カテゴリー「ラグビーなお話」の13件の記事

2022/11/29

北回帰(リメンバー色のラベンバー)

1973 春
白衣の教官は500ccの三角フラスコを取り出しグラニュウー糖を2サジ入れた。
そしてアルコールランプにマッチで火をつけフラスコを焙る。
中のグラニュウー糖が弾け、見る見る焦げてくる。
フッと火を消し、試薬棚の扉を鍵でガチャガチャと音を立てて開けた。
中から1本の未開栓のビンを取り出し、私に開るようにと眼が云う。
ビンのラベルを覗き込むと“試薬用エチルアルコール 純度99.99%”とある。
固く押し込まれた乳白色の内蓋を引き抜く作業に手こずっている私に、教官のいらついた一重目蓋の眼が下から迫る。
試薬の小瓶を受け取った白衣の教官は、それがまるでノーベル化学賞レベルの崇高なる化学実験であるがごとく、無言のまま、トクトクといい音を立てながら無色透明な液体をフラスコに注ぎ込んだ。
最後に左手の親指と薬指でフラスコを眼の高さまで挙げて、ガラス棒でカランカリンとかき混ぜる。
そこには清透な琥珀色の液体が仕上がっている。
それを50ccのビーカーに移し、「飲めぇ」と言った。

水質分析。
現代ではその殆どが機械で分析され数値がデジタル表示されるものばかりだが、当時は完全マニアル分析でフラスコやビーカーそれにピペットなどを駆使して行う。
実習は、マニアル書の順番通りに様々な試薬を混ぜ込んでいけば、特に化け学の知識がなくても、習得可能な技術なのだ。
しかし、昨晩の飲み過ぎやラグビーの練習で手を傷めていたりするとこれがいけない。
0.1ccの試薬をホールピペットで計量する等という繊細な動作が鈍り繰り返し失敗する。
「先生、今日はもう勘弁して下さい。次回には必ず。」
泣きべそをかきはじめた私に鬼の様な教官は、
「なにきさまー!甘ったれたこと言うんじゃない。出来るまでやれ。気合を入れてやる、終わったらオラの部屋さ来い!」
鼻の穴を膨らまして叱る。
白衣の教官の目を盗み、手が震えていない仲間の手を借りて実験を終え、恐るおそる教官室の戸を叩く。
「おー!升か。甘えんぼーによく効く薬を煎じてやる。まっ!はいれ。」

キッチリと50ccに注がれたビーカーの液体を飲み干してしまった私に、
「試薬を使い切らんと来年の予算が削られるのでな。どうだ、余市のよりまろやかだろぅ? もう一杯やれぇ!」

このとんでもない化け学の教師は未だに化け物なのだが、当時、東海大学札幌校舎ラグビー部顧問をも引き受けていた。
K先生という。
顧問と言っても、ご本人にラグビー選手経歴はない。
練習グランドで見かけることも全くなく、その上ルールをご存知かどうかも甚だ疑問だった。
この顧問が部活に率先して参加するのは唯一“コンパ”だけなのである。

私が、主将の飯塚氏ら2年生に勧誘されるまま雪まだ残る北の大地で、およそ半年振りに楕円のボールを蹴り始めてしばらくたった後、新入生歓迎コンパが催された。
恒例とのことで、校舎のある山を降り、豊平川沿いの藻南公園で露天の宴会だ。
この時私は始めて“北の恩師”を拝顔させていただいた。
“北の誉”や“千歳鶴”の一升瓶が地べたにゴロゴロ転がり、中には白濁したドブロクまで用意されている。
地元サッポロビールなど洒落た飲み物は微塵もなく、ツマミはカチンコチンの氷下魚の干物のみと言う粋な計らいであった。
「升、バンコバンコ飲めぇー!」道産子弁丸出しのK師のお言葉以降、私の記憶はそこから失しなわれたままである。
今、振り返るにこの儀式こそ私にとっての“洗礼”だったのかも知れない。

 

1973 秋
北海道にはラグビーチームの数に限りがある。
それでもゲーム(試合)がしたいが為に互いに連絡を取り合い、日を決め処を定め、集まって楽しむ。
大学所属ラグビー部とは言え、我々の学舎には1・2年生しか存在していない。
その限りなく高校生に近いラグビーチームの対戦相手は、4年生のいる大学チームはもとより、社会人チームも範疇に入る。
社会人チームのほとんどは北海道に点在する自衛隊の所属で、なになに空挺団とか〇〇戦車隊など恐ろしげなチーム名を持ち、その名に値するごついおっさん達が相手だった。

ゲームの“処”は札幌市内がやはり多かったが、小樽や苫小牧・室蘭などへも遥々遠征に行く。
草ぼうぼうのグランドの木陰でジャージに着替え、草の中でラグビーを楽しむ。
ノーサイドの後は地元の対戦相手のおじさんに教えて貰い、ジャージにスニーカーのいでたちのまま銭湯に行く。
番台のおばさんの冷たい視線を掻い潜り、一番風呂を堪能しているおじさんに睨まれ、洗い場に15人分の多量の泥を堆積させたまま、キンキンに冷えた北海道牛乳を飲み干して、帰途に付く。

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(画像搾取先)http://www.obihiro.ac.jp/top_page.html

北海道大学ラグビー選手権大会が開催されたのも札幌から遠い遠い帯広だった。
当時、道内の大学選手権を獲得する為には先ず一回戦を勝ち進み、次いで準決勝戦、それから最後の決勝戦に勝つ必要があった。
これを3日間で消化するハードなスケジュールだったが、正月の花園(全国高校ラグビー選手権大会)に比べれば楽なものだ。

この時ばかりはK顧問に引率され、飯塚主将以下チームのメンバーは前日から帯広の旅館に宿泊して万全な準備を整えた。
珍しい事に、今回の交通費・食事付き宿泊費は大学が負担してくれている。
試合会場は帯広畜産大学の広大なキャンパスの中。
ポプラ並木の間では牛が寝そべり、馬がポクポク歩き回っていた。

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1番 左プロップ   中野(千葉県出身1年)
2番 フッカー    上野(熊本県出身2年)
3番 右プロップ   橘高(埼玉出身2年)
4番 左ロック    飯塚(群馬県出身2年)
5番 右ロック    長田(長野県出身1年)
6番 左フランカー  柏村(東京都出身2年)
7番 右フランカー  小池(群馬県出身1年)
8番 ナンバーエイト 升本(神奈川県出身1年)
9番 スクラムハーフ 鈴木(明)(東京都出身1年)
10番 スタンドオフ  池永(佐賀県出身2年)
11番 左ウイング   樫村(香川県出身2年)
12番 左センター   鈴木(修)(茨城県出身1年)
13番 右センター   千ノ本(三重県出身2年)
14番 右ウイング   内田(東京都出身2年)
15番 フルバック   上谷(奈良県出身2年)
リザーブ
20番 長谷川(福島県出身2年)
21番 米本(北海道出身2年)
22番 藤沢(宮崎県出身1年)
23番 佐賀(大阪府出身1年)
24番 高橋(出身地忘却1年)

以上がフルメンバーだったが、その当時のルールでは試合開始後のメンバー交代は許されていなかったので、①~⑮の背番号を背負った者で最後まで戦うのが掟だ。
初戦の対戦相手は春先に惨敗を喫していた北海学園大学。
誰しもが春と同じ結果になると信じて疑っていない。
だが、泥球チームはあの記念すべき惨敗の後、茨城高萩高の名センター鈴木(修)を迎え、明大ラグビー部OB栗原氏の熱烈指導を受け、更に夏には、群馬県赤城山山麓にこもり札幌校舎OBである3年生の先輩にも駆け付けてもらい、厳しい夏合宿を敢行し、成長していた。

ホイッスルが鳴り響いた。

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中野・上野・橘高のフォワード第1列がセットスクラムを耐えしのぐ。
飯塚・長田のロック陣はラインアウトを互角に争う。
慌てた北海学園が盛んにスクラムサイドを突いてくるが柏村・小池・升本のフォワード第3列が1発で止める。
フォワード戦を諦めた相手はバックスにボールを回し始める。
が、千ノ本・鈴木の両センターがゲインラインを越えさせない。
パント攻撃にはフルバックの上谷及び内田・樫村の両ウイングが確実に処理をする。

さすがに、劣勢は歪めず自陣25ヤード付近の攻防が継続したが、慌てている相手にペナルティが目立ち始めた。
そのペナルティキックを鈴木修が敵陣25ヤード奥深く、タッチラインにつぎつぎと蹴りだす。

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一進一退の緊張の中、マイボールスクラムから出されたボールをハーフ鈴木明典の懐深く綺麗な弧を描くダイビングパスにより、スタンドオフへ。
パスを受けた池永は敵バックライン後方へ正確なハイパントを蹴りだす。
ラッシュしたフォワード陣が激しいルーズスクラムからボールを奪い取り再びバックラインに回った。
ゲインライン直前で池永のハリパスを受けたセンター千ノ本がそのまま雄叫びを上げて頭からトイメンに突っ込み、新たなモールポイントを作る。
この三次攻撃から即座に出されたボールは、密集にいまだ敵バックス数名が取り残されたまま、我がバックラインを華麗なパス回しで右へ流れ、ウイングに繋がった。
内田の快足でそのままトライかと思われたが、ホイッスルが鳴る。
ライン参加していたフルバック上谷からのパスがスローフォワードの判定だ。

