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2025/03/25

君のお父さんのこと

Ⅰ.札幌川沿町
1972年に札幌オリンピックの開会式が行われた真駒内野外競技場の豊平川を挟んだ対岸が川沿町になります。
札幌市を南北に流れる豊平川に大きな橋がその時にかけられ、今でも五輪大橋と呼ばれています。
期間は2月3日から10日間だったので、池永さんがこの町で暮らし始めたその年の四月にはもう、五輪の喧噪は過去のものになっていたかも知れません。
私はまだ都立高校に通う高校生だったのですが、受験勉強中の深夜放送でよく流されていた「トワ・エ・モア」が歌う「虹と雪のバラード」が大好きで、今でも札幌の地下鉄の駅に佇んでいたりすると思わず口ずさんでしまいます。

♪虹の地平を歩み出て 影たちが近づく 手を取り合って
    町ができる 美しい街が あふれる旗 叫び そして唄
        ぼくらは呼ぶ あふれる夢に あの星たちのあいだに
            寝むっている 北の空に 君の名を呼ぶオリンピックと♪
だったでしょうか。

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国土地理院航空写真(1974~78)

札幌市南区川沿町は豊平川の流域が造り上げた狭い平坦地にあり、西側はすぐ山が迫っています。
その山の中腹に東海大学が工学部札幌教養部キャンパスを置いたのは1967年のことで、翌年には海洋学部教養課程も併設されました。
原野を開いた立地で周りになにもなく、大学側や誘致した札幌市などの要請で周辺の集落に学生の下宿屋が急速に建てられ、川沿町はまさに城下町ならぬ学園下町となりました。

ほとんとが4畳半ほどの部屋を10~20室抱え、朝晩の賄い付きで3万円/月程度。
トイレや洗面所、洗濯機は共同で風呂は近くの銭湯を利用します。

なにぶん寒いので建物はしっかりしていて窓も二重にガラスが入っていました。

私はバス道りに近い川沿6条3丁目の千坂荘にお世話になっていました。
陸上自衛隊を引退した親父さんとその奥さんが経営していて亡くなるついこの間まで賀状のやり取りが続いていました。
奥さんが一人で20人分の食事を作り、朝などは食べに来ない学生を起こしに廻る位の世話をやいてくれます。
池永さんは、私の下宿から150mほど離れた、川沿町のメインストリートを挟んだ向こう側の下宿屋の2階を借りていました。

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朝飯をたらふく食べて下宿を出ます。
キャンパスまでは直線距離にして1.3km程ですが、標高差がおよそ140m程もあります。
急ぎの場合は、途中にあった東海四高脇の登山ロープが張られた崖っぷちを這い登って文字通り登校しますが、余裕がある時は、キャンパスの下に広がる森に囲まれた湿地帯を抜けていきます。

新学期の頃は、丁度雪解けで凛とした冷たい空気の中、シラカバの林の下に水芭蕉の真白い苞がたくさん開いています。
時には、体毛に白い斑点のあるバンビの様なエゾシカの子供が現れ、まるでイソップ童話の中に迷い込んだ様な気分になる素敵な環境でした。


入学式のセレモニーに引き続きオリエンテーションが始まります。

終わると、新入生は様々なサークルの先輩に取り囲まれて入部の勧誘を受けます。
その時に私の袖を引っ張った人が池永さんで、所属はラグビー部でした。
彼はあてずっぽうで声をかけたのでしょうが、高校時代の3年間ラグビー部に所属して全国大会東京都予選の決勝まで進んだ経験のある私にとって興味あるお誘いで、早速お世話になることにしました。

東京の実家に置いてきたラグビースタイル一式を送ってもらい練習に参加して始めてこのチームの異様さに気が付きました。
このキャンパスは工学部と海洋学部の二学部の教養課程が置かれています、解り易く言い換えれば、1年生と2年生しかいないという特異な学び舎です。
要するにラグビー部も新入生にとって上級生は2年生しか存在しなく、進級後はそれぞれ東京や静岡キャンパスに移るため在りがちなOBの影響もなく、ラグビープレイを知る教員・指導者もいない、稀に見る間口の狭いチームなのです。
更に奇妙なことは、先輩の2年生は昨年からラグビーを始めた人ばかりで、私から見ると体力は別として技術的には素人の集団でしかありません。
主将の飯塚さんは群馬のレスリングのインターハイ代表だった巨漢で、副将の池永さんは確かサッカー経験者、他は陸上部や登山部の他スポーツ未経験者も数人いました。
新入生は8名で私以外に経験者が一人いるだけでした。

そんな和気あいあいの集団にも大学側から押し付けられた顧問の先生がいました。
化学の講師を務めていた工藤先生でラグビーのルールすら知りません。
練習グランドには一切出向かないものの、飲み会だけは必ず顔を出します。
山の麓を流れる豊平川の河原で行われた新入生歓迎コンパで始めてお会いした時、
「バンコバンコ飲め~!」
と、道産子弁丸出しで札幌の銘酒「北の譽」の一升瓶を振る舞われ、はじめて酒で記憶をなくしました。

そんな時期に春の新人戦が開催され、四学年のそろっている北海学園大に惨敗したのは当然の成り行きでした。
(「北回帰」参照下さい。)

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ラグビー部の練習グランドは校舎裏の陸上場→野球場を階段状に降りた一番下のスペースで、学外地域との遮蔽物もなく誰彼も立ち入り自由なところです。
ある日、麦わら帽子に作業ズボンそして猟犬を従えたごついオッサンが突然現れ、夕日を背にして腕を組み我々の練習を眺めています。
やがて近づいてきて
「お前らにラグビーを教えてやる。その代わり俺の仕事を手伝え」
と云います。

あしたのジョーの丹下団平に似たオッサンは、聞けば名門明治大ラグビー部のOBで植木屋を営んでいて、国道脇に街路樹を植える仕事のバイト生を募集しているという。

約束事が成立し、朝の4時からトラックにノルマの幼木を満載して出発、カチカチの北の大地を手掘りして植え、支柱を立て、真っ暗になってから豆が潰れた掌を持ち帰るという、鬼のスケジュールの繰り返し。
北の大地の植木屋は雪のない半年が勝負なのです。

イチョウやナナカマドだったでしょうか、今の小樽駅前界隈の街路樹は池永さん達と植えたあの幼木が成長した姿です。
北海道を訪れる機会があれば是非訪ねて行ってください。
(「べレンツ」参照下さい。)

週末には下宿の連中やラグビーの同期等と連れ立って、バスで30分ほどのすすき野に繰り出す(千円札1枚あればディスコの走りの様な薄暗いところで朝まで騒げました)のが常でしたが、池永さんとはそういった思い出はありません。

そのころからサークル活動とは別に私と池永さんとの間には個人的な付き合いが出来上がっていて、川沿町の互いに徒歩5分程の下宿の間を、酒が手に入ると、夜間行き来するようになっていました。
当時、私たちの様な貧窮学生はトリスウイスキーかサントリーレッドと相場は決まっていましたが、何事も渋い池永さんの好みは1ランク上のサントリーホワイトで、部屋にはレコードプレーヤー付きのコンポーネントステレオが置かれ、いつも静かなジャズが流れていました。

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日々丹下団平率いる猟犬べレンツに鍛えられ、夏休みには群馬県の赤城山で合宿を行い、秋の全道学生選手権大会で札幌キャンパス史上始めての勝利をえたことは先に報告しました。

