       さよなら ぼくの ともだち

       ひげをはやした無口な君が
       帰ってこなくなった部屋に
       君のハブラシとコートが
       残っているヨ
       さよなら ぼくの ともだち

       弱虫でやさしい静かな君を
       ぼくはとっても好きだった
       君はぼくのいいともだちだった
       さよなら ぼくの ともだち
       さよなら ぼくの ともだち
       さよなら ぼくの ともだち 

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どうもありがとうございました。

どうもありがとうございました。
ちょっと話を聞かせてくれますか? 
あのう、中学生・高校生が多いのでその頃のお話が聞きたいのですが、さっき何か、途中で中退したというお話しでしたね。
それまで、どのような中学生時代・高校生だったのでしょうか?
なんか、すごく孤独な感じが曲の中で出てくる気がしたんだけれども。
どうですか?

体があんまり強くなかったから、あんまり団体生活が途中から出来なくなっちゃったわけすね。あんまり活発ではなかった。

クラブ活動などしなかったわけだ。家に閉じこもったことはなかったですか?

友達とうまくやっていけなくなってしまいどうしても休みがちになってしまい、いつの間にか行かなくなってしまう。

作詞の活動はそのころもやっていたのですか?

そのころはなんにもしていなくて歌を作り始めたのは二十歳くらいから。
それまでプラプラしていた時期がすごく長く、たまに、町で友達なんかに会ったりすると、こう、みんな色々変わっていたりするわけなのに自分だけいつも同じ場所でもたもたしていて、取り残されたみたいに焦る時期があるわけなんです。
それで、夜寝つかれなくなりましてね。
不安もあったんだろうし、このままでいいのかなと思ったりして。
その頃詩を書き始めて、時間つぶしに書き始めました。

今歌っている詩っていうのはその頃のことを思い出して書いているのですか?

思い出すって言うこともないんですけれど、その頃書いたものが多いです。

今の心境を・・・

1976年NHK FMスタジオライブからー
2023/01/04 升

今はもう なくしてしまった
窓を開けると 海のアパート 
黒いジャケット 一枚のLP
グットバイ
雨のクロール 大好き だったね

あとがき
あのかなしいせつない声でうたう彼女がもうとうのむかしに逝ってしまっている事実をあきに知りました。
昨年の暮れNHKのチャンネルで70年代の歌が、当時の映像付きで、てんこ盛りに流れる番組をたまたま見ました。
すべて私自身歌えるものばかりで思いのほか見入ってしまいました。
途中、動いている森田童子が僕たちの失敗を歌っています。
「薬が回ってくると」や「仲間がパクられた日」など過激な歌詞は、当時から当然NHKでは放送禁止のはずだし、まして、森田童子の映像などあるはずがないと信じて疑わない自分がいました。
わたしよりも二つ上の彼女が23歳の時に出したアルバムを21歳のぼくが買い、いつまでも持っていることをしった友人はみなぼくのことを悲しい顔をしてふりむいていきました。

あめにきみの泳ぐクロールとてもきれいね
ぼくはもうけっして泳がないだろう

 

 

 

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2022/12/01

恩師逝く(工藤先生に捧ぐ)

 工藤先生ご逝去の報を受けまして、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 札幌校舎内の化学実験室ではじめてお目にかかって以来、ラグビー部の顧問をなさっていたお陰もあり、お世話になりっぱなしでなんの恩返しも出来ないまま逝かれてしまいました。

 「先生。ご無沙汰です。今札幌にいます。」

 「おー!マスか、おらの家さ来い」

 奥様にもあの時お世話になりました。札幌から沼津校舎に移動した大学2年生の冬の事です。

 私達が札幌校舎最後の海洋学部の学生だったこともあり、我々が大学を卒業する春にはわざわざ清水までお祝いに駆け付けて頂き、海辺にあった駿河湾を一望できるアパートの私の小さな一室に一週間お泊まり頂いたこと、懐かしく思い出します。南に向いた窓を開けるたびに

 「マス、海はいいなぁ」

とおっしゃっていました。

 卒業後も私の結婚披露宴に主賓としてご列席頂き、またラグビー部OBの集まり(泥球会)でお会い出来、その度に適切な御指導を承りました。なかでも車エビ養殖の仕事から転職した折には「男の一生の仕事を途中で放り出した不逞の輩」と非難され、