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敵陣25ヤード内での相手ボールのセットスクラム、だが、泥球チームは諦めなかった。
フッカー上野がなんとスクラムインされた相手ボールを巧みな脚捌きで奪い取ったのだ。
ロック陣の股座を素通りして来たボールは、フランカー陣で相手のディフェンスラインが修正される前に拾い上げられ、スクラムサイドをすかさず突き前に出る。
敵スタンドオフとブラインドサイドのウイングに阻まれるも、後続のフォワード陣でモールを組み、ゴールラインへなだれ込んだ。
押さえ込んだのは長身ロックの長田である。
   
「ピィーッ!」レフリーの右手が高々と上がり、「トライ!」。

ゲームは後半戦で追い上げられたものの泥球チームはゴールラインを死守し、小雨降り出すも、3点リードのままノーサイドのホイッスルが鳴った。

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10対7、初勝利にもろ手を挙げて喜ぶK顧問には、だがその時、笑顔とは裏腹に心の底に大きな不安が発生していた。
大学側から氏が預ってきたのは一泊分の宿泊費だけだったのだ。
明日の準決勝に備え宿で泥だらけになったジャージの洗濯に汗する学生達のかたわらで、師はただ一人、受話器を相手に奥様と電信為替の交渉に汗していた。

謝辞:本コーナーを書くに当たり、数々の資料及びご助言を頂きました、飯塚敬治氏に深く感謝いたします。有難う御座いました。

 

1974 春
K恩師にとって悲しい別離が待っていた。

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海洋学部が札幌校舎から撤収され、校舎には輝かしい記録を作ったチームメンバーから僅かに工学部の学生だけを残し、海洋学部の学生は清水・沼津の各校舎へそれぞれ旅発って行った。

 

1975 師走
冬休みを利用して、私は余市にあった身欠ニシン工場でアルバイトを兼ねた実習をした。
工場は知人の実家が経営しているもので、1週間の滞在後、札幌にいるその知人を羊々亭に招待して感謝の意を表した。
気が付くと、帰りの旅費がない。

「先生。ご無沙汰です。今、札幌に来てます。実は困ってます。」
「おー!升か、おらの家さ来い。」

 

1976 春
K先生は北海道東海大学と名を改められた学舎内の“おらの部屋さ”で、1本の外線電話を受け取った。

「工藤先生でいらっしゃいますか? はじめまして、私、東海大清水校舎の岩崎と申します。
実は、この春、私の研究室を卒業した桜井均君の就職の件で、至急彼に連絡を入れたいのですが、工藤先生にお心当たり御座いませんものかと。
やぁー、同じく札幌で先生にお世話になったと言うマスモト君からのアドバイスなのですが。」

受話器からいきなりこぼれ落ちてくるやたら大きな声に驚いたKには、その電話の直前に、電話の相手先で交わされた会話をもちろん知る由もなかった。
Photo_20221128173001 電話の発信元(海洋学部折戸校舎岩崎研究室)では、いつものように当日の早朝に竿釣り船からくすねて来たカツオで、昼飯用の刺身とアラ炊きを作っていた。
その最中、唐突に研究室の師に私は声をかけられた。
「桜井君を緊急に探しているのだが、心当たりはないかね?」
  
桜井氏は泥球チームの2年先輩で、当時私は面識がなかったものの、飯塚主将を始め先輩達から氏の武勇伝は耳にタコが出来るほど拝聴していた。
この研究室に今私がいるのも氏の繋がりのお陰に間違いなかった。

「日高の牧場で働いていると聞いておりますが?」
「それは知っている。いま連絡したが数日前に彼は辞めたらしい。就職口が見つかった、一両日中に面接に行かせないと拙いのだが。」
「はぁー?私が知っている訳なぃ、、、あっ、待ってください。日高→北海道→札幌。分かりました先生!札幌校舎に電話して工藤という化け学の先生に問い合わせて見て下さい。桜井先輩の所在を必ずご存知のはずです。」

私の推理は的中した。
「升本君、捕まえましたよ! なんと、工藤先生のご自宅に居候していました。」
きっと、桜井さんにも「おらの家さ来い。」とおっしゃったに違いない。

 

1977 早春
北の恩師は彼の育てた最後の海洋学部生を送る為、卒業式が迫った頃、遥々清水までやってきた。
泥球チームの残党達を集め新清水のスナック“道産子”で大歓迎会を開き、師を囲んで久しぶりにバンコバンコ飲む。
“道産子”のママさんが生っ粋の道産のんべえの真髄をまのあたりに見守る中、卒業間近の学生の一声で、前の路上で相撲大会が始まった。
だが、夜の繁華街の真ん中に設けられた急あつらえの土俵は、およそ3分後にはけたたましいサイレンの音と共に、赤色回転灯によって掻き消されてた。

「喧嘩はお前たちか?」複数のパトカーから降り立つ厳つい静岡県警制服組の代表が、警棒に手を添えながら、大きな声で怒鳴った。
通行人の誰かが通報したのだろうが、極めて都合が悪い事に、師の顔面から多量の血液が滴り落ちている。
「ご迷惑をお詫び致します。だが、私はこの春失業していく教え子たちと相撲をしていただけで、喧嘩ではありません。不覚にも、私の初戦の相手が元高校レスラーであった事を忘れてしまい、この様です。申し訳ない。」
騒然とする事件現場で師は言ってのけた。

厳重注意の末、程なく静岡県警パトロール隊は撤収していった。
この時、ものの見事に“支え吊り込み腰”で師を顔面からアスファルトに投げ落とした元高校レスラーが当時静岡県警に就職内定していた事実があったのだが、誰一人口を割る者はいなかった。

奴は現在でも静岡県警制服組パトロール隊に居座り、その罪を償い続けている。

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「升、お前の部屋さ泊めろ。」包帯の取れるまで格好が悪いので帰れないと言う。
駿河湾の潮騒がいつでも聞こえる私のアパートで、ミイラ顔の男は一週間を過ごす間、南に向いた窓を開けるたびに「升、海はいいなぁー」幾度も呟いていた。

 

1992 梅雨
卒業と同時に私は大三島での生活がはじまった。
その後も、沖縄や天草で生活を営んでいた為、今から25年も前に組織された“泥球会”の集まりに一度の参加も叶わなかった。
諸般の理由で現在の住所 横浜に帰り、養殖業とは離れた業種に再就職したその年の6月、東京のど真ん中で開かれた会に初めての出席を果たせた。

北の恩師とは私の婚礼の折に足を運んで頂いた以来の再開だった。
14年の歳月の流れのせいか、師の風貌がいっそうその言動に限りなく近づいていて私は驚いた。
丁度、アインシュタインとバック・トゥ・ザ・ヒューチャーのブラウン博士を合体したおもむき、と 表現すれば容易に想像できるだろう。

師の久しぶりの参加で会は盛況で、札幌以来およそ20年ぶりにお会いする先輩や初見の先輩方と、賑やかな酒宴を昔の様に楽しんだ。
2次会は出席者の全員が宿泊するホテルの幹事役が利用するツインルームの1室。
飲み物とつまみを持ち込み、ベッドで寝そべるもの、床にあぐらをかく者、永遠と続く。
過半数の参加者がそれぞれの自室に戻り始めた頃、
「升、おらの部屋さこい。」一人呼ばれた。

Photo_20221128174601 「升、お前が海老の養殖の仕事からリタイヤした理由を、おらはまだ聞いていない。」
北の恩師が切り出した。
眼が据わっているのはアルコールのせいではないだろう。
筋の通らない話で納得する相手ではない。
私は時間をかけ、事の詳細を説明した。

「なるほど、辞めた理由は解った。がなぁ、新しい今の仕事に関して、お前は誰かに相談したのか?」
師の追及は継続する。
私は当時いつも携帯していたメモ帳を取り出し、説明を再開した。
メモ帳には泥球メンバーをはじめ、首都圏で生活している友人・知人のリスト、およそ100名が記載されている。
〇で囲んだ人達に会い、☐で囲んだ会社を訪問し、最終的には師もご存知である“南の恩師”岩崎先生のご紹介を頂いた経緯を、私は長々と語った。
「よし!」
師の眼差しがいつものドングリ眼に戻った頃、小さなシングルルームのカーテンの向こうには既に太陽がニコニコと顔を出していた。
「升、朝飯を食うべ! みんなを起こして来い。」

その日、北の恩師はとうとう一睡もしないまま、疲れ果てている20年前の元学生達を叱咤しながら、夕刻まで銀座ライオンの生ビールを飲み続けた。まさに化け物である。

 

2003 梅雨
氷見で再会を果たした時の事。
前日から当年の幹事役のご自宅に泊まりこんでいるという北の恩師が、「あっ!忘れていた。」と、照れ臭そうに師のリュックから何やら取り出したのは、午前0時を回った頃だ。
“丸井今井”の袋に包まれているところから察するに札幌で入手したものに違いない。0004_1

師は「また、升に刺身を作って欲しくてなぁ。」と、言ったまま布団に入ってしまった。
袋の内容物はトレイにストレッチされたドドメ色の物体で、水産物と判断されたが、「?!」の代物だ。
狼狽する私を尻目に「ビンチョウの柵だ。」と、速攻見抜いたのは、さすがにあの事件以来、鰹・鮪巻網漁船団の連合会に務める桜井氏だった。
ビンナガ肉は発色の頂点でもほんのりとした桜色が限度。
その時期を過ぎれば退色が始まり、やがて嫌な色に変わる。
露の真っ只中のこの時期、保冷もされず2日の間、師の背中に納まり続けたビンナガはなるほど納得がいく色に仕上がっていた。

