北回帰(リメンバー色のラベンバー)
1973 春
白衣の教官は500ccの三角フラスコを取り出しグラニュウー糖を2サジ入れた。
そしてアルコールランプにマッチで火をつけフラスコを焙る。
中のグラニュウー糖が弾け、見る見る焦げてくる。
フッと火を消し、試薬棚の扉を鍵でガチャガチャと音を立てて開けた。
中から1本の未開栓のビンを取り出し、私に開るようにと眼が云う。
ビンのラベルを覗き込むと“試薬用エチルアルコール 純度99.99%”とある。
固く押し込まれた乳白色の内蓋を引き抜く作業に手こずっている私に、教官のいらついた一重目蓋の眼が下から迫る。
試薬の小瓶を受け取った白衣の教官は、それがまるでノーベル化学賞レベルの崇高なる化学実験であるがごとく、無言のまま、トクトクといい音を立てながら無色透明な液体をフラスコに注ぎ込んだ。
最後に左手の親指と薬指でフラスコを眼の高さまで挙げて、ガラス棒でカランカリンとかき混ぜる。
そこには清透な琥珀色の液体が仕上がっている。
それを50ccのビーカーに移し、「飲めぇ」と言った。
水質分析。
現代ではその殆どが機械で分析され数値がデジタル表示されるものばかりだが、当時は完全マニアル分析でフラスコやビーカーそれにピペットなどを駆使して行う。
実習は、マニアル書の順番通りに様々な試薬を混ぜ込んでいけば、特に化け学の知識がなくても、習得可能な技術なのだ。
しかし、昨晩の飲み過ぎやラグビーの練習で手を傷めていたりするとこれがいけない。
0.1ccの試薬をホールピペットで計量する等という繊細な動作が鈍り繰り返し失敗する。
「先生、今日はもう勘弁して下さい。次回には必ず。」
泣きべそをかきはじめた私に鬼の様な教官は、
「なにきさまー!甘ったれたこと言うんじゃない。出来るまでやれ。気合を入れてやる、終わったらオラの部屋さ来い!」
鼻の穴を膨らまして叱る。
白衣の教官の目を盗み、手が震えていない仲間の手を借りて実験を終え、恐るおそる教官室の戸を叩く。
「おー!升か。甘えんぼーによく効く薬を煎じてやる。まっ!はいれ。」
キッチリと50ccに注がれたビーカーの液体を飲み干してしまった私に、
「試薬を使い切らんと来年の予算が削られるのでな。どうだ、余市のよりまろやかだろぅ? もう一杯やれぇ!」
このとんでもない化け学の教師は未だに化け物なのだが、当時、東海大学札幌校舎ラグビー部顧問をも引き受けていた。
K先生という。
顧問と言っても、ご本人にラグビー選手経歴はない。
練習グランドで見かけることも全くなく、その上ルールをご存知かどうかも甚だ疑問だった。
この顧問が部活に率先して参加するのは唯一“コンパ”だけなのである。
私が、主将の飯塚氏ら2年生に勧誘されるまま雪まだ残る北の大地で、およそ半年振りに楕円のボールを蹴り始めてしばらくたった後、新入生歓迎コンパが催された。
恒例とのことで、校舎のある山を降り、豊平川沿いの藻南公園で露天の宴会だ。
この時私は始めて“北の恩師”を拝顔させていただいた。
“北の誉”や“千歳鶴”の一升瓶が地べたにゴロゴロ転がり、中には白濁したドブロクまで用意されている。
地元サッポロビールなど洒落た飲み物は微塵もなく、ツマミはカチンコチンの氷下魚の干物のみと言う粋な計らいであった。
「升、バンコバンコ飲めぇー!」道産子弁丸出しのK師のお言葉以降、私の記憶はそこから失しなわれたままである。
今、振り返るにこの儀式こそ私にとっての“洗礼”だったのかも知れない。
1973 秋
北海道にはラグビーチームの数に限りがある。
それでもゲーム(試合)がしたいが為に互いに連絡を取り合い、日を決め処を定め、集まって楽しむ。
大学所属ラグビー部とは言え、我々の学舎には1・2年生しか存在していない。
その限りなく高校生に近いラグビーチームの対戦相手は、4年生のいる大学チームはもとより、社会人チームも範疇に入る。
社会人チームのほとんどは北海道に点在する自衛隊の所属で、なになに空挺団とか〇〇戦車隊など恐ろしげなチーム名を持ち、その名に値するごついおっさん達が相手だった。
ゲームの“処”は札幌市内がやはり多かったが、小樽や苫小牧・室蘭などへも遥々遠征に行く。