 「マス、おらの部屋さ来い!」

その経緯を御自身が納得されるまで、朝まで寝ずに話を聞いて頂きました。

 15年程前、泥球会の集まりで富山の氷見でお会いしたのが最後になりました。その時、先生は札幌の丸井今井の包み紙にくるまれたビンナガ鮪の刺身用の柵を持参され、

「マスにまた刺身を造って欲しくてなぁ」と頭を掻いておられました。清水のアパートの事を覚えていらしたようでした。

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「マス、海はいいなぁ」

「マス、おらの部屋さ来い!」

「マス、おらの家さ来い!」

「マス、ばんこばんこ呑めぇ!」

 

2018/12/30 享年84 合掌

2018/12/31 升

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2022/10/17

街道の外を行く② 福島県双葉郡浪江町 請戸(うけど)小学校





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 2022/10/17 升
画像は全て筆者が現地で撮りとめたものです。

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街道の外を行く① 宮城県亘理郡山元町つばめの杜

 次の宿泊先「大洗」のホテルを目的地にナビをセットして、仙台東一番町のホテルを出る。広瀬川沿いに南下するとやがて国道4号線に合流する。
 名取川を越え常磐線としばらく並走すると4号線は阿武隈川の手前で国道6号線へ分岐する。
 そう、仙台市内からここまでの間、6号線は4号線と重複している。ここから先、東北本線と並走する山道が4号線で、常磐線沿いの海岸道路が6号線。
 あれ以来地震の震源地で有名になったそれぞれは「中通り」「浜通り」と呼ばれているが、いずれも南の起点(終点?)はお江戸日本橋だ。

 浜通り=海岸沿いの道と思っていたのだが、先の津波の被害の痕跡が何も見受けられないことに、気付いたのは亘理の町はずれを過ぎたころ。
 ナビのズームを拡大すると海側にまだまだ幾筋もの道が海岸線と並行して走っている。

 「行ってみるか」と山元町役場前の交差点を左折した途端、現れたのは首都圏郊外に普通にみられる新興住宅街。
 町名は「つばめの杜」。
 田の字に整備された区画道路沿いに立ち並ぶ2階建てのお家は全て築数年と思われる新品住宅街である。

 この記事を書きながら調べると、
 【当該地区は、国道6号及び山元町役場の東側に位置し、東日本大震災により多大な被害を受けた本町沿岸部からの防災集団移転等の受け皿となる新市街地整備である。
 また、一団地の津波防災拠点市街地形成施設として都市計画決定されており、「住宅施設、特定業務施設又は公益的施設及び公共施設」の都市機能の維持及び良好な居住環境を将来にわたり維持保全することを目標とする。】
と言う計画のもとに作られたと云う。

 旧地名の浅生原字新田、字舘東、字舘新田、字新館東などからは田んぼの中の集落を連想されてしまう。
 公募により選考された現在の町名「つばめの杜」は、翌年も同じ場所に戻って巣を作るツバメに思いをはせて帰町者を待ち望むように、命名されたそうだ。広報山元15年10月号>

 ちなみに、震災前後の人口減少率で山元町は全国ワースト5位だったらしい。

 

 一方、津波で最寄りの山下駅及び隣接の二駅が線路もろとも流されてしまった常磐線は、駅や線路を1キロほど山側に移し、更に半分ほどの路線を高架にする延長15キロに及ぶ、大掛かりな復旧工事を施した。

 「つばめの杜」町の家並みを海の方へ進むと、先ずこの常磐線の高架に出会う。
 2016/12/10に運転が再開され仙台までようやく線路がつながった(日経2016/12/10)というから、5年半もの間この区間はバスによる代替え運行で生活を繋いできたのである。

 高架の下を潜ると同時に街並みが途絶え、田園風景がひろがる。
 さらに海を求めて車を走らせると、小高く盛り土された土手の上にアスファルトも黒々とした、きれいな道路に直角にぶつかる。 

 この道は(県道38号線とも相馬亘理線ともいう)、山元町坂元から亘理町吉田までのおよそ11kmを、上述した常磐線の旧鉄道敷を活用した道路で、津波に対する堤防の意味をも含めて2021/03/26に開通した(宮城県HP)。