秋が深まるとキャンパス内で体育大会や学園祭のシーズンになります。
サークル対抗マラソンというイベントが体育大会にあり、ラグビー部は我々1年生全員が先輩命令でエントリーさせられます。
距離は数キロだったと思いますが、山の中のキャンパスだったので正にクロスカントリーの様相で、きついコースでした。
要所要所にチェックポイントがありそこを通過しないと失格です。
各チェックポイントには先輩が待機していて水分補給もしてくれます。
池永さんの立つポイントで紙コップを一気に飲み干すとそれは銘酒「北の譽」でした。

学園祭に焼き鳥屋の模擬店を出すことが決まり準備をしていると先輩たちに呼ばれ、
「フォークダンス大会を主催する事になった。升よ、ひとっ走り女を集めてこいや。」
と理不尽な体育会系特有の命令です。
うしろの方で池永さんもニヤニヤ笑っていました。

言うまでもない事ですが、海洋学部も工学部も女学生は100人に1人の割合で、学務課の事務員を含めても10人程度の女性しかいない現実がありました。
男ばかりのフォークダンスほど気持ちの悪いものはないでしょう。

体育会系の理不尽には断れない掟があるので、電話帳で女子短大の住所を探し、恥を忍んで女の園へこうべを垂れに訪れます。
何軒目かの短大には保育科があって、たまたま体育館でフォークダンスの実習が行われている最中に出くわしました。
若い女性ばかりのフォークダンスは華やかなものです。

早速リーダーらしき人を見つけ、事情を説明すると、快諾をいただきました。
当日は先輩方に車で女学生陣をお迎えに行ってもらい、そのまま体育館でフォークダンス大会。
焼き鳥屋担当の私たちは、ダンス大会にも参加出来ず、チビチビ飲みながら串を焼いていました。
大会が終わり先輩たちが彼女たちを伴って模擬店に現れた頃にはもうベロベロ状態。
その時の私の醜態を見て呆れて帰ったというリーダー役のお嬢様が、それから6年後に私と結婚し伊万里の池永さん宅に一緒にお世話になることなど、その時だれが想像できたでしょうか?

学園祭が終わると札幌は雪に覆われます。
体力の有り余っている私たちはそれでも張り切ってグランドに集まります。
イギリスの貴族達が造り上げたラグビー憲章には「一度決めた約束は命がけで守ること」があります。
現在はグランドの維持管理上この憲章を全うすることは叶わなくなりましたが、要するに、試合の約束をしたら、雨が降ろうと雪が積もろうと、中止はありえない、ということで実際半世紀前の早明戦や日本選手権試合など雪上戦の映像が残っています。
雪上戦の練習も必要だとして雪中行軍を始めますが、蹴ったボールがスポンと向こうの雪の中に埋まり、どこにあるのかも判らなくなります。
それを拾いに膝まである雪をかき分けて走るだけで体力を使い切り、もうやめようという事になりました。

以来、グランドで集まることもなくラグビー部とは名ばかりのサークルと化して冬ごもりとなりましたが、池永さんとはどちらかの下宿で、カチカチの氷下魚の干物を石油ストーブで炙りながらサントリーホワイトを度々交換し合ったものでした。
そうして3月の移動の時期を迎えることになります。

この年は、大学としても大きな転換期で、それに伴って学生達の移動も複雑なものでした。
先ず、札幌校舎から海洋学部がなくなり、それまで工学部の二年間だけの教育課程だったものが四年生の学部に昇格する事になります。
従って、ラグビー部の仲間の中で工学部の学生はそのまま新学期も札幌校舎に通うことになり、顧問の工藤先生ともども我々海洋学部生とはここでお別れです。

海洋学部生は更に複雑で、新3年生は海洋学部の本校舎である静岡県清水市の折戸校舎に通うことになり、海洋学部航海専攻科の池永さんもこのグループに属します。
私たち海洋学部新2年生は、1年前に創建されたばかりの静岡県沼津市の沼津校舎に通うことになります。
折戸校舎は今や世界遺産の名勝「三保の松原」の入り口に位置し、沼津校舎は新東名道の駿河湾沼津SA近くの愛鷹山中腹に立地していて、車や電車でも1時間ほどの距離でしたが、それぞれの通うキャンパス近くにみな部屋を借りたため、池永さん始め海洋学部の先輩たちともここで一旦お別れとなりました。

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1973年9月 交通公社時刻表

それにしても、池永さんは伊万里と札幌をいかに往復していたのでしょう?
当然サントリーホワイトを交わしながらそんな話もツマミのひとつになっていたと思いますがもう忘れてしまいました。

あの当時、国内航空路線に「スカイメイト割引」と云うものがあって、航空機に空席があれば学生に限って半額で乗れるサービスです。
当然予約は出来ず、出発空港のカウンターで空席待ちの整理券をもらい座席が空き次第順番で搭乗ができるという気の長いシステムで、人々の移動シーズンなどは空港に泊まり込む覚悟をもった若者が寝袋持参で利用するものでした。

今でこそ福岡⇔札幌は2時間余りのフライトですが、あの頃はまだ直行便はなく羽田を経由する便しかありません。
したがって、池永さんが飛行機にこだわっていたとしたら、福岡か札幌の空港で一泊、中継の羽田でもう一泊する覚悟がないと叶わない行程となります。

東京に実家のあった私がよく使ったルートは、学生の間でも「列車の中を探せば誰か乗ってる」と云われるほどの人気路線で、池永さんもこのルートを採用したとあらば次の行程になろうかと思います。

<筑肥線伊万里18:21発の急行「平戸」で出発、博多駅に20:00に到着し、次いで博多発20:42の鹿児島本線急行「桜島」東京行に乗り換え、山陽本線・東海道線を乗り継いで東京駅に翌日の16:06到着。伊万里→東京、約22時間。
山手線で上野駅まで行き、上野発19:10急行「八甲田52号」に乗車、東北本線をひた走り青森駅に翌日の06:47に到着。ここまで約34時間。
07:30出航の青函連絡船に乗船し函館港11:20に着岸、引き続き函館本線11:50発急行「宗谷」に乗る。
この列車は、大沼公園→森→八雲→長万部→俱知安→小樽と停まり、札幌に16:25に着く。
上野→札幌21時間30分の旅。>

下宿のある川沿町まではJR札幌駅から少し歩いたバス停から、17時頃発の札幌市営バス藻南線硬石山行きで約30分、上野から22時間半、伊万里から丸二日48時間の行程になります。
係わる運賃は乗車券+急行券+連絡船=7,600+700+500=8,800円。

一方、航空便の正規料金は、(福岡⇔羽田)+(羽田⇔札幌)=14,800+13,900=28,700円。
運よく、スカイメイト割引を利用できると、半額の14,350円で利用できたはずですが果たして池永さんはどちらを選んだのでしょうか。
(「八甲田」を参照ください。)

 

Ⅱ.静岡沼津
海洋学部の教養課程の学び舎は、結果的に三か所に分散されていて同じ学科の同級生が二分されていました。
池永さんの世代は東海大の本校舎である相模原校舎に同じ人数の会ったこともないクラスメイトがいて、私の世代は沼津校舎に同じく学んでいていました。

そして今回の移動とともにそれぞれが合流すると云うことになります。
学業はさほど混乱はしないものの、普段の生活環境とともにサークル活動を通した、友人関係には相応の変化が生じます。

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東海大沼津校舎1980年頃(中央左四角いグランドがラグビー部練習場)

山の中の真新しい沼津校舎にもラグビー練習場が用意されていましたが草ぼうぼうでした。
学校側に問い合わせるとラグビー部の登録は初年度の昨年に既にされていて部室もあるとの説明で、主将を探し話を聞けば有名無実のサークルであり、本人もやる気はないといいます。

札幌組と新入生とで人数を集め新しくラグビー部を立ち上げて細々と練習を始めていると、今度は清水本校舎の「ラグビー部」から一緒にやろうとの声が掛かります。
このグループも頭数不足で練習すらまともに出来ないといい、どうやら池永さん等札幌組の先輩は1人も参加していない模様でした。