「食べよう!」この時間まで生き残っている数名が、宴会場の隅っこに移動させられた座卓の周りで頷きあう。
過半数の参加者はその空いたスペースで既に布団に包まれ、いびきをかいている。
私は早速、宿の調理場へ走る。
だが、ここペンションの調理場も食堂さえも入り口は完璧にロックされている。
「まな板、割り箸、ワサビ、は何とかするにしても、包丁、醤油 の必須アイテムの入手が困難です。」
私の報告を受け、
「俺の爪切りに確かナイフが連結されていた筈だ。」誰かが言う。
刃物さえあれば刺身は切れる。
「では、醤油を調達して来ます。ちょっと待ってください。」
座卓の上に転がったままの徳利を一つ摘まみ上げ、私は玄関前に立ち並ぶテトラポットを掻い潜り、富山湾の海水を徳利に移動して戻る。

―また、升に刺身を作って欲しくてなぁ。― 
数十年も前、駿河湾を見渡せる小さなアパートの一室で、私が作った刺身をいまでも覚えていてくれたに違いなかった。
師の土産の“柵”は爪切りで平作りにされ、富山湾のまろやかなれども清澄な“薄口醤油”は、見事に私たちを食あたりから守ってくれた。


2006  6月
無理なくそして長く、と言う北の恩師の言葉を持って札幌泥球会が誕生して今年で25周年を迎えた。
当時の飯塚主将を中心に前後1年ずつ、即ち、札幌海洋学部の最終3年間のメンバーで始められたが、現在はその上もそしてその下にも繋がっている。
幹事役は毎年持ち回りの為、開催地は全国を点々とする。
師は歳を理由に近年度々欠席をするようになってしまったがまだまだお元気のようだ。
今年も早々と梅雨のない札幌から案内状が届いた。

 

 第25回泥球会幹事殿   
ご苦労様です。
本日、スカイマークエアラインをようやく予約致しました。
千歳17:15着の為、開演に少々遅刻致します。すみません。
城ヶ島から北の酒盛りに直行致します、ゆえに、宿のお手配お願い致します。
今回もジンギスカン食べ放題・生ビール飲み放題だったら最高です。空いた皿とジョッキの数の減った分だけが、老いた証になるから。
ご当地在住の同期長谷川晋から出席の連絡はありましたか?もし、ない様でしたならご連絡下さい。沼津校舎で私が引きずり込んだように、今回も、マスモトが引きずって参ります。
先生の喜ぶお顔が何よりの楽しみです。

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追伸
札幌校舎の聳える南ノ沢地区はラベンダー栽培の発祥の地だったらしく、数年前から私たちの後輩諸君らが学舎の周辺に植栽し、今や、富良野に負けない程のラベンダー鑑賞名所になっていると聞きました。
歴史を知らぬまま、私たちが泥まみれにしたあのジャージは、今思えば、ラベンダー色一色のシンプルなものでした。どなたのデザインなのでしょうか。
ラベンダーの語源は知りません。
鮮やかな“リメンバー”色のこの花は 毎年 この時期 咲き群れてくれるらしい。
7月初旬が満開の時。少しだけ早いですが、すすき野から地下鉄真駒内駅まで20分、真駒内から定鉄バス川添町経由20分程で、ラベンダー色のリメンバーに 再会できそうです。
升 

画像http://www.htokai.jp/LAVENDER/
2006/06/21 升

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2018/01/25

名門の礎(赤松さんに捧ぐ)

 一昨年、日本代表の若者達が活躍してくれたお陰で多少なりともメジャーなスポーツになったラグビーだが、「セプター」の名はその波に便乗することもなく、いまだにマイナーなままだ。

 

 日本人のほとんどは、かつていや今も、日本中のラガーマンが使用するグッツのほとんどにこの名前「SCEPTER」のロゴが入っていることを、知らない。

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 半世紀前、ラグビーボールは牛の皮4枚を縫い合わせた物で作られていた。

 計四スジになる縫い合わせの一本の中央に15センチ程の亀裂がありそこから楕円のゴムチューブを入れる。チューブの真ん中には10センチ位のヘソノウ様のホースが付いてそこから自転車ポンプで空気を入れて膨らませた後、折り返し、輪ゴムで縛って空気漏れを止める仕掛けだ。

 最後に、ヘソノウを内側に押し込み、ニードルと呼ばれていた湾曲した金属針を使い亀裂を革紐で縫い止めて仕上げ、使用に供した。

 日々のボール管理は最下級生の役目と決まっていた。彼らはボールの総数を人数割りした数を預かり、練習後、泥まみれのそれを唾液のみでピカピカに磨き上げるのが義務だった。仕上げは学生帽で磨き、そお、顔が映るほどに。

怠る物が一人でもいたり、仕上がりが悪い物が一つでもあったりすると、連帯責任と称して、最下級生全員が激しい「しごき」を受けることになる。

 ボールにはすべて「SCEPTER」というロゴが大きく印字されており、おろしたては特別念入りに磨きあげられ、試合用に使われた。

 

ロゴマークはボールを使用するにつれ薄くなり、やがて読み取れなくなった頃には皮がのびて真円に近いボールになる。当時、子供を作るマニアルを得たばかりの我々は、丸々と膨らんだそれを、「妊娠ボール」と呼んで慈しんでいた。

 

 

 地方での生活を切り上げて横浜に帰郷した四半世紀ほど前、若かりし頃一緒にボールを磨いた仲間に誘われるまま後輩達の練習相手にならんとし、現役時代に幾度か通ったセプターの店舗を訪れた。

新宿駅西口を出て、あやしい立ち飲み屋街を抜け、大ガード下を横断し、線路の西沿いを幾ばくか歩いた辺りに店舗はあった。

丁度、西武新宿駅の線路を挟んだ反対側に当るうらぶれた日当たりの悪い場所で、東に開いた間口二間ほどの小さな店内はラグビーグッツで溢れていた。

 

 練習用のジャージ・パンツ・ストッキングそれにスパイクシューズを選びレジカウンターへ進むと、片隅にピカピカに磨き上げられ飴色に輝く、妊娠ボールが置かれていた。

 

「懐かしいなぁ」と声をあげると、

 

「どちらですか?」と返って来た。もじゃもじゃ頭で小太りの30代。私をラグビー経験者と認識して出身校を訪ねてきたのだろう。

 

「都立大泉」

 

「名門じゃぁないですか!」

 

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大泉高のラグビー部は昨年創部70周年をむかえた。都立高校では最長の歴史らしいが、前身の東京府立20中時代を含めれば更なる大河となるだろう。

 

関東大会の常連だったこのチームの試合用ジャージは、明るいブルーに白のストライプを走らせたもので、初代顧問の母校である教育大(現筑波大)のユニフォームを基調としている。

 

その伝統だけでも「名門」の称号を頂ける資格がありそうだが、昭和47年の全国大会東京都予選、秩父宮ラグビー場で行われた決勝戦で目黒高と対戦し、準優勝した時が最も輝いた頃と言えよう。

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 都立の高校チームを準優勝にまで導いた、当時のコーチ、赤松氏が昨年末亡くなった。お別れ会は、氏の強烈な洗礼を受けたごつい男達が100ほど集まり、ご遺族を囲んでにぎやかに執り行われた。

慶大の連中は、♪青い山脈♪を模した猥歌を「松が来る来る 松が来る 中略 はやくして はやくしないと アゲインが来る」と合唱して、喝采を浴びた。

 氏は大泉から慶大に進んだ10期上の先輩で、一年生の時から徹底的に鍛えられた私などは目を合わすことも避けたい存在で、みな「赤鬼」と呼んで恐れた。トヨタの営業をしていた氏は、毎日のように真っ黒のクラウンをグランドに横付けし、ジャージに着替える。ストッキングは履かずモジャモジャノスネ毛が丸出しだった。

走りながらのパス回し練習の際、私ひとりが遅れると氏の「アゲイン!」の声が悪魔の様に幾度も飛ぶ。炎症で樽の様に腫れあがった膝とふくらはぎを抱えた私は、先輩や仲間達に引きずられて、それでものろまな牛の様に走った(走らされた)夏合宿。打ち上げ時に「がんばり賞」を氏から頂いて感涙した。

 

不思議なことに、夏休みが終わる頃腫れの引いた私の脚は、駿馬の様に走ることが出来ていた。三年生の冬、秩父宮でその脚は縦横無尽に走り回ってくれたものだ。

 

私が社会人となった頃、奥様のご趣味なのかピンク色の家具に囲まれた氏の新婚アパートに招かれた時、はじめて鬼ではなかったことを知りおかしかった。瀬戸内の島でトラフグの種苗を作り大儲けした報告をする私に「へぇー、そんな商売があるの!」と眼を輝かせてくれたものだ。

 

酒に酔うと、氏を敬って慶大のラグビー部に進んだ近所に住む、私と同期の仲間を弟の様に慕ってあまえていたと聞く。晩年は初孫の女の子と遊ぶのが何よりの楽しみな好々爺だったそうな。

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 「名門じゃぁないですか!」

日本ラグビーを創成期から支えてきた老舗の専門店、さすがに良く知っていた。

 高校ラグビー界の名門校都立大泉、その堅固な礎を私達は忘れない。

合掌

2018/01/24 升

 