草ぼうぼうのグランドの木陰でジャージに着替え、草の中でラグビーを楽しむ。
ノーサイドの後は地元の対戦相手のおじさんに教えて貰い、ジャージにスニーカーのいでたちのまま銭湯に行く。
番台のおばさんの冷たい視線を掻い潜り、一番風呂を堪能しているおじさんに睨まれ、洗い場に15人分の多量の泥を堆積させたまま、キンキンに冷えた北海道牛乳を飲み干して、帰途に付く。
(画像搾取先)http://www.obihiro.ac.jp/top_page.html
北海道大学ラグビー選手権大会が開催されたのも札幌から遠い遠い帯広だった。
当時、道内の大学選手権を獲得する為には先ず一回戦を勝ち進み、次いで準決勝戦、それから最後の決勝戦に勝つ必要があった。
これを3日間で消化するハードなスケジュールだったが、正月の花園(全国高校ラグビー選手権大会)に比べれば楽なものだ。
この時ばかりはK顧問に引率され、飯塚主将以下チームのメンバーは前日から帯広の旅館に宿泊して万全な準備を整えた。
珍しい事に、今回の交通費・食事付き宿泊費は大学が負担してくれている。
試合会場は帯広畜産大学の広大なキャンパスの中。
ポプラ並木の間では牛が寝そべり、馬がポクポク歩き回っていた。
1番 左プロップ 中野(千葉県出身1年)
2番 フッカー 上野(熊本県出身2年)
3番 右プロップ 橘高(埼玉出身2年)
4番 左ロック 飯塚(群馬県出身2年)
5番 右ロック 長田(長野県出身1年)
6番 左フランカー 柏村(東京都出身2年)
7番 右フランカー 小池(群馬県出身1年)
8番 ナンバーエイト 升本(神奈川県出身1年)
9番 スクラムハーフ 鈴木(明)(東京都出身1年)
10番 スタンドオフ 池永(佐賀県出身2年)
11番 左ウイング 樫村(香川県出身2年)
12番 左センター 鈴木(修)(茨城県出身1年)
13番 右センター 千ノ本(三重県出身2年)
14番 右ウイング 内田(東京都出身2年)
15番 フルバック 上谷(奈良県出身2年)
リザーブ
20番 長谷川(福島県出身2年)
21番 米本(北海道出身2年)
22番 藤沢(宮崎県出身1年)
23番 佐賀(大阪府出身1年)
24番 高橋(出身地忘却1年)
以上がフルメンバーだったが、その当時のルールでは試合開始後のメンバー交代は許されていなかったので、①~⑮の背番号を背負った者で最後まで戦うのが掟だ。
初戦の対戦相手は春先に惨敗を喫していた北海学園大学。
誰しもが春と同じ結果になると信じて疑っていない。
だが、泥球チームはあの記念すべき惨敗の後、茨城高萩高の名センター鈴木(修)を迎え、明大ラグビー部OB栗原氏の熱烈指導を受け、更に夏には、群馬県赤城山山麓にこもり札幌校舎OBである3年生の先輩にも駆け付けてもらい、厳しい夏合宿を敢行し、成長していた。
ホイッスルが鳴り響いた。
中野・上野・橘高のフォワード第1列がセットスクラムを耐えしのぐ。
飯塚・長田のロック陣はラインアウトを互角に争う。
慌てた北海学園が盛んにスクラムサイドを突いてくるが柏村・小池・升本のフォワード第3列が1発で止める。
フォワード戦を諦めた相手はバックスにボールを回し始める。
が、千ノ本・鈴木の両センターがゲインラインを越えさせない。
パント攻撃にはフルバックの上谷及び内田・樫村の両ウイングが確実に処理をする。
さすがに、劣勢は歪めず自陣25ヤード付近の攻防が継続したが、慌てている相手にペナルティが目立ち始めた。
そのペナルティキックを鈴木修が敵陣25ヤード奥深く、タッチラインにつぎつぎと蹴りだす。
一進一退の緊張の中、マイボールスクラムから出されたボールをハーフ鈴木明典の懐深く綺麗な弧を描くダイビングパスにより、スタンドオフへ。
パスを受けた池永は敵バックライン後方へ正確なハイパントを蹴りだす。
ラッシュしたフォワード陣が激しいルーズスクラムからボールを奪い取り再びバックラインに回った。
ゲインライン直前で池永のハリパスを受けたセンター千ノ本がそのまま雄叫びを上げて頭からトイメンに突っ込み、新たなモールポイントを作る。