断る理由は何もないので月に一度ほど合流し練習をして、東海大海洋ラグビー部の名前で対外試合をして楽しみ、私の大学2年生はほとんどラグビー漬けの生活でした。
そんな訳で、私は新しい仲間が出来たものの、ラグビーから遠ざかってしまった池永さん達先輩方とは、この一年間ほとんど疎通なく過ごしていました。
余談になりますが、この沼津校舎は2015年に廃校になり、建物は新しい耐震基準を満たしていない事を理由にその後取り壊され、広大な敷地は沼津市に寄付されています。


Ⅲ.静岡清水
あわただしい事に3月になるとまた移動で、今度は清水折戸校舎に移り、専門課程の講義を受けることになります。
東海大海洋学部の専門課程は当時、海洋工学・海洋土木・水産に分かれていて、池永さんは更に分岐した航海専攻科に属し、私は水産増殖課程という水産生物の増養殖を学ぶ専門分野でした。

札幌ラグビー部の主将だった飯塚さんのアパートの2階に住んでいた先輩が今春卒業して空いたというので、私はそこに落ち着くことにしました。
1階に一間、2階に一間だけのエンピツの様な建物のアパートで、JR清水駅から東海道線で沼津方面へ一駅の興津という町です。

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静岡県清水市航空写真(1974~78)国土地理院

興津川沿いの静かな海辺にあり2階の窓をあければ真下はもうテトラポットが並ぶ護岸で、その向こうには三保半島や伊豆半島に囲まれた、駿河湾が一望できる素敵な部屋でした。
池永さんは、折戸の校舎から更に三保半島先端方向寄りの、砂地にビニールハウスが立ち並ぶ集落の一角に建つアパートにいました。

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私は興津から折戸まで12キロの道のりを私は30分ほどかけ原付バイクで通っていて、講義の帰りにはよく立ち寄って旧交を暖め合っていました。
池永さんは平屋建ての長屋の様な建物の一番奥の部屋を借りていて、札幌の時のふた回りも大きなスピーカーを畳の床に置いたコンクリートブロックの上に乗せ、相変わらずジャズを流していました。

外では紙巻のショートホープを吸っていた池永さんでしたが、この頃部屋では、どこで覚えたのか、シャーロックホームズのトレードマークだったマドロスパイプを愛用するようになっていて、専用の刻んだタバコの葉を火皿に詰め、ジッポライターで火をつけて嗜んでいました。
余りに渋くカッコいいので私も池永さんに内緒で真似をしたものでしたが、本物のマドロス志向さんには敵わず、全くにあいませんでした。
そう、青年池永純二はカッコよかったのです。

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海洋調査船 東海大学丸Ⅱ世

水産学科の学生だったことを思い出し、ラグビーの方は後輩たちに任せ、新しく漁業を実践して学び青年海外協力隊員を目指すサークルに加担したりしていて、忙しくしている内に最終学年になります。
同時に、札幌校舎からお世話になった先輩達は、それぞれ卒業して全国に散らばっていきます。
池永さんの所属する船乗りを養成する目的の航海専攻科は特別で、4年生を過ごしてから更に1年間、種々の海事免許を取得する為大学に残ります。
お陰でもう1年池永さんの近くで生活する機会に恵まれたわけですが、彼はほとんどを大学が所有する「東海大学丸二世」や「望星丸」に乗り組み航海訓練中で留守、私も遠洋漁船に調査乗船したり、瀬戸内の養殖施設に作業実習に出向いていたりしてすれ違いの日々が多かったと思います。

たまに日程があうと、行きつけの飲み屋で待ち合わせて一杯やるのが楽しみでした。
あの新清水駅前にあった「八男坊」という焼き鳥屋の一件はそんな時の思い出です。
(「八男坊」を参照ください。)
Photo_20250324120301海洋調査船 望星丸                      

2年前に卒業したとある先輩が地元で作った草ラグビーのチームを引き連れて凱旋するという知らせが入ったことがありました。
断るわけにもいかないので、急遽折戸校舎にいる「経験者」をかき集めチームを編成して応戦したことがありました。
私の代とひとつ後輩の3年生、それにただ一人残っていた札幌時代の池永さんも駆りだしました。
池永さんにはお得意のスタンドオフを引き受けてもらいましたが、私が不慣れなスクラムハーフでタッグを組んだため、惨敗してしまいました。
これが池永さんとラグビーを楽しんだ最後の機会となりました。

卒業式が近づいた頃、札幌でお世話になった工藤先生が遥々札幌からお祝いに駆け付けてくれました。
先生も自分が送り出した最後の海洋学部の学生が懐かしかったのでしょう。
行きつけの居酒屋での宴会の後、繁華街の路上で学生と相撲を取り顔に怪我をされ流血、パトカーまで来る騒ぎになりましたが池永さんが穏便に丸く収めてくれました。
「治るまで帰れない」とその後1週間私のアパートで療養して帰りました。池永さんも度々お見舞いに来てくれました。

1977年3月、そうして、みんなバラバラに旅立っていきました。

Ⅳ.大三島~横浜
私は広島県の三原と愛媛県の今治の間に浮かぶ大三島の南端にあるクルマエビの養殖場に就職しました。
そして1979年の4月に結婚します。
相手は札幌のフォークダンス事件で知り合ったお嬢さんで、彼女は文字通り「瀬戸の花嫁」になりました。
山の中腹に借りた、母屋の外に五右衛門風呂の小屋がある古いお家へ、フェリーから降りて来たトラックが花嫁道具を満載してミカン畑を縫うようにして登って行く姿を、海べたの養殖場から見守っていたのを思い出します。
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国土地理院航空写真(1974~78)

東京で挙げた結婚披露宴には、航海中との事で、池永さんは残念ながら出席して頂けませんでしたが、大きな伊万里焼のお皿をお祝いに送ってもらいました。

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いただいたのは直径40㎝もある大皿で裏に「幸楽作」と銘があります。

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伊万里の駅前でお二人とお別れした後、大川内山の伊万里焼の里で訪ねたところ「幸楽」とは有田の窯元とのことでした。
昔は伊万里の港から海外に輸出される焼き物は有田の物も総じて「伊万里焼」と呼ばれたとの説明もしてくれました。

4月から秋までの間は、私たち魚相手の技術屋の大繁忙期で、クルマエビの種苗生産から始まり、前年にようやく成功したトラフグの稚魚作りが続きます。

そうして一息着いた頃、遅ればせながら新婚旅行という運びです。
予約も何にもしないまま那覇空港に飛び、フェリーで石垣島に渡り、同期生のいる西表島の東海大臨海研究所にお世話になり、帰りの福岡空港には休暇中の池永さんが迎えに来てくれていました。
緑色の三菱ミラージュで伊万里まで案内され厄介になりました。

Photo_20250324151201 来島海峡航路(Google map 2025)

大三島と南の今治の間には来島海峡と云う瀬戸内海を東西に往来する船舶の重要な航路があります。
同時にもっとも潮の流れが速く航海の難所の筆頭に挙げられています。

池永さんの乗船するタンカーも門司や広島への往復のたびに通過するらしく、非番の夜中などに船舶電話を使って
「おーい、いま升んちの下を通っているぞ!」
と船舶電話で話かけてきたりしました。