* 画像2は都立大泉高校ラグビー部OB会HPから拝借加工致しました。

 

 

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2015/11/08

広報よこはま ブライトンから

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かつて、お嬢さんが暮らしていたイギリスにある海辺の町ブライトンを訪れたことのある友人から、その町の海浜は色とりどりの人工石で造られていると聞いた思いがある。
そして、巨大な競技場が牧草が延々と茂る丘陵地帯に突然現れるという不思議な町ブライトンで、驚異が起こったのはついこの前のことだ。
その驚異は、半年も前から既に段取り済みであった横浜市広報一面記事の、全面的変更を余儀なくしてしまうほど甚大なものだった。

7分・南アフリカのラインオフサイドの反則から五郎丸のPGで3点を先制。
17分・モールで
T&G7点を奪われ逆転される。
その後執拗にモールで攻める桜のジャージは29分・フランカーのリーチマイケルがゴールライン上にボールをねじ込み再び逆転した瞬間が先の画像だ。

人気の五郎くんが一つも写っていないところを使った横浜市は素敵だ。


2015/11/08

 

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2012/01/04

密集戦

その昔は3k(危険・汚い・きつい)を代表するスポーツと日向でも言われた。
いつも傷だらけの体に、ボロボロで汗臭い泥にまみれたジャージを着こみ、失神する直前までグランドを走り回っている、若かりし私たちの周りには女の子の姿は皆無であった。

 

その後、新日鉄釜石・神戸製鋼などの社会人チームのみならず早・明・慶の学生チームの、華やかかつ強烈な印象から、競技場を溢れさせるばかりの日本ラグビー黄金時代を迎えた。

しかしいま、その人気(観客動員数・視聴率)は再び低迷している。


現在ではプレーヤーの安全を期するためルールが大幅に改革され、ジャージも艶々と美しく輝くものに変わっているのだが。

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その大不人気の最大の理由は国際ゲームに全日本チームが全く勝てず、しかも1000スコアの大敗を続けていることにある。

先のワールドカップに於いても外国人監督が率いる8割がたが外国人の日本代表チームも結果は同様であった。

ラグビーと同じフットボール属であるサッカーが国際レベルの中にあっても、ほぼ対等或いは優位の戦力を獲得している現在、これは忌々しき現実である。

小学校入学と共にサッカー教室に入った孫に対し「あんなもんよりラグビーをやれ!」とは胸を張って言える時代ではなくなってしまった。

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一方、ルールが判りにくいのも観客が増加しない理由の一つであろう。

ゲーム中度々発生する両選手相まみれた「団子」状態をラグビー用語では「密集戦」と呼ぶのだが、これは文字通り密集(人垣)の中の争いでその内部でなにが行われているのかはTVのクローズアップでさえ捉えられない。

密集内部の「秘密の出来事」はプレーヤー特にフォワード経験者でないと理解が叶わないものなのであって、一般の観客にとっては不満を抱く大いなる部分と云えそうだ。

 

密集戦には「モール(maul)」と「ラック(ruck)」の二種類があって、ボールが空中にある状態をモール、地面にある状態をラックという。ラックでは手を使ってはいけないのが特異ルールだ。

内部では双方の選手がボールを奪い合うため、レスリングや柔道の寝技に類似した極めて激しい格闘を展開するため細かいルールが定められていことは言うまでもない。

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昨日、不本意ながら数十年ぶりにモールに巻き込まれた。
東京大手町読売新聞社前。
箱根駅伝ゴール地点両側の歩道を埋め尽くした群衆は身動きもままならぬまま、実際には見えない、選手のゴールを見守っていた。

突然私の横から「どけ!とおせ!」の弩声と共にあの懐かしい強烈なプッシュが襲ってきた。
数年前のルール改正でモールを潰すことが合法になっていることを知る私は早速そのプレイを実施するため、該当選手の上半身に手をかけるべく(下半身を攻撃すると反則)振り返った。敵は顔をゆがめたお年寄りだった。
「あんたねぇ!そんな乱暴なことすると怪我人がたくさんでるぜ!」
「ごめんなさい。わたしトイレがもう我慢できなくて!」
老妻らしき人が敵の後ろから青い顔をして謝罪した。

We got badly mauled in the ruck!(凡人の集団の中で我々はひどいめにあわされた!)
駅伝はTVで見るに限る。

2012/01/04

 

注)

ruck」:凡人の集まり。

maul」:木槌・かけやの名詞の他、袋叩きにする・ひどい目に合わせる等動詞活用がある。

画像①国府津駅前

画像②藤沢15キロ地点

画像③戸塚駅前(kunko)

 

 

 

 

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2011/02/22

ライン際

40歳にして現役をいまだにはっている松田と云う選手がいる。
身長180cm体重90kと公示の巨漢なのだが、さらなるごつい男達が猛り集まっているラグビーグランドで見かけると、幾ばくか華奢な印象を得る男である。
ゴジラ松井に何処となく似ている。


キャップ
42を誇る彼のポジションはフルバックだ。
東芝ブレイブ・ルーパス 
(東芝府中)チームに在籍しながら、日本代表選手として背番号15を背負い過去42の国際ゲームに出場している。


彼は学生時代、スクラムを組むフォワードの最後尾である№
8ポジションからフルバックにコンバートされた選手なのだが、社会人となった彼の戦い方にもはや、ガチンコ勝負が要求されるフォワードプレイヤーの片鱗すら見受けられなかった。
それゆえに、№
8経験者でもある一老ラグビーファンの私にとって、彼の年齢的全盛期に現すグランド上のパフォーマンスに一抹の「軟弱さ」を感じていたのだが。


その松田選手がいまだに正月のグランドに立っている姿を見ると、昔のチームメイトに遭った様にただなつかしい。


日本代表監督経験のある故宿沢氏が亡くなる数年前にとある日本選手権ゲームのテレビ中継で解説者としてマイクの前に座っていたことがある。

東芝府中の対戦相手およびゲームの結果などその総てが私の記憶から失われているがその時、
「あれが日本代表のフルバックの追い方です、安心して見てられますねぇ」
との宿沢さんの解説があった。

 

そのコメントの対象を再現すると、

センターライン中央付近で東芝側のディフェンスラインを一人の選手が突破した。

崩れ去ったディフェンスラインの後方にはフルバックただ一人。松田である。
彼はブラインドサイドから、背番号をメインスタンド側に向けて、バックスタンド側に逃げるボールを抱えた相手選手を悠然と追う。
決して正面に出ようとせず、常に斜め前方に位置して逃げる相手を着実にタッチライン極へ追い込んでいく。

彼の着地目標地点はオープンサイドゴールライン1m手前である。
それ以前の場所で相手が内側に切れ込んでくるならば倒せばよい。
一対一の攻防のこの時の松田は、タッチラインを唯一の味方として、ゴールライン寸前で相手選手を力技なくタッチラインへ押し出した。

血の気の多い選手ならば強引に倒さんとして絡みに行き、ステップを切られたりハンドオフ(ラグビーではボールを持った選手がタックラーに対し張り手で殴り倒すことが許されている)を喰らったりで、逃げられてしまうパターンも多いのである。

全くの余談であるが、昔全国高校ラグビー東京都予選準決勝戦で青山高校と対戦した私は№8を担っていた。
敵陣
25ヤード付近のマイボールスクラムからブレイクした私は、バックスのアタックライン後方を舐めるようにフォローしながら、秩父宮競技場のメインスタンドの方向に横に走っていた。

突然、目の前に青山のセンターがボールを抱え出現し、しかも、その外側に右ウィングがしっかりとついている。
私の後ろに常にいる筈の我がフルバック岩崎の姿が見えなかったのは、フルバックイン(サインプレー)のボールをインターセプトされたからに違いなかった。

 

得点差は5点。
後半戦も残り
5分を切っており、トライ後のゴールが決められてしまうと逆転さよなら負けとなる。


さて、一対二の攻防である。相手センターを倒してもウィングにパスされればトライは必至であり、両方倒すとなれば飛び道具でもない限り不可能なことだ。
この場合「ボールを殺す」タックルをすべきなのであろうが横に流れて行く相手を瞬時に仕留めるのは困難だし、下手にボールに飛び付いて行けばハンドオフを喰らう恐れがある。

どうするべぇ?と10メートル程追うとタッチラインの向こう側はメインスタンド正面の場所。
鬼コーチはじめ多く
OBや両親それに彼女の目の前だった。

「ハンドオフを喰らったら後で何を言われるか知れたものではないわな」を刹那に判断した私は、相手センターの左太股の裏側に左耳から飛び込み左腕をつま先に絡めて引きずられながら倒した。
が、起き上がると案の定フォローしていた右ウイングが右隅にトライを遂げていた。


ゴールはならず辛うじてこのゲーム逃げ切ったものだ。

 

今、雑踏を歩く。

雑踏ほど嫌なものはないと私は思っている。
駅のコンコースの雑踏はとびきり最悪である。

真っ直ぐに歩くと云う人間本来の持つ欲求を満たす事がまず適わない。
自分以外の人々は、ラグビー用語で言う「トイメン」、すなわち「敵選手」だ。
前、斜め左、斜め右、左、右ばかりではなく、背後から襲ってくる輩もいる。
しかも、そのそれぞれのスピードが全く異なっているのだ。

一対一の戦いであると思っていると大間違いで、正面の敵を右にかわすとあろうことかその後ろにいた輩に左からやられる。
盲目に人の後ろに従って歩けばそ奴が唐突に立ち止まったりもする。