 新しくなった県道38号線はさすがに旧電車道だけあって、ほぼ真っ直ぐかつ通行量も少なく、走っていてすこぶる気持ちがいい。
 宮城県と福島県との県境に近いいまだ丸裸の海側の道路沿いに、奇妙なオレンジ色の建物がポツンと置き去りにされたように蹲っているのを視界に捉えたが、スピードの出し過ぎでただ通り過ぎただけだった。
 改めて調べたらそれは山元町の震災遺構の一つ「中浜小学校」跡だ。

 この素敵な道全線をドローンで撮影した映像が<宮城県HP>で閲覧できるので紹介しておこう。

 

 宮城県山元町の南隣、新地町は福島県だ。

 新地町を過ぎると相馬港が広がる。その南端部の松川浦で「浜の駅」という初めて聞くタイトル名に惹かれ立ち寄った。
 かつて、宮城県内でも有数の沖合底引き漁港の一角に建てられている。
 不幸にも、あの津波でその全てを失ってしまった多くの被災地の、ここもその一つだ。
 この動画を見て私は言葉を失ったが当時の映像を閲覧できる<サイト>を紹介しておこう。

 「浜の駅」は、生産者からの委託販売の拠点というコンセプトで、広大な売り場に鮮魚・生鮮野菜・加工品のコーナーやレストランまで備えている<HP>。
 総じて破格の安価。
 このまま帰宅する旅程であるなれば、今やまったくの安心安全美味しい福島の鮮魚を当然買い占めるところだったが、乾燥ヒトエグサなど日持ちするもので我慢した。

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 この「浜の駅」の建屋を含め、港周辺に復興された建物はデザインが統一されている。
 普通、漁港に付帯するセリ場(卸売市場)の建物の色は白と空色が基調で、被災前の写真を見る限りここ<相馬原釜地方卸売市場>の建物もその範疇だった。
 だが、現在目の前に立ち並ぶセリ場と思われる建物も、冷蔵・冷凍庫さらに当然あるべき漁協や関連業者の事務所・作業場まで点々と立つ付帯建造物の風貌は、一言でいうならば「蔵造り」。
 漆黒の瓦屋根の下に漆喰塗りを模した白い壁、そして袴の部分にはとどめのナマコ壁が廻されている。
 今やなき築地市場の前身である江戸時代に賑わった日本橋河岸をモチーフにしたのかしらん。

 丁度、水曜休市日の昼過ぎ。
 誰もいないこの広大な海辺の真新しい空間は開業前のテーマパークに思えた。
2022/10/12 升

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2018/08/12

だるまさんみーつけた!(加岳井広氏に捧ぐ)

 家人の兄が亡くなってしまった。

 70を前に逝く人を「まだ若いのに!」などというこの時代。

 10年前に54で逝った『若者』が残した絵本の数々があることを過去紹介したことがある(こちら

 私が著者の死を知り、その作品を初めて手にした当時、「100万部突破!売り切れまじか」などの情報に惑わされ、あわてて幼稚園に通う孫娘に買い贈った覚えがある。2018081117440001_2jpg

 著者加岳井氏と同じ患いで亡くなった義兄。

 彼の暮らしていた札幌に向かう飛行機に乗るため、久しぶりに利用した京急線 ドアに貼られ「ただるまさん」を見つけた。750万部も売れているらしい。
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そう云えば、義兄はだるまさん顔だった。

合掌

2018/8/12 舛

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2018/01/25

名門の礎(赤松さんに捧ぐ)

 一昨年、日本代表の若者達が活躍してくれたお陰で多少なりともメジャーなスポーツになったラグビーだが、「セプター」の名はその波に便乗することもなく、いまだにマイナーなままだ。

 

 日本人のほとんどは、かつていや今も、日本中のラガーマンが使用するグッツのほとんどにこの名前「SCEPTER」のロゴが入っていることを、知らない。

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 半世紀前、ラグビーボールは牛の皮4枚を縫い合わせた物で作られていた。