わざわざ島まで訪ねてこられた事もあります。
休暇中に竹原からぶらっとフェリーでやってきて2、3日逗留していかれます。
島の観光に飽きると、養殖場で仕事を手伝ってもらいました。
小柄なので、護岸端で喫水井戸を手掘りしている時など、井戸瓦を5段も埋め込んだ地底に潜っていただき、土砂を掻きだしてもらい大助かりでした。
ひと汗かいた後は、家の外にある江戸時代さながらの五右衛門風呂が特にお気に入りで、晩酌前に随分長風呂を楽しんでおられました。

1982年の秋に、やはりクルマエビ養殖の仕事で沖縄の久米島在の別会社に私が移動してから、流石に池永さんと酒を酌み交わす機会はなくなってしまい寂しい思いをしました。
一度くらい「おーい、いま升んちの下を通っているぞ!」と東シナ海洋上から船舶電話が来たような気がしますがどうでしょう。
久米島を拠点に、竹富島や奄美、種子島などで養殖場を次々に開設し飛び回っていた頃に池永さんは結婚されたのだと思います。
以降は私などより、陽一郎くんのお母さんの方が純二さんのこと詳しい筈でしょう。

雲仙普賢岳の大噴火が目の前で起こった天草で2年間過ごしていましたが、これを期に養殖の現場から身を引き、国に帰る決心をしました。
それ以前に池永さんから届いた葉書が横浜市磯子区洋光台の住所だったのは驚きでした。
私の両親が住むいわゆる実家はその時東京都下にありましたが、私の生れは横浜の磯子で、9歳のころ父親の仕事の関係で東京に移っていました。
横浜の家はその後人に貸していましたが、帰郷して入居する予定で、池永さんの新居から目と鼻の先のところでした。

連絡を取ると引っ越しの荷下ろしには手伝いに来てくれるとのこと。
天草で3tトラックを仕立て出発しましたが、いざ杉田の家は京急線のガードレールに阻まれて、車が横付け出来ません。
駆け付けた池永さんが彼の根岸にあった事務所から軽トラックを借りてきて、積みかえ、事なきを得ました。
1993年の春のことで、私は38才になっていました。

再び交流が始まり、2年後に家を建替えたこともあり、よく遊びに来てくれました。
夏に庭でバーベキューを楽しんでいる最中、頭の上に、苗を植えたもののその後行方不明になっていた、大きなヒョウタンの実が落ちてきて大笑い。
折角なのでお持ち帰り頂きましたがその後どうしたでしょうか?
大抵は相当な酒量をお召し上がりになり千鳥足でお帰り戴いていたので、奥様には「悪い後輩」の烙印を私は押されていたと思います。

4年後、電話をいただき、半信半疑で駆け付けると、池永さんは十字架の下で眠っていて、もう冷たくなっていました。
たくさんの人が集まり、讃美歌の合唱の中、大粒の涙と嗚咽が止まりません。
近くの杉田小学校のグランドでラグビーボールを蹴っても受けてくれる人がいなくなってしまいました。

「陽一郎くんが大きくなった時、お酒を酌み交わしながらお父さんの思い出話をするのが楽しみです。」
とお母様に約束をしていながら今になってしまいました。

もっと写真があったのですが、池永さんと最後に飲んだあの家が14年前に焼けてしまい、思い出のアルバムも皆失ってしまいました。
50歳の頃からこのブログに駄文を書き始め、今残っている写真はそのWeb上に保存されていた画像だけです。

なお、本拙文の所々に挿入したリンクは、当時に書いた関連の思い出話です。
池永さんが直接登場するシーンは少ないですが、そういった環境の中で一緒に暮らしていましたという事で添付しました。

ご興味あらばご笑読ください。

池永純二さんは、オシャレでカッコよく、なによりも清潔な青年でした。

♪雪の炎にゆらめいて 影たちが飛び去る ナイフのように
  空がのこる 真っ青な空が あれは夢? 力? それとも恋
    ぼくらは書く いのちのかぎり いま太陽の真下に
       生まれかわる サッポロの地に 君の名を書く オリンピックと♪

2025/2/5 升

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この写真、広島の平和記念公園「原爆の子の像」前で取ったものですがいつ、どんな経緯で訪れたのか忘れてしまいました。

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2025/03/24

墓参

今年の年賀状に「福岡から地元伊万里に引っ越しました。」とありました。
連絡を取り、お墓参りの許しを請うと「解り難い処なので案内します」とのご返事。
伊万里駅前で待ち合わせると奥様お一人ではなくご長男の陽一郎君も一緒でした。
お嬢様は今大阪でお暮しとのことです。


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陽一郎君は、横浜でお別れした時11才と伺っていましたから現在38才でしょうか、立派な青年です。
背格好が何となく亡くなられた親父様の池永純二先輩に似ています。
「父のことをご存じな方にお会いすることもないので仕事を切り上げて待っていました。」
とのことです。

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お墓は伊万里駅から500mほどの小高い住宅街の一角にありました。
東円蔵寺公民館の近くで住所は立花町西円蔵寺○○○○になりそうです。
路地裏に車を置き、民家脇の細い小道を登り詰めた、見晴らしの良い場所に立派な墓石が三基西を向いて並んでいます。
向こうの丘陵の斜面には、昔旅行の途中に夫婦でお世話になったことのある、純二さんの実家も見えます。


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三基とも池永姓のお墓でしたが、向かって左側のお墓に純二先輩は眠っていました。
墓誌の筆頭が純二さんで次いでお父様、お母様の順番で刻まれているのが悲しいことです。
純二さんはキリスト教に帰依されていたので戒名はなく、<ゼウス 平成九年五月十九日 池永純二 善郎二男 四十四才>と墓誌には刻まれていました。
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もう28年がたちます。
陽一郎君は、船乗りだったお父さん故にいっしょに過ごした時間も少なく、ほとんどなにも知らないといいます。
お父様と私が巡り合ったきっかけを問われ、「札幌のラグビーです」と答えると、「今度の引っ越しの機会に改めて主人の残した荷物を整理をしたら、ボロボロのジャージやスパイク、ボールまで出てきて処分に困っています。」と奥さん。


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陽一郎君に頼まれ、今脳裏にある限りのお父様の思い出話を書き始めています。
皆さんの持たれている思い出話や写真などありましたらご一報ください。
一緒にまとめ贈らせてもらいます。
2025/03/24 升

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2023/04/19

恩師逝く(岩崎先生へ)

2022/02/20
招待状
岩崎先生
先日、趣味の陶芸で新聞に載った奈良の山本栄二くんから連絡があり長話をしてしまいました。
そろそろ皆さんリタイアしている年齢の上、三宅は5度目のがんの手術を予定しているし、惣万は透析で長いこと苦しんでいるようです。
そう、冗談ではなく生きている間に気の合う仲間でもう一度集まりたいね、という話に落ち着きました。
コロナのお蔭で、葬式は家族だけで行われ友人の最期に駆けつけること
も叶わない昨今、これが最後の同期親睦会となるかもしれません。
今回は身近な親しい先輩何人かにも声をおかけする予定です。
お会いできる日を楽しみにしています。
親睦会発起人代表:三宅

日時:4月23日(土)18時頃から
場所:静岡市清水区近郊のホテル
升本

 

2022/02/20
親睦会幹事 升本殿
久々の懇親会のご案内(ご招待】を頂き、有難うございました。
当日-週間は、「ぺースメ-カ-」の9年後の電池交換手術の予定になっている為と、夜間外出できない状態ですので、残念ながら、不参加です。
海水研0Bのメンバ-もほぼ、定年後、趣味と呆け防止と自己満足の、第3・第4の人生計画(オマケ】を進めていることと思われる。
後期高齢者にとっては、出歩き困難の腰痛・筋肉痛や目視・歩行困難となっており、不要不急・自粛・引き篭もりの趣味等を愉しんでる。
今年も10月以後、運転免許状を返す予定です。
ここえ来て、孫たちや個人タクシ-利用の考えです。
先ずは、不参加と近況まで。
皆さんからメ-ルやハガキを受けるこを愉しとする。
(岩崎)