このような個人戦の場合はまだましで、河の如く群衆が幅を持って一定方向に移動する流れに巻き込まれようものなら、肉弾戦を展開しない限り脱出は不可能だ。

そして、その切り抜け方を「スポーツ・ルールで守られた」一つの技術としてこの身に叩きこまれている私にとって、「法律」によりその技を封印せざるを得ない状況に極めて甚大な精神的ストレスを被ってしまう。

石原新太郎の著書にあるように、雑踏を駆け抜ける事を「練習」と位置付けていた若い時期もあったのだが、この年齢に至っては最早どうにもこの雑踏を受け入れることは出来ない。

雑踏は下記強制分類される。

    同一目的雑踏

    多目的雑踏
前者は「銀座ぶら」型と云ってよく、一見漠然とした集団ではあるが、相対する人の行動あるいは方向がある程度「読める」。

 

後者が甚だ具合の悪い存在でこれを「コンコース」型と名付ける。

集団を構成する一人々々がそれぞれ全く異なる「意識」を持ってブラウン運動を展開している場合である。

この「コンコース」型の渦の中に於いては最早相手の行動を予測することなど不可能であって、我を張って直進すれば衝突事故は必至である。


道路交通法然り、航空管制法然り、船舶航行法然り、皆ルールが定められており、定められているからこそ「衝突」が回避されるのである。

 

これほど文化の開明が進んだ現代社会において、いまだに「雑沓」という原始的かつ社会的未開拓な無法地帯が放認されていること事態、不可思議なことと云ってよいだろう。

次次発電車に乗る為の並び順までを制覇した今、さらなる文化人類学的明瞭な打開策を期待したいものである。

一方、「コンコース」型雑沓の中を悠々と真っ直ぐに歩く方法を既に私は習得している。

ライン際(壁際)を歩くことである。

位置的に「トイメン」の出現は前後に限られ、左右からの攻撃はありえなくなる。
正面からのアタッカーには忍者の様に壁に張り付くことによりアタッカー側から自ずと衝突を回避してくれる。

 

こんなことを公開してしまうと、何れ「壁際」でのにらみ合いがあちら事らで見かけることになろうが、ジャンケンでもしてその場の勝負を決めてもらえばいいだろう。

もちろん、壁際の手摺を必要とする人達には道を譲らなくてはいけない。

 

東芝ブレイブ・ルーパスは準決勝で敗退したが、また来年も松田選手のなつかしい顔を見たいものである。

 

 

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画像は誠に勝手ながら「サンスポ」HPから拝借致しました。

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2009/03/28

化け物病棟

大腿骨骨折の治療で私が入院した横浜市のMK病院には「スポーツ整形外科」なる診療科が開かれている。
市内のプロアマを問わずスポーツ集団からチームの主治医療機関として得意な繋がりがある。ラグビーで名をあげたKG大のベンチサイドに、私の大腿骨にチタンのボルトを打ち込んだお医者が控えている姿を、退院後幾たびかTV画面で発見している。
ベイスターズからメジャーリーグで活躍した「大魔神」の肘の管理もここで執られていた。

私を初診したMK病院お医者は
「ラグビー選手の入院はあなたで今日二人目ですょ」
とのたもうた。
その日、大学選手権試合準決勝戦KG大対W大で顎骨を骨折したKG大スタンドオフU選手が緊急入院していた。

 

これから述べる全ての情報は、オペを待つ間の10日間ベッドに縛りつけられて激痛にただ耐えるだけの私が、カーテン越しに聞こえた会話から得られたものである。

6人部屋、カーテンだけで仕切られているベッドの、お隣さんはN大野球部の外野手だという。
どうやら、レギュラーではないらしい。
とうとう一度も拝顔叶わなかったN大生は、Y高の外野手として甲子園に行き優勝したらしい。
必然、引き手あまたの境遇でN大に進んだという。
N大野球部で彼は愕然としたらしい。無名高出身のライバル達に俺は遥かに劣ると。 
誰にも打たれない投手が居る野球チームに秀でた野手は産まれない道理だ。
そうして必死で励んだ挙句、レーザービームの連投中に、ブチッと右肘の腱が音を立てたと言う。

県予選はおろか甲子園ですら
「外野には、だって、球なんか飛んで来なかったっす!」
と、彼は少し項垂れた様である。
「ピッチャーが良かったんだね、余程そのチームは」
誰かが口を挟んだ。
「あ、あー、大輔は化け物だった!」

 

術後、リハビリセンターに向う途中、顔下半分をギブスに覆われた、U君とエレベーターで遭遇した。
「M大戦に間に合うのか?」
私の問に、
「行きます!」
寡黙な言葉が還ってきた。

U君は言葉通りM大戦で司令塔役を完遂し優勝した。
小兵の彼は普段は接触プレイを回避するタイプだったが、この日、ヘッドギヤーと顎ギブスのU君は果敢に膝下タックルに跳んでいた。
化け物だった。
あの、山口良治氏が率いる伏見高の出身だ。

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先日、50年振りに来日した「オックスブリッジ」戦に、オールKT大で挑んだチームの後半戦の司令塔(スタンドオフ)がU君の現在だ。
N大生のかつての同輩である松坂大輔君は、打たれながらも、今回もWBCでMBPを勝ち取った。名野手陣に支えられての快挙と思うが、その強腱強運振りは、まさに化け物。

退院して10年、化け物ではない私はひたすら人を化かしながら生きている。
かのN大生はどうしているかしらん?

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2009/03/25 升

以下2023/12/09加筆
注)オックスブリッジ戦:2009年3月に行われた、イギリスのオックスフォード大学とケンブリッジ大学混合チームとの日英大学ラグビーフットボール交流試合大会。
会場は横浜開港150年祭実行中の横浜市三ツ沢競技場。
創立150周年の全慶応大学チームと 創立125周年の全関東学院大学チームとの2試合が行われ、一勝一敗の結果となった。

画像①:神奈川県ラグビーフットボール協会HPより拝借。
画像②:31歳になったU君の寡黙な画像は、所属である神戸製鋼のブログから拝借致しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007/11/29

ルール(ラグビーが与える女子バレーへの影響)

主な反則行為

アウトオブポジション:
ポジションまたはローテーションの反則(ローテーションの順に従ってサービスが行われない)

オーバータイムス:
チームがボールを返球する前に4回触れた場合

ホールディング:
競技者がボールをヒットせず、ボールをつかんだり投げたりした場合

ドリブル:
一人の競技者がボールを連続して触れた場合

アウトオブバウンズ:
ボールがアンテナ(コートの左右を示すためネットに取り付ける棒)に触れた場合や、アンテナの外側を通過してボールを返した場合

タッチネット:
競技者がボールに触れるための動作中、ネットやアンテナに触れた場合

ベネトレーションフォールト:
オーバーネットやパッシングザセンターラインなど相手エリアに侵入した場合

以上が6人制バレーボールの主な反則行為である(日本バレーボール協会オフィシャルサイトから)。

 

東洋の魔女達が東京五輪で披露した「回転レシーブ」「時間差攻撃」は空中戦主体のバレーボール競技において、身長に劣る日本勢に金メダルをもたらした。
だがその後、身長・体力に勝る外国勢が魔女化して依頼、我日本代表女子チームは苦戦を強いられたままでいる。
男子バレーはカワイクないのであまり見ない。

日本女子チームも近年巨人化し、なおかつスタイルがいい。
ゲームに際して髪をきりっ
と揚げた眉毛が如何にも凛々しく頼もしいのだが、長い長い脚を内股に屈曲し、ジャンプする姿に日本女性の美しさを感じる。

大きな大和撫子の谷間に普通の体躯の女の子が二人、敏捷に動き回っているのが印象的だ。
一人はセッター、もう一人はリベロというポジション、いずれもこまわりのスペシャリストだ。
リベロとはレシーブ専門、攻撃にルール上参加出来ない。云わば、「回転レシーブ」創造元の末裔だ。

セッターは「時間差攻撃」「移動攻撃」「ツーアタック」「バックアタック」を成し遂げる為の重要なトス専門職でこれも日本のパテントの継承者たる。
かつて猫田と言う、お名前どおりの猫忍者ぶりを発揮する小柄な男子セッターが活躍したことを私は忘れない。

これら日本のお家芸を継承する小柄な体躯の選手を代表メンバーに組み込んだ柳本監督に感謝を申し上げたい。

だが、世界と日本の差は依然歴然たるものがある。
世界ランク上位チームとの対戦時にはまるで子供相手同然の差を見せ付けられる。
状況は日本ラグビーのほうが低迷している。
彼らは外国人選手を多用しながらもなおかつ100点もの差を付けられて敗戦したりしている。

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そのラグビーのルール用語に「ラインアウト」と言う単語がある。
ボールがタッチラインを割った地点で、双方のフォワードプレイヤー(8名×2)がタッチライン5メートル後方に垂直に並び、タッチライン上から列の中央に投げ入れられるボールを奪いあうプレーを差し、ボールを投げ入れる権利はボールを蹴出されたチームに与えられる。(フリーキックおよびペナルティーキックを除く)

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ボールを投げ入れる側は、キャッチングを有利にするため、投げ込む選手とキャッチャーとの間に数々のフォーメーションを作り、これを暗号化されたサインで結んでいる。
すなわち、相手のタイミングをずらすテクニックである。
具体的には、一番先頭に並ぶ選手に低いボールをいきなり投げたり、早いボールを投げる格好をして山なりのスローボールを中央の選手に投げたり、遠投して後尾の選手に走らせたり、様々である。