 計四スジになる縫い合わせの一本の中央に15センチ程の亀裂がありそこから楕円のゴムチューブを入れる。チューブの真ん中には10センチ位のヘソノウ様のホースが付いてそこから自転車ポンプで空気を入れて膨らませた後、折り返し、輪ゴムで縛って空気漏れを止める仕掛けだ。

 最後に、ヘソノウを内側に押し込み、ニードルと呼ばれていた湾曲した金属針を使い亀裂を革紐で縫い止めて仕上げ、使用に供した。

 日々のボール管理は最下級生の役目と決まっていた。彼らはボールの総数を人数割りした数を預かり、練習後、泥まみれのそれを唾液のみでピカピカに磨き上げるのが義務だった。仕上げは学生帽で磨き、そお、顔が映るほどに。

怠る物が一人でもいたり、仕上がりが悪い物が一つでもあったりすると、連帯責任と称して、最下級生全員が激しい「しごき」を受けることになる。

 ボールにはすべて「SCEPTER」というロゴが大きく印字されており、おろしたては特別念入りに磨きあげられ、試合用に使われた。

 

ロゴマークはボールを使用するにつれ薄くなり、やがて読み取れなくなった頃には皮がのびて真円に近いボールになる。当時、子供を作るマニアルを得たばかりの我々は、丸々と膨らんだそれを、「妊娠ボール」と呼んで慈しんでいた。

 

 

 地方での生活を切り上げて横浜に帰郷した四半世紀ほど前、若かりし頃一緒にボールを磨いた仲間に誘われるまま後輩達の練習相手にならんとし、現役時代に幾度か通ったセプターの店舗を訪れた。

新宿駅西口を出て、あやしい立ち飲み屋街を抜け、大ガード下を横断し、線路の西沿いを幾ばくか歩いた辺りに店舗はあった。

丁度、西武新宿駅の線路を挟んだ反対側に当るうらぶれた日当たりの悪い場所で、東に開いた間口二間ほどの小さな店内はラグビーグッツで溢れていた。

 

 練習用のジャージ・パンツ・ストッキングそれにスパイクシューズを選びレジカウンターへ進むと、片隅にピカピカに磨き上げられ飴色に輝く、妊娠ボールが置かれていた。

 

「懐かしいなぁ」と声をあげると、

 

「どちらですか?」と返って来た。もじゃもじゃ頭で小太りの30代。私をラグビー経験者と認識して出身校を訪ねてきたのだろう。

 

「都立大泉」

 

「名門じゃぁないですか!」

 

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大泉高のラグビー部は昨年創部70周年をむかえた。都立高校では最長の歴史らしいが、前身の東京府立20中時代を含めれば更なる大河となるだろう。

 

関東大会の常連だったこのチームの試合用ジャージは、明るいブルーに白のストライプを走らせたもので、初代顧問の母校である教育大(現筑波大)のユニフォームを基調としている。

 

その伝統だけでも「名門」の称号を頂ける資格がありそうだが、昭和47年の全国大会東京都予選、秩父宮ラグビー場で行われた決勝戦で目黒高と対戦し、準優勝した時が最も輝いた頃と言えよう。

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 都立の高校チームを準優勝にまで導いた、当時のコーチ、赤松氏が昨年末亡くなった。お別れ会は、氏の強烈な洗礼を受けたごつい男達が100ほど集まり、ご遺族を囲んでにぎやかに執り行われた。

慶大の連中は、♪青い山脈♪を模した猥歌を「松が来る来る 松が来る 中略 はやくして はやくしないと アゲインが来る」と合唱して、喝采を浴びた。

 氏は大泉から慶大に進んだ10期上の先輩で、一年生の時から徹底的に鍛えられた私などは目を合わすことも避けたい存在で、みな「赤鬼」と呼んで恐れた。トヨタの営業をしていた氏は、毎日のように真っ黒のクラウンをグランドに横付けし、ジャージに着替える。ストッキングは履かずモジャモジャノスネ毛が丸出しだった。

走りながらのパス回し練習の際、私ひとりが遅れると氏の「アゲイン!」の声が悪魔の様に幾度も飛ぶ。炎症で樽の様に腫れあがった膝とふくらはぎを抱えた私は、先輩や仲間達に引きずられて、それでものろまな牛の様に走った(走らされた)夏合宿。打ち上げ時に「がんばり賞」を氏から頂いて感涙した。