 

2022/02/21
岩崎先生
手術のうえ夜間外出不可とあらば無理にお誘いもできません。
どうでしょう、我々焼津行の往路あるいは復路の途中、清水市内にてランチなどご一緒頂けませんか?
もちろん、今後のコロナの動向次第ではすべて中止もあり得ますが。
いずれにしてもまだ先の事なのでまた連絡させてください。
升本

 

2022/04/15
懇親会の件
みなさま、早くも台風が列島近海を通り過ぎようとしておりますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、先般ご案内済みの懇親会の確認です。

日時
2022年4月23日(土)18:30開宴
 開宴までにチェックインされてください。

場所
************** 
 海鳴会(升本)で予約しております(受付番号******)。

アクセス
 **駅北口から無料送迎バスが運行しています。
 チェックインは15時からです。最上階の展望大浴場天然温泉をお楽しみ下さい。

宴会(別個室)
 メニュー
 〈前 菜〉三種
 〈造 り〉焼津ミナミマグロ・大々鱒紅富士・鰆等七点盛り
 〈煮 物〉季節の万頭
 〈焼き物〉鮪ほほ肉チーズ焼きセロハン包み
 〈蒸し物〉茶碗蒸し
 〈食 事〉白飯 止椀 香の物
 〈デザート〉桜パンナコッタ等

 さらに、下記4点のメインディッシュ中からお好きなもの2点を選べます。
 19日までに
升本までご連絡下さい。
 A【鯛と春野菜のアクアパッツァ】
 B【特選和牛静岡そだちと遠州地鶏一黒しゃもの陶板焼き】
 C【季節の天婦羅】
 D【特選和牛静岡そだちのビーフシチュー】
  ご指定なき場合はA&Bとさせていただきます。

ドリンク
 飲酒ドクターストップの朋輩が複数参加の為、ノンアルコール宴席とさせていただきます。ご了承ください。

寝室
 10畳間2室にて雑魚寝となります。

朝食
 コロナ対策の為個食となります。

概算経費
 一泊二食飲み放題(ノンアル)付税込み20,000円/人の予定です。
 {(プラン料金-割引+刺身盛交換費+飲み物代)/人×7名+宴会室使用料}÷7名=個人分担金
 {(16,500-1,000+1,800+1,980)/人×7名+4,400/部屋}÷7名≒19,909円

報告
 夜間外出禁止を理由に欠席を表明されておりました岩崎先生から下記内容のメールを頂き、ご自宅近隣でのランチ会も諦めました。
小生、4月20日に入院し、ぺ-スメ-カ-の手術を行うことが予定された。
 先回の術後の回復が長引き、コロナのワクチン後も長引いてすっかり体力の限界を知り、海水研OBの皆さんとの再々会を断念し、家に籠ることし、
     blogを愉しむことにする。 
 先ずは、7人の活躍を期待する(岩崎)

 なお先生のblogはhttps://mabaseiw*2258.livedoor.blog、twitterはhttps://twitter.com/mabaseiw*です。
 応援メッセージをどうぞ!
升本

 

2022/04/21
お見舞い
岩崎先生
無事手術を終えられたと思いますがいかがでしょうか。
術後の日達が前回悪かったと言われていましたが心配しております。
さて、お元気なはずとしてお願いが二つあります。

一つは、23日の夜7時頃先生の携帯宛に電話をしてもよろしいでしょうか?
懇親会席上で皆に携帯を回し先生の声をと考えております。

もう一つは、山本君に制作を依頼しておりました「カツオの焼き物」が焼き上がったとのこと。
つきましては先生のご自宅まで持参したい由もうしております。
24日日曜日の昼過ぎになろうかと思いますが、ご都合いかがでしょうか?
玄関先にてお引き渡しの上早々においとまするつもりです。

 ご返事お待ちしております。
先生の携帯は、090-****-****に変わりありませんか?
升本

 

2022/04/22
升本殿へ
見舞いありがとう。
無事、終えたが、術後は稍々不安定。25日には退院。
携帯は070-****-****。23日は病院。mailは後日送る。
(岩崎)

 

2022/04/23(当日)
岩崎先生
入院中とあればこちらから電話もはばかられます。
本日懇親会は六時半からの予定ですので、恐縮ですがご都合よろしいお時間に、先生の方からお電話頂ければ幸いと考えています。
私の携帯は090-****-****です。
升本

 

2022/04/25
ノンアル懇親会の報告
アル中治療中のM君と透析患者直前のO君の健康をおもんばかり、懇親会は、海鳴会初のノンアルビールの乾杯で静々と始まりました。
宿の不手際で追加のノンアルの用意がなく、2杯目からピッチャー入りの生ビール、次いで冷酒のお銚子がならび、ついに焼酎のボトル。
M君O君ごめんなさい。

途中、ペースメーカー交換手術で入院中の岩崎先生からの着信、一人5分以上の超長電話。
先生の大声にさぞかし病院関係者のヒンシュクをかった事でしょう。
欠席された大木先輩にも携帯がまわり賑やかなままお開き
お部屋に引き揚げ、田中・桜井両先輩差し入れのドリンクで二次会が始まり、就寝は未明。
お疲れ様でした。

なお、出席者全員の制作費負担で山本君に依頼して焼きあがった苦心の逸品「鰹皿」は、本日(25日)退院の先生のご自宅にお近くにお住いの田中先輩からお見舞いを兼ねて記念品として届けていただく予定です。

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集合写真:左から升本・今宮・田中・桜井・三宅・大八木・山本(敬称略)

升本

ハタチの頃の学生は 学舎の奥の研究棟 マグロとカツオの日暮れには おこる猥歌の鈴声と転がる転がる一升瓶。

 

2022/04/26
顛末書
皆様へ
先生にも皆様と同じ「報告書」を同時に送りました。
早速返信を頂きましたので転送させていただきます。
また、記念品配送役を快く引き受けていただきました田中先輩からも、
『先ほど岩崎先生のお宅に伺いました。退院したばかりですので玄関越しで山本さんからのカツオのやきものをお渡ししてきました。元気そうで皆様の事を懐かしがっていました。昼食会ぐらいでしたら出てこられそうですので、お元気のうちに出来ればともおもいます。』

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と添付の画像(添付しました)付きメールをいただいております。
以下先生の文章です。例の鳥や富士山の絵葉書画像が添付されていましたので添付させていただきました。
升本

時の経つのは早いものだ。過日、東海大学海水研のOB会に参加できず、残念に思うが、一時の、携帯電で談笑できたこと、涙腺が緩るむ。
今日、田中殿からの鰹皿記念品(山本栄二作)頂き、小生の退任記念の鰹木像(贈海水研)と共に玄関先に置く。
加齢と共に、部屋に籠ることになり、目下、せど裏山物語り作りの為身近な野生・四季彩々・富士山と自然観察のデジタル記録編集に加齢を忘れて、熱中している今日この頃だ。
この写真記録は小生の、My blogslivedoor   &  twitter   or   facebook   等に発表している。

先ずはお礼と、各位のご活躍を期待する。
尚、添付写真を閲覧する限り、各位が生き々とした面々を感じ、明日への望みを感じた(岩崎)

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このおよそひと月後の令和4年6月1日、先生のご葬儀がご親族だけで執り行われました。
コロナ嵐のなか、わたしたち教え子は先生に呼び集められたのかもしれません。

合掌

2022/10/01 升

関連記事:登舷礼: Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     第三十一盛秋丸(前書): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     第三十一盛秋丸(本文): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     第三十一盛秋丸(後書): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     青紫蘇実の塩漬(岩崎老師へ捧ぐ): Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