このプレーも云わばバレーボールと同様に空中戦の要素が高く、背の高いキャッチャーを擁する方が有利になる。
175cmの私は高校時代のチームの中で、それでも背が高かったのでキャッチャーを任されていた。

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当時は許されていなかったのだが、現在のルールではキャッチャーがジャンプする際、補助(サポーター)が付けられる。
これをリフティングと呼んでいる。
キャッチャーの前後に並ぶ選手がキャッチャーの太もも辺りを抱え人間櫓(やぐら)を作るのだ。

このルール改定は、身長の低い日本チームに一見有利になる、と思われがちだがそうではなかった。
双方同等な練習を積んだ場合、背の低い人達が作る櫓は背の高い人達のそれよりやっぱり低くなるのである。


さて、柳本ジャパンは未公開で秘密裏に練習を始めよう。
栗原恵(186cm68k)がジャンプした際、大山加奈(187cm82k)が後ろから栗原の尻を、荒木絵里香(186cm83k)が前から同じく太ももを、支え上げるのだ。
栗原のしなやかな指先は一挙に地上4mの高さに固定される。
これは凄い事になる。セッター竹下(159cm55k)の余裕を持ってあげたボールを、最早ブロックの届かない高さから、狙い済ました栗原のスパイクが鋭角に相手コートに突き刺さる。

この技は、しかし、一大会でしか通用しない。次大会では全世界のチームがより高い櫓を組んで来るからだ。その一大会、来年5月開催の世界最終予兼アジア最終予選を柳本ジャパンはこれで乗り切る。

北京五輪、各国の櫓が乱立する中、ジャパンは新たな兵器で望む。

竹下佳江はセッターのポジションを高校生河合由貴(168cm62k)に譲り、佐野優子(158cm54k)はリベロを廃業する。
栗原・大山・荒木は元より、木村沙織(182cm65k)・高橋みゆき(170cm69k)等に空中高く投げ出される竹下・佐野両選手は軽々と世界の櫓の上空を舞いあがり、北京の星となる筈だ。

2007/11/27 升

画像①:1972/11/19  大泉高VS.青山高 全国大会東京都予選準決勝 於秩父宮 撮影:猪又芳明氏
画像②:1972/11/23  大泉高VS.目黒高 全国大会東京都予選決勝 於秩父宮 撮影:猪又芳明氏
画像③:1971/5  大泉高VS.千葉東高 関東大会 撮影:猪又芳明氏

 

 

 

 

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2006/04/09

2年7組(北原幹也君に捧ぐ)

東京都高校ラグビー新人戦第2戦が昭和47年1月30日、都立大泉高校グランドで行われた。
対戦するは大泉高校と保善高校。Zenkei_20221126164801
ホームグランドでのゲームとなった大泉の各選手は、多くのクラスメイトや他の運動部部員達に校舎の窓や屋上から応援されている事を意識してか実力以上の物を発揮したのだろう、強豪保善を相手に大泉は劣勢との前評判を覆し14対3で快勝した。
頼もしい3年生の先輩方が引退された後の1・2年生だけのチームで、私はその時2年7組に在籍していた。

都立大泉高校25期2年7組同級会が過日、四ツ谷で催された。
15時集合のこの席に私の都合が間に合わない。
「幹事役殿。残念ながら欠席させて下さい。もし、2次会あるいは3次会があるのならご連絡下さい。19時には合流出来そうです。」
 
19時。
私は指定された四ツ谷の“パステル”という名の店のドアを恐る恐る開けた。
聞けば、店のオーナーの奥様が私たちの同期の同窓とかで、貸切の店内には15時から飲み始めたクラスメイト20名&恩師の懐かしい顔が、何とそのまま全員いる。
開演後4時間も経過した酒席には最早食い物は見当たらず、半端に開栓されたドリンクのみが点々と立ち並んでいる。

4時間も遅刻した者は否応も無く目立つ存在だ。
駆け付け10杯の後に、三十余年振りに再会したクラスメイトに近況報告。
ようやく落ち着いて隣席の同じ年の“おばさん・おじさん”達とゆっくり飲み始めた頃、ほぼ対角線上に位置していた一人の男がヌーッと立ち上がった。
09 「みんな聞いてくれ! 升本はラグビー部だった。
俺は剣道部だったが試合で保善にコテンパンにやられた事がある。
ところが、あいつらラグビー部は大泉のグランドで保善に勝った。
あそこまでよく戦ってくれた。
翌日、升本が左腕を吊って教室に出てきた姿を見て、俺はクラスメイトとして誇りに思った。」

ラグビーをしていてよかった。感激のあまり酒が進む。
年を追うごとに足は遅くなってしまったが、酔うのは逆に速くなっている。
4時間先を行く剣道部に1時間後には追い付いていた。

温かい集まりをまた一つ見つけました。

2006

2006/03/22 升

2014/03/08、剣道部のあいつはず~と先に逝ってしまいました。
私が一番輝いていた頃の証人を失ってしまいました。
合掌

 

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2005/06/05

プレースキック(信は力なり)

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1.
ラグビーの得点方法は大別すると2つ。
一つは敵陣のゴールライン後方にボールをグランディングする“トライ”。
もう一つは敵陣のゴールライン中央に立つ2本のゴールポスト間を繋ぐ長さ5.6メートル・高さ3.0メートルのクロスバー上を、脚で蹴ったボールが通過する“ゴール”がある。
 
“ゴール”は更に、“トライ”後のコンバージョンゴール、ペナルティゴール、ドロップゴール、の3つに分けられている。 
この内のドロップゴールは、両軍血みどろの戦闘中に如何なる場所からでも蹴り上げたボールが敵陣のクロスバーを越えれば3点を得ることが出来る、戦術的なプレイである。 
条件は一つだけ、キッカーは蹴る前にボールを一度だけグランドに落としリバウンドしたボールを蹴ることだ。 
相手のタックラーが迫るなか、よほどの好機と技術がないと成功しないし、失敗した場合、相手に攻撃権を譲ることにつながる為、よほどの混戦ゲームか大差をつけた余裕のチームが極稀に見せるプレイだ。

コンバージョンゴールおよびペナルティゴールは、ドロップゴールとは性格を全く異にする。 
「一人は皆のために、皆は一人のために」の標語を訓示にするラグビーに、コンバージョンゴールおよびペナルティゴールなるルールが存在すること自体に私は疑問を抱いている。 
この二つの“ゴール”に及ぶ起因は我軍のトライあるいは敵軍の法律違反なのだが、その式進行は両軍の動きを停止させたなかで静粛に執り行われる。
 
クロスバーを狙う権利を与えられたチームのゲームキャプテンの指示で、たった一人の人が先ず進み出る。 
コンバージョンゴール(2得点)の場合“トライ”ポイントから後方タッチラインの平行線上、ペナルティゴール(3得点)時は相手が反則を犯したレフリーが指差すポイントから後方タッチラインの平行線上から蹴る事がルール。 
さらに、相手チームは自陣ゴールライン後方に、みかたはキッカーより後ろに居なければいけないのもルールだ。
 
チームのその代表者自身がゴールポストとの距離・角度から選んだ場所に、土を盛り楕円のボールを固定する。 
両軍60個の眼さらにはスタンドの無数の瞳が見守る中、たった一人で、彼は助走のための後ずさりをまるで歩んできた彼の人生を振り返るが如く、一歩・二歩・三歩・・と、後ろを振り向かずに歩む。 
もはや視界には楕円のボールとゴールポストしかない。 
呼吸を整え、彼自身がプレースしたボールに向け踏み出した瞬間が、両軍の戦闘再開の合図だ。 
ゴールラインに居並ぶ男達が一斉に彼に向かい潰しに来る事を、彼は充分承知している。 
緊張の瞬間。 
この一蹴りがこのゲームの勝敗を決定するパターンもしばしばあるのだ。

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私は過去一回だけこの途方に暮れるやな役目を“プレースキッカー”負傷退場の因果で、ゲーームキャプテンの立場上、演じた経験がある。 
諸々のプレイヤーと同様の所作を行なったつもりだったのだが、私の右足から離れたボールはゴールポストに向かいはしたが、天空を飛ばず地を這った。 
コロコロと。

イコールこの得点方法はキッカー唯一人の個人的責任にかかってしまう。 
15名のプレイヤー一人々々が自身の身を殺しながらボールを奪い取り、さらに繋いで行く事によって初めて“トライ”が生み出されるラグビーというスポーツのなかにあって、異質な部分なのである。 

ルールだから仕方がない。 
この繊細な役目を担う人はチームの中でも、運動量あるいは相手との接触プレイの機会が比較的少ないポジションに配置されている人が行なうのがほとんどで、10番や15番の背番号をつけた人達が選ばれる事が多い。

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2.
『山口良治さんって、この前話してくれたラグビーの監督ですか? 京都市伏見工業高校ラグビー部総監督と書いてありますが・・』
友人からメールが舞い込んだ。 
2月4日、この日日本のどこかで優れた教育者の集まりがあるらしい。 
優れものでも教育者でもない私には無関係なのだが、この友人は優れた教育者の一人なのだ。