この三次攻撃から即座に出されたボールは、密集にいまだ敵バックス数名が取り残されたまま、我がバックラインを華麗なパス回しで右へ流れ、ウイングに繋がった。
内田の快足でそのままトライかと思われたが、ホイッスルが鳴る。
ライン参加していたフルバック上谷からのパスがスローフォワードの判定だ。
敵陣25ヤード内での相手ボールのセットスクラム、だが、泥球チームは諦めなかった。
フッカー上野がなんとスクラムインされた相手ボールを巧みな脚捌きで奪い取ったのだ。
ロック陣の股座を素通りして来たボールは、フランカー陣で相手のディフェンスラインが修正される前に拾い上げられ、スクラムサイドをすかさず突き前に出る。
敵スタンドオフとブラインドサイドのウイングに阻まれるも、後続のフォワード陣でモールを組み、ゴールラインへなだれ込んだ。
押さえ込んだのは長身ロックの長田である。
「ピィーッ!」レフリーの右手が高々と上がり、「トライ!」。
ゲームは後半戦で追い上げられたものの泥球チームはゴールラインを死守し、小雨降り出すも、3点リードのままノーサイドのホイッスルが鳴った。
10対7、初勝利にもろ手を挙げて喜ぶK顧問には、だがその時、笑顔とは裏腹に心の底に大きな不安が発生していた。
大学側から氏が預ってきたのは一泊分の宿泊費だけだったのだ。
明日の準決勝に備え宿で泥だらけになったジャージの洗濯に汗する学生達のかたわらで、師はただ一人、受話器を相手に奥様と電信為替の交渉に汗していた。
謝辞:本コーナーを書くに当たり、数々の資料及びご助言を頂きました、飯塚敬治氏に深く感謝いたします。有難う御座いました。
1974 春
K恩師にとって悲しい別離が待っていた。
海洋学部が札幌校舎から撤収され、校舎には輝かしい記録を作ったチームメンバーから僅かに工学部の学生だけを残し、海洋学部の学生は清水・沼津の各校舎へそれぞれ旅発って行った。
1975 師走
冬休みを利用して、私は余市にあった身欠ニシン工場でアルバイトを兼ねた実習をした。
工場は知人の実家が経営しているもので、1週間の滞在後、札幌にいるその知人を羊々亭に招待して感謝の意を表した。
気が付くと、帰りの旅費がない。
「先生。ご無沙汰です。今、札幌に来てます。実は困ってます。」
「おー!升か、おらの家さ来い。」
1976 春
K先生は北海道東海大学と名を改められた学舎内の“おらの部屋さ”で、1本の外線電話を受け取った。
「工藤先生でいらっしゃいますか? はじめまして、私、東海大清水校舎の岩崎と申します。
実は、この春、私の研究室を卒業した桜井均君の就職の件で、至急彼に連絡を入れたいのですが、工藤先生にお心当たり御座いませんものかと。
やぁー、同じく札幌で先生にお世話になったと言うマスモト君からのアドバイスなのですが。」
受話器からいきなりこぼれ落ちてくるやたら大きな声に驚いたKには、その電話の直前に、電話の相手先で交わされた会話をもちろん知る由もなかった。
電話の発信元(海洋学部折戸校舎岩崎研究室)では、いつものように当日の早朝に竿釣り船からくすねて来たカツオで、昼飯用の刺身とアラ炊きを作っていた。
その最中、唐突に研究室の師に私は声をかけられた。
「桜井君を緊急に探しているのだが、心当たりはないかね?」
桜井氏は泥球チームの2年先輩で、当時私は面識がなかったものの、飯塚主将を始め先輩達から氏の武勇伝は耳にタコが出来るほど拝聴していた。
この研究室に今私がいるのも氏の繋がりのお陰に間違いなかった。
「日高の牧場で働いていると聞いておりますが?」
「それは知っている。いま連絡したが数日前に彼は辞めたらしい。就職口が見つかった、一両日中に面接に行かせないと拙いのだが。」
「はぁー?私が知っている訳なぃ、、、あっ、待ってください。日高→北海道→札幌。分かりました先生!札幌校舎に電話して工藤という化け学の先生に問い合わせて見て下さい。桜井先輩の所在を必ずご存知のはずです。」
私の推理は的中した。
「升本君、捕まえましたよ! なんと、工藤先生のご自宅に居候していました。」
きっと、桜井さんにも「おらの家さ来い。」とおっしゃったに違いない。
1977 早春