     アサリの芽 7: Mar - 海 - Umi (way-nifty.com)

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2023/03/31

石神井 桜 2023.3.29 満開

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2023/03/31 升

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2023/01/04

ぼくは童子のLPを持っていた

       目にしみるぞ  青い空
       淋しいぞ  白い雲
       ぼくの鳩小屋に 伝書鳩が帰ってこない
       ウウウウウー ウウウウウー
       もうすぐ ぼくの背中に  羽根が はえるぞ
       アアアアアー アアアアアー
       朝の街に  ぼくの 白い カイキンシャツが飛ぶ
       母よぼくの 鳩を撃て
       母よぼくの 鳩を撃て
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー
       ウウウウウー ウウウウウー 

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私は高校途中で中退しちゃたわけです。
もう7~8年前になるわけで、
そのころ大抵周りでは進学したり就職したりいろんな形で進んで行くわけだけども、なんにもすることがなかった私にとって、どうやって毎日時間をつぶしていいかわからない、そんな時期があったわけです。
で、東京の渋谷という駅から名所めぐりのハトバスが出ているわけです。
その半日コースのハトバスに乗って時間を潰していた時期があるわけです。
そのころ作った歌で 僕と観光バスに乗ってみませんか 。

       もしも君が 疲れてしまったのなら
       ぽくと観光バスに乗ってみませんか
       色あざやかな 新しいシャツを着て
       季節はずれのぼくの街は  なんにもないけれど
       君に 話ぐらいはしてあげられる

       ぽくの小さな 海辺の観光地に もうすぐ冬がきます
       君も一度 気がむいたら たずねて下さい 雅兄

       もしも君が すべていやになったのなら
       ぼくと観光バスに乗ってみませんか
       君と 今夜が最後なら トランジスターラジオから流れる
       あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい
       あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい 

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とぉー、次の唄は短い歌で 春爛漫 です。

       桜の花びら
       踏んで 歩いた
       君と肩くんで 熱くこみあげた
       春よ 春に 春は 春の
       春は遠く
       春よ 春に 春は 春の
       春は遠く

       悲しみは 水色にとけて
       青い空の 青さの中へ
       青く 青き 青の 青い
       青さの中へ
       青く 青き 青の 青い
       青さの中へ
       哀しい夢 花吹雪 水の流れ
       ンーン ンーン
       春爛漫 

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仲間が何人も申し合わせたように規則正しく集まってくる喫茶店があった。
いつもアメリカへ行くことばかり夢見ている男、下手糞な自称詩人、売れない役者、映画三昧、競馬新聞ばかり見ている退屈な男たち。
それは遊園地のメリーゴーランドの様に騒々しく陽気で また寂しいものだった。

      春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
       うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ

       君と話し疲れて いつか 黙りこんだ
       ストーブ代わりの電熱器 赤く燃えていた

       地下のジャズ喫茶 変れないぼくたちがいた
       悪い夢のように 時がなぜてゆく

       ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな
       チャーリー・パーカー 見つけたヨ
       ぼくを忘れたカナ

       だめになったぼくを見て
       君もびっくりしただろう
       あのこはまだ元気かい 昔の話だネ

       春のこもれ陽の中で 君のやさしさに
       うもれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ 

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センチメンタル通りの夜はふけてゆきます。
ほろ苦い青春の最後の夜です。

       いつか この町捨てる時
       君は一人で出てゆけるかい
       みんな夕方になると 集まった映画館
       すっかり さびれてしまったけれど
       今夜は久しぶりに 君とロックハドソンの
       ジャイアンツでも しみじみ見たい気持ちだね

       いつか この町捨てる時
       君は笑って出てゆけるかい
       思い出 多すぎるこの町を
       捨てること出来るかな
       とってもこの店 さみしくなったけど
       今夜はあの頃 懐かしんで
       明るい目抜き通り
       しみじみ歩きたい気持ちだね

       いつか この町捨てる時
       君は涙見せずにゆけるかい
       朝の始発の汽車で 君もあのこと行くのかい
       今夜は何も言わないで
       昔みたいに酔ってダンスを踊ろうよ
       青春ってやつのお別れに 

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最後の歌になります。
君と僕は同じ視線で結ばれた友達と云うやさしい放浪者だった。
君と二人して夜明けの町の新しい空気に酔いしれて二人彷徨った。
いつか君と僕は同じ視線で結ばれた友達と云うやさしい放浪者だった。
サヨナラ僕の友達。

       長い髪をかきあげて
       ひげをはやした
       やさしい君は
       ひとりぼっちで ひとごみを
       歩いていたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       夏休みのキャンパス通り
       コーヒーショップのウィンドウの向う
       君はやさしい まなざしで
       ぼくを呼んでいたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       息がつまる夏の部屋で
       窓もドアも閉めきって
       君は汗をかいて
       ねむっていたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       行ったこともないメキシコの話を
       君はクスリが回ってくると
       いつもぼくに
       くり返し話してくれたネ
       さよなら ぼくの ともだち

       仲間がパクられた日曜の朝
       雨の中をゆがんで走る
       やさしい君は それから
       変ってしまったネ
       さよなら ぼくの ともだち

       ひげをはやした無口な君が
       帰ってこなくなった部屋に
       君のハブラシとコートが
       残っているヨ
       さよなら ぼくの ともだち

       弱虫でやさしい静かな君を
       ぼくはとっても好きだった
       君はぼくのいいともだちだった
       さよなら ぼくの ともだち
       さよなら ぼくの ともだち
       さよなら ぼくの ともだち 

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どうもありがとうございました。

どうもありがとうございました。
ちょっと話を聞かせてくれますか? 
あのう、中学生・高校生が多いのでその頃のお話が聞きたいのですが、さっき何か、途中で中退したというお話しでしたね。
それまで、どのような中学生時代・高校生だったのでしょうか?
なんか、すごく孤独な感じが曲の中で出てくる気がしたんだけれども。
どうですか?

体があんまり強くなかったから、あんまり団体生活が途中から出来なくなっちゃったわけすね。あんまり活発ではなかった。

クラブ活動などしなかったわけだ。家に閉じこもったことはなかったですか?

友達とうまくやっていけなくなってしまいどうしても休みがちになってしまい、いつの間にか行かなくなってしまう。

作詞の活動はそのころもやっていたのですか?

そのころはなんにもしていなくて歌を作り始めたのは二十歳くらいから。
それまでプラプラしていた時期がすごく長く、たまに、町で友達なんかに会ったりすると、こう、みんな色々変わっていたりするわけなのに自分だけいつも同じ場所でもたもたしていて、取り残されたみたいに焦る時期があるわけなんです。
それで、夜寝つかれなくなりましてね。
不安もあったんだろうし、このままでいいのかなと思ったりして。
その頃詩を書き始めて、時間つぶしに書き始めました。

今歌っている詩っていうのはその頃のことを思い出して書いているのですか?