『鋭い眼、眉間の皺を持つ、いかついお方ならば間違い無くご本人だ。』
『明日その人の話を聞きます。』
『ホントならサインもらって! ついでに桜のジャージも頼む。』
『サインは請け負いますが、桜のジャージは着てこないとおもうよ。』
『身長185センチ、角刈り、眉間の深い縦皺、真一文字に結んだ薄いくちびる。
 四角い顔の額には一筋の傷があるはずだ。 
 35年前、夜の秩父宮、自陣左コーナーフラッグ直前で白ジャージのイングランド右ウイングの膝下に飛び込んだ時の傷である事を、その人は  覚えているはずだ。 
 その人の額から飛び散った血液で真っ赤に染められた桜が、眼に焼き付いて消えない。』
『了解。 明日このメール読んでもらいます。』

 

3.
1971/09/28 19:00 。
日本の花=桜の戦闘着を身に付け、秩父宮ラグビー場の照明塔の明りの下に、その男は立っていた。 
真白い公式試合用ジャージを着用した初来日のオールイングランドとの戦いの為だ。

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その男、身長185センチ・角刈りの四角い顔の内側には、鷹のような眼・鷲の如き鼻筋・眉間に刻まれる三筋の縦皺・一文字に結んだ薄い唇。彼の背中には、チームの中で最も運動量が要求され且つ最も危険なポジションである、7番(右フランカー)を背負っている。 
攻撃時には、バックスプレイヤーが作るポイントに常に二番手として飛び込み、その密集の核となる。 
ディフェンス時にはいち早く密集から離れ、ボールの行方を舐めるように追い、内側を抜いてくる相手を即殺するのがフランカーの役目だ。 
通常この役柄の人の顔面はボコボコで満身創痍、とても繊細な仕事はこなせないのが現状だ。 
だがその男、山口良治は全日本代表のプレースキッカーなのである。

その当時の状況を山口良治は、愛媛県ITV(あいテレビ)高橋アナウンサーに下記語っている。

この日、東京・秩父宮ラグビー場は伝説の舞台になった。
「日本 対 イングランド」
極東日本が初めて世界のトップに挑戦できるという夢がかなった瞬間だった。
実はこの4日前の9月24日、近鉄花園ラグビー場で行われた第一戦で、日本はイングランドと既に大接戦を演じていた。19対27。 
ラグビーの母国を本気にさせたこの一戦に、関係者は震え、選手の闘争本能はピークに達した。

そして4日後、ナイターで行われた日本対イングランドの第2戦。 
定員1万7500人の秩父宮を訪れたのは2万5000人。 
押し寄せたファンはスタンドに収まりきれず、フィールドの周囲にまで溢れ、午後7時のキックオフをじっと待っていた。

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そんな異様な熱気に包まれるスタンドの真下、儀式は始まった。 
けっして大きいとは言えないロッカールームに日本代表メンバー全員が集まっていた。 
テーブルの上には真っ白な塩がうず高く盛られていた。 
そして、物音ひとつしない静寂の中、監督大西鐵之祐は、地鳴りのような低くドスの効いた声でこう言ったという。

「おまえ達の骨は俺が拾ってやる」

そしてピーンと張り詰めた空気の中、メンバーの名が一人ずつ呼ばれた。
1番 原。「はいっ!」 2番後川。「はいっ!」 3番下薗。「はいっ!」、4番 小笠原。「はいっ」、5番寺井。「はいっ」、6番井沢。「はいっ」、「7番 山口」
「はいっっ!」…
「いいか山口。狙えるものはみんな狙えっ!」 
「はいっ!」

この時、山口さんは、かつて経験したことの無いあまりの緊張感に思わず声も上ずったという。
そしてこの時、大西監督の手にはとっくりと盃が握られていた。 
無言のまま、代表一人一人に盃が回され、飲み干して次ぎへ。 
決意の水盃…。 やがて一巡すると、盃は監督の元へ。 
そして一気に飲み干した監督は、やおら盃を床に叩きつけた。
「青春に悔いを残すな。日本ラグビーの新しい歴史の創造者たれ」

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大西監督の上ずった声がロッカールームに響き渡り、選手は体内から「恐れ」と名のつく全ての感情をかなぐり捨て、まるで催眠術にかかったかのように大歓声の中に飛び出していった。

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山口先生は続けた。
「そして高橋君。いよいよ試合だ。レフリーの笛がピーッと鳴った。
 そうしたらね、終わってたんだ…」

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「展開、接近、連続」の大西理論の集大成をはかったこの試合、「大胆な攻撃」と「捨て身のタックル」を厳命された桜のジャージ。 
倒して、走って、また倒して80分間。


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結果は 日本3-6イングランド。
日本の得点は後半34分、山口選手が決めたPGのみの3点だった。 
スクールウオーズのオープニングはこのシーンだった。

「高橋君、ここ触ってみろ」。
突然、山口先生は私の手を自分のひざに持っていった。 
スラックスごしに触れたひざ頭…。
「グラグラだろ。これが日本代表のキッカーの膝だよ。日本代表といったって、ケガばかりよ。骨折だって日常だ。でも、ラグビーはやめられないんだよ」

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4.
現在のキッカーのほとんどは楕円のボールをほぼ垂直に立て、サッカーのシュートのように斜め後ろから回り込み、けり脚を体の外側に回転させながら足の甲で蹴る。 
ボールは斜線の弧を描いてクロスバーへ飛んでいく。 

山口良治のプレースキックは独特だ。
彼はスパイクの先でグランドの土を掘り集め小さな山を作る。 
その山の頂上を少しだけ窪ませボールを置く。 
楕円球の頂点は真っ直ぐにクロスバーに向いている。 まるでミサイル発射台のように。 
そして、クロスバーとボールを結ぶ延長線上を後ずさり、助走路とする。 
沈黙の後、一歩、二歩、三歩、充分な加速をつけた右足の爪先が、ボールの下の頂点を打ち出す。 
あくまでも彼の蹴出したボールは真っ直ぐに、両ゴールポストに挟まれたクロスバーを超えていく。

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「日本に初めて訪れたチャンスです。キッカーはフランカー山口良治。 
山口は祈るようなポーズでボールをセットしております。 
場所は左中間。 距離は約40メートルもありましょうか。 
最高の精神力を要求される時間を迎えました。

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ゴール成功! 山口やりました。 
40メートルのロングキックに見事成功!日本代表に勝利のチャンスが生まれました。」                               (テレビ中継の実況アナ)

高校生の私はこの時、安価なゴールライン後方の最前列で観戦していた。 
後半戦は目の前が全日本のインゴールだったので、その伝説的なペナルティゴールの模様ははるか向こうで起こった「点」のようなもので、残念ながら記憶にない。
 
私の鮮明な記憶は、全速で走りこんできたイングランドのウイングを一発で倒した後、私の目の前でむっくりと起き上り静かに胸をはる、鬼の形相・血だらけの山口良治の姿だけだ。

 

5.
『サインもらったよー! 貴方のメール見せたら 「ソォソォー」 と嬉しそうな顔していたよ。』
堕落している私の友人のなかでも、珍しく優れた教育者であるこの友人を、今後“玉手箱さま”とお呼びしなければいけない。
「信は力なり」。
2005/02/06 升

画像3・4・5・8は、ようこそ秩父宮ラグビー場へから拝借
画像6・10は、ラグビーマガジン(ベースボールマガジン社)から拝借
画像7・9は、プロジェクトX挑戦者たち「つっぱり生徒と泣き虫先生」から拝借

あとがき
 この作文の最中にたまたま当時同じ風景を目撃していた旧友から連絡を頂きました。 すかさず、私は色紙Getの報告と共に、本作文中に描いた一つのラグビー・テストマッチに関わる、時代・状況・技術・ルール的「考証」を依頼した。 35年も前のことで、互いに記憶が定かでない中、返信を頂きました。 私の隣席の方とのやり取り及びSH名(ウェブスター?)に違和感がありますが、その主要部分を下記致しました。 思い出なのです。
『添削の必要はないかと思います。若干付け加えたいことがありますので書きます。
まず、当日のチケットを購入したのは私です。岸記念体育館にある関東協会の事務所買いに行きました。4枚買いました。
貴君、Nさん、S、私の4名で観戦したのです。
おっしゃるとおり、貴君とNさんは青山通り側のゴールエリアの後方、渋谷寄りのコーナーフラッグに近い位置だ。山口の額が割れたのが見えたのだったら後半のはずだ。なにせ昔のこと正確ではないと思うが、Nさんの肩に左腕を廻していたのがとてもうらやましく感じた、そう記憶している。私とSは絵画館前通り側、つまりバックスタンドの限りなく青山通りに近い安い席だったと思う。イングランドの選手の中で誰が好きか?と尋ねたら、9番SH、スターマースミスだとSは答えた。今もってその名前だけ覚えている。
ジャパンのFBインのサインプレー、菅平こと”カンペイ”が鮮やかに2,3度決まったことも忘れられない。万谷から伊藤にラストパスが通ってWTBが独走したにもかかわらず、ゴールライン直前で止められていた。
それにしても、なつかしい。』

謝辞 : 迫力をあらわにしたいが為、まことに失礼ながら敬称を略させて頂きました。
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2004/11/07

指名手配(Tatunari Kura)

1.
1973年の厳寒の頃、4月から私が暮らすであろう札幌の下宿探しの旅に、”日本の思い出に“と云い彼は同行した。 
母が大通公園にほど近いワシントン靴店前の凍て付いた横断歩道で転倒した。 
母はいまでも云う、「救急車を待つ間、背の高いお前より、倉沢君の肩がとっても有り難かった。」 と。