 

不思議なことに、夏休みが終わる頃腫れの引いた私の脚は、駿馬の様に走ることが出来ていた。三年生の冬、秩父宮でその脚は縦横無尽に走り回ってくれたものだ。

 

私が社会人となった頃、奥様のご趣味なのかピンク色の家具に囲まれた氏の新婚アパートに招かれた時、はじめて鬼ではなかったことを知りおかしかった。瀬戸内の島でトラフグの種苗を作り大儲けした報告をする私に「へぇー、そんな商売があるの!」と眼を輝かせてくれたものだ。

 

酒に酔うと、氏を敬って慶大のラグビー部に進んだ近所に住む、私と同期の仲間を弟の様に慕ってあまえていたと聞く。晩年は初孫の女の子と遊ぶのが何よりの楽しみな好々爺だったそうな。

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 「名門じゃぁないですか!」

日本ラグビーを創成期から支えてきた老舗の専門店、さすがに良く知っていた。

 高校ラグビー界の名門校都立大泉、その堅固な礎を私達は忘れない。

合掌

2018/01/24 升

 

* 画像2は都立大泉高校ラグビー部OB会HPから拝借加工致しました。

 

 

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2014/06/08

か が く い ひ ろ し の ―――――  だ る ま さ ん(加岳井広氏に捧ぐ)

『もう30年も前のことになります。

私は今でいうNPO法人の様な組織で、保育施設を立ち上げる為に、奔走していました。

様々な補助や助成金をやりくりしても足りず、関係者はそれぞれアルバイトをしながら、資金を捻出する日々でした。

 成人式を終えたばかりの頃、少しでも単価の高いアルバイトをと思い、裸婦モデルを選びました。

今はこんなですが、当時は素敵なプロポーションだったのですよ。

 そんなある日の事、芸大の彫刻科に呼ばれての仕事でした。

私はいつものように指示されたポーズをとって数人の学生の前に座りました。

 と、目の前の一人の学生が顔を赤くして俯いているのに気が付きました。

よく見ると加岳井君です。

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高校生の時から絵が上手だった事は知っていましたが、まさか、芸大に進学していたとは思いもよりませんでした。

 仕事を投げ出すわけにもいかず、互いに会話のないまま、私はポーズをとり続け加岳井君は俯いたまま何やらデッサンを書いていました。

 これが今まで私が27組のクラス会を敬遠していた理由の一つです。

 今回は思い切って出席して久しぶりに楽しい思いをさせて頂きましてありがとう。』

 都立大泉高25期2年7組クラス会恒例の近況報告の一コマ。彼女のスピーチの後、拍手と共にざわめきが起こった。

「次回には絶対加岳井君を呼ばないと!」と、53歳のオバサン陣。

「加岳井は要らない!その時のあいつの作品だけでいい。」とは、53歳のオジサン群。 

2007/02/11 升

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「かがくいひろし原画展」本日まで。お急ぎください。
切り抜きは2009/10/28 毎日新聞より。

合掌

2014/06/08 升

 

 

 

 

 

 

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2009/04/22

なななのか 哀悼(河野氏に捧ぐ)

 Dvc00022_m1三浦半島は久里浜港と房総半島の金谷港を結ぶ東京湾フェリーは凡そ45分間で、浦賀水道を横断する。

 

 この航路にこれが3度目の乗船であったのだが、何れも金谷港から車で20分ほどの処にある河野邸を訪ねる目的だった。

 

私は、今回、喪服に身を包んでいた。河野の親父殿が逝ってしまったのだ。

 

山の中腹にある小川のほとりを、伐採・整地・基礎工事・建築・内装に至るまで、ほとんどお一人の手でこなし、とうとう素敵なおうちを完成されたのが河野氏である。Save0001

 

南に大きく開く窓を持つ居間には、吹き抜け天井を走る剥き出しの梁から吊るされた自在鉤の下に、腰高の囲炉裏が設置されている。

囲炉裏は勿論、孟宗竹根部を細工した自在鉤も親父殿の匠の技の仕業だ。

 