思い出すって言うこともないんですけれど、その頃書いたものが多いです。

今の心境を・・・

1976年NHK FMスタジオライブからー
2023/01/04 升

今はもう なくしてしまった
窓を開けると 海のアパート 
黒いジャケット 一枚のLP
グットバイ
雨のクロール 大好き だったね

あとがき
あのかなしいせつない声でうたう彼女がもうとうのむかしに逝ってしまっている事実をあきに知りました。
昨年の暮れNHKのチャンネルで70年代の歌が、当時の映像付きで、てんこ盛りに流れる番組をたまたま見ました。
すべて私自身歌えるものばかりで思いのほか見入ってしまいました。
途中、動いている森田童子が僕たちの失敗を歌っています。
「薬が回ってくると」や「仲間がパクられた日」など過激な歌詞は、当時から当然NHKでは放送禁止のはずだし、まして、森田童子の映像などあるはずがないと信じて疑わない自分がいました。
わたしよりも二つ上の彼女が23歳の時に出したアルバムを21歳のぼくが買い、いつまでも持っていることをしった友人はみなぼくのことを悲しい顔をしてふりむいていきました。

あめにきみの泳ぐクロールとてもきれいね
ぼくはもうけっして泳がないだろう

 

 

 

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2022/12/01

恩師逝く(工藤先生に捧ぐ)

 工藤先生ご逝去の報を受けまして、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 札幌校舎内の化学実験室ではじめてお目にかかって以来、ラグビー部の顧問をなさっていたお陰もあり、お世話になりっぱなしでなんの恩返しも出来ないまま逝かれてしまいました。

 「先生。ご無沙汰です。今札幌にいます。」

 「おー!マスか、おらの家さ来い」

 奥様にもあの時お世話になりました。札幌から沼津校舎に移動した大学2年生の冬の事です。

 私達が札幌校舎最後の海洋学部の学生だったこともあり、我々が大学を卒業する春にはわざわざ清水までお祝いに駆け付けて頂き、海辺にあった駿河湾を一望できるアパートの私の小さな一室に一週間お泊まり頂いたこと、懐かしく思い出します。南に向いた窓を開けるたびに

 「マス、海はいいなぁ」

とおっしゃっていました。

 卒業後も私の結婚披露宴に主賓としてご列席頂き、またラグビー部OBの集まり(泥球会)でお会い出来、その度に適切な御指導を承りました。なかでも車エビ養殖の仕事から転職した折には「男の一生の仕事を途中で放り出した不逞の輩」と非難され、

 「マス、おらの部屋さ来い!」

その経緯を御自身が納得されるまで、朝まで寝ずに話を聞いて頂きました。

 15年程前、泥球会の集まりで富山の氷見でお会いしたのが最後になりました。その時、先生は札幌の丸井今井の包み紙にくるまれたビンナガ鮪の刺身用の柵を持参され、

「マスにまた刺身を造って欲しくてなぁ」と頭を掻いておられました。清水のアパートの事を覚えていらしたようでした。

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「マス、海はいいなぁ」

「マス、おらの部屋さ来い!」

「マス、おらの家さ来い!」

「マス、ばんこばんこ呑めぇ!」

 

2018/12/30 享年84 合掌

2018/12/31 升

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2022/10/17

街道の外を行く② 福島県双葉郡浪江町 請戸(うけど)小学校





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 2022/10/17 升
画像は全て筆者が現地で撮りとめたものです。

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街道の外を行く① 宮城県亘理郡山元町つばめの杜

 次の宿泊先「大洗」のホテルを目的地にナビをセットして、仙台東一番町のホテルを出る。広瀬川沿いに南下するとやがて国道4号線に合流する。
 名取川を越え常磐線としばらく並走すると4号線は阿武隈川の手前で国道6号線へ分岐する。
 そう、仙台市内からここまでの間、6号線は4号線と重複している。ここから先、東北本線と並走する山道が4号線で、常磐線沿いの海岸道路が6号線。
 あれ以来地震の震源地で有名になったそれぞれは「中通り」「浜通り」と呼ばれているが、いずれも南の起点(終点?)はお江戸日本橋だ。

 浜通り=海岸沿いの道と思っていたのだが、先の津波の被害の痕跡が何も見受けられないことに、気付いたのは亘理の町はずれを過ぎたころ。
 ナビのズームを拡大すると海側にまだまだ幾筋もの道が海岸線と並行して走っている。

 「行ってみるか」と山元町役場前の交差点を左折した途端、現れたのは首都圏郊外に普通にみられる新興住宅街。
 町名は「つばめの杜」。
 田の字に整備された区画道路沿いに立ち並ぶ2階建てのお家は全て築数年と思われる新品住宅街である。

 この記事を書きながら調べると、
 【当該地区は、国道6号及び山元町役場の東側に位置し、東日本大震災により多大な被害を受けた本町沿岸部からの防災集団移転等の受け皿となる新市街地整備である。
 また、一団地の津波防災拠点市街地形成施設として都市計画決定されており、「住宅施設、特定業務施設又は公益的施設及び公共施設」の都市機能の維持及び良好な居住環境を将来にわたり維持保全することを目標とする。】
と言う計画のもとに作られたと云う。

 旧地名の浅生原字新田、字舘東、字舘新田、字新館東などからは田んぼの中の集落を連想されてしまう。
 公募により選考された現在の町名「つばめの杜」は、翌年も同じ場所に戻って巣を作るツバメに思いをはせて帰町者を待ち望むように、命名されたそうだ。広報山元15年10月号>

 ちなみに、震災前後の人口減少率で山元町は全国ワースト5位だったらしい。

 

 一方、津波で最寄りの山下駅及び隣接の二駅が線路もろとも流されてしまった常磐線は、駅や線路を1キロほど山側に移し、更に半分ほどの路線を高架にする延長15キロに及ぶ、大掛かりな復旧工事を施した。

 「つばめの杜」町の家並みを海の方へ進むと、先ずこの常磐線の高架に出会う。
 2016/12/10に運転が再開され仙台までようやく線路がつながった(日経2016/12/10)というから、5年半もの間この区間はバスによる代替え運行で生活を繋いできたのである。

 高架の下を潜ると同時に街並みが途絶え、田園風景がひろがる。
 さらに海を求めて車を走らせると、小高く盛り土された土手の上にアスファルトも黒々とした、きれいな道路に直角にぶつかる。 

 この道は(県道38号線とも相馬亘理線ともいう)、山元町坂元から亘理町吉田までのおよそ11kmを、上述した常磐線の旧鉄道敷を活用した道路で、津波に対する堤防の意味をも含めて2021/03/26に開通した(宮城県HP)。

 新しくなった県道38号線はさすがに旧電車道だけあって、ほぼ真っ直ぐかつ通行量も少なく、走っていてすこぶる気持ちがいい。
 宮城県と福島県との県境に近いいまだ丸裸の海側の道路沿いに、奇妙なオレンジ色の建物がポツンと置き去りにされたように蹲っているのを視界に捉えたが、スピードの出し過ぎでただ通り過ぎただけだった。
 改めて調べたらそれは山元町の震災遺構の一つ「中浜小学校」跡だ。

 この素敵な道全線をドローンで撮影した映像が<宮城県HP>で閲覧できるので紹介しておこう。

 

 宮城県山元町の南隣、新地町は福島県だ。

 新地町を過ぎると相馬港が広がる。その南端部の松川浦で「浜の駅」という初めて聞くタイトル名に惹かれ立ち寄った。
 かつて、宮城県内でも有数の沖合底引き漁港の一角に建てられている。
 不幸にも、あの津波でその全てを失ってしまった多くの被災地の、ここもその一つだ。
 この動画を見て私は言葉を失ったが当時の映像を閲覧できる<サイト>を紹介しておこう。

 「浜の駅」は、生産者からの委託販売の拠点というコンセプトで、広大な売り場に鮮魚・生鮮野菜・加工品のコーナーやレストランまで備えている<HP>。
 総じて破格の安価。
 このまま帰宅する旅程であるなれば、今やまったくの安心安全美味しい福島の鮮魚を当然買い占めるところだったが、乾燥ヒトエグサなど日持ちするもので我慢した。