2.
辛うじて空港に降り立った。初めての海外旅行、一人旅だった。 
入国審査を終え、リュックサック一つを背負い到着ロビーを出る。 
幾重もの人の輪の中にあいつの顔を探す。いない。いくら探してもいない。 
来ていればあいつからも声がかかる筈だ。 だから迎に来てくれていないのだ。

状況を把握するのにしばらく時間がかかったが、すなわち、私は途方にくれた。 
脆弱な精神の持ち主である私は、冒険家たる人のすべき次なる単独行動を即座に中止し、姑息な手段を選ぶ。 
なるべく人のよさそうな、できればお金持ちの、叶うならばここバンコクに詳しい、日本語に長ける日本人を物色する。 
いた。 
白髪混じりの七三に、サハリジャケットの下にはネクタイ、その行動に全くの躊躇が観察されない。

日本のとある大学の教授であるというその恩人に、事情を説明し、とりあえず彼の投宿先のホテルまでの同行許可を得た。 
夕闇の迫る始めて目にする異国の雑踏を、途方にくれる私を乗せ、タクシーはクラクションを異常に多用しつつ走る。

恩人の定宿と言うそのホテルのアシスタントマネージャーは親切だった。 
住所を書いたメモを見せると、

「お客様はラッキーですね。すぐ近くですよ。歩いていけます。でも、気を付けて下さい。最近、荷物を持った日本人が狙われています。外はもう暗いので、明日にされたほうが、」

地図まで書いてくれたマネージャーと恩人に丁重な謝辞を述べ、私は彼等の制止を振り切ってお別れした。 
予算を遥かに超えるはずのホテルだったことがその理由だ。

云われなければただの道、だが言われるともののけ道に変わる。 
いつしか道端の棒切れを拾い、利き腕に握り締めている。 
街灯もない川沿いの小道を歩く、防御体制を右に集中させるよう、常に左に川を位置する。 
多人数が相手なら川に飛べばいい。 もう少しだ、あの建物に違いない。

豪華な真鍮造りの重たい門扉を押し開き、中庭に勝手に侵入し、叫んだ。

「くらさわ! おーい! くらさわ! おれだおれだ!」
小柄な女性が出てくる。
「何なのよー、あんたは?」 もちろん始めて耳にするタイ語だ。
「くらさわ。 ミスタークラサワ。 Kurasawaを呼んでくれ。」 もちろん日本語だ。
年齢不詳のその小柄な女性はにっこりと微笑み、
「後についておいで」 もちろん私にはわかんないタイ語だ。

「オー! なーんだ、今日着たのか。手紙もらったけど何時来るか書いてなかったから、昨日、いつ来るの?の内容の手紙を出したばかりだった。」

1975年、バンコク留学中の、バストイレ・賄いつき更に専任「女中」さん付きの豪華なる、彼の部屋に居候させてもらった時の話である。




 パタヤのプール付きプライベート・リゾートに遊び、クルザーを出した。 彼が拳銃で空き缶を射撃している間、私は潜り、オオジャコを揚げた。 屋台に持ち込み、食わせてもらった。 あの時の「ギンライ!」という屋台のおばさんの和訳を知りたい。 その殻は今でも親父の庵に花開く。sh0128shako

 あまりの居心地の良さに帰国を忘れ、気が付いたのはビザの切れる前日で、あわててタイ航空に飛び乗った。

3. 
タイの大学卒業後、彼は大阪の大手家電メーカーに勤務した。 

1981年、私が既に大三島で二人の子供と暮らしていた頃、彼はタイで結婚した韓国系の奥さんと、職場の同僚(女性)を一人伴い、我が家に一泊していった。 
相変わらず可笑しなやつだったが、私が獲ったアワビ・サザエ・タコ・カワハギ、それに養成中の車海老の刺身山盛りで歓迎した。

大阪出張の折には、彼の家に厄介になった。 
華奢な体付きの奥さんを常にやさしく庇い、睦ましい夫婦の生活を垣間見たのが最後に、彼はタイに赴任した。

1991年、私が天草で孤軍奮闘していた頃、なにを目的にしたのか覚えていないが、奴の会社の電化製品付随の取説に記載されていた本社へ電話を入れ、タイ事務所の連絡先を聞きだし、居るかも知れない奴宛にFAXを入れた。 
「斯く斯く然々、こうゆう人がそちらにおりませんか?」
数日後、彼から返信が来た。

「永住を決めた。 外国人は土地が買えない為、妻名義で広大な土地を買った。 メールに依存している為、自宅の住所を知らない。」 と。

そして、彼は消えた。
大泉屈指の小さくも逞しいウィングTB、倉沢。
お前は今どこでその優しさを披露しているのだ。

4.
“大泉高校ラグビー部50周年記念誌”は、25期井口を編集責任者に1999年6月に発行された。 
237ページに及ぶ厚いその印刷物の表紙は、同じく25期仲間の手により、素敵に彩られている。 

記念誌のほぼ真ん中のページに奴の投稿文章が掲載されていた。 
編集者の投稿記事への要望は「大泉ラグビーとその後の人生との繋がり」をコンセプトにしたものの様だったが、奴の記事は、

「私は、1997年にある電機メーカーを退職し、その会社のタイ販売会社の一つでアドバイザーをする傍ら、タイの大学や会社で、経営や経済のセミナーを行っています。」
 
で始まる味気ない現況報告に止まっていた。

連日の夜を徹した記念誌編集作業のお陰で、ラグビー部25期有志の結束は一段と強まり、我が年齢も無考慮に現役の練習台としてグランドに集合する暴挙に至るまでとなったあるとき、同期メンバーの一人が飲み屋を開店したとの情報が入った。 
2004年の夏のことである。

「久しぶりにみんなで集まるべよ」は当然の成り行きだ。

ところが、奴の連絡先を誰も知らない。 
誰があいつの投稿原稿を依頼し且つ受け取ったのか、記録も記憶もないという。 

捜索の壁は厚かった。 
彼が過去属していた会社のルート、タイ日本人会ルート、果てはタイ在住の友人・知人に依頼し、電話帳検索を始め脚で探してもらった。 
が、捕まらない。 ご両親は既に他界しているはずだった。

07/19  あきらめ始めた頃、
「あいつの兄貴が20代で国立大学の助教授になったと聞いた事がある。 当時は騒がれたようだ。」 
仲間の一人がぽつりと思い出した。

大学を当たる。 いた。倉沢姓を名乗る人物が某国立大学の大学院に籍を置いていた。

07/23 「弟の住所をお知らせします. 残念ながら電話番号はわかりません。このアドレスに一年ほど前に手紙を書いたときには届いたようです。」 

5.
バンコク在住の知り合いがいるという友人に事情を説明し判明した奴の住所を連絡すると、その友人にメッセンジャー役を快諾してもらったとの事。
その住所は日本でいえば東京と横浜の距離感のところらしい。

07/24  メールでメッセージを託した。
「タイのお友達には恐縮ですが、本当に訪ねていただけるのなら、お願いがあります。 
彼以外の仲間全員に送った案内状(添付しました)と、花束をお届け戴ければ幸いです。 
アイさんと言う素敵な奥さんがいらっしゃるはずです。
奥様にはピンクのカーネーション、旦那には赤い薔薇がお似合いです。」 

07/26  友人からバンコクからのメールが転送されてきた。

「雨の中、目的地にたどり着きました。大きな犬が牙をむいて出迎えてくれました(アーこわかった)。
案内状を渡しておきました。日本へ連絡すると言われてましたので、もう電話が行っているかも知れません。 
花は都合により間に合いませんでした。」

だが、いくら待っても電話が来ない。

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08/07  私の自宅に白いダンボール箱が届く。 
奴からの小包に間違いはなかったが、中身は酒のつまみばかりで何のメッセージもない? 
その解釈に戸惑いを覚えたが、差出人住所欄に電話番号の記載はなかった。

08/12 「つまみ届いた?」 
やけに近くに感じる受話器から聞こえた声は、確かに奴の物だった。 

「アイは元気だ。 俺は今、仕事していない。 
上の子供が24歳、下の子は15になるが一度も日本に行ったことがない。 
連れて行きたいが日本は金がかかるので困る。 
この前、お前の手紙を持ってきた男はいったい何者だ?」   

「ずいぶん探したぞ! 手紙を届けたのは俺の友人の友人でけんチャンと言うらしい。」

「5年前の大泉の記念誌に投稿した際、連絡先も添付した。 
出来上がりはいまだ送られて来ていないが、記念誌に俺の連絡先が記載されてあるものと思っていた。 
以来誰にも連絡が取れず、いぶかしんでいたところだ。 
14日は電話で参加する、店の番号教えて。」

2004/08/14夜 仲間のお店でタイから送られてきた乾き物を摘まみ始めた頃、国際電話が静かに音をたてた。
テーブルの上で手から手へ子機がいつまでも廻り続けた。

Photo_20221112163601

6.
2005/08/14  久しぶりに電話をかけた。

「息子がようやく刺身を食べるようになった。 だが、タイの魚は不味い。 
10%もあった銀行利子と株配当で今まで生計をたてていたが、タイのバブルも弾けて飛んだ。 
そろそろ働かないと不味い。」

どなたかこの仙人のような小男の再就職先を斡旋して! 

2005/09/23 升

* 挿入画像②はその後わざわざ訪問して頂いた“けんチャン”の友人のkunkoさんのシャッターによる(2004/08)。

 


 

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