北の恩師は彼の育てた最後の海洋学部生を送る為、卒業式が迫った頃、遥々清水までやってきた。
泥球チームの残党達を集め新清水のスナック“道産子”で大歓迎会を開き、師を囲んで久しぶりにバンコバンコ飲む。
“道産子”のママさんが生っ粋の道産のんべえの真髄をまのあたりに見守る中、卒業間近の学生の一声で、前の路上で相撲大会が始まった。
だが、夜の繁華街の真ん中に設けられた急あつらえの土俵は、およそ3分後にはけたたましいサイレンの音と共に、赤色回転灯によって掻き消されてた。
「喧嘩はお前たちか?」複数のパトカーから降り立つ厳つい静岡県警制服組の代表が、警棒に手を添えながら、大きな声で怒鳴った。
通行人の誰かが通報したのだろうが、極めて都合が悪い事に、師の顔面から多量の血液が滴り落ちている。
「ご迷惑をお詫び致します。だが、私はこの春失業していく教え子たちと相撲をしていただけで、喧嘩ではありません。不覚にも、私の初戦の相手が元高校レスラーであった事を忘れてしまい、この様です。申し訳ない。」
騒然とする事件現場で師は言ってのけた。
厳重注意の末、程なく静岡県警パトロール隊は撤収していった。
この時、ものの見事に“支え吊り込み腰”で師を顔面からアスファルトに投げ落とした元高校レスラーが当時静岡県警に就職内定していた事実があったのだが、誰一人口を割る者はいなかった。
奴は現在でも静岡県警制服組パトロール隊に居座り、その罪を償い続けている。
「升、お前の部屋さ泊めろ。」包帯の取れるまで格好が悪いので帰れないと言う。
駿河湾の潮騒がいつでも聞こえる私のアパートで、ミイラ顔の男は一週間を過ごす間、南に向いた窓を開けるたびに「升、海はいいなぁー」幾度も呟いていた。
1992 梅雨
卒業と同時に私は大三島での生活がはじまった。
その後も、沖縄や天草で生活を営んでいた為、今から25年も前に組織された“泥球会”の集まりに一度の参加も叶わなかった。
諸般の理由で現在の住所 横浜に帰り、養殖業とは離れた業種に再就職したその年の6月、東京のど真ん中で開かれた会に初めての出席を果たせた。
北の恩師とは私の婚礼の折に足を運んで頂いた以来の再開だった。
14年の歳月の流れのせいか、師の風貌がいっそうその言動に限りなく近づいていて私は驚いた。
丁度、アインシュタインとバック・トゥ・ザ・ヒューチャーのブラウン博士を合体したおもむき、と 表現すれば容易に想像できるだろう。
師の久しぶりの参加で会は盛況で、札幌以来およそ20年ぶりにお会いする先輩や初見の先輩方と、賑やかな酒宴を昔の様に楽しんだ。
2次会は出席者の全員が宿泊するホテルの幹事役が利用するツインルームの1室。
飲み物とつまみを持ち込み、ベッドで寝そべるもの、床にあぐらをかく者、永遠と続く。
過半数の参加者がそれぞれの自室に戻り始めた頃、
「升、おらの部屋さこい。」一人呼ばれた。
「升、お前が海老の養殖の仕事からリタイヤした理由を、おらはまだ聞いていない。」
北の恩師が切り出した。
眼が据わっているのはアルコールのせいではないだろう。
筋の通らない話で納得する相手ではない。
私は時間をかけ、事の詳細を説明した。
「なるほど、辞めた理由は解った。がなぁ、新しい今の仕事に関して、お前は誰かに相談したのか?」
師の追及は継続する。
私は当時いつも携帯していたメモ帳を取り出し、説明を再開した。
メモ帳には泥球メンバーをはじめ、首都圏で生活している友人・知人のリスト、およそ100名が記載されている。
〇で囲んだ人達に会い、☐で囲んだ会社を訪問し、最終的には師もご存知である“南の恩師”岩崎先生のご紹介を頂いた経緯を、私は長々と語った。
「よし!」
師の眼差しがいつものドングリ眼に戻った頃、小さなシングルルームのカーテンの向こうには既に太陽がニコニコと顔を出していた。
「升、朝飯を食うべ! みんなを起こして来い。」
その日、北の恩師はとうとう一睡もしないまま、疲れ果てている20年前の元学生達を叱咤しながら、夕刻まで銀座ライオンの生ビールを飲み続けた。まさに化け物である。
2003 梅雨
氷見で再会を果たした時の事。