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 この「浜の駅」の建屋を含め、港周辺に復興された建物はデザインが統一されている。
 普通、漁港に付帯するセリ場(卸売市場)の建物の色は白と空色が基調で、被災前の写真を見る限りここ<相馬原釜地方卸売市場>の建物もその範疇だった。
 だが、現在目の前に立ち並ぶセリ場と思われる建物も、冷蔵・冷凍庫さらに当然あるべき漁協や関連業者の事務所・作業場まで点々と立つ付帯建造物の風貌は、一言でいうならば「蔵造り」。
 漆黒の瓦屋根の下に漆喰塗りを模した白い壁、そして袴の部分にはとどめのナマコ壁が廻されている。
 今やなき築地市場の前身である江戸時代に賑わった日本橋河岸をモチーフにしたのかしらん。

 丁度、水曜休市日の昼過ぎ。
 誰もいないこの広大な海辺の真新しい空間は開業前のテーマパークに思えた。
2022/10/12 升

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2018/08/12

だるまさんみーつけた!(加岳井広氏に捧ぐ)

 家人の兄が亡くなってしまった。

 70を前に逝く人を「まだ若いのに!」などというこの時代。

 10年前に54で逝った『若者』が残した絵本の数々があることを過去紹介したことがある(こちら

 私が著者の死を知り、その作品を初めて手にした当時、「100万部突破!売り切れまじか」などの情報に惑わされ、あわてて幼稚園に通う孫娘に買い贈った覚えがある。2018081117440001_2jpg

 著者加岳井氏と同じ患いで亡くなった義兄。

 彼の暮らしていた札幌に向かう飛行機に乗るため、久しぶりに利用した京急線 ドアに貼られ「ただるまさん」を見つけた。750万部も売れているらしい。
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そう云えば、義兄はだるまさん顔だった。

合掌

2018/8/12 舛

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2018/01/25

名門の礎(赤松さんに捧ぐ)

 一昨年、日本代表の若者達が活躍してくれたお陰で多少なりともメジャーなスポーツになったラグビーだが、「セプター」の名はその波に便乗することもなく、いまだにマイナーなままだ。

 

 日本人のほとんどは、かつていや今も、日本中のラガーマンが使用するグッツのほとんどにこの名前「SCEPTER」のロゴが入っていることを、知らない。

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 半世紀前、ラグビーボールは牛の皮4枚を縫い合わせた物で作られていた。

 計四スジになる縫い合わせの一本の中央に15センチ程の亀裂がありそこから楕円のゴムチューブを入れる。チューブの真ん中には10センチ位のヘソノウ様のホースが付いてそこから自転車ポンプで空気を入れて膨らませた後、折り返し、輪ゴムで縛って空気漏れを止める仕掛けだ。

 最後に、ヘソノウを内側に押し込み、ニードルと呼ばれていた湾曲した金属針を使い亀裂を革紐で縫い止めて仕上げ、使用に供した。

 日々のボール管理は最下級生の役目と決まっていた。彼らはボールの総数を人数割りした数を預かり、練習後、泥まみれのそれを唾液のみでピカピカに磨き上げるのが義務だった。仕上げは学生帽で磨き、そお、顔が映るほどに。

怠る物が一人でもいたり、仕上がりが悪い物が一つでもあったりすると、連帯責任と称して、最下級生全員が激しい「しごき」を受けることになる。

 ボールにはすべて「SCEPTER」というロゴが大きく印字されており、おろしたては特別念入りに磨きあげられ、試合用に使われた。

 

ロゴマークはボールを使用するにつれ薄くなり、やがて読み取れなくなった頃には皮がのびて真円に近いボールになる。当時、子供を作るマニアルを得たばかりの我々は、丸々と膨らんだそれを、「妊娠ボール」と呼んで慈しんでいた。

 

 

 地方での生活を切り上げて横浜に帰郷した四半世紀ほど前、若かりし頃一緒にボールを磨いた仲間に誘われるまま後輩達の練習相手にならんとし、現役時代に幾度か通ったセプターの店舗を訪れた。

新宿駅西口を出て、あやしい立ち飲み屋街を抜け、大ガード下を横断し、線路の西沿いを幾ばくか歩いた辺りに店舗はあった。

丁度、西武新宿駅の線路を挟んだ反対側に当るうらぶれた日当たりの悪い場所で、東に開いた間口二間ほどの小さな店内はラグビーグッツで溢れていた。

 

 練習用のジャージ・パンツ・ストッキングそれにスパイクシューズを選びレジカウンターへ進むと、片隅にピカピカに磨き上げられ飴色に輝く、妊娠ボールが置かれていた。

 

「懐かしいなぁ」と声をあげると、

 

「どちらですか?」と返って来た。もじゃもじゃ頭で小太りの30代。私をラグビー経験者と認識して出身校を訪ねてきたのだろう。

 

「都立大泉」

 

「名門じゃぁないですか!」

 

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大泉高のラグビー部は昨年創部70周年をむかえた。都立高校では最長の歴史らしいが、前身の東京府立20中時代を含めれば更なる大河となるだろう。

 

関東大会の常連だったこのチームの試合用ジャージは、明るいブルーに白のストライプを走らせたもので、初代顧問の母校である教育大(現筑波大)のユニフォームを基調としている。

 

その伝統だけでも「名門」の称号を頂ける資格がありそうだが、昭和47年の全国大会東京都予選、秩父宮ラグビー場で行われた決勝戦で目黒高と対戦し、準優勝した時が最も輝いた頃と言えよう。

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 都立の高校チームを準優勝にまで導いた、当時のコーチ、赤松氏が昨年末亡くなった。お別れ会は、氏の強烈な洗礼を受けたごつい男達が100ほど集まり、ご遺族を囲んでにぎやかに執り行われた。

慶大の連中は、♪青い山脈♪を模した猥歌を「松が来る来る 松が来る 中略 はやくして はやくしないと アゲインが来る」と合唱して、喝采を浴びた。

 氏は大泉から慶大に進んだ10期上の先輩で、一年生の時から徹底的に鍛えられた私などは目を合わすことも避けたい存在で、みな「赤鬼」と呼んで恐れた。トヨタの営業をしていた氏は、毎日のように真っ黒のクラウンをグランドに横付けし、ジャージに着替える。ストッキングは履かずモジャモジャノスネ毛が丸出しだった。

走りながらのパス回し練習の際、私ひとりが遅れると氏の「アゲイン!」の声が悪魔の様に幾度も飛ぶ。炎症で樽の様に腫れあがった膝とふくらはぎを抱えた私は、先輩や仲間達に引きずられて、それでものろまな牛の様に走った(走らされた)夏合宿。打ち上げ時に「がんばり賞」を氏から頂いて感涙した。

 

不思議なことに、夏休みが終わる頃腫れの引いた私の脚は、駿馬の様に走ることが出来ていた。三年生の冬、秩父宮でその脚は縦横無尽に走り回ってくれたものだ。

 

私が社会人となった頃、奥様のご趣味なのかピンク色の家具に囲まれた氏の新婚アパートに招かれた時、はじめて鬼ではなかったことを知りおかしかった。瀬戸内の島でトラフグの種苗を作り大儲けした報告をする私に「へぇー、そんな商売があるの!」と眼を輝かせてくれたものだ。

 

酒に酔うと、氏を敬って慶大のラグビー部に進んだ近所に住む、私と同期の仲間を弟の様に慕ってあまえていたと聞く。晩年は初孫の女の子と遊ぶのが何よりの楽しみな好々爺だったそうな。

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 「名門じゃぁないですか!」

日本ラグビーを創成期から支えてきた老舗の専門店、さすがに良く知っていた。

 高校ラグビー界の名門校都立大泉、その堅固な礎を私達は忘れない。

合掌

2018/01/24 升

 

* 画像2は都立大泉高校ラグビー部OB会HPから拝借加工致しました。

 

 

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