その囲炉裏のもとで、炭火で炙った熱燗の笹酒を振舞う親父殿のお姿は、雄図を成し遂げた偉人と思えぬほど慎ましやかな印象だった。

 

眼底から射出される赤みを帯びた鋭い光は、熟達した物造り人だけが構えられる星眼で、寡黙なる自信の表れだった。

 

黄色く濁った私のまなこが親父殿の星眼を受け止める事は、あるいみ、苦痛といえた

 

 

厚い雲で覆われた久里浜港を出港した「しらはま丸」の船尾に黒ずくめの私がただ一人。余りの寒さで他の乗客は客室に逃げ込んだようだ。

 

気がつくと十数羽のカモメが、無益にも海面近くで乱舞しながらいつまでもいつまでも、追いかけて来る姿がいっそう私の寂寥を誘う。

 

往路がまるで一昨日の事のように弥生の太陽がぶ厚い暗雲を蹴散しめた金谷からの復路。左舷に遠く浮ぶ三浦半島の南端に後一刻ほどで日が落ちるのだろう斜めの陽射しが、穏やかな海面を鏡に用い、反射して眩しい。Dvc00033_m1

 

偶然に帰り船も「しらはま丸」だったのだが、船尾デッキは若い人達の黄色い声で埋もれている。

 

カモメである。乗客の投げるパンクズやポップコーンを目当てに、群れをなしたカモメが上空から、入れ替わりたちかわり急降下して、あるいは急上昇して、乗客の頭上をかすめて飛んでいく。

 

歓声を聞きつけて船室から出てきた人達が、売店で「餌」になるものをわざわざ購入して、あらたに騒ぎに加わり、そこには、乗客と海鳥が一体となった観客のいないパフォーマンスが展開されていた。

 

常連客達がいつからか始めた行為なのだろうが「餌付け」の結果と見た。

 

往路で出会ったカモメは私に「餌」を要求していたのだとようやく合点がいく。「なんだ、この黒服の爺は存外しみったれぞ、どにもならん!けえるか?」カモメ達は言い合っていたに違いない。

 

 

東京湾フェリーの乗客運賃は片道お一人様700円。往復割引運賃は1280円とお徳だ。さらに、遊覧運賃と云うものが定められていて、対岸港で下船しない事を条件にした割引運賃でお一人1000円である。

 

往復90分と言えども、起発・復発の港でおよそ20分×2回の時間が重なり、締めて2時間余りの中型客船(およそ3500トン)による東京湾横断の船旅、しかも、カモメのパフォーマンス付き。

 

高いか?安いか?復路の後部甲板を占領した乗客達が如何なるチケットを購入したかは私の知るところではないのだが。Dvc00030_m1_2

 

 

 

悲鳴があがった。若い娘さんの声だ。

 

振り返るとトンビが一羽だけ、カモメのパフォーマンスに混ざり込んでいる。乗客が餌を掲げた指先で一転、猛禽類独特の凶暴な爪を広げていたずらをし、悠然と私の目の前で幾度も身をひるがえした挙句、スーッと上昇しタコ糸で固定された凧のように天空に浮んだ。Dvc00032_m1

 

それは蒼穹の空に一点の染みを見る景色だった。

 

虚空で踊る海鳥の腹は白、背は青。飛翔時に下から見れば空に、上から見れば海の色に溶け込む保護色を全ての海鳥は持つ。

 

猛禽類の王様タカ科の中でもトンビのだけは腹も背も土色、しかもカラスのような雑食する庶民性を持った風変わりな輩だ。まるで親父殿の風格である。Dvc00029_m1

 

高く、向かい風を使って悠然とホバリングしながら彼のトンビは、鋭い嘴を誂えた太い頸をしきりに動かしている。真ん丸く見開き黄金色に輝く両眼は、眼下にある総てを捕らえているに違いない。

 

それは、残されたご遺族をふわりと包み込む眼であるはずだ。

 

けれども、未だ画くべき夢さえ見つけられぬ私は、その眼光に畏怖するしかなかった。

 

技術屋であって、かつ、職人の腕を無尽に振るい夢の一つを遂げた河野さんが、私を鼓舞する眼だった。

2009/03/22

 

①および次の画像は親父殿のご長女理恵さまから戴きました。

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