前日から当年の幹事役のご自宅に泊まりこんでいるという北の恩師が、「あっ!忘れていた。」と、照れ臭そうに師のリュックから何やら取り出したのは、午前0時を回った頃だ。
“丸井今井”の袋に包まれているところから察するに札幌で入手したものに違いない。
師は「また、升に刺身を作って欲しくてなぁ。」と、言ったまま布団に入ってしまった。
袋の内容物はトレイにストレッチされたドドメ色の物体で、水産物と判断されたが、「?!」の代物だ。
狼狽する私を尻目に「ビンチョウの柵だ。」と、速攻見抜いたのは、さすがにあの事件以来、鰹・鮪巻網漁船団の連合会に務める桜井氏だった。
ビンナガ肉は発色の頂点でもほんのりとした桜色が限度。
その時期を過ぎれば退色が始まり、やがて嫌な色に変わる。
露の真っ只中のこの時期、保冷もされず2日の間、師の背中に納まり続けたビンナガはなるほど納得がいく色に仕上がっていた。
「食べよう!」この時間まで生き残っている数名が、宴会場の隅っこに移動させられた座卓の周りで頷きあう。
過半数の参加者はその空いたスペースで既に布団に包まれ、いびきをかいている。
私は早速、宿の調理場へ走る。
だが、ここペンションの調理場も食堂さえも入り口は完璧にロックされている。
「まな板、割り箸、ワサビ、は何とかするにしても、包丁、醤油 の必須アイテムの入手が困難です。」
私の報告を受け、
「俺の爪切りに確かナイフが連結されていた筈だ。」誰かが言う。
刃物さえあれば刺身は切れる。
「では、醤油を調達して来ます。ちょっと待ってください。」
座卓の上に転がったままの徳利を一つ摘まみ上げ、私は玄関前に立ち並ぶテトラポットを掻い潜り、富山湾の海水を徳利に移動して戻る。
―また、升に刺身を作って欲しくてなぁ。―
数十年も前、駿河湾を見渡せる小さなアパートの一室で、私が作った刺身をいまでも覚えていてくれたに違いなかった。
師の土産の“柵”は爪切りで平作りにされ、富山湾のまろやかなれども清澄な“薄口醤油”は、見事に私たちを食あたりから守ってくれた。
2006 6月
無理なくそして長く、と言う北の恩師の言葉を持って札幌泥球会が誕生して今年で25周年を迎えた。
当時の飯塚主将を中心に前後1年ずつ、即ち、札幌海洋学部の最終3年間のメンバーで始められたが、現在はその上もそしてその下にも繋がっている。
幹事役は毎年持ち回りの為、開催地は全国を点々とする。
師は歳を理由に近年度々欠席をするようになってしまったがまだまだお元気のようだ。
今年も早々と梅雨のない札幌から案内状が届いた。
第25回泥球会幹事殿
ご苦労様です。
本日、スカイマークエアラインをようやく予約致しました。
千歳17:15着の為、開演に少々遅刻致します。すみません。
城ヶ島から北の酒盛りに直行致します、ゆえに、宿のお手配お願い致します。
今回もジンギスカン食べ放題・生ビール飲み放題だったら最高です。空いた皿とジョッキの数の減った分だけが、老いた証になるから。
ご当地在住の同期長谷川晋から出席の連絡はありましたか?もし、ない様でしたならご連絡下さい。沼津校舎で私が引きずり込んだように、今回も、マスモトが引きずって参ります。
先生の喜ぶお顔が何よりの楽しみです。
追伸
札幌校舎の聳える南ノ沢地区はラベンダー栽培の発祥の地だったらしく、数年前から私たちの後輩諸君らが学舎の周辺に植栽し、今や、富良野に負けない程のラベンダー鑑賞名所になっていると聞きました。
歴史を知らぬまま、私たちが泥まみれにしたあのジャージは、今思えば、ラベンダー色一色のシンプルなものでした。どなたのデザインなのでしょうか。
ラベンダーの語源は知りません。
鮮やかな“リメンバー”色のこの花は 毎年 この時期 咲き群れてくれるらしい。
7月初旬が満開の時。少しだけ早いですが、すすき野から地下鉄真駒内駅まで20分、真駒内から定鉄バス川添町経由20分程で、ラベンダー色のリメンバーに 再会できそうです。
升
画像http://www.htokai.jp/LAVENDER/
2006/06/21 升
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